誰よりも特別な標的
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怒り。彼女に対する感情を表すとしたら、その言葉が一番しっくりくる。
ゴーストフェイスはいつも持ち歩いている手帳を開いて、そこに書かれた言葉や貼り付けられた新聞の切り抜きや写真を眺めた。
この世界に呼ばれた後も、この手帳はゴーストフェイスの手元に残されたままだった。
彼がエンティティに霧の森へと呼ばれてから、永遠とも呼べるほどの長い時間が過ぎていた。それでも手帳を開けば、今でも元の世界での出来事を思い出す事ができた。
例えば"ゴーストフェイス"という殺人鬼のアイディアを思いついた日のこと。そして初めての殺人。
その象徴的なマスクが新聞の一面に掲載されたこと……もちろんその記事は切り抜いて手帳に貼り付けてある。
被害者達の情報を眺めれば、すぐに彼らの姿を思い出すことができる。それに……夢子の事は、他の誰よりも鮮明に思い出せる。
ゴーストフェイスにとって、彼女は元の世界で唯一の心残りだった。
彼女を殺すと決めてから、何日もかけて準備を進めていた……。
彼女を見張り、つけ回し、その生活や交友関係を覗き見た。
ほとんどの時間は遠くから眺めるだけだったが、一度だけ彼女が立ち寄ったカフェに乗り込んで、その姿を間近で観察したこともある。
ゴーストフェイスは今でもその日の事をはっきりと鮮やかに思い出す事ができる。
彼女と同じようにドリップコーヒーを注文して、隣の席に座り何気なく視線を向けてその姿を観察した。
彼女はテーブルの上に置かれた本を熱心に読んでいた。開いた本は何度も読み込んでいるのだろう。日焼けしてくたびれている。
髪が一筋だけ垂れて、テーブルに影を作っている。薄く開かれた小さな唇。少しずつ減ってゆくコーヒー。彼女の日常……。その中に入り込み、同じ時間を同じ場所で過ごす楽しさ。あれだけニュースで取り上げられている殺人鬼がすぐ隣にいるなんて、誰が想像する?
彼女はコーヒーを飲み干し本を閉じた。そして席を立つ瞬間、ほんの一瞬だけ目が合った。彼女の黒い瞳が細められ、小さな唇の端がきゅっと持ち上がり、微笑みを形作ったのを覚えている。
その表情は、偶然隣の席に座っただけの男に向けるにしては、あまりにも誘惑的だった。
この瞬間から彼女のことを特別に思うようになった。それからは他のターゲットよりも多くの時間を割いて彼女をつけ回した。写真だって他の誰よりもたくさん撮った。
どれだけの時間と労力を彼女の為に使ったかを伝えるなら、いつも持ち歩いている手帳を開いて見せるだけで良い。そこには彼女の情報が隙間なく書き込まれている。
彼女の家、職業、電話番号、交友関係……。
今まで数えきれない程この手帳を開き、彼女についてメモをした……彼女がよく立ち寄る店、毎月買う雑誌、好みのファッションブランド。靴のサイズ。
好きな食べ物。好きな映画。好きな歌手。最後にデートをした日。そしてそのデートが失敗に終わった事。
毎朝乗るバスの時間。帰りのバスの時間。ランチにはよくコーヒーとサンドイッチを食べること。コーヒーに入れる砂糖はブラウンシュガーが好きな事。ひとつ一つはとても些細な事だ。だが、その断片的な情報をパズルのように組み立て重ね合わせ、夢子という一人の人物を紐解いてゆく……。
彼女のことを知る度に、自分の中でその存在が大きく意味のあるものに変わってゆく。
彼女は選ばれたのだ。ゴーストフェイスという殺人鬼の犠牲者として、彼女は誰よりも特別な女性になった。だからこそ、彼女を失ってしまった事実がいまだに心を苦しめた。
ゴーストフェイスは手帳を開いた。ページの間に一枚の紙切れが挟まっている。それは新聞の切り抜きで、そこには小さな文字でこう印字されていた。『⚪︎月⚪︎日正午より、⚪︎⚪︎教会にて葬儀を執り行う』
その記事を初めて読んだ時、激しい怒りに心が満たされた事を覚えている。
事故だなんて!彼女の死は自分が与えるはずだった!彼女の死は特別なものになるはずだった。テレビや新聞で取り上げられるような、大事件になるはずだった。
だが彼女の死について取り上げたのは、新聞の……それも地方紙の訃報欄にたった数行だけだった。
ゴーストフェイスはその小さな訃報欄を切り取って、手帳の間に収めた。彼女の死をいつでも眺める事ができるように。彼女を失った怒りを忘れないように。
*
夢子は焚き火に手を当てて暖をとりながら、他のサバイバー達と儀式について相談をしたり、雑談をして時間を潰していた。
夢子は霧の森に来て長い……元の世界で交通事故にあった事は覚えていた。
目の前が暗くなって、そして次に目覚めた時にはこの世界に入り込んでいた。
耳元でざわめきのような声が聴こえて、夢子ははっとして顔を上げた。その声はこの世界を支配するエンティティの声だった。エンティティは恐怖や絶望という感情を求めているのだと他のサバイバーに聞いた。
エンティティは己の欲求ためにサバイバーとキラーを死と暴力の儀式へと参加させる。どんなに嫌がっても、その命令は絶対だ。
より儀式を面白くするためなら、エンティティはどんな事でも強制した。
力を奪われたり、儀式が不利になることもある。だが抵抗しても痛い目に合うだけだから命令を受け入れるしかない……。
夢子はエンティティの囁くような呼び声を頼りに立ちこめる霧の中を進んだ。霧はとても濃く、目の前は殆ど見る事が出来ない。
木々に囲まれ、道はでこぼことして歩き辛い。足元に注意しながら、どうにか前へと進んで行く。
やがて道が広がり、霧が少し晴れると同時にエンティティの声も遠ざかった。
夢子はその場に立ち止まって息を押さえた。
すぐ目の前に、人がいる。背が高く、暗闇に溶け込むような黒っぽい服を着ている……そしてその顔は白いマスクで覆い隠されていた。明らかにサバイバーではなかった。
だが、不気味なマスク以外は、ごく普通の人間の男に見えた。
ふいに白いマスクが夢子の方を向き、夢子の心臓が大きく音を立てた。
あのマスクを知っている。どこで見たのだろう?思い出す事が出来ない……。それよりも、儀式の外でキラーと鉢合わせれば悪い事が起こるに違いない。夢子はゆっくりと後ろへ後ずさる。しかしキラーの方も夢子へと一歩足を進めた。
「夢子……!」
夢子はキラーに背を向けて来た道を引き返そうとしたが、彼に呼び止められてその場に立ち止まった。
キラーが自分の名前を呼んだことに夢子は驚いた。
儀式では、彼らが馴れ馴れしくサバイバーに話しかける事は決してない。ましてや名前を呼ぶなんて……。それよりも、どうして名前を知っているの?
夢子は後ろを振り返った。
そのキラーは、夢子の方へと近づいて来る。
「やっぱり君だ……君は変わらないね」
キラーはすでに夢子のすぐ目の前まで近づいている。久しぶりに会う友人のように、相手の反応を伺いながら、距離感を推しはかるように、ゆっくりと、だが確実に距離を詰める。夢子は眉間に皺を寄せ、キラーを睨みつけた。
「あなたは誰?どうして私の名前を知ってるの?」
夢子の問いかけに彼は小さく笑った。
「俺はゴーストフェイス……。ここでも、元の世界でも、そう呼ばれているよ」
ゴーストフェイス……!
新聞やテレビで何度も報道されていた。ニュースを通して、あの白いマスクを見た事があったのだ。
州を跨ぎ、犯罪を重ねる殺人鬼……殺し方はいつも決まって刃物での刺殺。傷の深さや断面から、好んで使うのはサバイバルナイフやコンバットナイフだと報道されていた。
身体中に残されたあまりにも多い傷跡。傷跡はどれも抉れるように深い……
はじめは怨恨での犯行と推測されたが、被害者が増えるにつれてその推測は誤りだと推理された。犯人は無作為に被害者を選んでいる。そして、殺人という行為を楽しんでいるのだ。人の身体にナイフを突き立てたり、身体から血が抜けていくのを楽しんでいるのだ。
人々は恐怖した。監視カメラに映されたその姿は、ホラー映画のように特徴的だった。
夢子はごくりと息を飲み込んだ。あの犯人もエンティティによってこの世界へ連れて来られたのだ。
ゴーストフェイスは夢子に黒い表紙の手帳を見せた。
「俺がなぜ君の事を知ってるのかは、これを見ればすぐにわかるよ」
ゴーストフェイスは持っていた手帳から一枚の紙切れを取り出した。
夢子は差し出された紙切れに視線を向けた。折り目としわに覆われたそれは新聞の切り抜きのようで、長い年月を経て茶色く変色し、端の方はぼろぼろに朽ちかけていた。
夢子は眉間に皺を寄せて、ゴーストフェイスに視線を戻した。
「何なの、これは?」
夢子の言葉に、ゴーストフェイスはため息をついた。
「分からない?君の葬儀の告知だよ」
「私の?」夢子はもう一度切り抜きに視線を向けたが、ゴーストフェイスは夢子の手からそれを取り返した。
さも大切な宝物を愛しむように、その切り抜きを指先でなぞり、丁寧に折りたたみ、手帳の間にしまい込んだ。
「俺は元の世界から君を知っている。君のために計画も立てていたんだよ。ゴーストフェイスの被害者として、君の名前はアメリカ中に注目され、この事件は人々の記憶に残るはずだった」
ゴーストフェイスは夢子に視線を向けた。
「だが、君はその前に亡くなった。それも、ただの事故でね」
「ただの事故?」
「そう。ただの交通事故だ」
ゴーストフェイスの言葉に、夢子は思わず笑い声を上げた。ただの交通事故ですって?この男はなんて身勝手なのだろう。
夢子は腕を組んでゴーストフェイスを睨みつけた。
「残念だったわね。それで、私の葬儀にはあなたも参列したの?」
ゴーストフェイスは肩をすくめた。いくら彼が長い間、夢子の事をつけ回したとしても結局は他人だった。
「私はあなたの事なんて知らないし、あなたのろくでもない計画の犠牲にならなくて良かったと思ってる」
夢子がそう言い捨てると、ゴーストフェイスはさも愉快そうに笑った。
「君が強気なのは結構だけど、言葉には気をつけた方がいい。相手は殺人鬼で、手にはナイフを持っているんだから」
夢子は首を左右に振った。今さら彼を怖がれとでも言うのだろうか。
夢子はゴーストフェイスが来るずっと前からこの世界にいるのだ。恐怖は麻痺し、もはや死は彼女を縛り付けなかった。
「あなたの計画は失敗した」
夢子ははっきりとそう言った。
「あなたがどんなに時間と労力を使ったとしても、どんなに素敵な計画を立てていたとしても、私は"ただの"事故で死んでしまった」
ゴーストフェイスは夢子の言葉に頷いた。
「そうだ。君は俺の計画を台無しにした」
ゴーストフェイスは夢子に近寄り、その肩に触れた。不気味なマスクが近付き、夢子は顔を背けた。
「また会えて嬉しいよ」
マスクごしに聞こえる彼の息遣いはくぐもっている。彼は他のキラーとはまるで違う。言葉を交わせるし、その手つきはとても丁寧で優しかった。
ゴーストフェイスは夢子の顔を見つめた。彼の目はマスクで隠されているが、夢子はその視線を感じ取った。
「君の顔をこんなに近くで見たのは初めてだ」ゴーストフェイスはそう囁いた。
「この世界に君がいると知って、君を殺すことばかり考えていた」
ゴーストフェイスの指が、夢子の頬をなぞり唇に触れた。
「でも今は、君を殺してしまうのがとても惜しい……」
革手袋に覆われた彼の指先の動きはとても優しく繊細だった。ゴーストフェイスは夢子の頬を両手で包み込んだ。夢子の顔はまっすぐに彼の方へ向けられる。白い不気味なマスクに見下ろされ、夢子の心臓は音を立てた。二人の距離は衣服が擦れ合うほど近く、恋人同士ならこのままキスをするような格好だった。
目の前の殺人鬼の表情は見えず、彼が何を考えているのかは分からない。
しばらく見つめ合い、やがてゴーストフェイスは夢子から手を離した。
「夢子……ずっと君が欲しかった」
ゴーストフェイスはとても穏やかな、だがはっきりと脅しを含んだ声で言った。
「この世界に来てからも君の事をよく考えていた。事故なんかじゃなくて、俺の手で直接君を殺せたらって、何度も想像したよ」
夢子は首を左右に振った。
ゴーストフェイスはナイフを取り出し、その刃を夢子へ向けた。
後ずさる夢子の腕を掴み、ナイフの刃をゆっくりと動かした。その刃は夢子の首筋を辿り、襟から服の内側へと滑り込んだ。
胸の上をナイフの刃がなぞり、肌の表面を切り裂いてゆく……。夢子の顔に恐怖が浮かぶのを見て、ゴーストフェイスは笑った。
「その表情が見たかったんだ。君は本当に魅力的だよ」
ゴーストフェイスはさらに強くナイフの刃を押し付けた。
「やめて!」鋭い痛みに夢子は叫び声を上げた。「もう離して……!私のことは放っておいて。私は貴方のことを知らないのよ……」
この世界にいる殺人鬼達はみんな狂ってるけど、彼も同じなのだと夢子は思った。
夢子はゴーストフェイスの手を振り払って、どうにかその場から逃げようとした。
だがゴーストフェイスは咄嗟に夢子の腕を掴み、後ろから抱きつくような格好で彼女の首筋にナイフを押し当てた。
皮膚の表面が切れて、じわりと血が滲む。
夢子は自分のすぐ後ろでゴーストフェイスの体温と息づかいを感じた。
「どうしてお前は俺の手を煩わせようとする?」
背後から響くゴーストフェイスの声は、とても落ち着いていた。
「元の世界でも俺の計画を無駄にした。この世界でも、相変わらず俺から逃げようとする……」首筋に当てられたナイフの刃が少しずつ食い込むのを感じる。夢子はどうにか離れようと顔をのけ反らせたり、もがこうとしたが、腕を強く掴まれていて上手くいかなかった。
「離して!私を殺すなら儀式でやってよ!」
夢子の言葉を無視して、ゴーストフェイスはそのまま夢子を押し倒し、うつ伏せに倒れ込んだ彼女の上に馬乗りになった。
完全に押さえつけられた夢子は、どんなに努力しても、ひとつも身動きが取れなかった。思わず目から涙がこぼれ落ちた。
「やめて」背中にゴーストフェイスの膝が食い込み、痛みと圧迫感で上手く息が吸えない。夢子は苦しさにあえいだ。「お願い」
首筋に当てられたナイフがぐっと強く押し付けられ、そのまま力強く引き裂かれた。
鋭い痛みが走り、夢子は苦痛で大きく叫んだ。それは衝撃的で耐え難い痛みだった。夢子がどんなに泣こうが叫ぼうが、ゴーストフェイスは躊躇をしなかった。彼は夢子の背中に向けてナイフを突き立てた。何度も、何度も。力強く。繰り返し。
*
夢子はゴーストフェイスの目の前で横たわっている。深く抉られた背中から大量の血が流れていて、服は真っ赤に染まり、彼女の体の下には赤い血溜まりが広がっていた。
あまりにも夢中でその行為に耽っていたらしい。力任せに何度もナイフを突き刺したのだろう。夢子の身体はなかば潰れているように見えた。
彼女の顔や腕は血の気がなく、硬く強張っている。
あれだけ彼女を求めていたのに、終わってしまうと呆気ないものだった。もう彼女を見たり、触れたいとは思わない。
あたりは血の匂いに満ちて、空にはエンティティの僕であるカラスが旋回している。
儀式以外での死はどのような扱いになるのだろう。いつもの儀式のように彼女は蘇るのだろうか。もし再び彼女に出会えたとしたら、その時は今日よりも優しく出来ると確信している。彼女はもう自分のものだった。
ゴーストフェイスはナイフの刃を指先で拭った。彼の衣装は返り血でべとべとに汚れていた。
ゴーストフェイスはマスクを外して汗で濡れた額を拭った。血で汚れた革手袋を外し、いつも持ち運んでいる手帳から、あの切り抜きを取り出した。いつものように指先でその感触を楽しむ。
ついに夢子を手に入れた。
事故ではなく、殺人鬼ゴーストフェイスに殺されたのだ。
大きな充足感があった。
きっと明日の朝刊の一面は夢子のことでいっぱいになる。
そこには彼女の写真と、事件現場の写真が飾られる。どんな見出しが良いだろうか。どんな記事になったとしても、"ゴーストフェイス"の名前は絶対に取り上げる必要がある。
新聞の一面に宣伝してもらえば、この殺人鬼はさらに有名な存在になる。
特徴的な犯人の姿や、残忍な殺し方に世間は大いに盛り上がるはずだ。
誰が何と言おうと、人は怖いものが好きなんだ。ホラーやオカルトはいつの時代も人気のジャンルだし、近年のホラー映画は競い合うように過激なシーンを撮影し、それを売り物にしている。
ゴーストフェイスは夢子の体を眺めた。力なく横たわる彼女の肌は真っ白だった。
すぐ側で一羽のカラスが地面に降りてじっとしていた。カラスの目はしっかりとゴーストフェイスを捉えている。エンティティはカラスの目を通して自分を観察しているのだろうか。ゴーストフェイスが近寄ると、カラスは空に飛んで行った。
カラスが飛んで行くのと同時に、ゴーストフェイスの心の中に暗い感情が大きく膨らんでいった。
ここは何もない世界だ。夢子の死を報道する明日の朝刊なんて存在しない。
元の世界で、夢子が"ただの事故"で亡くなった事実は変わらない。
ゴーストフェイスは手帳を開き、いつも眺めている新聞の切り抜きを取り出し視線を向ける。
しかしそこには何も書かれていなかった。
夢子の名前も、彼女の葬儀の告知も、何もなかった。
切り抜きは長い年月を経て殆ど朽ちかけていた。
雨でインクは滲み、手帳と指で擦り切れ、残っているのはボロボロになった切れ端だけだった。そこに印字された言葉は一つも読み取る事ができない。
つい数時間前までは、彼の目は美しい活字体が並ぶ様を見ていたし、彼の鼻は真新しいインクのにおいを感じ取っていた。だが、今はそれが出来なくなっていた。
頭の奥にズキズキとした痛みが走り、ゴーストフェイスはぎゅっと目を瞑った。
彼女は事故で亡くなった。いや、俺がこの手で殺したのか?
現実と非現実の境界は曖昧だった。この世界で正気を保つのは難しい。
ゴーストフェイスは地面から立ち上がった。
高揚感はとうに消え失せ、今はただ疲れだけが残っていた。ようやく夢子を手に入れたのに、心は空っぽだった。
ゴーストフェイスはそのまま霧の中を歩き始めた。エンティティが呼んでいる。また儀式に参加しなければならない。
夢子……彼女は死んだ。彼女はもう存在しない。儀式ではないから蘇ることはない……。エンティティの囁きが頭の中に忍び込んでくる。
夢子はもういない。それでもこの世界は永遠に続く……。
ゴーストフェイスは重い足取りで道を進んだ。立ちこめる霧の向こうはあまりにも空虚だった。
おわり
ゴーストフェイスはいつも持ち歩いている手帳を開いて、そこに書かれた言葉や貼り付けられた新聞の切り抜きや写真を眺めた。
この世界に呼ばれた後も、この手帳はゴーストフェイスの手元に残されたままだった。
彼がエンティティに霧の森へと呼ばれてから、永遠とも呼べるほどの長い時間が過ぎていた。それでも手帳を開けば、今でも元の世界での出来事を思い出す事ができた。
例えば"ゴーストフェイス"という殺人鬼のアイディアを思いついた日のこと。そして初めての殺人。
その象徴的なマスクが新聞の一面に掲載されたこと……もちろんその記事は切り抜いて手帳に貼り付けてある。
被害者達の情報を眺めれば、すぐに彼らの姿を思い出すことができる。それに……夢子の事は、他の誰よりも鮮明に思い出せる。
ゴーストフェイスにとって、彼女は元の世界で唯一の心残りだった。
彼女を殺すと決めてから、何日もかけて準備を進めていた……。
彼女を見張り、つけ回し、その生活や交友関係を覗き見た。
ほとんどの時間は遠くから眺めるだけだったが、一度だけ彼女が立ち寄ったカフェに乗り込んで、その姿を間近で観察したこともある。
ゴーストフェイスは今でもその日の事をはっきりと鮮やかに思い出す事ができる。
彼女と同じようにドリップコーヒーを注文して、隣の席に座り何気なく視線を向けてその姿を観察した。
彼女はテーブルの上に置かれた本を熱心に読んでいた。開いた本は何度も読み込んでいるのだろう。日焼けしてくたびれている。
髪が一筋だけ垂れて、テーブルに影を作っている。薄く開かれた小さな唇。少しずつ減ってゆくコーヒー。彼女の日常……。その中に入り込み、同じ時間を同じ場所で過ごす楽しさ。あれだけニュースで取り上げられている殺人鬼がすぐ隣にいるなんて、誰が想像する?
彼女はコーヒーを飲み干し本を閉じた。そして席を立つ瞬間、ほんの一瞬だけ目が合った。彼女の黒い瞳が細められ、小さな唇の端がきゅっと持ち上がり、微笑みを形作ったのを覚えている。
その表情は、偶然隣の席に座っただけの男に向けるにしては、あまりにも誘惑的だった。
この瞬間から彼女のことを特別に思うようになった。それからは他のターゲットよりも多くの時間を割いて彼女をつけ回した。写真だって他の誰よりもたくさん撮った。
どれだけの時間と労力を彼女の為に使ったかを伝えるなら、いつも持ち歩いている手帳を開いて見せるだけで良い。そこには彼女の情報が隙間なく書き込まれている。
彼女の家、職業、電話番号、交友関係……。
今まで数えきれない程この手帳を開き、彼女についてメモをした……彼女がよく立ち寄る店、毎月買う雑誌、好みのファッションブランド。靴のサイズ。
好きな食べ物。好きな映画。好きな歌手。最後にデートをした日。そしてそのデートが失敗に終わった事。
毎朝乗るバスの時間。帰りのバスの時間。ランチにはよくコーヒーとサンドイッチを食べること。コーヒーに入れる砂糖はブラウンシュガーが好きな事。ひとつ一つはとても些細な事だ。だが、その断片的な情報をパズルのように組み立て重ね合わせ、夢子という一人の人物を紐解いてゆく……。
彼女のことを知る度に、自分の中でその存在が大きく意味のあるものに変わってゆく。
彼女は選ばれたのだ。ゴーストフェイスという殺人鬼の犠牲者として、彼女は誰よりも特別な女性になった。だからこそ、彼女を失ってしまった事実がいまだに心を苦しめた。
ゴーストフェイスは手帳を開いた。ページの間に一枚の紙切れが挟まっている。それは新聞の切り抜きで、そこには小さな文字でこう印字されていた。『⚪︎月⚪︎日正午より、⚪︎⚪︎教会にて葬儀を執り行う』
その記事を初めて読んだ時、激しい怒りに心が満たされた事を覚えている。
事故だなんて!彼女の死は自分が与えるはずだった!彼女の死は特別なものになるはずだった。テレビや新聞で取り上げられるような、大事件になるはずだった。
だが彼女の死について取り上げたのは、新聞の……それも地方紙の訃報欄にたった数行だけだった。
ゴーストフェイスはその小さな訃報欄を切り取って、手帳の間に収めた。彼女の死をいつでも眺める事ができるように。彼女を失った怒りを忘れないように。
*
夢子は焚き火に手を当てて暖をとりながら、他のサバイバー達と儀式について相談をしたり、雑談をして時間を潰していた。
夢子は霧の森に来て長い……元の世界で交通事故にあった事は覚えていた。
目の前が暗くなって、そして次に目覚めた時にはこの世界に入り込んでいた。
耳元でざわめきのような声が聴こえて、夢子ははっとして顔を上げた。その声はこの世界を支配するエンティティの声だった。エンティティは恐怖や絶望という感情を求めているのだと他のサバイバーに聞いた。
エンティティは己の欲求ためにサバイバーとキラーを死と暴力の儀式へと参加させる。どんなに嫌がっても、その命令は絶対だ。
より儀式を面白くするためなら、エンティティはどんな事でも強制した。
力を奪われたり、儀式が不利になることもある。だが抵抗しても痛い目に合うだけだから命令を受け入れるしかない……。
夢子はエンティティの囁くような呼び声を頼りに立ちこめる霧の中を進んだ。霧はとても濃く、目の前は殆ど見る事が出来ない。
木々に囲まれ、道はでこぼことして歩き辛い。足元に注意しながら、どうにか前へと進んで行く。
やがて道が広がり、霧が少し晴れると同時にエンティティの声も遠ざかった。
夢子はその場に立ち止まって息を押さえた。
すぐ目の前に、人がいる。背が高く、暗闇に溶け込むような黒っぽい服を着ている……そしてその顔は白いマスクで覆い隠されていた。明らかにサバイバーではなかった。
だが、不気味なマスク以外は、ごく普通の人間の男に見えた。
ふいに白いマスクが夢子の方を向き、夢子の心臓が大きく音を立てた。
あのマスクを知っている。どこで見たのだろう?思い出す事が出来ない……。それよりも、儀式の外でキラーと鉢合わせれば悪い事が起こるに違いない。夢子はゆっくりと後ろへ後ずさる。しかしキラーの方も夢子へと一歩足を進めた。
「夢子……!」
夢子はキラーに背を向けて来た道を引き返そうとしたが、彼に呼び止められてその場に立ち止まった。
キラーが自分の名前を呼んだことに夢子は驚いた。
儀式では、彼らが馴れ馴れしくサバイバーに話しかける事は決してない。ましてや名前を呼ぶなんて……。それよりも、どうして名前を知っているの?
夢子は後ろを振り返った。
そのキラーは、夢子の方へと近づいて来る。
「やっぱり君だ……君は変わらないね」
キラーはすでに夢子のすぐ目の前まで近づいている。久しぶりに会う友人のように、相手の反応を伺いながら、距離感を推しはかるように、ゆっくりと、だが確実に距離を詰める。夢子は眉間に皺を寄せ、キラーを睨みつけた。
「あなたは誰?どうして私の名前を知ってるの?」
夢子の問いかけに彼は小さく笑った。
「俺はゴーストフェイス……。ここでも、元の世界でも、そう呼ばれているよ」
ゴーストフェイス……!
新聞やテレビで何度も報道されていた。ニュースを通して、あの白いマスクを見た事があったのだ。
州を跨ぎ、犯罪を重ねる殺人鬼……殺し方はいつも決まって刃物での刺殺。傷の深さや断面から、好んで使うのはサバイバルナイフやコンバットナイフだと報道されていた。
身体中に残されたあまりにも多い傷跡。傷跡はどれも抉れるように深い……
はじめは怨恨での犯行と推測されたが、被害者が増えるにつれてその推測は誤りだと推理された。犯人は無作為に被害者を選んでいる。そして、殺人という行為を楽しんでいるのだ。人の身体にナイフを突き立てたり、身体から血が抜けていくのを楽しんでいるのだ。
人々は恐怖した。監視カメラに映されたその姿は、ホラー映画のように特徴的だった。
夢子はごくりと息を飲み込んだ。あの犯人もエンティティによってこの世界へ連れて来られたのだ。
ゴーストフェイスは夢子に黒い表紙の手帳を見せた。
「俺がなぜ君の事を知ってるのかは、これを見ればすぐにわかるよ」
ゴーストフェイスは持っていた手帳から一枚の紙切れを取り出した。
夢子は差し出された紙切れに視線を向けた。折り目としわに覆われたそれは新聞の切り抜きのようで、長い年月を経て茶色く変色し、端の方はぼろぼろに朽ちかけていた。
夢子は眉間に皺を寄せて、ゴーストフェイスに視線を戻した。
「何なの、これは?」
夢子の言葉に、ゴーストフェイスはため息をついた。
「分からない?君の葬儀の告知だよ」
「私の?」夢子はもう一度切り抜きに視線を向けたが、ゴーストフェイスは夢子の手からそれを取り返した。
さも大切な宝物を愛しむように、その切り抜きを指先でなぞり、丁寧に折りたたみ、手帳の間にしまい込んだ。
「俺は元の世界から君を知っている。君のために計画も立てていたんだよ。ゴーストフェイスの被害者として、君の名前はアメリカ中に注目され、この事件は人々の記憶に残るはずだった」
ゴーストフェイスは夢子に視線を向けた。
「だが、君はその前に亡くなった。それも、ただの事故でね」
「ただの事故?」
「そう。ただの交通事故だ」
ゴーストフェイスの言葉に、夢子は思わず笑い声を上げた。ただの交通事故ですって?この男はなんて身勝手なのだろう。
夢子は腕を組んでゴーストフェイスを睨みつけた。
「残念だったわね。それで、私の葬儀にはあなたも参列したの?」
ゴーストフェイスは肩をすくめた。いくら彼が長い間、夢子の事をつけ回したとしても結局は他人だった。
「私はあなたの事なんて知らないし、あなたのろくでもない計画の犠牲にならなくて良かったと思ってる」
夢子がそう言い捨てると、ゴーストフェイスはさも愉快そうに笑った。
「君が強気なのは結構だけど、言葉には気をつけた方がいい。相手は殺人鬼で、手にはナイフを持っているんだから」
夢子は首を左右に振った。今さら彼を怖がれとでも言うのだろうか。
夢子はゴーストフェイスが来るずっと前からこの世界にいるのだ。恐怖は麻痺し、もはや死は彼女を縛り付けなかった。
「あなたの計画は失敗した」
夢子ははっきりとそう言った。
「あなたがどんなに時間と労力を使ったとしても、どんなに素敵な計画を立てていたとしても、私は"ただの"事故で死んでしまった」
ゴーストフェイスは夢子の言葉に頷いた。
「そうだ。君は俺の計画を台無しにした」
ゴーストフェイスは夢子に近寄り、その肩に触れた。不気味なマスクが近付き、夢子は顔を背けた。
「また会えて嬉しいよ」
マスクごしに聞こえる彼の息遣いはくぐもっている。彼は他のキラーとはまるで違う。言葉を交わせるし、その手つきはとても丁寧で優しかった。
ゴーストフェイスは夢子の顔を見つめた。彼の目はマスクで隠されているが、夢子はその視線を感じ取った。
「君の顔をこんなに近くで見たのは初めてだ」ゴーストフェイスはそう囁いた。
「この世界に君がいると知って、君を殺すことばかり考えていた」
ゴーストフェイスの指が、夢子の頬をなぞり唇に触れた。
「でも今は、君を殺してしまうのがとても惜しい……」
革手袋に覆われた彼の指先の動きはとても優しく繊細だった。ゴーストフェイスは夢子の頬を両手で包み込んだ。夢子の顔はまっすぐに彼の方へ向けられる。白い不気味なマスクに見下ろされ、夢子の心臓は音を立てた。二人の距離は衣服が擦れ合うほど近く、恋人同士ならこのままキスをするような格好だった。
目の前の殺人鬼の表情は見えず、彼が何を考えているのかは分からない。
しばらく見つめ合い、やがてゴーストフェイスは夢子から手を離した。
「夢子……ずっと君が欲しかった」
ゴーストフェイスはとても穏やかな、だがはっきりと脅しを含んだ声で言った。
「この世界に来てからも君の事をよく考えていた。事故なんかじゃなくて、俺の手で直接君を殺せたらって、何度も想像したよ」
夢子は首を左右に振った。
ゴーストフェイスはナイフを取り出し、その刃を夢子へ向けた。
後ずさる夢子の腕を掴み、ナイフの刃をゆっくりと動かした。その刃は夢子の首筋を辿り、襟から服の内側へと滑り込んだ。
胸の上をナイフの刃がなぞり、肌の表面を切り裂いてゆく……。夢子の顔に恐怖が浮かぶのを見て、ゴーストフェイスは笑った。
「その表情が見たかったんだ。君は本当に魅力的だよ」
ゴーストフェイスはさらに強くナイフの刃を押し付けた。
「やめて!」鋭い痛みに夢子は叫び声を上げた。「もう離して……!私のことは放っておいて。私は貴方のことを知らないのよ……」
この世界にいる殺人鬼達はみんな狂ってるけど、彼も同じなのだと夢子は思った。
夢子はゴーストフェイスの手を振り払って、どうにかその場から逃げようとした。
だがゴーストフェイスは咄嗟に夢子の腕を掴み、後ろから抱きつくような格好で彼女の首筋にナイフを押し当てた。
皮膚の表面が切れて、じわりと血が滲む。
夢子は自分のすぐ後ろでゴーストフェイスの体温と息づかいを感じた。
「どうしてお前は俺の手を煩わせようとする?」
背後から響くゴーストフェイスの声は、とても落ち着いていた。
「元の世界でも俺の計画を無駄にした。この世界でも、相変わらず俺から逃げようとする……」首筋に当てられたナイフの刃が少しずつ食い込むのを感じる。夢子はどうにか離れようと顔をのけ反らせたり、もがこうとしたが、腕を強く掴まれていて上手くいかなかった。
「離して!私を殺すなら儀式でやってよ!」
夢子の言葉を無視して、ゴーストフェイスはそのまま夢子を押し倒し、うつ伏せに倒れ込んだ彼女の上に馬乗りになった。
完全に押さえつけられた夢子は、どんなに努力しても、ひとつも身動きが取れなかった。思わず目から涙がこぼれ落ちた。
「やめて」背中にゴーストフェイスの膝が食い込み、痛みと圧迫感で上手く息が吸えない。夢子は苦しさにあえいだ。「お願い」
首筋に当てられたナイフがぐっと強く押し付けられ、そのまま力強く引き裂かれた。
鋭い痛みが走り、夢子は苦痛で大きく叫んだ。それは衝撃的で耐え難い痛みだった。夢子がどんなに泣こうが叫ぼうが、ゴーストフェイスは躊躇をしなかった。彼は夢子の背中に向けてナイフを突き立てた。何度も、何度も。力強く。繰り返し。
*
夢子はゴーストフェイスの目の前で横たわっている。深く抉られた背中から大量の血が流れていて、服は真っ赤に染まり、彼女の体の下には赤い血溜まりが広がっていた。
あまりにも夢中でその行為に耽っていたらしい。力任せに何度もナイフを突き刺したのだろう。夢子の身体はなかば潰れているように見えた。
彼女の顔や腕は血の気がなく、硬く強張っている。
あれだけ彼女を求めていたのに、終わってしまうと呆気ないものだった。もう彼女を見たり、触れたいとは思わない。
あたりは血の匂いに満ちて、空にはエンティティの僕であるカラスが旋回している。
儀式以外での死はどのような扱いになるのだろう。いつもの儀式のように彼女は蘇るのだろうか。もし再び彼女に出会えたとしたら、その時は今日よりも優しく出来ると確信している。彼女はもう自分のものだった。
ゴーストフェイスはナイフの刃を指先で拭った。彼の衣装は返り血でべとべとに汚れていた。
ゴーストフェイスはマスクを外して汗で濡れた額を拭った。血で汚れた革手袋を外し、いつも持ち運んでいる手帳から、あの切り抜きを取り出した。いつものように指先でその感触を楽しむ。
ついに夢子を手に入れた。
事故ではなく、殺人鬼ゴーストフェイスに殺されたのだ。
大きな充足感があった。
きっと明日の朝刊の一面は夢子のことでいっぱいになる。
そこには彼女の写真と、事件現場の写真が飾られる。どんな見出しが良いだろうか。どんな記事になったとしても、"ゴーストフェイス"の名前は絶対に取り上げる必要がある。
新聞の一面に宣伝してもらえば、この殺人鬼はさらに有名な存在になる。
特徴的な犯人の姿や、残忍な殺し方に世間は大いに盛り上がるはずだ。
誰が何と言おうと、人は怖いものが好きなんだ。ホラーやオカルトはいつの時代も人気のジャンルだし、近年のホラー映画は競い合うように過激なシーンを撮影し、それを売り物にしている。
ゴーストフェイスは夢子の体を眺めた。力なく横たわる彼女の肌は真っ白だった。
すぐ側で一羽のカラスが地面に降りてじっとしていた。カラスの目はしっかりとゴーストフェイスを捉えている。エンティティはカラスの目を通して自分を観察しているのだろうか。ゴーストフェイスが近寄ると、カラスは空に飛んで行った。
カラスが飛んで行くのと同時に、ゴーストフェイスの心の中に暗い感情が大きく膨らんでいった。
ここは何もない世界だ。夢子の死を報道する明日の朝刊なんて存在しない。
元の世界で、夢子が"ただの事故"で亡くなった事実は変わらない。
ゴーストフェイスは手帳を開き、いつも眺めている新聞の切り抜きを取り出し視線を向ける。
しかしそこには何も書かれていなかった。
夢子の名前も、彼女の葬儀の告知も、何もなかった。
切り抜きは長い年月を経て殆ど朽ちかけていた。
雨でインクは滲み、手帳と指で擦り切れ、残っているのはボロボロになった切れ端だけだった。そこに印字された言葉は一つも読み取る事ができない。
つい数時間前までは、彼の目は美しい活字体が並ぶ様を見ていたし、彼の鼻は真新しいインクのにおいを感じ取っていた。だが、今はそれが出来なくなっていた。
頭の奥にズキズキとした痛みが走り、ゴーストフェイスはぎゅっと目を瞑った。
彼女は事故で亡くなった。いや、俺がこの手で殺したのか?
現実と非現実の境界は曖昧だった。この世界で正気を保つのは難しい。
ゴーストフェイスは地面から立ち上がった。
高揚感はとうに消え失せ、今はただ疲れだけが残っていた。ようやく夢子を手に入れたのに、心は空っぽだった。
ゴーストフェイスはそのまま霧の中を歩き始めた。エンティティが呼んでいる。また儀式に参加しなければならない。
夢子……彼女は死んだ。彼女はもう存在しない。儀式ではないから蘇ることはない……。エンティティの囁きが頭の中に忍び込んでくる。
夢子はもういない。それでもこの世界は永遠に続く……。
ゴーストフェイスは重い足取りで道を進んだ。立ちこめる霧の向こうはあまりにも空虚だった。
おわり
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