前置き

 若山や北原と、小説の話をしたのが秋の口。石川の筆は遅遅として進まず、気づけば半年も過ぎた。
 ことが起きたのは、六月も中旬。生ぬるい空気を雨が洗い、たまの晴れ間には汗ばむ陽気に蒸され、人々は不快に飽き飽きしていた。


「『二筋の血』は、おおまかに三つの場面で出来てる」
 館内放送で緊急に司書室へ呼び出された石川は、執務机に置いた一冊の本を前に、ぼやくように言った。ポケットに両手を突っ込み、一歩半ほどの距離を置く様は、苦手なものを前にした子どものような不機嫌さだった。
「主人公は新太郎って名前のガキだ。そいつが学校サボって落第した時に、転校してきた佐藤藤野に話しかけられて、ちったあ甘いが恋にはならねえ、幼い日々を過ごして、血を見る話。もう一つは、赤ん坊連れの乞食の女が血を流して倒れてんのを見て、めまい起こして逃げ帰る話。んで最後に、そういう昔話を思い出してる、背が伸びた新太郎の自分語り。二人の女と血の回想と、勉学と立身出世に目覚めてお利口に励んだ末に病に倒れて先も長くないお先真っ暗な主人公の、どうにもならねえ嘆きと後悔の話だ」
 一部分ずつ取り出して誇張的な物言いにより作り上げた適当なあらすじを、淀みなく話せることに石川は自身で意外だった。石川啄木が書いたものであることに間違いはないが、大して読み返しておらず、内容にまつわる覚えも悪くなっていて当たり前のはずだった。そんな意外さと、しかしその程度の理解でも充分だろうと高を括った拗ねた気分に任せて、石川は半笑いで司書に軽口を効く。
「……って言ったら語弊があんのか?」
「他ならぬ石川さんの話されるあらすじです。どなたも文句などつけないでしょう」
 司書は冗談を解さない。石川の語ったあらすじも真正面から受けとったようだ。どうせ読んでもいないのだから問題ない、と、石川は自嘲して鼻で笑う。
「どうだかな。作者が自分の話を後から読み返して、なんだこりゃって思うことなんざ幾らでもあるし、世間様での受け取られ方が思ってたのと全然違う、なんて話もある。ましてや、俺様がこれを書いたわけじゃねえし」
 この日、石川は休みのはずだった。軽食を引っ提げて部屋に籠もり、真っ白な原稿用紙と、書き損じの原稿用紙の裏に書き殴ったメモとを引き比べて唸っていたところを、全館通達の放送で呼び出しを受け、気怠い足を引き摺って来たら、深刻そうな司書に本を見せられたのが先刻のこと。ご丁寧に上製本として装丁され天鵞絨張りの表紙には『二筋の血』と刻印されており、石川はその時、眉を歪めて「うわ」と零した。その反応の意味が理解できなかった司書が、至極無邪気にあらすじを求めたので、苦々しくも述べたのが先程のこと。
「書いたわけではない? 石川さんの執筆ではないのですか」
「石川啄木のもんだ。俺様のものじゃねえ」
「あぁ、なるほど、承知しました。話の腰を折って申し訳ありません」
「別に……」
「聞く限り、血の話、と言うよりも、出会った女性に関するお話であるように窺えますが」
「いや、血の話だ。……まあ実際女とか、故郷を懐かしむ心だとか、人間の帰る場所とか起源だとかを懐かしむ感覚の話だって言われてるけどな。俺様の名前の辞典があんだけどよ。そこには『少年時代の思い出と望郷の思いを絡ませた小説である。』って書いてあったぜ。はは、誰の話なんだか」
「近頃はよくご自身のことに関する調べ物をされていると聞いています。その一環でお読みになったんですね」
「ああ調べてる。だから分かってるんだよ。『二筋の血』なんて小説は一般的でもねえし、わざわざ取り扱う理由もない」
 石川は『二筋の血』をわざわざ渡されても、中を見なかった。弄ぶ手つきで右手に左手に持ち替えたり上下を変えてみたりしている。興味も無い、といった様子を全身で表しながら話す口ぶりは、むしろなにか言い訳めいている。
「そう仰るのは、何故です」
「石川啄木が生きてた頃に日の目を見てねぇからだよ。『二筋の血』は返された。紙幅が足りねぇから、載せらんねえってよ」
「それは……やむを得ない事情で仕方なく、ということでは?」
「馬鹿、相手の気を悪くさせねえための方便に決まってんだろ。言わせんな、気分が悪い」
 司書は「そういうものでしょうか」とピンときていない様子だった。むしゃくしゃするままに頭を引っ掻いた石川は、「だからぁ」とやけを起こして本をつまみ、ぶらぶらと揺らした。
「意味がわからねえんだよ。何でこんなもんが侵蝕されるんだ。こんな誰も知らねえようなもんを?」
 深い真紅の表紙にまで、洋墨を大量に零したような染みと、そこへ溶けていく禍々しい文字の破片が蠢いていた。司書は「そのような扱い方はおやめください」と石川から本を引き取り、そっと中を開く。紙面にも既に青黒い染みが広く浮かび上がっている。行が崩れ、文字が解れ、解体された概念が洋墨に還り紙に染みつき、洋墨溜まりの出来たところから独特の香りを本に纏わせる。中から重程度の侵蝕が進行していることを示す、目に見えた症状である。石川が呼び出されたのは、このためだった。
「何かの間違いじゃねぇのか」
「ご覧の通り、事実です。『二筋の血』が、現在中程度の侵蝕を受けています。早急な対応を必要とする状況にあります。どうかご理解ください。貴方の文学が、危険に晒されているのです」
 それらしく眉尻を下げる司書を、石川は今ばかりは忌々しく思った。他人の悪意に鋭いようで肝心なところが鈍いこの女は、石川の言葉も結局、己の作品が侵蝕を受けたと信じ難く思う適応機制から来るものと映ったらしい。返す言葉も柔らかく、しかし事実のみを端的に述べて、現実であると諭そうとするのが滲んだ。それが気に食わない石川は、なおも反駁する。
「侵蝕って人間の負の感情がするもんなんだろ。つまりはその話を知ってる奴がするもんだ。誰も知らねぇ作品が侵蝕されるわけがねぇ。違うか?」
「誰も知らないなどということは」
「比喩だ、比喩。知名度ってもんがあんだろ。そいつは侵蝕される前から消えてたようなもんじゃねーか」
 石川の態度のせいか、司書はふと沈黙し、冷ややかに石川を見つめた。ばつの悪さを和らげようと、咄嗟に話を変える。
「面子の目処は立ってんのか」
「……ある程度の目星をつけた程度です。急なことでしたので」
「依頼だろ。作者サマが行ってきてやるよ」
「よろしいですか。では、候補を」
「じゃあお前が絶対こいつは入れろって名前と、見立ての判断基準を寄越してくれ。足りなきゃこっちで選ぶ」
「どなたか、依頼したい方はいらっしゃいますか。差し支えなければ」
「別にいねぇ。テキトーに歩き回って暇そうにしてる奴でも見つけたら声かけようと思ってる。忙しく働いてるやつの邪魔をしてまでやらせるようなことでもねぇし……やべ」
 つらつらよく滑った口を無理やり止めて、そろりと目をくれる。すると司書の目つきは尚のこと険しい。今から不肖の弟子を如何に折檻してくれようと考えている尾崎紅葉の目などに近い。
「……既に、侵蝕の影響が出ているようですね」
 石川は半端に笑う。やがて司書は諦めて溜息をつき、本を見下ろした。板切れのような本だ、と石川は思った。
「……探しに行かれるのであれば、早急に。状況次第ではこちらで人員を選定し依頼します。その場合はかかった時間の分だけ業務外の扱いとします」
「具体的にどんくらい……あー、分かった分かった睨むなっての。ソッコで見つけてきてやるよ、しょうがねぇ」
 気まずさと本の残像を振り払うように踵を返し、さてまず誰を訪ねるか、と何人かの顔写真を思い浮かべる。そこへ、司書が「あぁ」と微かな声。
「それと、石川さん」
「なんだよ」
「念のために伺いますが、石川さんは潜書されますか」
「……」
 侵蝕された本の著者が必ず受ける質問だ。石川も以前『あこがれ』などが侵蝕された際に問われ、その時は「当たり前だろ」と答えていた。断る人間は基本おらず、問われる前に進言する者もいる。本のことを一番知っているのは著者であるから、想いも一際強い。潜書の際には会派に著者を含めることは、推奨されている。
 だが、石川は司書の前にある『二筋の血』を見ると、はっきりとものが言えなくなった。なぜか、形式的な首肯も出来ないほど躊躇われる。司書の疑問の視線を受けてはますますで、情けなく目を泳がせ、
「あー……考える」
辛うじて答えるだけ答え、居辛い場から逃げ出した。



「白秋センセェ」
 石川が見当づけた通り、北原は談話室にいた。昨日と同様、ソファを占有して何か読んでいる様子だったので、石川はわざとらしい猫なで声で呼びかけながら背もたれ越しに北原の肩にのしかかった。すると今日は煙たさが薄く、代わりに透き通った香りが甘い。北原は手に洒落たティーカップを取ろうとしていたのを邪魔され、赤みがかった琥珀の紅茶はあわや縁を飛び越えかけた。
「危ないじゃないか。まだ熱いのだよ。人に組み付くなら相手の様子を見てからやりたまえ」
「あぁ悪ぃ悪ぃ。なあ白秋、今日ヒマ?」
「遊ぶ時間はないよ。詩作の相談なら別……それとも小説の相談なら、僕から誰か紹介してあげようか」
「あー、いい、いい。小説とかじゃなくてよ! 是非とも、偉大なる白秋センセェに御助力願いてぇことがー……」
「何だ、そう殊勝に振る舞うということは借金の申し出かな。そういうことは前のを返してから……」
「いやぁはは、今借りたいのは金じゃなく、その腕っ節の方でよ」
 かちゃり、ソーサーにカップを落ち着かせ、白秋は肩越しに不遜な金髪を見上げた。見定めるがごとき光は急に真剣で、射られた石川の口角がひくりと歪む。
「誰かの本が侵蝕され、すぐにでも潜書が必要……そういうわけかい」
「……そーいうこと」
「なるほど。僕をわざわざ指名するなんて、相手は余程の手練か、それとも」
「知らねぇけどな。とにかく助けてくれよ」
「助けてくれよ、ということは、侵蝕されたのは君の本か。『一握の砂』? 若しくはまた『あこがれ』とか」
「あー。国民詩人の大先生には残念なお知らせになっちまうなー」
「どういう意味だい」
 石川は自嘲的に笑った。
「ただ石川啄木の名前のおかげでご立派に装丁された拙作が、暇人の気まぐれの憂き目にあったんだよ」
「やはり君の本じゃないか」
 何を勘違いしたのか、北原の眼差しが憐憫を含んだ。
「自分でいくらそう思っても、人の心を打ったことには違いないよ。何度も言うようだけれどね」
「……そーですか」
 決して卑下ではないし、事実人の目に触れることの無かった作品が、一体どんな価値を持つというのか──知らぬ間に『あの作品』が消えてしまった、など、今までにも何度もあったろうに。
 そう思いはしたが呑み込んだ。代わりに石川は余計な物思いを悟らせぬように、北原の肩へ体重を加えながら、努めて明るい声音にするように努めた。
「そーいうわけだから、人を探してんだよ。お前、他に暇そうな奴知らねーか?」
「重いよ、やめたまえ……何人要るんだい」
「三人……あーいや! 二人だ、二人いる」
「……まさか君、潜書しないつもりだったんじゃあるまいね」
 北原は目ざとく、冷たく指摘した。石川はとにかく涼しい顔をするように意識し、
「ほら、何が起こるかわからねぇだろ。実はやべぇ侵蝕者かもしれねぇし、急に侵蝕が早まるかもしれねぇし……そのための予備人員って奴だよ」
と、よくある事例で誤魔化した。北原はまだ物言いたげな顔つきを崩さなかったが、それでも顎に指を添えつつ思案してくれた。
「ふむ……そうだね。わざわざ僕に声をかけてくるなら詩歌の本だろうから、詩なら朔太郎くん、君も第一会派の馴染みだろう。光太郎くんも良いね、何より君のことをよく知っている。歌なら牧水も暇しているだろうが、勇はどうだか……。もし散文なら、小林君が喜んで力になってくれそうだけれど……」
「さっすが白秋、頼りになるぅ」
「君も簡単に思いつく名前だろう。それよりも、そろそろ何の本が侵蝕されたのか、聞かせてくれないか。それを聞いてからでないと、うまく候補が絞れないよ」
「どーしても言わなきゃ駄目?」
「言わずにおいても知れることなら同じだろう。ほら」
 ちぇ、と軽い舌打ちをして、石川は北原の肩を解放した。ソファの肘置きに腰をかけると存外沈むのは気怠さのせいか。言うのも億劫だったが、観念し、借金の残額を申告する時の心地でぼそりと言った。
「『二筋の血』。一応言っとくが短編小説だ」
 少し後に、はぁ、とため息を吐く。
「ほら、そーいう目をするじゃねぇか。だから言いたくなかったんだよ」





 一時間後、司書室には石川と北原を含めた四人が揃っていた。
 石川と北原、萩原朔太郎、そして泉鏡花。
「第一会派では石川さんとも息の合った戦いをなさいます。安心ですね。今回もよろしくお願い致します」
 司書に目を細められた萩原は、少し照れ臭そうに俯いた。袂に入れてある一筆入れにつけた紅葉の鈴を指先でつつくのは、昔同じ会派で長らく行動した尾崎紅葉に渡された、お守り兼迷子紐だ。鈴は梅雨時の重く湿った空気を払うような、小さくも凛とした音を持ち主に聞かせている。
「しっかし! 泉が暇とは思わなかったぜ」
 石川はわざわざ声を張った。北原は呆れて「君が誘った癖に」と呟く。泉は石川のしなだれかかるような姿勢に整った眉をしかめ、「暇ではありませんよ」と一蹴した。
「僕にもやることはありましたとも。ですが紅葉先生が、我の代わりに萩原を頼むぞ、と仰ったのです。先生直々の頼みとあらば、断ることなどあり得ません」
「さっすが第一弟子。百人力だぜ」
「どこかへ行く途中だったのではなかったかな。邪魔をしてしまったならすまないことをした」
 北原が石川の軽口を若干遮って頭を下げると、それには泉も居住まいを正し、
「白秋さんが謝る必要はありません。紅葉先生のことは秋声に任せましたから、きっと大丈夫でしょう」
と微笑んだ。北原も微笑を返すと、萩原はこれを機会と北原の隣にそっと寄り、背中に支えを得ながら鈴をぎゅっと握って、
「迷惑をかけちゃうかもしれないけれど、よろしくね」
と、九十度まで深々と頭を下げる。泉はそれにもにっこりとして、
「あなたの活躍は紅葉先生からよくよく聞き、背中を預け合えることを楽しみにしていました。僕の方こそ、よろしくお願いします」
と、自らも頭を下げた。これで三名、顔合わせが済んだと見た司書は、石川の元へ歩みよる。
「石川さんは、指環をどうされますか」
 指環、と聞き、石川は「ぐ」と呻いた。装着すると武器の形状が変わる特殊な装備品で、石川のものは、銃を刃、ナックルナイフの形状に変える。刃とは小説家が持つものと大方決まっており、それが石川には、今一番考えたくないことだった。実のところ、まだ潜書すると心が決まっていないのである。
「していってはどうかな。小説なのだから、刃の方が相応しいだろう」
 北原がさりげなく横から口を挟んだ。
「銃は僕と朔太郎くんで組むから、心配はいらない。そうだね、朔太郎くん?」
 北原に陽だまりのような瞳を向けられると、萩原は耳をほんの少し赤くした。胸の辺りに手を組んで、こくこくと何度も頷く。
「大丈夫、最近は調子がいいから、きっと先生の足を引っ張ったりもしません。犀にも、背中を押してもらいましたから……」
「それは頼もしい。背中はよろしく頼むよ」
 萩原は一瞬だけ、気兼ねするように石川を見た。だが石川があまり萩原たちに注意を払っておらず、難しい顔をして自分の指を睨みつけているのを見ると、顔を背けて頷く。もちろんそれを見ていた北原は、石川を横目に肩を竦める。
「筆頭は上の空のようだ。僕たちだけで何とかしなくてはならない場面もあるかもしれない。気を引き締めて行こう」
「……はっ? 俺様が筆頭?」
 北原の言葉は青天の霹靂で、石川はそれでようやく顔を上げ、仲間の方へ目を向けた。北原は呆れたが、むしろ丁寧に笑んでみせる。
「そうだろう、作者なのだから。君も異存はないだろう、司書さん?」
「ええ。適任かと」
「なんだそれ、聞いてねぇし。それじゃ断ろうにも……」
「……断ろうにも、なんですか?」
「っんでもねぇよ! 忘れろ!」
 泉の睥睨から逃げ出そうと石川が一歩踏む、その先に司書が立つ。手には紅い石の嵌った指環が収まる箱がある。
「決めかねるのでしたら、お持ちください。必要な時に装着なさればよろしいかと」
「あ゙……つってもな……俺様の刃なんざ、大した助太刀にもならねえし、……太刀どころか、刃も短ぇし、届かねぇし。必要な時なんざ、来るかねえ」
「評価の有無や内容の巧拙は、能力の必要性に関係ありませんよ、石川さん」
 司書はいやに真っ直ぐに言う。それも武器としての刃に対する評価とは微妙にズレたような。咄嗟に反論しようと開いた口は、しかし何からどう返して良いものか分からずに終わる。
「あー……なんだか分からねぇが……お前がそこまで言うんなら」
 指環を手に取る手つきは、いつにも増して臆病だった。ほとんど状態も見ずにポケットに突っ込んでしまう。司書は少しものを思うような顔をしたが、軽い会釈で下がった。許せないのは泉のようで、一連をじっとりと眺めていたが、ふと石川たちの方へ向き直り、
「貴方、先程から気概が足りぬように感じますが、僕の気のせいでしょうか」
鋭く言い放つ。石川は返す言葉を持たなかった。ただの事実なのだから、仕方がない。すると泉は肩を落とし、「先が思いやられますね」と零した。
「本来、僕の知ったことではないのですが。背中を預けて戦う者同士ですから敢えて言いましょうか。貴方はこの図書館で随一の戦闘経験者、そして短歌の道において優れた功績を残し、知られた名を持つ作家です。その名と姿勢には責任があることを自覚してください」
「……責任」
「誰よりも戦いの経験があるのなら、その心ひとつがもたらす影も知っているはずです。それが戦いにどのような影響をもたらすか。これはただの戦いではないのですよ、文学を守るための戦いなのです。己の作品のためでは気が進まないなら……その作品を愛する誰かのため、貴方の助けになりたいと望む誰かのために、戦いなさい」
 石川は、誰か、誰かのため、助けになりたい誰か、ね、と、繰り返し呟いた。その顔があまりにも不真面目と受け取ってか、泉は眉を立てて、
「それも出来ないのですか。貴方、それでも文豪ですか!」
「まあまあ、泉さん。啄木は今著作が侵蝕を受けているから、その影響もあるかもしれない。なにか不始末があれば、僕たちでフォローに回るよ。それで手打ちにしておくれ」
 北原が間に入った。石川の後頭部を掴むとぐいと下げさせ、「君は頭が高いよ。謝りたまえ。態度が目に余るのは事実なのだから」と有無を言わさない。石川は背中を大きく曲げさせられてちょっとふらつき、足元が落ち着いてから、「……悪ぃ」とぼそり。
「……でもヘマはしねぇ。戦いは、戦いだ。大いなる敵に立ち向かうって時に、それがどんなやつかも知らねぇうちに、舐めてかかったりはしねえ」
 低く抑えた呟きは、泉には確かに聞こえ、襟を正した泉は、「そうであれば良いのですがね」と顔を背けた。北原は石川の首を解放してやり、司書に「司書さん、すまなかったね。説明を頼むよ」といたって平静に促した。司書は微笑のまま、石川らへ順々に目配せしていく。北原、萩原、泉とは目が合ったが、石川だけはいつまでも、その瞳が見えない。
「……では、改めて。この度侵蝕されたのは、石川啄木による短編小説、『二筋の血』。侵蝕は現在中程度でゆるやかに進行。短編は長編よりも侵蝕が早く進行することが多く、対応を急ぐ必要があります」
「侵蝕者についての情報は?」
「先程臨時で招集した数名の斥候による報告を受け取りました。現状では眷属の数もそこまで少なく、平穏だそうです。侵蝕者の親玉と思しき存在は見つからなかったと」
 斥候、と聞いた石川は、内心で(そいつらがこのまま何とかしてくれりゃいいのに)と不貞腐れた。
「作品内の概念世界に関する報告は、他にないのかい」
「聞き取り済みです。現在内部の概念世界……そのものは、そこまで大きく崩れてはいないようです。しかし……」
 司書の言葉が途切れた。石川がちらと見ると、司書は逡巡し、目を僅かに泳がせている。
「……石川さん」
「……何だよ」
「主人公は……学校へ上がったばかりの……子供と伺いましたが」
「そーだよ。何なら本当に行くべき年になるのも待ってねぇから、もっとガキだ」
「確かですね」
「作者サマの言葉を疑うって?」
「……いいえ。確認事項です。であれば、侵蝕による概念世界の改変は、確実に進行しています」
「新太がおっさんにでもなってたか?」
 そう言った石川と、司書の戸惑いの目が合う。
「全ては未だ不確定です。しかし報告によれば……現在概念世界内は、本来の描写といくらも異なり、道も整い家々も高く、……推測では、恐らく本来よりも未来の村の様相を呈しており」
「未来の村、って、なんだ」
「いえ、それも改変によるものと思われますが、それよりも……新太郎という名の子どもはおろか、その名を持つ大人も、見つからなかった、と、報告が」
「……」
 読み返していない、が、この時石川は『二筋の血』の最初の書きぶりを思い返していた。意外な程にするすると思い出される文体の中に、村の景色にまつわる描写は確かに少ない。だが、あの当時の石川啄木が書くとするなら、その村は遠く懐かしきふる郷、
「渋民じゃ、ねぇのか?」
 口に出た問いに、司書は緩く首を振った。
「現時点では確定できません。どうか、著者の魂を継ぐ貴方が、見定めてください」
「……」
「何が起こるか分かりません。どうか、皆様、お気をつけて」
2/3ページ
スキ