灰の虎とガラスの獅子

【C達の邂逅/越してきた女】

 常に風を感じられる街、風都。
 人は優しく、風はそんな人々の間をすり抜けて声を、そして気持ちを運ぶ。
 観光地と呼ぶほど栄えている訳ではないが、過疎化と呼ぶほど荒んでいる訳でもない。ごくありきたりな、「政令指定都市一歩手前」といった印象の街だ。
 大小取り取りの風車が多く存在し、街の名にふさわしく「風」を感じようとしているかよく分る。
 そんなこの街に、私はやって来た。
 それこそ風に呼ばれたように、ふらりと。
「風都……良い街だわ」
 軽く伸びをしつつ、私は新居……と言ってもマンスリーマンションだが……の窓を開け、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
 この街に越して、最も気に入ったのは、何と言ってもこの空気の心地良さ。
 今まで「ちょっとした事情」のせいで、様々な土地を転々として来たが、ここには長くいられそうな気がする。人は優しいし、何よりこの部屋から見える町並みと吹き抜ける風の心地よさが気に入った。
 一通りの片付けを終え、ベランダに出て眼下に臨む景色を何気なく堪能していると、隣の部屋の住人と思しき人物がひょっこりと顔を出した。
 ボサボサ頭で無精髭を生やしている上に、口には似合わないシガレットチョコを咥えている。煙草でない辺りが微笑ましい。髭のせいで少々曖昧だが、それを差し引いて考えるに、二十代半ばくらいだろうか。インドア派な風体の割に程よく筋肉がついている体、背はスラリと高く、整えれば結構なハンサムであろうに……勿体ない。
「んあ?」
 思わずじっと見つめていた私の存在に気付いたらしい。相手は妙な声を上げると、不思議そうな表情でこちらを見やり、器用に歯でチョコを押さえながら声をかけてきた。
「隣は空きだったと思ったんだけど……何だ、あんた越して来たのか?」
「あ、はい。つい先程」
 にこりと作った笑みを向け、私はその男に言葉を返す。同い年くらいと思われているらしく、話し方は割とフランクだ。
 それにしても、良い声をしている。声を聞いたらなおのこと、心の底から勿体ないと思う。先も述べたが、きちんと見目を整えれば、十中八九、女は振り返り秋波を送るだろうに。
 そんな私の思いに気付いているのかいないのか、男はふーんと気のない返事を返すと、咥えていたシガレットチョコを口から離し、これまた気怠そうに一言。
「俺は灰猫はいねこ……灰猫 きゅうだ。あんたにとっちゃ、隣人に当たるな」
 言いながら、彼は指で宙に字を書く。「灰猫」という苗字も変わっているが、「きゅう」と読んで「弓」と書く名も珍しい。そもそも「きゅう」という名自体、あまりお目にかからない。
「……あんたは?」
「あ、彩塔さいとう 硝子しょうこと申します。ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありません」
 問われてようやく名乗っていなかった事を思い出し、私も灰猫さん同様、宙に自身の字を書き、作り笑顔のまま深々と彼に向かって頭を下げた。
 私の場合、読みは普通だが漢字は間違いなく勘違いされる苗字だ。「さいとう」という読みは、通常ならば一般的な「斉藤」、あるいは「斎藤」程度しか思い付かない。稀に「西藤」なる字も見かけるが、私の「彩塔」はまず見かけないし、思いつきもしないだろう。私も自身の親類以外にこの字の「さいとう」を見かけた事がない。
「へえ。俺にも知り合いに『斉藤』ってのがいるけど、あんたのはまた一風変わった字だな。ま、人の事を言える身じゃないが」
 先程離したシガレットチョコを齧って短くしながら、灰猫さんは苦笑めいた笑みを浮かべる。
 確かに、灰猫さん自身もあまり見かけない字面だ。姓も名も。
「ところで、この街は気に入ったかい?」
「ええ、とても」
「そりゃあ良かった」
 私の答えに満足したらしく、灰猫さんはニンマリと笑った。笑い方を見ていると、まるで西部劇に出てくる悪役のようだ。無精髭のせいで余計にそう見えるのかもしれない。しかし、髭を剃ったらそれはそれでマフィアっぽい印象の笑みになりそうな気がするのは気のせいだろうか。どちらにせよ、「悪人っぽい」と思わせるには十二分な笑みだ。
 それがわざとなのか、あるいは意図せず地顔でそうなってしまっているのかは分からないし、興味もないのだけれど。
「俺はこの街で生まれ育ったからな。気に入ってくれるのは、嬉しい」
 悪役のような笑顔のまま、それなのに照れた少年のように彼はガリガリと後ろ頭を掻き、私に向かって言う。この街に誇りを持っているのだろう。生まれ育ったらしいのだから当然と言えば当然か。
 私は幼い頃から様々な土地を転々としているので、灰猫さんのように「誇りに思える場所」……「故郷」と呼び換えても良い場所が存在しない。だから、少しだけ……本当に少しだけだが、そんな土地を持つ彼が羨ましく思えた。そして、そんな風に言わしめるこの土地そのものに対しても。
「ここは風の生まれる街であり、風の帰ってくる街でもある。良い事もあれば、悪い事もあるし、面倒なことも色々あるが……まあ、概ね良い街だ。保障する。ようこそ、風都へ」
 風の生まれる街であり、風の帰ってくる街、か。
 そう表現できるという事は、それだけこの人はこの街が好きなのだろう。それも妄信的に好きという訳ではなく、光と影の両方の顔を持っている事を知っていながらも、好きと言える。それは、私が親類縁者に向ける情と、同じような物なのだろう。
 外見は少々残念ではあるが、良い人のようだ。直感でわかる。少なくとも「悪人」と呼ばれる類の人ではなさそうだ。笑い方はともかくとして。
 そう理解すると、相手に敵意を抱かせぬよう、私は作り笑顔をやめる。人の入れ替わりの多いマンスリーマンションとはいえ、どの程度の付き合いになるのか分からないのだし、善良な一般市民に対して作り笑いは失礼に値する。
「後で引越し蕎麦、お持ちしますね」
「お、ありがとさん」
 私の言葉に、やはり悪役めいた笑顔で彼はそう言うと……ふと、視線を私の顔から右手に移し、その表情を不思議そうなものに変えた。
 あ、しまった。
 と思った時には既に遅く、彼は不思議そうな表情のまま、私の右手を指さし……
「こんな事聞くの、失礼だとは思うんだけどさ。右手……どうかしたのか? そっちだけ手袋してるなんて」
 彼の指摘した通り。私は普段、右手だけに白い手袋をはめている。
 これにはちょっとした事情があるのだが、それを明かすのは流石にまずい。いや、まずくはないのだが、出来る事なら明かしたくない。
 彼にこちらの「事情」を話したところで理解は出来ないとは思うが、そこは私の気持ちの問題だ。
 そう思った私の表情が、暗いものに見えたのだろう。灰猫さんはばつの悪そうな顔になり、がりがりと頭を掻き毟ると、小さく一言呟いた。
「あー……悪い、プライベートだよな」
「すみません」
 私が謝った事で更に慌てたらしい。彼は、それこそ言い訳のように早口で言葉を並べ立てだす。
「いや、良いって。誰だって秘密の一つや二つ、抱えてるもんだろ? 俺だって、知られたくない秘密があるし。うん、今のはナシ。忘れてくれ」
 それだけ言うと、彼はばつが悪そうな表情のまま、「それじゃ」と言って部屋の中に引き返してしまった。
 ……申し訳ない事をしたと思うが、右手の「これ」は、知られるべきではない。例え、彼がこの下に隠されている、「紋章」の意味を知らなかったとしても。

 さて、私……彩塔硝子は、「事情」のせいもあって定職には就いていない。所謂フリーターだ。様々なアルバイトを掛け持ちして、それで生計を立てている。
 故に、色々な職を経験している。スーパーのレジ打ちは勿論のこと、少々特殊な「マグロ」の処理まで。振り返れば人が忌避するような仕事が多かったように思えるが、そういう仕事ほど実入りが良かったりする。
 しかしながら、この街にはそういった「忌避したい仕事」自体が少ないらしい。数日、色々な所を回って見つかった仕事は、本屋のアルバイトと派遣清掃員の仕事の二つだけだった。
 まあこのご時世、仕事にありつけるだけマシか。
 などと思いながら、本の陳列に勤しんでいた時。ふと、平積みになっているファンタジー小説に目を止めた。
 帯の煽り文句には、「主人公の苦悩が深く描かれた傑作!!」の文字が躍り、ポップにも「サイコーに泣ける」とか書かれている。何よりも目をひいたのは、その小説の作者名。
 ――刃稲 虎丘――
 読みは「はいね こきゅう」だろうか。つい最近、どこかで聞いたような音だが……はて?
「彩塔さん、その本読んだ?」
「……いえ、まだ」
 疑問に思い、首を傾げていたところ、額の広い店長に問われ、私は正直に首を横に振る。すると彼は、それはもう物凄い勢いで両目を開くと、その本を一冊、私にぐいぐいと押し付けて熱弁を奮い始めた。
「これはね、ある事故を境に、人間から化物になってしまった青年が主人公なんだ」
「化物……ですか?」
「そう。人間の中で穏やかに暮らしていきたい、だけど今の自分は人間ではなく化物。……バレたら、どれ程仲の良い人も彼から遠ざかってしまう」
「はぁ……」
「でもね! それでも主人公は、自分の正体がバレても良いから、人を守りたいと思って戦うんだ。涙なくして、この物語は読めないよ!!」
 どうやら店長、この本の熱烈なファンらしい。声の中には熱狂的なファン特有の、盲信的な「愛」が満ち溢れている。
――人間の中で、穏やかに暮らしていきたい異形の物語、か――
 心に苦い物がこみ上げるが、それを表に出す程私は未熟ではない。にこやかな作り笑顔を店長に向け、馬鹿っぽく「そうなんですか、面白そうですね~」と言葉を返しておく。
 こういう時は、馬鹿を演じておいた方が無難である事を、私は知っている。下手に否定の言葉を口にすれば、居辛くなるからだ。
「彩塔さん、これあげるから読んでみてよ。丁度明後日、うちで刃稲先生の『サイン会&握手会』もあるんだし」
「え?」
「あれ、言ってなかったっけ? 何でも、先生が風都の出身らしくてね。その縁で、この店でサイン会を開くことになったんだ」
 突然告げられたイベント事にきょとんと目を見開けば、店長の方は軽く首を傾げながら自身の記憶を辿るようにうーんと唸り、口の中で言ってなかったかなぁ、と呟いた。
 サイン会などという大きなイベントがあるなど、普通は聞かせる物だと思うのだが……そこはこの街の人間性なのか、割と伸びやかな……悪く言えば抜けている所である。そもそも、売り物なのに「あげる」というのは大丈夫なのだろうか。ちょっと心配。
「まあとにかく、そういう事だから、明後日は忙しくなると思うけど……よろしくね」
「はぁ……」
 気のない返事を返しながら、私は押し付けられた本をじっと見つめる。
 本当は、あまりこういった小説に興味はないのだが……あらすじを聞いた限りでは、読んでみるのも良いかもしれないと思えた。
 どの程度、「異形の心情」が書き表せているのかを、確認したくなったのかもしれない。

 家に帰りつくなり、私は勧められた本のページをめくり始めた。
 あの後、きちんと購入すると店長さんには言ったのだが、結局
「あげるよ! お金の事は気にしないで。僕が出しておくから!! それに、彩塔さんは引っ越してきたばかりで何かと物入りでしょう? こんなところでお金を使っちゃ勿体ないよ! 次作から購入してくれればいいから!」
 と熱弁を奮われたので、その厚意に甘えてしまった。本当に、この街の住人は人が良い。
 さて件の小説。その大まかな筋はこうだ。
 主人公の青年は、何者かに階段から突き落とされ、運悪くその生を終えた。……いや、終えたはずだった。しかしその「死」がきっかけとなり、青年は「人間と虎の力を併せ持つ異形」として蘇る。
 普段は生前と同じ、人間の姿で生活できるのだが、感情の昂ぶりで異形としての姿を見せてしまう。
 彼に人間を襲うつもりなどないのにも関わらず、「異形」としての自分の姿を見た人間は、皆口汚く彼を罵り、迫害する。彼とて望んで変化した訳ではないのに。
 人間に守る価値などあるのだろうか、いっそあのまま死んでいれば良かったと苦悩しながらも、それでも人間を愛して止まない彼は、人間の中で生きようと努力する。
 だが、「異形」と化したのは彼だけではなかった。他にも「死をきっかけに、人間と動植物の特性を持ち合わせるようになった異形」が存在しており、しかも彼らは人間を「下等生物」と決め付けて人間に襲い掛かる。
 悩み、苦しみながら、それでも彼は「同族」、あるいは「同類」とも呼べる者達から、人間を守ると決めた。
 ……守った相手から迫害されながらも、そして己の持つ「異形」としての力を忌み嫌いながらも、青年はその力を使って人間を襲う「異形」達と戦う。人間という生き物に対して、何度も絶望しかかりながら、それでもいつかは受け入れて貰えるかもしれないと信じて。
 ……とまあ、そんなストーリーだ。
 ヒトから異形へ変わってしまった青年の苦悩が、緻密な描写で描かれている。同時に、自分と同じように「異形」と化した者……即ち、同族と戦う事になった悲痛な決意も、私には痛々しかった。
 成程、確かに泣ける話だ。想像の産物にしては、よく出来ている。主人公の設定が「生まれながらの異形」でない辺りが、人気の秘訣か。ヒトではないものに変わってしまった恐怖は、読んでいるこちらが身震いするほど克明に描かれていた。
 唯一の難点は、ファンタジー物には大抵付いて来る「恋愛要素」がない事だろか。物語に対しては「恋愛要素」を求めてしまう性格であるが故に、それが少々残念でならない。
 図らずも一気に読みきってしまった私は、軽く一つ息を吐き出す。無意識の内に、緊張していたらしい。肩が痛いし目の奥は重い。何より、この作品に登場する人間達への後味の悪さが残っている。
「……疲れた……」
 そう、ポツリと呟いたその時。部屋のチャイムが鳴った。
 誰だろう?
 不思議に思いつつ、ドアスコープを覗くと、そこにはボサボサ頭に無精髭の青年……お隣の灰猫さんが、手に何やら持って立っていた。見たところ、お裾分けの定番である肉じゃがだろう。
「はい?」
「ああ、こんばんは。ちょいと作りすぎたんで、お裾分けに」
 出てきた私に、彼はずいと小鉢を差し出す。
 ふわりと、出汁のきいた良い香りがする。これだけを見る限りではだが、随分と料理上手なようだ。外観に頓着していない様子だったので、てっきり食事は出来合いの物を購入しているとばかり思っていたのだが。
 人は見かけによらないとはこの事か。
 そんな、物凄く失礼な事を思いつつ、しかしそんな事はおくびにも出さず小鉢を受け取ると、私はにこやかに礼を言う。
「ありがとうございます、灰猫さん」
「……信用してくれているのはありがたいけどさ。アンタ、無用心だ」
 眉を「へ」の字にして、灰猫さんは呆れと微かな怒りの混じった声で言った。
 ……言われてみれば、確かに無用心かも知れない。いくら相手がご近所様であるからとて、何の警戒もなく扉を開けてしまったのだから。
 一般的な女性なら、もう少しこう……チェーンをかけた状態で、完全に扉が開かない状況を作ってから顔を見せるだろう。思い付いても実行しない時点で、やはり私は「一般的」からはかけ離れているようだ。
 そして灰猫さんも同じ事を思ったらしい。やはり呆れと怒りの入り混じった声のまま、言葉を続けた。
「仮に俺が、あんたを襲うつもりだったらどうしたんだ?」
「そうですね……返り討ちにしました。これでも、腕には覚えがありますから。並の人間相手ならば、ある程度対処できると自負しています」
 これは、嘘偽りのない本心だ。相手が並の……普通の人間なら私の敵ではない。何故なら私は……
「……存在するのが人間ばかりとは限らない。特にこの街はな」
「え?」
「とにかく、気をつけた方がいいぜ? 最近、特に若い女ばかりを狙う通り魔が出没してるって噂だ。警戒するに越したことはない」
 それだけ言うと、彼はひらひらと手を振って自室へと戻って行ってしまった。
 えーっと、警告してくれたのよね、多分。一般的に見て、あまりにも不用心すぎたから。
 やはり悪い人ではないようだ。悪ぶってはいるようだが。
 改めて灰猫さんに対してそう認識しつつ、自分も自室に戻り、先程の彼の言葉を反芻する。
――人間ばかりとは限らないんだ。特にこの街はな――
――最近、特に若い女ばかりを狙う通り魔が出没してるって噂だ――
 この街は「人間以外の者」が、そんなに大勢いるのだろうか。
 そもそも私は「若い女」という範疇に当てはまるのだろうか。
 うーん、と唸りながらも、結局私は頂いた肉じゃがをおかずに、食事の支度を始めた……のだが。
「なっ……お味噌が、きれてる……っ!」
 漫画の類ならばこういう時、きっと私の後ろに稲光が走り、「ガーン」という効果音でもつくのだろう。それほどまでに、私が受けたショックは大きい。
 事もあろうに、調味料の「さしすせそ」の「そ」である味噌がない。ああ、そういえば先日使い切ったんだっけ。
 しまった、これではお味噌汁が作れない。私の元気の源がっ!! おかずは抜いても問題はないが、味噌汁は別だ。アレを欠かすと禁断症状が出て暴れてしまう。
 くぅ、と悔しさのあまり微妙な声を上げると、私は財布を持って近くのコンビニに駆け込む。ご近所の人に分けて頂くのも一つの手だが、味噌には好き嫌いや個人の好みがある。できる事なら自分で選んだものを使いたい。
 一番近い場所にあるコンビニに売っていてくれて、本当に助かった。後は家に帰って頂いた肉じゃがを温めなおし、お味噌汁を作れば良い。実はキャベツとワカメと鞠麩辺りが良いだろうか。毬麩のストックならまだあったのは確認済みだ。最低限それさえあれば十分だろう。
 などと、ホクホクしながら家路に就こうとした瞬間。
 街灯が一斉に消えた。まるでスイッチを切ったように。
 停電ではない。それなら周囲の家々の電気も消えるはずだ。だが、遠目に見える家の電灯は消えていない。
 ……嫌な予感がする。長年の勘のような物が、私の体に警戒態勢をとらせる。
――最近、特に若い女ばかりを狙う通り魔が出没してるって噂だ――
 まったく、なんという事か。通り魔は通り魔でも、普通の通り魔じゃない。一度に街灯を消す事が出来るような人間がいるなど、そもそも聞いた事がない。
『夜遊びはいけないって、ママに教わらなかったのかな?』
 くぐもっているが、どこかこちらを馬鹿にしたような低い声が聞こえる。周囲に反響して、どこから声をかけられているかわからない。
 一般的な事を言うならば、星明りだけの闇の中で、どこにいるかもわからない相手に声をかけられれば、恐怖で身を竦ませるだろう。うら若き女性なら尚更。
 しかし残念な事に、私は「普通」ではないし、「うら若き女性」でもない。実年齢よりも年少者に見られることが多く、やや童顔である事実も否定しないが。
 少々なんて言葉では済まされない程度にお転婆である自覚もある。
「生憎と、母はそういった事は教えてはくれませんでした」
 半ば挑発するように言いつつも、ゆっくりと周囲を見回し……そして少し離れた場所に一つの影があるのを見つけた。
 遠目、かつまだ目が闇に慣れていないので細かくは分からないが、間違いなくヒトとは異なるシルエット。「怪人」とか「怪物」とか「異形」とか、そう呼ぶに相応しい存在だろう。
 人間との共通点など、二足歩行である事と腕が二本ある部分だけだ。他はどう見ても違う……と、思う。
――人間ばかりとは限らない。特にこの街は、な――
 成程、アレはこういう意味だったのかと納得すると、私はそのシルエットの正体を見極めるべく、更に目を凝らす。
 尖った両腕に、雷神様のような太鼓状の何かが背にある。よく見ればパチパチと体から放電しているらしい。僅かではあるが、青白い火花が散っているのが見える。
『生意気だな。まあ良い。夜遊びする女には……お仕置きだぁっ!』
 言うが早いか、異形の影は真っ直ぐに私に向かって駆け寄ってくる。
 青白い火花は激しさを増し、こちらの網膜が軽く灼かれて光の残像が目の奥でちらつく。
 厄介な、と眦が吊り上がるのを感じるがこの際仕方がない。倒すしかないか。
 正直、ひっそりと穏やかに暮らしたい身としては、あまりやりたくはないのだが。
 そう思い、右手の手袋を外した瞬間。
 異形の足元に一本の矢が突き刺さり、同時に私の体は何者かによって後ろに引っ張られた。
『な、何だ……!?』
 異形の驚きの声が聞こえる。だが「何だ?」は私の台詞だ。
 一体誰が助けてくれたのか。
 助けてくれた人物の気配を感じなかったのだが、一体いつからいたのか。
 そして、矢を放ったのは私を引き寄せた人物と同一人物なのだろうか。
 色々と不審に思いながら、私は自分の後ろに立つその存在の方を振り返る。そして視界に入った存在もまた、異形だった。
 「雷神様」とは違って、今度の存在は至近距離にいる為、星明りだけでもはっきりと分かる。
 ……灰色の「虎人間」。世間一般で言う「獣人」のイメージを、そのまま形にしたような者。ただ、体毛はなく形状がそれに似ているだけではあるが、それでも「虎人間」と呼んで差支えない外見を持っている。おまけにその姿は、先程読んだ小説の主人公を髣髴とさせる。
 それが、弓矢を持った状態で、異形と私の間に割って入っているのだから、少なからず驚きを覚える。
 反射的にそっとその手に触れれば、その肌からは人肌のような温かさと、鎧のような硬度が感じ取れた。外殻と皮膚の両方を兼ね備えたような触り心地だ。
 こちらが触れた事に驚いたのか、「虎人間」は一瞬びくりと身を震わせると、触れていた手を引っ込めて私を見下ろす。
 星明りの下で見えた表情は、怒っているような、怯えているような……何とも不思議な顔に見えた。
 他に人影もないし、恐らくはこの「虎人間」が矢を放ち、助けてくれたようだ。何だろう、なおの事あの小説の主人公を髣髴とさせる。ひょっとすると、あの小説のモデルはこの「虎人間」ではなかろうかと思える程、イメージがぴたりと一致する。
「夜道を一人で歩くな。アンタって本当に無用心だな」
「ああ……すみません。お味噌を切らしてしまっていたもので」
 にこやかな笑顔と共に言葉を返してやると、「彼」は呆れたような何とも言い難い深い溜息を一つ吐き出し……そして、ギロリと「雷神様」の方を睨みつけた。
『貴様……邪魔をしやがって!』
「邪魔もする。この街で通り魔とか……俺の誇りが傷付く」
 怨嗟にも似た声を上げる相手に怯む様子もなく、「虎人間」は呆れたような、悲しんでいるような、何とも言えない声を返す。
 助けてくれたのは結構なのだが……戦闘態勢に入っていた、私のこのモヤモヤはどうすれば?
 呑気にそんな事を考えながら、私はぼんやりと彼らの様子を眺めていた。
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