灰の虎とガラスの獅子

【やってきたM/魔性の人】

 白騎士の襲撃から数日。
 私は今、これまでの人生でトップクラスの危機に陥っている。
 それは、白騎士の再襲撃デートでも、人差し指との再遭遇ダンスでも、ましてビショップからの刺客プレゼントでもない。恐らく、端から見ればごく下らない事なのだろうが……私にとってはこの上ない危機と言っても過言ではない。
 今、私の手元に一葉の葉書がある。差出人は、「彩塔斗李」……つまり我が家の次兄からだった。
 無意識の内に眉が寄り、頬に冷や汗が流れ落ちるのを感じつつ、私は書かれた文面を見やると……事もあろうに、「今度遊びに行きます」の一言が、でかでかと書かれている。
「来なくて良いです」
 誰もいないのに、思わず呟いてしまう。
 まあ斗李は家族の中でも、性格的には一番マシな方に入るのだが……いや、しかしやはりあの人も奇人変人の類である事には変わりない。出来る事なら一生関わり合いになりたくない人物だ。この人の襲来に比べれば、白騎士達の襲来などまだ可愛いと言うもの。
 などと悶々と考え込んだその時。
 チャイムが、鳴った。
「…………ま、まさか」
 嫌な予感がし、恐る恐る私はドアスコープを覗く。
 そこには、明るい茶に染められた長髪をポニーテールに結わえ、少々……否、かなり派手な化粧と服装の、真っ赤なルージュが印象的な人物が、両手に大きな紙袋を引っ提げて立っていた。
 ただ、「派手な化粧」とは言っても先日喫茶店で喧嘩を売ってきた「彼女」とは全く異なる。化粧の派手さに、素顔や雰囲気が負けていない。むしろアレくらい化粧をしている方がより美しく見えるかもしれない。
 立ち姿も、随分と艶っぽい。大半の男性は、間違いなくその妖艶な姿に振り返り、見惚れるだろう。女性でも嫉妬の中にも羨望の眼差しを向ける事だろう。
 相手の手にぶら下がっている袋の中身を、目を凝らして見れば……女物だろうか。胸の大きく開いた服やらボンテージやら薄い紫のチャイナドレスやら……とにかく、体の線がはっきりと強調されそうな服ばかりがちらりと顔を覗かせている。
 ……ひぃぃぃぃぃぃぃっ!!
 声には出さず、心の中でのみ私は思い切り悲鳴をあげた。
 扉の外に立つ存在は、絶対にあの服を私に着せるつもりだ。誰が着るものか、あんな慎みのない格好! いくらなんでも恥ずかしすぎる。
 そもそも、ああ言った服は似合う体型の持ち主でなければ見られた物ではないのだ。残念ながら、私はあの服を着こなせる程の体型は持ち合わせてはいない。
「硝子ちゃん、遊びに来たわよぉ」
 扉の向こうに立つ人物が、鈴の鳴るような声で呼びかける。
 ……開けてはならない。開けたら最後、あの人に何をされるか分った物ではない。卑怯ではあるが、ここは居留守を……
「硝子ちゃん、聞こえてる? アタシよ~。いるのは分ってるんだから、出て来て頂戴よぉ。じゃないと……ちょぉっと乱暴な手段にで・ちゃ・う・か・ら」
 こちらの考えを読んでいるのだろうか。彼の人物からは、ある種物騒とも取れる言葉がこちらに向けて放たれる。
 まずい、これは出ない訳にはいかない。この人の場合、本当に乱暴な手段に出かねない。というか、絶対に扉を壊して入って来る。この間チェーンを修理したばかりだというのに、これ以上扉を破壊したら、このマンションを追い出されかねない。それは困る。
 仕方なく、私はチェーンをかけたままの状態でゆっくりと扉を開け……そして、相手を見やった。
 無駄に色っぽい雰囲気は、所謂「夜の仕事」をしているせいだろうか。少し気だるげだが、そこがまた艶を感じさせる。
 ……この人の姿を見ると、女としての自信を失くすから、正直嫌なのだが。
「…………私に、『アタシ』と言う名の知り合いはおりませんが」
「あらやだ、硝子ちゃんってば。アタシの顔、忘れちゃった?」
 こちらの精一杯の抵抗すらも、この人には通じないらしい。悲しそうに眦を下げると、泣いてもいないくせに目元を押さえた。
 その様子がいやに艶っぽく、落とした男の数が一桁二桁では済まない事が見て取れる。
 無論、この顔には見覚えがある。というか、忘れたくても忘れられない。
 私が妬んでやまない存在。幼い頃から「女らしさ」の点で一度たりとて勝てた事のない脅威。
 ……お気付きかもしれない。目の前のこの存在こそ、我が次兄、彩塔斗李なのだ。
 もう一度言うが、「次兄」である。
 妙に女らしく、そして色気を振り撒きまくっていようと、男なのだ、恐ろしい事に。
 「二丁目」と呼ばれる界隈で店を何軒か経営し、更にはカリスマママとまで言われているこの男。御年百三歳である。
「何をしに来やがったんですか、斗李」
「あらやだ、そんな邪険に扱わないでってば。硝子ちゃんに変な虫がついていないか、心配でしょうがないんだから」
「……自分が『虫』の癖に、何を抜かしやがりますかこの男は」
 思い切り顔を顰めて言ってやるのだが、彼には全く堪えた様子もない。
 ニコニコと笑みを浮かべると、両手に持った紙袋をずずいと私に押し付けた。
「あら、あんまり生意気な事言ってるとぉ……ここにある服なんて目じゃないくらいキワドイの、着せちゃうわよ?」
「その時は全力……いえ、全っ力で抵抗させて頂きますので、お覚悟を」
「うっふふ。硝子ちゃんってばぁ。アタシ相手ならそれも出来るでしょうけど、ウチの店のコ達が相手ならどうかしらねぇ? あのコ達も、硝子ちゃんを飾るの好きだし……喜んで協力してくれると思うわよ?」
 口元は笑っているが、目は笑っていない。それは、かなり本気でやる気だと言う事だ。
 なお、この男の言う「店のコ」は、中核を為す人達を除きほぼ人間。同族相手や白騎士などと言ったドーパント、果ては灰猫さんなどのオルフェノクが相手ならば、確実に全力で……それこそ本気で抵抗するが、普通の人間相手に本気は流石にまずい。
 ……いくら相手が体格のいいオカマさん、もしくはオネエさん達とは言え。
 思いつつも、私は観念して押し付けられた紙袋を受け取る。
 改めて中身を見るが……どこにこんな際どい服が売っているのかと聞きたくなるような物がぎっしりと詰まっている。売る方も売る方だが、買う方も買う方だ。そして、着る方もある意味同類だろう。
 ……と言う事は、嫌々ながらも着ている私も同類と言う事? あ、何か抜け出せない泥沼にはまっている気がする。
「ちなみに、袋の底の方にはアタシお勧めの香水と化粧品があるから。アミノ酸配合の、お肌に優しいって奴」
 ……壮絶にいらない。そもそも斗李の趣味と私の趣味は合致しない。
 と、心の中で思うのだが、それを口に出したらまた脅されるのが目に見えているので言わないでおく。
 私は淡い色が好きなのだが、ルージュの色に代表されるように、斗李の趣味は原色に近い赤が主流。それに伴い、服や化粧も色がきつくなりがちだ。
 はあ、と深い溜息を吐き出しながらも、私はその荷物を抱え、チェーンを外して斗李を奥へと招き入れる。
 曲がりなりにも兄なのだ。それも、帝虎とは違って忙しい合間を縫ってやって来てくれている。もてなしの一つもしないと言うのは、「ルーク」として……それ以前に妹として礼に欠ける。
 更に言うなら……これは長年の付き合いから来る勘なのだが、私の心配とか服を着せる為と言うのは口実であり、もっと他に重大な何かを伝えに来たのだろう。そうでなければ忙しいこの男がここまで来るはずがない。
 思いながら、紅茶と一緒に「午後のおやつに」と思って買っておいたロールケーキを差し出す。
 それにフォークを突き立て、一口だけ齧ると……彼は口元の笑みを消し、唐突に言葉を放った。
「硝子ちゃん、今アタシ、ビショップの奴を探しているんだけど……奴の居場所、知らない?」
 …………は?
 斗李の口からその名が出るとは思わなかったせいなのか、私は思わずぽかんと口を開け、斗李の顔を凝視する。
「ちょっと硝子ちゃん、アホ面になってるわよ?」
「アホ面は言いすぎです。しかし斗李があの男を捜していると言う事実に驚きを隠せませんでしたので、つい呆然と。というか、あの男……この街に居やがるんですか? うわ早々に潰さなきゃ」
「硝子ちゃん、眉間の皺」
 無意識の内に眉を顰めていたらしい。斗李に指摘され、慌てて皺を伸ばすが……すぐにまたきゅうっと皺が寄ってしまう。
 ビショップがこの街にいる? 冗談ではない。それでなくとも白騎士や人指し指と言ったドーパントなる厄介な連中もいると言うのに、それを更に上回る疫病神がこの街にいるとなると……私に平穏な日々など来ないではないか。
 何しろ奴は、「お土産」と称して毒入りショートケーキを勧め、「プレゼント」と称して刺客を送ってくるような男だ。
「ビショップの奴ね、アタシに『仕事』を頼む前、この街に行くって言ってたのよ。あの男、自分の言葉は曲げないのが信念じゃない? だから絶対に居るはずなんだけど……」
「仕事って…………あなたの副業の方ですか?」
「そ。いくら相手が硝子ちゃんでも、依頼の中身は言えないけどね」
 クス、と笑いながら、まるで内緒と言わんばかりに彼は人指し指を自分の口元に持っていく。
 ……彩塔斗李。表向きは先も述べた通りバーのママだが、本業はファンガイアの鎧技師である。ちなみに、それは末兄の帝虎と長兄の物磁も同じ。キングや王弟陛下の命が下ったり、繁忙期になると鎧技師としての仕事に従事する。
 ……とは言う物の、鎧技師としての仕事が来るなど、そう滅多にある事ではない。だからこそ彼らは「表向きの仕事」を持ち、人間社会に溶け込んでいるのだが……それとはまた別に、斗李には「副業」を持っている。
 それは「情報屋」。バーのママと言う立場上、様々な情報に触れる機会が多い。まして彼の構える店は、店員たちも独自のネットワークを持っている。かなりの精度の情報を取り扱うとして、様々な存在から重宝されているらしい。
 で、そのネットワークを使って、ビショップは何かを調べていたと。そして斗李も情報を得たは良いが……依頼主であるビショップの居場所が分らなくなったと言う事か。
「アタシの情報網を使って、硝子ちゃんと同じ風都には既に到着しているって言うのは分ったんだけど……その先がねぇ。思わず探偵さんに『探して』ってお願いしちゃった。言ってもこの街の事は専門外だし」
「はぁ……」
 曖昧に頷きを返し……
 ……いやいや、ちょっと待って私。今、「探偵に頼んだ」と……?
 そこまで考えが回ると同時に、私は頭を抱えて唸りたい衝動に駆られた。それでもそうしなかったのは、「ひょっとしたら違うかも」などと言う淡い期待を抱いているからに他ならない。
 一抹の不安を覚えながらも、私はじっと彼を見やり、自分でもはっきり自覚出来る程引き攣った笑みを浮かべて問いかけた。
「……まさかその探偵さんって……『鳴海探偵事務所』では?」
「あら、よく知ってるわね硝子ちゃん」
 ああ、だからなのか。翔太郎さんが私に疑いの視線を向けながら、「ビショップを知らないか」と聞いてきたのは。
 そりゃあそうね。何しろ私も斗李も「彩塔」と言う変わった苗字。真っ先に血縁関係を疑い、ひょっとしたら知っているかもしれないと言う期待を抱くだろう。実際、斗李とは血縁関係なのだし。
 心底落ち込む私に気付いていないのか、それとも気付いていてわざと気付かないフリをしているのか。斗李はうーんと唸ると、再び眉根を寄せてこめかみを押さえ込んでいる私に向かって、にっこりと妖艶な笑みを向けた。
 …………あ、嫌な予感。
「ビショップの居場所が分らない以上、アタシもする事なくて暇なのよ。今日はお店も任せちゃってるし」
 にじり。
 困ったように……しかしその声にいくらかの嘘臭さを滲ませ、斗李は私との距離を詰めにかかる。気が付けば両の腕は斗李によってがっしりと掴まれ、こちらの逃亡を阻止するかのように力をかけられていた。
 本気になれば振り払う事も出来なくはないのだが、恐らくそれよりも先に彼が動く方が早いだろう。
「と、言う訳で硝子ちゃん。アタシの見立てた服着て、撮影会と行きましょ」
「力の限りお断りします。というか断っている側からどこを触っているんですか、あなたは!?」
「いいじゃない、お互いの黒子ほくろの数まで知っている間柄なんだからぁ」
「っ!! 他人が聞いたら変な誤解を生むような発言はやめなさい!!」
「もう、暴れちゃだぁめっ」
 こっちの絶叫も何のその。語尾に八分音符、もしくはハートマークでも飛びそうな声でそう言うと、彼は持ってきた紙袋と人の服に手を伸ばし、人を勝手に着替えさせようとする。
 しかしこちらとてあんな服は着たくない。斗李の暇潰しで、着せ替え人形になどなってやる気はさらさらない。
 ……それからしばらくの間、「着なさい」「断る」のやり取りが続き、ついには互いに吸命牙を出す所まで行き着いた瞬間。
 ドンドンと勢い良く扉を叩く音と、どこか切羽詰ったような灰猫さんの声が耳に届いた。
「彩塔さん!? 何かあったのか!?」
 声の感じから察するに、あまりの煩さに苦情を申し立てようとチャイムを鳴らした物の、私達がそれに気付かずにひたすらドタバタ劇を繰り広げていた。ところが灰猫さんにはこちらの様子は見えていない。チャイムを鳴らしたのに出てこないどころか、室内でドタバタと乱闘めいた音が響いている。
 ……つい先日、白騎士に襲われたばかりと言うシチュエーションもあってだろう、心配した灰猫さんが現在玄関先で待機していると言う事か。
 そこまで考えつくのに一瞬の間を要し、扉を開けなければと思うのにもう一瞬。そして斗李を無視して玄関まで辿り着くのに数秒。
 合計しても十秒あるかないかの時間で何とか扉を開け、何でもないフリをして顔を外にのぞかせた。だが、そんな私の顔を見た瞬間、灰猫さんの顔色が目まぐるしく変わっていった。
 まずは安堵。恐らくこれは私が無事に顔を出した事に起因する。しかしその直後には何故か驚いたように目を見開き、更に次の瞬間にはまるで茹蛸のように真っ赤になって目を背け、そのまた一瞬後には何故か怒ったようにオルフェノクとしての彼の顔が表れた。
「頼まれた言伝ことづてを、って思って来たんだけど……ひょっとして俺、邪魔した!?」
「はい?」
「いや、凄ぇ髪が乱れてるし……それにその、服も……」
 そこまで言われ、私もはっと気付く。先程までの乱闘によって髪はボサボサに乱れ、服もあの馬鹿兄二号のせいで肩がはだけてしまっている。
 半裸とまでは行かないが、この格好では違う意味で「何かあった」と思われても仕方ない。
――あの馬鹿兄は……っ!――
 ふつふつとこみ上げる怒りを抑えつつ、どう弁解しようかと言葉を探す私。
 けれど何故か、上手い言葉が見つからない。何を言っても、言い訳にしか聞こえなくなるような気がして、思わず俯いてしまう。
 いや、何でこんな、自分が悪い事をしたような気分になっているのだろうか。例えて言うなら、昼ドラなどで見かける、不倫が見つかった妻のような?
 自分でも行動の意味が理解できず、不思議に思う。灰猫さんの方も、何を言えばいいのか困っているらしく、口を開きかけては言葉を飲み込んでいた。
 そんな、何とも言い難い空気が流れかけた、刹那。
 静かになったのを不審に思ったのか、この空気の元凶とも言える存在が、部屋の奥……私の背後からひょっこりと顔を出したのだ。
「あら硝子ちゃん、お客様?」
「……今更ですか。って、お客様の前で一体何をしているんですか!?」
「あらやだ、さっきも思ったけどやっぱり細くなってるじゃない」
 こちらの抗議をさらりと無視し、斗李は人の腰に腕を回すと、心底驚いたような……それでいてどこか羨ましげな声でそんな事を言い放つ。
 そんな斗李の姿を、灰猫さんはぽかんとした表情で見つめている。恐らく彼の美貌に見蕩れているのだろう。
 そう思うと……何故だろう、いつも以上に斗李の存在が腹立たしい。
 ムカムカとこみ上げる、胸焼けに似た感覚を覚えつつ、私はひらひらと灰猫さんの眼前で手を振る。その行為でこちらに気付いたのか、灰猫さんははっと息を呑んでから、私に向かって恐る恐る問いかけた。
「あの、彩塔さん。この人は……何?」
「あら、『何』とは失礼ね。せめて『誰』って言ってくれない? そもそも、あんたこそ何なのかしら? 硝子ちゃんの何よ?」
「俺は、その……隣人だけど」
「あぁらやっだぁ~。なぁんだ、そうなの、『ただの』お隣さんねぇ~」
「……何でだろう、いちいちムカつくな」
 ……あれ? 何だか、「いつものパターン」と様子が違うような?
 いつもなら、斗李の艶っぽさに惹かれて、大方の男性陣は鼻の下を伸ばして彼に媚を売るというのに……灰猫さんはそれとは逆に、喧嘩を売っているように見えるのは気のせいだろうか?
 斗李の方はあからさまに売られた喧嘩を三倍くらいにして売り返しているようにも見えるし……
「とにかく、彩塔さんが嫌がってるみたいだから、離れてあげて貰えないかな? 化粧臭い『お兄さん』?」
「……なんだ、こっちが男だと気付いていたのか」
 ……え? え? えぇ?
 気付いていた? 灰猫さんが? 斗李が、男だと?
 何だか訳がわからない。一体どうなっているのか……分らないまま、玄関先という狭いスペースで、男二人の間で、バチバチと火花が散っているような気がした。
 ……いい加減まともに服を着直したいんですけど。そもそも、灰猫さんのいう「言伝」って何?
 不思議に思う事がありすぎて、頭がパンクしそうになりながら。私は半ば諦めて、深い溜息を吐くのであった……
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