前置き
風と土の湿った匂いに鼻腔をくすぐられ、意識がゆっくりと目を覚ました時、石川は「あぁ」と嘆息した。目を開ければ聳え立つ、なだらかに裾野を広げた母なる山、大いなる岩手山が、異界からの来訪者たちを穏やかに迎えた。白昼、青く抜けた空の下。そこは渋民、ふるい故郷の地、石川啄木が終に帰ることなく終わり、幾度となく日記やうたの中で追想した、なつかしい土地──に続く、道の上であるらしい。
石川自身には実感できるほどの確かな記憶は無いものの、恐らく魂が、あのなつかしき土地であると感じている。侵蝕の影響で、本来の時間軸よりも未来にあるようだと言われた割には、大した変わりはないように見える。靴底が踏む砂利道は狭く、正面に延びていて、薄ら轍が残っていた。その行先を遠く見やると、道の向こうに煙が立つ、微かに人の声もする、行ったばかりの馬車の車輪が砂利を踏む音もする。この道を行けば、恐らくほんとうに、あの村へ行ける。それを思うと石川は、なんとなしに視界が滲むような、
「……気は、特にしねぇ、な」
長く息を吐き出したところへ、隣に北原が並んだ。
「ここが君の書いた『二筋の血』の世界か。記憶と大きく違うかい」
「いや、拍子抜けしちまった。大した変わりはねえよ……村に行きゃ違うのかもしれねえが」
「あれは良い山だね」
北原は遠くの岩手山を臨んだらしい。目を細め、うたいだしそうな表情で、「あんな山の麓で自然に抱かれながら育てば、君のようなある種純朴な人間にもなるのかな」と呟き、石川にじろりと睨まれると「そう悪く言ったつもりではないよ。怒らないでくれ」と笑った。
「先生、石川君……良かった、やっと会えた……」
後ろから萩原と泉も合流した。北原は小首を傾げる。
「同じところには降りなかったようだけど、合流出来てよかった。一体どこに降り立ったんだい?」
「僕たちはここから少しばかり離れた、この道の向こうに降ろされたようでした」
泉は、村のある方とは反対の方向を示す。そちらへも道は続いていて、石川の記憶では盛岡へ行く道のはずだが、長い道のりのようで都会の影は見えない。
「意図的な分断でしょうか。この近くに侵蝕者が?」
「それにしちゃ静かすぎる。思ったほど変わってねえのも気になる……先に来たヤツらは何を見て、ここが未来だって言ったんだ?」
「話を進めてみれば、分かるかもしれないね。啄木、僕たちはどちらへ行けば良いのかな。導いてくれ」
石川は背中を丸め、ポケットに両手を突っ込み、顎をしゃくって、「あっち」と道の先を示した。
「中程度の侵蝕と言うので身構えていたのですが……これはどういうことなのでしょう」
駆け回る子どもたちをすれ違いざまに眺めた泉は、仲間たちにだけ聞こえる音量で戸惑いがちに言った。真っ直ぐの道を歩き、やがて一行が村に入っても、侵蝕者はおろか眷属の気配すら感じないままだ。
野暮ったい屋根が幾つも並び、軒先で立ち話をする店主と客がいる。店の裏手に何か持ってきた男が声を上げている。健康な子らが裸足で追いかけっこをしてはしゃぎ回っている。民家の影には荷車と幾らかの仕事用と思しき道具に並んで竹馬が寝そべっていたりする。道は確かに踏み固められており、家々も思っていたより高いものが多く出来ているが、それでもやはり素朴な田舎の村らしい様相を呈している。
「平和だねえ」
北原が零す通り、平和としか言いようのない光景がいつまでも続いていた。村の光景そのものが本来の村とどれほど違うのかは、石川の目で見ていても今だ判然としないのが現状だ。それを言うと萩原は不思議そうにした。「自分で書いた世界の風景と、違っているかどうか分からないの?」
行く手は時折分かれたが、石川は迷わずに選んで行った。確信がある訳では無いが、何となくどこへ行けば誰の家があり、どこを曲がれば何があるか分かるようで、直感に従っているに過ぎない。自分で書いたが故の直感だろうと思ってみても、石川はどうしても納得がいかなかった。──自分が書いた訳では、ないのだ。
それでも、直感が間違っているとはあまり思えないのだから、複雑だった。
「侵蝕は起こっているのですよね?」
「らしいぜ」
「らしいとは何ですか、貴方著者でしょう」
「実際俺様にもあんま違いがわからねぇんだからしょうがねえだろ。一番困惑してるわ」
それもそうか、と考え込む泉を他所に、北原は穏やかな瞳で周囲を見回した。
「平和であることに越したことはないけれど、啄木が違和感を感じないというのは奇妙だね。侵蝕者の手が入っているのは、確実のはずなのに。そうだろう、啄木?」
厳密には、違いは既にあったと、石川は分かっていたし、皆わかっているだろうからと敢えて言わなかったことがある。最初に一行が降り立った道の上のシーンは、本来の筋にはなかった場所だ。筋の改変と呼ぶには弱いが、改変には違いない。だが、そこにも渋民の風は吹き、村へと導くルートの役割を自然に果たしてはいたし、何より北原の言う通り、そこにさえ石川は、然程の違和感を感じていない。それが、石川の自嘲を誘う。
「……どうだかな」
「というと?」
「誰が触ってもそれっぽく出来るくれぇ、ブレてるってことかもしれねーぜ。主題ってやつがよ」
萩原は困惑を眉に込めて北原へ視線を送った。気づいた北原は肩をすくめる。
「まあ、いずれ分かるだろうから、今は進もうか。ところでどこへ向かっているのだったかな」
「決まってんだろ。主人公の家だよ」
「桶屋の新太郎だね。確か新太郎は……小学校に上がる頃の子どもだったかな」
その名の持ち主すら、斥候では確認ができなかった、と言われている。石川はそれを信じていなかった。
「いねえわけねぇだろ。いなきゃ話が成り立たねぇ。この話は、新太の思い出話と独り言で出来てるみてぇなもんなんだ……だからまず新太を見に行く。時間軸の確認はそのあとだ」
「そういうことでしたか。当てずっぽうではないようで、何よりです」
わざわざよく聞こえるように声を張って泉が言うのは、石川の姿勢とやらが気に食わないことの主張だろう。石川はふんと鼻を鳴らし、眼前通行人が横切るのも構わずに足を早めた。
石川が早足で行く先、果たしてそれらしき看板を見つけられた。木造二階建ての町家の様相で、低い軒先に店を構え、奥川と裏手に工場を持ち、どちらにも人がいるようだった。遠目に店を確かめた石川は、着いてきていたほかの三人に黙って目配せをした。「あの店だ」
「へえ、あったんだね。『二筋の血』では、確か新太郎は成長して家を出た。その後の店がどうなったかは語られず、母親が消息を絶ったが……未来の話であれば、ね。そうでなければ子どもだ。どうだい、啄木。それらしい人物はいるかな」
石川は目をぐっと細め、店にいる人影をじっと見た。が、遠目ではよく見えず、「近づくしかねぇな」と歩みを進めた。
表側は商いをしており、大小取り揃えた桶の数々を壁沿いに並べ、店の奥の方で一段上がった板敷きでは、ひょろい体躯で人好きのする男が何やら一人でやっていた。手元にはいくらかの、桶の部品と思しき板きれや金具がある。壊れた桶の修理かもしれなかった。石川がずかずかと近寄ると、異様な気配に聡いのかサッと顔を上げ、目をまん丸にして「やあ」と間の抜けた声を上げて道具を置いた。
「こったなとごろに外国の人が来るのは珍しい。うぢに何か用だが」
「お前が店主か? 名前は」
「は。おらははじめだが」
「……はじめ? いや、んなことはいい。新太郎じゃ、ねえんだな」
「んな奴知らね」
「……」
石川は咄嗟に出かけた言葉を飲み込んだ。
「……お前、昔っからここに住んで、働いてんのか」
「いんや、おらがこごさ来だのは五年前だ。六年前さ、元々この家にいだ一家が、十六の一人息子ど一緒にどごがに移ったどいうんで、空いだどごろでやらせでもらってんだ。桶屋は継がしてもらったで、村に他の桶屋はいねえ」
「…………その一家は、どこに行った?」
「さ、知らねな」
少し距離を置きつつ様子を見ていた三人も、石川の様子がおかしいのは分かったようだ。ならば見てないで知恵を貸してくれと、石川は危うく衝動的に叫びかけたのをぐっと堪えた。
「昔からここに住んでる人間は知らねぇか。新太郎って奴がいるはずで、そいつに用があるんだよ」
「知らんもんは知らん、力になれねでわりいな」
男はそれで話は終わりと言わんばかりに、作業に戻ってもう顔を上げない。はじめ、と名乗った男のそばを、石川は黙って離れた。すぐさま三人も合流し、石川の表情から、全てを悟った。
「……いなかったの? 新太郎が……」
萩原が不安げに尋ねる。石川は答えず、桶屋を振り向く。店先で主人をする男。嗄れた老婆の声が何事か声を上げ、男も顔をあげずに何やら声を返した。石川は、周囲を見回した。何も変わらぬように見えていた景色が、俄かに大きく揺らいで見えた。
「……何だ、これ」
幾らか、様子の違う、ふるさとのような村。主人公がいない、渋民の村。間違ってはいない。『二筋の血』で、語り手は盛岡を離れて鎌倉の病院に入っており、そこから幼き日々を回想するのだから、村に新太郎が居ないこと自体は、考え方によっては正しい。では、ここは実際に未来なのか。ならば──何故石川たちは、村へ続く道の上に落とされたのか。未だ語り手の影すら見えないというのは、どういうことなのか。語り手のいない『二筋の血』など、
「……は、」
書き継ぐのをやめた原稿用紙が、何故か脳裏に閃き始める。自室に置いてきた書き掛けか、否、それどころではないというのに、無性に中途半端な紙屑たちが、石川の意識の上に存在を主張し始める。次第に心が波立ち、苛立ちに変わる。焦燥にも似たざわつきが不快で、一瞬、この世界の概念全てに、風穴を開けてやろうかと考え、その暴力衝動に疑念を感じ、
「何なんだよ、この話」
この時石川は自覚しなかったが、いらだちと、焦りと、心細さが入り交じった呟きは、道に迷った子どものようだった。
「なんで、語り手もいねぇのに、壊れねぇんだよ」
「……ひとつ、尋ねてきます」
泉は、ふいとその場を離れ、桶屋へと足を向けた。気づいた萩原は、石川と泉の背中をきょろきょろとした後、北原の促しに頷いて、泉についた。
「もし、店主の方」
「へい。あぁ、なんたらまだ……」
「お仕事中に申し訳ありません。人を尋ねているのですが、この村に美しい女の子が越してきたことがないか……ご存知ありませんか」
「なしてそんなごどを……名前は?」
「佐藤藤野、といったかと」
主人は少し考え込んだが、やがて知らないと答えた。泉は懇ろに礼を言い、店を離れる。そして今度は付近の店の老人を捕まえ、同じことを尋ね、
「……なるほど。この村に、佐藤藤野という女の子が越してきたことも……美しい女の子が盛岡から訪れたことも、一度もないのですね」
やがて得られた結論を呟くと、萩原は袂の筆入れを握りしめた。
「いないのは、主人公だけじゃない、ってこと……?」
ちりり、微かに紅葉の鈴が揺れる。
──桶屋の裏手で井戸水を汲み上げる女は、寄ってきた嗄れた老婆にのんびりと微笑み、何事かを話した。大人しく地味な性情と見える野暮ったい女と、白髪をきつくまとめて大きく背中を曲げた老婆とは、穏やかに談笑し、ふと遠くの岩手山を見上げる。
「今日は良え天気だなはん。あとで田んぼも見に行かねどな」
石川たちの身なりがあまり目立ち、周囲から噂をされ始めたため、一行は店と店の間に空いた細い路地を抜けて裏手に身を隠した。北原に引きずられてきた石川は、一心地つくなり、
「理解出来ねぇ」
と乱暴に吐き捨てる。
「ぶっ壊したいのは分かった。新太もいねぇ佐藤藤野もいねえ、いねえどころか居た形跡もねぇと来た。何も始まらない話に書き換えて、この話をぶっ壊そうとしてんだろ。そうとしか考えられねえよな」
「さて、それはどうだか。しかしこの世界は強いね……木の幹も根も無くて、倒れずにいるとは」
「それも分からねえ、そんな丈夫に作った話じゃねえよ」
「ひとの心境に焦点を当てた物語だから……中身を掻き回されても、外枠は無事、なのかな」
「その肝心の中身どころか、外枠の芯がいねえんだっての。この話は、新太って主人公が居なきゃ、何にもなりゃしねえんだよ。主人公の感慨無しで、この話が何を語ることがあるってんだ」
主人公として据えた新太郎に、幼少から続く一筋、否二筋の流れのあることと、それに纏わる出来事と印象が、あの結末部へと導くはずだった。主人公が存在しなければ、全てもまた存在しない。佐藤藤野が影も形も居ないのならば──あの優しい眼差しが無いならば、流れるべき重要な一筋すら欠けていることを意味する。
「実はとっくにぶっ壊れてて、修復も不可能で、本って体裁だけ残ってるとか、平和な村の日常を書いた小説ですって体にしてぎりぎり生き残ってるとか。これはそういう話なんじゃねぇのか?」
「骨が折れるね、啄木の」
北原はマッチを擦った。手馴れた仕草で煙草に火をつけ、燃えかすは携帯灰皿へ放り込む。ふわりと上った煙は、村の生活と混じって大空の雲に溶けていく──その空に、洋墨の溜まりすらない。
「……侵蝕は、もう達成されてしまった、のかな」
空へ行った煙をじっと見つめた萩原が呟くと、何かの拍子に鈴がちりんと強く鳴った。
「わ、ごめんなさいっ……」
「誰に謝ってんだ……」
「腹を立てる気持ちも分かりますが、その苛立ちは侵蝕者に向けて頂きたいですね」
泉は澄まして、他愛もなげに言う。石川に向けて言ったのは明白で、勿論石川も「あ?」と泉に向けて一歩を踏みかけ、目の前に立たれた北原によって遮られる。
「侵蝕の達成とは、その文学の消失です。その時その文学は、誰の記憶からも消える……僕たちの記憶もその被害は免れ得ない。とは、司書さんや館長さんも仰っていました。萩原さん、この作品のタイトルは?」
「え、あ、ふ、『二筋の血』……」
「忘れていませんね。それが答えです。まだ浄化の余地は充分残されている」
それが泉なりの励ましであった。萩原は強く頷くが、石川は「つったってよぉ……」と未だ憂鬱の引かない顔で砂利を蹴る。
「どうすんだよ。侵蝕者にも会わねぇから殴ることも出来ねぇ、澱みが溜まる一方だ」
「相手は巧妙に身を隠しているのでしょう。ですから、改変が大掛かりというのが……むしろ有難いことかもしれませんよ。変化が分かり易くて」
泉は言いながら、袂を探った。
「侵蝕によって行われた悪しき改変を、元通りにすれば良いのです。そうすればいずれ、侵蝕の邪魔をされた親玉が、向こうから姿を現すでしょう、……?」
ごそごそと袂を探り、替えの手袋とは別に、平たく四角い紙のようなものを引き出す。
「これは……何でしょうか。こんなものを持ってきた覚えはありませんが」
北原が近づき、泉の持つものを覗き込む。
「封筒のようだね。差出人は……檜沢新太郎」
「何だって?」
石川はすぐさま大股で近づき、封筒をひったくった。「何をするのです」との泉の非難も無視して、封筒の表も裏も返す。差出人は檜沢新太郎、住所は無し。宛先は洋墨が滲んだようになってよく読めなくなっているが、住所は今でいう東京、無論新太郎がそんなところに知り合いのあるはずはない。だが、石川はふと、その突然の手紙を理解した時、雷に撃たれたように立ち尽くした。
「手紙だ。手紙じゃねえか……おいおい、どういうことだよ。は? 何だこの侵蝕者、本気で……何がしたいのか、分からねえ」
「ちょっと、わかるように話しなさい。その手紙が何だと言うのです?」
「出だしだ」
「……はい?」
「『東京にゐる友人へよこす手紙の体にするのだ。』……生前の石川啄木……俺様が、『二筋の血』を書き直そうと考えてた時に、日記に残した文章だ。書いた当初から随分離れた日付の日記だってのに……こんなとこから引っ張ってきやがったのか、変態かよ」
「書き直す? つまりここは書き直された『二筋の血』であると?」
「多分な。だが」
石川は迷いなく封を破り、手紙を引き出した。開いた手紙には丸っこく、きっちり留めた筆跡の字が、短く並んでいる。
「実際書き直したのか出来なかったのか……結局俺様は、手紙の体にするって書いたっきり、何も残してねえ」
「とすると、啄木。この世界は侵蝕者が、君が日記に残した構想を用いて、『書き直した』世界だと言うのかい」
流石の北原も煙草の手を止め、眉根を詰めて文面を改めて覗く。「これも侵蝕者が忍ばせたのかな」
「……友よ。学を修め故郷へ錦を飾る君に、最大かつ素直な祝辞を述べたいと思ふ……決まりだ。新太郎がこの手紙を都会に居る知り合いに送って、その手紙の中であれこれ語るって形にしやがったんだ。つまり俺様たちが、この手紙の差出人のオトモダチ役ってわけか」
「僕たちが初め、村の外の道に降ろされたのも……この手紙を持って村へ向かう道中、という設定のわけですか。勝手に人の袂へ入れるなんて、気色の悪いことを」
泉は心底からの不快に身を震わせ、襟の合わせを整えて、風も許さぬと手で抑えた。気の毒そうな萩原は「僕の懐なら良かったのに」と呟く。
「それにしても何故、泉さんだったのだろう……作者へのメッセージなら、石川君のポケットに入れておく方が良いのに。ひょっとして、人間違いをしたのかな」
「似ても似つかないよ。それに奴らがそんなヘマをするだろうかね。ただこれで、ようやく状況が進展した。この物語にはどこかに新太郎はいる……どこにいるのか、見つけなくては」
煙草の火を消しがてらに北原は言うが、石川は文面を睨み、半信半疑でいた。書き直す、と一言で言っても、行われているのはほとんど一からの作り直しだ。文章を入れ替える、文字を一部分書き換える、全て塗りつぶす、食い潰す、登場人物の行動を固定化もしくは変容させてストーリーの進行を妨げる、そう言ったやり口が多い中で、世界を一から作り直すという行為をする侵蝕者は、確かに一部いる。彼らは大体、その作品に特別な思い入れがあった。
(この話に、そんな思い入れるやつが、いる訳……)
「石川さん、しっかりしてください」
泉の鋭い呼び声に意識を引き戻される。見回すと三人、石川の方を注視していた。
「あ、おー、悪ぃ、ぼーっとしてた……何だっけ」
「ナンダッケではありませんよ。どのようにして新太郎さんを見つけ出し、この先の筋書きへ進むか、という話です。何か考えはありませんか」
「あー……」
石川は手元の便箋に視線を落とす。友への祝辞の後は、『かつての同輩に会ったときはどうか「奴は大変元気」とばかり伝えて下さい。』と簡単に述べるだけの侘しい手紙だ。これで終わっているということは、これで終わらせたいということでもある。
「……新太郎を見つける方法は分からねえが、無理やり話を本筋に繋げる方法なら、今ここにひとつあるぜ」
「本当に? どんな方法?」
萩原がかじりつく。その目の前で石川は、一本の筆記具を描写する。すると常々使っている万年筆が現れる。蓋を開けてペン先を紙の上に据え、
「都会にいる友は、この手紙を見て旧友を懐かしむんだ。懐かしさを呼び起こすのに、手紙がこんだけじゃ足りねえだろ。昔……共有した思い出がなきゃ、な」
行と行の間に、窮屈そうに小さな字で、きちきちと文章を書き足す。書けた文字は不思議と、元からあった文字によく似ていた。
『君を思ふと、笑ふも泣くも罪なかりき昔が物悲しい許り。君は、覚えているか』
「ってな」
書き終わると、途端に周囲の景色がぐにゃりと歪み、時計回りに強く弧を描いた。色や輪郭が溶け合い境目を失い、人も無機物も一瞬混じる。それが急速に逆回りをし、再び世界が正常な角度を取り戻すと、踏み固められていた道は石や砂利が大きくごろごろとした土と砂のそれになり、建物は高さを失って平屋ばかりになる。幾らか家や店も消え、人も明確に数を減らした。確かに舞台ははじめ、本来よりも未来に位置づけられていたようだ。
「あっ、ここは、石川君」
萩原が声を上げる。石川は万年筆を握って消し去り、今度こそと思って言った。
「今現実に残る『二筋の血』……その冒頭に、昔話の体で無理やり繋げてやった。こっからは本筋が見られるぜ。話は全部、こっからだ」
土と砂の匂いは日差しに焼かれ、空気までじわりと温い。その道へ、大きな影が差す。空を見上げれば太陽、そして晴れ空に似合わぬ大きな黒雲。それこそが破壊されて吸い上げられた世界の欠片、洋墨で出来た概念の破片たちだ。随所に穴が開き、文字が綻び、無へ続く空洞が空いている。
「侵蝕による破壊が行われている本当の現場へ、ようやく辿り着けたのだね。その証拠に」
北原はいつの間にか双銃を構え、いきなり一発ずつ撃った。弾け飛ぶ硝子の欠片の向こうから、顔色の悪い羊たちが群れを成して駆けてくるのが見える。潜書者達が現れたことをもう嗅ぎ付けたと見え、眷属の数は増える一方だ。
「早速お出ましですか」
「おわ、おわあ、いきなりあんなに沢山……!?」
「よーやく暴れられんだなァ? こちとらムシャクシャしてんだ、骨のあるやつから掛かって来やがれ!!」
石川は拳銃を手に、自ら眷属の群れの中へ飛び込んで行った。北原、泉も遅れず続き、萩原だけは一歩遅れて、足をもつれさせながら何とか追いかけていった。
頭が重い。気分が悪い。吐き気がする。何もかも見通すが如き日の光に炙られて、石川の心に澱んだものが浮かび上がる。
それは撃てども、撃てども、減り薄まるどころか、ますます濃くなる一方。
(そんなに、書き直した後の『二筋の血』が、読みたかったとでも?)
そんなものを期待するような、読者など、いるはずがない。
そういう考えから、いつまでも抜け出せない。
石川自身には実感できるほどの確かな記憶は無いものの、恐らく魂が、あのなつかしき土地であると感じている。侵蝕の影響で、本来の時間軸よりも未来にあるようだと言われた割には、大した変わりはないように見える。靴底が踏む砂利道は狭く、正面に延びていて、薄ら轍が残っていた。その行先を遠く見やると、道の向こうに煙が立つ、微かに人の声もする、行ったばかりの馬車の車輪が砂利を踏む音もする。この道を行けば、恐らくほんとうに、あの村へ行ける。それを思うと石川は、なんとなしに視界が滲むような、
「……気は、特にしねぇ、な」
長く息を吐き出したところへ、隣に北原が並んだ。
「ここが君の書いた『二筋の血』の世界か。記憶と大きく違うかい」
「いや、拍子抜けしちまった。大した変わりはねえよ……村に行きゃ違うのかもしれねえが」
「あれは良い山だね」
北原は遠くの岩手山を臨んだらしい。目を細め、うたいだしそうな表情で、「あんな山の麓で自然に抱かれながら育てば、君のようなある種純朴な人間にもなるのかな」と呟き、石川にじろりと睨まれると「そう悪く言ったつもりではないよ。怒らないでくれ」と笑った。
「先生、石川君……良かった、やっと会えた……」
後ろから萩原と泉も合流した。北原は小首を傾げる。
「同じところには降りなかったようだけど、合流出来てよかった。一体どこに降り立ったんだい?」
「僕たちはここから少しばかり離れた、この道の向こうに降ろされたようでした」
泉は、村のある方とは反対の方向を示す。そちらへも道は続いていて、石川の記憶では盛岡へ行く道のはずだが、長い道のりのようで都会の影は見えない。
「意図的な分断でしょうか。この近くに侵蝕者が?」
「それにしちゃ静かすぎる。思ったほど変わってねえのも気になる……先に来たヤツらは何を見て、ここが未来だって言ったんだ?」
「話を進めてみれば、分かるかもしれないね。啄木、僕たちはどちらへ行けば良いのかな。導いてくれ」
石川は背中を丸め、ポケットに両手を突っ込み、顎をしゃくって、「あっち」と道の先を示した。
「中程度の侵蝕と言うので身構えていたのですが……これはどういうことなのでしょう」
駆け回る子どもたちをすれ違いざまに眺めた泉は、仲間たちにだけ聞こえる音量で戸惑いがちに言った。真っ直ぐの道を歩き、やがて一行が村に入っても、侵蝕者はおろか眷属の気配すら感じないままだ。
野暮ったい屋根が幾つも並び、軒先で立ち話をする店主と客がいる。店の裏手に何か持ってきた男が声を上げている。健康な子らが裸足で追いかけっこをしてはしゃぎ回っている。民家の影には荷車と幾らかの仕事用と思しき道具に並んで竹馬が寝そべっていたりする。道は確かに踏み固められており、家々も思っていたより高いものが多く出来ているが、それでもやはり素朴な田舎の村らしい様相を呈している。
「平和だねえ」
北原が零す通り、平和としか言いようのない光景がいつまでも続いていた。村の光景そのものが本来の村とどれほど違うのかは、石川の目で見ていても今だ判然としないのが現状だ。それを言うと萩原は不思議そうにした。「自分で書いた世界の風景と、違っているかどうか分からないの?」
行く手は時折分かれたが、石川は迷わずに選んで行った。確信がある訳では無いが、何となくどこへ行けば誰の家があり、どこを曲がれば何があるか分かるようで、直感に従っているに過ぎない。自分で書いたが故の直感だろうと思ってみても、石川はどうしても納得がいかなかった。──自分が書いた訳では、ないのだ。
それでも、直感が間違っているとはあまり思えないのだから、複雑だった。
「侵蝕は起こっているのですよね?」
「らしいぜ」
「らしいとは何ですか、貴方著者でしょう」
「実際俺様にもあんま違いがわからねぇんだからしょうがねえだろ。一番困惑してるわ」
それもそうか、と考え込む泉を他所に、北原は穏やかな瞳で周囲を見回した。
「平和であることに越したことはないけれど、啄木が違和感を感じないというのは奇妙だね。侵蝕者の手が入っているのは、確実のはずなのに。そうだろう、啄木?」
厳密には、違いは既にあったと、石川は分かっていたし、皆わかっているだろうからと敢えて言わなかったことがある。最初に一行が降り立った道の上のシーンは、本来の筋にはなかった場所だ。筋の改変と呼ぶには弱いが、改変には違いない。だが、そこにも渋民の風は吹き、村へと導くルートの役割を自然に果たしてはいたし、何より北原の言う通り、そこにさえ石川は、然程の違和感を感じていない。それが、石川の自嘲を誘う。
「……どうだかな」
「というと?」
「誰が触ってもそれっぽく出来るくれぇ、ブレてるってことかもしれねーぜ。主題ってやつがよ」
萩原は困惑を眉に込めて北原へ視線を送った。気づいた北原は肩をすくめる。
「まあ、いずれ分かるだろうから、今は進もうか。ところでどこへ向かっているのだったかな」
「決まってんだろ。主人公の家だよ」
「桶屋の新太郎だね。確か新太郎は……小学校に上がる頃の子どもだったかな」
その名の持ち主すら、斥候では確認ができなかった、と言われている。石川はそれを信じていなかった。
「いねえわけねぇだろ。いなきゃ話が成り立たねぇ。この話は、新太の思い出話と独り言で出来てるみてぇなもんなんだ……だからまず新太を見に行く。時間軸の確認はそのあとだ」
「そういうことでしたか。当てずっぽうではないようで、何よりです」
わざわざよく聞こえるように声を張って泉が言うのは、石川の姿勢とやらが気に食わないことの主張だろう。石川はふんと鼻を鳴らし、眼前通行人が横切るのも構わずに足を早めた。
石川が早足で行く先、果たしてそれらしき看板を見つけられた。木造二階建ての町家の様相で、低い軒先に店を構え、奥川と裏手に工場を持ち、どちらにも人がいるようだった。遠目に店を確かめた石川は、着いてきていたほかの三人に黙って目配せをした。「あの店だ」
「へえ、あったんだね。『二筋の血』では、確か新太郎は成長して家を出た。その後の店がどうなったかは語られず、母親が消息を絶ったが……未来の話であれば、ね。そうでなければ子どもだ。どうだい、啄木。それらしい人物はいるかな」
石川は目をぐっと細め、店にいる人影をじっと見た。が、遠目ではよく見えず、「近づくしかねぇな」と歩みを進めた。
表側は商いをしており、大小取り揃えた桶の数々を壁沿いに並べ、店の奥の方で一段上がった板敷きでは、ひょろい体躯で人好きのする男が何やら一人でやっていた。手元にはいくらかの、桶の部品と思しき板きれや金具がある。壊れた桶の修理かもしれなかった。石川がずかずかと近寄ると、異様な気配に聡いのかサッと顔を上げ、目をまん丸にして「やあ」と間の抜けた声を上げて道具を置いた。
「こったなとごろに外国の人が来るのは珍しい。うぢに何か用だが」
「お前が店主か? 名前は」
「は。おらははじめだが」
「……はじめ? いや、んなことはいい。新太郎じゃ、ねえんだな」
「んな奴知らね」
「……」
石川は咄嗟に出かけた言葉を飲み込んだ。
「……お前、昔っからここに住んで、働いてんのか」
「いんや、おらがこごさ来だのは五年前だ。六年前さ、元々この家にいだ一家が、十六の一人息子ど一緒にどごがに移ったどいうんで、空いだどごろでやらせでもらってんだ。桶屋は継がしてもらったで、村に他の桶屋はいねえ」
「…………その一家は、どこに行った?」
「さ、知らねな」
少し距離を置きつつ様子を見ていた三人も、石川の様子がおかしいのは分かったようだ。ならば見てないで知恵を貸してくれと、石川は危うく衝動的に叫びかけたのをぐっと堪えた。
「昔からここに住んでる人間は知らねぇか。新太郎って奴がいるはずで、そいつに用があるんだよ」
「知らんもんは知らん、力になれねでわりいな」
男はそれで話は終わりと言わんばかりに、作業に戻ってもう顔を上げない。はじめ、と名乗った男のそばを、石川は黙って離れた。すぐさま三人も合流し、石川の表情から、全てを悟った。
「……いなかったの? 新太郎が……」
萩原が不安げに尋ねる。石川は答えず、桶屋を振り向く。店先で主人をする男。嗄れた老婆の声が何事か声を上げ、男も顔をあげずに何やら声を返した。石川は、周囲を見回した。何も変わらぬように見えていた景色が、俄かに大きく揺らいで見えた。
「……何だ、これ」
幾らか、様子の違う、ふるさとのような村。主人公がいない、渋民の村。間違ってはいない。『二筋の血』で、語り手は盛岡を離れて鎌倉の病院に入っており、そこから幼き日々を回想するのだから、村に新太郎が居ないこと自体は、考え方によっては正しい。では、ここは実際に未来なのか。ならば──何故石川たちは、村へ続く道の上に落とされたのか。未だ語り手の影すら見えないというのは、どういうことなのか。語り手のいない『二筋の血』など、
「……は、」
書き継ぐのをやめた原稿用紙が、何故か脳裏に閃き始める。自室に置いてきた書き掛けか、否、それどころではないというのに、無性に中途半端な紙屑たちが、石川の意識の上に存在を主張し始める。次第に心が波立ち、苛立ちに変わる。焦燥にも似たざわつきが不快で、一瞬、この世界の概念全てに、風穴を開けてやろうかと考え、その暴力衝動に疑念を感じ、
「何なんだよ、この話」
この時石川は自覚しなかったが、いらだちと、焦りと、心細さが入り交じった呟きは、道に迷った子どものようだった。
「なんで、語り手もいねぇのに、壊れねぇんだよ」
「……ひとつ、尋ねてきます」
泉は、ふいとその場を離れ、桶屋へと足を向けた。気づいた萩原は、石川と泉の背中をきょろきょろとした後、北原の促しに頷いて、泉についた。
「もし、店主の方」
「へい。あぁ、なんたらまだ……」
「お仕事中に申し訳ありません。人を尋ねているのですが、この村に美しい女の子が越してきたことがないか……ご存知ありませんか」
「なしてそんなごどを……名前は?」
「佐藤藤野、といったかと」
主人は少し考え込んだが、やがて知らないと答えた。泉は懇ろに礼を言い、店を離れる。そして今度は付近の店の老人を捕まえ、同じことを尋ね、
「……なるほど。この村に、佐藤藤野という女の子が越してきたことも……美しい女の子が盛岡から訪れたことも、一度もないのですね」
やがて得られた結論を呟くと、萩原は袂の筆入れを握りしめた。
「いないのは、主人公だけじゃない、ってこと……?」
ちりり、微かに紅葉の鈴が揺れる。
──桶屋の裏手で井戸水を汲み上げる女は、寄ってきた嗄れた老婆にのんびりと微笑み、何事かを話した。大人しく地味な性情と見える野暮ったい女と、白髪をきつくまとめて大きく背中を曲げた老婆とは、穏やかに談笑し、ふと遠くの岩手山を見上げる。
「今日は良え天気だなはん。あとで田んぼも見に行かねどな」
石川たちの身なりがあまり目立ち、周囲から噂をされ始めたため、一行は店と店の間に空いた細い路地を抜けて裏手に身を隠した。北原に引きずられてきた石川は、一心地つくなり、
「理解出来ねぇ」
と乱暴に吐き捨てる。
「ぶっ壊したいのは分かった。新太もいねぇ佐藤藤野もいねえ、いねえどころか居た形跡もねぇと来た。何も始まらない話に書き換えて、この話をぶっ壊そうとしてんだろ。そうとしか考えられねえよな」
「さて、それはどうだか。しかしこの世界は強いね……木の幹も根も無くて、倒れずにいるとは」
「それも分からねえ、そんな丈夫に作った話じゃねえよ」
「ひとの心境に焦点を当てた物語だから……中身を掻き回されても、外枠は無事、なのかな」
「その肝心の中身どころか、外枠の芯がいねえんだっての。この話は、新太って主人公が居なきゃ、何にもなりゃしねえんだよ。主人公の感慨無しで、この話が何を語ることがあるってんだ」
主人公として据えた新太郎に、幼少から続く一筋、否二筋の流れのあることと、それに纏わる出来事と印象が、あの結末部へと導くはずだった。主人公が存在しなければ、全てもまた存在しない。佐藤藤野が影も形も居ないのならば──あの優しい眼差しが無いならば、流れるべき重要な一筋すら欠けていることを意味する。
「実はとっくにぶっ壊れてて、修復も不可能で、本って体裁だけ残ってるとか、平和な村の日常を書いた小説ですって体にしてぎりぎり生き残ってるとか。これはそういう話なんじゃねぇのか?」
「骨が折れるね、啄木の」
北原はマッチを擦った。手馴れた仕草で煙草に火をつけ、燃えかすは携帯灰皿へ放り込む。ふわりと上った煙は、村の生活と混じって大空の雲に溶けていく──その空に、洋墨の溜まりすらない。
「……侵蝕は、もう達成されてしまった、のかな」
空へ行った煙をじっと見つめた萩原が呟くと、何かの拍子に鈴がちりんと強く鳴った。
「わ、ごめんなさいっ……」
「誰に謝ってんだ……」
「腹を立てる気持ちも分かりますが、その苛立ちは侵蝕者に向けて頂きたいですね」
泉は澄まして、他愛もなげに言う。石川に向けて言ったのは明白で、勿論石川も「あ?」と泉に向けて一歩を踏みかけ、目の前に立たれた北原によって遮られる。
「侵蝕の達成とは、その文学の消失です。その時その文学は、誰の記憶からも消える……僕たちの記憶もその被害は免れ得ない。とは、司書さんや館長さんも仰っていました。萩原さん、この作品のタイトルは?」
「え、あ、ふ、『二筋の血』……」
「忘れていませんね。それが答えです。まだ浄化の余地は充分残されている」
それが泉なりの励ましであった。萩原は強く頷くが、石川は「つったってよぉ……」と未だ憂鬱の引かない顔で砂利を蹴る。
「どうすんだよ。侵蝕者にも会わねぇから殴ることも出来ねぇ、澱みが溜まる一方だ」
「相手は巧妙に身を隠しているのでしょう。ですから、改変が大掛かりというのが……むしろ有難いことかもしれませんよ。変化が分かり易くて」
泉は言いながら、袂を探った。
「侵蝕によって行われた悪しき改変を、元通りにすれば良いのです。そうすればいずれ、侵蝕の邪魔をされた親玉が、向こうから姿を現すでしょう、……?」
ごそごそと袂を探り、替えの手袋とは別に、平たく四角い紙のようなものを引き出す。
「これは……何でしょうか。こんなものを持ってきた覚えはありませんが」
北原が近づき、泉の持つものを覗き込む。
「封筒のようだね。差出人は……檜沢新太郎」
「何だって?」
石川はすぐさま大股で近づき、封筒をひったくった。「何をするのです」との泉の非難も無視して、封筒の表も裏も返す。差出人は檜沢新太郎、住所は無し。宛先は洋墨が滲んだようになってよく読めなくなっているが、住所は今でいう東京、無論新太郎がそんなところに知り合いのあるはずはない。だが、石川はふと、その突然の手紙を理解した時、雷に撃たれたように立ち尽くした。
「手紙だ。手紙じゃねえか……おいおい、どういうことだよ。は? 何だこの侵蝕者、本気で……何がしたいのか、分からねえ」
「ちょっと、わかるように話しなさい。その手紙が何だと言うのです?」
「出だしだ」
「……はい?」
「『東京にゐる友人へよこす手紙の体にするのだ。』……生前の石川啄木……俺様が、『二筋の血』を書き直そうと考えてた時に、日記に残した文章だ。書いた当初から随分離れた日付の日記だってのに……こんなとこから引っ張ってきやがったのか、変態かよ」
「書き直す? つまりここは書き直された『二筋の血』であると?」
「多分な。だが」
石川は迷いなく封を破り、手紙を引き出した。開いた手紙には丸っこく、きっちり留めた筆跡の字が、短く並んでいる。
「実際書き直したのか出来なかったのか……結局俺様は、手紙の体にするって書いたっきり、何も残してねえ」
「とすると、啄木。この世界は侵蝕者が、君が日記に残した構想を用いて、『書き直した』世界だと言うのかい」
流石の北原も煙草の手を止め、眉根を詰めて文面を改めて覗く。「これも侵蝕者が忍ばせたのかな」
「……友よ。学を修め故郷へ錦を飾る君に、最大かつ素直な祝辞を述べたいと思ふ……決まりだ。新太郎がこの手紙を都会に居る知り合いに送って、その手紙の中であれこれ語るって形にしやがったんだ。つまり俺様たちが、この手紙の差出人のオトモダチ役ってわけか」
「僕たちが初め、村の外の道に降ろされたのも……この手紙を持って村へ向かう道中、という設定のわけですか。勝手に人の袂へ入れるなんて、気色の悪いことを」
泉は心底からの不快に身を震わせ、襟の合わせを整えて、風も許さぬと手で抑えた。気の毒そうな萩原は「僕の懐なら良かったのに」と呟く。
「それにしても何故、泉さんだったのだろう……作者へのメッセージなら、石川君のポケットに入れておく方が良いのに。ひょっとして、人間違いをしたのかな」
「似ても似つかないよ。それに奴らがそんなヘマをするだろうかね。ただこれで、ようやく状況が進展した。この物語にはどこかに新太郎はいる……どこにいるのか、見つけなくては」
煙草の火を消しがてらに北原は言うが、石川は文面を睨み、半信半疑でいた。書き直す、と一言で言っても、行われているのはほとんど一からの作り直しだ。文章を入れ替える、文字を一部分書き換える、全て塗りつぶす、食い潰す、登場人物の行動を固定化もしくは変容させてストーリーの進行を妨げる、そう言ったやり口が多い中で、世界を一から作り直すという行為をする侵蝕者は、確かに一部いる。彼らは大体、その作品に特別な思い入れがあった。
(この話に、そんな思い入れるやつが、いる訳……)
「石川さん、しっかりしてください」
泉の鋭い呼び声に意識を引き戻される。見回すと三人、石川の方を注視していた。
「あ、おー、悪ぃ、ぼーっとしてた……何だっけ」
「ナンダッケではありませんよ。どのようにして新太郎さんを見つけ出し、この先の筋書きへ進むか、という話です。何か考えはありませんか」
「あー……」
石川は手元の便箋に視線を落とす。友への祝辞の後は、『かつての同輩に会ったときはどうか「奴は大変元気」とばかり伝えて下さい。』と簡単に述べるだけの侘しい手紙だ。これで終わっているということは、これで終わらせたいということでもある。
「……新太郎を見つける方法は分からねえが、無理やり話を本筋に繋げる方法なら、今ここにひとつあるぜ」
「本当に? どんな方法?」
萩原がかじりつく。その目の前で石川は、一本の筆記具を描写する。すると常々使っている万年筆が現れる。蓋を開けてペン先を紙の上に据え、
「都会にいる友は、この手紙を見て旧友を懐かしむんだ。懐かしさを呼び起こすのに、手紙がこんだけじゃ足りねえだろ。昔……共有した思い出がなきゃ、な」
行と行の間に、窮屈そうに小さな字で、きちきちと文章を書き足す。書けた文字は不思議と、元からあった文字によく似ていた。
『君を思ふと、笑ふも泣くも罪なかりき昔が物悲しい許り。君は、覚えているか』
「ってな」
書き終わると、途端に周囲の景色がぐにゃりと歪み、時計回りに強く弧を描いた。色や輪郭が溶け合い境目を失い、人も無機物も一瞬混じる。それが急速に逆回りをし、再び世界が正常な角度を取り戻すと、踏み固められていた道は石や砂利が大きくごろごろとした土と砂のそれになり、建物は高さを失って平屋ばかりになる。幾らか家や店も消え、人も明確に数を減らした。確かに舞台ははじめ、本来よりも未来に位置づけられていたようだ。
「あっ、ここは、石川君」
萩原が声を上げる。石川は万年筆を握って消し去り、今度こそと思って言った。
「今現実に残る『二筋の血』……その冒頭に、昔話の体で無理やり繋げてやった。こっからは本筋が見られるぜ。話は全部、こっからだ」
土と砂の匂いは日差しに焼かれ、空気までじわりと温い。その道へ、大きな影が差す。空を見上げれば太陽、そして晴れ空に似合わぬ大きな黒雲。それこそが破壊されて吸い上げられた世界の欠片、洋墨で出来た概念の破片たちだ。随所に穴が開き、文字が綻び、無へ続く空洞が空いている。
「侵蝕による破壊が行われている本当の現場へ、ようやく辿り着けたのだね。その証拠に」
北原はいつの間にか双銃を構え、いきなり一発ずつ撃った。弾け飛ぶ硝子の欠片の向こうから、顔色の悪い羊たちが群れを成して駆けてくるのが見える。潜書者達が現れたことをもう嗅ぎ付けたと見え、眷属の数は増える一方だ。
「早速お出ましですか」
「おわ、おわあ、いきなりあんなに沢山……!?」
「よーやく暴れられんだなァ? こちとらムシャクシャしてんだ、骨のあるやつから掛かって来やがれ!!」
石川は拳銃を手に、自ら眷属の群れの中へ飛び込んで行った。北原、泉も遅れず続き、萩原だけは一歩遅れて、足をもつれさせながら何とか追いかけていった。
頭が重い。気分が悪い。吐き気がする。何もかも見通すが如き日の光に炙られて、石川の心に澱んだものが浮かび上がる。
それは撃てども、撃てども、減り薄まるどころか、ますます濃くなる一方。
(そんなに、書き直した後の『二筋の血』が、読みたかったとでも?)
そんなものを期待するような、読者など、いるはずがない。
そういう考えから、いつまでも抜け出せない。
