本当の微笑み
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5
背が伸びて、随分と男らしく成長したエヴァンは、父親似だと言われることが多くなった。
マクミランの血だと父は言った。父の家系は体格に恵まれた者が多いのだ。
この頃から、父はエヴァンに”まとも”な扱いをするようになった。
周囲へ息子を紹介するようになったし、職場にも連れて行くようになった。エヴァンもまた、父が差し伸べた手を取った。
ようやく親子として向き合うようになれたのだとエヴァンは喜んだ。
父は優れた経営者だった。それに、今ではエヴァンの事を男として扱ってくれる。
学校を卒業したエヴァンは、マクミラン家の跡取りとして早く一人前になろうと努力した。
殆ど休みなく働き、たまの休暇も父に着いて回った。
父はエヴァンを信頼し始めた。自身の片腕として、エヴァンを使うようになったのだ。
従業員を指導しろと命令されれば、"道具"を使うことも厭わなかった。
道具はメリケンサックでも、その辺に置いてある角材でも何でも良かった。
エヴァンは父に認められるなら何でもした。幼い頃に母を笑わせようとして何でもしたように。
そして、仕事の合間を縫ってスケッチも続けていた。
父からは嫌がられる趣味だ。だが、エヴァンには必要な事だった。
スケッチをしている間はかつてのエヴァンのままでいられたからだ。
労働者をウジ虫と呼び、彼らに暴力を振るう自分では無くて、母を笑わせようと努力していた自分のままで……。
*
父から信頼されるようになったエヴァンは、鉱山に潜って現場の管理を任されるようになった。
生産力を上げるために労働者達を見張り、彼らを追い込むのもエヴァンの仕事になった。
エヴァンは父のように従業員を管理し上手くコントロールした。
彼らは仕事を求めていたので、安い賃金でもよく働き、そして鉱山資源の需要は不況の中でも減る事はなかった。
利益は増えるばかりで、マクミラン家はこの地域では有数の資産家になっていた。
現場を管理するようになったエヴァンは、掘削機の鋭い音と、坑夫と鉱石を運ぶトロッコの車輪が軋む音の合間を縫って、坑夫達が言葉を交わしている事に気が付いた。
彼らの話題は専ら自分達の苦しい生活についてで、お互いの傷を舐め合うように苦難を分かち合い、そして共通の敵について噂した。
父や、マクミラン家のこと……そして母のことを。
「奥様は殺されたんだ」
エヴァンはぎくりとして、男達の噂に耳を傾けた。
「川に流されただって?そんな事、誰が信じるって言うんだ」
「気をつけろ。我らの社長は家族をも殺す」
エヴァンは真っ直ぐに男達に近寄った。
「お前は俺の母親について何を知っている?」
輪の中心にいた男は気まずそうな表情を浮かべた。
その顔は煤と埃で真っ黒に汚れていて、いく筋かの汗の跡が額から首筋へと流れていた。男の薄汚れた顔をエヴァンはじっと見つめた。父がウジ虫と呼ぶ労働者の顔を。
男は真っ直ぐにエヴァンの目を見返した。その目は反抗的で、自分は間違っていないのだと物語っていた。
この男だけじゃない。誰もが気付いているのだ。母は殺されたのだと。
とてつもない不安がエヴァンの心に広がった。そしてエヴァンは不安を感じる自分自身に驚いていた。こんなちっぽけな労働者に脅威を感じる自分自身に。
エヴァンは不安を拭い去ろうとして、思わず男の胸ぐらを掴んでいた。
暴力で解決するなんて、これでは父と同じではないか。
そう思ったが、この不安を解消するには、こうするしかなかった。
この不快な労働者が……ウジ虫が汚い口を閉じるまで殴りつけるしかないのだ。
汗染みの跡がついた古びたシャツの襟を掴まれた男は、背の高いエヴァンに引きずられるようにして、足元をふらつかせた。
つま先が地面を擦りながらも、男は余裕のある態度でエヴァンを見上げた。
「坊ちゃんもご存知でしょう?あなたの父親はいつも奥様を殴っていた。自分の女房をですよ」
男は不敵に笑った。
「分かっているはずだ。誰もが真実を知っている……だけど誰も逆らえない。実の息子のあなたでさえ……」
男はエヴァンを諭すように、胸ぐらを掴む手に触れた。爪の間に垢が溜まった手……その手で触れられた瞬間、エヴァンは男を殴りつけた。男は地面へと崩れ落ちて、エヴァンを睨みつけた。ほら見ろよ。あの父親の息子だぞ!男はそう言っているのだ。
エヴァンは男に飛び掛かるようにして、再び男を殴った。こめかみに一発。頬にも一発。
何度も、何度も男を殴りつけた。襟元を掴み無理やり地面から立たせて、そしてまた殴った。
どうやってもエヴァンの怒りは収まらなかった。
男の歯は何本も折れて、血が混じった泡が口の端に溜まっている。汚らしいウジ虫。エヴァンの心は男に対する嫌悪感でいっぱいになった。
この薄汚れた男が父を侮辱したのだ。父と、そして自分を。マクミラン家を。
男はとっくに意識を失っていて、四肢には力がなかった。それでもエヴァンは男を殴り続けた。
ついに男の身体は限界を迎えた。
男の体は電流が流されたようにぴくぴくと痙攣し始めて、空気が抜けるような不自然な呼吸の音が口から漏れた。その音を聞いていると、母の悲しげな顔がエヴァンの頭の中に浮かんできた。
そろそろ止めないと、取り返しのつかない事になる。それは分かっていた。頭の中は冷静に己を見つめていた。
誰でもいい。早く俺を止めてくれ!エヴァンはそう願った。
だが、周囲は何も言わず傍観していた。彼らは怒りと憎悪をはらんだ視線でエヴァンを非難していた。
だが、もしもエヴァンに歯向かったりすれば、彼らはたちまち仕事を失い、路頭に迷う事になるだろう。
6
男を殴る感触を思い出しながら、エヴァンは自身の手を見つめた。
腫れが引いた部分は青っぽい痣になっていて、触れるとズキズキとした痛みが走った。
結局、あの男は死んだ。
天井が崩れて下敷きになったのだ。男の遺体は家まで運ばれ、家族の元へと返された。
石油ランプの明かりが男の顔を照らす。変形した痣だらけの顔……鼻は折れ曲がり、顎は砕けていた。
変わり果てたその顔を、男の家族は無言で見つめた。事故では無い。彼らはすぐに悟った。だが、男の家族がマクミラン家を告発することは無かった。男はただの雇われ人で、残された家族は無力だった。彼らには戦うための金が無かった。それどころか、働き手を失った今、どうやって生活していくのだろう。
男の葬儀はひっそりと執り行われた。その様子を見に行ったエヴァンは、男の遺体が土の下に埋められてゆくのを遠くから見つめていた。
彼の遺体はエヴァンの罪と共に埋められていった。彼は真実を覆い隠されたままで、永遠に眠るのだ。
エヴァンは何度も男の姿を思い出した。
黒く汚れた顔。憎しみと反抗の目。労働によってすり減らされた肉体。汚らしいウジ虫のような姿……。
エヴァンの心にあるのは男に対する嫌悪だけだった。
*
葬儀の後、墓場の片隅で男達は囁き合った。
「哀れになぁ。殺されるような奴じゃなかったのに」
「やっぱり同じだった。息子も父親と同じだ」
恐怖と好奇心が入り混じり、声の調子は段々と大きく感情的に変化していく。
「まともじゃないぜ」
エヴァンは隠れるようにして彼らの会話を盗み聞きした。
「薄笑いを浮かべながら何度も殴るのを見たか?相手が動かなくなっても、何度も、何度も、ずっと……」
エヴァンはごくりと息を飲んだ。そして自分の口元に触れてみた。俺が笑っていただって?
「やはりあの親父の息子だ。あの親子は悪魔の血が流れている。俺たちを人間と思っていないんだ」
エヴァンは首を振った。父と自分は違う。父でさえ、ウジ虫を躾ける時は笑いを浮かべはしない。
坑夫達はこれからについて話し合いを続けた。女達は彼らを見守り、子供達も彼らの会話を聞いていた。マクミラン家への憎悪が大きく膨らんでいるのがエヴァンにも分かった。彼らの中から、マクミラン家に対して行動を起こそうとする奴が現れるかもしれない。
*
男の葬儀が終わり、屋敷に戻ったエヴァンは父に声を掛けられた。
「葬儀に行ったのか」
エヴァンは頷いた。
「手が痛むだろう。」
父はゆっくりとエヴァンに近付き、肩に手をかけた。気遣うような優しい声だった。父がこんな風に接してくれるのは初めてだった。
「次は道具を使え。ウジ虫を躾けるにはそれが一番いい」
エヴァンは思い出した。父が従業員を殴る時は、メリケンサックをはめていることを。
エヴァンは項垂れた。結局、父は正しいのだ。ウジ虫どもは躾が必要なのだと。
彼らに反抗させてはいけない。力でねじ伏せるべきなのだ。
7
大人になったエヴァンは、父の指導によって大きく変化した。
人の上に立ち、そして人を支配する方法を教わった。
エヴァンの未来は約束されていた。
家業は何倍にも大きく成長している。
マクミラン家が所有する会社や土地はその数を増やし、資産は膨らんでゆく一方だった。
エヴァンは父の会社とその財産を厳しく管理した。
欲深い親戚や知人達は、隙あれば財産を掠め取ろうと狙っていたし、労働者はすぐに怠けようとするからだ。
奴らは狡賢く、出来るだけ楽をしようと悪知恵を働かせるのが上手かった。
エヴァンが目を光らせていないと、すぐに手を抜き始める。
労働者の権利なんて必要ない。会社は仕事を与えているのに、これ以上何が必要なんだ?
彼らは仕事を求めるのに、いざそれを与えてやると、給与や待遇に文句をつけ始める。
もっと金をよこせ。もっと休みをよこせ。当然のように声を大きくして権利を求める。
次第にエヴァンの心の中には怒りが募っていった。
ウジ虫を支配しろ。奴らを管理し、反抗する者がいるなら徹底的に打ちのめせ。
彼らには金や自由な時間を与えてはいけない。
何故なら、彼らの欲は底なしだからだ。
飢えたウジ虫は僅かな賃金でもよく働くし、自由な時間がなければ余計な考えを持つ暇もないのだから。
ウジ虫を働かせろ。楯突く者がいれば、排除してしまえ。
父の教え通りにやるのが一番だ。
どんな手を使ってもいい。父の為なら何でもするのだ。
エヴァンは父に従いながらも、父の事を冷静に観察するようになった。
父は間違いなく気が触れている。
暴力や残酷な行為は、その片鱗だったのだ。
父は老いと共に完全に狂気の世界へ堕ちていった。
そして父はエヴァンに命令した。
鉱山を埋めろ、エヴァン。
鉱山は地獄へと繋がっていて、悪魔が住んでいる。悪魔の声が聞こえるか?あの囁き声が聞こえるか?
父の目は余りに真剣だった。
ウジ虫諸共、悪魔を埋めてしまえ。土の下へ埋めて、二度とこの世に戻らないように……。
エヴァンは頷いた。父の為なら何でもする。
*
大事故だった。全てが瓦礫と土の下に埋められた。何百人もの坑夫が行方不明のままだった。
そして父も……。父は動けなかった。足の骨が砕けていたからだ。
それでなくとも、老いた父は痩せ細り、歩くのも儘ならなかった。
「父さん、もう行かないと」
鉱山の入り口にある地下倉庫の一室で、エヴァンは父の膝の横にハンマーを置いた。
父は壁にもたれかかり、床に投げ出された足は不自然な方向を向いている。
「待て!」父は叫んだ。
エヴァンは倉庫を出る前に一度だけ振り返った。
父は恐ろしい顔をしていた。
肌は真っ赤に上気し、目は釣り上がっていた。まるで悪魔だ。
彼は死を前にしてもなお、息子の裏切りに怒っている。
エヴァンは口元に手を当てた。俺は笑っている。父を捨てようとしている今でさえも……。
エヴァンは地下倉庫を出て、鉱山の出口へと向かった。父の叫び声は廊下にまで響いている。だがその声が地上に届く事はない……。
エヴァンの心はいつに無く軽かった。
従業員にも気さくに挨拶を返し、口元には微笑みさえ浮かべている。
何事も無いかのように平然として、エヴァンは鉱山から立ち去った。
坑内に仕掛けられたおびただしい数のダイナマイトは、ちょっとした弾みで鉱山を土の下に埋めてしまうだろう。
鉱山には、ガスや火花によって引き起こされる事故は付き物だった。
今回の事故も同じように、ちょっとした弾みで引き起こされるはずだった。
そして、全てはエヴァンの罪と共に土の下に埋まってしまうのだ。
マクミラン家の財産を産み出した鉱山と共に。父がウジ虫と呼ぶ労働者と共に。塵と灰と共に。
背が伸びて、随分と男らしく成長したエヴァンは、父親似だと言われることが多くなった。
マクミランの血だと父は言った。父の家系は体格に恵まれた者が多いのだ。
この頃から、父はエヴァンに”まとも”な扱いをするようになった。
周囲へ息子を紹介するようになったし、職場にも連れて行くようになった。エヴァンもまた、父が差し伸べた手を取った。
ようやく親子として向き合うようになれたのだとエヴァンは喜んだ。
父は優れた経営者だった。それに、今ではエヴァンの事を男として扱ってくれる。
学校を卒業したエヴァンは、マクミラン家の跡取りとして早く一人前になろうと努力した。
殆ど休みなく働き、たまの休暇も父に着いて回った。
父はエヴァンを信頼し始めた。自身の片腕として、エヴァンを使うようになったのだ。
従業員を指導しろと命令されれば、"道具"を使うことも厭わなかった。
道具はメリケンサックでも、その辺に置いてある角材でも何でも良かった。
エヴァンは父に認められるなら何でもした。幼い頃に母を笑わせようとして何でもしたように。
そして、仕事の合間を縫ってスケッチも続けていた。
父からは嫌がられる趣味だ。だが、エヴァンには必要な事だった。
スケッチをしている間はかつてのエヴァンのままでいられたからだ。
労働者をウジ虫と呼び、彼らに暴力を振るう自分では無くて、母を笑わせようと努力していた自分のままで……。
*
父から信頼されるようになったエヴァンは、鉱山に潜って現場の管理を任されるようになった。
生産力を上げるために労働者達を見張り、彼らを追い込むのもエヴァンの仕事になった。
エヴァンは父のように従業員を管理し上手くコントロールした。
彼らは仕事を求めていたので、安い賃金でもよく働き、そして鉱山資源の需要は不況の中でも減る事はなかった。
利益は増えるばかりで、マクミラン家はこの地域では有数の資産家になっていた。
現場を管理するようになったエヴァンは、掘削機の鋭い音と、坑夫と鉱石を運ぶトロッコの車輪が軋む音の合間を縫って、坑夫達が言葉を交わしている事に気が付いた。
彼らの話題は専ら自分達の苦しい生活についてで、お互いの傷を舐め合うように苦難を分かち合い、そして共通の敵について噂した。
父や、マクミラン家のこと……そして母のことを。
「奥様は殺されたんだ」
エヴァンはぎくりとして、男達の噂に耳を傾けた。
「川に流されただって?そんな事、誰が信じるって言うんだ」
「気をつけろ。我らの社長は家族をも殺す」
エヴァンは真っ直ぐに男達に近寄った。
「お前は俺の母親について何を知っている?」
輪の中心にいた男は気まずそうな表情を浮かべた。
その顔は煤と埃で真っ黒に汚れていて、いく筋かの汗の跡が額から首筋へと流れていた。男の薄汚れた顔をエヴァンはじっと見つめた。父がウジ虫と呼ぶ労働者の顔を。
男は真っ直ぐにエヴァンの目を見返した。その目は反抗的で、自分は間違っていないのだと物語っていた。
この男だけじゃない。誰もが気付いているのだ。母は殺されたのだと。
とてつもない不安がエヴァンの心に広がった。そしてエヴァンは不安を感じる自分自身に驚いていた。こんなちっぽけな労働者に脅威を感じる自分自身に。
エヴァンは不安を拭い去ろうとして、思わず男の胸ぐらを掴んでいた。
暴力で解決するなんて、これでは父と同じではないか。
そう思ったが、この不安を解消するには、こうするしかなかった。
この不快な労働者が……ウジ虫が汚い口を閉じるまで殴りつけるしかないのだ。
汗染みの跡がついた古びたシャツの襟を掴まれた男は、背の高いエヴァンに引きずられるようにして、足元をふらつかせた。
つま先が地面を擦りながらも、男は余裕のある態度でエヴァンを見上げた。
「坊ちゃんもご存知でしょう?あなたの父親はいつも奥様を殴っていた。自分の女房をですよ」
男は不敵に笑った。
「分かっているはずだ。誰もが真実を知っている……だけど誰も逆らえない。実の息子のあなたでさえ……」
男はエヴァンを諭すように、胸ぐらを掴む手に触れた。爪の間に垢が溜まった手……その手で触れられた瞬間、エヴァンは男を殴りつけた。男は地面へと崩れ落ちて、エヴァンを睨みつけた。ほら見ろよ。あの父親の息子だぞ!男はそう言っているのだ。
エヴァンは男に飛び掛かるようにして、再び男を殴った。こめかみに一発。頬にも一発。
何度も、何度も男を殴りつけた。襟元を掴み無理やり地面から立たせて、そしてまた殴った。
どうやってもエヴァンの怒りは収まらなかった。
男の歯は何本も折れて、血が混じった泡が口の端に溜まっている。汚らしいウジ虫。エヴァンの心は男に対する嫌悪感でいっぱいになった。
この薄汚れた男が父を侮辱したのだ。父と、そして自分を。マクミラン家を。
男はとっくに意識を失っていて、四肢には力がなかった。それでもエヴァンは男を殴り続けた。
ついに男の身体は限界を迎えた。
男の体は電流が流されたようにぴくぴくと痙攣し始めて、空気が抜けるような不自然な呼吸の音が口から漏れた。その音を聞いていると、母の悲しげな顔がエヴァンの頭の中に浮かんできた。
そろそろ止めないと、取り返しのつかない事になる。それは分かっていた。頭の中は冷静に己を見つめていた。
誰でもいい。早く俺を止めてくれ!エヴァンはそう願った。
だが、周囲は何も言わず傍観していた。彼らは怒りと憎悪をはらんだ視線でエヴァンを非難していた。
だが、もしもエヴァンに歯向かったりすれば、彼らはたちまち仕事を失い、路頭に迷う事になるだろう。
6
男を殴る感触を思い出しながら、エヴァンは自身の手を見つめた。
腫れが引いた部分は青っぽい痣になっていて、触れるとズキズキとした痛みが走った。
結局、あの男は死んだ。
天井が崩れて下敷きになったのだ。男の遺体は家まで運ばれ、家族の元へと返された。
石油ランプの明かりが男の顔を照らす。変形した痣だらけの顔……鼻は折れ曲がり、顎は砕けていた。
変わり果てたその顔を、男の家族は無言で見つめた。事故では無い。彼らはすぐに悟った。だが、男の家族がマクミラン家を告発することは無かった。男はただの雇われ人で、残された家族は無力だった。彼らには戦うための金が無かった。それどころか、働き手を失った今、どうやって生活していくのだろう。
男の葬儀はひっそりと執り行われた。その様子を見に行ったエヴァンは、男の遺体が土の下に埋められてゆくのを遠くから見つめていた。
彼の遺体はエヴァンの罪と共に埋められていった。彼は真実を覆い隠されたままで、永遠に眠るのだ。
エヴァンは何度も男の姿を思い出した。
黒く汚れた顔。憎しみと反抗の目。労働によってすり減らされた肉体。汚らしいウジ虫のような姿……。
エヴァンの心にあるのは男に対する嫌悪だけだった。
*
葬儀の後、墓場の片隅で男達は囁き合った。
「哀れになぁ。殺されるような奴じゃなかったのに」
「やっぱり同じだった。息子も父親と同じだ」
恐怖と好奇心が入り混じり、声の調子は段々と大きく感情的に変化していく。
「まともじゃないぜ」
エヴァンは隠れるようにして彼らの会話を盗み聞きした。
「薄笑いを浮かべながら何度も殴るのを見たか?相手が動かなくなっても、何度も、何度も、ずっと……」
エヴァンはごくりと息を飲んだ。そして自分の口元に触れてみた。俺が笑っていただって?
「やはりあの親父の息子だ。あの親子は悪魔の血が流れている。俺たちを人間と思っていないんだ」
エヴァンは首を振った。父と自分は違う。父でさえ、ウジ虫を躾ける時は笑いを浮かべはしない。
坑夫達はこれからについて話し合いを続けた。女達は彼らを見守り、子供達も彼らの会話を聞いていた。マクミラン家への憎悪が大きく膨らんでいるのがエヴァンにも分かった。彼らの中から、マクミラン家に対して行動を起こそうとする奴が現れるかもしれない。
*
男の葬儀が終わり、屋敷に戻ったエヴァンは父に声を掛けられた。
「葬儀に行ったのか」
エヴァンは頷いた。
「手が痛むだろう。」
父はゆっくりとエヴァンに近付き、肩に手をかけた。気遣うような優しい声だった。父がこんな風に接してくれるのは初めてだった。
「次は道具を使え。ウジ虫を躾けるにはそれが一番いい」
エヴァンは思い出した。父が従業員を殴る時は、メリケンサックをはめていることを。
エヴァンは項垂れた。結局、父は正しいのだ。ウジ虫どもは躾が必要なのだと。
彼らに反抗させてはいけない。力でねじ伏せるべきなのだ。
7
大人になったエヴァンは、父の指導によって大きく変化した。
人の上に立ち、そして人を支配する方法を教わった。
エヴァンの未来は約束されていた。
家業は何倍にも大きく成長している。
マクミラン家が所有する会社や土地はその数を増やし、資産は膨らんでゆく一方だった。
エヴァンは父の会社とその財産を厳しく管理した。
欲深い親戚や知人達は、隙あれば財産を掠め取ろうと狙っていたし、労働者はすぐに怠けようとするからだ。
奴らは狡賢く、出来るだけ楽をしようと悪知恵を働かせるのが上手かった。
エヴァンが目を光らせていないと、すぐに手を抜き始める。
労働者の権利なんて必要ない。会社は仕事を与えているのに、これ以上何が必要なんだ?
彼らは仕事を求めるのに、いざそれを与えてやると、給与や待遇に文句をつけ始める。
もっと金をよこせ。もっと休みをよこせ。当然のように声を大きくして権利を求める。
次第にエヴァンの心の中には怒りが募っていった。
ウジ虫を支配しろ。奴らを管理し、反抗する者がいるなら徹底的に打ちのめせ。
彼らには金や自由な時間を与えてはいけない。
何故なら、彼らの欲は底なしだからだ。
飢えたウジ虫は僅かな賃金でもよく働くし、自由な時間がなければ余計な考えを持つ暇もないのだから。
ウジ虫を働かせろ。楯突く者がいれば、排除してしまえ。
父の教え通りにやるのが一番だ。
どんな手を使ってもいい。父の為なら何でもするのだ。
エヴァンは父に従いながらも、父の事を冷静に観察するようになった。
父は間違いなく気が触れている。
暴力や残酷な行為は、その片鱗だったのだ。
父は老いと共に完全に狂気の世界へ堕ちていった。
そして父はエヴァンに命令した。
鉱山を埋めろ、エヴァン。
鉱山は地獄へと繋がっていて、悪魔が住んでいる。悪魔の声が聞こえるか?あの囁き声が聞こえるか?
父の目は余りに真剣だった。
ウジ虫諸共、悪魔を埋めてしまえ。土の下へ埋めて、二度とこの世に戻らないように……。
エヴァンは頷いた。父の為なら何でもする。
*
大事故だった。全てが瓦礫と土の下に埋められた。何百人もの坑夫が行方不明のままだった。
そして父も……。父は動けなかった。足の骨が砕けていたからだ。
それでなくとも、老いた父は痩せ細り、歩くのも儘ならなかった。
「父さん、もう行かないと」
鉱山の入り口にある地下倉庫の一室で、エヴァンは父の膝の横にハンマーを置いた。
父は壁にもたれかかり、床に投げ出された足は不自然な方向を向いている。
「待て!」父は叫んだ。
エヴァンは倉庫を出る前に一度だけ振り返った。
父は恐ろしい顔をしていた。
肌は真っ赤に上気し、目は釣り上がっていた。まるで悪魔だ。
彼は死を前にしてもなお、息子の裏切りに怒っている。
エヴァンは口元に手を当てた。俺は笑っている。父を捨てようとしている今でさえも……。
エヴァンは地下倉庫を出て、鉱山の出口へと向かった。父の叫び声は廊下にまで響いている。だがその声が地上に届く事はない……。
エヴァンの心はいつに無く軽かった。
従業員にも気さくに挨拶を返し、口元には微笑みさえ浮かべている。
何事も無いかのように平然として、エヴァンは鉱山から立ち去った。
坑内に仕掛けられたおびただしい数のダイナマイトは、ちょっとした弾みで鉱山を土の下に埋めてしまうだろう。
鉱山には、ガスや火花によって引き起こされる事故は付き物だった。
今回の事故も同じように、ちょっとした弾みで引き起こされるはずだった。
そして、全てはエヴァンの罪と共に土の下に埋まってしまうのだ。
マクミラン家の財産を産み出した鉱山と共に。父がウジ虫と呼ぶ労働者と共に。塵と灰と共に。