紅蓮の空、漆黒の戦士
【その7:霞色の記憶】
侑斗が、リュウガと遭遇していた頃。
「ねぇゴローちゃん、これ、何なんだろうねぇ?」
シンプルだが豪奢な印象を抱かせる家の中で、スーパー弁護士の異名を持つ男……北岡秀一は気だるそうな声で、開口一番己の秘書である由良吾郎にそう問いかけた。
北岡の手には、緑色のケース。模様に金色の野牛の様なものが描かれているのが見て取れる。
「……カードケースに見えますけど……」
「今朝さぁ、ここに落ちてたんだけど。心当たりない?」
「いいえ」
問われた由良は、申し訳なさそうに首を横に振って答える。
鋭い目付きや無愛想な印象を抱かせる外見とは裏腹に、人の良さそうな仕草。
「じゃあ、依頼人が落としていった物かな?」
最初から、由良の物ではないと思っていたのか、カードケースを机の上に置いて深い溜息を一つ吐く。
依頼人の物。そう口では言ったものの、北岡は何故だかそのケースと中身は自分の物なのだと確信している。
弁護士と言う、理論で相手をねじ伏せる職業をしている身としては、「直感」などと言う物に従うのは皮肉な気もするが。
思い、一瞬だけ北岡は自嘲めいた笑みを浮かべる。だが、その笑みをすぐに消して……
「……ゴローちゃん、お腹空いちゃったなぁ」
「じゃあ、何か美味 いもん、作りますね」
いつもの調子で言う北岡に、満面の笑みを浮かべて返す由良。その表情のまま、彼は台所へと向かって行く。
そんな由良の後姿を見送った後、北岡は再びカードケースに視線を落とす。
――何なんだろうねぇ、これは――
自問するように心の中で呟くのだが、心当たりなどないのだから答えが出る訳がない。中のカードを見ても同じ事。
まるでトレーディングカードのようなカードだが、どうやって遊ぶのかすらよく分からない。やたらと「SHOOT VENT」と書かれたカードが多い気がするのは気のせいか。
「ま、別に良いんだけどね」
自分に言い聞かせるように言って、北岡はポンと机の上にそのカードケースを投げ出すと、再び……今度は先程よりも大きな溜息を吐きだす。
「……全く、何なのかな。これも……お前もさ」
北岡は、視線を机上のカードケースから、部屋の隅にある姿見へ……否、正確にはそこに映る異形に向け、苦笑を浮かべてそう声をかける。
映っているのは、二足歩行をする緑色の野牛のような異形。体はどこかメタリックな光を帯びているが、それでも生物であるらしい事は分かる。人よりも二回りほど大きいが、「牛」にしては小さい方だろう。
だが、不思議とその異形に対して恐怖はない。むしろ相手が自分を見つめている事は当然のようにさえ思えていた。
「お前、何者な訳よ?」
そう言うと、北岡は怪訝そうな表情で姿見の前に立ち、鏡面越しに相手に触れる。触れれば引き摺り込まれるかも知れないと言う懸念が頭の片隅でちらりと浮かんだが、手に触れる鏡の感触はいつもと同じで冷たく硬いガラスの質感だけ。
異形も、特に何をするでもない。ただこちらを見つめるだけで何も語ろうとはしない。……そもそも、人語を解せるのかどうかも不明だが。
「……どうかしたんですか、先生?」
姿見の前で顰め面をしている北岡に気付いたのか、台所から顔を覗かせた由良が不安そうに声をかける。
今にも泣き出しそうに見えてしまうのは、生来彼が持つ下がり気味の目付きのせいか。それとも、自分がどこかに行ってしまうとでも思っているのか。
「…………いや、何でもないよゴローちゃん」
どこかシニカルな笑みを浮かべ、自らを心の底から心配してくれている秘書に返す。
……既に姿の見えなくなった異形の事など、気にしていないかのように。
そして北岡が由良に食事の用意をさせていた頃。それなりに人気のある街の一画では、一人の男があからさまに不機嫌なオーラを周囲に撒き散らしていた。
「……うるさい。俺を苛立たせるな」
……浅倉威。自称、「人より少し短気」なその男は、先程から聞こえてくる耳障りな音の元に対して毒吐いていた。
周囲の人間が平然としているのも腹立たしい。強烈な破壊衝動に駆られながらも、彼はそこを堪えて周囲を見回す。
音源を捜し、完膚なきまでに破壊するために。
そもそも、今朝から妙な事ばかり起こっている。
目を覚ましてみたら、寝泊りしている車の中に、見慣れぬ紫色のカードケースが置いてあった。昨夜までは、そんな物なかったのに。
カードケースに描かれた、金色のコブラのモチーフが気に入ったので、そのままズボンのポケットに入れた。それは別にどうと言う事もない。
だが、その直後だっただろうか。車のバックミラーに、カードケースと同じ色をした、コブラによく似たモンスターが映りこんでいたのを見たのは。
だが、現実にはそんなモノはいなかった。ただ、鏡の中に存在し、じっとこちらを見つめているだけ。それが返って癇に障り、その場でバックミラーは破壊した。
妙な幻覚。その程度に思い、特に気にもしなかった。自身の食生活を考えれば、幻覚くらい見てもおかしくはない。何しろ彼は、相当な悪食なのだから。
……その時だけなら、幻覚で済ませたものを……街中で、反射物……ショウウィンドウのガラスやら、すれ違う車のフロントガラスやら、果ては水溜りの水面の中にまで、その怪物を見た。
その姿が不快で、苛立った。言いたい事があるならさっさと言え。見てるだけで伝わるか、行動したらどうだと。
不快の頂点に至った時に、この音が聞こえ出したのだ。完全に、我慢の限界。むしろここまで耐えた自分を誉めてやりたい程だ。
「見つけたら、殺す」
壊す、ではなく殺す。その言葉が、彼の苛立ち度合いを端的に表しているように聞こえる。
しかし……彼が低くその言葉を吐き出した瞬間。耳障りだったその「音」が、ぴたりと止んだ。
まるで、浅倉の言葉に恐怖したかのような、そんなタイミングで。
「……ちっ」
忌々しそうに舌打ちをし、浅倉は腹立たし気な表情で人混みに紛れていった。
「良かったね、良太郎君。師匠に詳しく占ってもらえて」
「Milk Dipper」への帰り道で、三浦がにこやかな笑顔で野上に向かってそう言った。
実は、手塚に占ってもらった直後に、彼らの「師匠」が戻ってきて、野上の事を占ってくれたのだ。
三浦の師匠と言うからには、やっぱり和装を勘違いしたような格好なのかと身構えていたのだが、案外と普通の女性で……妖艶と言う表現のよく似合う人だった。
最初は、どこにでもいる主婦のような印象を受けたが、いざ占いが始まると神秘的な雰囲気を纏っており、手塚と三浦の師匠と言われるのも頷けた。
「でも……何だか抽象的な結果でしたね」
「『今はまだ、月の子と共に歩む。時の狭間を駆ける戦車を用いて、再び戦場に立つ。幸運は、運命の輪を壊す戦いの後に、自らの手で掴むだろう。数多の、皇帝に愛された子達と共に』」
答えるように、三浦が野上に言い渡された言葉を紡ぐ。
本当に、抽象的過ぎて分からない。占いとはそう言うものだと分っていても、読み解く為の取っ掛かりがあまりにも少なすぎる。
それでも、たった一つだけ野上に分かった言葉がある。
……「時の狭間を駆ける戦車」。それは多分、時の列車……デンライナーの事で、「再び戦場に立つ」という事は、恐らくまた戦うと言う意味だろう。それは手塚にも言われた事だ。
……だが、何と戦うと言うのか。
イマジンはカイと共に消え、平和になったはずなのに。
「そう言えば、手塚さんも、よく分からない感じでしたね。いや、師匠の占いはいつもわかり難いですけど」
ふと思い出したように、隣を歩いていた手塚にも声をかける三浦。
声をかけられた方は、真剣に考え込んでいたらしい。難しい顔で頷いた。
「いつもわかり難いが、今回は特にわかり難いな。『試練の異形が現れた時、道は二つ。皇帝に愛された子の一人となるか、試練の獣を跳ね除けるか。魂に刻まれた記憶と相談せよ、戦いに導くのはカードではなく自らの意思』」
要は、最終的には自分で決めろと言う事らしい。それは師たる彼女の元にいた時にも、幾度となく教えられた事だ。
占いの結果は確固たる未来ではなく、高確率で起こりうる事を告げるだけ。最終的に決めるのは、告げられた本人の意思、と。
だが、手塚が気になっているのはその事ではなく……
「何故、俺に対する占いと野上に対する占いの内容に、同じ単語が出ているんだ?」
「『皇帝に愛された子』って言う文言ですよね。僕も気になっていたんですよ」
手塚に言われ、三浦も不思議そうに答える。
ずっと彼女に師事していた二人でさえ、今回は読み解くのが難しいのだ。野上にとっては、意味の分からない単語の羅列に過ぎない。
三人で唸っていたその刹那。
再び手塚の耳に、甲高い、不快な「音」が届いた。
「……っ!」
その「音」の煩さに、思わず耳を塞ぐ。
その様子を不審に思ったのか、野上と三浦は不思議そうな表情を浮かべ、心配そうな声でどうしたのかと問いかけてくる。
「……いや、何でもない」
先程同様、彼らにこの「音」は聞こえていないらしい。恐らくは自分にしか聞こえていない。これは耳鳴りだ、そう自分に言い聞かせようとした正にその時。
「またかよ、この音……っ!」
向かい側から来た青年が、手塚と同じように煩そうに耳を塞いでそうぼやくのが聞こえた。
その隣に立っている青年も、耳を塞いではいない物の、「音」自体は聞こえているのか、鬱陶しそうに眉間に皺を寄せている。
「あれ? 城戸さん、秋山さん。貴方達は『Milk Dipper』からの帰りですか?」
その姿を見止め、にこにこと話しかける三浦に対して、現れた二人……城戸と秋山は対照的な渋い顔で野上達に視線を送る。
「……ああ、まあな」
「良太郎達にも聞こえてないんだな、この音……」
「音?」
溜息混じりの城戸の言葉に、不思議そうに問い返す野上。
少なくとも彼の耳には、普段と変わりない喧騒しか聞こえておらず、耳を塞ぎたくなる程の不快な音は聞こえないのだが……
「ああ、気にするな。こいつにしか聞こえない幻聴だろう」
「幻聴って……蓮、お前もさっき聞こえてただろ! それに、今だって……」
「……お前の方が騒がしい」
言い募ろうとする城戸の言葉をばっさりと切り捨て、秋山はその視線を近くのガラスに移す。先程はこの音が聞こえた際、ガラスに異形が映っていた。ひょっとすると今回も映っているかもしれない。
そう考えて見つめたそこには、あからさまに不機嫌そうな自分の顔と、その後ろで何やら言いたそうな城戸、そして自分達の前に立つ野上達三人の姿。それ以外には特に何も見当たらない。
野上と三浦の事は知っているが、もう一人の男の事は知らない。
……否、知らないはずだ。それなのに、何故か秋山は……そして城戸も、その男を知っているような気がした。カードデッキを手にした時と同じように、「知らないはずなのに知っている」と言う不思議な感覚。
それは、手塚も同じであった。
知らないはずなのに知っている。遥か以前、どこかで出会った事があるような気がする。すれ違っただけとか、そんな短い時間の関わりではなかったはずだ。
思い出しそうなのに、思い出せない。そんなもどかしさを感じながら、城戸も秋山に倣って視線をガラスに移した刹那。
「蓮、あれ……!」
ガラスの中の様子に、異変が起こったのを見た。同時に秋山と手塚もそれに気付く。
野上と三浦は何を指しているのかわからず、不思議そうに城戸の指した所……ガラスの中を見つめるが、変わった所はない。……少なくとも、二人にはそう見えていた。
しかし城戸達三人は違う。ガラスの中……映りこんだ世界に、やはりと言うべきなのかは分らないが、三体の異形が存在しているのが見えている。
うち二体は先程見た赤い龍と黒い蝙蝠。そしてもう一体は赤紫色の、エイに似たモンスター。
「……まさか、あれが……試練の獣?」
ぽつりと小さく手塚が呟く。
自らの師が示した、占いの一節を思い出して。
姿見の前で拾ったデッキ、ガラスの中の異形、そして自分同様、このモンスターが見える二人の男……
そこまで考えを巡らせた時、手塚の頭がズキリと痛み、見知らぬ光景を見せる。
赤紫色の甲冑を身に纏い、運命を変える為、赤い騎士を……城戸を庇って死んでゆく自分の姿。
戦いを止めさせるために、戦うと言った自分と、それに嬉しそうに同意する城戸の顔。
自分の後ろにつき従う、エイ型のモンスターの姿。
「あの、大丈夫ですか? 三人とも、顔色が良くないみたいですけど……」
「あ……ああ。何でもない、平気だ」
「……ちょっと眩暈がしただけだって。心配するなよ、良太郎」
自分達の顔を心配そうに覗き込む野上に、秋山と城戸は平静を装いつつそう返す。その言葉で、ようやく手塚は悟る。今見た光景を、目の前の……城戸と秋山も見ていたのだと言う事に。
軽く頭を振り、もう一度今の感覚を思い出そうと、手塚は占う時以上に神経を集中させる。だが、既にガラスの向こうには異形の姿はなく、脳裏にも何の光景も浮かんでこない。
だが、それでも。
確実に何かが始まっている事を、城戸も、秋山も、手塚も……充分に感じ取っていた。
それこそ、魂に刻まれた記憶が……それを、告げていたのかもしれない。
侑斗が、リュウガと遭遇していた頃。
「ねぇゴローちゃん、これ、何なんだろうねぇ?」
シンプルだが豪奢な印象を抱かせる家の中で、スーパー弁護士の異名を持つ男……北岡秀一は気だるそうな声で、開口一番己の秘書である由良吾郎にそう問いかけた。
北岡の手には、緑色のケース。模様に金色の野牛の様なものが描かれているのが見て取れる。
「……カードケースに見えますけど……」
「今朝さぁ、ここに落ちてたんだけど。心当たりない?」
「いいえ」
問われた由良は、申し訳なさそうに首を横に振って答える。
鋭い目付きや無愛想な印象を抱かせる外見とは裏腹に、人の良さそうな仕草。
「じゃあ、依頼人が落としていった物かな?」
最初から、由良の物ではないと思っていたのか、カードケースを机の上に置いて深い溜息を一つ吐く。
依頼人の物。そう口では言ったものの、北岡は何故だかそのケースと中身は自分の物なのだと確信している。
弁護士と言う、理論で相手をねじ伏せる職業をしている身としては、「直感」などと言う物に従うのは皮肉な気もするが。
思い、一瞬だけ北岡は自嘲めいた笑みを浮かべる。だが、その笑みをすぐに消して……
「……ゴローちゃん、お腹空いちゃったなぁ」
「じゃあ、何か
いつもの調子で言う北岡に、満面の笑みを浮かべて返す由良。その表情のまま、彼は台所へと向かって行く。
そんな由良の後姿を見送った後、北岡は再びカードケースに視線を落とす。
――何なんだろうねぇ、これは――
自問するように心の中で呟くのだが、心当たりなどないのだから答えが出る訳がない。中のカードを見ても同じ事。
まるでトレーディングカードのようなカードだが、どうやって遊ぶのかすらよく分からない。やたらと「SHOOT VENT」と書かれたカードが多い気がするのは気のせいか。
「ま、別に良いんだけどね」
自分に言い聞かせるように言って、北岡はポンと机の上にそのカードケースを投げ出すと、再び……今度は先程よりも大きな溜息を吐きだす。
「……全く、何なのかな。これも……お前もさ」
北岡は、視線を机上のカードケースから、部屋の隅にある姿見へ……否、正確にはそこに映る異形に向け、苦笑を浮かべてそう声をかける。
映っているのは、二足歩行をする緑色の野牛のような異形。体はどこかメタリックな光を帯びているが、それでも生物であるらしい事は分かる。人よりも二回りほど大きいが、「牛」にしては小さい方だろう。
だが、不思議とその異形に対して恐怖はない。むしろ相手が自分を見つめている事は当然のようにさえ思えていた。
「お前、何者な訳よ?」
そう言うと、北岡は怪訝そうな表情で姿見の前に立ち、鏡面越しに相手に触れる。触れれば引き摺り込まれるかも知れないと言う懸念が頭の片隅でちらりと浮かんだが、手に触れる鏡の感触はいつもと同じで冷たく硬いガラスの質感だけ。
異形も、特に何をするでもない。ただこちらを見つめるだけで何も語ろうとはしない。……そもそも、人語を解せるのかどうかも不明だが。
「……どうかしたんですか、先生?」
姿見の前で顰め面をしている北岡に気付いたのか、台所から顔を覗かせた由良が不安そうに声をかける。
今にも泣き出しそうに見えてしまうのは、生来彼が持つ下がり気味の目付きのせいか。それとも、自分がどこかに行ってしまうとでも思っているのか。
「…………いや、何でもないよゴローちゃん」
どこかシニカルな笑みを浮かべ、自らを心の底から心配してくれている秘書に返す。
……既に姿の見えなくなった異形の事など、気にしていないかのように。
そして北岡が由良に食事の用意をさせていた頃。それなりに人気のある街の一画では、一人の男があからさまに不機嫌なオーラを周囲に撒き散らしていた。
「……うるさい。俺を苛立たせるな」
……浅倉威。自称、「人より少し短気」なその男は、先程から聞こえてくる耳障りな音の元に対して毒吐いていた。
周囲の人間が平然としているのも腹立たしい。強烈な破壊衝動に駆られながらも、彼はそこを堪えて周囲を見回す。
音源を捜し、完膚なきまでに破壊するために。
そもそも、今朝から妙な事ばかり起こっている。
目を覚ましてみたら、寝泊りしている車の中に、見慣れぬ紫色のカードケースが置いてあった。昨夜までは、そんな物なかったのに。
カードケースに描かれた、金色のコブラのモチーフが気に入ったので、そのままズボンのポケットに入れた。それは別にどうと言う事もない。
だが、その直後だっただろうか。車のバックミラーに、カードケースと同じ色をした、コブラによく似たモンスターが映りこんでいたのを見たのは。
だが、現実にはそんなモノはいなかった。ただ、鏡の中に存在し、じっとこちらを見つめているだけ。それが返って癇に障り、その場でバックミラーは破壊した。
妙な幻覚。その程度に思い、特に気にもしなかった。自身の食生活を考えれば、幻覚くらい見てもおかしくはない。何しろ彼は、相当な悪食なのだから。
……その時だけなら、幻覚で済ませたものを……街中で、反射物……ショウウィンドウのガラスやら、すれ違う車のフロントガラスやら、果ては水溜りの水面の中にまで、その怪物を見た。
その姿が不快で、苛立った。言いたい事があるならさっさと言え。見てるだけで伝わるか、行動したらどうだと。
不快の頂点に至った時に、この音が聞こえ出したのだ。完全に、我慢の限界。むしろここまで耐えた自分を誉めてやりたい程だ。
「見つけたら、殺す」
壊す、ではなく殺す。その言葉が、彼の苛立ち度合いを端的に表しているように聞こえる。
しかし……彼が低くその言葉を吐き出した瞬間。耳障りだったその「音」が、ぴたりと止んだ。
まるで、浅倉の言葉に恐怖したかのような、そんなタイミングで。
「……ちっ」
忌々しそうに舌打ちをし、浅倉は腹立たし気な表情で人混みに紛れていった。
「良かったね、良太郎君。師匠に詳しく占ってもらえて」
「Milk Dipper」への帰り道で、三浦がにこやかな笑顔で野上に向かってそう言った。
実は、手塚に占ってもらった直後に、彼らの「師匠」が戻ってきて、野上の事を占ってくれたのだ。
三浦の師匠と言うからには、やっぱり和装を勘違いしたような格好なのかと身構えていたのだが、案外と普通の女性で……妖艶と言う表現のよく似合う人だった。
最初は、どこにでもいる主婦のような印象を受けたが、いざ占いが始まると神秘的な雰囲気を纏っており、手塚と三浦の師匠と言われるのも頷けた。
「でも……何だか抽象的な結果でしたね」
「『今はまだ、月の子と共に歩む。時の狭間を駆ける戦車を用いて、再び戦場に立つ。幸運は、運命の輪を壊す戦いの後に、自らの手で掴むだろう。数多の、皇帝に愛された子達と共に』」
答えるように、三浦が野上に言い渡された言葉を紡ぐ。
本当に、抽象的過ぎて分からない。占いとはそう言うものだと分っていても、読み解く為の取っ掛かりがあまりにも少なすぎる。
それでも、たった一つだけ野上に分かった言葉がある。
……「時の狭間を駆ける戦車」。それは多分、時の列車……デンライナーの事で、「再び戦場に立つ」という事は、恐らくまた戦うと言う意味だろう。それは手塚にも言われた事だ。
……だが、何と戦うと言うのか。
イマジンはカイと共に消え、平和になったはずなのに。
「そう言えば、手塚さんも、よく分からない感じでしたね。いや、師匠の占いはいつもわかり難いですけど」
ふと思い出したように、隣を歩いていた手塚にも声をかける三浦。
声をかけられた方は、真剣に考え込んでいたらしい。難しい顔で頷いた。
「いつもわかり難いが、今回は特にわかり難いな。『試練の異形が現れた時、道は二つ。皇帝に愛された子の一人となるか、試練の獣を跳ね除けるか。魂に刻まれた記憶と相談せよ、戦いに導くのはカードではなく自らの意思』」
要は、最終的には自分で決めろと言う事らしい。それは師たる彼女の元にいた時にも、幾度となく教えられた事だ。
占いの結果は確固たる未来ではなく、高確率で起こりうる事を告げるだけ。最終的に決めるのは、告げられた本人の意思、と。
だが、手塚が気になっているのはその事ではなく……
「何故、俺に対する占いと野上に対する占いの内容に、同じ単語が出ているんだ?」
「『皇帝に愛された子』って言う文言ですよね。僕も気になっていたんですよ」
手塚に言われ、三浦も不思議そうに答える。
ずっと彼女に師事していた二人でさえ、今回は読み解くのが難しいのだ。野上にとっては、意味の分からない単語の羅列に過ぎない。
三人で唸っていたその刹那。
再び手塚の耳に、甲高い、不快な「音」が届いた。
「……っ!」
その「音」の煩さに、思わず耳を塞ぐ。
その様子を不審に思ったのか、野上と三浦は不思議そうな表情を浮かべ、心配そうな声でどうしたのかと問いかけてくる。
「……いや、何でもない」
先程同様、彼らにこの「音」は聞こえていないらしい。恐らくは自分にしか聞こえていない。これは耳鳴りだ、そう自分に言い聞かせようとした正にその時。
「またかよ、この音……っ!」
向かい側から来た青年が、手塚と同じように煩そうに耳を塞いでそうぼやくのが聞こえた。
その隣に立っている青年も、耳を塞いではいない物の、「音」自体は聞こえているのか、鬱陶しそうに眉間に皺を寄せている。
「あれ? 城戸さん、秋山さん。貴方達は『Milk Dipper』からの帰りですか?」
その姿を見止め、にこにこと話しかける三浦に対して、現れた二人……城戸と秋山は対照的な渋い顔で野上達に視線を送る。
「……ああ、まあな」
「良太郎達にも聞こえてないんだな、この音……」
「音?」
溜息混じりの城戸の言葉に、不思議そうに問い返す野上。
少なくとも彼の耳には、普段と変わりない喧騒しか聞こえておらず、耳を塞ぎたくなる程の不快な音は聞こえないのだが……
「ああ、気にするな。こいつにしか聞こえない幻聴だろう」
「幻聴って……蓮、お前もさっき聞こえてただろ! それに、今だって……」
「……お前の方が騒がしい」
言い募ろうとする城戸の言葉をばっさりと切り捨て、秋山はその視線を近くのガラスに移す。先程はこの音が聞こえた際、ガラスに異形が映っていた。ひょっとすると今回も映っているかもしれない。
そう考えて見つめたそこには、あからさまに不機嫌そうな自分の顔と、その後ろで何やら言いたそうな城戸、そして自分達の前に立つ野上達三人の姿。それ以外には特に何も見当たらない。
野上と三浦の事は知っているが、もう一人の男の事は知らない。
……否、知らないはずだ。それなのに、何故か秋山は……そして城戸も、その男を知っているような気がした。カードデッキを手にした時と同じように、「知らないはずなのに知っている」と言う不思議な感覚。
それは、手塚も同じであった。
知らないはずなのに知っている。遥か以前、どこかで出会った事があるような気がする。すれ違っただけとか、そんな短い時間の関わりではなかったはずだ。
思い出しそうなのに、思い出せない。そんなもどかしさを感じながら、城戸も秋山に倣って視線をガラスに移した刹那。
「蓮、あれ……!」
ガラスの中の様子に、異変が起こったのを見た。同時に秋山と手塚もそれに気付く。
野上と三浦は何を指しているのかわからず、不思議そうに城戸の指した所……ガラスの中を見つめるが、変わった所はない。……少なくとも、二人にはそう見えていた。
しかし城戸達三人は違う。ガラスの中……映りこんだ世界に、やはりと言うべきなのかは分らないが、三体の異形が存在しているのが見えている。
うち二体は先程見た赤い龍と黒い蝙蝠。そしてもう一体は赤紫色の、エイに似たモンスター。
「……まさか、あれが……試練の獣?」
ぽつりと小さく手塚が呟く。
自らの師が示した、占いの一節を思い出して。
姿見の前で拾ったデッキ、ガラスの中の異形、そして自分同様、このモンスターが見える二人の男……
そこまで考えを巡らせた時、手塚の頭がズキリと痛み、見知らぬ光景を見せる。
赤紫色の甲冑を身に纏い、運命を変える為、赤い騎士を……城戸を庇って死んでゆく自分の姿。
戦いを止めさせるために、戦うと言った自分と、それに嬉しそうに同意する城戸の顔。
自分の後ろにつき従う、エイ型のモンスターの姿。
「あの、大丈夫ですか? 三人とも、顔色が良くないみたいですけど……」
「あ……ああ。何でもない、平気だ」
「……ちょっと眩暈がしただけだって。心配するなよ、良太郎」
自分達の顔を心配そうに覗き込む野上に、秋山と城戸は平静を装いつつそう返す。その言葉で、ようやく手塚は悟る。今見た光景を、目の前の……城戸と秋山も見ていたのだと言う事に。
軽く頭を振り、もう一度今の感覚を思い出そうと、手塚は占う時以上に神経を集中させる。だが、既にガラスの向こうには異形の姿はなく、脳裏にも何の光景も浮かんでこない。
だが、それでも。
確実に何かが始まっている事を、城戸も、秋山も、手塚も……充分に感じ取っていた。
それこそ、魂に刻まれた記憶が……それを、告げていたのかもしれない。