本当の微笑み
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8
トラッパーは、罠の手入れがひと段落着いてマスクを外した。姿勢を楽にして、強張った肩の力を抜いた。
机の上では手入れされた罠と、骨から作られたマスクがある。
小さくくり抜かれた目に、笑いの表情を模した口は大きく裂けている。
張り付いた笑顔。
エヴァンだった頃の自分は、笑顔の下で何を感じていたのだろう……。
母を笑わせようとした幼い頃の自分。そして母が亡くなってからも笑う事をやめられなかった自分……。
エンティティから与えられたこのマスクを初めて見た時、猛烈な怒りが全身を駆け巡った。
エンティティはトラッパーを苦しめる為に、態々このマスクを用意したのだ。
母を守る事も出来ず、父の言いなりになっただけの愚かな男を嘲笑う為に。笑っていれば母を救えると信じていた愚かな男を……。
トラッパーは怒りに任せてエンティティの蜘蛛のような腕に飛び付き、その腕目掛けてマチェットを振り下ろした。
無論その目論みは失敗し、エンティティの腕に傷ひとつ付けることは出来なかった。
それどころか反抗した罰として酷い拷問を受け、全身に痕が残るほど痛め付けられた。
反抗した男はどうなった?
抑圧されたウジ虫はどうなった?
男は殴り殺された。ウジ虫どもは土の下に埋められた。そして自分は……。
トラッパーはエンティティの拷問を受けながら、悪魔という存在について一つの答えを見つけた。悪魔は実在する。そしてその正体を知っている……。
父を苦しめた悪魔の正体を。父を完全に狂わせた悪魔の正体を。
悪魔は彼の息子にも忍び寄った。
お前の父親は正気を失った。全てを終わらせて、楽にさせてやろう。悪魔はエヴァンに囁きかけた。霧の向こう側から、不気味な声で……。
エヴァンは、エンティティに命じられるまま鉱山を破壊し、多くの労働者と共に父を葬った。
そして霧の世界に来てからも、変わらずエンティティの命令に従っている。
あれ程忌み嫌ったウジ虫と同じように。
*
トラッパーは夢子が用意してくれたコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばした。
夢子は隣でうたた寝をしている。机の上に突っ伏すようにして、小さな身体を丸めるような格好で眠っていた。その姿は小動物のような愛らしさがある。
夢子の肌は美しく、トラッパーの傷だらけの肌とはあまりにも違っていた。
それに彼女の手は真っ白で、一つの汚れも無かった。
血と暴力で汚れた自分の手とは大違いだ。
夢子という少女がこの世界に紛れ込み、そして自分の側にいることに、トラッパーは改めて驚きを感じた。
トラッパーは冷めたコーヒーを啜り、小さく息をついた。
コーヒーは濃くて苦かった。苦みの奥に、砂糖の微かな甘さを感じ取る。
まるで自分の人生のようだとトラッパーは思った。暗く苦い思い出の中に、ほんの微かな幸福が混じっているのだ。
そしてその幸福は一瞬で溶けて消え失せてしまう……。
9
夢子はベッドの中で目覚めた。部屋の中は真っ暗で、冷たい夜の空気が、降ろされた幕のように布団の上にのし掛かっている。
夢子は暗闇の中で、トラッパーが隣で眠っているのを感じとった。
ご飯の後、トラッパーにコーヒーを用意して、彼が罠の手入れをするのを眺めていた……そして、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
夢子は寝返りを打って、トラッパーの身体に自分の身体をくっつけた。彼の太い腕に自分の腕を絡めて、頬を擦り付ける。
胸も、腹も、脚も、隙間なくぴったりとくっ付けて目を瞑ると、錆びたような匂いがした。
それは血のような匂いなのに不快感はひとつもなくて、それどころか胸の奥を掴まれるような、不思議な気分になった。
夢子は、絡めた腕や空気の震えから、トラッパーの体温や息遣いを感じ取った。
「好き……」
囁くような小さな声で夢子がそう言うと、トラッパーの腕が微かに動いた。
「起きてるの?」
「ああ」
夢子はくすっと笑い、身体を起こしてトラッパーに唇を寄せた。
探るようにして彼の唇を捉え、自分の唇を重ねると、二人の吐息が重なり混じり合った。
トラッパーは身動きせずに夢子の唇を受け止めた。
小さな柔らかい唇が遠慮がちに押し付けられて、黒い髪の毛がトラッパーの頬をくすぐる。甘い石鹸の香りがふわりと漂い、トラッパーの心を昂らせた。
トラッパーは夢子の二の腕を掴んだ。そしてそのまま彼女の身体をマットレスに押しつけて、唇を重ねた。
夢子がどんなにもがいても、トラッパーから逃れる事は出来なかった。
彼の身体は大きく、その腕は力強かった。
彼の手は夢子の全てを探り出そうと動いている。
首筋をたどり、パジャマのボタンは一つ一つ外され、そしてその内側へ……。ごつごつとした太い指が遠慮なく肌に触れて、柔らかい肌の感触を楽しむように指先を動かすと、夢子の唇から微かな声が漏れた。
甘く柔らかい声……トラッパーを求め、そして受け入れようとする声。
トラッパーは心に激しい感情が湧き上がって、たまらず夢子にキスをした。
夢子はベッドの上に囚われ、心臓はどくどくと音を立てている。だが恐怖は無い。あるのはトラッパーの手の感触と吐息と体温だけだった。
*
夢子は深い眠りから目が覚めた。
カーテン越しに陽の光が部屋の中に差し込んでいる。
頭の下にはトラッパーの腕があって、抱きしめられるような格好で眠っていたのだと気が付いた。
心地良い疲労と甘い余韻が全身に残っていて、夢子は満ち足りた気分になった。
夢子はトラッパーの素顔を見つめた。彫りの深い男らしい顔立ち。傷だらけで、大きな傷がいくつも走っている。
夢子はトラッパーの頬に触れた。
固く結ばれた口元。引き締まった頬。厳しく、苦難で削り取られたかのような顔。
「どうしたら笑ってくれるの?」
トラッパーは、あまり感情を表に出そうとはしなかった。
彼の行動から、大切にされている事は知っている。昨夜の行為からも愛情は伝わっている。
それでも、トラッパーは夢子に笑いかける事はしなかった。いつも眉間に皺を寄せて、厳しい表情をしている。
夢子が見つめていると、やがてトラッパーの目が開き、眩しそうに目を細めた。
「おはよう」
夢子は微笑んだ。
トラッパーは挨拶を返して、また目を閉じた。夢子はトラッパーに軽くキスをして、ベッドから起き上がった。
「今日の予定は?」
散らばったままの衣服を拾い上げながら、夢子はトラッパーに話しかけた。
「今日は儀式も無いし、ゆっくりするつもりだ」
「いいわね」
夢子はそう返事をしてキッチンに向かい、パンや卵を取り出した。
ついでにケトルで湯を沸かし、コーヒーの準備を始める。
コーヒーの香ばしい匂いと、卵の焼ける匂いがキッチンに漂い、トラッパーもキッチンに来て、夢子が朝食の準備をするのを眺めていた。
「もうスケッチはしないの?」
「スケッチ?」
「前に話してくれたでしょう?前の世界ではスケッチが趣味だったって」
そう。エヴァンだった頃はスケッチが趣味だった。長い間忘れていた趣味だ……。
父の為に手放し、父の為に二度とする事のなかった趣味。
「朝ごはんを食べたら、外へスケッチをしに行ってみない?」
トラッパーは頷いた。夢子がそうしたいのなら、それに従うだけだ。
それに、忘れていた感覚が蘇りつつあった。
ただの白い紙の上に、鉛筆の線だけで一つの作品を作り上げる感覚……湧き上がる創作欲を満たす感覚。
充足感……かつての自分が好きだったその感覚を、もう一度感じることが出来るかもしれない。
10
トラッパーは鉛筆を握った。かつて元の世界でそうしていたように、鉛筆を指先で軽く摘むようにして、紙の上に線を引いた。
左右のバランスを取り、大まかな輪郭を取り、そして細かい部分を書き込んでゆく。
一つ一つの線が重なって、その姿をよりはっきりとした姿に描き出してゆく。
睫毛に縁取られた黒い瞳。小ぶりで低い鼻。小さめの唇。
紙の上で夢子は微笑んでいる。
トラッパーは手を止めて、じっと夢子を観察した。やはり夢子は母とは違う。
彼女の微笑みは本物だった。
出来上がったスケッチを見て、夢子は歓声を上げた。
「とても上手ね!」
夢子はトラッパーを見てにっこりと微笑んだ。ごく自然に。当たり前のように。心からの微笑み。
それはエヴァンだった頃の自分が母に求めていたものだった。
母が笑っていれば幸福になる。幼い頃のエヴァンはそう信じていた。だが、母は心の底から笑ってはくれなかった。母はいつも父に怯えていて、微笑みの裏には人生への絶望が隠されていた。
「本当に上手ね……こんなに上手なのに、どうしてやめてしまったの?」
「父が止めろと言ったからだ」
スケッチするのは軟弱者だけだ。父の言葉を思い出す。破かれた母のスケッチを思い出す。微笑みを浮かべる美しい母の姿……。バラバラになったその紙片を思い出す。
「お前も知ってる通り、俺は元の世界でも人殺しだった。きっと、お前が想像する何倍も殺してるはずだ」
トラッパーの声は冷静だった。
「だが、何事にも始まりがある。初めて殺人を犯した時……俺は悟ったんだ。父親の言いつけに背いてはならないのだと。そして父は俺に強い男になる事を望んでいた」
夢子は何も言わず、トラッパーの言葉に耳を傾けた。
「父の命令には何でも従った。スケッチを止めろ。邪魔者は暴力で従わせろ。それでも反抗するようなら始末しろ……。だから俺は人を殺したし、スケッチもやめた」
夢子はごくりと息を飲んだ。スケッチブックを抱きしめるようにして、胸に押しつける。
トラッパーは、初めて心を曝け出そうとしている。彼の過去を……その罪を……。
「一度はやめたのだとしても、それでも貴方はまたこうして絵を描いてる」
夢子はトラッパーを見つめた。
「これからも、スケッチしに出かけましょう」
夢子はそう言ってトラッパーに微笑みを向けた。本物の微笑みを。
トラッパーは夢子の手をとって唇に寄せた。
小さな手。細い指。薄い桃色をした丸い爪。その手はまるで繊細なガラス細工のようで、力を入れると簡単に壊れてしまいそうだった。マスクの裂け目から指先にキスをして、その手を解放した。だが夢子は咄嗟にトラッパーの手を取って、自分の唇に寄せた。同じようにトラッパーの手にもキスを返して、真っ直ぐに彼を見つめる。
マスクの奥にある目には激しい感情が渦巻いている。もう後戻りは出来ない。
夢子はトラッパーのマスクに手を掛けた。
「私の前では素顔でいて欲しいの」
トラッパーは頷いた。いつだって夢子の望みを叶えてきた。
トラッパーは素顔のままで夢子に向き合った。
夢子はトラッパーの過去も、血と暴力に汚れた手も、全てを受け入れた。そして彼の傷だらけの顔を、愛おしげに見つめた。
夢子が微笑むと、トラッパーも微笑み返した。ひどくぎこちないが、それは本当の微笑みだった。
おわり
トラッパーは、罠の手入れがひと段落着いてマスクを外した。姿勢を楽にして、強張った肩の力を抜いた。
机の上では手入れされた罠と、骨から作られたマスクがある。
小さくくり抜かれた目に、笑いの表情を模した口は大きく裂けている。
張り付いた笑顔。
エヴァンだった頃の自分は、笑顔の下で何を感じていたのだろう……。
母を笑わせようとした幼い頃の自分。そして母が亡くなってからも笑う事をやめられなかった自分……。
エンティティから与えられたこのマスクを初めて見た時、猛烈な怒りが全身を駆け巡った。
エンティティはトラッパーを苦しめる為に、態々このマスクを用意したのだ。
母を守る事も出来ず、父の言いなりになっただけの愚かな男を嘲笑う為に。笑っていれば母を救えると信じていた愚かな男を……。
トラッパーは怒りに任せてエンティティの蜘蛛のような腕に飛び付き、その腕目掛けてマチェットを振り下ろした。
無論その目論みは失敗し、エンティティの腕に傷ひとつ付けることは出来なかった。
それどころか反抗した罰として酷い拷問を受け、全身に痕が残るほど痛め付けられた。
反抗した男はどうなった?
抑圧されたウジ虫はどうなった?
男は殴り殺された。ウジ虫どもは土の下に埋められた。そして自分は……。
トラッパーはエンティティの拷問を受けながら、悪魔という存在について一つの答えを見つけた。悪魔は実在する。そしてその正体を知っている……。
父を苦しめた悪魔の正体を。父を完全に狂わせた悪魔の正体を。
悪魔は彼の息子にも忍び寄った。
お前の父親は正気を失った。全てを終わらせて、楽にさせてやろう。悪魔はエヴァンに囁きかけた。霧の向こう側から、不気味な声で……。
エヴァンは、エンティティに命じられるまま鉱山を破壊し、多くの労働者と共に父を葬った。
そして霧の世界に来てからも、変わらずエンティティの命令に従っている。
あれ程忌み嫌ったウジ虫と同じように。
*
トラッパーは夢子が用意してくれたコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばした。
夢子は隣でうたた寝をしている。机の上に突っ伏すようにして、小さな身体を丸めるような格好で眠っていた。その姿は小動物のような愛らしさがある。
夢子の肌は美しく、トラッパーの傷だらけの肌とはあまりにも違っていた。
それに彼女の手は真っ白で、一つの汚れも無かった。
血と暴力で汚れた自分の手とは大違いだ。
夢子という少女がこの世界に紛れ込み、そして自分の側にいることに、トラッパーは改めて驚きを感じた。
トラッパーは冷めたコーヒーを啜り、小さく息をついた。
コーヒーは濃くて苦かった。苦みの奥に、砂糖の微かな甘さを感じ取る。
まるで自分の人生のようだとトラッパーは思った。暗く苦い思い出の中に、ほんの微かな幸福が混じっているのだ。
そしてその幸福は一瞬で溶けて消え失せてしまう……。
9
夢子はベッドの中で目覚めた。部屋の中は真っ暗で、冷たい夜の空気が、降ろされた幕のように布団の上にのし掛かっている。
夢子は暗闇の中で、トラッパーが隣で眠っているのを感じとった。
ご飯の後、トラッパーにコーヒーを用意して、彼が罠の手入れをするのを眺めていた……そして、いつの間にか眠ってしまったのだろう。
夢子は寝返りを打って、トラッパーの身体に自分の身体をくっつけた。彼の太い腕に自分の腕を絡めて、頬を擦り付ける。
胸も、腹も、脚も、隙間なくぴったりとくっ付けて目を瞑ると、錆びたような匂いがした。
それは血のような匂いなのに不快感はひとつもなくて、それどころか胸の奥を掴まれるような、不思議な気分になった。
夢子は、絡めた腕や空気の震えから、トラッパーの体温や息遣いを感じ取った。
「好き……」
囁くような小さな声で夢子がそう言うと、トラッパーの腕が微かに動いた。
「起きてるの?」
「ああ」
夢子はくすっと笑い、身体を起こしてトラッパーに唇を寄せた。
探るようにして彼の唇を捉え、自分の唇を重ねると、二人の吐息が重なり混じり合った。
トラッパーは身動きせずに夢子の唇を受け止めた。
小さな柔らかい唇が遠慮がちに押し付けられて、黒い髪の毛がトラッパーの頬をくすぐる。甘い石鹸の香りがふわりと漂い、トラッパーの心を昂らせた。
トラッパーは夢子の二の腕を掴んだ。そしてそのまま彼女の身体をマットレスに押しつけて、唇を重ねた。
夢子がどんなにもがいても、トラッパーから逃れる事は出来なかった。
彼の身体は大きく、その腕は力強かった。
彼の手は夢子の全てを探り出そうと動いている。
首筋をたどり、パジャマのボタンは一つ一つ外され、そしてその内側へ……。ごつごつとした太い指が遠慮なく肌に触れて、柔らかい肌の感触を楽しむように指先を動かすと、夢子の唇から微かな声が漏れた。
甘く柔らかい声……トラッパーを求め、そして受け入れようとする声。
トラッパーは心に激しい感情が湧き上がって、たまらず夢子にキスをした。
夢子はベッドの上に囚われ、心臓はどくどくと音を立てている。だが恐怖は無い。あるのはトラッパーの手の感触と吐息と体温だけだった。
*
夢子は深い眠りから目が覚めた。
カーテン越しに陽の光が部屋の中に差し込んでいる。
頭の下にはトラッパーの腕があって、抱きしめられるような格好で眠っていたのだと気が付いた。
心地良い疲労と甘い余韻が全身に残っていて、夢子は満ち足りた気分になった。
夢子はトラッパーの素顔を見つめた。彫りの深い男らしい顔立ち。傷だらけで、大きな傷がいくつも走っている。
夢子はトラッパーの頬に触れた。
固く結ばれた口元。引き締まった頬。厳しく、苦難で削り取られたかのような顔。
「どうしたら笑ってくれるの?」
トラッパーは、あまり感情を表に出そうとはしなかった。
彼の行動から、大切にされている事は知っている。昨夜の行為からも愛情は伝わっている。
それでも、トラッパーは夢子に笑いかける事はしなかった。いつも眉間に皺を寄せて、厳しい表情をしている。
夢子が見つめていると、やがてトラッパーの目が開き、眩しそうに目を細めた。
「おはよう」
夢子は微笑んだ。
トラッパーは挨拶を返して、また目を閉じた。夢子はトラッパーに軽くキスをして、ベッドから起き上がった。
「今日の予定は?」
散らばったままの衣服を拾い上げながら、夢子はトラッパーに話しかけた。
「今日は儀式も無いし、ゆっくりするつもりだ」
「いいわね」
夢子はそう返事をしてキッチンに向かい、パンや卵を取り出した。
ついでにケトルで湯を沸かし、コーヒーの準備を始める。
コーヒーの香ばしい匂いと、卵の焼ける匂いがキッチンに漂い、トラッパーもキッチンに来て、夢子が朝食の準備をするのを眺めていた。
「もうスケッチはしないの?」
「スケッチ?」
「前に話してくれたでしょう?前の世界ではスケッチが趣味だったって」
そう。エヴァンだった頃はスケッチが趣味だった。長い間忘れていた趣味だ……。
父の為に手放し、父の為に二度とする事のなかった趣味。
「朝ごはんを食べたら、外へスケッチをしに行ってみない?」
トラッパーは頷いた。夢子がそうしたいのなら、それに従うだけだ。
それに、忘れていた感覚が蘇りつつあった。
ただの白い紙の上に、鉛筆の線だけで一つの作品を作り上げる感覚……湧き上がる創作欲を満たす感覚。
充足感……かつての自分が好きだったその感覚を、もう一度感じることが出来るかもしれない。
10
トラッパーは鉛筆を握った。かつて元の世界でそうしていたように、鉛筆を指先で軽く摘むようにして、紙の上に線を引いた。
左右のバランスを取り、大まかな輪郭を取り、そして細かい部分を書き込んでゆく。
一つ一つの線が重なって、その姿をよりはっきりとした姿に描き出してゆく。
睫毛に縁取られた黒い瞳。小ぶりで低い鼻。小さめの唇。
紙の上で夢子は微笑んでいる。
トラッパーは手を止めて、じっと夢子を観察した。やはり夢子は母とは違う。
彼女の微笑みは本物だった。
出来上がったスケッチを見て、夢子は歓声を上げた。
「とても上手ね!」
夢子はトラッパーを見てにっこりと微笑んだ。ごく自然に。当たり前のように。心からの微笑み。
それはエヴァンだった頃の自分が母に求めていたものだった。
母が笑っていれば幸福になる。幼い頃のエヴァンはそう信じていた。だが、母は心の底から笑ってはくれなかった。母はいつも父に怯えていて、微笑みの裏には人生への絶望が隠されていた。
「本当に上手ね……こんなに上手なのに、どうしてやめてしまったの?」
「父が止めろと言ったからだ」
スケッチするのは軟弱者だけだ。父の言葉を思い出す。破かれた母のスケッチを思い出す。微笑みを浮かべる美しい母の姿……。バラバラになったその紙片を思い出す。
「お前も知ってる通り、俺は元の世界でも人殺しだった。きっと、お前が想像する何倍も殺してるはずだ」
トラッパーの声は冷静だった。
「だが、何事にも始まりがある。初めて殺人を犯した時……俺は悟ったんだ。父親の言いつけに背いてはならないのだと。そして父は俺に強い男になる事を望んでいた」
夢子は何も言わず、トラッパーの言葉に耳を傾けた。
「父の命令には何でも従った。スケッチを止めろ。邪魔者は暴力で従わせろ。それでも反抗するようなら始末しろ……。だから俺は人を殺したし、スケッチもやめた」
夢子はごくりと息を飲んだ。スケッチブックを抱きしめるようにして、胸に押しつける。
トラッパーは、初めて心を曝け出そうとしている。彼の過去を……その罪を……。
「一度はやめたのだとしても、それでも貴方はまたこうして絵を描いてる」
夢子はトラッパーを見つめた。
「これからも、スケッチしに出かけましょう」
夢子はそう言ってトラッパーに微笑みを向けた。本物の微笑みを。
トラッパーは夢子の手をとって唇に寄せた。
小さな手。細い指。薄い桃色をした丸い爪。その手はまるで繊細なガラス細工のようで、力を入れると簡単に壊れてしまいそうだった。マスクの裂け目から指先にキスをして、その手を解放した。だが夢子は咄嗟にトラッパーの手を取って、自分の唇に寄せた。同じようにトラッパーの手にもキスを返して、真っ直ぐに彼を見つめる。
マスクの奥にある目には激しい感情が渦巻いている。もう後戻りは出来ない。
夢子はトラッパーのマスクに手を掛けた。
「私の前では素顔でいて欲しいの」
トラッパーは頷いた。いつだって夢子の望みを叶えてきた。
トラッパーは素顔のままで夢子に向き合った。
夢子はトラッパーの過去も、血と暴力に汚れた手も、全てを受け入れた。そして彼の傷だらけの顔を、愛おしげに見つめた。
夢子が微笑むと、トラッパーも微笑み返した。ひどくぎこちないが、それは本当の微笑みだった。
おわり