本当の微笑み
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DV、虐待の描写があります。
1
トラッパーは儀式を終えて住処へと戻った。
今夜の儀式は上々で、エンティティの機嫌も良かった。これでしばらくの間は儀式に呼ばれる事も無く、ゆっくりと過ごすことができるだろう……。
空を見上げると、白い月が濃い霧の中に隠れるようにして朧げな光を放っている。その光を眺めていると母の姿が脳裏に浮かんだ。母もあの月のように、いつも父から隠れるようにして生きていた……。
この世界に来てから、過去を思い出す事は殆ど無かった。だが一つ思い出すと、過去の思い出が次々と頭の中に浮かび上がった。
母は優雅で心優しい女性で、その唇に微笑みを浮かべると、それはもう本当に美しかった。
母が微笑んでいる姿が好きだった事を覚えている。だから幼い頃の自分は、いつも母を喜ばせようとして、彼女の側をまとわりついていたものだった。
トラッパーが住処にしている家に着くと、小さな足音を立てて、居候の少女が玄関まで出迎えに来た。
「おかえりなさい」
夢子はトラッパーに駆け寄り、彼の大きな身体に抱きついた。
背の高いトラッパーを見上げるようにして、夢子はにっこりと微笑んだ。
優しい微笑みだ……。ふと、母の微笑む姿が頭をよぎった。
「ご飯出来てるよ。一緒に食べよう!」
トラッパーは頷いて、夢子の頭を軽く撫でた。
エンティティに与えられた家の間取りは、居間とキッチンとバスルーム。それと寝室だけ。一人で暮らすには充分だったが、今は住人が増えたから少し手狭になった。
この小さな家では、どの部屋にいても夢子の存在を感じられた。
トラッパーは玄関で靴の泥を落とし、いつも食事を摂るテーブルの席についた。
部屋の中はランプの明かりに照らされて、古びたテーブルや椅子が暗闇の中に浮かび上がっている。部屋の中はよく手入れされていて清潔だった。
テーブルには既に温かい料理が並んでいて、カトラリーや皿も用意されていた。
「今日は寒いからシチューにしたの」
夢子はトラッパーのためにシチューとパンを皿に取り分けながらそう言った。
小柄な身体でよく働く夢子は、どこか小動物のような可愛らしさがあった。
彼女が働く様子は面白く、そして可愛らしくて、飽きずに眺めていられる。
トラッパーは用意されたシチューを口に運んだ。夢子はよくこのシチューを作ってくれる。
牛乳を入れて、小麦粉でとろみをつけたシチューは、元の世界では馴染みが無かったが、甘く優しい味で今では気に入っていた。
「美味しい?」
トラッパーが頷くと、夢子はにっこりと微笑んだ。
食事を囲みながら、二人は会話を楽しんだ。今日は肌寒いとか、新しい儀式の舞台は中世の戦場のようで驚いたとか、そんな他愛もない内容だが、夢子はよく笑い、よく喋った。
二人の食卓は楽しくて賑やかだった。
幸福な時間……。温かい家族の時間だ。トラッパーはそんな風に思った。彼にはこんなに温かくて賑やかな食事の思い出はなかった。
幼い頃の記憶だと、食事の時間は緊張と恐怖の時間だった。
父はいつも厳しく家族を管理し、母はいつも怯えていた。
2
幼いエヴァンは手を洗って席に着いた。汚れた手で食事をするのを父が嫌うからだ。
母は食事の準備をしていて、キッチンからは様々な音が聴こえてくる。鍋をかき混ぜる音。フライパンの上で肉が焼ける音。オーブンのジリジリという音。その音に合わせて、母は踊るようにして働いているのだ。
焼き立てのパン、蒸したじゃがいも、柔らかく煮た豆、ローストした豚肉。
居間にまで香ばしい香りが漂ってきて、エヴァンのお腹が音を立てた。
部屋の中に時計の音が響いてエヴァンはぎくりとした。針は16時を指している。坑夫の交代時間だ。つまり、父が帰って来る時間だ。
母は部屋中を見回した。母の目は家の中に間違いがないように、一つ一つ確認をしていく。食卓に置かれた皿の位置。カトラリーは汚れていないか。花瓶に活けられた花の向きにすら気を使った。
やがて父が帰宅すると、家の空気はピンと張り詰めたものになる。
エヴァンは居間で耳をそば立てた。
玄関の前でガサゴソと音がしている。その音だけで、父が帽子とコートを脱ぎ、母がそれを受け取るのがエヴァンには分かった。
しばらくすると外で水の跳ねる音が聴こえてくる。父は外の水汲み場で顔や手に付いた土と埃を洗い流しているのだ。
父は鉱山の経営者だが、坑夫を直接管理するのが好きで、よく現場へと降りては服や肌を汚して帰るのだった。
そろそろ父が家に戻ってくる。エヴァンは立ち上がって玄関へ向かい、父を出迎えた。
父は傲然たる態度でエヴァンを見下ろした。
その視線に見下ろされると、エヴァンはいつも自分が物凄く小さくて取るに足らない存在なのだと感じていた。
エヴァンは恐る恐る父の目を見た。今日は怒りの炎は燃えておらず、その目には何の感情も現れてはいなかった。
家族は食卓に着き、お祈りを済ませた。父のお祈りに合わせて母もエヴァンも一緒にお祈りをした。
父がナイフとフォークを手に取ったのを見て、エヴァンもようやくフォークを手に取った。それからエヴァンは一言も話さずに胃の中に食事を詰め込んだ。マクミラン家では、食事中の子供のおしゃべりを禁じていた。
よく躾けられた子供は大人の会話を邪魔せずに、いつも行儀良くしていなければならないのだ。
父は仕事の事をあれこれと話した。従業員の管理や生産高について。各地で失業者が増えているから、安い賃金で大勢の労働者を雇う計画をしている事。
母が相槌を打ち、当たり障りのない返事をすると、父の機嫌は良くなった。
父の唇は酒で濡れている。仕事の話は尽きることなく、母もまた熱心に耳を傾け続けた。
今日は何の問題もないようだ。エヴァンはパンをもう一つ手に取った。
ふと、父はエヴァンの方に視線を向けた。
父と目が合い、エヴァンは居心地の悪さを感じた。胃の奥がきゅっと締め付けられるような嫌な感じだった。
手は汚れていないし、一言も喋っていない。
口の中はからからに乾いて、嫌な味がする。
父はナイフとフォークをテーブルに置くと、食器がかちりと音を立てた。微かな音だが、やけに大きく響いて、母の肩がぎくりとして震えた。
「曲がっているぞ。」
父はそう言った。
たった一言だが、その口調はあまりに鋭く、エヴァンの心臓は大きく震えた。
母は慌てて立ち上がった。母の視線はエヴァンのネクタイを示している。
エヴァンはようやく自分のネクタイがだらしなく解けかかっている事に気が付いた。エヴァンの頭は真っ白になって何も考える事が出来なかった。手を動かしてネクタイを結び直す事さえ忘れて、ただ呆然と父の顔を見つめ返すだけだった。
母は席を立って、震える手でエヴァンのネクタイを結び直そうとした。
青ざめた母の顔。父は席を立ち、ゆっくりと近寄って来る。エヴァンと母の元へ……。
エヴァンは父の顔を見て息を飲んだ。
父の目は怒りに支配されていた。そして、エヴァンの目の前で、母の頭が大きく揺れた。
母の細い身体は床に叩きつけられ、硬い床にぶつかる嫌な音が響いた。
エヴァンは声が出なかった。何か言おうとすれば、涙も一緒に出てしまいそうだった。目の奥がつんと痛み、喉の奥がかっと熱くなる。
だが泣くのを堪えた。人前で泣くのは女だけだと父に教えられたからだ。
父は母の髪を掴み、床から引っ張り上げた。その頬は赤く腫れ上がり、唇には血が滲んでいた。
ごめんなさい。
母は謝罪の言葉を繰り返した。エヴァンの代わりに、何度も繰り返した。
母の身体はもう一度大きく跳ねた。
エヴァンは目を固く閉じて終わるのを待った。ただじっとして、口を結んで待つだけだ。何もしてはいけない。
母の啜り泣きの声。母とエヴァンを無視して、父が再び食事を続ける音。
何もしてはいけない。
エヴァンが何かをすれば、また母が痛めつけられるのだ。エヴァンに出来ることは、目を閉じて、終わるのを待つだけだ。だから、何もしてはいけない。
3
食事を終えた後、トラッパーは外していたマスクを再び付けた。
儀式以外でマスクを付ける必要はないが、外したままでいるのは落ち着かなかった。
夢子はキッチンで皿を洗っている。
トラッパーは工具箱を取り出して罠の手入れを始めた。
太い指を器用に使って、罠を分解し、錆と汚れを落として油を塗った。儀式ではわざと錆びた罠を使う事もあるが、普段は必ず手入れをする。罠の調子も良くなるし時間も潰せるので一石二鳥だった。それに、トラッパーは手を動かして黙々と作業をする時間が好きだった。
この世界には娯楽が少ない。
ラジオも音楽も無かった。それでも部屋の中は賑やかで、窓からは風や虫の鳴き声が聴こえてくるし、キッチンでは夢子が皿を洗う音を響かせている。全ての音が心地良く重なって、トラッパーは穏やかな気分になった。
トラッパーは殺人鬼として霧の世界に呼ばれてからの方が、元の世界にいた頃よりもずっと心穏やかに生活をしていると感じていた。
元の世界では幸福な思い出はほとんど無く、取り分け家族の思い出は極端に少なかった。
父はいつも忙しかったし、家にいる間もその逆鱗に触れないように、なるべく離れて過ごしていたからだ。
母は心優しく息子を愛していたが、いつも父に怯えていた……。父の顔色を伺ってばかりで、母に甘えた記憶も殆ど無かった。
皿を洗い終わった夢子は、机の上にマグカップを二つ置いた。コーヒーの香りがふわりと立ち上る。
「お疲れ様。今日の儀式は上手くいった?」
「ああ。今日は4人ともエンティティに捧げる事が出来たから、奴も満足しているだろう……」
「それじゃあ、しばらくは儀式に呼ばれなくても済むの?」
「そのはずだ」
トラッパーは作業を続けながら、横目で夢子の姿を見つめた。
夢子の黒い瞳にはランプの灯りがちらちらと反射していて、小さな唇は微笑みを浮かべていた。
夢子はどことなくトラッパーの母と似ていた。見た目は似ていないが、その心は優しくて細やかな気づかいができた。
だが夢子は母とは違い、自分の意志があった。
霧の森に迷い込んだ夢子はトラッパーと出会い、そして共に過ごすようになった。
それは彼女の意思で、彼女自身が選んだ事だった。
トラッパーは夢子を自由にさせた。
夢子から側にいたいと言われた時も、彼女を受け入れた。もちろん、夢子が離れたいと言えば、それも受け入れるつもりだった。
「今日は儀式が上手くいったから、今度エンティティに呼ばれたら、ケーキを持って帰ろうと思う」
「本当?」
トラッパーは頷く。
夢子の表情がぱっと明るくなった。
黒い瞳が輝いて、口元は微笑みを浮かべている。
夢子が笑っているのを見ると、トラッパーの心は満たされた。
夢子はトラッパーの肩にもたれかかった。
「ケーキ、楽しみだなぁ」
大きくて逞しい肩は寄りかかってもびくともしなかった。「トラッパーはいつも優しいね」
肩に頬を擦り付けた夢子は、トラッパーの体温を感じ取った。トラッパーは夢子の身体を受け止めたままでいた。
「お前が喜ぶなら、ケーキなんていくら持ち帰っても構わないんだ」
「でも、サバイバーのケーキでしょう?エンティティに怒られないの?」
「俺は儀式をこなしてるからな。心配はいらない」
言葉通り、トラッパーがエンティティに文句を言われたことはなかった。
トラッパーはケーキの他にも夢子が欲しがる物をいくつも持ち帰っていた。
厚手の靴下やブランケット……彼女は寒がりでこのプレゼントを非常に喜んだ。
甘い香りの石鹸やクリームに、小さな石のついたピアス。
どれも些細な物だが、夢子の望みはなるべく叶えてきた。彼女が喜ぶ様子が好きだったからだ。
あの小さな唇が弧を描くのが好きだった。笑い声に合わせて黒髪がさらさらと揺れるのが好きだった。柔らかな頬に赤みが差すのが好きだった。
だから、彼女のためなら何でもする……かつて母のためにそうしたように。
4
父はいつも苛立っていて、母は毎日のように泣いていた。
母が一人で泣いている時に、幼いエヴァンはいつも側へ寄って慰めようとした。
母の大きな目は赤く腫れていて涙が溢れていた。
「泣かないで」
母が悲しみに打ちひしがれる姿を見るのは嫌だった。
「母さん、笑ってよ」
エヴァンはわざと変な顔をしたり大袈裟におどけてみせた。そしてにっこりと笑うと、母もつられて小さく微笑んだ。
母が笑っているのを見ると、エヴァンは心に絡まっている不安や苦痛が解きほぐれていく気がした。
母が笑っている間は何の問題もない。母を悲しませるものは何もない。
だからエヴァンはいつも母を笑わせようと努力した。
母のために花を摘んだり、流行歌を披露したりもした。滑稽な言動もした。
母が笑ってくれるなら道化にもなった。何でもしたのだ。
幼いエヴァンは明るく陽気で、笑ったり冗談を言うのが好きだった。
それは場を和ませるための演技だったのかもしれない。
それでも、幸せな子供なのだと周囲から思われていたはずだ。
狂気の影がより濃く父を覆い、そして母が亡くなるまでは……。
母が事故で亡くなってから、二人きりの時間が増えたのに、父と息子はより一層冷たくよそよそしい関係になった。
父は相変わらず忙しかったし、エヴァンも学校へ通うようになったので、二人が顔を合わせる時間は殆ど無かった。
学校は楽しいことばかりだった。
友達もいて、勉強もスポーツも面白かった。
鉱石や掘削機以外の知識を学ぶことも出来たし、なによりも家や父と離れる時間は貴重だった。
エヴァンは外の世界を知るうちに、父との関係の不自然さに気付くようになった。そして父への反発心が生まれ始めた。
他の家ではベルトを使って子どもを打ったりはしないし、理由もなく怒鳴られる事も無いのだ。
父が自分に暴力を振るうのは、単純に気に入らないからだ。労働者を殴るのと同じように、エヴァンも殴られた。
頬を張り倒され、硬い床の上に叩きつけられる。
床の上に倒れたままでいると、脇腹を蹴り付けられる。痛みで全身が悲鳴を上げた。
それでも、エヴァンは反抗しなかった。
心の中は父への怒りと憎しみが渦巻いているのに、その感情を父へと向ける事はしなかった。父が癇癪を起こす度に、エヴァンの心は冷たく固くなっていくようだった。
エヴァンはただ父を見つめた。
父の顔は歪んでいる。
顔色は怒りで赤く上気し、目は吊り上がっている。眉間に刻まれた深い皺。
まるで悪魔だ。エヴァンはそう思った。
父はエヴァンと目が合って、一瞬怯んだ。
「おい」
父はエヴァンに問いかけた。
「何がおかしいんだ?」
ぞっとするような冷たい声だった。
エヴァンは手で口元を覆い隠した。
なぜ自分は笑っているのだろう。心は恐怖と憎しみでいっぱいなのに、顔の筋肉は笑いを形作っている。もう母はこの世におらず、母を笑わせる必要はないというのに。
「そのにやついた顔をやめないと、またぶちのめすぞ」
父は拳を握った。
「ごめんなさい」
ようやくエヴァンが謝ると、父の怒りは少しだけ治った。
エヴァンは素早く自分の部屋に戻って大きく息を吐いた。暴れるように脈打つ心臓を落ち着かせようとして、エヴァンはいつもそうしているように、机の引き出しの奥から写真立てとスケッチブックを取り出した。
このスケッチは父の目を盗んでは少しずつ増やした宝物だった。描かれているのは風景や植物で自分でも上手く描けていると思う。
スケッチブックを閉じたエヴァンは、写真立てを眺めた。写真立てには父と母と幼いエヴァンの写真が飾られていた。
今よりも黒っぽい髪をして、眉間の皺が薄い父。幼いエヴァンを抱いた母。
母はいつもエヴァンを優しく抱いてくれた。エヴァンを庇い、守ろうとした母。不幸な事故によって若くして亡くなった母。
母を偲ぶ気持ちが、乱れた心を落ち着かせてゆく。
ふと、エヴァンは鉛筆を取り出してスケッチブックに母の姿を描き始めた。
優しい目元。艶やかなブロンドの髪。口元は微笑みを形作っている。
写真と記憶を頼りに、白い紙の上に母の姿を表現する。若く美しい母の姿を。
母の姿を描く内にエヴァンは穏やかな気分になっていった。
母は苦労や悲しみのない世界にいるのだとエヴァンは考えた。そしてこのスケッチのように微笑みを浮かべているのだ。
エヴァンはスケッチを続けた。そうする事で、また母を笑わせる事が出来るのだ。
部屋の中は鉛筆が紙の上を引っ掻く音だけが響いていた。
DV、虐待の描写があります。
1
トラッパーは儀式を終えて住処へと戻った。
今夜の儀式は上々で、エンティティの機嫌も良かった。これでしばらくの間は儀式に呼ばれる事も無く、ゆっくりと過ごすことができるだろう……。
空を見上げると、白い月が濃い霧の中に隠れるようにして朧げな光を放っている。その光を眺めていると母の姿が脳裏に浮かんだ。母もあの月のように、いつも父から隠れるようにして生きていた……。
この世界に来てから、過去を思い出す事は殆ど無かった。だが一つ思い出すと、過去の思い出が次々と頭の中に浮かび上がった。
母は優雅で心優しい女性で、その唇に微笑みを浮かべると、それはもう本当に美しかった。
母が微笑んでいる姿が好きだった事を覚えている。だから幼い頃の自分は、いつも母を喜ばせようとして、彼女の側をまとわりついていたものだった。
トラッパーが住処にしている家に着くと、小さな足音を立てて、居候の少女が玄関まで出迎えに来た。
「おかえりなさい」
夢子はトラッパーに駆け寄り、彼の大きな身体に抱きついた。
背の高いトラッパーを見上げるようにして、夢子はにっこりと微笑んだ。
優しい微笑みだ……。ふと、母の微笑む姿が頭をよぎった。
「ご飯出来てるよ。一緒に食べよう!」
トラッパーは頷いて、夢子の頭を軽く撫でた。
エンティティに与えられた家の間取りは、居間とキッチンとバスルーム。それと寝室だけ。一人で暮らすには充分だったが、今は住人が増えたから少し手狭になった。
この小さな家では、どの部屋にいても夢子の存在を感じられた。
トラッパーは玄関で靴の泥を落とし、いつも食事を摂るテーブルの席についた。
部屋の中はランプの明かりに照らされて、古びたテーブルや椅子が暗闇の中に浮かび上がっている。部屋の中はよく手入れされていて清潔だった。
テーブルには既に温かい料理が並んでいて、カトラリーや皿も用意されていた。
「今日は寒いからシチューにしたの」
夢子はトラッパーのためにシチューとパンを皿に取り分けながらそう言った。
小柄な身体でよく働く夢子は、どこか小動物のような可愛らしさがあった。
彼女が働く様子は面白く、そして可愛らしくて、飽きずに眺めていられる。
トラッパーは用意されたシチューを口に運んだ。夢子はよくこのシチューを作ってくれる。
牛乳を入れて、小麦粉でとろみをつけたシチューは、元の世界では馴染みが無かったが、甘く優しい味で今では気に入っていた。
「美味しい?」
トラッパーが頷くと、夢子はにっこりと微笑んだ。
食事を囲みながら、二人は会話を楽しんだ。今日は肌寒いとか、新しい儀式の舞台は中世の戦場のようで驚いたとか、そんな他愛もない内容だが、夢子はよく笑い、よく喋った。
二人の食卓は楽しくて賑やかだった。
幸福な時間……。温かい家族の時間だ。トラッパーはそんな風に思った。彼にはこんなに温かくて賑やかな食事の思い出はなかった。
幼い頃の記憶だと、食事の時間は緊張と恐怖の時間だった。
父はいつも厳しく家族を管理し、母はいつも怯えていた。
2
幼いエヴァンは手を洗って席に着いた。汚れた手で食事をするのを父が嫌うからだ。
母は食事の準備をしていて、キッチンからは様々な音が聴こえてくる。鍋をかき混ぜる音。フライパンの上で肉が焼ける音。オーブンのジリジリという音。その音に合わせて、母は踊るようにして働いているのだ。
焼き立てのパン、蒸したじゃがいも、柔らかく煮た豆、ローストした豚肉。
居間にまで香ばしい香りが漂ってきて、エヴァンのお腹が音を立てた。
部屋の中に時計の音が響いてエヴァンはぎくりとした。針は16時を指している。坑夫の交代時間だ。つまり、父が帰って来る時間だ。
母は部屋中を見回した。母の目は家の中に間違いがないように、一つ一つ確認をしていく。食卓に置かれた皿の位置。カトラリーは汚れていないか。花瓶に活けられた花の向きにすら気を使った。
やがて父が帰宅すると、家の空気はピンと張り詰めたものになる。
エヴァンは居間で耳をそば立てた。
玄関の前でガサゴソと音がしている。その音だけで、父が帽子とコートを脱ぎ、母がそれを受け取るのがエヴァンには分かった。
しばらくすると外で水の跳ねる音が聴こえてくる。父は外の水汲み場で顔や手に付いた土と埃を洗い流しているのだ。
父は鉱山の経営者だが、坑夫を直接管理するのが好きで、よく現場へと降りては服や肌を汚して帰るのだった。
そろそろ父が家に戻ってくる。エヴァンは立ち上がって玄関へ向かい、父を出迎えた。
父は傲然たる態度でエヴァンを見下ろした。
その視線に見下ろされると、エヴァンはいつも自分が物凄く小さくて取るに足らない存在なのだと感じていた。
エヴァンは恐る恐る父の目を見た。今日は怒りの炎は燃えておらず、その目には何の感情も現れてはいなかった。
家族は食卓に着き、お祈りを済ませた。父のお祈りに合わせて母もエヴァンも一緒にお祈りをした。
父がナイフとフォークを手に取ったのを見て、エヴァンもようやくフォークを手に取った。それからエヴァンは一言も話さずに胃の中に食事を詰め込んだ。マクミラン家では、食事中の子供のおしゃべりを禁じていた。
よく躾けられた子供は大人の会話を邪魔せずに、いつも行儀良くしていなければならないのだ。
父は仕事の事をあれこれと話した。従業員の管理や生産高について。各地で失業者が増えているから、安い賃金で大勢の労働者を雇う計画をしている事。
母が相槌を打ち、当たり障りのない返事をすると、父の機嫌は良くなった。
父の唇は酒で濡れている。仕事の話は尽きることなく、母もまた熱心に耳を傾け続けた。
今日は何の問題もないようだ。エヴァンはパンをもう一つ手に取った。
ふと、父はエヴァンの方に視線を向けた。
父と目が合い、エヴァンは居心地の悪さを感じた。胃の奥がきゅっと締め付けられるような嫌な感じだった。
手は汚れていないし、一言も喋っていない。
口の中はからからに乾いて、嫌な味がする。
父はナイフとフォークをテーブルに置くと、食器がかちりと音を立てた。微かな音だが、やけに大きく響いて、母の肩がぎくりとして震えた。
「曲がっているぞ。」
父はそう言った。
たった一言だが、その口調はあまりに鋭く、エヴァンの心臓は大きく震えた。
母は慌てて立ち上がった。母の視線はエヴァンのネクタイを示している。
エヴァンはようやく自分のネクタイがだらしなく解けかかっている事に気が付いた。エヴァンの頭は真っ白になって何も考える事が出来なかった。手を動かしてネクタイを結び直す事さえ忘れて、ただ呆然と父の顔を見つめ返すだけだった。
母は席を立って、震える手でエヴァンのネクタイを結び直そうとした。
青ざめた母の顔。父は席を立ち、ゆっくりと近寄って来る。エヴァンと母の元へ……。
エヴァンは父の顔を見て息を飲んだ。
父の目は怒りに支配されていた。そして、エヴァンの目の前で、母の頭が大きく揺れた。
母の細い身体は床に叩きつけられ、硬い床にぶつかる嫌な音が響いた。
エヴァンは声が出なかった。何か言おうとすれば、涙も一緒に出てしまいそうだった。目の奥がつんと痛み、喉の奥がかっと熱くなる。
だが泣くのを堪えた。人前で泣くのは女だけだと父に教えられたからだ。
父は母の髪を掴み、床から引っ張り上げた。その頬は赤く腫れ上がり、唇には血が滲んでいた。
ごめんなさい。
母は謝罪の言葉を繰り返した。エヴァンの代わりに、何度も繰り返した。
母の身体はもう一度大きく跳ねた。
エヴァンは目を固く閉じて終わるのを待った。ただじっとして、口を結んで待つだけだ。何もしてはいけない。
母の啜り泣きの声。母とエヴァンを無視して、父が再び食事を続ける音。
何もしてはいけない。
エヴァンが何かをすれば、また母が痛めつけられるのだ。エヴァンに出来ることは、目を閉じて、終わるのを待つだけだ。だから、何もしてはいけない。
3
食事を終えた後、トラッパーは外していたマスクを再び付けた。
儀式以外でマスクを付ける必要はないが、外したままでいるのは落ち着かなかった。
夢子はキッチンで皿を洗っている。
トラッパーは工具箱を取り出して罠の手入れを始めた。
太い指を器用に使って、罠を分解し、錆と汚れを落として油を塗った。儀式ではわざと錆びた罠を使う事もあるが、普段は必ず手入れをする。罠の調子も良くなるし時間も潰せるので一石二鳥だった。それに、トラッパーは手を動かして黙々と作業をする時間が好きだった。
この世界には娯楽が少ない。
ラジオも音楽も無かった。それでも部屋の中は賑やかで、窓からは風や虫の鳴き声が聴こえてくるし、キッチンでは夢子が皿を洗う音を響かせている。全ての音が心地良く重なって、トラッパーは穏やかな気分になった。
トラッパーは殺人鬼として霧の世界に呼ばれてからの方が、元の世界にいた頃よりもずっと心穏やかに生活をしていると感じていた。
元の世界では幸福な思い出はほとんど無く、取り分け家族の思い出は極端に少なかった。
父はいつも忙しかったし、家にいる間もその逆鱗に触れないように、なるべく離れて過ごしていたからだ。
母は心優しく息子を愛していたが、いつも父に怯えていた……。父の顔色を伺ってばかりで、母に甘えた記憶も殆ど無かった。
皿を洗い終わった夢子は、机の上にマグカップを二つ置いた。コーヒーの香りがふわりと立ち上る。
「お疲れ様。今日の儀式は上手くいった?」
「ああ。今日は4人ともエンティティに捧げる事が出来たから、奴も満足しているだろう……」
「それじゃあ、しばらくは儀式に呼ばれなくても済むの?」
「そのはずだ」
トラッパーは作業を続けながら、横目で夢子の姿を見つめた。
夢子の黒い瞳にはランプの灯りがちらちらと反射していて、小さな唇は微笑みを浮かべていた。
夢子はどことなくトラッパーの母と似ていた。見た目は似ていないが、その心は優しくて細やかな気づかいができた。
だが夢子は母とは違い、自分の意志があった。
霧の森に迷い込んだ夢子はトラッパーと出会い、そして共に過ごすようになった。
それは彼女の意思で、彼女自身が選んだ事だった。
トラッパーは夢子を自由にさせた。
夢子から側にいたいと言われた時も、彼女を受け入れた。もちろん、夢子が離れたいと言えば、それも受け入れるつもりだった。
「今日は儀式が上手くいったから、今度エンティティに呼ばれたら、ケーキを持って帰ろうと思う」
「本当?」
トラッパーは頷く。
夢子の表情がぱっと明るくなった。
黒い瞳が輝いて、口元は微笑みを浮かべている。
夢子が笑っているのを見ると、トラッパーの心は満たされた。
夢子はトラッパーの肩にもたれかかった。
「ケーキ、楽しみだなぁ」
大きくて逞しい肩は寄りかかってもびくともしなかった。「トラッパーはいつも優しいね」
肩に頬を擦り付けた夢子は、トラッパーの体温を感じ取った。トラッパーは夢子の身体を受け止めたままでいた。
「お前が喜ぶなら、ケーキなんていくら持ち帰っても構わないんだ」
「でも、サバイバーのケーキでしょう?エンティティに怒られないの?」
「俺は儀式をこなしてるからな。心配はいらない」
言葉通り、トラッパーがエンティティに文句を言われたことはなかった。
トラッパーはケーキの他にも夢子が欲しがる物をいくつも持ち帰っていた。
厚手の靴下やブランケット……彼女は寒がりでこのプレゼントを非常に喜んだ。
甘い香りの石鹸やクリームに、小さな石のついたピアス。
どれも些細な物だが、夢子の望みはなるべく叶えてきた。彼女が喜ぶ様子が好きだったからだ。
あの小さな唇が弧を描くのが好きだった。笑い声に合わせて黒髪がさらさらと揺れるのが好きだった。柔らかな頬に赤みが差すのが好きだった。
だから、彼女のためなら何でもする……かつて母のためにそうしたように。
4
父はいつも苛立っていて、母は毎日のように泣いていた。
母が一人で泣いている時に、幼いエヴァンはいつも側へ寄って慰めようとした。
母の大きな目は赤く腫れていて涙が溢れていた。
「泣かないで」
母が悲しみに打ちひしがれる姿を見るのは嫌だった。
「母さん、笑ってよ」
エヴァンはわざと変な顔をしたり大袈裟におどけてみせた。そしてにっこりと笑うと、母もつられて小さく微笑んだ。
母が笑っているのを見ると、エヴァンは心に絡まっている不安や苦痛が解きほぐれていく気がした。
母が笑っている間は何の問題もない。母を悲しませるものは何もない。
だからエヴァンはいつも母を笑わせようと努力した。
母のために花を摘んだり、流行歌を披露したりもした。滑稽な言動もした。
母が笑ってくれるなら道化にもなった。何でもしたのだ。
幼いエヴァンは明るく陽気で、笑ったり冗談を言うのが好きだった。
それは場を和ませるための演技だったのかもしれない。
それでも、幸せな子供なのだと周囲から思われていたはずだ。
狂気の影がより濃く父を覆い、そして母が亡くなるまでは……。
母が事故で亡くなってから、二人きりの時間が増えたのに、父と息子はより一層冷たくよそよそしい関係になった。
父は相変わらず忙しかったし、エヴァンも学校へ通うようになったので、二人が顔を合わせる時間は殆ど無かった。
学校は楽しいことばかりだった。
友達もいて、勉強もスポーツも面白かった。
鉱石や掘削機以外の知識を学ぶことも出来たし、なによりも家や父と離れる時間は貴重だった。
エヴァンは外の世界を知るうちに、父との関係の不自然さに気付くようになった。そして父への反発心が生まれ始めた。
他の家ではベルトを使って子どもを打ったりはしないし、理由もなく怒鳴られる事も無いのだ。
父が自分に暴力を振るうのは、単純に気に入らないからだ。労働者を殴るのと同じように、エヴァンも殴られた。
頬を張り倒され、硬い床の上に叩きつけられる。
床の上に倒れたままでいると、脇腹を蹴り付けられる。痛みで全身が悲鳴を上げた。
それでも、エヴァンは反抗しなかった。
心の中は父への怒りと憎しみが渦巻いているのに、その感情を父へと向ける事はしなかった。父が癇癪を起こす度に、エヴァンの心は冷たく固くなっていくようだった。
エヴァンはただ父を見つめた。
父の顔は歪んでいる。
顔色は怒りで赤く上気し、目は吊り上がっている。眉間に刻まれた深い皺。
まるで悪魔だ。エヴァンはそう思った。
父はエヴァンと目が合って、一瞬怯んだ。
「おい」
父はエヴァンに問いかけた。
「何がおかしいんだ?」
ぞっとするような冷たい声だった。
エヴァンは手で口元を覆い隠した。
なぜ自分は笑っているのだろう。心は恐怖と憎しみでいっぱいなのに、顔の筋肉は笑いを形作っている。もう母はこの世におらず、母を笑わせる必要はないというのに。
「そのにやついた顔をやめないと、またぶちのめすぞ」
父は拳を握った。
「ごめんなさい」
ようやくエヴァンが謝ると、父の怒りは少しだけ治った。
エヴァンは素早く自分の部屋に戻って大きく息を吐いた。暴れるように脈打つ心臓を落ち着かせようとして、エヴァンはいつもそうしているように、机の引き出しの奥から写真立てとスケッチブックを取り出した。
このスケッチは父の目を盗んでは少しずつ増やした宝物だった。描かれているのは風景や植物で自分でも上手く描けていると思う。
スケッチブックを閉じたエヴァンは、写真立てを眺めた。写真立てには父と母と幼いエヴァンの写真が飾られていた。
今よりも黒っぽい髪をして、眉間の皺が薄い父。幼いエヴァンを抱いた母。
母はいつもエヴァンを優しく抱いてくれた。エヴァンを庇い、守ろうとした母。不幸な事故によって若くして亡くなった母。
母を偲ぶ気持ちが、乱れた心を落ち着かせてゆく。
ふと、エヴァンは鉛筆を取り出してスケッチブックに母の姿を描き始めた。
優しい目元。艶やかなブロンドの髪。口元は微笑みを形作っている。
写真と記憶を頼りに、白い紙の上に母の姿を表現する。若く美しい母の姿を。
母の姿を描く内にエヴァンは穏やかな気分になっていった。
母は苦労や悲しみのない世界にいるのだとエヴァンは考えた。そしてこのスケッチのように微笑みを浮かべているのだ。
エヴァンはスケッチを続けた。そうする事で、また母を笑わせる事が出来るのだ。
部屋の中は鉛筆が紙の上を引っ掻く音だけが響いていた。