「母子」
焼かれた地面から、陽炎が立つ。天高く上った太陽は殺人的な熱光線を絶えず降らせ、空に膨らむ文字の雲も、大した役には立たない。
「も一つの記憶も、其頃の事。矢張夏の日の嚇灼たる午後の出來事と憶えてゐる……ってな」
村の端から一里ほどのところにあるK停車場から、さらに北へ真っ直ぐ行く国道を、一行はずっと歩いてきた。まだ馬車は動いておらず、馬車に乗ってくるはずのあの子どもの姿も、新たなシーンになってからは見ていない。
目的地は、水車まで続く野川に渡す土橋を渡ったところだ。その辺りの道の左右にはまだ年若い松の木が並び立ち、松陰に背の高い夏草も鬱蒼と生え茂っている。
「それが、次のシーンの冒頭……? 本当に、夏の真っ盛りのことなんだね……」
萩原は、あまりの暑さに上着をほとんど肩から落として、裾を地面に引きずりかけていた。泉が描写で作った日傘に入れてもらい、影の恩恵を多少受けてはいるが、地面からの照り返しが上回る。萩原は薄ら口を開けて夏空を仰いだ。
「確か、詩にも、夏があったね……『夏の街の恐怖』。夏の日の下に、気だるさと、不吉さが沈んだような、あの詩……石川君にとって、夏って、死の季節だったの……?」
「焼けつくような夏の日の下に、だね」
北原でさえ、今は煙草の火を躊躇った。袖で汗を拭いがてら、詩の一節を諳んずる声だけは凛とする。
「焼けつくような夏の日の下に、怯えて眠る軌条の心。母親の居眠りの膝から滑り降りて、肥った三歳ばかりの男の児が、ちょこちょこと電車線路へ歩いていく」
「あぁもう勝手に歌うんじゃねえよ鬱陶しい。死の季節とか何とかは知らねーが、こんだけ暑けりゃ嫌にもなるだろ」
「本来、ここに、乞食の母親と赤ん坊が、居るはずなのですか」
日傘を差しながらも、泉は色も白く着物も重く、益々暑さが苦しいはずだった。それでも羽織も着物も緩めたり崩したりせず、頻りに薄青い手拭いで顔や首元の汗を取りつつ、
「こう暑くては、熱射病にかかりかねません。早く親子を見つけたいものですが……」
萩原が少し屈んで、背の高い青草の根元まで覗き見たが、結論は三人と同じだ。
「いない……」
「今度は親子が、あの影に食われてしまったのかな。この中の誰かが母親役になり、誰かが……赤ん坊役になる、という流れになりそうだけど」
「お、おわぁ、おわぁ!」
「ふふ、大きな赤ん坊だ。ちょっと大きすぎるかな」
北原が萩原を撫でてやる間も、石川はじっと立ち尽くして地面を見ていた。時折、ぱた、ぱた、と汗の雫が落ちては、あまりの暑さですぐに乾く。黒は熱を特に集めるため、学ランを着たままの石川は特に暑いはずだったが、首に汗の筋を作りながらも、そのままにしている。頻りに日陰の方を気にする泉も、石川が何かじっとしているのに気づき、「どうかしましたか、石川さん」と声をかけた。
「どうもしねぇけど、お前ら、何か聞こえるか」
「え?」
言われて、三人も、それぞれ耳を澄ませた。聞こえてくるのは蝉時雨。それだけかと思えば、その奥に、ごく小さくはあるが、違う声が混じっている。耳のいい北原が先に、「赤ん坊の声がするね」と言い当てた。
「萩原を赤ん坊にしなくて良さそうだ。あっちの方から聞こえるな。行くぞ」
「あ、そう……ちょっとだけ、残念かも」
「残念なのですか……?」
蝉の声にかき消されそうな泣き声を何とか辿り、木立の中を行くと、木組みの粗末な小屋に辿り着いた。煙突もなく、生活の形跡もない。本来の筋には出てこないものらしく、即席の工事なのを誤魔化しもしない粗雑さだ。泣き声は小屋の中から聞こえてくる。
一行が近づこうとすると、泣き声が止み、扉が開いたので、咄嗟に木陰にそれぞれ隠れた。小屋の中からは男が出てきて、中に何事か声をかけた後、扉を閉め、迷いのない足取りで木立の中を去っていく。男は酸いも甘いも嗅ぎ分けたと見える三十幾つの見目で、服装も村に似合わず継ぎの無い綺麗なもので、履きなれているらしい固い靴が丈夫な青草を薙ぎ倒し地面を踏みしめていく。
「……啄木。あれは?」
「侵蝕者じゃねぇが、あんなやつはいなかった」
「そこの家から出てきましたね。お住いなのでしょうか」
「……赤ん坊を、保護してくれているの?」
少しすると、また赤ん坊の泣き声がする。一行は周囲にも気を配りながら近づき、一番泣き声が大きく聞こえる窓から、ひとりずつ中を覗き込んだ。
「赤ん坊だけじゃねえ。とんでもねぇことしやがる」
石川は一目でやめて、近くの壁にもたれかかり座り込んだ。家の中には、ぼろぼろになっているはずの母親まで、立って赤ん坊を抱きあやしているのだった。身に受けた怪我の手当も受けたようで、まだ顔に疲労の色は濃いが、赤子を見下ろし穏やかに微笑む余裕が生まれている。なにか大きな安堵を得た、そういう様子が、窓の外からでもありありと分かった。
「おや、まあ」
北原は、他の三人より少し長く眺めた。
「幸せを得た、もしくは得るところ、と言ったところかな。あれでは血を流して倒れていてはくれそうにないね。それもそれで、彼女たちにとっては望ましくもあるが」
「先程の男が異質なことには間違いありません。本当に侵蝕者ではなかったのでしょうか? 気配は感じませんでしたが……存在している登場人物の内に入り込み、操っているという可能性も」
「ありうるけれど、僕ならあの親子を放っておかないだろうね。いつ計画の邪魔をする連中がやってくるかも分からないのだから、常にそばに居て、監視するだろう」
窓を離れた北原は、石川を振り返った。固い靴底が地面を蹴飛ばし、ひび割れた土を砕いて散らしている。
「君がそこまで苛立つのは、君の大切なモチーフを汚されたからかい。彼女は母親であると同時に、乞食の女でもあるから」
「分からねぇけどムシャクシャすんだよ。放っとけ」
「そうはいかない。君も少なからず先の戦いで傷を負っているし、君の精神に及ぶ影響も無視できないだろう」
「チッ……」
石川はまともに答えずに、壁を殴るように手をついて勢いよく立ち上がると、砂を払いもせずにずかずかと木立の方へ歩き出した。
「どこに行くんだい」
「イラつきすぎてしょうがねえから散歩だ。ついてくんなよ」
そのまま早足で立ち去り、誰かが追随する隙も与えない。泉は木蔭で息をついた。
「ああいうところは、やはり、どうかと思います」
石川は、ポケットの中に押し込んだままの指環を指先で弄びながら、考えた。
「何を考えていやがるんだ、この世界は」
男の去っていった方へ歩いているが、背中が見える気配はない。まるでどこかで掻き消えたかのようだ。木漏れ日すら強烈な夏日で、林の中は湿度も高く、現実の季節と重なって不快感が強い。
「乞食の親子を助けて、善人面でもしてぇってか? いや……ちげえ。お前の狙いなんざ分かりきってる」
立ち止まり、ポケットの右手を引き出して、拳を開く。何も無い痩せっぽちの手だ。それを握り拳を作る。
「……俺様への当てつけだ。そうに決まってる」
頭痛がしていた。いつからの痛みか自覚がないが、酷くもなく、かといって気にせずにいられない程度には主張する。眉を詰め、拳を握り、手近な木を殴りつけた。だがその結果と言っても、幹が少し揺れて、葉が擦れる音をざわざわと立てたばかりである。
「今でも見てやがんのか。無様な俺様の姿をよ」
手の甲が痛み、擦り傷が小さく出来ている。それすらつまらない。すると、ちりり、と小さな鈴の音が聞こえ、石川は脅かされた猫の様な勢いで振り返った。
「わ」
その勢いに驚かされ、また近くの木の幹に日傘を引っ掛けてつんのめったのは、やはり萩原だ。石川は呆れて肩を落とし、日傘を広げたまま無理に直進しようとしてうまくいかない萩原を、助けもせずに睨みつけた。
「何しに来たんだよ。すぐ戻るから来るなって言ったろ」
「すぐ戻るとは、言ってなかったけど……その、話がしたくって」
「話って何だ……の前に、傘畳めよ」
日傘を畳んで、ようやく石川の隣に来た萩原は、一勝負終えた後のように胸を撫で下ろした。少し息が上がっているのも焦ったせいか、暑さのせいか。
「……で、何だよ」
「あの、親子のこと……その」
萩原の目があちらこちらへ泳いでいる。思っていることをどう話すべきか迷っていると見え、石川は苛立ちを募らせながらも辛抱して待った。
「その、あの親子は、あの男と、結婚するのかな」
「……するんじゃねえか?」
「つまり、父親がいなかったあの子に、義理の父親が出来るんだね……」
「そういうことになるな」
「良かった、と、思う? 石川君は」
何が言いたいのか、と問い質したいのを堪え、「良くはねえだろ」と返した。すると迷子になっていた萩原の目が、石川を映す。
「良くないって、本当に思ってる?」
「は?」
「……本当は、石川君、あれで良いと思っているんじゃない。その方が、あのひとが……幸せに、なれるから」
「何が言いたいんだよ」
じ、っと萩原は石川を見つめる。この視線が、石川は今だけ、逃げ出したい程苦手に感じた。
「……先生や泉さんには、言わないから。第一会派のよしみで、正直な気持ちを教えて欲しくて」
「俺様が嘘ついているって言いてえのか?」
「そうじゃないけど……そうかもしれないって、何となく思ってる」
何を根拠に、と言いかけたが、「前のシーンの時から」と遮られた。
「前のシーンの時から、石川君はずっと様子が変だ……いつもみたいな、率直な感じがない。真っ直ぐに伸びてしなやかな木が、無理にあちこちに捻じ曲がろうとしてるみたいに、ずっと行き止まりに突進してるみたいで、それで苛ついてるみたい。それは……この侵蝕が原因だと思ってたのだけど」
「……ちげえのか」
「そうかもしれない。……石川君自身にも、行き止まりの原因はある、んじゃ、ないかな、って……」
語尾は消え入った。萩原の真っ直ぐな眼も次第にぶれて、段々ズレていき、終いには俯いてしまう。だから萩原は、恐らく石川が今どんな表情をしているか、見えはしなかったはずだ。
「……侵蝕は、著者の負の感情も餌にするが、要はソレ、ってことかよ」
「ご、ごめんね全然的外れだったら……でも、もしそうだったら……きっと、完全に浄化するには、石川君の気持ちの部分も、鍵になってくるはず……だから、その……自分に何とかできるだなんて傲慢なことは言えないけど……でも」
弱弱しい手が、袂の鈴を握る。今は暑さ以外の理由で湿っているのだろうこの手が、戦闘時には固くごつごつとした銃をしっかと握り、北原に似た、否状況によっては北原よりもずしりと響く弾を放つのだから、不思議なものだ、と石川は他人事のように考えた。端から今回同行の者たちはもちろん、誰にも何も言うつもりはなかったのだから、大した慰めにもならないが、それでも苛立ちの角は多少丸くなる。その代わりに方向が狭まり、はぁ、と溜めこんだ言葉の代わりに吐き出した。萩原はびくりと肩を震わす。
「……そんな怯えるような面してるか? 俺様は」
「……ずっと、怖い顔をしているよ。ここに来てから、いや、あの家の中を覗いてからは特に、ずっとそう……」
「そーかよ」
やや経ってから、石川はふと、口を開いた。
「あの乞食の女を見てると、俺様自身のものじゃねえ記憶が蘇ってくる」
「……生前?」
「石川啄木のモンだろーな……嬶や、母親……人生を食い潰した、哀れな女たちが、影だけ浮かんできやがるんだ」
嘘ではなかった。具体的に姿が浮かんでいたわけではなかったし、言うほどはっきりと蘇るわけでもなかったが、それでもぼんやりと思考の端に、引っかかり続けていた影であるのは確かだった。そう、と、萩原は俯いていたが、やがて「どうするの」と、不安げに零した。
「……選択肢があるなら、教えて欲しいぜ。何か持ってねぇのか」
「……ごめんね。自分にはやっぱり、何にも浮かばない……頼りにならなくて、ごめんね。自分じゃなくて、先生や泉さんだったら……」
「いーんだよ。お前じゃなきゃこんなこと、言う気にもならなかった」
助かった、と思い、これでようやくあの小屋に戻る気になれそうなことを、心底感謝してやろうと思った。石川は萩原に背を向けた。
「戻るか」
「え」
「選択肢はねぇんだ。やらなきゃならねぇこともはっきりした。案があるなら仲間に相談する、って、大事なことだろ?」
石川は本当に感謝するつもりなのに、萩原は不安を抑えきれない子供のような目で、石川を見るばかりだった。
「必要な要件は」
北原と泉の元へ戻ってきた石川は、そう前置いてから、三本指を立てた手を三人に示した。
「一、額に傷を負っていて、それが血を流すこと。二、赤ん坊連れであること。三、貧しい身なりであることだ。これが揃ってなくちゃ意味がねぇ」
「骨が折れるねぇ」
肩をすくめる北原を無視し、石川は小屋の方を見た。まだ男は帰って来ず、赤ん坊の泣き声もあれから大人しいものだという。
「で、一案なんだが。殴った方が手っ取り早くねぇか?」
「な、」
泉が呆気に取られた。北原も目を丸くして、「本気かい?」と問う。石川が頷くと、泉は「何て乱暴な!」とつい声を張り上げ、はっとして口元を抑えて小屋の方を気にした。気づかれた様子はない。
「……石川君。やらなきゃならないことって、それなの」
萩原は、声を震わせた。
「どうして、殴るの」
「そりゃ、決まってんだろ……あの親子の額、お前も見たろ」
「見たよ……見た、けど」
「傷がねえんだ。今のままじゃ足りねえ。だが近くにそれらしい母親が他にいるわけでもない。つまり、あの親子を、本来の筋の登場人物らしくするしかねえってこった。傷がねえ奴にどうやって傷を作る? 殴るしかねえよな」
「暴力的ですね……」
「じゃあ他にどうすれば良いんだ? さっきの男を呼び寄せて、あの女を殴ってくれって頭下げるか? 正気を疑われるぜ」
「僕は、今の石川君の正気を疑うよ」
萩原の声に棘が生まれた。
「あの親子を、どうして殴るなんてことを考えられるのか、分からない。君にとってはただの乞食の女じゃないはずで、それを、ましてや君が手を下すだなんて、そんな変な話は無いよ」
「別に変な話でもねぇだろ。自分の書いた話がおかしくなってんなら、著者が自分で直さねえとな? それが浄化するってことだろ」
「君は『二筋の血』を浄化したいと思っているの? 本当に?」
語気を強めた萩原は、もう怯えていない。石川を見据える眼差しは、非難に満ちて、剣呑だ。
「君がしているのは自傷行為だよ。そのためにこの作品と侵蝕を道具にしている。それじゃ形は浄化できても、作品の魂は浄化されない」
「意味がわからねえ。浄化は浄化だろ。お前さっき自分には何も浮かばねぇと言ってたが、そこまで言うんなら代案あるんだろうな?」
「っ……それは」
「ねぇよな。じゃあやることは一つだ」
「だが、啄木。本当に血が何より重要かい」
北原は横目に石川を見た。石川が何かを言う前に、さらに重ねる。
「本来の筋の母親が、どこで傷を負ったのか。誰に傷を負わされたのか。それは君にとって重要ではないのかい? 行きずりの男が家に押し入り、心ない暴力によって負わされた傷……それにより親子は家を逃げ出し、あの松の下に倒れることとなった……という筋で、良いのかな。それによって随分、文意が変わってくるように思うのだけど」
「……なんだよ白秋、お前も作者サマの言うことが信用できねえってか?」
剣呑を帯びた石川の睨みに、北原は肩を聳やかす。
「いいや。結果を追うことに囚われるあまり、重要なことを見逃しかけていやしないか、と思うだけだよ」
「……まだ、考えませんか。より良い方法があるのでは?」
泉までもが加勢し、石川は舌打ちした。
「いいぜ、じぃっくり考えても。考え続けてる間、あのガキどもはどっかで熱射病になるかもな。そうしたらどっちにしろ乞食に出会わずゲームオーバーだ。あの侵蝕者が馬車をぶっ壊しても同じことだぜ」
「……」
「いや、いや。石川君、まだ方法はあるよ」
萩原が声を張った。握りしめた手の中で、紅葉の鈴が微かにちりちりと鳴っている。
「自分が額に傷を受けて、そこの松の下に倒れていればいいんだ。泉さんの血でも代わりになれたんだから……」
「赤ん坊はどうする」
萩原は確かに勇気を出したのだろう。だがそれを素直に受け取ってやれるほど余裕のない石川は、ますます冷ややかに打ちのめす。
「お前倒れながら泣くのか? で、そのまま新太を睨むって? いくら猫の鳴き真似が得意だっつっても、無理があるぜ、格好つかねえよ」
「ひ、必要ならやれるよ……きっと。ここは君の世界で、『ここ』はいくらか、自分たちに近い空気があるって、何となく感じてるんだ。子どもの目に、乞食の親子だって、自分一人を間違わせることぐらいなら……多分」
石川は今度こそ呆れ返った。現実離れした提案を、流石に誰も擁護しない。だが代わりに、泉も北原も、そこまで萩原に提案させた石川に、物言いたげな目を向けてはいる。
「傷はどうやって負うんだ。誰かに喧嘩でも売りに行くか? もしくはそのためにわざわざ侵蝕者を呼ぶか? 無駄に怪我してどうするんだよ」
「……司書さんに、相談をしては?」
「要らねえ。どうせ同じだ」
石川は一人、仲間に背を向けた。もう何も聞くべきことはない。
「石川君!」
呼び声も無視し、手に銃を握り、大股で小屋へ向かう。近づくと、中で赤子がまたけたたましく泣き出した。石川は躊躇わず、戸を蹴破った。土足で上がり込み、ずかずかと進めば、赤ん坊を抱いた母親は突然の来訪者に悲鳴を上げて、奥の部屋へ逃げ込む。石川は何も言わずに同じ方向へ進んだ。
奥の部屋には、腰の高さの卓がひとつきりと、大きな窓があるだけだった。生活感のなさにも気づかずに、石川は卓の上にあった一輪挿しを撃つ。陶器の破片と、可憐に咲いていた一輪の花が、無残な姿になって床に飛び散ると、母親は絹を裂くような声を上げて赤ん坊を腕に深く抱き込み、その場にしゃがんだ。
子を守ろうとする母親の、その額に目がけ、石川は銃を持った腕を振り上げる。
「……」
何かが過る。イメージ、否、記憶の光景。
『母の額に大きな痍があつた。然うだ、父親が酔払つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の顔が目の前に……。』
(違う、これは記憶じゃない。別の小説の、一節だ)
だが確実に、目の前の女があるべき状態。
己か子か、何かを守って受けた傷。母親の傷。それと同じものが、この話の、乞食の額にもあるのだ。
「……」
なぜ、違う小説の一節が、この母親から思い出されたのかが分からなかった。困惑が僅かに冷静さを呼び戻し、疑問が頭を擡げる。
(今殴って、出来る傷は、本当に、証になるのか?)
恐怖に身を竦めて震えている女を見下ろしたまま硬直する。平凡な、だが美しい女だ。殴られて逃げ出した女は、それだけでは、母親だ――乞食とは、呼べない。
回る思考が煩わしい。さっさとやってしまえ、と衝動が怒鳴りつけてくる。だが何故か、振り上げた銃が下ろせない。
「…………ッ」
赤ん坊が、一層けたたましく泣き喚いて、無闇に頭に響いた。頭痛が再発する。警鐘がちりちりちりと鳴る。ふと、こんな風に泣きたかったことがあったような気がした時、
「石川君!」
何かが横ばいに腰へ衝突し、石川は完全に不意を突かれ、勢いのままに倒れた。
「うおっ!」
咄嗟に踏ん張りもきかず、思わず一輪挿しのあった卓を掴んだが、一緒にひっくり返したに過ぎず、しかも床に転んだ拍子に手を離れたのか、
「うっ」
女の低い呻き声がひとつ。あとは、赤ん坊の泣き声だけ。
「いってぇ……」
痛みで、遠のきかけた意識が戻ってくる。頭を打ったようだ。
顔を歪めながら、石川は、腰の辺りに埋まった萩原の頭を押しのけようと、後頭部を片手で鷲掴みにした。
「どけよ……起きられねぇ、だろ」
萩原は何度も首を振る。石川の腰を掴んだ両腕は、存外力が強く、押しのけようにも剥がれない。不意打ちのせいで一時的に力が抜けてしまい、石川は刺々しい声音をぶつけながら、萩原の後頭部を無闇に押す。
「どけっての、立てねえだろ」
「う、……君は、嘘つきだ」
「まだその話かよ、浄化のためにやってることなんだから仕方ねぇだろ」
「本気で、そんなことを思ってるわけ、無い、だって君は生前、奥さんを愛していたじゃないか」
「お前に何がわかるんだよ。第一それは俺様じゃねえ、石川啄木のもんだ、俺様には関係ねえんだよ」
「関係あるんだよ、君は分かってないんだ、魂はそう簡単に、途切れたりしない。君が、そう書いたんだよ、この『二筋の血』でも、君自身にそんなつもりがなくっても、そういうことを書いたんだ」
銃を持った手は、幸いか不幸か、石川自身の身体の下敷きだ。もし自由になっていたら、銃で萩原の額を打っていたかもしれなかった。そのくらい、石川は萩原の言葉が癪で、今すぐにでも黙らせたくて、今度は頬に手を押し付ける。
「黙れ、何も知らねえくせに。生前のことだってお前が知るわけねぇだろうが、石川啄木とお前は一度も会ったことがねぇんだから」
「あるよ、」
「ねぇだろ、記憶違いだ」
「あるんだ、君の本に! 君の歌集に、僕は出会ってる、ここに来るよりずっと前に!」
あまり萩原が大きな声を出したので、赤ん坊も些か驚いたらしく、泣きやんだ。まだ恐怖が収まらない無垢な子は、うじうじとぐずりながら、気を失って動かない母親の腕の中で頻りに身じろぎをする。
「……『友がみなわれよりえらく見ゆる日よ』、『花を買ひ来て』、『妻としたしむ』」
「……」
「……君は、知らなくて当然だ。でも僕は、君のことを知っていた。君は屈指の詩人だった、君の言葉は狂人的だった、君の詩には美があった。僕は君を、読んだんだ。君の魂に、ほんの少しだけ、でもずっと昔に、触れたんだ」
「……」
「だからって、全部わかるなんて言うつもりもないけど、でも君が嘘をつけばすぐにわかる。君の言葉が、隙だらけになるから。君の、型に拘らない自由な足先が、霧の中をさまようみたいに迷子になるから。本当はずっと、君はここに来たくなかったし、『二筋の血』なんて読み返したくもなかったし……きっと、僕たちに潜書して欲しくも無かった、違う?」
「……」
「浄化したくなんか、なかったんだ。君はずっと、こんな作品は消えてしまえば良いって、思ってる。でも、それは、君の自傷だ。思うように言葉を紡げない君の、きっと、カミソリなんだ」
戻ろう、と、萩原は言った。泣き声だった。
「今の君じゃ、だめだよ。このままじゃ石川君、大切なものを、本当に大事にできなくなってしまう」
目を眩ませる光を抜け、本を背にして、よく磨かれた床に降り立つ。久方ぶりの感触は固く冷たい。
待ち続けていた司書は、俯いて目を合わせない石川と、その服の裾を拳で握り続けている萩原と、石川の方を見ることができない二人を見た。
「……一時帰還、お疲れ様です。判断は恐らく正解でした。こちらで判断すべきことでもありましたが……何故か全く連絡がつかず」
司書も暫時は言葉を選ぼうとしたが、ちら、と本に目をやって、首を振った。
「ひとまず皆様、少しの間、お休みください。泉さんと石川さんはこの後最優先で補修を行いますので、補修室へお願いします。その後、北原さんと萩原さんも」
「お手数をおかけします」
泉は礼をしたが、石川は何も言わず、顔を背け続けた。司書はそれを一瞥し、「ただし」と声音を引き締める。
「事態は未だ予断を許しません。申し訳ありませんが……補修室や医務室を離れるにしても、一時間後に再度ここへ集合してください。それまでにこちらは必ず補修を終えます。現状の会派から人員の変更の提案は致しませんが、もし体調などがどうしても優れないようでしたら、代替人員を見つけてください」
「貴女が切羽詰まるとは、余程危険な状況になっている、ということかな」
北原の問いに、司書は頷いた。石川は目だけで、件の本へ目をやる。勝手に開いたままになっている紙面には、より濃い洋墨の群れが蠢いていた。佐藤藤野の一件を解決してあるとは思えない程の勢いで、紙のほとんどを埋め尽くそうと広がり始めている。
「……侵蝕が、一層加速しています。当初、中程度の侵蝕とお伝えしておりましたが、現在はより深刻化。皆様の潜書によりこちらで確認できた侵蝕者は、これまでに例のない特殊な型のようです」
「あの影でしょうか」
「恐らく。未だ巣の特定は出来ておらず、概念世界の一部空間では、眷属の増殖や……外部からの侵入も確認されています。どう転ぶか分からない、としか、今は言えません」
ですから、と、司書は頭を下げた。
「皆様、どうか可能な限り万全に近い状態で、ここへお戻りください。お待ちしております」
「も一つの記憶も、其頃の事。矢張夏の日の嚇灼たる午後の出來事と憶えてゐる……ってな」
村の端から一里ほどのところにあるK停車場から、さらに北へ真っ直ぐ行く国道を、一行はずっと歩いてきた。まだ馬車は動いておらず、馬車に乗ってくるはずのあの子どもの姿も、新たなシーンになってからは見ていない。
目的地は、水車まで続く野川に渡す土橋を渡ったところだ。その辺りの道の左右にはまだ年若い松の木が並び立ち、松陰に背の高い夏草も鬱蒼と生え茂っている。
「それが、次のシーンの冒頭……? 本当に、夏の真っ盛りのことなんだね……」
萩原は、あまりの暑さに上着をほとんど肩から落として、裾を地面に引きずりかけていた。泉が描写で作った日傘に入れてもらい、影の恩恵を多少受けてはいるが、地面からの照り返しが上回る。萩原は薄ら口を開けて夏空を仰いだ。
「確か、詩にも、夏があったね……『夏の街の恐怖』。夏の日の下に、気だるさと、不吉さが沈んだような、あの詩……石川君にとって、夏って、死の季節だったの……?」
「焼けつくような夏の日の下に、だね」
北原でさえ、今は煙草の火を躊躇った。袖で汗を拭いがてら、詩の一節を諳んずる声だけは凛とする。
「焼けつくような夏の日の下に、怯えて眠る軌条の心。母親の居眠りの膝から滑り降りて、肥った三歳ばかりの男の児が、ちょこちょこと電車線路へ歩いていく」
「あぁもう勝手に歌うんじゃねえよ鬱陶しい。死の季節とか何とかは知らねーが、こんだけ暑けりゃ嫌にもなるだろ」
「本来、ここに、乞食の母親と赤ん坊が、居るはずなのですか」
日傘を差しながらも、泉は色も白く着物も重く、益々暑さが苦しいはずだった。それでも羽織も着物も緩めたり崩したりせず、頻りに薄青い手拭いで顔や首元の汗を取りつつ、
「こう暑くては、熱射病にかかりかねません。早く親子を見つけたいものですが……」
萩原が少し屈んで、背の高い青草の根元まで覗き見たが、結論は三人と同じだ。
「いない……」
「今度は親子が、あの影に食われてしまったのかな。この中の誰かが母親役になり、誰かが……赤ん坊役になる、という流れになりそうだけど」
「お、おわぁ、おわぁ!」
「ふふ、大きな赤ん坊だ。ちょっと大きすぎるかな」
北原が萩原を撫でてやる間も、石川はじっと立ち尽くして地面を見ていた。時折、ぱた、ぱた、と汗の雫が落ちては、あまりの暑さですぐに乾く。黒は熱を特に集めるため、学ランを着たままの石川は特に暑いはずだったが、首に汗の筋を作りながらも、そのままにしている。頻りに日陰の方を気にする泉も、石川が何かじっとしているのに気づき、「どうかしましたか、石川さん」と声をかけた。
「どうもしねぇけど、お前ら、何か聞こえるか」
「え?」
言われて、三人も、それぞれ耳を澄ませた。聞こえてくるのは蝉時雨。それだけかと思えば、その奥に、ごく小さくはあるが、違う声が混じっている。耳のいい北原が先に、「赤ん坊の声がするね」と言い当てた。
「萩原を赤ん坊にしなくて良さそうだ。あっちの方から聞こえるな。行くぞ」
「あ、そう……ちょっとだけ、残念かも」
「残念なのですか……?」
蝉の声にかき消されそうな泣き声を何とか辿り、木立の中を行くと、木組みの粗末な小屋に辿り着いた。煙突もなく、生活の形跡もない。本来の筋には出てこないものらしく、即席の工事なのを誤魔化しもしない粗雑さだ。泣き声は小屋の中から聞こえてくる。
一行が近づこうとすると、泣き声が止み、扉が開いたので、咄嗟に木陰にそれぞれ隠れた。小屋の中からは男が出てきて、中に何事か声をかけた後、扉を閉め、迷いのない足取りで木立の中を去っていく。男は酸いも甘いも嗅ぎ分けたと見える三十幾つの見目で、服装も村に似合わず継ぎの無い綺麗なもので、履きなれているらしい固い靴が丈夫な青草を薙ぎ倒し地面を踏みしめていく。
「……啄木。あれは?」
「侵蝕者じゃねぇが、あんなやつはいなかった」
「そこの家から出てきましたね。お住いなのでしょうか」
「……赤ん坊を、保護してくれているの?」
少しすると、また赤ん坊の泣き声がする。一行は周囲にも気を配りながら近づき、一番泣き声が大きく聞こえる窓から、ひとりずつ中を覗き込んだ。
「赤ん坊だけじゃねえ。とんでもねぇことしやがる」
石川は一目でやめて、近くの壁にもたれかかり座り込んだ。家の中には、ぼろぼろになっているはずの母親まで、立って赤ん坊を抱きあやしているのだった。身に受けた怪我の手当も受けたようで、まだ顔に疲労の色は濃いが、赤子を見下ろし穏やかに微笑む余裕が生まれている。なにか大きな安堵を得た、そういう様子が、窓の外からでもありありと分かった。
「おや、まあ」
北原は、他の三人より少し長く眺めた。
「幸せを得た、もしくは得るところ、と言ったところかな。あれでは血を流して倒れていてはくれそうにないね。それもそれで、彼女たちにとっては望ましくもあるが」
「先程の男が異質なことには間違いありません。本当に侵蝕者ではなかったのでしょうか? 気配は感じませんでしたが……存在している登場人物の内に入り込み、操っているという可能性も」
「ありうるけれど、僕ならあの親子を放っておかないだろうね。いつ計画の邪魔をする連中がやってくるかも分からないのだから、常にそばに居て、監視するだろう」
窓を離れた北原は、石川を振り返った。固い靴底が地面を蹴飛ばし、ひび割れた土を砕いて散らしている。
「君がそこまで苛立つのは、君の大切なモチーフを汚されたからかい。彼女は母親であると同時に、乞食の女でもあるから」
「分からねぇけどムシャクシャすんだよ。放っとけ」
「そうはいかない。君も少なからず先の戦いで傷を負っているし、君の精神に及ぶ影響も無視できないだろう」
「チッ……」
石川はまともに答えずに、壁を殴るように手をついて勢いよく立ち上がると、砂を払いもせずにずかずかと木立の方へ歩き出した。
「どこに行くんだい」
「イラつきすぎてしょうがねえから散歩だ。ついてくんなよ」
そのまま早足で立ち去り、誰かが追随する隙も与えない。泉は木蔭で息をついた。
「ああいうところは、やはり、どうかと思います」
石川は、ポケットの中に押し込んだままの指環を指先で弄びながら、考えた。
「何を考えていやがるんだ、この世界は」
男の去っていった方へ歩いているが、背中が見える気配はない。まるでどこかで掻き消えたかのようだ。木漏れ日すら強烈な夏日で、林の中は湿度も高く、現実の季節と重なって不快感が強い。
「乞食の親子を助けて、善人面でもしてぇってか? いや……ちげえ。お前の狙いなんざ分かりきってる」
立ち止まり、ポケットの右手を引き出して、拳を開く。何も無い痩せっぽちの手だ。それを握り拳を作る。
「……俺様への当てつけだ。そうに決まってる」
頭痛がしていた。いつからの痛みか自覚がないが、酷くもなく、かといって気にせずにいられない程度には主張する。眉を詰め、拳を握り、手近な木を殴りつけた。だがその結果と言っても、幹が少し揺れて、葉が擦れる音をざわざわと立てたばかりである。
「今でも見てやがんのか。無様な俺様の姿をよ」
手の甲が痛み、擦り傷が小さく出来ている。それすらつまらない。すると、ちりり、と小さな鈴の音が聞こえ、石川は脅かされた猫の様な勢いで振り返った。
「わ」
その勢いに驚かされ、また近くの木の幹に日傘を引っ掛けてつんのめったのは、やはり萩原だ。石川は呆れて肩を落とし、日傘を広げたまま無理に直進しようとしてうまくいかない萩原を、助けもせずに睨みつけた。
「何しに来たんだよ。すぐ戻るから来るなって言ったろ」
「すぐ戻るとは、言ってなかったけど……その、話がしたくって」
「話って何だ……の前に、傘畳めよ」
日傘を畳んで、ようやく石川の隣に来た萩原は、一勝負終えた後のように胸を撫で下ろした。少し息が上がっているのも焦ったせいか、暑さのせいか。
「……で、何だよ」
「あの、親子のこと……その」
萩原の目があちらこちらへ泳いでいる。思っていることをどう話すべきか迷っていると見え、石川は苛立ちを募らせながらも辛抱して待った。
「その、あの親子は、あの男と、結婚するのかな」
「……するんじゃねえか?」
「つまり、父親がいなかったあの子に、義理の父親が出来るんだね……」
「そういうことになるな」
「良かった、と、思う? 石川君は」
何が言いたいのか、と問い質したいのを堪え、「良くはねえだろ」と返した。すると迷子になっていた萩原の目が、石川を映す。
「良くないって、本当に思ってる?」
「は?」
「……本当は、石川君、あれで良いと思っているんじゃない。その方が、あのひとが……幸せに、なれるから」
「何が言いたいんだよ」
じ、っと萩原は石川を見つめる。この視線が、石川は今だけ、逃げ出したい程苦手に感じた。
「……先生や泉さんには、言わないから。第一会派のよしみで、正直な気持ちを教えて欲しくて」
「俺様が嘘ついているって言いてえのか?」
「そうじゃないけど……そうかもしれないって、何となく思ってる」
何を根拠に、と言いかけたが、「前のシーンの時から」と遮られた。
「前のシーンの時から、石川君はずっと様子が変だ……いつもみたいな、率直な感じがない。真っ直ぐに伸びてしなやかな木が、無理にあちこちに捻じ曲がろうとしてるみたいに、ずっと行き止まりに突進してるみたいで、それで苛ついてるみたい。それは……この侵蝕が原因だと思ってたのだけど」
「……ちげえのか」
「そうかもしれない。……石川君自身にも、行き止まりの原因はある、んじゃ、ないかな、って……」
語尾は消え入った。萩原の真っ直ぐな眼も次第にぶれて、段々ズレていき、終いには俯いてしまう。だから萩原は、恐らく石川が今どんな表情をしているか、見えはしなかったはずだ。
「……侵蝕は、著者の負の感情も餌にするが、要はソレ、ってことかよ」
「ご、ごめんね全然的外れだったら……でも、もしそうだったら……きっと、完全に浄化するには、石川君の気持ちの部分も、鍵になってくるはず……だから、その……自分に何とかできるだなんて傲慢なことは言えないけど……でも」
弱弱しい手が、袂の鈴を握る。今は暑さ以外の理由で湿っているのだろうこの手が、戦闘時には固くごつごつとした銃をしっかと握り、北原に似た、否状況によっては北原よりもずしりと響く弾を放つのだから、不思議なものだ、と石川は他人事のように考えた。端から今回同行の者たちはもちろん、誰にも何も言うつもりはなかったのだから、大した慰めにもならないが、それでも苛立ちの角は多少丸くなる。その代わりに方向が狭まり、はぁ、と溜めこんだ言葉の代わりに吐き出した。萩原はびくりと肩を震わす。
「……そんな怯えるような面してるか? 俺様は」
「……ずっと、怖い顔をしているよ。ここに来てから、いや、あの家の中を覗いてからは特に、ずっとそう……」
「そーかよ」
やや経ってから、石川はふと、口を開いた。
「あの乞食の女を見てると、俺様自身のものじゃねえ記憶が蘇ってくる」
「……生前?」
「石川啄木のモンだろーな……嬶や、母親……人生を食い潰した、哀れな女たちが、影だけ浮かんできやがるんだ」
嘘ではなかった。具体的に姿が浮かんでいたわけではなかったし、言うほどはっきりと蘇るわけでもなかったが、それでもぼんやりと思考の端に、引っかかり続けていた影であるのは確かだった。そう、と、萩原は俯いていたが、やがて「どうするの」と、不安げに零した。
「……選択肢があるなら、教えて欲しいぜ。何か持ってねぇのか」
「……ごめんね。自分にはやっぱり、何にも浮かばない……頼りにならなくて、ごめんね。自分じゃなくて、先生や泉さんだったら……」
「いーんだよ。お前じゃなきゃこんなこと、言う気にもならなかった」
助かった、と思い、これでようやくあの小屋に戻る気になれそうなことを、心底感謝してやろうと思った。石川は萩原に背を向けた。
「戻るか」
「え」
「選択肢はねぇんだ。やらなきゃならねぇこともはっきりした。案があるなら仲間に相談する、って、大事なことだろ?」
石川は本当に感謝するつもりなのに、萩原は不安を抑えきれない子供のような目で、石川を見るばかりだった。
「必要な要件は」
北原と泉の元へ戻ってきた石川は、そう前置いてから、三本指を立てた手を三人に示した。
「一、額に傷を負っていて、それが血を流すこと。二、赤ん坊連れであること。三、貧しい身なりであることだ。これが揃ってなくちゃ意味がねぇ」
「骨が折れるねぇ」
肩をすくめる北原を無視し、石川は小屋の方を見た。まだ男は帰って来ず、赤ん坊の泣き声もあれから大人しいものだという。
「で、一案なんだが。殴った方が手っ取り早くねぇか?」
「な、」
泉が呆気に取られた。北原も目を丸くして、「本気かい?」と問う。石川が頷くと、泉は「何て乱暴な!」とつい声を張り上げ、はっとして口元を抑えて小屋の方を気にした。気づかれた様子はない。
「……石川君。やらなきゃならないことって、それなの」
萩原は、声を震わせた。
「どうして、殴るの」
「そりゃ、決まってんだろ……あの親子の額、お前も見たろ」
「見たよ……見た、けど」
「傷がねえんだ。今のままじゃ足りねえ。だが近くにそれらしい母親が他にいるわけでもない。つまり、あの親子を、本来の筋の登場人物らしくするしかねえってこった。傷がねえ奴にどうやって傷を作る? 殴るしかねえよな」
「暴力的ですね……」
「じゃあ他にどうすれば良いんだ? さっきの男を呼び寄せて、あの女を殴ってくれって頭下げるか? 正気を疑われるぜ」
「僕は、今の石川君の正気を疑うよ」
萩原の声に棘が生まれた。
「あの親子を、どうして殴るなんてことを考えられるのか、分からない。君にとってはただの乞食の女じゃないはずで、それを、ましてや君が手を下すだなんて、そんな変な話は無いよ」
「別に変な話でもねぇだろ。自分の書いた話がおかしくなってんなら、著者が自分で直さねえとな? それが浄化するってことだろ」
「君は『二筋の血』を浄化したいと思っているの? 本当に?」
語気を強めた萩原は、もう怯えていない。石川を見据える眼差しは、非難に満ちて、剣呑だ。
「君がしているのは自傷行為だよ。そのためにこの作品と侵蝕を道具にしている。それじゃ形は浄化できても、作品の魂は浄化されない」
「意味がわからねえ。浄化は浄化だろ。お前さっき自分には何も浮かばねぇと言ってたが、そこまで言うんなら代案あるんだろうな?」
「っ……それは」
「ねぇよな。じゃあやることは一つだ」
「だが、啄木。本当に血が何より重要かい」
北原は横目に石川を見た。石川が何かを言う前に、さらに重ねる。
「本来の筋の母親が、どこで傷を負ったのか。誰に傷を負わされたのか。それは君にとって重要ではないのかい? 行きずりの男が家に押し入り、心ない暴力によって負わされた傷……それにより親子は家を逃げ出し、あの松の下に倒れることとなった……という筋で、良いのかな。それによって随分、文意が変わってくるように思うのだけど」
「……なんだよ白秋、お前も作者サマの言うことが信用できねえってか?」
剣呑を帯びた石川の睨みに、北原は肩を聳やかす。
「いいや。結果を追うことに囚われるあまり、重要なことを見逃しかけていやしないか、と思うだけだよ」
「……まだ、考えませんか。より良い方法があるのでは?」
泉までもが加勢し、石川は舌打ちした。
「いいぜ、じぃっくり考えても。考え続けてる間、あのガキどもはどっかで熱射病になるかもな。そうしたらどっちにしろ乞食に出会わずゲームオーバーだ。あの侵蝕者が馬車をぶっ壊しても同じことだぜ」
「……」
「いや、いや。石川君、まだ方法はあるよ」
萩原が声を張った。握りしめた手の中で、紅葉の鈴が微かにちりちりと鳴っている。
「自分が額に傷を受けて、そこの松の下に倒れていればいいんだ。泉さんの血でも代わりになれたんだから……」
「赤ん坊はどうする」
萩原は確かに勇気を出したのだろう。だがそれを素直に受け取ってやれるほど余裕のない石川は、ますます冷ややかに打ちのめす。
「お前倒れながら泣くのか? で、そのまま新太を睨むって? いくら猫の鳴き真似が得意だっつっても、無理があるぜ、格好つかねえよ」
「ひ、必要ならやれるよ……きっと。ここは君の世界で、『ここ』はいくらか、自分たちに近い空気があるって、何となく感じてるんだ。子どもの目に、乞食の親子だって、自分一人を間違わせることぐらいなら……多分」
石川は今度こそ呆れ返った。現実離れした提案を、流石に誰も擁護しない。だが代わりに、泉も北原も、そこまで萩原に提案させた石川に、物言いたげな目を向けてはいる。
「傷はどうやって負うんだ。誰かに喧嘩でも売りに行くか? もしくはそのためにわざわざ侵蝕者を呼ぶか? 無駄に怪我してどうするんだよ」
「……司書さんに、相談をしては?」
「要らねえ。どうせ同じだ」
石川は一人、仲間に背を向けた。もう何も聞くべきことはない。
「石川君!」
呼び声も無視し、手に銃を握り、大股で小屋へ向かう。近づくと、中で赤子がまたけたたましく泣き出した。石川は躊躇わず、戸を蹴破った。土足で上がり込み、ずかずかと進めば、赤ん坊を抱いた母親は突然の来訪者に悲鳴を上げて、奥の部屋へ逃げ込む。石川は何も言わずに同じ方向へ進んだ。
奥の部屋には、腰の高さの卓がひとつきりと、大きな窓があるだけだった。生活感のなさにも気づかずに、石川は卓の上にあった一輪挿しを撃つ。陶器の破片と、可憐に咲いていた一輪の花が、無残な姿になって床に飛び散ると、母親は絹を裂くような声を上げて赤ん坊を腕に深く抱き込み、その場にしゃがんだ。
子を守ろうとする母親の、その額に目がけ、石川は銃を持った腕を振り上げる。
「……」
何かが過る。イメージ、否、記憶の光景。
『母の額に大きな痍があつた。然うだ、父親が酔払つて丼を投げた時、母は左の手で……血だらけになつた母の顔が目の前に……。』
(違う、これは記憶じゃない。別の小説の、一節だ)
だが確実に、目の前の女があるべき状態。
己か子か、何かを守って受けた傷。母親の傷。それと同じものが、この話の、乞食の額にもあるのだ。
「……」
なぜ、違う小説の一節が、この母親から思い出されたのかが分からなかった。困惑が僅かに冷静さを呼び戻し、疑問が頭を擡げる。
(今殴って、出来る傷は、本当に、証になるのか?)
恐怖に身を竦めて震えている女を見下ろしたまま硬直する。平凡な、だが美しい女だ。殴られて逃げ出した女は、それだけでは、母親だ――乞食とは、呼べない。
回る思考が煩わしい。さっさとやってしまえ、と衝動が怒鳴りつけてくる。だが何故か、振り上げた銃が下ろせない。
「…………ッ」
赤ん坊が、一層けたたましく泣き喚いて、無闇に頭に響いた。頭痛が再発する。警鐘がちりちりちりと鳴る。ふと、こんな風に泣きたかったことがあったような気がした時、
「石川君!」
何かが横ばいに腰へ衝突し、石川は完全に不意を突かれ、勢いのままに倒れた。
「うおっ!」
咄嗟に踏ん張りもきかず、思わず一輪挿しのあった卓を掴んだが、一緒にひっくり返したに過ぎず、しかも床に転んだ拍子に手を離れたのか、
「うっ」
女の低い呻き声がひとつ。あとは、赤ん坊の泣き声だけ。
「いってぇ……」
痛みで、遠のきかけた意識が戻ってくる。頭を打ったようだ。
顔を歪めながら、石川は、腰の辺りに埋まった萩原の頭を押しのけようと、後頭部を片手で鷲掴みにした。
「どけよ……起きられねぇ、だろ」
萩原は何度も首を振る。石川の腰を掴んだ両腕は、存外力が強く、押しのけようにも剥がれない。不意打ちのせいで一時的に力が抜けてしまい、石川は刺々しい声音をぶつけながら、萩原の後頭部を無闇に押す。
「どけっての、立てねえだろ」
「う、……君は、嘘つきだ」
「まだその話かよ、浄化のためにやってることなんだから仕方ねぇだろ」
「本気で、そんなことを思ってるわけ、無い、だって君は生前、奥さんを愛していたじゃないか」
「お前に何がわかるんだよ。第一それは俺様じゃねえ、石川啄木のもんだ、俺様には関係ねえんだよ」
「関係あるんだよ、君は分かってないんだ、魂はそう簡単に、途切れたりしない。君が、そう書いたんだよ、この『二筋の血』でも、君自身にそんなつもりがなくっても、そういうことを書いたんだ」
銃を持った手は、幸いか不幸か、石川自身の身体の下敷きだ。もし自由になっていたら、銃で萩原の額を打っていたかもしれなかった。そのくらい、石川は萩原の言葉が癪で、今すぐにでも黙らせたくて、今度は頬に手を押し付ける。
「黙れ、何も知らねえくせに。生前のことだってお前が知るわけねぇだろうが、石川啄木とお前は一度も会ったことがねぇんだから」
「あるよ、」
「ねぇだろ、記憶違いだ」
「あるんだ、君の本に! 君の歌集に、僕は出会ってる、ここに来るよりずっと前に!」
あまり萩原が大きな声を出したので、赤ん坊も些か驚いたらしく、泣きやんだ。まだ恐怖が収まらない無垢な子は、うじうじとぐずりながら、気を失って動かない母親の腕の中で頻りに身じろぎをする。
「……『友がみなわれよりえらく見ゆる日よ』、『花を買ひ来て』、『妻としたしむ』」
「……」
「……君は、知らなくて当然だ。でも僕は、君のことを知っていた。君は屈指の詩人だった、君の言葉は狂人的だった、君の詩には美があった。僕は君を、読んだんだ。君の魂に、ほんの少しだけ、でもずっと昔に、触れたんだ」
「……」
「だからって、全部わかるなんて言うつもりもないけど、でも君が嘘をつけばすぐにわかる。君の言葉が、隙だらけになるから。君の、型に拘らない自由な足先が、霧の中をさまようみたいに迷子になるから。本当はずっと、君はここに来たくなかったし、『二筋の血』なんて読み返したくもなかったし……きっと、僕たちに潜書して欲しくも無かった、違う?」
「……」
「浄化したくなんか、なかったんだ。君はずっと、こんな作品は消えてしまえば良いって、思ってる。でも、それは、君の自傷だ。思うように言葉を紡げない君の、きっと、カミソリなんだ」
戻ろう、と、萩原は言った。泣き声だった。
「今の君じゃ、だめだよ。このままじゃ石川君、大切なものを、本当に大事にできなくなってしまう」
目を眩ませる光を抜け、本を背にして、よく磨かれた床に降り立つ。久方ぶりの感触は固く冷たい。
待ち続けていた司書は、俯いて目を合わせない石川と、その服の裾を拳で握り続けている萩原と、石川の方を見ることができない二人を見た。
「……一時帰還、お疲れ様です。判断は恐らく正解でした。こちらで判断すべきことでもありましたが……何故か全く連絡がつかず」
司書も暫時は言葉を選ぼうとしたが、ちら、と本に目をやって、首を振った。
「ひとまず皆様、少しの間、お休みください。泉さんと石川さんはこの後最優先で補修を行いますので、補修室へお願いします。その後、北原さんと萩原さんも」
「お手数をおかけします」
泉は礼をしたが、石川は何も言わず、顔を背け続けた。司書はそれを一瞥し、「ただし」と声音を引き締める。
「事態は未だ予断を許しません。申し訳ありませんが……補修室や医務室を離れるにしても、一時間後に再度ここへ集合してください。それまでにこちらは必ず補修を終えます。現状の会派から人員の変更の提案は致しませんが、もし体調などがどうしても優れないようでしたら、代替人員を見つけてください」
「貴女が切羽詰まるとは、余程危険な状況になっている、ということかな」
北原の問いに、司書は頷いた。石川は目だけで、件の本へ目をやる。勝手に開いたままになっている紙面には、より濃い洋墨の群れが蠢いていた。佐藤藤野の一件を解決してあるとは思えない程の勢いで、紙のほとんどを埋め尽くそうと広がり始めている。
「……侵蝕が、一層加速しています。当初、中程度の侵蝕とお伝えしておりましたが、現在はより深刻化。皆様の潜書によりこちらで確認できた侵蝕者は、これまでに例のない特殊な型のようです」
「あの影でしょうか」
「恐らく。未だ巣の特定は出来ておらず、概念世界の一部空間では、眷属の増殖や……外部からの侵入も確認されています。どう転ぶか分からない、としか、今は言えません」
ですから、と、司書は頭を下げた。
「皆様、どうか可能な限り万全に近い状態で、ここへお戻りください。お待ちしております」
