「佐藤藤野」

『夢の樣な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り』


 ふるさとは遠きにありて思ふもの、とは、図書館で今も萩原や北原を案じて待っているであろう室生の言葉だ。遠くのものほど懐かしく、愛しく、またかなしく思い出すのが、人のうちいくらかの性情であるらしい。また、二度と手の内に取り戻せないものであれば、尚更切実な感覚をもって、昔を美しく思い出す。石川に、『二筋の血』に書かれたような思い出が実際あったかの記憶は無かった。だが、それが石川を石川啄木たらしめるかどうかは、別の話だ。
 波状に襲ってきた眷属たちは、何ということもなく蹴散らしてしまえた。その足で桶屋のあった方へ再び向かうと、そこにはもう既に、回想と思っていたが逆に未来へ飛んでしまったかと思うほど古い、平屋の、店を兼ねた家があり、桶屋の看板を下げている。檜澤の氏で営む一家には、三十五六にもなる大黒柱の父親と、病がちな初老の母親、そして一粒種だが体が弱く、まだ年端もいかない息子が一人いる。その息子が檜澤新太郎──侵蝕者によって未来を消されたと見える、物語の主人公。
 その子のものと思しき泣き声が、けたたましく辺り一帯に響いている。あまりきゃんきゃんと響くので、萩原はそっと耳に両手を当てなければ近づけない。石川が先導し、北原、泉、最後に萩原の順で、壁伝いに店の裏手へ回り込んだ。梨の木の影が落ちる下から家の中を覗き込むと、齢六歳の子どもが、父親が仕事をしようとするのを邪魔しながら頻りに何かを訴えている。舌足らずの方弁で何事を言うのか微妙に聞き取りにくい距離であったが、石川は全て分かっていた。
「仲間はずれにされるからって、熱心なガキだな」
「あれが新太郎かい。細くてひょろくて、背だけは年並にあるようだ。まるで君みたいじゃないか」
「ほっとけ」
「学校に行きたい、と新太郎さんが望むことには、邪魔が入らないのですね。侵蝕者ならば何でも妨害してきそうなものでしたが」
 石川は自嘲的に笑って、「挫折を狙ってんだろ」と答えた。
 家の中で、父親が畳に座り込み、子どもを目の前に同じように座らせて、何かを言って聞かせている。子どももいちいちウンウンと頷いたり、イヤイヤと首を振ったりしている。やがてまた甲高く何か言いながら、子どもが父親の膝にとりつくと、父親はすっかり折れた様子で──しかし満更でもなさそうに──何事かを言った。子どもは諸手を挙げて跳ね回る。どうやら願いが成就したらしい。
「可愛らしいですね」
 泉はくすっと笑い、愛おしげに子どもを見つめた。
「貴方の描く子どもは子どもらしいです」
「どーいう意味だよ」
「そのままの意味です。『天鵞絨』なども、確か同時期の作でしたね……貴方がこの頃書いていた子どもは、ひねくれたところの無い、純粋な性格のようです。子どもならではの純粋さや素朴な感じを、貴方も愛していたのでしょうか。いえ、今もでしたか?」
 石川へ泉が向けた微笑は、今日初めて親しみと温かさを含んだ。石川は目を逸らす。
「『二筋の血』は、どこか懐かしさもある童話のよう……はじめ、貴方が書いたとは思えませんでしたよ」
「……褒められてるような気がしないんだが」
 石川の後ろに立つ北原は、「素直に受けとりたまえよ」と、こちらもまた笑みを含んで言う。石川が何事か言う前に、「そういえば」と遮った。
「手紙もこちらへ持ってこられたのだったね。文面には今のところ、変化はないのかい」
 石川は先ほど封筒にしまったばかりの便箋を、億劫そうに引き出して開いた。中にサッと目を通すと、「自分で読めよ」と北原へ押し付ける。受け取り、きっちりと開いて、北原は文面を読み上げた。

『友よ
 学を修め故郷へ錦を飾る君に、最大かつ素直な祝辞を述べたいと思ふ。君を思ふと、笑ふも泣くも罪なかりき昔が物悲しい許り。君は覚えてゐるか。どうか家族を大切にされよ。かつての同輩に会ったときはどうか「奴は大変元気」とばかり伝えて下さい。』 

「この、中ごろの二文が、啄木が書き足した部分だね。そのおかげで、『二筋の血』が持っていた過去回想的な性質を取り戻し……僕たちは今、新太郎の過去にいる、というわけだ」
「この、新太郎からなのは、信じても良いのかな」
 しゃがんだままで、便箋の文字が透けるのを下から見上げた格好の萩原は、不安で心細そうに膝同士をくっつけている。
「実は、この手紙も侵蝕者の罠だったりして……僕たちを破滅へ誘いこもうとしている、なんてことは」
「そうやって誘い込んでくれんならむしろ大助かりだぜ。自分とこの巣に連れてってくれんだろ? 親を……侵蝕者を叩く絶好のチャンスってやつだ」
 石川は腕だけ回して封筒を萩原に突き出し、慌てて受け取ったのを見もせず言葉を続ける。
「無理やり本筋の展開に戻した時点で、向こうの目論見からは外れてる。それを向こうが、感知しないはずもねぇ。そのうち向こうから顔を出してくれるだろーよ……いくら臆病なのっぺらぼうだって言ってもな」
 北原は、「そうだね。それを信じて、今は進める他にない」と、萩原に便箋を渡し、背中をぽんぽんと叩いた。
「不安にならなくても良い。僕も啄木も泉さんもいる。君が迷子になった時には、その鈴の音を探しに行くから」
 丁度、存在を主張するように、紅葉の鈴もちりりと鳴る。泉は、「紅葉先生が貴方に預けた鈴の音を、僕が聴き逃すはずはありません」と励ますように口を入れた。萩原もようやく、少しはにかみながら綻んだ口元で、「うん」と頷く。のけものの石川は、険しい目付きで、今度から飛び込むことになる新天地に胸を弾ませた子どもを睨みつけている。やがて他所から他の子ども達がやってきて、遊びに誘われた子どもは無邪気に裸足のまま飛び出し、大口を開けて笑いながら駆け出して行った。
「呑気なやつだな」
 ぼんやりと見送った石川の目は、空へ向いたように遠い。





 筋は呆気なく進行して行った。一年早く学校に上がった子どもは、程なく学業に飽き始め、授業を抜け始めた。昼間にちょっと用がある顔をして家に帰り、それきりもう出てこなかった時は、泉が「ああいうところはまるで貴方に似るようですね」と顔を顰めて石川を見た。
 やがて酷く暑い夏が終わる。秋が過ぎる。冬が来る。そしてまた春が来て、子どもは尻から二番目でなんとか二年生に上がることが出来た。それで心を入れ替えて再び始まったと見える学期でも、ほどなく子どもは時々午後に抜け出した。
 そのうちに学校は三学期を迎えたが、村は依然として静かなままだった。泥濘に沈むような停滞の中にある村に、目にも鮮やかな紅が差し込む気配は見られない。今日もあの子どもは、学校へ行く道を急に逸れて、随分と歩いた後、城跡と思しき草原に広々と両手足を伸ばして寝転んだ。寒い寒い冬すらも終わりへ向かっており、この日は温かな日中だった。
「挫折を狙うというのは、新太郎に学業を自ら諦めさせようということで間違いないかい」
 北原が、ふと石川に尋ねた。石川は簡単に「概ね」と頷く。
「藤野さんは、やはり来ませんか」
「主人公みてぇに頑丈じゃなかったみたいだな。末路を考えりゃ、変な話でもない」
「佐藤藤野がいなかったら、新太郎はどうなるの……?」
「そうだねぇ。三年生へ上がる進級試験に落第するまでは予定調和だけれど、佐藤藤野は本来なら、そこで新太郎を鼓舞し、学びを目覚めさせる重要な契機となるはずだ。それが無くなるのだから……二年生のままで、止まってしまうのかな。二度と進級できない、なんてことは、流石に無いだろうけど」
 萩原は難しい表情で、「それでも良いかもしれない。子どもの自由で延び延びとした感性を、潰されてしまうくらいなら……」とぶつぶつ呟く。北原は苦笑して、「僕も真面目な方ではなかったが、字の読み書きを学んでいなければ、僕はこうはなれなかったろうね」と返す。
「登場人物の不在、か。この穴を埋めるためにはいくつか方法はあるけど、佐藤藤野というキャラクター性からすると、取れる手段は絞られてくる。大まかに見て、三つかな」
 北原は指を折った。「ひとつ、村で一番見目の良い子どもを、佐藤藤野の役回りに誘導する。ひとつ、僕たちのうち誰かが、佐藤藤野の役回りを演じるか、近しいことを行う。ひとつ……せっかく著者がいるのだから、ね?」と、石川へ向いた目配せを、石川は手でぞんざいに払った。
「消えた登場人物を描写してイチから作れってか? 御免だ、めんどくせぇ。全く同じ特徴の奴を作ったところで、またすぐに消されるのがオチだ。そんな石積み、誰がするかよ」
「そうだろうね。となると、簡単には消されない人物が良いが……僕たちが代わりを演じれば、侵蝕者を必ず呼び寄せる。あの子が巻き添えを食うかもしれない」
 北原が見る先、自分の身に起こっていることなど露知らず、子どもは穏やかに目を瞑っている。
「あのままでも、いいかもな」
 石川は小さく零した。仰向けに寝そべった子どもの鼻先に、木の葉が一枚飛んでくる。蝶のようにふわりと降り立った葉にかさこそと悪戯をされ、寝たまま首を振ると、はらはら頼りなく落ちていく。落ち着くとまた寝入った。眺めている石川の胸の内は、妙に静まっている。
「文字も知らねぇままで、もしそれでホントにデカくなったら」
「聞いて呆れますね。侵蝕者の意図を肯定するのですか」
 冷ややかな泉の言葉を受け、石川は目を伏せ大きく息を吐き出し、
「考えてみただけだ」
とだけ返し、子どもにも仲間にも背中を向けて、学校のある方へ早足で歩き出した。





 やがて二月も終わる頃、いくらサボり癖のついた子どもでも、学年最後に待つ進級のかかった大試験は欠席するわけにいかない。三月末、村中のえらい大人たちや大地主の家長も出席する証書授与式で、読み上げられた進級の生徒の一覧に、子どもの名は上がらなかった。子どもは同輩たちの視線を一身に浴びた。それを、参列者になりすました石川と北原もまた見ていた。
 子どもたちは皆帰ったが、子どもを含む落第した子らは留められて、唯一人の先生から言葉をかけられた。子どもが小さく返事をして深くお辞儀をすると、先生が何事か言って子どもの頭を撫でてやった。それを、まだ帰らない老人に扮した泉と萩原が見ていた。
 『二筋の血』の、筋書き通りだった。だがそれで話は終わってしまう。一人残った子どもは帰る足も進まず、泣きそうな顔で、昇降口の近くの柱に寄りかかって立っていた。子どもはそのままになる。宥めてくれる美しい女の子は、この物語から消えている。しばらく眺めても事態は良くも悪くもならない。進行が完全に止まったと見た時、北原が石川へ視線を送った。
「さ、どうする。啄木」
 しかし水を向けられた方は苦虫を噛んで何も答えなかった。結論が出ていないのだ。しかし分からないとも知らないとも言えず、黙るしかない。その様子を冷たく見ていた泉は、「まさか、何も考えていない訳ではないでしょうね」と言い捨てる。図星だとも言えず、ますます気まずい顔で口を噤む。萩原は何故か同情めいた憐れみを浮かべており、おまけに顔まで逸らしているから、余計に気に触り何も言いたくなくなる始末だ。
「……お前らは思いついてねぇのかよ。こういう時どうすんだよ、客観的な目ってやつで見てくれ。どうなんだよ」
「はぁっ……全く、仕様のない人!」
 盛大にため息を吐いた泉は石川の正面に回り込んだ。
「この本を開いた人が目にする物語の結末として、あの新太郎さんの姿は相応しいのですか? 『二筋の血』とはどのような物語かと、楽しみにして開いた読み手が目にするものが、幼子の泣き顔で……向上心を失い学業を怠った末路はこうなるぞと、そういう教訓話にでもするつもりですか」
「……教訓、っていうか、この筋はあれだろ? 今は話が進まねぇが、行き着く先はさっきまでいた現代で、それでもなんだかんだ幸せにはやってるっていう……」
「そういうことではありません、貴方はこれで良いのかと聞いているのです! はぐらかさないでください!」
「何でそんなに目くじら立てて怒るんだよ。これはお前の師匠の作品でも、なんでもねぇのに」
 喧嘩を買うように言い返すと、泉は溜飲を下げるどころかむしろ目尻をつりあげ、「貴方は僕が、誰の作品かによって姿勢を変えるような男だと思っているのですね」と低く言う。北原はもう黙って、悪くなる空気に哀れにもおろおろする萩原のそばに寄り、口出しをせぬように肩や背中に手を置いてやるばかり。
「確かに僕は貴方と、関係が深かった訳ではありません。それは生前も、転生してからもそうです。しかしそれで手を緩めようなどと、僕は決して考えません。無関係だから別にいい、ではないのです。文学というものは、それが誰の、どのような作品であれ……もうこれ以上、失われてはいけないものなのです」
「……」
「見くびってもらっては困ります。僕がここへ来た理由が、紅葉先生のお言葉だけだと本気で思っているのであれば、僕は貴方に失望しますよ。どうか改めてください。この作品も、尊くて大切な、誰かの愛する作品なんです。何より貴方にとって、そうではないのですか」
 御立派、と喉元まで出かかった言葉を、油を注いでもつまらぬと、石川は唇を噛んで飲み込んだ。泉の言葉は、文学を守る者の立場としては正しい。萩原や北原も、異を唱えはしないだろう。ただ、今、石川にとってのこの作品に対してだけ、当てはまらない。
「……俺様の小説が」
 いつしか唇が動いていた。
「誰にも求められなかった未熟物が。そうまで言う価値があるってんなら言ってみろよ。この話のどういうところに尊い部分があんのか。言えるってのかよ、お前には。俺様に言えねえことが、分かるのかよ」
 ──生前未発表作。
 そう書けば聞こえは良いが、事実は微妙に異なる。雑誌に発表してもらおうとしたが、原稿は他の作品と共に、そのまま帰ってきた。紙幅が足りない、というのは、掲載のために頁を割く価値がない、という意味だと石川は深読みした。石川啄木の生前に、そういう作品はいくつもある。自分で没にした破片小片とは異なり、信じて送り出した作品で、特に小説が一銭にもならずに帰ってきた時の失望は、石川の胸にすら刻まれていて、悪くすると原稿用紙に向かう度に痛み始める。どこへ出そうと言うのでもなくても、小説の執筆にはかつての忸怩たる思いが絡みつく。
「お前には言えるのかよ。おい? 黙ってねぇで何とか言ったらどうなんだ」
「啄木、その辺にしたまえ」
 北原が諫めに入ろうとした時、泉が「確かに」と挟んだ。
「確かに……僕に言えることはないのかも知れません。貴方の生前に知り合わなかった僕が、貴方の小説の境遇について言えることは少ない。何を言っても……絵空事にしかならないでしょう」
 握った拳を開き、「しかし」と続く。
「行動で示すことは出来ます。僕の信念が、決して絵空事ではないことを。僕が貴方の作品も……この、『二筋の血』も、命をかけて守るべき作品だと、考えていることを」
「……どういうことだ? おい、どこに行きやがる」
 石川が引き留めるのも聞かず、泉はさっさと出ていって、柱のそばで今も健気に泣くのを堪えていた子どもの前に立った。
「新太郎さん。泣いているのですか」
 泉の声掛けは存外優しい響きであった。子どもは呆然と顔を上げ、ちょっと鼻を啜った。そのままでは目線が高いと判断した泉は、裾を端折って屈み、子どもより少し低いところから、泣き顔を覗き込む。
「泣きやみましたね。それでこそ父母の誇りです」
「……姉さ、誰……?」
「貴方の頑張りようは、この僕がよく見ていました。まだ早いうちで、分からないことの方が多かったでしょう、よく頑張りましたね」
 ちょっと「僕」の発音に力を入れながら、いつもの白い手袋で、短さの不均等な毛のある頭を撫でる。それも妙な心地なのか、段々子どもも落ち着いたようだ。涙が滲む目元を時々拭い、じっと泉の顔を見つめた。泉は微笑して頷く。
「ですが、もう泣いてはいけません。貴方は確かに小さいですが、立派な男子なのです。これっきりにしなければなりません」
「ん」
「このままお家に帰って、よく父と母に話しなさい。そして次こそはと胸を張りなさい。そうしてこそ、貴方を学校に行かせてくれた父と母を、安心させることも出来るんです」
 子どもは控えめにだが、確かに頷いた。泉はもう一度頭をひと撫でしてから、立ち上がり、膝元の皺を整えて、
「後で良いものを持っていってあげますから、寄り道せずに帰るのですよ。さ、行きなさい」
と付け加えて、小さな背中をとんと押す。勢いづいた子どもは、名残を惜しむように一度だけ振り向いたが、それきりで、あとは家まで一散に駆け出していった。
「……素直な子で良かった」
 見送る泉の元へ、遠目に様子を伺う他なかった三人が歩み寄る。先に石川が、「おい」と低く声をかけた。
「分かってんだろーな。自分が何を羽織ったのか」
「ええ。もちろんです。佐藤藤野という人物が果たすはずの役目を、僕が代わりに行いました」
 派手な着物を身にまとった、美しい女の子が佐藤藤野である。同じく、人の目を引く、着物を身にまとった美しい見目の泉であるから、萩原は感心して、「ぴったりだ」と声を上げた。
「泉さん、面倒見も良いし、師匠でもあるものね。道に迷う新太郎のことを、導いてあげる役目にも、泉さんがすごく合うよ」
「ふふ、そうでしょうとも。白秋さんも適任かと思いましたが、煙草の香りが強くては、子どもの役に相応しくありませんし」
「分かってんのかって聞いたのはそのことじゃねえ」
 短い眉をぎゅっと詰めて、石川はいっそ睨むような険しい表情を見せている。
「佐藤藤野って役回りがどういう意味の役か、最後にどうなるか、そこを分かってんのかって話だ」
「分かっていますよ」
「誤魔化し方の宛もなしに突っ込んだなんて言わねーよな」
「誤魔化し方などこれから考えます」
「テメェなんでそこまでして、」
「ですから言ったでしょう。そこまでしてでも、僕はこの作品を守りたい」
 泉の姿勢にも、眼差しにも、引いたところは一分も無かった。責めていたはずの石川が逆に圧され、黙らされる間に、泉は落ち着き払って、
「僕は本気だ、ということです。信じていただけましたか」
と言う。潔癖なまでに高潔な性格を真正面から浴びた石川は、それで少しの間圧倒されたが、やがて折れたと言わんばかりに首を何度も横に振った。
「あー、もうやめだ、やめ。信じるとかどうとかは知らねぇが……そうまで言うんなら、もう俺様に言うことはねーよ。好きにしやがれ」
「何を馬鹿なことを。僕のことを信じていただけたなら、次は貴方の番ですよ」
「あ?」
「大いなる敵と立ち向かう時に、どんなやつかも知らないうちに、舐めてかかったりはしない。ここに来る前、貴方はそう言いましたね」
 頭を下げながら言ったことであるから、石川はそれを特に覚えていた。泉もわかっていて、薄ら口元に花びらの綻ぶような笑みを作る。
「あの言葉が嘘でないことを願っています。信じていますよ」
「……んなしょうもねぇ嘘、つかねーよ」
 石川は居心地悪そうに、ポケットに手を突っ込んでいた。ほとんど癖で無自覚だが、いつの間にか拳の中に指環を握っていて、ぼうっとぬるくなっている。
 止めようとしていた北原は、ふ、と息をついてから、にっこりとした。
「仲直りが出来たようで、何よりだ。筋の通りに運ぶのなら、泉さんは確かに危険な目に遭う。けれどきっと回避する方法もどこかにあるはずだ。話を進めながら、それも探さなければね」
「ええ。では……行きましょうか」
 泉はお盆を載せるように手のひらを広げた。穏やかな眼差しが注がれ、手にノートが一冊と削ってある古鉛筆、懐中時計の玩具が現れた。ノートは如何にも女の子が好みそうな色合いで、古鉛筆はまだいくらか長く使えそうだ。玩具は鉛で出来ていて、鈍く光るが、玩具であるからもちろん針は文字盤に貼り付いて微動だにしない。
「これだけあれば充分ですね。新太郎さんに届けましょう」
「新太郎が、また前向きな心を取り戻せるように、だね」
 三人は連れ立って桶屋の方へ歩き出した。石川は一人で、少し立ちっぱなしで三人に遅れ、そっと校舎を振り返る。
 生徒は皆帰り、偉い大人も老人も流石に帰ったとみえ、人気は全く無かった。──そう見えていた。昇降口の奥の物陰に、じっと立ち尽くすただ一人。石川の方を見ているようで、どんな表情かは薄暗くて碌々見えない。だが、決して嫌な気配ではない。
 石川は小さく、先生、と呟いた。良い人であった高島先生も、この物語では呆気ない。自らの運命を知ってか知らずか、その人はただ校舎の中にいて、ただ石川を見ていた。否、見送っているのかもしれない。
「…………」
 踵を返す。呼び止められない。随分先に行った仲間がようやく石川が遅いのに気がついてか、頻りに呼んでいる。それで石川も、早足で、校舎を離れた。
 随分歩いてから、ふともう一度振り返ってみると、校舎は春霞に隠れて、人影ごと見えなくなっていた。
1/3ページ
スキ