恋已 ~こいやみ~ 「真白き翼の裁き」外典

「あら、闇爾。偶然ね、こんなところで」
「っ!」
「あんたねぇ。そんな声も出ないくらい驚かなくてもいいじゃない。それとも何? 何かやましい事でもある訳?」
 ミラーワールドから出てきた瞬間、目の前に、ミホがいた。
 きょとんとした表情を見せていると言う事は、俺と紅騎の戦いは見ていないのだろうか。
 ……多分、見ていないのだろう。そうでなければ、こんな風に「いつも通り」に声をかけたりはしない。何しろさっきまでの俺は、俺自身でもおかしくなっていたと分かるくらいなんだから。
 それでも近寄ってくるって事は、こいつは俺と紅騎の会話を知らないとみていい。
 なら、ちょうどいい。もう少し、俺に心を寄せさせるには。
「俺……さっき、紅騎を脱落させた」
「……は!? 何で!? あんたと城戸さんって、仲間だったんじゃないの? てっきり最後まで執拗に二人組で狙ってくると思ってたのに」
「紅騎の方から襲ってきたんだよ。紅騎の目的のためには、俺は邪魔だったらしい」
 俺の予想通り、ミホは信じられないと言わんばかりの表情で俺を見上げ、軽く眉を顰めた。
 一方で俺も、首を横に振って俯きながら言葉を返す。
 嘘はついていない。紅騎を脱落させたのは俺だし、実際に襲ってきたのも紅騎が先だ。紅騎の目的……「ミホを勝たせるため」に俺が邪魔だったのも事実。
 俺の本音も、紅騎の想いも、全部全部隠した状態での言葉だが、それをどう受け取るかは、ミホ次第と言うだけだ。
 そして……恐らくこういう言い方をすれば、ミホは俺に向かって同情する。
「……正当防衛でしょ」
「だが、俺が脱落させたのは事実だ」
 ほら、やっぱりな。
 内心ほくそえみながら、俺は更に顔を俯かせて絞り出すように声を返す。
 上手くいきすぎて笑いが込み上げる。そのせいで声と肩が震えたが、ミホの事だ。きっと俺がひどく悔やんでいると勘違いしているだろう。事実、ちらりと視線を送れば、困ったように視線を泳がせてちらちらと俺を見ている。
 ああ、本当にこいつはどこまでも愚かだ。
 騙されている事に気付かず、無条件に俺を信用して、困惑する。その顔も好きだが、やはりあの時見せた人形のような表情はまた別格。
 その信用こそが、最大の絶望になると気付いていない。それがまた愚かしくて笑いがこみあげてくる。
 だけどそれと同時に、本当にこれで良いのかと問う自分がいる事にも気付く。
 確かに俺は、こいつに依存してほしい。愛おしいのは絶望で塞がれた表情を浮かべるミホだ。それは間違いない。
 それなのに、こうやって元気なミホを見ていると安心する。紅騎じゃないが、その強さは羨ましいとさえ思う。
 心を圧し折ってやりたいと言う欲望と、俺なんかに折られて欲しくないと言う願望が同居して、苦しい。
 ミラーワールドで紅騎と戦っていた時は、どす黒い欲望しかなかったのに。
「……なあ、ミホ」
「何」
「俺が、物凄い危険な思考を持った人物だとしたら……どうする?」
 気が付けば、俺の口は勝手にそんな事を言っていた。
 ミホの顔を見れば、きょとんと俺を見上げている。
 何を言ってるんだ、俺は。そんな事を言えば、ミホは俺に疑いの目を向けるじゃないか。折角ここまで信頼させる事が出来ているのに。折角もう少しで圧倒的な絶望を与えられそうなのに。
 ……なのに、どうして俺は。
 俺から逃げてほしいと、思っているんだ?
「うーん、そうねぇ……」
 ミホは唸りながら、軽く口元に指を当て、考え込むような仕草を取る。だが、やがて答えが出たのだろう。うん、と一つ頷くと、ニヤリとした笑みを浮かべ……そして俺の胸座を掴んだかと思うと、今しがた出たばかりらしい答えを口にした。
「後悔してもらうわ」
「後悔?」
「そ。そんな考えを持った事が間違いだったって思うくらいの、物凄い後悔をしてもらうつもりよ」
 何故だろう。今、目の前にいるミホの表情は、俺の知らない物に見えるのは。
 答えている表情は、いつものように生意気で不敵なものなのに、どこか異様に悪人めいているようにも見える。いや、悪人めいていると言うよりは……歪んでいる? それとも、達観している?
 俺の知らないミホの表情?
 そんな物、あったのか?
「そもそも、人間なんて大なり小なり危険な考えを持っているイキモノなのよ。実行するかどうかはともかく」
 困惑する俺をよそに、ミホはパッと俺から手を放すと深い溜息を一つ吐き出し……
「……あんたは、タガが外れた時が面倒臭そうよね」
 そう小さく呟いたのだった。

 紅騎の脱落から数日。
 俺は改めて、自分が何をしたいのかを、近所の公園でぼんやりと考えていた。
 紅騎と戦っていた時は、確かに独占欲に駆られていた。どす黒い感情が渦巻いて、ミホを絶望させたい、俺だけの人形にしたいと言う欲望に支配されていた。
 自分の中にそういった感情がある事は薄々感じていたし、この間それが顕在化してしまった事で自覚もした。
 俺は、白鳥ミホを、絶望させたい。それも、俺のせいで。
 しかも絶望した彼女に頼って欲しいと思っている。どんなに俺を恨んでいても、憎んでいても、それでも俺だけを頼るしかない状況に置いておきたい。
 そんな風に思う一方で、元気になったあいつにほっとしている自分がいるのも確かだ。
 憎まれ口を叩き、男から「扱いづらい」と思われていてこそ「白鳥ミホ」だ。それがあいつの個性であって、「あの時」のミホはミホらしくない。
 らしくないからこそ惹かれたのだろうとは思う。だが、同時に違和感もあった。憎まれ口を叩かない、弱々しい姿のあいつは、果たして「白鳥ミホ」と呼べたのだろうか。
 ……俺が欲しいのは、白鳥ミホなのか、それともただ絶望に打ちひしがれている人形なのか。
 紅騎と戦っていた時は、自信を持って言えた。「絶望に打ちひしがれた白鳥ミホが欲しい」と。
 だが、日が経つにつれて分からなくなってきている。本当に俺は、ミホに絶望してほしいのか、と。
 元気になったあいつを見て、安心していたはずなのに。
「何なんだ、このよく分からない思考……」
 吐き出すように言いながら、俺はぐしゃぐしゃと頭を掻き毟る。
 自分でも分からない。どれが俺の本音で、どれが本当に望んでいる事なのか。
 笑ってほしいのか、泣いてほしいのか、それともそんな感情すら見せないくらい壊れてほしいのか。
 そのすべてを望んでいるようにも思えるし、どれも望んでいないような気もする。
 ただ、裁判が始まってすぐは……その頃は、間違いなく「元気になって欲しい」、「張り合いがない」と思っていた。それは確実だ。
 ……一体、いつから俺の考えは変質してしまったのか。
 そんな風に悩んでいると、ふいに俺の頭上に影が降りた。訝しく思って顔を上げれば……そこにいたのは、白いコートを纏い、どこか真剣な表情でこちらの顔を覗き込んでいるミホだった。
 見慣れない表情を浮かべているせいで、悩みすぎてとうとう幻でも現れたかと思ってしまったが……どうも、本物らしい。
「……ミホ」
「来て早々に突然だけど……闇爾、決着をつけない?」
「……は?」
 こちらにデッキを突き付けてきたこいつの顔に、いつものような生意気そうな不敵な笑みはない。
 本気で言っているのだと理解したものの、何でいきなりそんな事を言い出したのか、見当がつかない。
「……いきなりどうした?」
「だって、残ってる裁判員は闇爾、あんたと私だけなのよ」
「どういう事だ? まだオーディンが残ってるだろ?」
「残ってないわ。…………私が倒したもの」
 いつもよりも少し低めの声で宣言され、俺は完全に言葉を飲み込む。
 ミホが、オーディンを倒した?
「倒せたのか? だって、奴の戦い方は未知で……」
「倒したって言ってるでしょう。この上なくギリギリで、だけどね。そもそも、裁判の初期は誰もが未知の存在だったから今更って感じでしょう」
 信じられず、きょとんと見上げる俺に、言葉だけならいつも通り生意気な……だが表情は相変わらず硬いまま、ミホはそう返した。
 オーディンが見かけほど強くなかった……と言う可能性がちらりと頭をよぎるが、よく見ればミホの顔には薄いかすり傷のような物がついている。デッキを握る手にも血が滲んだような跡がある。
 通常の戦闘において、肉体まで傷を負う事は少ない。ほとんどのダメージは鎧の方が吸収してくれるため、痛みは感じるが怪我はしないのがほとんどだ。
 それなのに、怪我をしている。と言う事はそれだけオーディンの攻撃は激しかったと言う事。
「と言う訳で、否が応でもあんたと戦わなきゃいけなくなったって訳」
「別に、今じゃなくても良いんじゃないか? お前の怪我が治ってからでも……」
「今じゃなきゃ、ダメでしょう。『最後の二人になった場合、決着は二十四時間以内につける』って規約があるんだから」
「あ……」
 そう言えば、そうだった。
 裁判の規約に、確かに書かれていた。
 「裁判員を殺害してはならない」こと、そして「最後の二人になった際は、二十四時間以内に決着をつけ、判決を下すこと」が。
「あんたを探してたから、残り時間が減ってるのよ。と言う訳で……戦え、闇爾」
 ずい、と俺の鼻先にデッキを押し付け、ミホは低い声で言う。
 命令形か、といつもなら突っ込むところだが、何故だろう。今のミホには妙な気迫がある。
 絶望からは程遠い。今のミホを紅騎が見たら、ますますおかしくなると確信できる程の「強さ」を持っているように見えた。
 …………だからこそ、圧し折りたい。
「大事な、とても大事な籠の鳥。元気でいて欲しいけど、逃げて欲しくもない場合は……どうしたら良いんだろうな?」
「は?」
「ああ、そうだ。……飛べないように、風切羽を切れば良いんだ。そうすれば、放しても逃げられない」
 ミホがこれ以上元気になったら、俺の手の届かない所に自力で向ってしまう。
 ……そんなのは、駄目だ。許さない。こいつを守るのは俺で、こいつは俺の手の届く範囲にいなきゃ駄目なんだ。
 だから……絶望、してくれ。自力で立とうとは二度と思えないくらい、深くて暗い闇の中に堕ちてくれ。
 先程まで悩んでいたのが馬鹿らしく感じる。結局俺は、壊れたこいつを愛でたいのか。
「ああ、分かった。……決着をつけよう。勝たせてもらうぞ、ミホ」
「……ま、被告はあんたのお兄さんなんだから、その反応は当然よね」
「兄貴? …………ああ、兄貴な。うん、そうだったよな。……これは、兄貴への判決を賭けた戦いだったんだよな」
 ミホに言われて、ようやくこれが兄貴の「無罪」を勝ち取るための裁判だったことを思い出す。
 何てこった。当初の目的を忘れていた。
 俺にとって兄貴は、大切な家族だと言うのに、その彼を差し置いてミホを絶望させることだけを考えていた。むしろ、兄貴の「無罪」を勝ち取ると言う目的が、ミホを絶望させるための手段に変わってしまっていた。
 何で? おかしいだろう。紅騎じゃないが、参加当初は純粋に、兄貴の「無罪」を得るために行動していたはずなのに。どこで優先順位が変わったんだ?
 兄貴の事すらどうでも良くなるほどに、俺はミホを絶望させたいのか?
 頭の中で天秤が揺れる。兄貴とミホ、どちらを取るか、と。
 ……だけど、ほんの少しだけ。人形に戻ってしまえばいいという願望の方が強かったらしい。ゆっくりとミホの方を見やれば、彼女は何かを堪えるように目を伏せ……
「…………暁さんの事すら、どうでも良くなったの? そこまで進行しちゃったの?」
「え?」
「なんでも、ない」
 小さく呟かれた言葉に、俺は一瞬戸惑う。
 まるで心を読まれたようなタイミングと、一瞬だけ見せた泣きそうな顔。そして何より……ミホが兄貴の事を、「緋堂」ではなく「暁さん」と……ミキさんが亡くなる前の呼び方に戻っていた事に対して。
 どうして? ミホは兄貴に「有罪」を突き付けたいと言っていたのに。それってつまり、兄貴がミキさんを殺したと思ってるって事のはずだろう?
 不思議に思う俺をよそに、ミホはすたすたと近くの電話ボックスに自身の身を映してデッキをかざす。直後、ミホの腰に巻かれる銀のベルト。それを確認するや、彼女は両腕を自身の胸の前でクロスし、鳥が翼を広げるかのようにゆっくりとその両腕を広げた。かと思えば、瞬時に左手を左腰に、右手を左胸の前に持っていき……
「変身!」
 掛け声とともに、彼女の姿が変わる。
 着ていたコートと同じ、白い鎧。鳥の羽根のようにふわりとたなびくマント。ミラーワールドでは彼女の相棒であるブランウィングが、待ちわびていたように一声啼いた。
 決着を、つけるしかない。
 ミホを絶望させなければと言う謎の強迫観念に駆られながら、彼女の隣に立ってデッキをかざす。
 左手を左腰に添え、右手で拳を握って肘から先で円を描くようにぐるりと回す。そして腕を眼前で止めて宣言した。
「変身!」
 俺の着ていたコートと同じ、黒い鎧。ファムのマントよりもやや堅そうな印象のマントが、ばさりと音を立ててひらめく。
 こうやって並ぶと、本当に対照的だ。白と黒、明と暗、男と女。武器もバイザーも、機構すらも似ているのに、決定的に違う部分もある。
 俺達と言う存在そのものと、同じように。
 心の中で苦笑しつつ、俺は……いや、俺達は同時にミラーワールドに向けて足を踏み入れる。
 当然、到着も同時。片足がミラーワールドに入り込んだ瞬間に腰に提げていたバイザーを引き抜き、隣に立つ真白の鎧に向かって切りかかる。
 だが、そちらも同じことを考えていたようだ。肩口に切り込むつもりだった切っ先は、俺とミホの丁度中間で、ミホのバイザーによって止められていた。
「……流石、と言わせてもらおうか。これを止めるなんてな」
「あんたの考えなんてお見通しなの……よっ!」
 言いながら、ミホは一度ぐっと剣に力を込めると、突き飛ばすようにして俺の剣を弾き、その反動で後ろへ飛んで距離を取る。
 純粋な腕力なら、自分に利がない事を分かっているのだろう。おまけにあいつはオーディンと倒したばかり。体力だってかなり消耗しているのは、先程の一合で把握している。
 ……とは言え、だ。ミホの扱うファムの鎧も、俺と同じく剣戟が主体のデッキ。剣と剣でのぶつかり合いになった場合、当然ある程度腕力がモノを言う。
 互いの行動パターンが読めているならなおの事。ならば次にミホが取るであろう行動は……
 考え、俺は一枚のカードをデッキから取り出す。
『SWORD VENT』
『SWORD VENT』
 全く同じタイミングで、同じ電子音が響く。それを聞いてミホが舌打ちしたように聞こえたが、それもまた予測済みだ。
 ……腕力に任せた攻撃をしなくてはならない場合。ミホは大抵において、腕力がなくてもある程度の破壊力がある武器……薙刀を使う。
 てこの原理を応用できるし、何より間合いが広く取れるからと言うのが理由だ。そして、同じ理由で俺もソードベントを使う事が多い。俺のソードベントも長物だからだ。
「考えがお見通しなのは、お互い様だ」
 言って、こちらから距離を詰める。
 貫く事に特化した俺の剣と、打ち据える事に特化したミホの剣。
 再びぶつかり合い、今度は先程よりも鈍い音が数回響く。やはり、腕力の面においてはミホの方が数段劣る。それは手応えからも実感できる。
 それでもこちらから決定打が繰り出せないのは、ミホが薙刀をバトンのように回転させて扱っているからだ。
 腕力のなさを逆手に取り、こちらの攻撃をさらりと受け流す。そして薙刀を回転させ、遠心力を付加した状態でこちらに向かって斬り返す。疲労しているはずなのに、その動きはまさに白鳥のごとく優雅で軽やかだ。
「お前に、バトントワリングの経験があったとはな」
「淑女の嗜みよ。これでも高校時代、チアをやってたんだから」
「どうせミキさんみたいな人に憧れて……ってトコだろ?」
「だとしたら、何か問題ある?」
 疲労している割に、妙に余裕を含んだ声を返される。恐らく仮面の下では不敵に笑っている事だろう。こっちの攻撃が通らない、通るはずがないと思っているのかもしれない。
 実際、こちらの攻撃は全ていなされている。それどころか逆に回転した薙刀の刃が、薄くではあるが俺の鎧を傷つけている。
 ……このまま打ち合っても、恐らくずっと受け流されるだけだ。接近しての攻撃は厳しい。
 何合目かの打ち合いでそう判断すると、先程とは逆に今度は俺が後ろへ飛んで距離を稼ぐ。が、俺もただで下がる訳じゃない。着地と同時に持っていた剣を槍投げの要領でミホに向かって投げつけた。
「うわちょっと危なっ!」
 流石に剣を投げるとは思っていなかったらしい。苦情にも似た悲鳴を上げ、左に飛んでその剣を躱す。
 だが、温い。
『ADVENT』
 間髪入れず発動させたカードの効果に呼ばれ、ダークウィングがミホの死角を突いてその身をぶつける。
 当然と言うべきか、突然すぎる攻撃に対処しきれなかったミホの手から、薙刀が落ちる。同時にダークウィングの突進の威力からか、跳ね飛ばされるような恰好でミホの体が宙に舞い……
「チッ」
『ADVENT』
 着地直後の無防備なところを攻撃してやろうと言う俺の目論見に気付いていたらしく、即座にあちらもブランウィングを呼んで空中で方向転換、俺から少し離れた位置に着地した。
「淑女が舌打ちするなよ」
「したくもなるわ。……こっちの貴重なカード使わせやがってこの野郎」
 頭痛を堪えるようなしぐさを取りつつ、彼女は溜息混じりに呟く。
 淑女を自称する割に、言葉遣いが少々乱雑に聞こえるが……これはかなり焦っている証拠だ。
 九分五十五秒と言う制限もあるが、それ以前にミホのデッキはカードの種類が少ない。剣戟主体だから「撃つ」為のカードであるシュートベントは持っていないし、ナスティベントやトリックベントと言った特殊なカードもない。
「なあミホ」
「何?」
「俺は、落ち込みすぎて人形めいたお前が、好きだ」
「……それはまた、悪趣味この上ないわよ闇爾」
 本気の願望を口にしたつもりだったのだが、ミホにはいつもの軽口だと思われただろうか。
 溜息混じりで言葉を返され、少しだけ苛立ちを感じた。
 何でそんなに、俺を信用してるんだよ、と。
 勿論、信用してもらっているからこそ、裏切った時の絶望も大きいだろうとは思う。思うが……こうもさらりと流されると、流石に少しイライラしてくる。
「本気だぞ? だから……悲しんで悲しんで、絶望させて、そしてあの日みたいに何も見えていないお前にしてやりたいと思ってる」
 言いながら、デッキからカードを一枚引き抜く。
 ミホにとって絶望的な展開とは何か。
 それは、あいつの最愛の姉であるミキさんを殺した犯人がみつからない事。あるいはその犯人とされる男に、無罪が下される事。……他人に判決を、目の前でさらわれる事。
 あと一歩と言うところで突き落された時の絶望感は、きっと計り知れない。ましてそれをするのが、憎んでいる男の弟なら、なおさら。
 そう思うからこそ、俺は今、兄貴の無罪を勝ち取ろうとしている。ミホを悲しませる、ただそれだけの為に。
「圧倒的な力の前に倒れて、己の無力さに打ちひしがれて、嘆いて嘆いて……俺の事しか見なくなればいい」
 引き抜いたカードを、楯状に変化したバイザーにセットする。
『SURVIVE』
 電子音が響き、風が抜ける。
 雨が上がった直後のような、強いくせに生温かい、気持ち悪い風が。
 紺から青に変化した俺の姿に、ミホは頭を振る。ただ、驚いてと言うよりはがっかりしたような印象を受けるのは何故だろう。
「驚かないんだな」
「知ってたからね。あんたがサバイブを持っている事も、そしてそのカードがフォームチェンジを伴う強化カードだって事も」
 はあ、と溜息と一緒に吐き出された言葉に、逆に俺が驚く。
 俺がこのサバイブと言う名の追加カードを手に入れたのは、黒川が脱落する前日。使ったのだって紅騎と戦ったあの日だけだ。
 少なくともミホの目の前でデッキの中身を確認するような真似はしていないし、紅騎と戦った後はデッキを見る事すらしていなかった。
 なのに、どうしてミホは知ってるんだ? いつ、どこで知ったんだ?
 そんな疑問が次々と湧き上がる。
 だが、疑問に思ったところで意味がない。事実として、ミホは俺のこの格好を知っているんだから。
 後で聞き出せばいいかと考え直し、即座に俺はデッキから一枚のカードを取出し、バイザーにセットした。
『BLAST VENT』
 キイと甲高い声を一つ上げ、俺の眼前にダークレイダーが降り立ち、翼に付いているホイールから旋風を巻き起こしてミホを巻き込む。……と思いきや。
「……言ったでしょ? 『あんたの考えなんてお見通し』って」
『GUARD VENT』
 余裕そうなミホの声。その直後に響く電子音。そして同時に発動される効果。
 ミホのガードベントは、通常のガードベントとは、少しだけ趣が異なる。シールド装備はもちろんだが、それだけではなく……
 どこからともなく現れた無数の白い羽根が、俺とミホの間を埋め尽くす。視界は完全に羽根の白で染まり、いつの間にかミホの姿を見失っていた。
 ダークレイダーが巻き起こした風はその羽根を巻き込み、宙をぐるぐると躍らせはするものの、それだけだ。ミホにぶつかるはずだった風は羽根によって勢いを失い霧散。ミホの姿も見当たらない。
 ……これが、ファムのガードベントにおける厄介な追加効果。ファムだけは、ガードベント発動の際、ブランウィングの物と思しき羽根をまき散らし、周囲を攪乱するという効果を持っている。
 純粋に視界が塞がれるだけでなく、羽根の白による光の乱反射もあるせいで、感覚が狂ってしまう。
 だが、この効果がそう長くは持たない事は知っている。しばらくすればこの羽根も落ち着く。じっとしていれば狂った感覚も元に戻る。
 そう考えたその時、右に気配が生まれた。
 咄嗟にそちらへ向き直り、バイザーに付属していた剣を引き抜いて構え……しかし、衝撃は俺の背後から襲ってきた。
「がっ……!?」
 思いもよらなかった箇所からの攻撃に、肺の中の酸素が一気に押し出される。
 今の衝撃の大きさから察するに、恐らくブランウィングが俺に体当たりをしてきたのだろう。
 わざとミホが気配を察知させ、そちらに気を向けた瞬間にモンスターで攻撃する……このコンビネーション攻撃は、ミホが最も得意とする戦法だったのを失念していた。
――ちょっと闇爾。いくら強化変身してるからって、油断しすぎじゃない?――
 これもガードベントの効果なのか、ミホの声が反響して聞こえる。そのせいで、あいつがどこにいるのかが掴めない。
 じっとしていれば良いのだと、頭では理解している。それなのについ声がした方へ顔を向けてしまう。そして俺の行動に合わせるように、死角から衝撃が襲ってくる。
 ブランウィングの突進もあるだろうが、中にはミホ自身による攻撃も含まれているらしい。気が付けば薄く斬られたような跡が、わずかだがついていた。
 ……これは、珍しい。いつもならガードベントによる幻惑からの攪乱攻撃では、ミホ自身が攻撃を仕掛ける事はしない。大抵はブランウィングに直接攻撃させて、自分は体力を温存、羽根が引いた瞬間にファイナルベントと言う流れを作るのに。
「珍しいな、お前自身が攻撃してくるなんて」
――そりゃあ、ね。責任は私が取らなきゃ。どんな卑怯な手を使ってでも――
「責任?」
――……黒川も城戸さんも、あんたの変質に気付いていたのよ?――
「一番近くにいた私が、気付かない訳ないじゃない」
 引き潮のようにすっと引いて消えた羽根の向こうで、ミホが今にも泣きだしそうな声でそう言った。
 だが、俺はと言えば。その言葉の意味を汲み取るのに、一瞬の間を要した。
 ……つまり、何か? こいつは俺が暗い感情を持っている事を知ってた上で、それでも俺と普通に接していたって言うのか?
 何故? 何の為に?
「バカよねー。あんたが自覚なしにおかしくなっていってるのに気付いていながら、それでも思い留まると信じて、側に立ってたんだから」
「……俺を、止めようとしていた?」
「違うわ。止めようとしてたんじゃない。止まるのを待っていたのよ。能動じゃなくて受動」
 苦笑を含んだ声は、次々と俺にとって理解し難い言葉を吐き出していく。
 ミホを壊したいと、俺自身が自覚していなかった時から、ミホはその暗い欲望に気付いていたって?
 おまけに俺が、思い留まるのを待っていた? 見守っていたって事か?
 ……見守っていたのは、俺の方じゃなかったのか?
「でも、あんたは完全に変質してしまった。私を壊すと言う方向へ。無理にでも止める機会は、いくらでもあったのにね」
 一瞬、仮面で隠れているはずのミホの表情が見えた気がした。
 自分自身に怒っている時特有の、泣き笑いに似た表情が。そしてその奥にある、決意の色も。
「……だから、決めた。私はあんたには壊されないって」
 言って、ミホはデッキからカードを一枚取り出し、こちらに向かって見せつけた。
 そのカードを見て、俺は仮面の下で思わず目を見開く。
 描かれているのは、翼を広げたようなポーズをとった一羽の鳥。ただし広げすぎているせいか、翼自体は描かれておらず、背景も右翼側には赤、左翼側には薄青の模様めいた物がうっすらとある。
 そしてカードの名を示すテキストには「SURVIVE」の文字。
「そんな……その、カードは……」
「強化できるのはあんただけじゃないのよ。ま、このカードは元々オーディンが持ってた物なんだけどね」
 口の中が一気に乾き、掠れた声を出した俺とは対照的に、ミホはひょいと肩を竦めていつもと変わらぬ口調で返す。
 気が付けば、ミホの手にあったはずのレイピア状のバイザーは、盾のような形状に変形し、ミホの右腕に装着されている。
 そして彼女は、迷うことなくサバイブのカードをその盾状のバイザー上部にある装填口にセットし……
『SURVIVE』
 電子音が聞こえた直後、俺の視界は薄い金色に染まった。
 炎の熱気と風の勢い。その両方を備えた「光」が奔流となり、ミホを中心に渦を巻く。
 ……俺のサバイブとも、紅騎のサバイブとも違う。「風」と「炎」の根幹にして上位。ミホが持つサバイブは「光」を司るのか。
 やがて、仮面越しでも眩すぎて目を開けていられない程広がっていた光が、余韻も残さずに引いていく。
 そうなってようやく見えるミホの姿。それまで純白だったはずの彼女のマントはプラチナのような輝きを放ち、鎧の色もうっすらと金に染まっている。
 オーディンが持っていたと言っていたが、同じ「金」でも色合いが異なる。オーディンは山吹や黄赤に近い金だったが、今のミホの色はレモンシフォンに近い金。
「……行くわよ。ブランガルディエーヌ」
 ひらりとマントを翻し、ミホは背後に控えたブランウィングの強化体……ミホが言うところの、ブランガルディエーヌに声をかけた。
 大きさは強化される前とさほど変わらない。ただ、羽根色は薄い金に変化しており、翼と頭部には鎧のような装備が増えている。
 声をかけられたことが嬉しいのか、ブランガルディエーヌは高く一声鳴くと、真っ直ぐにダークレイダーめがけて飛んだ。
 それに倣うように、ミホもまた、バイザーから剣を引き抜いて、こちらに向かって真っ直ぐに駆ける。
 光を司るサバイブの効果なのか、彼女達の動きは今までとは段違いに早い。一直線、真正面から向かってくると分かっているのに、反応が遅れそうになる。
「……見惚れてる場合じゃないな」
 慌ててこっちも剣を構え直し、振り下ろされた刃を受ける。
 相変わらず、腕力はない。だがさっきの遠心力を使った攻撃同様、今度は速度が乗っているので、その辺の戦士と遜色ない攻撃力を持っている。
 ……事実、今の一撃でこちらの腕は軽く痺れた。
「正攻法じゃ危ういな」
 一旦剣を引き、ミホとの距離を取って呟く。
 腕力を補う形での戦法をとるミホにとって、速度重視ともいえる今の姿は性に合っているのだろう。速度面なら俺に勝ち目はない。正面から連撃を繰り出されれば、あの速度なら確実に数回は貰う。
 それなら、数で押すのが得策か。
『TRICK VENT』
 判断したのと、カードを読み込ませたのはほぼ同時。
 完全に反射で動いている自分に苦笑しつつ、俺はミホに対し最大人数である八人の分身で取り囲んだ。
「その速度でも、流石にこの人数相手は、厳しいだろ?」
 絶望的な状況だろう?
 言外にそんな言葉を匂わせつつ、俺はその場に立ち尽くすミホに向かって、ゆっくりと歩を進める。
 だが……妙だ。立っているミホからは、絶望どころか警戒すら感じられない。むしろ優位に立つ者の余裕を感じる。
 妙な予感が胸の奥から湧きあがり、思わず足を止めた刹那。
 ミホの口から嘲笑うかのような息が吐き出されたと思えば、直後に彼女はカードをバイザーに読み込んだ。
『STRANGE VENT』
 一度読み込まれたカードは白く光ってミホの元に戻る。
 何かされたのかと思ったが、俺自身には何の影響もない。ミホの装備が増えた訳でもないし、上で戦っているブランガルディエーヌがどうかなった訳でもない。
 本当に、ただカードが光って戻っただけだ。
「……何だ? 何も起きないじゃないか」
「あら、そう思う? だとしたら、あんたの目は節穴だわ」
 不敵な声でそう返すと、彼女は戻ってきたカードをもう一度バイザーにセットした。
 意味が分からない。カードは一回の戦闘につき、使用回数は一回だけ。ストレンジベントだっけ? そのカードはさっき読み込ませて何も起きなかったじゃないか。
 苦し紛れのはったりだ。
 と、思った瞬間。カードを読み込んだバイザーから、信じ難い音声が響いた。
『TRICK VENT』
「なぁっ!?」
 意図せず俺の口から驚愕の声が漏れる。
 確かにさっきまで、ミホが持っていたカードはストレンジベントと言うカードだった。それなのに、もう一度読み込ませたらトリックベントに変わっていた、だと?
「……おいおい」
「他のカードに変化するって」
「何でもアリか?」
「ま、程々にね」
「何しろ、サバイブ状態になる前があまりにも不利すぎる条件だったから」
「これくらいは、許容範囲でしょ?」
 分身達に口々に言わせると、ミホの方もそれに呼応するよう、分身達に言わせる。
 いや、ひょっとすると本体も混じっているのかもしれないが……正直、どれが本体か分からない。その上上空で戦っているあいつのモンスターの羽根が、ふわふわと舞い落ちてきている為か、幻惑されているようにも思う。
「それじゃあ」
「行くわよ?」
 八体いるミホの内、二体がそう宣言する。直後それぞれが正面に立つ俺めがけて走り、再び緊迫した鍔迫り合いが始まった。
 やはり、速さが乗った一撃は重い。受け止め、弾き飛ばすので精いっぱいだ。こっちから攻撃に転じるのは難しい。
 思ってちらりと分身達の方へ視線を向ければ、やはり速度差は大きいらしく、一人、また一人と吹き飛ばされ、消えていく。だが一方で、ミホの方も連戦による疲労があるのか、あちらの数も徐々にではあるが減っているのが見えた。
 互角、か。
 どうやら俺達は、どこまでも似た者同士と言う事らしい。
 それが妙に嬉しい。だが同時に悔しくもある。
 ……頼って欲しいのに。「互角」じゃあ頼ってなんてもらえない。
「……これは、緋堂暁を裁く為の裁判よね?」
 何度目かの打ち合いの最中、ミホは唐突に、静かな声で言葉を紡ぐ。
 鍔迫り合い、金属同士が擦れて生じる嫌な音が響く中で、妙にその声が響いて聞こえる。
「ああ、そうだ」
「あんたは、お兄さんの無実を信じて、その為に戦ってるんじゃないの?」
「最初はそうだった。でも……今は多分、違う。今この瞬間が、お前を絶望させるのに最適な舞台だと思ってるからな」
 兄貴の無実は、勿論信じている。だが、その為に戦っているかと聞かれたら、今はノーと答えるだろう。恐らく紅騎と戦う前の俺だったら、イエスと答えた問いなのに。
 俺が戦う理由が、この数日で変わってしまった。
 いや、ひょっとしたら、本当はもっと昔から変わりつつあったのかもしれないが、劇的に変化し、それを自覚したのはこの数日だ。
 元気な姿より、落ち込んでいる姿を愛おしく思う。
 明るく笑うより、嘆いていて欲しい。
 およそ一般的な「愛情」からはかけ離れた「愛情」だと認識はしている。それでも俺は、生き生きとしたミホよりも、陰鬱な世界に突き落とされた彼女を望む。
 ……そうすれば、俺を頼ってくれるはずだから。
「兄貴の無罪判決は、今の俺にとっては目的じゃなくて、手段なんだ」
「あんたがこの裁判で望んでるのは何よ!? 私の絶望なんかじゃないでしょ!」
「いいや。絶望して欲しいんだ、お前に。……絶望で、壊れてほしい」
「嘘ばっかり」
「嘘じゃない。本音だ。……がっかりしたか?」
 問いを投げた刹那、俺の剣とミホの剣が、より一層耳障りな音を上げる。
 それは、互いに込める力を増した証拠。知らず知らずの内に、俺も彼女も力んでいたらしい。
 もっとも、ミホの場合は怒っているが故の力みなのかもしれないが。
「ええ、ええ。がっっっかりだわ。あんたがそこまで自分の本心に気付けないアホだったなんてね。朴念仁なのは知ってたつもりだったけど、まさかこれ程とは」
 怒りと呆れの混じった声で、彼女は吐き捨てるように言い放つ。
 仮面の下では、きっと目を吊り上げ、俺を射殺さんばかりの視線を送ってるに違いない。
 そう考えると、ぞくぞくする。今、この瞬間だけは、ミホの感情は全て俺に向けられているのだから。怒りも、憎しみも、呆れも、悲しみも。およそ負の感情と呼べそうなもの全てを、いっそ俺だけに向けてほしい。
 空虚な人形のミホも可愛らしいが、底のない闇を抱いたこいつは、きっと綺麗だ。
「もっと怒れ。憎んでくれてもいい。その感情を、俺だけに向けてくれるなら」
「…………何でそこまで病んじゃったのよ、あんた」
 俺の言葉のせいだろうか。ミホの手から、ほんの一瞬だけ力が抜ける。だが、その一瞬はこの状況では致命的な差へつながった。
「っらあっ!」
「しまった!」
 意図せず吐き出した気合と共に、力の限り目の前のミホを払い飛ばす。気が付けば互いの分身は既に全て消失しており、再び一対一の構図を取っていた。
 吹き飛び、しかしそれでも彼女は着地後の行動に備え、空中で体勢を立て直す。
 だが、そう簡単に事を運ばせるつもりはない。恐らくミホは着地後、再度こちらとの間合いを詰めて斬撃を繰り出すつもりだろうが、そうはさせない。
『SHOOT VENT』
『GUARD VENT』
 ボウガン状に変形したバイザーを構え、体勢を再度崩させる目的で光の矢を射出するも、あいつの方はそれを盾を兼ねたバイザー、そしてその付随効果らしい光の壁で防ぐ。
 矢として放たれた光は、壁として現れた光にぶつかった瞬間に砕け、宙に溶け、壁の一部として飲み込まれる。
 その後も数発ほど矢を射てはみる物の、どうにも、あの壁とこちらのシュートベントは相性が悪いらしく、全てが壁の一部となって消えてしまう。
 その間に壁の向こうではミホが体勢を立て直し、こちらを悠然と眺めて……
「って、いない!?」
 光の壁の向こう側に視線を送れば、本来ならそこにいるはずのミホの姿が見当たらない。ただ壁がその場にあるだけで、薄金色の鎧を纏った女騎士の姿はどこにもない。
 光の壁でこちらの目を欺き、死角から攻撃してくるつもりなのだと判断したのと、視界の端でプラチナ色のマントの裾を捕えた。
 近い、と思うよりも先に、体が反応する。
 デッキからカードを一枚抜き出し、咄嗟にマントの先……あと数歩で手が届く場所まで駆けてきていたミホの方へ向き直ると、カードをバイザーにセットした。
『GUARD VENT』
 剣で払うよりも、防いだ方が良いと判断し、カードの効果で硬度が増したバイザーを構えて衝撃に備える。
 だが。
『STEAL VENT』
 眼前に迫ったミホのバイザーから音が響いた瞬間、俺の腕についていたはずの盾……いや、バイザーが消えた。
 いや、「消えた」と言う表現は正しくない。正確にはミホの左腕に移動していたのだ。
 ……「STEAL」。意味は「盗む」、「奪う」。つまるところ、あのカードによって俺のバイザーは盗まれたと言う事か。
 冷静に考えている自分を認識しつつ、しかし体の方は咄嗟には動かず。
 結果、眼前に迫るミホをただ茫然と眺めているだけの状態になり……
「いい加減、目ェ覚ましなさいよこのバカ!」
 ごっ、と鈍い音が、耳元で響く。一瞬後に知覚したのは、大きく吹き飛ばされた自分の体と、仮面越しても感じられた頬への痛み。
 殴り飛ばされたのだと気付いたのは、受け身もろくに取れぬまま地面に叩きつけられた時だった。
 ……てっきり斬りつけられると思っていたのだが。
「何で殴った?」
「パービンタだと効かなそうだったからよ!」
「いや、そうじゃなくて。あのタイミングなら、俺を斬れたはずだ。……俺がお前なら、そうする」
「今のあんたに対しては、剣で斬るよりグーでぼっこぼこにしてやった方が良いと思ったからに決まってるでしょ! 実際は『ボコ』程度でしかなかったけど!」
 起き上がりながら問うた俺に、ミホは右拳をしっかりと握りながら憤然として言い放った。
 我ながら間抜けな質問をしたと思ったが、ミホの回答はそこに輪をかけて間抜けだ。いや、間抜けと言うか……いつも通りだ。いつも通り過ぎて、何だかおかしくなってくる。
 怒っている。そしてそれを、俺だけに向けている。
 俺が望む、「壊れた感情」ではないにしろ、こいつは今、俺だけを見て、俺だけに声を投げている。
 それが、楽しい。いや、嬉しい? 何だか奇妙な気分だ。あいつはいつも通りなのに、それが楽しくて嬉しくて、そして少し物足りない。
 物足りない理由は見当がつく。多分、ミホの感情が向けられるのが「今だけ」だからだ。今が過ぎれば、その感情は他へと向いてしまう。
 ……この時間が続けばいい。心の底からそう思う。そうすればミホの感情はこちらに向いたままだ。
 だが、世の中そう上手くは出来ていない。
 「時間切れ」が近いらしく、急激な疲労感が体を襲う。
「……もう二、三発ぶん殴りたいところではあるけど……そろそろ時間も差し迫って来てるのよね」
「そうみたいだな」
 そう言葉を返すと、ミホは先程奪ったバイザーを、俺に向かって放り投げる。
 それを受け取りながら、思わず訝るような声を上げてしまう。
「良いのか、俺に返して」
「持ってたってウザいだけ。それに……あんたのカードも私のカードも、あとはこれだけでしょ?」
 ひらり、とミホが見せたのは、デッキの中でも一際目立つカード。
 それぞれのデッキにあしらわれた紋章と同じ紋章が描かれた、必殺技を示すそれ……ファイナルベントだ。
「白黒、つけようじゃない」
 言いながらも俺との距離を取るのは、彼女のファイナルベントが距離を必要とするものだからだろうか。それとも俺のファイナルベントを警戒してだろうか。
 どちらにせよ、この格好の俺が扱うファイナルベントは、距離が近くない方が良い。ミホが離れていくのは、正直ありがたい。
「ああ。……勝たせてもらう。兄貴の無罪と、お前の絶望を得る為に」
「……欲張り」
 軽い言い合い。そして少しの沈黙。
 その間に何かを悟ったのか、各々の契約モンスターはそれぞれの背後に控え、合図を待つようにその場にとどまる。
 どちらのモンスターの羽音だろうか。ばさり、と一際大きな羽ばたきが鼓膜を叩いた瞬間。
『FINAL VENT』
 一回にしか聞こえない電子音が鳴り響く。
 同時に俺はバイクに変形したダークレイダーに跨り、ミホは光を纏ったブランガルディエーヌの背に飛び乗った。
 直後、錐状と化した自分のマントに視界を覆われたので、ミホがどんな攻撃を繰り出そうとしているのかは見えなくなる。
 一瞬の暗転、そして直後訪れる衝撃。
 俺の攻撃とミホの攻撃がぶつかり合い、ぎしぎしと鍔迫り合いにも似た音は、やがて大きな破裂音へと変化し、俺とダークレイダーの体を弾き飛ばした。
 衝撃で吹き飛びながらも状況を把握する為に周囲を見回せば、マントは通常状態に戻り、ダークレイダーの翼部分に罅が入り、右翼がおかしな方向へ歪んでいるのが見える。
 一方でミホもまた、今の衝撃で吹き飛んでいるのが見える。あちらはブランガルディエーヌの翼が抜け落ち、左翼は変な方向へ曲がってしまっている。
 相討ち。
 そう認識したのと、地面に叩きつけられたのは同時だった。
「う……く、ぅ」
「つぅ……」
 俺達の口から、苦悶の声が上がる。
 疲労と激痛でこのまま倒れていたい気分ではあるが、そうも言っていられない。まだ、決着はついていないんだから。
 ゆっくりと起き上がると、あちらもボロボロの鎧を纏った状態で同じくらいの速度で立ち上がる。
 互いにもう、使えそうなカードはない。
 残っているのは武器を兼ねたバイザーと己の肉体だけ。
 それを自覚した瞬間、どちらからともなく駆け出し、互いの距離を詰める。
「はあああぁぁっ!」
「うおおおぉぉっ!」
 それぞれの口から、獣めいた咆哮が上がる。
 剣を握る力なんてない。それでも剣を握り、すれ違いざまに振るい…………

 ぱきん、と澄んだ音が聞こえた。
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