灰の虎とガラスの獅子

【Hの序章/Grandcross chaos】

――おい、起きろ――
「んあー……あと五分寝かせろぉ……」
 頭の中から聞こえる俺の声に反論しつつ、俺は布団を被り直す。
 昨日は彩塔さんに霧雨を預けた後、自分の気持ちを誤魔化すように文章をひたすら打ち込み、気がつけば夜が明けると言う不健康な状態を迎えていた。
 何やら不安そうだったから、思わず彼女の頭を撫でてしまったが……女性の髪って、あんなに細くて指通りの良い物だったのか。細すぎず、太すぎず。多分、枝毛などとは無縁の髪質。
 あれは、彼女がファンガイアで、人間に擬態しているからなのか。それとも何気に彼女が気をかけているための産物なのか。
「良い手触りだったよなぁ…………」
 ……って何で撫でた方の手を見つめながら、あの時の感触を思い出してるんだ、俺! 端から見たらきっと変態だぞ!? 口元は無意味にニヤけるし、思い出したら目は冴えるし。
――安心しろ、オレから見ても立派な変態だ――
 安心できるかぁぁぁぁぁっ!!
 脳内に響く声に、心の奥底からツッコミを入れつつ、俺は折角被り直した布団を跳ね上げ、上半身を起こす。
 ああ、くそ。もう少し寝ようと思っていたのに。結局殆ど寝れなかったじゃないか。
 完全に覚醒してしまった意識に文句を垂れながら、いそいそと身支度を整える。顔を洗い、何の気なしに鏡を覗き込む。いつもは鏡など見ないのに、何で今日は見てしまったのだろうか。
 最近切ったにもかかわらず、手入れをしていないせいでボサボサに跳ねまくった髪。剃るのを面倒臭がっていた為に長さの揃わぬ無精髭。目の下には隈が出来ていて、普通に見たら不審者だ。そりゃあ霧雨を連れて行こうとしたら警官に止められる訳だ。
 ……え、俺、いつもこんな顔で彩塔さんと会ってたって言うのか?
 は……恥ずかしすぎる……っ! いくら何でもこれは酷いだろ、俺。ああ、穴があったら入りたい……っ!
 恥ずかしいやら情けないやら、とにかく凹むしかないような感情の渦を感じながら、ささやかな抵抗とばかりに久し振りに髭を剃る。
――今更整えた所で、過去の失態は清算されないけどな――
 煩い黙れ手元が狂う。
 クックとからかうような声に対して答えを返しつつ、鏡の中の俺を睨んでは顔に剃刀の刃を当てていく。
 電気シェーバーがない訳ではないが、流石にこの長さの髭をシェーバーに剃らせるのは酷と言うものだ。俺に機械を虐める趣味はない。
 四苦八苦しながらも髭との格闘を終え、今度は髪に手を伸ばす。太めかつ硬めな髪質のせいか、毛先に触れるとちくちくと皮膚を刺す。無意識の内に、昨日触れた彼女の髪質と比較している自分がいて、またしても凹む。
 おかしい。おかしいぞ。恋愛ってもっと楽しい物じゃないのか?
 聞きかじり程度の知識だが、もっとこう……毎日がふわふわと覚束ないぐらい舞い上がる上に、景色がバラ色って言う話だったはずだろ。なのに、俺はさっきから凹んでばかりって。
 いや、そりゃあ彩塔さんの事を思い出したら、それだけで俺の心拍は一気に上がるし、彼女の顔を見たらそれだけで確かに幸せな気持ちになるけれどもさ! けれど、直後にこんな……こんな自己嫌悪が襲ってくるなんて話は聞いてない。
 一喜一憂とはよく言うが、まさに今の俺がそれだ。昨日から本当に、俺の感情は忙しく動きまくっている。
――ご苦労な事だな――
 ああ、全くだ。「恋はするものじゃなくて落ちるもの」という使い古された台詞があるが、全くもってその通りだ。問答無用に滑落しまくっているのが、自分でも分る。恋と言う名の泥沼の中で、あっぷあっぷしている自分が容易に思い浮かぶ。
 泥沼の向こう岸には彩塔さんが笑顔で立っていて、浮かぼうとする所で色んな障害が再び俺を沈めにかかる。そんなイラストが思い浮かんでしまう辺り、もはや完全に沈みきってしまっているのかも知れない。
 恋愛は、してる奴を見るのは楽しいが、いざ自分がするとなると苦しさも伴うとは。
――それも、生みの苦しみって奴だろ。人生は経験、経験――
 はっはっはと爽やかさすらも感じる笑い声が、頭の中で響く。確かに過去、俺はそんな事を言っていた。「恋に落ちた奴」を見て、軽く笑いながら無責任にもそう言ったものだ。だからこそ、今。俺はかつての俺に言ってやりたい。
 畜生、お前、他人事ひとごとだと思って、と。
――オレにとっては他人事だからな。せいぜい苦しめ、灰猫弓――
 ……何だこの思考。俺に自虐癖はない。……ないはずだ、多分。
 しかし最近自分では「ないと思っていた感情」が露見する事が多いからな。絶対にないとは言い切れない気がしてきた。
 彩塔さんを思う時とは、また別種の自己嫌悪に陥りつつ、深い溜息を吐き出して、俺は出来上がったトーストを齧る。
 俺には、ヒトへの恨み辛みや彩塔さんへの恋愛感情だけでなく、自虐癖もあったのか、そうかそうか。
 等と半ば自棄になりながら思った瞬間。俺の体を、ざらりとした空気が撫でた。
「……っ!」
 驚愕で、声にならない声が上がり、思わず俺は周囲を見回す。だが、何もない。窓も扉も閉めっぱなしだし、換気扇も止まっている。空気が流れるような要素もない。
 それなのに、俺の周囲の空気はざわざわと「何か」を運び、俺に何かを伝えようとしている節さえある。俺の中に新しい灰が降り積もり、層になるような感覚。それを、その空気は運んでいる気がする。
 何だ、この嫌な感じ。心臓は早鐘を打ち、額からは脂汗が流れ落ちる。視界は歪み、見える景色が変わっていく。俺の部屋から、屋外へ。無人から有人へ。宙を舞っているのだろうか、視界は割と高い所にある気がする。
 ちょっと待て、どうなってるんだよコレ!? 俺、どうなっちまった!?
 初めて経験するその奇妙な感覚に、思い切り混乱する。強いて言うなら、意識だけ切り離されたような感じだろうか。手も足も動かず、ただ宙を舞うのみ。もがいているつもりなのに、何も出来ずに上へ上へと上がり……眼下に、霧雨を守るようにかばう、彩塔さんの姿が見えた。
 その顔は驚愕と憤怒、そしてかすかな悲哀に彩られており、一瞬だけ俺と視線がぶつかり合う。
 一瞬、自分の恋心が見せる痛々しい幻覚かとも思ったが、おそらく違う。彼女のあんな表情、俺は見た事がないし、見たいとも思わない。俺が見たいのは、彼女の嬉しそうな笑顔だ。それじゃあ、これは何だ?
 そう思ったのと、彼女とは全く別の……男の声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。
「It’s your turn this time. Determine it」
 声のした方向へ、半ば強引に意識を向ける。そこには黒のタンクトップを着た、俺と同い年くらいの男が、にやりと笑いながら彩塔さん達の前に立っているのが認識できた。
 ……ってあいつは……レオ!? だとしたら拙い。
「彩塔さん、逃げろっ!」
 出来る限りの声をあげ、彼女に向かって手を伸ばした瞬間。今まで見えていた景色は消え、俺の部屋へと回帰する。
「な……んだ、今の!?」
 白昼夢? いや、その割にはやたら鮮明な光景だった。じゃあ何だ? 俺は何を見た? この嫌な感じは一体何だ?
 次々に浮かぶ疑問に対し、答えなど出るはずもない。何とも言い難い不安感だけが、俺の体に重くのしかかる。
 ……これは、行ってみた方が良いかもしれない。何も無ければ、それで良いのだし。
 不安を誤魔化すように思いながら、俺はかろうじて見えた景色の元へと向かう。
 遠くに風都タワー。太陽の位置から考えて「俺」がいたのは風都タワーの南東方面。かすかに水音が聞こえた所も考慮に入れると……風都ショッピングモール直前の、噴水広場か?
――だろうな。硝子の向こう側にアーケードが見えた――
 本当か!? 彩塔さんで手一杯でそこまで気付かなかったぞ!? あぁ、いや、無意識の内に見ていたって事か?
 まあ良い。とにかく向かってみよう。……話はそれからだ。
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