「佐藤藤野」
隣を行く人の横顔に薄暗い青が差し始める黄昏時、一行は揃って桶屋に戻った。裏手側に回る壁際で、石川は北原と萩原を留め、泉を見た。泉はそれで承知して、一人で更に進む。土間の近くまで歩み寄っていくのを、壁に身を隠しながら、石川たちも見守った。泉は家の中へ、声を潜めて呼ぶ。
「新太郎さん。もし、もし」
果たしてあの子どもが、裸足のままで飛び出してくる。袖無しに黒い股引を履いた気楽な格好で、今さっきまでしょぼくれた顔をしていたのか、まだ眦がしょんぼりと下がりがちだった。裸足で土を歩くなど考えられない泉は、自然と眉間に皺を寄せる。
「裸足で来るなんて、いけない子です。草履は無いのですか。足に怪我をしますよ」
注意する声がちょっと大きいので、泉は口元をそっと手で抑えてから、袖に大事に抱えてきたものを両手に持った。そっと腰を落とし、子どもを見上げる。
「いいものを持ってきました。さ、手をお出しなさい」
小さな紅葉の手が二つ出ると、そこにノートと鉛筆を握らせる。ノートは紅葉の薄模様が映っていた。そこへ泡を流すように、胡麻のような影が通る。
「これを使って、もっと勉強するのですよ。これらを使い切ってしまうほど、一心に励むのです」
語り聞かせる泉の頬にも、さっと鎖鎌の刃先の影が走ったのを、目ざとく見つけた石川が「泉!!」と呼んで知らせた。泉は唇を噛み、袖の中に隠してあった、懐中時計の玩具を素早く取り出す。
「これも、受け取ってください」
取ろうと伸ばした小さい手に、鋭角の黒い影が閃いた。気づいた瞬間泉は容赦なく子どもを突き飛ばす。するとちょうど子どもの手があった辺りの地面にぎらりと光った刃が入り、固い石ころを一突きで破砕した。
「早い」
泉は渡せなかった時計を握り込んで、子どもから距離をとるため跳び退る。突き飛ばされた子どもは派手に尻もちをついて短く呻いたが、そのまま横たわって静かになった。走り込んできた石川はそれを掬って、近くの土間に転がしておき、戸を閉めた。人気を感じない家であった。
石川が銃を持つ間にも、侵蝕者の眷属たる小物がぞろぞろと湧き出し、泉を囲いこもうとしていた。泉も細剣を手にして、飛びかかってきた者から流麗な手捌きで斬っていく。北原と萩原の重い銃撃が、何匹かまとめて眷属を撃ち払っている。それでも数がさほど変わらず、むしろ増える一方で、石川は舌打ちをした。
「どこからこんなに湧いて出やがった。ここまで気配一つもなかったってのに」
武器の形状と敵の攻め方から、泉を一人にしては危ないと、石川は目の前の敵に対し、一旦殲滅よりも掻い潜ることを選択した。進路の邪魔となる眷属を素早く撃ち、補充される前にすり抜けて駆けた。有象無象の渦の中心に取り残された格好の泉の元へ辿り着くのは、石川にとってそう難しいことではなかった。
「無事か」
「ええ、なんとか」
「随分危ねぇ橋を渡るよな。危うくあのガキも巻き添えだ」
「戦いに入る前に渡してしまいたかったのです、迂闊でした。新太郎さんは、怪我をしていませんでしたか」
「擦り傷一個もなかったぜ!」
死角から飛んでくる洋墨の塊を、本体ごと撃ち抜く。群れはあくまで群体としてあり、統率や連携は見られない。石川は周囲をサッと見回しがてら、
「あのガキのことは気にしなくていい」
と零した。細剣を握り直した泉は、「それはどういう意味ですか」と問うが、襲撃と銃撃によって黙殺されてしまう。
「なんでもいーんだよ。それより、その玩具を持ってる方が危ねぇから、さっさと捨てるかなんとかしちまえ」
「っ……敵はこれを狙ってきているということですか!」「そういうことだ、っと!」
「何故!」
攻撃の手がより苛烈になる中、泉は時計を懐に押し込んだ。石川も一瞥はしたが、止めてやる余裕も無い。
「んなこと、知るか……っ!」
バケツ一杯分の洋墨が、ちょうど石川と泉の間に着弾する。避けるために飛び退くと間に羊が群れを成してなだれ込み、あっという間に再び分断されてしまう。呻き声と、鳴き声か言葉ともつかない音とのために、泉がなにか言いかけた声も届かない。
「この量、一人で相手すんのは、無理があんだろ」
肩で息をし始めながら、石川は周囲を確かめた。泉は羊の群れの向こうだが、しばしば剣戟が聞こえる。重い銃撃は全く反対側から聞こえてくるが、恐らく北原らは分断の憂き目に遭わずに済んでいるようだ。危機に瀕しているのは、泉と、進んで敵の坩堝に飛び込み孤立させられている石川の方。泉の方へ合流すべきだったが、間に入り込んだ眷属はいっそう数を増して分厚い壁の体を成している。そこまでして、どうやら孤立させたいらしい。
「チッ。貧乏くじだなァおい。なんでこんなに侵蝕者が、湧いて出てくるんだよ、この小説に。そこまで名が通らない小説の中で、更に影が薄いってのに」
有名作品の方が、読者が多い。その分、読者が抱いた負の感情を集めやすい。一方、読者の限られる書簡や日記、著者の代表作品名に上がってこない無数の作品達にも侵蝕者は湧き、それらは読者、あるいは作者本人の負の感情を源泉としている傾向にある。『二筋の血』は、どちらも当てはまりにくい作品のはずだった。文庫で出版のある小説集にも掲載されにくく、作者自身もまた──原稿が返されて以降、長いことその作品を放置した。随分経ってから書き直しの旨を日記に記したのが、異様に感じるほどに。
「……実は気に入ってたのか? なあ、どうなんだよ」
石川啄木、と石川が呟くと、まるで応えるようなタイミングで戦場に変化が起きた。泉が今なお応戦していると思しき方角には、洋墨瓶が投げつけて溜まった洋墨溜りが出来始め、そこから薄い影のようなものが、徐に立ち上がる。影は洋墨を吸い上げてなお薄く、ただ表面積だけを膨らます水風船のような出で立ちで、次第に上へ伸び、やがては日の落ちきった濃紺の空に浮かぶ文字の雲へ届く。勾配の急な山なりの輪郭が、いつしか腕のようなものが分かれ、手先が蠢くと細い指先が幾本も分かれ、
「啄木! あれはなんだい!」
影の胴体に風穴が空く。だが、向こう側の空をほんの少しの間鮮やかに見せただけで、風穴は直ぐに滴り落ちた洋墨で塞がれる。指先から分かたれた細かな雫は、侵蝕者の眷属の形をとり、足元の群れに紛れ込んだ。今いる眷属たちも、恐らくはあの影から湧いて出たと思われ、石川は束の間抜けていた手の力を込め直した。
「…………こいつは盛大にお出ましだ、のっぺらぼうの侵蝕者が!!」
石川の銃弾が三発続けて影へと飛んだ。弾は途中で青黒く燃え落ちる。影は泉に近く、石川の距離から通らないとも思えなかったが、続けざまに撃ち続けてもどれも燃え落ちる。
「クソが、当たれ!!」
「石川く、無闇に撃ってもっ……!!」
「るせぇ、んなことは分かってんだよ口出すな!!」
影が立ち上がってから、敵の攻勢は明らかに勢いを増した。このままでは数で押し負け、潰される。北原の銃弾がまた影に風穴を空け、石川の苛立ちに油を注ぐ。
「ナメてんのか顔無しごときがッ! 俺様の銃で、届かねえって言うのかよ!!」
八つ当たりに適当に撃った弾が、近くの洋墨瓶に当たったが、脆そうな硝子の外壁に跳ね返された。それを見てぎくりとする。心が乱され、想いが揺らぐ時、それは威力に露骨に現れる。持ち直した銃が、いやに軽い。扱い慣れたのとは違う、伽藍堂を握ったような違和感に、今更ながら冷や汗が背を伝った。こんなことが、今まであったか。
(これじゃ、まるで、いくら打っても響かなかった、)
けたたましい笑い声が真後ろで聞こえ、石川は培った反射で振り向きざまに撃った。それを軽々躱す影は煌びやかな衣装を身にまとった隻眼の少年型侵蝕者。動きがいちいち癇に障る。態とらしい笑みは石川を侮り、ふわふわとゆっくり左右に揺れて飛ぶのもまるで狙ってみろと言うようで、火のつきやすい石川は眉を吊り上げて狙うが、掠りもしない。
「チッ、銃でダメなら、」
ポケットに手を突っ込む。指先が冷たいものに触れる、その時ちょっと頭の片隅が冷やされ、
「──……」
朧気に浮かぶ、言葉が三列。
尋常のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔
「ふざけんなッ!!」
指環へ指を貫通させ、銃がナックルナイフへ形状を変え切る前に、刃と一緒に拳を振り上げ、
「遊びでやってんじゃねえんだよ!!」
侵蝕者の少年へ躍り上がった。
「撃てど撃てど、我らが戦い、楽にならざり」
北原がぽつりと言ったのを、萩原はその足元で聞いた。見上げると北原は、敵の群体を見据えながら、物憂げに口元を緩め、
「ぢっと手でも見たくもなるというものだね。朔太郎くん」
と言いながら、二丁を交互に使って最前列から少し奥の、雑魚や人型をまとめて吹き飛ばした。その向こう、遠くの空にまで広がるほど大きな影が、先程からそびえ立ち、眷属を次々に指先から弾き飛ばし続けている。その足元に泉がいるのか、剣戟の音は小さくもまだ、聞こえ続けている。
「分かります、あんまりうぞうぞと湧きすぎて、何が、なんだか……危ないっ」
「あぁ、いい狙いだ。ありがとう、助かった。しかしあの影も分からないね。この手応えのなさ、本当に影を撃っているようだ」
北原はまた巨大な影に二発手向けた。影に二つの虚ろを穿ったはずだが、もう日が暮れ落ちて夜の色に紛れ、殆ど見えない。聞こえてくるのは瓶や羊の、女の悲鳴のような耳障りな鳴き声と、嫉妬に狂った男が味方も敵もなく一帯燃やし尽くそうとする、ごぉうとうねった音ばかり。恐らく空いた風穴は、また何度目かの素早さで埋まってしまったのだろう。
「あの影のことは、羨ましいけど、おぞましいです。あんなに早く、空いた穴がふさがってしまうなんて……どんな薬を飲んだのか」
萩原が考えようとすると、彼方の方から怒声が届く。もう何を言っているのか分からないが、石川のものだ。北原が影を撃ち抜く度に何事か喚いていて、今は別の侵蝕者に手を取られているようだが、時折聞こえる声からは不快しか感じ取れない。いつにもなく気が立っていて、銃声も、まるで地団駄を踏んだ音に似ている。
「石川君は、どうしたんでしょう、ッ」
「ほら余所見をしないよ。……啄木の、ことか」
「ええ、なんだか様子が……っ! もうっ、邪魔だよ!」
撃ちながらでは、北原とまともな話もできず、萩原も次第に苛立ち始めた。大切な話がしたいのに、横から横から、相手への用向きが舞い込んでくる時に似ている。一方的な疎外感と、自分以外の存在にかかずらわる、自分とだけ話していたはずの相手の微笑へ抱く、嫌悪感と嫉妬。そういうものをいちいち掻き立ててくる侵蝕者の、ひっきりなしの襲来に、いつまでも不慣れの癖が抜けない萩原といえど、流石に飽いてくる。
「こいつら、どうしてこんなに湧き出すのっ……」
「うーん……この小説を書いた時の啄木の状況からすれば、分からないこともない。この頃啄木は、小説家になり、安定した収入を得るために、小説を書き散らしていた時期だった」
「小説を書き散らす、なんて、さすが、息をするように言葉を紡ぐ石川君……」
「その頃書き散らした小説で、実際にお金になりそうだったのは、たった一つだけだ。啄木の小説で、特に書き散らした時期のものは、雑誌に持ち込んでも返却されて終わることの方が多い」
羊が何事か鳴きながら、萩原の裾に齧り付く。咄嗟に手で払っても、他のが二体も三体も萩原を囲んでいる。悲鳴をあげて全部撃ったが、ヤケにも似た弾では発散もできない。羊の群れに洋墨瓶が混じる。一対一になった頃、嫉妬に狂った炎が羊に燃え移る。地獄のような光景に囲まれて、萩原は暫時立ち尽くしてしまう。それを全て、連射によって弾き飛ばす、北原の弾と、気持ちの良い音。余裕のなかった萩原の顔にも、思わず笑みが浮かんでしまう。
「ありがとうございます……! 僕、どうしたら良いか分からなくなって」
「仕方がない、こいつらはそういう気分を特に喚起する。君もいくらか食らっているだろう、用心しなさい」
「はいっ……!」
こういう時、萩原がするのはいつも決まっている。袂にしまった紅葉の鈴を握り、息を吸って吐く。浅くしか吸えなくとも十分だ。今もそのようにして、息を吸った時、
「三月もすれば、連載も始まったし、掲載される作品もあったのに。やはりこの小説に巣食う侵蝕者は……」
北原の独り言を聞く。
「僕もまた、同罪だろうか」
夜の帳が降りきって、どれほど経ったか数えるのもやめた頃。石川は困憊していた。
少年型の侵蝕者は、疲れを知らない。奴らに疲労という概念があるのかも定かではない。四面楚歌で膝をついた石川を嘲笑い、ふらふらと不安定に立って見せるのも挑発だ。律儀に心が苛立つのも棘となり、石川はただ殺意のままに敵を睨むことしか出来ない。
「畜生ッ……」
刃は離さないが、届きもしない。少年の放つ悪意は何発か腕や脇腹に掠ったし、足に掠めた時には酷い虚脱に襲われ、今もそれを引き摺っている。強い。
「なんっ……で、こんな強ぇ、やつ、がッ……くっ、そ」
息も絶え絶えだが、傷が酷い訳では無い。とにかく疲れた。酷く重い、鉛のような疲労感が、全身に絡みついて地面に縫い止めようとしてくる。ガソリンは苛立ちだった。腹の立つ相手を打ちのめし、勝利したいというシンプルな感情だけで、今は動いている。
今の石川の中身がそれだけなのを知っているかのように、少年はふらふらと近づいてくる。まるで無警戒に、道端に落ちた珍しい虫を見に来たように。無抵抗でいるわけもなく、刃先を向こうへ向けて自分の前へ伸ばし牽制とするが、その刃先へ、青薔薇の指輪が咲く女のような指先が、ちょん、と乗った。
「ぐっ……!?」
刃が途端に急激に重さを増し、危うく落としかける代わりに腕ごと地面に沈んだ。少年はしゃがみこみ、刃先を指一本で抑え続ける。それだけで、もう僅かも刃を上げられない。殺傷力のある刃先に触れた、ほっそりとした指先にすら、傷をつけることが出来ない。それで、石川は心が折れかけた。
(届かねぇなら、こんなもん、いつまで持ってたっておんなじだ)
拳を縛る刃を、捨ててしまえば、と一瞬考えた時、目を光が差す。
「ぅぐっ」
咄嗟に目を瞑りかける。何が目を刺したかと思えば、それは指環の石であった。羊や洋墨瓶やらが先程から燃えているし、少年型の侵蝕者も炎を多用する。その光が、夜でも煌々として皮肉にも石川たちの視界を助け、あの影を浮かび上がらせながら、同時に指環に反射して、目眩しをしたものと思われた。
「何なんだよ、俺が、何でそこまでされなきゃ」
少年型の侵蝕者は、泣き言を呻く石川の心がもう折れたものと見て、にんまりと笑んだ。本当の武器である長い長い刃を作り出し、左手に握る。振るうために、抑える指が邪魔になり、すぅと離す。その時刃が当たり前に軽くなり、瞼の裏に残る残像へ、また三列、
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
思ひてしこと
「あァ全くだ」
掌に爪が食い込む。
「ナメやがってこのクソガキがッ!!」
逆の手が砂を掴んだのを、勢いよく侵蝕者の顔面へ投げつけた。突如砂塵に視界を塞がれ、侵蝕者の手元が狂い足元が揺らぐ。そこへ、目眩しの残像をなぞって刃を振るった。横ストレートを食らわせる動きで、拳は掠れど短い刃が顎下をざっくりと斬る。まだ致命傷には足りず、石川は目に殺意を血走らせた。
「一発!!」
返す動きで素手で殴る。細身の侵蝕者がよろめいたところへ、
「もう、一発、喰らえ!!」
胸元へ、一撃。刃による切り傷が、今度は届いた。
『──ッ!!』
少年型の侵蝕者は、惨めな悲鳴を上げた。そこへ燃えた羊が走り込み、侵蝕者の刀へ食らいつく。燃え移った火があっという間に回り、少年は青黒い炎に燃やされる。同類の火で侵蝕者が傷を負うなど聞いたこともない。何事が起きたかと思う間に、少年は炎の中から恨みがましげに目を見開き、石川を捉え、
『── 』
にたり、笑ったのを最後に、燃え尽きた。
「っ……はぁっ、はぁっ……!」
目の前の強敵を退けたことと、突然の異常な光景が目に焼き付いたのとで、気が抜けそうになる。だが遠のきかけた意識を、微かな、綺麗な音が呼び戻した。
「石川君、大丈夫!?」
重い銃声。我に返ると、周囲を雑魚の眷属が取り囲んで、石川を押し潰そうとしている。
「チィッ、休む暇さえ与えねえってか……こっちは片付いた!! そっちは!!」
手近な羊を斬る。一刀両断だ。何匹か繰り返せば多少すっきりしてきて、その頃にようやく返事が来る。
「て、手一杯だよ!! 泉さんは!?」
どうやら余程手が塞がっているらしい。北原が返答しない程、どこも切羽詰まっている。どれほど威力のある大砲でも、無数でひっきりなしに押されてはしょうがない。
「親玉を叩かなきゃ話にならねぇ。とすれば……あの影だが」
見上げても、夜空に溶けた影の姿はほぼ見えない。眷属の炎が篝火となり、辛うじて足元が照らし出されている。よく耳を澄ますと、剣戟はなおも聞こえているが、当初より随分弱々しく、間隔がある。泉の方がかなり危うい。長引けば、人死にが出る。
「くそっ、どうする! どうすんだ石川啄木、何かこの状況をぶっ壊す策はねぇのか!」
頭が回っていない。何も浮かばず、斬り続ける合間にもう一度拳を握るが、苛立ちが執拗く心に巣くっている。何故こうまでして戦わねばならないのか、と、やさぐれた考えが浮かんだ時、また光が目を刺した。見ればやはり、篝火を反射してよく光る、指環の石。ここに来る前の誰かの言葉が、ふと脳裏に浮かび、
『評価の有無や内容の巧拙は、能力の必要性に関係ありません』
指環の意味を、思い出す。
「……!」
振り返る。眷属の群れの向こう、火に照らし出された家の、そこは裏手で、薄らと土間に繋がる戸が開いている。よく見ればあの子どもがいつの間にか起き上がってきて、戸の隙間から惨状を見ているようだ。村民の姿をひとりも見ないのに、あの子どもだけが、このタイミングで起きてきた。
「……走れるか、石川啄木」
奥歯を噛み締めた。
「死ぬほどだりぃが、やるしかねぇ……!」
そのためには、刃では不利だ。刃を外し、銃へと戻った武器を掴み、ポケットに突っ込んだ指環を一度強く握ってから、
「テメェら道を開けろ!!」
行くべき道へ、銃弾を撃ち込んだ。
「石川啄木様のお通りだ!!」
膝をついた回数も、泉はもう数えていなかった。大切な羽織の紅葉が土に汚れることも、気にしていられる余裕が無い。舞は苦手でなくとも、一対多数の群舞を、相手だけが入れ代わり立ち代わり、しかも手を無法に繰り出してくるともなれば、代わりのいないこちらはいずれ倒れる他ない。
周囲、手も届きそうな距離に、羊やら洋墨瓶やらが集っており、それらが発する負の気が気力を削ぐ。先程から、地面ばかりが視界に入る。青い炎に焼かれた、砂漠のような地面に、踏み砕かれた小石の破片が散らばっている。
「…………」
袂を探ると、手のひらに収まる小ささの鉛の玩具がある。石川は、これを持っている方が危ないから捨ててしまえ、と言っていた。取り出し、手に載せると、上から圧のある視線を感じる。
見上げると、影が、泉を見下ろしている。夜空と一体となったような水風船に、一対の目があるのだ。それが泉を、と言うよりも、時計の玩具を見ている。
「……貴方、そんなにもこれが欲しいのですか」
泉は、握り込んでいたものを晒した。子どもの玩具らしく針が文字盤に貼り付いた時計が、篝火に浮かびあがる。
影はゆらゆらと揺れていたが、やがて腕と思わしき部位を伸ばしてきた。手に取る様な動きではなく、先を鋭くし、砕こうという素早いものだ。躊躇も手心もなく、そのままであれば泉の手や体ごと刺し貫くのは明白だった。
「クッ!」
泉は辛うじて細剣の先を片手で振るい上へ向け、伸びてきた影へ下から付き上げた。穴の空いた影は空中の闇に溶けるが、すぐに次の腕が伸びてくる。追撃には片手では足りず、時計を握ったまま両手で剣を支えるが、どうしても手のひら大の玩具が邪魔になる。泉は耐え続けることに早々に見切りをつけ、敵の腕を切断する方へ切り替えた。ひとつ斬ると、斬られた腕が怯えたように収縮し、僅かに攻勢が緩むのだ。何とか押し負けないために、次々に来る汚らわしい腕を切断し続けながら呻く。
「一体何が目的なのです! これを破壊したところで、何の意味が!」
影が喋るとも思えず、事実答えはない。侵蝕者の意図を読むしかないが、その余裕も最早ない。何とか立ち上がりかけながら斬るが、次の瞬間には足が支えにならずにまた地面に近づくのだ。一個人は、上からの、面の圧力には耐え難い。
現状、泉にとって時計は、玩具に過ぎぬものであり、理由は分からないものの影が執着するものであり、これを持つ限り襲撃の手が止まない、呪具のようなものだった。
(いっそ石川さんの言うとおり、この玩具を手放すべきか)
手を離せば、終わる話だ、と考えた瞬間、
「泉!!」
思わぬ近距離からの呼び声に頬を叩かれた。顔を上げた瞬間、目の前に来ていた腕を銃弾が三発吹き飛ばしてくれる。音は北原や萩原のものよりも軽く、連射の癖があるのは彼のものだ。声の方角はどこだと向いた時、視界に駆け込んできたのは、随分低い姿勢で足を少し引きずった格好の石川で、転びかけながら立ち止まると、不躾に泉へ片手を伸ばした。
「寄越せ、それ!」
それ、が何を指すのかは明白だった。捨てようとしていた心を見破られたかのようなタイミングだ。
「何をするおつもりですか……貴方も満身創痍では」
「誰より走れる、見くびんじゃねえよ、それをあいつに……いいから早く、死にたくなきゃさっさと渡せ!!」
選択肢はない。持っていても、どうしようもない。泉は時計の玩具を、石川の、血の滲んだ指先に渡した。
「へ、サンキュー……!」
疲れ切った笑みを見せて、また石川は駆け出していく。走ると言いはするが、時折図書館で見かけた様な軽快さが失せ、時折何もないところで躓きかけながら、それでも無理に膝を上げて、なんとか前に進み続けている。知らぬところで強者と戦っていると思しき喚き声を聞いてはいたが、決着をつけた後なのだろう。
それでもまだ、走る。どこへ行くのかと見遥かし、気づいた。
「新太郎さんへ?」
遠くを見て、ようやく状況を俯瞰する。そして今や、影も泉への興味を失くしていると気づく。泉の頭上を跳び越すように、影が石川の方へ大きく傾き、両腕を伸ばす所だった。
いけない、と、泉はすぐに立ち上がった。いつか傷つけられた足が痛むが叱咤し、泉もまた駆けた。気力も体力も底をつきかけてはいたが、目の前で見せられた笑みの形を、無視することなど出来はしない。
「北原さ、ゲホッごほっ……!! さ、朔太郎さん!! 腕を、腕を狙ってください! 今だけ、どうか!!」
二人がどこに居るのかもわからないまま、とにかく叫んだ。すると巻き上がる炎の中に、ちりり、と聞こえる音。そして二発の、重みのある銃声。続けて、もう二発。よく似た音が、響く。
『――!!』
石川を狙って伸びていた二本の影が、根元を撃ち抜かれてぼろぼろと崩れた。遠吠えのごとき悲鳴は影のものか。そんなことは、今はどうでもいい。石川が前方を撃ちながら走るのを、泉は後ろから追いつつ、痩身の背を襲おうとする卑怯者を可能な限り斬り捨てた。
「ああ、僕は間違っていました」
玩具を握り締め、後ろでどんな音がしようとも振り向かず、石川は前だけを見て走っている。たかが玩具を届けるために、と、考えることが過ちなのだ。時計という見た目で作ったことを、泉自身は然程深く考えていなかったが、今ならその意味も理解できる。
「佐藤藤野が、どういう役割なのか……新太郎さんにとって、どういう存在であるように、描かれたのか」
青い火の粉が舞い散るのが、花吹雪の様にすら見えてくる。思えば今は春頃で、新太郎という少年は、学年の終わり方を失敗し、これから新たな一歩を踏み出さなければならない。その事実そのものが情けなくて泣いた未熟な少年を、『立派な大人』へ続く道へ後押しし、精神的に支える役割が、彼女であった。
「読者が彼女のキャラクター性に、母性を見るのも納得がいきます。あの時計は、新太郎さんへ手向けられた、期待の形」
確実に、手渡されなければならないものだ。だから泉は、ある程度まで石川について行った後で、足を止め、背中を向け、著者の代わりに巨大な影に向かい合った。
「石川さん、ここは僕が引き受けます!! 間違いなく、届けてください!!」
返事はないが、言葉を投げかけることに意味がある。疲労で震える手に剣を握り直す。影は腕を再生し、怪物の如くますます伸び上がって、戦場全体を覆いつくさんとする。
泉は、もう、どうするべきかをわかっていた。
「見上げ入道、貴方の真実は見越しました! 最早貴方がこの世にて、何物をも化かすことはできません!!」
両腕が伸びてくる。その手先を弾き、手首を斬り落とす。返す刀で更に斬り、腕が怯む隙に、影の右腕に当たる方の中心へ、剣を突きとおして突進した。
「おおぉぉおおっ!!」
斬り落とされた左腕が脇腹を抉り、その瞬間だけバランスを崩すが、地を踏み直して立て直し、影の胴元へ向かって、真っ直ぐに腕を貫き続けた。あれほど大きかった影も、近づくにつれて、まるで自分と同じか、それよりも小さい程度の背丈であると知れれば、もう怖くも何ともない。やがて胴体へ辿り着き、右腕を再び、肩口から切り裂いて落とした。
『―― !!』
影が大きく軋む。だが、まだ足りない。
「言われなくても分かってんだよ」
呟き、石川は、家まで辿り着いた。閉めておいたはずの戸を薄ら開けて、あの子どもが、近づいてくる傷だらけの大人を、恐れるように見上げた。
「……おい」
子どもがびくりと身を震わせたので、石川は片膝をつき、目線を合わせる。握ってきた玩具の懐中時計を、宝物の様にそっと差し出す。
「受け取れ。さっきの、姉ちゃんの、忘れもんだ」
子どもは、立ち尽くしたままで動かない。見かねた石川は、子どもが逃げる前に腕を掴み、手に時計を握らせ、
「この意味、分かるな」
「……」
「いいか……いつか、本物の時計を持てる大人になって、父母を安心させてやれ。お前を学校に入れてやったのは、あの人の好い父母が、お前を一等大事にして、お前の将来を夢見たからだ。……いいな」
純真な子どもは、頷いた。
「しっかり、やれよ」
また、頷いた。すると石川の背後、遠く、凄まじい戦闘の音がここまで届く。振り返ると、あの巨大な影が見る影もなく縮み、その左胸へ、泉の細い剣が、今まさに突き立てられたところだった。
「あいつ、上手くやりやがった」
「姉さ、」
子どもが呆けた声を出す。その瞳には、抉られた脇腹に滲んだ血、それが踏み出して着物の裾から覗いた足に伝い落ちる、太い一筋が映っている。
子どもと石川の目の前で、泉は剣を振り抜き、そのまま倒れた。
貫かれた影の輪郭が、消える間際の火のように大きく揺らぐ。貫かれたところから黒が剥がれ落ちる。眷属たちの炎に照らされて、処刑される間際の囚人の如く不吉に浮かびあがったのは、鮮やかな紅地、金の大菊の色彩、そして大きく広がった袖のはためき。
「あの袖は」
影が消える。すると炎も消える。全てが一斉に消え、闇に閉ざされた。目を開いているのか閉じているのかもわからなくなる。頭部に衝撃を感じたと思うと、石川は頬に砂の感触を得た。近くで軽い何かが倒れる音がしたが、もう構っていられそうになかった。
「……う」
ゆっくり目を開けると、泉の視界に映る空はもう薄明るい。戦いの最中は星の有無も分からなかったが、今は色薄いくすんだ空に、ぼやけた雲が浮いているのがはっきりと見える。ぼやけた雲──否、あれは文字の破片の溜まりだ。初めに見た時より少し薄くなったような気がするのは、朝方の空のせいだろうか。体を起こすと脇腹がひどく痛む、少し動かすと足も多少動かしにくい。すぐそばに北原と石川がおり、萩原は少し遠くで同じように、こちらに背中を向けてしゃがんでいた。
「おはよう。目が覚めたようだね」
「ここ、は……僕は、あれから……?」
「お前は羊の群れン中で気絶して、そっから今まで延々寝てやがったんだよ。影と一緒に奴らも消えてなかったら、トドメ刺されて今頃死んでたぜ」
「何を言うのやら。君だってついさっき目覚めたばかりじゃないか」
人のことは言えないだろう、と言いながら、北原は取り出した煙草に火をつけた。今更悠然とくゆらせるのも、最後に泉が目覚めるまで、待っていてくれたためらしい。一方フンと仏頂面を背けた石川は、赤いパーカーだけの上半身だ。泉はキョロキョロと周囲を見回して、自分の下に、求めた黒を見つけた。それですぐに、無理のない速さでなるべく素早くそこから降り、手に手袋をしていることを確かめてから、砂土の上に敷かれた学ランを手に取った。黒はすっかり砂に塗れている。
「お気遣いくださったんですね。ありがとうございます」
「そういうんじゃねぇよ。起きて早々喚かれたらたまらねぇと思っただけだ……丈が短くて足りなかった分は文句言うなよ」
「気遣いには違いないでしょう。どうしてそういう物言いしか……あぁ、いえ。今はやめておきます」
砂埃を丁寧に払い、緩く畳んで、微笑で石川へ差し出した。
「ありがとうございます。お陰で良い目覚めを迎えられました」
「……良かったな」
少し乱暴に受け取り、そのまま着直す。仕草の一つ一つに苛立ちの名残と見える雑さが残るが、泉も今は見て見ぬふりをしようと決めた。石川がどれだけ懸命に駆けたかを、仲間の中でも誰より近くで見てしまえば、無闇矢鱈の苦言はできない。
「……あの影は、倒せたのでしょうか。実は途中から記憶がなく……」
泉の問いに、北原はふぅと息をつきがてら、あの影が溶けて行った空を見る。薄紫の、柔らかな色合いが、次第に東の方から滲んできている。
「倒された、というより、消えた、といったところかな。僕たちも遠目に見ただけだからはっきりとしないけれど……君がトドメを刺し、倒れた後、影は空に消えていったよ。消える間際に妙なものが見えたね……鮮やかな紅に染めた地に、大輪の菊をあしらった、長い着物の袖のような」
「それは、まるで佐藤藤野さんのような……何故あの影が?」
「大方、藤野さんの存在を取り込んでしまったのがあれだった、というところだろう。倒したことによって解放されたのかは分からないが……事件は一応の区切りとなった、ということで良いかな、啄木」
「いーんじゃねーの。有象無象は消え去った、だが頭上遥かにこびり付く文字の雲らは、未だ天に在りってな。区切りって言葉がぴったりだ。時期にこの場面も変わってくことだろーよ……いや、ひょっとするとこの夜が明けたら、途端にそこは赫灼たる夏の日の下、かもな?」
「……そうですか……新太郎さんは?」
「あっちで寝てる」
石川が萩原の方を顎でしゃくって示したので、泉はようやく胸を撫で下ろした。戦闘があったとは思えないほど穏やかな朝を迎え、まだ現実味がなかったのもあるが、影が執拗に狙う時計の玩具を受け取ったであろう子どもの安否が、最後の不安材料だったためだ。
「無事なのですね。良かった」
「良くねぇ。ったく……めちゃくちゃなことしやがって」
「何が、良くないのです? もしかして、新太郎さん何か怪我を?」
「お前だ、お前」
お前、などと言われる筋合いが分からずにいると、北原が間に入って、「いちばんひどい怪我をしているのは、泉さんだ」と語り直してくれる。
「最後、啄木が新太郎の元へ走っていく時に、庇っただろう? 啄木はそれが気に食わないんだ。要らない怪我を負わせてしまったってね、これでも気に病んでいるんだよ」
「白秋は訳知り顔で適当なことばっか言ってっから、信用するなよ。まあ……お陰で助かったのは、本当だけど」
顔を合わせられないのが素直じゃなく、泉は思わずくすりと笑ってしまった。もちろんすぐに睨まれるので、居住まいを正す。
「礼でしたら、受け取ってあげなくもないですよ」
「なんで急に上から……」
「それと僕からも。あの時石川さんが時計を引き受けなければ、僕は今よりも危なかったはず。ですから、背中を守ったのは、その礼代わりです」
石川が言葉に詰まるので、泉は先んじて頭も下げてしまう。うぐ、と石川が苦いものを無理に飲み込むような声を出すので、北原がふっと少し笑ったようだった。
「ありがとうございました。貴方のお陰です」
「……俺様は頭は下げねぇからな」
けど、と、口の中で呟くような小声が続く。
「お前が耐えてなきゃ、もっと早く終わっちまってた。……助かったぜ」
「……そんなことは」
「だがもうやめろよな。次囲まれたら白秋とかと固まれよ。もう無茶が効く状態でもねえんだから……お前んとこのお師匠様に言いつけてやるからな」
「ふふっ……それは困りますね。はい、分かりました。次は無茶なことは、決してしません。それで良いですね、筆頭」
石川は少し間を置いて、「分かりゃいいんだよ」とだけ返した。
「朔太郎さん」
北原と石川も伴い、泉が声をかけると、萩原はしゃがんだまま首だけで泉を見上げようとしたので、危うく転がりかけた。咄嗟に北原が支えてやり、恥ずかしそうに膝を抱える。
「い、泉さん……無事に、目が覚めてよかった……」
「お陰様で。最後の助力に、改めて感謝をさせてください。あそこでお二人の銃弾が無ければ、どうなっていたことか」
「ううん、的確な指示を貰えたから、真っ直ぐ狙えただけだよ……でも、どうしてあの影の弱点が、腕だってわかったの……?」
泉は萩原の隣に腰を落とし、未だ目を覚まさない子どもの、短く毛を残して剃り上げた頭を撫でてやりながら、戦っている時のことをあれこれと話した。胴体をどれほど傷つけようと殆ど無意味だったが、腕を斬った時だけは影が怯んだ様子を見せ、攻勢を緩めたこと。腕も胴体も同じ影から出来ているように見えたが、眷属を排出したり自在に曲げ伸ばしして攻撃を行うのは専ら腕ばかりであったことなど。じっと泉を見つめて聞いていた萩原は、話に区切りが着いたところで深く頷いた。
「戦いの中で確信を深めていったんだ……すごい。僕は来るものを撃つので手一杯で……法則性があったのかどうかも分からなかったよ」
「あれらに法則性は無かったのでは、と思うよ、朔太郎君。目の前にいる人間にとにかく噛み付いた……そういう虫のような動きだった。だからこそ、無数にそういうのがいては対応しきれない部分もあったのだけど」
「謎が残る敵ですね……しかし、ともかく一矢報いたのです。今はそれで良しとしましょう」
あとは、と、影に抉られた脇腹をさする。血は止まっているが、無事ではない感触だ。
「僕が新太郎さんの前で、血を流し、」
「それはもう終わってる」
遮ったのは石川だった。見ると地べたに胡座をかいて、脱力して背中を丸めている。子どもの方にはちっとも意識を向けずに、未だ家人の起きてこない桶屋の方ばかりを眺めている。
「……石川さん。終わってる、とは、どういう?」
「もう血は流れたし、そいつも血を見た。倒れてんのは血に目が眩んだからだ」
「ですが」
「もう終わったことなんだからいーだろ? それより次のことを考えようぜ。そういやあの手紙はどうなった? 俺様は持ってねぇが……」
「あ、自分が持ってるよ」
釈然としない泉は口を噤む。萩原は袂へ大事に押し込めてあった封筒を引っ張り出したが、ついでに襟元から中のシャツも飛び出してきてしまう。
「あわ、ボタンがちぎれちゃう」
「じっとしなさい」
「あ、う……」
北原が咥え煙草で萩原の胸元を整えている間に、泉が萩原の手の中で所在なげだった封筒を取り、代わりに中を検めた。
『友よ
学を修め故郷へ錦を飾る君に、最大かつ素直な祝辞を述べたいと思ふ。君を思ふと、笑ふも泣くも罪なかりき昔が物悲しい許り。君は覚えてゐるか、あの頃泥中に咲き、儚くも人の作りし水車に搗かれて潰れた悲しき蓮のありしを。■■さんは君にも笑いかけて呉れたらうが、かのなつかしい温情に拠て我が目は開き、文字を学ぶ喜びをも知り得たのは、実に我ばかりと信じてゐる。どうか家族を大切にされよ。かつての同輩に会ったときにはどうか「奴は大変元気」とばかり伝えて下さい。』
「増えているね。真ん中の辺りに」
聞いていた北原の言う通りだ。泉は首を傾げる。
「名前は伏せられていますが、これは藤野さんのことですね……顛末まで、そのまま書かれてあるだなんて」
「だから言ったろ、もう終わってるんだって。これで心置き無く次に行けるって訳だ。良かったな泉、水車に搗かれねぇで済むぜ」
「それは……いえ、それで良いのなら、良いのでしょう。あまり納得がいきませんが」
便箋を畳む手つきが鈍るのは、体に残る傷や痛みのせいばかりではない。石川は態とらしく大きな吐息をし、胡座の膝に頬杖をついて、泉と向き合った。
「なんで納得いかねぇんだ?」
「状況が、違いすぎます」
封筒を左の手に持ったまま、泉はまだ目を覚まさない子どもの頬に右の手を添えた。あまり食べられておらず痩せ気味の頬は薄らとした肉がついているだけで、泉の手袋が少しがさがさしたのか、う、と微かに身動ぎをする。
「真白い脛を伝う一筋の紅の血……これは真夏の白昼に起きた不運な事故によるものです。大男の腕に抱えられ運ばれた足に見えた血は、読み手の空想に鮮烈な色彩を焼き付けると同時に、事故とは別の理由も思い起こさせるような側面もある。これは、そのすぐ後を追っていく、藤野さんの母上の姿も重なって、より鮮やかに見えるのです……まだ幼い新太郎さんが遭遇した、親しい女性の無惨な死なんです。先の戦闘で僕が倒れたところを、新太郎さんが見ていたとして……」
泉は、穏やかながら、子どもを案じて見つめる。
「どれほど、重なるというのでしょう? 第一、あの時村は、夜中だったのですよ」
「……十分だろ」
石川はつまらなそうに、そこらの地面の砂を指でつまんで弄んでいる。
「新太郎と佐藤藤野は、あの昇降口が実質の初対面だった。その点お前も変わらねぇ。確かに学校での日々も、簪のことも、こいつは経験せずに終わってくが」
指先で擦り合わせた砂粒が、キシキシと微かな音を立ててこぼれ落ちていく。
「今回の侵蝕を浄化するためには、帳面鉛筆玩具のセットを渡すのと、足に流れた血を見られるので最低限はクリアだ。自分に期待した美しいひとが死にゆく寸前の姿を、このガキは間違いなく見たんだ。それでいい」
「啄木。その話しぶりはまるで、もう侵蝕者の意図を読めているようだが」
ふぅと浮かんだ薄雲は、苦い香りを残して、朝焼けの空へ溶け込んだ。似た色を瞳に宿し、北原は石川に、
「侵蝕者は、この小説の侵蝕で、何をしようとしているんだい」
率直に尋ねる。石川は指先に残った一粒だけも払い落とし、気怠げに溜め息をついた。
「読めてはねぇが、何となくわかる。恐らく向こうの狙いは主人公のガキだ。こいつが正しい結末に向かうのを、阻止したいんだ。阻止した結果どうなるか、お前ら、分かるか」
小首を傾げた萩原は、ふと、あ、と声を出した。
「ここに来る前の、渋民村……」
「ああ。敵は本気で、『二筋の血』を、あれで終わらせたいみてぇだな」
「なるほど。ならば改めて、この侵蝕は何としてでも阻止しなくては。あれだけで終わっては、小説として、あまりにも単調すぎるからね」
北原が言い、萩原も泉も、思いを新たに頷く。しかし石川だけは、やはりどうしても、簡単に同調できないまま、半笑いで子どもを見た。すやすやと眠る、まだ何も知らないだけの子どもの寝顔だ。
「ほんと、嫌になるぜ。俺様の心を読んだようなタイミングで、こんな侵蝕の仕方をしやがるなんて」
泉の隙を突き、子どもの広い額に手をかざす。
「言いてぇことがあるんなら、直接言いに来いって、言ってやりゃ良かった」
指弾した。
「アイタッ……あれ?」
額に痛みを感じて飛び起きた子どもは、なんで自分が家の裏手の外にひとりぼっちで寝ていたのか分からずに、きょとんとした目で周囲をぐるぐる見回した。空はもう随分明るくなってきて、家の方からもがたごと音がして、一粒種の息子を探す母の声が聞こえてくる。
「……? あ」
手の中になにか握っている。それは昨夜暗いうちに、ぼろぼろの兄ちゃんが、自分を励ましてくれた姉さんの忘れ物だと言って、渡してくれた懐中時計の玩具だ。それを思い出すと、ついでに、青く光った中で、その姉さんの綺麗な着物の裾から見えた、太い黒い血の筋を思い出され、ぞわぞわと身震いをした。見回しても何も残っていないので、すわ夢かとも思ったが、時計は間違いなく握っている。
「……字を書き取りせんと」
時計をぎゅっと握りしめて、子どもは一目散、家の中に飛び込んだ。姉さんに貰った鉛筆や帳面も、夢でさえなければ、土間に転がしてあるはずだったから、それを父や母に先に見つかっては恥ずかしいと思ったのだった。
「新太郎さん。もし、もし」
果たしてあの子どもが、裸足のままで飛び出してくる。袖無しに黒い股引を履いた気楽な格好で、今さっきまでしょぼくれた顔をしていたのか、まだ眦がしょんぼりと下がりがちだった。裸足で土を歩くなど考えられない泉は、自然と眉間に皺を寄せる。
「裸足で来るなんて、いけない子です。草履は無いのですか。足に怪我をしますよ」
注意する声がちょっと大きいので、泉は口元をそっと手で抑えてから、袖に大事に抱えてきたものを両手に持った。そっと腰を落とし、子どもを見上げる。
「いいものを持ってきました。さ、手をお出しなさい」
小さな紅葉の手が二つ出ると、そこにノートと鉛筆を握らせる。ノートは紅葉の薄模様が映っていた。そこへ泡を流すように、胡麻のような影が通る。
「これを使って、もっと勉強するのですよ。これらを使い切ってしまうほど、一心に励むのです」
語り聞かせる泉の頬にも、さっと鎖鎌の刃先の影が走ったのを、目ざとく見つけた石川が「泉!!」と呼んで知らせた。泉は唇を噛み、袖の中に隠してあった、懐中時計の玩具を素早く取り出す。
「これも、受け取ってください」
取ろうと伸ばした小さい手に、鋭角の黒い影が閃いた。気づいた瞬間泉は容赦なく子どもを突き飛ばす。するとちょうど子どもの手があった辺りの地面にぎらりと光った刃が入り、固い石ころを一突きで破砕した。
「早い」
泉は渡せなかった時計を握り込んで、子どもから距離をとるため跳び退る。突き飛ばされた子どもは派手に尻もちをついて短く呻いたが、そのまま横たわって静かになった。走り込んできた石川はそれを掬って、近くの土間に転がしておき、戸を閉めた。人気を感じない家であった。
石川が銃を持つ間にも、侵蝕者の眷属たる小物がぞろぞろと湧き出し、泉を囲いこもうとしていた。泉も細剣を手にして、飛びかかってきた者から流麗な手捌きで斬っていく。北原と萩原の重い銃撃が、何匹かまとめて眷属を撃ち払っている。それでも数がさほど変わらず、むしろ増える一方で、石川は舌打ちをした。
「どこからこんなに湧いて出やがった。ここまで気配一つもなかったってのに」
武器の形状と敵の攻め方から、泉を一人にしては危ないと、石川は目の前の敵に対し、一旦殲滅よりも掻い潜ることを選択した。進路の邪魔となる眷属を素早く撃ち、補充される前にすり抜けて駆けた。有象無象の渦の中心に取り残された格好の泉の元へ辿り着くのは、石川にとってそう難しいことではなかった。
「無事か」
「ええ、なんとか」
「随分危ねぇ橋を渡るよな。危うくあのガキも巻き添えだ」
「戦いに入る前に渡してしまいたかったのです、迂闊でした。新太郎さんは、怪我をしていませんでしたか」
「擦り傷一個もなかったぜ!」
死角から飛んでくる洋墨の塊を、本体ごと撃ち抜く。群れはあくまで群体としてあり、統率や連携は見られない。石川は周囲をサッと見回しがてら、
「あのガキのことは気にしなくていい」
と零した。細剣を握り直した泉は、「それはどういう意味ですか」と問うが、襲撃と銃撃によって黙殺されてしまう。
「なんでもいーんだよ。それより、その玩具を持ってる方が危ねぇから、さっさと捨てるかなんとかしちまえ」
「っ……敵はこれを狙ってきているということですか!」「そういうことだ、っと!」
「何故!」
攻撃の手がより苛烈になる中、泉は時計を懐に押し込んだ。石川も一瞥はしたが、止めてやる余裕も無い。
「んなこと、知るか……っ!」
バケツ一杯分の洋墨が、ちょうど石川と泉の間に着弾する。避けるために飛び退くと間に羊が群れを成してなだれ込み、あっという間に再び分断されてしまう。呻き声と、鳴き声か言葉ともつかない音とのために、泉がなにか言いかけた声も届かない。
「この量、一人で相手すんのは、無理があんだろ」
肩で息をし始めながら、石川は周囲を確かめた。泉は羊の群れの向こうだが、しばしば剣戟が聞こえる。重い銃撃は全く反対側から聞こえてくるが、恐らく北原らは分断の憂き目に遭わずに済んでいるようだ。危機に瀕しているのは、泉と、進んで敵の坩堝に飛び込み孤立させられている石川の方。泉の方へ合流すべきだったが、間に入り込んだ眷属はいっそう数を増して分厚い壁の体を成している。そこまでして、どうやら孤立させたいらしい。
「チッ。貧乏くじだなァおい。なんでこんなに侵蝕者が、湧いて出てくるんだよ、この小説に。そこまで名が通らない小説の中で、更に影が薄いってのに」
有名作品の方が、読者が多い。その分、読者が抱いた負の感情を集めやすい。一方、読者の限られる書簡や日記、著者の代表作品名に上がってこない無数の作品達にも侵蝕者は湧き、それらは読者、あるいは作者本人の負の感情を源泉としている傾向にある。『二筋の血』は、どちらも当てはまりにくい作品のはずだった。文庫で出版のある小説集にも掲載されにくく、作者自身もまた──原稿が返されて以降、長いことその作品を放置した。随分経ってから書き直しの旨を日記に記したのが、異様に感じるほどに。
「……実は気に入ってたのか? なあ、どうなんだよ」
石川啄木、と石川が呟くと、まるで応えるようなタイミングで戦場に変化が起きた。泉が今なお応戦していると思しき方角には、洋墨瓶が投げつけて溜まった洋墨溜りが出来始め、そこから薄い影のようなものが、徐に立ち上がる。影は洋墨を吸い上げてなお薄く、ただ表面積だけを膨らます水風船のような出で立ちで、次第に上へ伸び、やがては日の落ちきった濃紺の空に浮かぶ文字の雲へ届く。勾配の急な山なりの輪郭が、いつしか腕のようなものが分かれ、手先が蠢くと細い指先が幾本も分かれ、
「啄木! あれはなんだい!」
影の胴体に風穴が空く。だが、向こう側の空をほんの少しの間鮮やかに見せただけで、風穴は直ぐに滴り落ちた洋墨で塞がれる。指先から分かたれた細かな雫は、侵蝕者の眷属の形をとり、足元の群れに紛れ込んだ。今いる眷属たちも、恐らくはあの影から湧いて出たと思われ、石川は束の間抜けていた手の力を込め直した。
「…………こいつは盛大にお出ましだ、のっぺらぼうの侵蝕者が!!」
石川の銃弾が三発続けて影へと飛んだ。弾は途中で青黒く燃え落ちる。影は泉に近く、石川の距離から通らないとも思えなかったが、続けざまに撃ち続けてもどれも燃え落ちる。
「クソが、当たれ!!」
「石川く、無闇に撃ってもっ……!!」
「るせぇ、んなことは分かってんだよ口出すな!!」
影が立ち上がってから、敵の攻勢は明らかに勢いを増した。このままでは数で押し負け、潰される。北原の銃弾がまた影に風穴を空け、石川の苛立ちに油を注ぐ。
「ナメてんのか顔無しごときがッ! 俺様の銃で、届かねえって言うのかよ!!」
八つ当たりに適当に撃った弾が、近くの洋墨瓶に当たったが、脆そうな硝子の外壁に跳ね返された。それを見てぎくりとする。心が乱され、想いが揺らぐ時、それは威力に露骨に現れる。持ち直した銃が、いやに軽い。扱い慣れたのとは違う、伽藍堂を握ったような違和感に、今更ながら冷や汗が背を伝った。こんなことが、今まであったか。
(これじゃ、まるで、いくら打っても響かなかった、)
けたたましい笑い声が真後ろで聞こえ、石川は培った反射で振り向きざまに撃った。それを軽々躱す影は煌びやかな衣装を身にまとった隻眼の少年型侵蝕者。動きがいちいち癇に障る。態とらしい笑みは石川を侮り、ふわふわとゆっくり左右に揺れて飛ぶのもまるで狙ってみろと言うようで、火のつきやすい石川は眉を吊り上げて狙うが、掠りもしない。
「チッ、銃でダメなら、」
ポケットに手を突っ込む。指先が冷たいものに触れる、その時ちょっと頭の片隅が冷やされ、
「──……」
朧気に浮かぶ、言葉が三列。
尋常のおどけならむや
ナイフ持ち死ぬまねをする
その顔その顔
「ふざけんなッ!!」
指環へ指を貫通させ、銃がナックルナイフへ形状を変え切る前に、刃と一緒に拳を振り上げ、
「遊びでやってんじゃねえんだよ!!」
侵蝕者の少年へ躍り上がった。
「撃てど撃てど、我らが戦い、楽にならざり」
北原がぽつりと言ったのを、萩原はその足元で聞いた。見上げると北原は、敵の群体を見据えながら、物憂げに口元を緩め、
「ぢっと手でも見たくもなるというものだね。朔太郎くん」
と言いながら、二丁を交互に使って最前列から少し奥の、雑魚や人型をまとめて吹き飛ばした。その向こう、遠くの空にまで広がるほど大きな影が、先程からそびえ立ち、眷属を次々に指先から弾き飛ばし続けている。その足元に泉がいるのか、剣戟の音は小さくもまだ、聞こえ続けている。
「分かります、あんまりうぞうぞと湧きすぎて、何が、なんだか……危ないっ」
「あぁ、いい狙いだ。ありがとう、助かった。しかしあの影も分からないね。この手応えのなさ、本当に影を撃っているようだ」
北原はまた巨大な影に二発手向けた。影に二つの虚ろを穿ったはずだが、もう日が暮れ落ちて夜の色に紛れ、殆ど見えない。聞こえてくるのは瓶や羊の、女の悲鳴のような耳障りな鳴き声と、嫉妬に狂った男が味方も敵もなく一帯燃やし尽くそうとする、ごぉうとうねった音ばかり。恐らく空いた風穴は、また何度目かの素早さで埋まってしまったのだろう。
「あの影のことは、羨ましいけど、おぞましいです。あんなに早く、空いた穴がふさがってしまうなんて……どんな薬を飲んだのか」
萩原が考えようとすると、彼方の方から怒声が届く。もう何を言っているのか分からないが、石川のものだ。北原が影を撃ち抜く度に何事か喚いていて、今は別の侵蝕者に手を取られているようだが、時折聞こえる声からは不快しか感じ取れない。いつにもなく気が立っていて、銃声も、まるで地団駄を踏んだ音に似ている。
「石川君は、どうしたんでしょう、ッ」
「ほら余所見をしないよ。……啄木の、ことか」
「ええ、なんだか様子が……っ! もうっ、邪魔だよ!」
撃ちながらでは、北原とまともな話もできず、萩原も次第に苛立ち始めた。大切な話がしたいのに、横から横から、相手への用向きが舞い込んでくる時に似ている。一方的な疎外感と、自分以外の存在にかかずらわる、自分とだけ話していたはずの相手の微笑へ抱く、嫌悪感と嫉妬。そういうものをいちいち掻き立ててくる侵蝕者の、ひっきりなしの襲来に、いつまでも不慣れの癖が抜けない萩原といえど、流石に飽いてくる。
「こいつら、どうしてこんなに湧き出すのっ……」
「うーん……この小説を書いた時の啄木の状況からすれば、分からないこともない。この頃啄木は、小説家になり、安定した収入を得るために、小説を書き散らしていた時期だった」
「小説を書き散らす、なんて、さすが、息をするように言葉を紡ぐ石川君……」
「その頃書き散らした小説で、実際にお金になりそうだったのは、たった一つだけだ。啄木の小説で、特に書き散らした時期のものは、雑誌に持ち込んでも返却されて終わることの方が多い」
羊が何事か鳴きながら、萩原の裾に齧り付く。咄嗟に手で払っても、他のが二体も三体も萩原を囲んでいる。悲鳴をあげて全部撃ったが、ヤケにも似た弾では発散もできない。羊の群れに洋墨瓶が混じる。一対一になった頃、嫉妬に狂った炎が羊に燃え移る。地獄のような光景に囲まれて、萩原は暫時立ち尽くしてしまう。それを全て、連射によって弾き飛ばす、北原の弾と、気持ちの良い音。余裕のなかった萩原の顔にも、思わず笑みが浮かんでしまう。
「ありがとうございます……! 僕、どうしたら良いか分からなくなって」
「仕方がない、こいつらはそういう気分を特に喚起する。君もいくらか食らっているだろう、用心しなさい」
「はいっ……!」
こういう時、萩原がするのはいつも決まっている。袂にしまった紅葉の鈴を握り、息を吸って吐く。浅くしか吸えなくとも十分だ。今もそのようにして、息を吸った時、
「三月もすれば、連載も始まったし、掲載される作品もあったのに。やはりこの小説に巣食う侵蝕者は……」
北原の独り言を聞く。
「僕もまた、同罪だろうか」
夜の帳が降りきって、どれほど経ったか数えるのもやめた頃。石川は困憊していた。
少年型の侵蝕者は、疲れを知らない。奴らに疲労という概念があるのかも定かではない。四面楚歌で膝をついた石川を嘲笑い、ふらふらと不安定に立って見せるのも挑発だ。律儀に心が苛立つのも棘となり、石川はただ殺意のままに敵を睨むことしか出来ない。
「畜生ッ……」
刃は離さないが、届きもしない。少年の放つ悪意は何発か腕や脇腹に掠ったし、足に掠めた時には酷い虚脱に襲われ、今もそれを引き摺っている。強い。
「なんっ……で、こんな強ぇ、やつ、がッ……くっ、そ」
息も絶え絶えだが、傷が酷い訳では無い。とにかく疲れた。酷く重い、鉛のような疲労感が、全身に絡みついて地面に縫い止めようとしてくる。ガソリンは苛立ちだった。腹の立つ相手を打ちのめし、勝利したいというシンプルな感情だけで、今は動いている。
今の石川の中身がそれだけなのを知っているかのように、少年はふらふらと近づいてくる。まるで無警戒に、道端に落ちた珍しい虫を見に来たように。無抵抗でいるわけもなく、刃先を向こうへ向けて自分の前へ伸ばし牽制とするが、その刃先へ、青薔薇の指輪が咲く女のような指先が、ちょん、と乗った。
「ぐっ……!?」
刃が途端に急激に重さを増し、危うく落としかける代わりに腕ごと地面に沈んだ。少年はしゃがみこみ、刃先を指一本で抑え続ける。それだけで、もう僅かも刃を上げられない。殺傷力のある刃先に触れた、ほっそりとした指先にすら、傷をつけることが出来ない。それで、石川は心が折れかけた。
(届かねぇなら、こんなもん、いつまで持ってたっておんなじだ)
拳を縛る刃を、捨ててしまえば、と一瞬考えた時、目を光が差す。
「ぅぐっ」
咄嗟に目を瞑りかける。何が目を刺したかと思えば、それは指環の石であった。羊や洋墨瓶やらが先程から燃えているし、少年型の侵蝕者も炎を多用する。その光が、夜でも煌々として皮肉にも石川たちの視界を助け、あの影を浮かび上がらせながら、同時に指環に反射して、目眩しをしたものと思われた。
「何なんだよ、俺が、何でそこまでされなきゃ」
少年型の侵蝕者は、泣き言を呻く石川の心がもう折れたものと見て、にんまりと笑んだ。本当の武器である長い長い刃を作り出し、左手に握る。振るうために、抑える指が邪魔になり、すぅと離す。その時刃が当たり前に軽くなり、瞼の裏に残る残像へ、また三列、
一度でも我に頭を下げさせし
人みな死ねと
思ひてしこと
「あァ全くだ」
掌に爪が食い込む。
「ナメやがってこのクソガキがッ!!」
逆の手が砂を掴んだのを、勢いよく侵蝕者の顔面へ投げつけた。突如砂塵に視界を塞がれ、侵蝕者の手元が狂い足元が揺らぐ。そこへ、目眩しの残像をなぞって刃を振るった。横ストレートを食らわせる動きで、拳は掠れど短い刃が顎下をざっくりと斬る。まだ致命傷には足りず、石川は目に殺意を血走らせた。
「一発!!」
返す動きで素手で殴る。細身の侵蝕者がよろめいたところへ、
「もう、一発、喰らえ!!」
胸元へ、一撃。刃による切り傷が、今度は届いた。
『──ッ!!』
少年型の侵蝕者は、惨めな悲鳴を上げた。そこへ燃えた羊が走り込み、侵蝕者の刀へ食らいつく。燃え移った火があっという間に回り、少年は青黒い炎に燃やされる。同類の火で侵蝕者が傷を負うなど聞いたこともない。何事が起きたかと思う間に、少年は炎の中から恨みがましげに目を見開き、石川を捉え、
『── 』
にたり、笑ったのを最後に、燃え尽きた。
「っ……はぁっ、はぁっ……!」
目の前の強敵を退けたことと、突然の異常な光景が目に焼き付いたのとで、気が抜けそうになる。だが遠のきかけた意識を、微かな、綺麗な音が呼び戻した。
「石川君、大丈夫!?」
重い銃声。我に返ると、周囲を雑魚の眷属が取り囲んで、石川を押し潰そうとしている。
「チィッ、休む暇さえ与えねえってか……こっちは片付いた!! そっちは!!」
手近な羊を斬る。一刀両断だ。何匹か繰り返せば多少すっきりしてきて、その頃にようやく返事が来る。
「て、手一杯だよ!! 泉さんは!?」
どうやら余程手が塞がっているらしい。北原が返答しない程、どこも切羽詰まっている。どれほど威力のある大砲でも、無数でひっきりなしに押されてはしょうがない。
「親玉を叩かなきゃ話にならねぇ。とすれば……あの影だが」
見上げても、夜空に溶けた影の姿はほぼ見えない。眷属の炎が篝火となり、辛うじて足元が照らし出されている。よく耳を澄ますと、剣戟はなおも聞こえているが、当初より随分弱々しく、間隔がある。泉の方がかなり危うい。長引けば、人死にが出る。
「くそっ、どうする! どうすんだ石川啄木、何かこの状況をぶっ壊す策はねぇのか!」
頭が回っていない。何も浮かばず、斬り続ける合間にもう一度拳を握るが、苛立ちが執拗く心に巣くっている。何故こうまでして戦わねばならないのか、と、やさぐれた考えが浮かんだ時、また光が目を刺した。見ればやはり、篝火を反射してよく光る、指環の石。ここに来る前の誰かの言葉が、ふと脳裏に浮かび、
『評価の有無や内容の巧拙は、能力の必要性に関係ありません』
指環の意味を、思い出す。
「……!」
振り返る。眷属の群れの向こう、火に照らし出された家の、そこは裏手で、薄らと土間に繋がる戸が開いている。よく見ればあの子どもがいつの間にか起き上がってきて、戸の隙間から惨状を見ているようだ。村民の姿をひとりも見ないのに、あの子どもだけが、このタイミングで起きてきた。
「……走れるか、石川啄木」
奥歯を噛み締めた。
「死ぬほどだりぃが、やるしかねぇ……!」
そのためには、刃では不利だ。刃を外し、銃へと戻った武器を掴み、ポケットに突っ込んだ指環を一度強く握ってから、
「テメェら道を開けろ!!」
行くべき道へ、銃弾を撃ち込んだ。
「石川啄木様のお通りだ!!」
膝をついた回数も、泉はもう数えていなかった。大切な羽織の紅葉が土に汚れることも、気にしていられる余裕が無い。舞は苦手でなくとも、一対多数の群舞を、相手だけが入れ代わり立ち代わり、しかも手を無法に繰り出してくるともなれば、代わりのいないこちらはいずれ倒れる他ない。
周囲、手も届きそうな距離に、羊やら洋墨瓶やらが集っており、それらが発する負の気が気力を削ぐ。先程から、地面ばかりが視界に入る。青い炎に焼かれた、砂漠のような地面に、踏み砕かれた小石の破片が散らばっている。
「…………」
袂を探ると、手のひらに収まる小ささの鉛の玩具がある。石川は、これを持っている方が危ないから捨ててしまえ、と言っていた。取り出し、手に載せると、上から圧のある視線を感じる。
見上げると、影が、泉を見下ろしている。夜空と一体となったような水風船に、一対の目があるのだ。それが泉を、と言うよりも、時計の玩具を見ている。
「……貴方、そんなにもこれが欲しいのですか」
泉は、握り込んでいたものを晒した。子どもの玩具らしく針が文字盤に貼り付いた時計が、篝火に浮かびあがる。
影はゆらゆらと揺れていたが、やがて腕と思わしき部位を伸ばしてきた。手に取る様な動きではなく、先を鋭くし、砕こうという素早いものだ。躊躇も手心もなく、そのままであれば泉の手や体ごと刺し貫くのは明白だった。
「クッ!」
泉は辛うじて細剣の先を片手で振るい上へ向け、伸びてきた影へ下から付き上げた。穴の空いた影は空中の闇に溶けるが、すぐに次の腕が伸びてくる。追撃には片手では足りず、時計を握ったまま両手で剣を支えるが、どうしても手のひら大の玩具が邪魔になる。泉は耐え続けることに早々に見切りをつけ、敵の腕を切断する方へ切り替えた。ひとつ斬ると、斬られた腕が怯えたように収縮し、僅かに攻勢が緩むのだ。何とか押し負けないために、次々に来る汚らわしい腕を切断し続けながら呻く。
「一体何が目的なのです! これを破壊したところで、何の意味が!」
影が喋るとも思えず、事実答えはない。侵蝕者の意図を読むしかないが、その余裕も最早ない。何とか立ち上がりかけながら斬るが、次の瞬間には足が支えにならずにまた地面に近づくのだ。一個人は、上からの、面の圧力には耐え難い。
現状、泉にとって時計は、玩具に過ぎぬものであり、理由は分からないものの影が執着するものであり、これを持つ限り襲撃の手が止まない、呪具のようなものだった。
(いっそ石川さんの言うとおり、この玩具を手放すべきか)
手を離せば、終わる話だ、と考えた瞬間、
「泉!!」
思わぬ近距離からの呼び声に頬を叩かれた。顔を上げた瞬間、目の前に来ていた腕を銃弾が三発吹き飛ばしてくれる。音は北原や萩原のものよりも軽く、連射の癖があるのは彼のものだ。声の方角はどこだと向いた時、視界に駆け込んできたのは、随分低い姿勢で足を少し引きずった格好の石川で、転びかけながら立ち止まると、不躾に泉へ片手を伸ばした。
「寄越せ、それ!」
それ、が何を指すのかは明白だった。捨てようとしていた心を見破られたかのようなタイミングだ。
「何をするおつもりですか……貴方も満身創痍では」
「誰より走れる、見くびんじゃねえよ、それをあいつに……いいから早く、死にたくなきゃさっさと渡せ!!」
選択肢はない。持っていても、どうしようもない。泉は時計の玩具を、石川の、血の滲んだ指先に渡した。
「へ、サンキュー……!」
疲れ切った笑みを見せて、また石川は駆け出していく。走ると言いはするが、時折図書館で見かけた様な軽快さが失せ、時折何もないところで躓きかけながら、それでも無理に膝を上げて、なんとか前に進み続けている。知らぬところで強者と戦っていると思しき喚き声を聞いてはいたが、決着をつけた後なのだろう。
それでもまだ、走る。どこへ行くのかと見遥かし、気づいた。
「新太郎さんへ?」
遠くを見て、ようやく状況を俯瞰する。そして今や、影も泉への興味を失くしていると気づく。泉の頭上を跳び越すように、影が石川の方へ大きく傾き、両腕を伸ばす所だった。
いけない、と、泉はすぐに立ち上がった。いつか傷つけられた足が痛むが叱咤し、泉もまた駆けた。気力も体力も底をつきかけてはいたが、目の前で見せられた笑みの形を、無視することなど出来はしない。
「北原さ、ゲホッごほっ……!! さ、朔太郎さん!! 腕を、腕を狙ってください! 今だけ、どうか!!」
二人がどこに居るのかもわからないまま、とにかく叫んだ。すると巻き上がる炎の中に、ちりり、と聞こえる音。そして二発の、重みのある銃声。続けて、もう二発。よく似た音が、響く。
『――!!』
石川を狙って伸びていた二本の影が、根元を撃ち抜かれてぼろぼろと崩れた。遠吠えのごとき悲鳴は影のものか。そんなことは、今はどうでもいい。石川が前方を撃ちながら走るのを、泉は後ろから追いつつ、痩身の背を襲おうとする卑怯者を可能な限り斬り捨てた。
「ああ、僕は間違っていました」
玩具を握り締め、後ろでどんな音がしようとも振り向かず、石川は前だけを見て走っている。たかが玩具を届けるために、と、考えることが過ちなのだ。時計という見た目で作ったことを、泉自身は然程深く考えていなかったが、今ならその意味も理解できる。
「佐藤藤野が、どういう役割なのか……新太郎さんにとって、どういう存在であるように、描かれたのか」
青い火の粉が舞い散るのが、花吹雪の様にすら見えてくる。思えば今は春頃で、新太郎という少年は、学年の終わり方を失敗し、これから新たな一歩を踏み出さなければならない。その事実そのものが情けなくて泣いた未熟な少年を、『立派な大人』へ続く道へ後押しし、精神的に支える役割が、彼女であった。
「読者が彼女のキャラクター性に、母性を見るのも納得がいきます。あの時計は、新太郎さんへ手向けられた、期待の形」
確実に、手渡されなければならないものだ。だから泉は、ある程度まで石川について行った後で、足を止め、背中を向け、著者の代わりに巨大な影に向かい合った。
「石川さん、ここは僕が引き受けます!! 間違いなく、届けてください!!」
返事はないが、言葉を投げかけることに意味がある。疲労で震える手に剣を握り直す。影は腕を再生し、怪物の如くますます伸び上がって、戦場全体を覆いつくさんとする。
泉は、もう、どうするべきかをわかっていた。
「見上げ入道、貴方の真実は見越しました! 最早貴方がこの世にて、何物をも化かすことはできません!!」
両腕が伸びてくる。その手先を弾き、手首を斬り落とす。返す刀で更に斬り、腕が怯む隙に、影の右腕に当たる方の中心へ、剣を突きとおして突進した。
「おおぉぉおおっ!!」
斬り落とされた左腕が脇腹を抉り、その瞬間だけバランスを崩すが、地を踏み直して立て直し、影の胴元へ向かって、真っ直ぐに腕を貫き続けた。あれほど大きかった影も、近づくにつれて、まるで自分と同じか、それよりも小さい程度の背丈であると知れれば、もう怖くも何ともない。やがて胴体へ辿り着き、右腕を再び、肩口から切り裂いて落とした。
『―― !!』
影が大きく軋む。だが、まだ足りない。
「言われなくても分かってんだよ」
呟き、石川は、家まで辿り着いた。閉めておいたはずの戸を薄ら開けて、あの子どもが、近づいてくる傷だらけの大人を、恐れるように見上げた。
「……おい」
子どもがびくりと身を震わせたので、石川は片膝をつき、目線を合わせる。握ってきた玩具の懐中時計を、宝物の様にそっと差し出す。
「受け取れ。さっきの、姉ちゃんの、忘れもんだ」
子どもは、立ち尽くしたままで動かない。見かねた石川は、子どもが逃げる前に腕を掴み、手に時計を握らせ、
「この意味、分かるな」
「……」
「いいか……いつか、本物の時計を持てる大人になって、父母を安心させてやれ。お前を学校に入れてやったのは、あの人の好い父母が、お前を一等大事にして、お前の将来を夢見たからだ。……いいな」
純真な子どもは、頷いた。
「しっかり、やれよ」
また、頷いた。すると石川の背後、遠く、凄まじい戦闘の音がここまで届く。振り返ると、あの巨大な影が見る影もなく縮み、その左胸へ、泉の細い剣が、今まさに突き立てられたところだった。
「あいつ、上手くやりやがった」
「姉さ、」
子どもが呆けた声を出す。その瞳には、抉られた脇腹に滲んだ血、それが踏み出して着物の裾から覗いた足に伝い落ちる、太い一筋が映っている。
子どもと石川の目の前で、泉は剣を振り抜き、そのまま倒れた。
貫かれた影の輪郭が、消える間際の火のように大きく揺らぐ。貫かれたところから黒が剥がれ落ちる。眷属たちの炎に照らされて、処刑される間際の囚人の如く不吉に浮かびあがったのは、鮮やかな紅地、金の大菊の色彩、そして大きく広がった袖のはためき。
「あの袖は」
影が消える。すると炎も消える。全てが一斉に消え、闇に閉ざされた。目を開いているのか閉じているのかもわからなくなる。頭部に衝撃を感じたと思うと、石川は頬に砂の感触を得た。近くで軽い何かが倒れる音がしたが、もう構っていられそうになかった。
「……う」
ゆっくり目を開けると、泉の視界に映る空はもう薄明るい。戦いの最中は星の有無も分からなかったが、今は色薄いくすんだ空に、ぼやけた雲が浮いているのがはっきりと見える。ぼやけた雲──否、あれは文字の破片の溜まりだ。初めに見た時より少し薄くなったような気がするのは、朝方の空のせいだろうか。体を起こすと脇腹がひどく痛む、少し動かすと足も多少動かしにくい。すぐそばに北原と石川がおり、萩原は少し遠くで同じように、こちらに背中を向けてしゃがんでいた。
「おはよう。目が覚めたようだね」
「ここ、は……僕は、あれから……?」
「お前は羊の群れン中で気絶して、そっから今まで延々寝てやがったんだよ。影と一緒に奴らも消えてなかったら、トドメ刺されて今頃死んでたぜ」
「何を言うのやら。君だってついさっき目覚めたばかりじゃないか」
人のことは言えないだろう、と言いながら、北原は取り出した煙草に火をつけた。今更悠然とくゆらせるのも、最後に泉が目覚めるまで、待っていてくれたためらしい。一方フンと仏頂面を背けた石川は、赤いパーカーだけの上半身だ。泉はキョロキョロと周囲を見回して、自分の下に、求めた黒を見つけた。それですぐに、無理のない速さでなるべく素早くそこから降り、手に手袋をしていることを確かめてから、砂土の上に敷かれた学ランを手に取った。黒はすっかり砂に塗れている。
「お気遣いくださったんですね。ありがとうございます」
「そういうんじゃねぇよ。起きて早々喚かれたらたまらねぇと思っただけだ……丈が短くて足りなかった分は文句言うなよ」
「気遣いには違いないでしょう。どうしてそういう物言いしか……あぁ、いえ。今はやめておきます」
砂埃を丁寧に払い、緩く畳んで、微笑で石川へ差し出した。
「ありがとうございます。お陰で良い目覚めを迎えられました」
「……良かったな」
少し乱暴に受け取り、そのまま着直す。仕草の一つ一つに苛立ちの名残と見える雑さが残るが、泉も今は見て見ぬふりをしようと決めた。石川がどれだけ懸命に駆けたかを、仲間の中でも誰より近くで見てしまえば、無闇矢鱈の苦言はできない。
「……あの影は、倒せたのでしょうか。実は途中から記憶がなく……」
泉の問いに、北原はふぅと息をつきがてら、あの影が溶けて行った空を見る。薄紫の、柔らかな色合いが、次第に東の方から滲んできている。
「倒された、というより、消えた、といったところかな。僕たちも遠目に見ただけだからはっきりとしないけれど……君がトドメを刺し、倒れた後、影は空に消えていったよ。消える間際に妙なものが見えたね……鮮やかな紅に染めた地に、大輪の菊をあしらった、長い着物の袖のような」
「それは、まるで佐藤藤野さんのような……何故あの影が?」
「大方、藤野さんの存在を取り込んでしまったのがあれだった、というところだろう。倒したことによって解放されたのかは分からないが……事件は一応の区切りとなった、ということで良いかな、啄木」
「いーんじゃねーの。有象無象は消え去った、だが頭上遥かにこびり付く文字の雲らは、未だ天に在りってな。区切りって言葉がぴったりだ。時期にこの場面も変わってくことだろーよ……いや、ひょっとするとこの夜が明けたら、途端にそこは赫灼たる夏の日の下、かもな?」
「……そうですか……新太郎さんは?」
「あっちで寝てる」
石川が萩原の方を顎でしゃくって示したので、泉はようやく胸を撫で下ろした。戦闘があったとは思えないほど穏やかな朝を迎え、まだ現実味がなかったのもあるが、影が執拗に狙う時計の玩具を受け取ったであろう子どもの安否が、最後の不安材料だったためだ。
「無事なのですね。良かった」
「良くねぇ。ったく……めちゃくちゃなことしやがって」
「何が、良くないのです? もしかして、新太郎さん何か怪我を?」
「お前だ、お前」
お前、などと言われる筋合いが分からずにいると、北原が間に入って、「いちばんひどい怪我をしているのは、泉さんだ」と語り直してくれる。
「最後、啄木が新太郎の元へ走っていく時に、庇っただろう? 啄木はそれが気に食わないんだ。要らない怪我を負わせてしまったってね、これでも気に病んでいるんだよ」
「白秋は訳知り顔で適当なことばっか言ってっから、信用するなよ。まあ……お陰で助かったのは、本当だけど」
顔を合わせられないのが素直じゃなく、泉は思わずくすりと笑ってしまった。もちろんすぐに睨まれるので、居住まいを正す。
「礼でしたら、受け取ってあげなくもないですよ」
「なんで急に上から……」
「それと僕からも。あの時石川さんが時計を引き受けなければ、僕は今よりも危なかったはず。ですから、背中を守ったのは、その礼代わりです」
石川が言葉に詰まるので、泉は先んじて頭も下げてしまう。うぐ、と石川が苦いものを無理に飲み込むような声を出すので、北原がふっと少し笑ったようだった。
「ありがとうございました。貴方のお陰です」
「……俺様は頭は下げねぇからな」
けど、と、口の中で呟くような小声が続く。
「お前が耐えてなきゃ、もっと早く終わっちまってた。……助かったぜ」
「……そんなことは」
「だがもうやめろよな。次囲まれたら白秋とかと固まれよ。もう無茶が効く状態でもねえんだから……お前んとこのお師匠様に言いつけてやるからな」
「ふふっ……それは困りますね。はい、分かりました。次は無茶なことは、決してしません。それで良いですね、筆頭」
石川は少し間を置いて、「分かりゃいいんだよ」とだけ返した。
「朔太郎さん」
北原と石川も伴い、泉が声をかけると、萩原はしゃがんだまま首だけで泉を見上げようとしたので、危うく転がりかけた。咄嗟に北原が支えてやり、恥ずかしそうに膝を抱える。
「い、泉さん……無事に、目が覚めてよかった……」
「お陰様で。最後の助力に、改めて感謝をさせてください。あそこでお二人の銃弾が無ければ、どうなっていたことか」
「ううん、的確な指示を貰えたから、真っ直ぐ狙えただけだよ……でも、どうしてあの影の弱点が、腕だってわかったの……?」
泉は萩原の隣に腰を落とし、未だ目を覚まさない子どもの、短く毛を残して剃り上げた頭を撫でてやりながら、戦っている時のことをあれこれと話した。胴体をどれほど傷つけようと殆ど無意味だったが、腕を斬った時だけは影が怯んだ様子を見せ、攻勢を緩めたこと。腕も胴体も同じ影から出来ているように見えたが、眷属を排出したり自在に曲げ伸ばしして攻撃を行うのは専ら腕ばかりであったことなど。じっと泉を見つめて聞いていた萩原は、話に区切りが着いたところで深く頷いた。
「戦いの中で確信を深めていったんだ……すごい。僕は来るものを撃つので手一杯で……法則性があったのかどうかも分からなかったよ」
「あれらに法則性は無かったのでは、と思うよ、朔太郎君。目の前にいる人間にとにかく噛み付いた……そういう虫のような動きだった。だからこそ、無数にそういうのがいては対応しきれない部分もあったのだけど」
「謎が残る敵ですね……しかし、ともかく一矢報いたのです。今はそれで良しとしましょう」
あとは、と、影に抉られた脇腹をさする。血は止まっているが、無事ではない感触だ。
「僕が新太郎さんの前で、血を流し、」
「それはもう終わってる」
遮ったのは石川だった。見ると地べたに胡座をかいて、脱力して背中を丸めている。子どもの方にはちっとも意識を向けずに、未だ家人の起きてこない桶屋の方ばかりを眺めている。
「……石川さん。終わってる、とは、どういう?」
「もう血は流れたし、そいつも血を見た。倒れてんのは血に目が眩んだからだ」
「ですが」
「もう終わったことなんだからいーだろ? それより次のことを考えようぜ。そういやあの手紙はどうなった? 俺様は持ってねぇが……」
「あ、自分が持ってるよ」
釈然としない泉は口を噤む。萩原は袂へ大事に押し込めてあった封筒を引っ張り出したが、ついでに襟元から中のシャツも飛び出してきてしまう。
「あわ、ボタンがちぎれちゃう」
「じっとしなさい」
「あ、う……」
北原が咥え煙草で萩原の胸元を整えている間に、泉が萩原の手の中で所在なげだった封筒を取り、代わりに中を検めた。
『友よ
学を修め故郷へ錦を飾る君に、最大かつ素直な祝辞を述べたいと思ふ。君を思ふと、笑ふも泣くも罪なかりき昔が物悲しい許り。君は覚えてゐるか、あの頃泥中に咲き、儚くも人の作りし水車に搗かれて潰れた悲しき蓮のありしを。■■さんは君にも笑いかけて呉れたらうが、かのなつかしい温情に拠て我が目は開き、文字を学ぶ喜びをも知り得たのは、実に我ばかりと信じてゐる。どうか家族を大切にされよ。かつての同輩に会ったときにはどうか「奴は大変元気」とばかり伝えて下さい。』
「増えているね。真ん中の辺りに」
聞いていた北原の言う通りだ。泉は首を傾げる。
「名前は伏せられていますが、これは藤野さんのことですね……顛末まで、そのまま書かれてあるだなんて」
「だから言ったろ、もう終わってるんだって。これで心置き無く次に行けるって訳だ。良かったな泉、水車に搗かれねぇで済むぜ」
「それは……いえ、それで良いのなら、良いのでしょう。あまり納得がいきませんが」
便箋を畳む手つきが鈍るのは、体に残る傷や痛みのせいばかりではない。石川は態とらしく大きな吐息をし、胡座の膝に頬杖をついて、泉と向き合った。
「なんで納得いかねぇんだ?」
「状況が、違いすぎます」
封筒を左の手に持ったまま、泉はまだ目を覚まさない子どもの頬に右の手を添えた。あまり食べられておらず痩せ気味の頬は薄らとした肉がついているだけで、泉の手袋が少しがさがさしたのか、う、と微かに身動ぎをする。
「真白い脛を伝う一筋の紅の血……これは真夏の白昼に起きた不運な事故によるものです。大男の腕に抱えられ運ばれた足に見えた血は、読み手の空想に鮮烈な色彩を焼き付けると同時に、事故とは別の理由も思い起こさせるような側面もある。これは、そのすぐ後を追っていく、藤野さんの母上の姿も重なって、より鮮やかに見えるのです……まだ幼い新太郎さんが遭遇した、親しい女性の無惨な死なんです。先の戦闘で僕が倒れたところを、新太郎さんが見ていたとして……」
泉は、穏やかながら、子どもを案じて見つめる。
「どれほど、重なるというのでしょう? 第一、あの時村は、夜中だったのですよ」
「……十分だろ」
石川はつまらなそうに、そこらの地面の砂を指でつまんで弄んでいる。
「新太郎と佐藤藤野は、あの昇降口が実質の初対面だった。その点お前も変わらねぇ。確かに学校での日々も、簪のことも、こいつは経験せずに終わってくが」
指先で擦り合わせた砂粒が、キシキシと微かな音を立ててこぼれ落ちていく。
「今回の侵蝕を浄化するためには、帳面鉛筆玩具のセットを渡すのと、足に流れた血を見られるので最低限はクリアだ。自分に期待した美しいひとが死にゆく寸前の姿を、このガキは間違いなく見たんだ。それでいい」
「啄木。その話しぶりはまるで、もう侵蝕者の意図を読めているようだが」
ふぅと浮かんだ薄雲は、苦い香りを残して、朝焼けの空へ溶け込んだ。似た色を瞳に宿し、北原は石川に、
「侵蝕者は、この小説の侵蝕で、何をしようとしているんだい」
率直に尋ねる。石川は指先に残った一粒だけも払い落とし、気怠げに溜め息をついた。
「読めてはねぇが、何となくわかる。恐らく向こうの狙いは主人公のガキだ。こいつが正しい結末に向かうのを、阻止したいんだ。阻止した結果どうなるか、お前ら、分かるか」
小首を傾げた萩原は、ふと、あ、と声を出した。
「ここに来る前の、渋民村……」
「ああ。敵は本気で、『二筋の血』を、あれで終わらせたいみてぇだな」
「なるほど。ならば改めて、この侵蝕は何としてでも阻止しなくては。あれだけで終わっては、小説として、あまりにも単調すぎるからね」
北原が言い、萩原も泉も、思いを新たに頷く。しかし石川だけは、やはりどうしても、簡単に同調できないまま、半笑いで子どもを見た。すやすやと眠る、まだ何も知らないだけの子どもの寝顔だ。
「ほんと、嫌になるぜ。俺様の心を読んだようなタイミングで、こんな侵蝕の仕方をしやがるなんて」
泉の隙を突き、子どもの広い額に手をかざす。
「言いてぇことがあるんなら、直接言いに来いって、言ってやりゃ良かった」
指弾した。
「アイタッ……あれ?」
額に痛みを感じて飛び起きた子どもは、なんで自分が家の裏手の外にひとりぼっちで寝ていたのか分からずに、きょとんとした目で周囲をぐるぐる見回した。空はもう随分明るくなってきて、家の方からもがたごと音がして、一粒種の息子を探す母の声が聞こえてくる。
「……? あ」
手の中になにか握っている。それは昨夜暗いうちに、ぼろぼろの兄ちゃんが、自分を励ましてくれた姉さんの忘れ物だと言って、渡してくれた懐中時計の玩具だ。それを思い出すと、ついでに、青く光った中で、その姉さんの綺麗な着物の裾から見えた、太い黒い血の筋を思い出され、ぞわぞわと身震いをした。見回しても何も残っていないので、すわ夢かとも思ったが、時計は間違いなく握っている。
「……字を書き取りせんと」
時計をぎゅっと握りしめて、子どもは一目散、家の中に飛び込んだ。姉さんに貰った鉛筆や帳面も、夢でさえなければ、土間に転がしてあるはずだったから、それを父や母に先に見つかっては恥ずかしいと思ったのだった。
