灰の虎とガラスの獅子

【Hの序章/大・大・災・害】

「疲れました」
「お疲れさん」
 風呂から上がり、ドライヤーを嫌がる霧雨さんに無理矢理ドライヤーを当て、これまたむずがる彼女を半ば強引に寝かしつけ……ようやく一息つくと、灰猫さんが心底同情したような表情で声をかけてくれた。
 子供は手加減を知らない。その為、拒否する時は徹底的に拒否の意思を見せてくる。お陰で風呂上りだというのに、汗と生傷にまみれてしまった。
 後で絶対に爪切ってやる。伸びた爪は洒落にならない。下手すると凶器だ。
「とは言え、彼女の方が疲れていたのでしょう。あれ程嫌がっていたのに、布団に入れた瞬間眠ってしまいました」
「……気ぃ張ってたんだろうなぁ」
「ええ」
 ちらりと彼女の姿を横目で見ながら、灰猫さんは悔しそうに呟きを落とした。
 恐らく、彼も責任を感じているのだ。彼女の両親を助けられなかったと言う事実に対して。
「なあ、彩塔さん。霧雨なんだけどさ。この後……どうするんだ?」
「どうする、とは?」
「あいつ、聖守とかいう奴に狙われている訳だろ? って事は、どこかで保護する必要がある」
 それは、その通りだ。聖守が狙っていると分った以上、彼女を放っておけば今以上の被害が出る事は、火を見るよりも明らか。
 聖守が霧雨さんの拉致に成功したとして、彼女を丁重に扱うとも思えない。「生きてさえいれば良い」とか言って両手両足切り落とすとか、そんなグロい事もやりかねない。それは避けたい。
 となると、問題は「どこで保護するか」。
 彼女の身の安全を確保する最善の策は、彼女を狙う者……つまり聖守を叩く事が一番良いのだが、生憎と聖守の居場所は分っていない。
 そうすると次に考えられるのは、「聖守よりも強い者が守りつつ、彼女を狙ってきた所を返り討ち」と言う策。だがこちらにも問題がある。それは……「聖守よりも強い者」と言う前提その物。
 非常に厄介な事に、歌宿、阿鐘、そして聖守の三人は「性格さえアレでなければ、チェックメイトフォーに選ばれてもおかしくない存在」。と言う事は、中途半端な実力の同族では、あっさりと霧雨さんを奪われる可能性が高い。恐らくまともにぶつかり合えるのは、チェックメイトフォーの四人と王弟陛下くらいだろう。
 とは言え、そんな厄介事をキングや王弟陛下に引き受けて頂くのは正直心苦しいし、ビショップの奴は行方不明。クイーンは未だ見つかっていない。王弟陛下と親しい人間の戦士である「聖職者」に頼んでも良いが、あそこも確か子育ての真っ最中だったはず。
 と、なると……
「……『ルーク』である私が保護するしかないじゃないですか……」
 はぁ、と深い溜息と共に言葉を吐き出しながら、もう一度ちらりと霧雨さんを見やる。
 子供らしく丸みを帯びた顔のライン。薄桃色の頬は「お餅みたい」と言う表現がぴたりと当てはまる。すぅすぅと聞こえてくる安らかな寝息は、安心している証拠だろうか。
 ……別に、嫌と言う訳ではない。だがしかし……私に子育ての経験がない。強いて言うなら十五年程前に家女中ハウスメイドの仕事をしていた事はあるが、その時だって殆どお屋敷の坊ちゃまとはお会いしていない。せいぜい「爺」と呼ばれていた方とやり取りしていた程度だ。
 子育てスキル皆無の私に、やんちゃ盛りなお年頃の子供の面倒を見るなど……果たして出来るのだろうかと言う不安が大いにあるのだ。
「……まあ、何かあったら俺を頼ってくれよ。俺だって霧雨が心配だし」
 こちらの不安を見抜きでもしたのだろうか。灰猫さんは苦笑気味にそう言うと、私の頭をぽんぽんと撫で……何故かはっとしたように目を見開くと、撫でていた手を大げさなまでの勢いで引っ込めた。
「ご、ごごご、ごめん彩塔さんっ」
「……謝られる理由がわからないのですが」
「いや、だってほら、何かガキ扱いしてるみたいで……不快、だっただろ?」
 引っ込めた手をかばうようにしながら、灰猫さんは顔を赤くしてそんな事を言う。何をそんなに慌てているのかと不思議に思うくらい、彼は挙動不審だ。
 別に頭を撫でられたくらいで不快に思う事はない。実年齢は確かに灰猫さんよりも上かも知れないが、だからと言って「子供扱いされている」とは思わない。
 むしろ頭を撫でてもらった事で、少し不安が和らいだし、安心した。逆に引っ込められた瞬間、ほんの少し……本当に僅かではあるが、寂しさすら感じてしまった程だ。
 私は、自分で思っていた以上に不安がっていたのかもしれない。小さな子供を守らなければならないと言う事と……相手があの聖守であると言う両方に。
「とにかく、何かあったら……いや、何もなくても、頼ってくれ。俺に出来る事なら、何だってするから。それじゃ、俺は帰るな。おやすみっ!」
 早口にそう言うと、とてもこちらの声も聞かず、慌しく彼は部屋から出て行ってしまう。
 扉が閉まった瞬間、どこかにぶつかりでもしたのか、微かに灰猫さんの「痛ぇ」と言う声が聞こえたが……ひょっとして、何か大切な用があったのに、引き止めてしまったのだろうか。だからあんなに慌ててたとか。
 そんな事を思いながらも、睡魔は容赦なく私にも襲い掛かる。布団は霧雨さんが占領しているから、今日はソファかしら。明日はもう一組布団を買わないと……
「おやすみなさい、灰猫さん……」
 眠りに落ちる直前、曖昧な意識でそう呟いた気がしながら。彼の大きくて暖かい手を思い出して、すとんと夢の世界へと落ちていった。

 さて。
 昨日はリビングのソファで眠ると言う、いつもよりも悪条件だったにも関わらず、妙にすっきりとした目覚めを迎えたのだが。やはり、そう毎日ソファと言うのはいかがな物だろうと思うのだ。
 そもそもソファは、長時間横になる為の家具ではない。寝返りを打てば落ちそうになるし、かと言って寝返りを打たねば床擦れを起こす可能性もある。
「と言う訳で、お布団を買いに行こうと思います」
「おー!」
 何の偶然か、はたまた見えざる何者かの陰謀かは分らないが、今日は珍しい事にバイトが全く入っていない。絶好の買い物日和と言う訳だ。
 一人にする訳にはいかないので、そこそこの時間に起きた霧雨さんを引き連れ、風都最大のショッピング街に向かっている最中、と言うのが現状である。
 林檎飴を売っている神社で少し寄り道と買い食いをし、新緑の美しさに目を向けつつも目的の店はもうすぐそこ……と言うところで。
「Sorry」
「はい?」
 ぽんと肩を叩かれ、呼び止められる。呼び止めたのはアジア系の顔立ちの青年。二十歳前後の、好青年に見える。
 少し困ったような表情から察するに、道にでも迷ったのだろうか。
 しかしいくら五月の末とは言え、黒のタンクトップ一枚にストーンウォッシュのジーンズと言う出で立ちは寒くはなかろうか。
 そんな事を思いつつ、私はにっこりと作り笑顔を青年に向け、軽く首をかしげて相手の出方を伺う。
 ……足元で、怯えたようにぎゅっとしがみついてくる霧雨さんに気付かぬまま。
「Are you human?」
「……は?」
 思いもかけない言葉に、呆けたような声をあげてしまう。今、目の前に鏡があったら思い切り顔を顰めた間抜け面の私がいる事だろう。
 てっきり道を聞かれるかと思ったのに、聞かれたのは道ではなく……よりにもよって「君は人間ですか?」と言う質問。
 一瞬相手も同族なのかと疑うが、そんな気配はしない。では、何故?
 何とはなしに嫌な物を感じ、霧雨さんを自分の背後に回しながら、私は無意識の内に一歩分相手との距離を広げた。
 それに相手も気付いたのだろうか、僅かに驚いたように目を見開いた直後、フフンと鼻で軽く笑い、こちらに人指し指を差し向けた。
 人を指差しちゃいけませんと、親御さんに教わらなかったのだろうか。
 いささかむっとしながらも、私はその指に注意を向け……
「Change or die. Can you become a fellow?」
 男がそう言った瞬間。その人指し指が……伸びた。
 危ない。
 本能的に察知し、その指が体に触れるよりも先に、霧雨さんの体を抱きかかえるようにして瞬時にその場に伏せる。
 指先は狙い……丁度私の心臓のあった位置を通り抜け、偶々後ろを歩いていた男性の胸に突き立った。
「なっ!?」
「Were you evaded? It's good reflexes」
 男性の体に突き立ったと言う事実に驚く私の声と、指をかわした私に驚く男の声が重なる。
 当然、刺された男性は小さく呻き……変化はすぐに現れた。びくりと体を震わせた後、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き……そしてそのまま、ザラザラと音を立て、灰となって崩れ落ちた。
「嘘……」
 人が、灰になった?
 燃え落ちた訳ではない。高温にさらされた訳でもない。まるで最初から灰で出来ていたのだとでも言うように、服だけを残して風に散って逝った。
 ライフエナジーを吸われた人間の亡骸なら、今までにも幾度となく見た事がある。魂の色を失い、ガラスのように透明になって砕け散る。
 それも「ヒト」から見れば現実味のない「死」だろうが、目の前で起こった「死」もそれと同じ位現実味がない。
 待って。人間が、灰になる? それってまさか……
 ひゅるりと伸ばした指を戻しながら、男は薄く笑い……
「Ha! If you're not possible to become a Orphenoch, die」
 やはり、そうか。
 聞き覚えのある単語を耳にし、目の前の男の正体に気付く。
 人を灰にする力。その時点で気付くべきだったのだ。
 この青年が、灰猫さんと同じオルフェノクなる存在である事に。
 何と言う事。ドーパントやら聖守やらその他諸々の存在のせいで失念していた。この世には、人間を見下すオルフェノクと言う存在もいると言う事実を。
「It's your turn this time. Determine it」
 今度こそ私を……いや、私と霧雨さんを襲うつもりなのか。相手は再び指先を私に向け、そう宣言する。
 しかし冗談ではない。私も霧雨さんもファンガイア氏族だ。ファンガイアがオルフェノクの「毒」を浴びたら、一体どうなるのか……試した事はないだろうが、だからと言って私で試される気も、霧雨さんで試させるつもりもない。
「霧雨さん、捕まっていて下さい」
「ん!」
 早口に言った後、彼女の体を右腕で抱きかかえると、私は空いている左手で足元の石畳を剥がして、相手の指の勢いを削ぐ。同時に大きく後ろへ跳び退りつつ、破壊された石畳の破片を相手の目元に向かって投げつける。
 どのような生物であれ、目元を攻撃されれば十中八九怯む。その隙に、霧雨さんを安全な場所に待機させ、あの男を撤退に追い込む。ただし、「撤退させる」と言う選択肢を選ぶには、少々骨が折れそうな相手だと言う事は、なんとなく理解出来る。
 彼から感じ取れる強さは、おそらく聖守とほぼ同等、もしくはそれより上かもしれない。正直、「白騎士」と同じくらいの厄介さと考えて差し支えないだろう。
 更に、私はオルフェノクを相手に戦った事がない。接近戦メインの私が、相手の攻撃を喰らわずに戦うと言う手段に出れるかどうか……
 チィ、と一つ舌打ちしながら、人気の少ない「いつもの廃工場」へと駆け込んだ……刹那。
 一瞬、大きく地面が傾いだ。
 地震かと思わなくもないが、それは違うとすぐに理解出来る。何故なら……自分と相手との間の大地が盛り上がり、そこから赤々とマグマが吹き上げているからだ。
「しょこちゃん、あつい~」
「What's happen!? Magma!?」
 これは相手にとっても予想外だったのか。ぎょっと目を見開きながら、そのマグマを見つめている。
 逃げるなら、今しかない。ないと思いたい所なのだが……非常に残念ながら、逃がしてくれる気がないらしい。
 オルフェノクが、ではない。
 ……マグマが、だ。いや、正確には「マグマの体を持つ何者か」と言うべきか。
 吹き上げたマグマは、徐々に人型をとり、やがて二メートル程の異形と化した。ドーパントかとも思ったのだが、どうも違和感を覚える。目の前のこのマグマの異形は、理性ある生物ではなく、ただの獣のような印象だ。
 おまけに、かの異形の周囲には、黒い全身タイツのような物を纏った変な生き物が、チキチキ言いながら群がっている。
 持っているのは剣だろうか。しかし切っ先には銃口のような物もついている。とにかく、殺傷能力のある武器だと言う事は分った。
「な、何なの……?」
「おー、『チキチキ』だってー」
 驚く私とは逆に、どこか楽しそうな霧雨さん。この状況で楽しめる辺り、なかなか豪胆と言える。そんな私達に、何を思ったのか。マグマの獣は私達とオルフェノクを交互に見やり……
「我々の姿を見られたか。ならば……やれ、インプス!」
『チキチキチキ~!!』
 短い命令の後、黒タイツ……多分、インプスと言うらしいそれらが、一斉に私とオルフェノクに向かって襲い掛かる。
 オルフェノクの仲間ではない事は理解できたが、問答無用に襲い掛かってくるのも如何な物か。
 振り上げられた剣をかわし、隙あらば相手の鳩尾に蹴りをお見舞いしつつ、私は全速力でその場から離脱する。
 オルフェノクだけでも危険だと言うのに、あんな訳のわからない生き物が相手など、危険この上ない。普段なら「降りかかる火の粉は徹底的に払い除ける」を信条に戦うところだが、生憎と今は霧雨さんと言う「守らなければならない存在」がいる。ここはオルフェノクにあの獣を任せて、私は早々に立ち去ろう。布団を買わなければならないのだし。
 目の前に立ち塞がる最後の一匹を踏み台にして、私はインプス達の群れから抜け出る。
 よし、これで何とか……
「しょこちゃん、ジャンプ!」
 言われ反射的に私は上へと飛び上がる。次の瞬間、私が駆け抜ける予定だった場所は、マグマの獣が吐き出した熔岩によって舗装され、周囲の建物をメラメラと燃やしていった。
 嘘、この状況でどこに着地せよと言うんですか!?
 かわしたは良いが、当然足元には灼熱の熔岩。着地した瞬間、私も霧雨さんも燃え上がること請け合いの熱量を放出している。
 駄目だ、終わる。
 せめて、霧雨さんだけでもどこか安全な場所に放り投げて……
 己の死を覚悟し、それでも彼女を守ろうと必死になって場所を探した……瞬間。
「ビルドディスチャージャー!」
 聞き慣れない男性の声が響く。同時に、足元の熔岩が赤から黒へと色を変えた。
 どうやら広がっていた熔岩が、何者かによって冷やされたらしい。その証拠に、視界が生まれた「霧」の白で覆われ、聴覚には水が蒸発する音が届いている。
 誰かが、水を撒いたのだ。それも、あの量の熔岩を一気に冷ますほど大量の水を。
 気付くのと、着地したのは同時。まだ少し熔岩は熱を孕んでいるが、こちらが燃え上がる程ではない。
 ほっと安堵すると同時に、目の前には私達を守るようにオレンジのジャケットを着た五人組が立ち塞がる。その内の一人、紅一点の女性がくるりとこちらに向き直ると、霧雨さんと私に向かって問いかけた。
「大丈夫ですか? どこか怪我は?」
「んーん。しょこちゃんが助けてくれたから、へーき」
「私も大丈夫です」
「早くその子連れて安全な所へ」
「……ありがとうございます」
 オレンジジャケット、と言う事はレスキュー隊員なのだろうか。ドーパントが普通に存在する街だ、驚きはしないのだろう。
 思いつつ、私はぺこりと頭を下げると、その場を離れるべく駆け出して……
「It doesn't let it go」
 少し離れた場所で、再びオルフェノクが顔を出した事に、軽くがっかりする。
 あの混乱で、怪我でも負ってくれれば良かったのだが、世の中そう上手くはいかないらしい。怪我どころか服にはほつれ一つなく、涼しい顔で相手はこちらを見ている。
 先程の獣と言い、このオルフェノクと言い、何でこちらを狙ってくるのか。
 いい加減温厚な私でもうんざりする。
「しつこいと、嫌われますよ? When it is too persistent, it's disliked」
「Harm isn't added if obediently following it」
 ちょいちょいと、まるで挑発するかのように指でこちらを呼びつけながら、相手は涼しげな表情でそんな事を言ってのける。
 「大人しく従えば危害は加えない」? さっきまで思いっきり攻撃を仕掛けてきた男の言葉とは思えない。絶対何か裏がある。
「お断りします。I'll refuses」
「Ah ha. Then, I kill you」
 相手は挑発するように親指ですい、と自らの首を横に線引きする。同時に、その顔にオルフェノクとしての顔も浮かび……その姿を、獅子を連想させるオルフェノク……「ライオンオルフェノク」へと変えた。
 私の首を取る? 面白い事を抜かしてくれるじゃないですか。「言う事を聞かないなら殺す」などという考え方は、聖守に似ているかもしれない。
 何故わざわざこちらを狙ってくるのかは不明だが……逃げてばかりでは霧雨さんが危なすぎるのも事実。
「……良いでしょう。久し振りにタイムプレイを開始します。標的は……ヒトを見下す生物です」
「Ha! Let's enjoy it together」
 今、最悪の「ゲーム」が幕を開ける。
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