灰の虎とガラスの獅子

【C達の邂逅/虎は女に見抜かれる】

 数か月ぶりに出来た「隣人」は、「彩塔硝子」と名乗った。
 変わった名前だ、「ガラス」と書いて「しょうこ」とは。それに、苗字の字面も……いや、そこに関しては他人の事は言えないか。
 思いながらも俺、灰猫弓は彼女を何の気なしに観察する。
 肩線辺りで切られた黒髪、切れ長の目。俺と同い年くらい……二十代前半だろうか。アクティブな印象を持たせる格好で、ボーイッシュな美女と表現して差支えないだろう。
 笑顔に少なからずよそよそしさを感じはするが、初対面なんだから当然だろう。それに、一応は自分の外見が不審者風だって自覚もある。これで馴れ馴れしく出来る女がいるなら、それは相当奇特だと言える。
 ……まあ、俺も出来る事なら、あまり深く関わって欲しくないので、今くらいの態度がちょうど良いんだが。
 思いつつ、ふと俺は彼女の右手に目を向けた。さっき彼女が自分の名を宙に書いた時から気になっていたのだが、何故か彼女は、そちらだけ白い手袋を嵌めている。
 日に焼けたくないのなら、両手とも嵌める筈だ。どちらかと言えば、見られたくない物を隠しているように見えた。
 そして……これは俺の悪い癖なのだが……一度気になると、聞かずにはいられないらしい。気付けば俺は、その手袋を指して彼女に問いかけていた。
「こんな事聞くの、失礼だとは思うんだけどさ。右手……どうかしたのか? そっちだけ手袋してるなんて」
 その瞬間、彼女ははっと息を呑み……困ったような表情で俯いた。
 あ、まずい。やっぱり何かしらの、物凄く言い難い理由があるらしい。悪い事を聞いた。俺にだって、言いたくない事や聞かれたくない事はあるのに。
 そう思うと、俺は慌てて彼女のフォローに入る。女に無理強いをする男は、野蛮か無能な奴なのだと、昔俺をどん底から救ってくれた探偵が言っていた事でもあるし。
「あー……悪い、プライベートだよな」
「すみません」
「いや、良いって。誰だって秘密の一つや二つ、抱えてるもんだろ? 俺だって、知られたくない秘密があるし。うん、今のはナシ。忘れてくれ」
 そう、誰にだって秘密はある。
 ……俺にも、絶対に他人には知られたくない秘密があるように。
 重い沈黙がその場に流れ、俺は居た堪れなくなり……
「それじゃ」
 とだけ呟いて、室内に戻る。
 ベランダに出たのは煮詰っていた頭を冷やす為だったんだが……逆に自己嫌悪に陥るハメになっちまったなぁ。
 どうして俺はこう……いつも後悔してばかりいるんだろうか。何っつーか、間が悪いと言うか。
 その場に蹲り、頭を抱えて深い溜息を一つ吐くと、今度は部屋の電話が鳴り出す。
 …………この凶悪な鳴り方は、「知り合いの斉藤」こと俺の担当だ。間違いない。電話のベル音に大きな差はないんだが、斉藤からの電話の時はそういう予感がするし、その予感はかなりの高確率で当たる。
 あの男、電話越しに念でも飛ばしてるんじゃないだろうな。いや、別にそんなオカルトめいた事を信じるような性質じゃないんだが、あいつだけはそれが出来そうで怖い。
 出たくない気持ちは山々だが、出なかったら出なかったで、何を言われるかわからない。先程とは別の意味を持つ溜息を吐いて、俺は自分より少しだけ年長者と思しき茶髪天パ男の姿を思い出しながら、受話器を取った。
「……もしもし?」
『あ、先生! なかなか出ないので、ついつい『ようやくくたばったか?』と思いました~。ところで、調子はどうですか?』
 かんらかんらと独特な笑い声を上げながら、俺の担当は電話口に問うて来た。返事をするまでに間を空けたのは、ささやかな抵抗だと思ってくれ。どうせ斉藤にとっては無駄な抵抗でしかないのだが。
 俺は、「刃稲 虎丘」なるペンネームで小説を書いている、しがない作家の端くれだ。得意分野はファンタジーやSF。不得意分野は恋愛や官能系。
 以前、気まぐれに書いた「灰の虎」という作品が図らずも当たってしまった為、そのシリーズの執筆を続けている……もとい、この斉藤によって書かされ続けているのだが。既にネタのストックはなく、しかも「恋愛要素を入れましょう!」などと無茶な要求が出されている。
 恋愛物が書けないと言ってごねたものの、結局押し切られる形でヒロインを登場させる事になったのだが…………まっっっったく筆が進まない。
 パソコンの画面は真っ白。新キャラであるヒロインの容姿すらも思い浮かばない。
 そもそも、俺は恋愛などした事がない。元々女性との付き合いが多い方ではなかった。仲のいい女性はいるにはいたが、せいぜい親友、もしくは相談相手止まりだった。その上、更に「あの事」が起こって以降は人との付き合いがめっきり減り、今では八割方引きこもりのような生活を送っている。
 経験した事のない物を、どうやって書けと!?
「……一行も進まないです……」
『ええ~!? 困りますよぉ……』
「困るのは俺の方ですよ! 前も言いましたけど、経験した事のない物は書けませんって!!」
『そこは想像力でカバーして下さいよ。主人公の苦悩だって、先生の想像力の産物でしょ?』
 主人公……「怪人」になってしまった青年の苦悩。
 人間を守りたい、人間の中で暮らしたい。そう願うのに、人間からは「怪人」であるが為に、恐れられ、迫害される青年。
 あれだって、本当は……
『とにかく、締め切りには間に合わせて下さいね。それじゃ』
 それだけ言うと、担当は容赦なく電話を切りやがる。きっと電話の向こうではニヤニヤと腹立つ笑みを浮かべていたに違いない。奴は俺の知り合いの中でも、指折りのサディストだ。
 ……確かに、締め切りはまだ先だ。だが……
「書けない物は書けないっつてんだろうがっ!」
 聞こえていないと分っているのだが、毒吐かずにはいられない。
 勿論、俺も一応はこれで飯を食っているのだ。やらなきゃいけないって事くらいは、いくら引きこもりがちな俺でも分かる。
 どんなにやる気が起きない、イメージが湧かないと言っても、最低限ヒロインの容姿くらいは決めないといけないよなぁ……
 うう、と唸り、頭を思い切り抱えながらパソコンの前に座る。その瞬間、俺の脳裏に閃いたのは先程会った「隣人」……つまり彩塔硝子の姿だった。
 何というか、彼女ならイメージがしやすいような気がしたからだ。どうしてそう思ったのかは分からないが。
 ……姿だけなら、拝借しても良いよな?
 と、脳内に住まう彼女に平謝りしつつも、俺は「ヒロイン」の容姿を打ち始める。

――肩線で切り揃えられた髪、切れ長の黒目勝ちな目には強い意思が宿っている。己のスタイルに絶対の自信を持っているのか、余計な装飾はない。反ってそのシンプルなシャツとジーンズ姿が、彼女の魅力を引き出しているようにも感じた――

 ここまで打って……やはり気になる。彼女の右手に嵌められた、あの手袋が。
 勿論小説の中のヒロインにつけさせる気はないから、それは作中には書かないが……それでも気になるのは、「隠されたものほど見たくなる」という心理が働いているせいだろう。
 手袋をしているって事は、日焼け防止目的以外なら、右手を見られたくないと考えるのが妥当。そうなるとあの手袋の下には、酷い火傷があるとか、タトゥーが入っているとか……或いは、義手とか?
 想像は膨らむばかりだが、やはりそこはプライベートだ。踏み込むのはよそう、失礼だ。妄想は自由だが本人に確認する勇気も必要もない。
 そう思い、俺はがりがりと頭を掻き毟りながら、彼女が引越し蕎麦を持ってくるまで、ひたすら文章を打ち続けた。
 そして自分でも意外な事に……彩塔さんは、俺に物語を書かせるために神が遣わした存在なのではないか、なんて馬鹿な事を思ってしまうくらい、彼女の外見をヒロインに流用した直後から、すんなりと文章が出てくるのであった。

 ……煮詰まった。
 彩塔さんが越してきて、早数日。物語が佳境に入った所で、俺の脳みそは文章を作成できなくなった。あれ程自動的に動いていた指が、今では完全に止まってしまっている。
 ヒロインの前に、主人公の「敵」……つまり「人間を見下している怪人」が現れた所までは書いた。しかし問題はこの後だ。彼女の前で主人公が「怪人」に変身すべきか、それとも最初から「怪人」の姿で助けるか。そこで悩んでいる。
 ちなみに、俺が主人公の立場なら確実に後者をとる。俺は、自分が「怪人」であるとは知られたくない。だが、その場合……ヒロインはどんな反応を示すだろう。
 唐突に現れた「怪人」を、自分を襲って来た者と同一視して罵る? 恐れる? それとも、助けられたという事実を認識して、「怪人」を受け入れる?
 「ヒロイン」なのだから、受け入れた方が物語の流れとしては良いのかもしれない。だが、そんなにあっさりと受け入れられる人間が、実在するだろうか?
 小説にリアリティを追求しすぎるのは愚かしい事だとは理解できるものの、俺が納得できなければ読んでいる人も納得しないだろうし、何より斉藤がにこやかな笑顔で没を出す。
 ……分らない。いや、そもそも分るはずがない。男心が女に理解できないように、女心もまた、男には理解できない物なのだから。
 ってか、そもそも敵役の「怪人」が登場した時点で、ヒロインがあんまり驚いていないんだよなぁ、不思議な事に。そりゃあ、多少の驚きの表現は入れてるけど、普通の人間なら確実に上げるであろう悲鳴とか恐怖感とかが、このヒロインからは欠如してる。
 何だろう、「びっくりはするが怖くはない」みたいな状態になってしまっている。
 普通ならあり得ないんだが、かと言ってここで彼女が悲鳴を上げるのは何か違う気がする。助けを求めたり、逃げ出したり、泣いたりって姿が想像できない。俺の脳内にいるモデル……彩塔さんが、どうしても驚いてくれないのだ。
 そうなると、主人公を「拒絶する」というのも考えにくくなる訳で…………でも、そんなご都合主義な事ってあるものなのか?
「あー……悩んでても仕方ねぇ……飯でも作るか」
 誰にという訳でもなくそう独りごちると、俺は買っておいた豚肉とジャガイモと人参、そして糸こんにゃくを使って家庭の伝統料理肉じゃがをこしらえる。
 全ての材料を適当な大きさにぶった切り、これまた適当に調味料をぶち込む。
 調味料の「さしすせそ」とか言うが、俺は知らん。「そ」はソースだと仮定しても、「せ」って何だ? 背脂か? いや、んな訳がない。
 などと、自分に対して全身全霊でツッコミを入れながらも、何とか肉じゃがは完成した。
 ……毎度のことながら、適当に作った割に味は悪くない。俺が味覚音痴でなければの話だが。自分でもこんな適当でこの味が出せる事にちょっと驚く。
 だが、問題は量だ。あまりにも適当に放り込みすぎたが為に、一人では食いきれない量になっている。ジャガイモが鍋から半分程顔を覗かせているのは、確実に入れすぎたが故の結果だ。
 と、なるとやはりここは量減らしの定番の「お裾分け」に行くのがセオリーってモンだろう。
 思い立ったら即実行。小鉢に適当量の肉じゃがを放り込み、俺はまずお隣さん……つまり彩塔さんに突撃に行く。
 チャイムを鳴らすと、「怪訝そう」よりは「不思議そう」と呼んだ方が近いであろう彼女の声が、ドア越しに聞こえてきた。
「はい?」
「あ、こんばんは。ちょいと作りすぎたんで、お裾分けに」
「ありがとうございます、灰猫さん」
 何の警戒もなく彼女は扉を開けると、綺麗な笑顔を浮かべて俺が差し出した小鉢を受け取った。
 ……女の独り暮らしだってのに、なんでそんなにあっさりと扉全開にするかな。警戒心は大切だぞ?
 いや、確かにお裾分けに来ただけだから、開けてもらわないと困るっちゃあ困るんだが……俺はそんなに、あっさりと信頼できるような人間に見えるってか?
 いやいや、まさか。俺のこの外見でそう見えるんだとしたら、彼女は余程の怖いもの知らずか世間知らずだ。俺ならこんな、無精髭生やした怪しさ全開の男を相手に、扉のフルオープンなんざ怖くて出来ない。
「……信用してくれているのはありがたいけどさ。アンタ、無用心だ。仮に俺が、あんたを襲うつもりだったらどうしたんだ?」
「そうですね……返り討ちにしました。これでも、護身術には覚えがありますから。並の人間相手なら、ある程度対処できると自負しています」
 これまたにっこりと綺麗な笑顔で返してくれるが……それは過信って物だろう。あまり自分を信じすぎると、後で痛い目にあう。
 いや、勿論俺は襲わないけどな? 勝手に小説の登場人物のモデルにしている後ろめたさもあるし、金に困ってる訳でもない。そもそも俺に、人間を襲う度胸も根性も必要も意味もない。そんなことをすれば、後々面倒なだけだ。
 だが、この街はちょくちょく「怪人」の目撃情報がラジオ番組に寄せられる。そんな「怪人」から人間を守る、「仮面ライダー」までいる始末。つまり、油断は禁物って事だ。……正直な話、俺の事も含めて。
「……人間ばかりとは限らないんだ。特にこの街は……な」
「え?」
「とにかく、気をつけた方がいいぜ? 最近、特に若い女ばかりを狙う通り魔が出没してるって噂だ」
 こっちはテレビや新聞でも報道されている情報だ。
 襲われた人間の話じゃ、夜道を歩いている最中、いきなり街灯が消えて、襲われたらしい。それも、凶悪なまでの電流が流れる、スタンガンのような物で。
 いくら護身術に長けていても、スタンガン相手じゃどうしようもない。生身の人間なら、一瞬で意識を奪われてしまう。気絶してしまったら、何をされるかわからない。
 今のところ死者は出ていないし、性的な暴行を受けた、なんて話も出ていないが、ひょっとしたらニュースでは流れないだけで、そう言った事だってされているのかもしれない。死者の方はともかく、性的な事に関してはデリケートな部分でもあるのだし。
 とは思う物の、声には出さず、俺はひらひらと手を振って自室に戻る。
 ……これで、少しはあの人も警戒心を持ってくれれば良いのだが。
 ……って、俺が心配する義理はないし、痛い目を見るのは彼女なんだから放っておけば良いんだけど……何だかなぁ……彼女からは、何となく、「俺と同じニオイ」がするんだよ。
 他人との関わりを、極力避けようとする……地味に、ひっそりと生きていたいんですオーラみたいな物があるような気が。
 と、ここまで考えたその時。俺の耳に、バタンと扉の閉まる音が聞こえた。
 ……おい。まさか、彼女……あれだけ言ったのに外に出かけたのか!? こんな時間? 女一人で?
 慌ててベランダから道路の方を見下ろすと、そこには財布を持って出かける彩塔硝子の姿。その後ろを、黒尽くめの格好の男が、付かず離れずの距離を保って追っている。
 …………言わんこっちゃない!!
 ガシガシと頭を掻き毟りながらも、俺は急いで彼女の後を追う。
 黒服の男が通り魔だという確証はないが、そうでない保証もない。万が一、あれが通り魔で……おまけにこの街特有の「怪人」だとしたら、彼女は間違いなく次の犠牲者になる。
 少し痛い目を見た方が良いんじゃないかとは思ったものの、どうにも俺は、自分で思っている以上にお節介な性格らしい。結局は見捨てられず、気が付けば俺は彼女の後を追うように家を飛び出していた。
 何度かまかれそうになりつつも、ようやく見つけた時の彼女は……全く緊張感のない顔で、コンビニの袋を手からぶら下げ、鼻歌混じりに帰路についている所だった。
 今のところ、何も起こっていないらしい。この後も何も起こらない保証はないが、先程の黒尽くめの男の姿は消えている。出来ればどうか、俺の取り越し苦労でありますように。
 そう願った、まさにその瞬間。
――Current――
 聞き慣れない電子音が響くと同時に、周囲の街灯が一斉に消えた。それこそ、スイッチを切ったように。
 うぅわぁ。……予感的中か。それも最悪の方向で。
 残念すぎて頭を抱えたくなりながらも、俺は物陰に隠れて周囲を見回す。明かりのない状況で隠れる必要も感じないが、そこは念の為と言うか条件反射と言うか。
『夜遊びはいけないって、ママに教わらなかったのかなぁ?』
 低く、くぐもった……だが、楽しげな声が聞こえる。周囲に反響して、どこから声をかけられているか分かりにくい。そして相手の場所が分からないってのは恐怖の対象になる。
 ……普通なら。
 しかし残念な事に、俺は「普通」ではない。常人よりも優れた視覚でゆっくりと周囲を見回すと彼女の前に伸びる一つの影を見つけた。
 人間のようでいて、間違いなく異なるシルエット。それは「怪人」と呼ぶに相応しい外観だ。尖った両腕に、背中には所謂雷神のような太鼓状の何か。更に、パチパチと体から放電している。
 「Current」。様々な意味を持つ単語だが、今回は「電流」の意味合いが強いのだろう。成程、一連の通り魔は、やっぱりあの「怪人」の仕業だったのか。
「生憎と、母はそういった事は教えてはくれませんでした」
 彼女の方は相手がどこにいるのかを把握していないらしく、言いながらゆっくりと視線を巡らせている。
 おいおいおいおいおい。何でまたそんな挑発的な事を言っちゃうんだあの人は。強がりか? それとも現状をきちんと把握していないのか? 相手がどこにいるのかも分からない状況でその挑発は、どう考えても無謀だろう。
『生意気だな。まあ良い。夜遊びする女には……お仕置きだ!』
 雷神が吠える。そして一直線に彼女へ向かって駆けた。
 彼女を襲うつもりなのだと理解すると同時に、俺の中に怒りがこみ上げる。
 風都は俺が生まれ育った街だ。その街に、俺は誇りを持っている。だが、その誇りを犯罪という形で汚す奴は……絶対に許せない。
 その感情が引鉄になったらしい。俺もまた、ヒトの姿からは程遠い姿……つまり「怪人」の姿へと変貌した。
 虎の特性を持つ、「タイガーオルフェノク」と呼ばれる姿に。この姿になっていつも不思議に思うのは、一体どこから武器……弓矢が現れるのかって事だ。だが、今はそれを不思議に思っている場合ではない。
 そして、彼女が何故か右手の手袋を外したのとほぼ同時に。相手の足元へ牽制の矢を放ち、直後には彼女の体をぐいと引いてこちらに引き寄せた。
『な、何だ……!?』
 声に出して言った怪人同様、彼女も同じことを感じたらしい。俺の方を振り返り、ぽかんとした表情を浮かべた。
 この姿を見て驚いていたってところだろう。今の俺の姿は怪人……つまり「化物」だからな。
 心の中で苦笑しながらも、俺はとりあえず不機嫌な声で彼女にどうしても言いたかった苦言を呈す。
「夜道を一人で歩くな。無用心だ」
「ああ……すみません。お味噌を切らしてしまっていたもので」
 驚きの表情は消え、代わりに浮かんだにこやかな笑顔と共に返された言葉に、思わず深い溜息を零す。
 いやいや、味噌を切らしたって……そんなもん、俺の家とかに分けて貰えば済む話じゃないのか? あと、何でそんなに俺の腕をぺたぺた触ってるんだ、この人。俺の事が怖くないのか?
 とか思うが、まあ今は彼女の迂闊な行動よりも目の前の「怪人」だ。相手の方は、それはもう悔しげに俺を睨みつけ、声を荒げる。
『邪魔をしやがってぇぇぇっ!』
「邪魔もする。この街で通り魔とか……俺の誇りが傷付く」
 それだけ言ってやると、俺は持っていた弓でまず一矢。それをかわされたのを確認すると、今度は相手の動線上に向かって矢を放つ。
 当てるつもりはない。ただの威嚇だ。何しろ俺達「オルフェノク」の攻撃は、その気がなくとも毒性を帯びている。その毒にやられれば、十中八九の人間は灰になって死ぬ。しかし俺は、人間を殺すつもりなんてないから、出来るだけ威嚇で留めておきたい……ってのが本音だ。決して腕が悪いんじゃない。
『ちっ……分が悪いか』
 こちらがわざと狙いを外している事に気付いているらしい。相手は忌々しげに舌打ちすると、すっと闇の中に溶けると、吐き捨てるように言葉を紡いだ。
『今日は退いてやる。だが、貴様らの顔……覚えたからな!! 次会った時は覚悟しとけよ!』
「……三流悪役の台詞ですね」
「だからそういう……挑発めいた事を言わないでくれ、頼むから」
 彼女の漏らした言葉に突っ込みながらも、俺は完全に相手の気配が消えるまでは戦闘態勢を取ったまま。
 完全に安心できるまでは、用心するに越した事はない。
「……気配、消えましたね。電気もつきましたし、一応は一安心と言ったところでしょうか」
「みたいだな。……ってか、逃げなかったのか、あんた」
 相手の気配が完全に消え、街灯の明かりが再び点る。つまり、俺のオルフェノクとしての姿が、よりはっきりと見える訳だ。となると、普通は逃げるだろ!? そもそも相手も怪人だったんだぞ!?
 腰が抜けてるのか、あるいは膝が震えて動けないのかとも思ったが、そんな訳でもなさそうだ。ちゃんと立っているし、体も震えていない。それどころか、彼女はにこやかな笑顔をこちらに向けている。
 見れば、いつも右手につけている手袋が今はない。軽く見渡せば、少し離れた場所にぽつんと落ちている。そう言えばさっき、何故か知らんが外していたな。
 思いながら視線をそこに移せば、それまで隠されていた物の正体が、彼女の手の甲に見えた。
 ……恐らくは、タトゥーだと思う。「バラと城」だろうか。随分と斬新で……だが、高貴な印象の絵柄だ。
 俺の視線が、彼女の右手に釘付けになっている事に気付いたらしい。彼女は困ったように苦笑を浮かべると、俺に見せ付けるようにそのマークをこちらに向けた。
「これが、私が右手を隠していた理由。……私が、『ルーク』に選ばれてしまった証です」
「ルーク?」
「……先程、『逃げなかったのか』って仰ってましたよね」
 俺の疑問には答えず、顔は苦笑を浮かべた状態のままで彼女はそう言うと……軽く一つ息を吐き、真っ直ぐに俺を見つめた。何か、一本の曲げようのない筋のような物の通った、力強い瞳で。
「逃げる必要はありません。私を助けて下さった方に対して、礼を欠く行為です。そしてそれは、誇り高き我が一族として許されざる行為でもある。改めて……助けて頂きました事、御礼申し上げます、灰猫さん」
 言って、彼女はぺこりと頭を下げる。まさか逃げないだけでなく、礼まで言われるとは思っていなかった。今までそういった経験がないので、ちょっと恥ずかしい。
「お、おう…………ってちょっと待て」
「何でしょう?」
 きょとん、とした表情で、彼女はじっと俺を見つめる。
 待て。恥ずかしくて軽く聞き流していたが、聞き違いか? 馬鹿な。彼女、最後に何て言った?
「灰猫さん?」
 もう一度。今度は間違いなく、彼女は俺の名を呼んだ。普段挨拶するのと変わらない口調で。
 …………何故バレた!? 俺、何かバレるような事したか!?
「あ、あんた……何で、俺の事……」
「ああ。……『無用心』と仰った時に気付きました。それに、声や匂いが同じでしたし、怒り方も」
 ニコニコと、彼女は綺麗すぎる笑顔で慌てる俺にそう返す。
 ……ヒロインにしては、出来過ぎだろ。声と匂い、そして喋り方だけで主人公の正体を見抜くなんて。
 くらり、と眩暈にも似た何かを覚えながら……俺達はとりあえず、マンションに戻る事にした。
 勿論、俺は人間の姿に戻り、彼女は落とした手袋を拾って。
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