前置き

「お前さん、小説書いてるんだって?」
 帝國図書館、中庭。
 傾きかけた夕の陽光に照らされ、仄かに色づき膨らみ始めた赤椿の蕾を、寒風がどうと揺さぶる。野晒になっている白塗りのベンチに腰を据えた石川啄木は、隣に居る若山牧水を一瞥した後、ぶるりと身を震わせ、指先につまんだ猪口を煽った。
「仕事中に一気に呑んじまっていいのか、啄木? それ、そこそこ強いぞ」
「呑ませたのはぼっさんだろ」
「呑みたいと言ったのはお前さんだ」
「注いだのはぼっさん」
 石川の隣に陣取り半分胡座をかいている若山は、はいはいそういうことにしといてやろうと笑って、愛用のひょうたんを遠慮なしにぐいと傾けた。うまそうに熱い息を吐いたのを恨めしげに一瞥し、石川は若山がひょうたんを下ろした所へ猪口を突き出す。
「今日はヤケ酒か? 忙しそうだしなあ」
「近頃は結構落ち着いたぜ。相変わらず開架にいる生きた監視カメラだの、前より司書の定期報告の頻度が増えただの、細々した報告書を前より沢山作らなくちゃならねぇだの……忙殺に背中つつかれ続けの毎日で、たまに昼間のうちから呑まなきゃやってられねぇってのもあるけどな」
 たらたらと猪口に注がれた水の如き酒に、次はちびりと口をつける。耳が酒の酔いか冷たいイヤーカフかのせいで赤く痺れている。若山はひょうたんに栓をしながら、うんうんと相槌を打ってやる。
「石川啄木が、よくもまぁそれで長いこと続くもんだ。感心してるよ、白秋も珍しくしみじみしてたぞ」
「動かす心があるんなら金回りも俺様向けに動かして欲しいもんだぜ」
「そんなことを言うが、金に心身を縛られないで済む生活ってのにも慣れてきたんじゃないか?」
「やめろよな、そういうこと言うの。俺様が奉仕に甘んじてるみてぇじゃんか」
「似たようなものだと思うんだがなぁ」
「全然違う。あー、もう、ぼっさんが変なことばっか言うから酔いが醒めちまう。どうしたんだよ今日は。妙なことばっかり気にしやがって」
 んー? と、若山はひょうたんを揺すって量を測った。ちゃぷちゃぷ、高めの軽い音がする。
「俺にも分からん。今日はそういう気分らしい。あと、さっきの質問は、つい最近そんな話を風の噂で聞いたから、だな」
「誰だよんな噂流す奴……」
 また猪口を一気に乾かす。逆さに返しても一雫も落ちない。石川はつまらなそうに猪口を若山に返し、「もういいのか?」に浅く頷いて、冷風に広い額を晒して軽く見上げた。木々は葉を落とした、その枝越しに白亜の図書館があり、空の面積はそこまで広くない。夕が深まり空色のくすんだ雲を眺め、石川は目を細める。
「書いちゃいるけどよ。だから何だってんだ?」
「天才石川啄木が満を持して書く小説だろ。期待してる奴は大勢いるさ」
「そいつらは俺様の小説に何を期待してんの? 多喜二とかだよな。あと……菊池? 他にいるか?」
「夏目さんも楽しみにしてると仰ったらしいじゃねえか。新思潮の面子が聞きゃ歯噛みして羨ましがる」
「俺様に直接言ってきたことじゃなきゃ知らねぇよ」
「ありゃそうかい」
「そーだよ。大体……天才石川啄木は、とっくの昔に死んでるぜ」
 猪口を返した手を緩く開いて、じっと見つめた。先立つ物事を考える時にする癖のようなものだ。若山も見慣れたもので、それをする時石川は大抵元気がないということもよく知っている。
「殊勝なことを言うじゃないか」
「才能はあったかもしれねぇが、食っていけるレベルの才能じゃなかった。そんだけの話だ……それに、安吾の野郎にも昔言われたんだ。『生活苦の無い石川啄木なんてのは、飼い馴らされて囀りも忘れた鳥に過ぎない』……とさ」
「へえ……辛辣だな」
「ま、事実だけど」
 口の端が上がり、自嘲の笑みを短く零した。
「書いてた頃の俺様が、どんな木を突いてどんな音を森中響かせようとしてたのか……なんてのはもう、仕方ねぇ話だ。今と昔じゃ状況も何もかも違う。安吾の言う通りだ。今の俺様は、生きるのに必死にならなくて良くなっちまった」
 俺様は、と、口の中で小さく繰り返すのを、若山は聞きながら知らないふりをする。視線を落とすと、踏み締められた落ち葉や枯れ草の隙間に、生き物がみな引き上げた後の寂しい土が乾いている。
「何のために働いてんのか、たまに分からなくなんだよ。生きるためでもない、養わなきゃならないわけでもない。娯楽のため、酒のため、煙草のため……つっても売れねぇし一文の足しにもなりゃしねぇし。だからこう、書くこともしっくり来てねぇっつか……何かこう、本末転倒の感じがする」
「そうかねぇ。……折角、生きるために書く必然が要らなくなったんなら、今こそお前さんの、書きたいように、自由に書けるってものじゃないのかい」
「それが分かんねぇんだよ」
 石川は苦痛を堪えるように眉根を詰めた。
「生きるために書くもんだった……と思うんだ。石川啄木にとって、小説はそういうもんだった。何をするにも金がいる、自分一人の心を慰めるにも、家族を養うにも、優しいやつに借金返して負い目なく付き合ってやるためにも、とにかく金が入用で、一発当てて名前を売って、惨めな暮らしを抜け出してやるとか……短歌で売れるより小説で売れた方が何倍も金になった、……書く目的は第一にそれだったんだよ。そんな奴に……何を期待してんだか!」
「囚われてるねぇ」
 若山は顔を上げた。涼風に前髪を遊ばせ、酔いの火照りを快く綻ばせる。
「啄木も、旅に出るか。働き詰めで神経まで詰まってるんだろ。司書に許可とって、暫くふらふら旅に出てみれば、ちっとは憑き物も落ちるかもしれないぜ」
「憑き物、な……」
 石川は、手を下ろし、眼前遠くの木枯らしに揺れる枯葉を眺め、ふうと溜息を吹いた。それが届いたのかと思うタイミングで、枯葉はふと枝を離れ、ひらりと宙に放り出される。
「落ちる様、鉛の如し、秋の葉の……暮らしの疲れに吹き晒さるや」
 枯葉は吹き抜けた突風に攫われ、屋根を超えていった。石川はまたぶるりと身を震わせ、縮こまり、
「あーー、ぜんっぜん調子出ねぇ気持ちわりぃ、今のはボツだ……なぁぼっさん。ほんとにさっきの酒、強いやつだったか?」
疑わしげに赤い顔を歪め、若山のひょうたんを睨みつけた。





 あくる日、石川は開架業務の合間を縫い、一冊の本を手に取った。己──石川啄木の入門などと銘打った書物。『明治四十一年』の項を探し、目を通す。

『啄木のこれらの資質は最初から自然主義の枠には収まりきらぬものである。(中略)それなのに自然主義の小説を書くべく上京しようというわけである。それも「小生の文学的運命を極度まで試験す」べく、作家となって家族を養うべく。』
『啄木は書いた。「菊池君」「病院の窓」「母」「天鵞絨」「二筋の血」、どれも売れない。タバコ銭も原稿用紙もインクもなくなるほどの困窮。いい小説を書いて二、三カ月後には家族を東京に呼べるようなことを友に言い、自らにも思い込ませているようなところがあったのだが、事態は深刻となった。』
『そうした六月二十三日の夜、突然歌が湧き出す。(中略)ともかく天才の不思議としかいいようのない出来事であった。』
『困窮の啄木の前に救い主が現れる。新詩社での知人、東京毎日新聞記者栗原元吉である。彼が同紙の連載小説の執筆をあっせんしてくれたのである。十月中旬にペンを執り、十一月一日より「鳥影」が掲載され始める。』

 頁を捲る。

『一月一日創刊の『スバル』に載った「赤痢」も第二号に載った「足跡」も成功とはいえなかった。』
『いかんせんあとで見るように、あるがままの人生を苦痛に耐えて直視する自然主義の骨法が身につかぬ仕組みになっているのだから、自然主義的な傑作の想像など、この時点では不可能なのである。(中略)例えば『早稲田文学』(明42・3)に載った中村星湖の次のような「足跡」評が啄木を簡単にたたきのめすのである。「誇大妄想狂式の主人公を書くのは好い、作者まで一緒になってはたまらない。」』

「…………」

『啄木という人は文学上のすぐれた達成をする場合、必ずまず思想的に足場を固め、そこから創作に飛躍するのである。(中略)ところがこのたび作家に転じようとするにあたって、思想的準備はまるでなかったのである。こうして失敗は約束されていたのである。』
『もし作家として失敗したということになれば、それはそのまま自分の存立を支えてきた天才の自負の消失なのである。』
『直視すまいと啄木はあらゆる抵抗を試みるであろう。この相剋は作家となるべく上京しようと決意した瞬間から約束されていたのであった。上京以来相剋はすでに始まっていた。一夜に百数十首の歌をつくったことも、家族へ送るべき金で女を買ったことも、友人知己に八つあたりしたこともその現われであった。』……

 本を閉じた。書棚に押し込み、後にする。
 時間を無駄にした気分だった。
 脳裏に色褪せた幾らかの小銭が浮かぶ。仕事へ戻ることにした。





「過去の自分に、現在の執筆動機のヒントを見つけようとしても、無意味だろう。特に君の場合は」
 昼休憩の折、食堂の一際の喧騒を嫌い、握り飯二つだけを得て、人気のない場所を探して談話室に通りすがった。そこに、三人掛けのソファを堂々と占有した北原白秋がいて、どこからか持ってきた小さな卓台に灰皿を置き、悠々と煙草を燻らせている。その匂いに惹かれ、旧知の仲なのをいいことに気安く近づいた。北原曰く、可愛い弟子たち──萩原朔太郎や室生犀星も先刻まで共にいたが、萩原の腹の虫が盛大に鳴いたことでしばらく何も食べていないことが知れ、昼食を摂らせるために二人とも席を立ったばかりだと言う。
 借金返済に関する遠回しな詰りを受け流しつつ、石川が先刻の年譜で受けた苛立ちを口にすると、北原までもが、煙草の灰を白磁の皿に落としながら、そんな風に告げた。
「君の作風は、今現在を掴むものだ。『忙しい生活の間に心に浮んでは消えてゆく刹那々々の感じを愛惜する心が人間にある限り、歌といふものは滅びない』……君自身が書いていたはずだが?」
「古い話を持ち出してきやがって……あと俺様にも一本くれよな」
 北原の座るソファの肘置きに浅く寄りかかり、石川は憮然として唇を尖らせる。北原は「僕に物をたかるなら、先の件を片付けてからにするんだね」と一笑に付した。
「今の生活の感慨を散文に落とし込む意義が見出せないなら、歌にすればいいよ。一呼吸毎に散っていく命の輝きを、君らしく歌に捉えればいい。それで良いじゃないか。石川啄木には短歌がある。書きたくもないものを無理に書く必要は無いよ」
「ちぇっ……白秋までそんなこと言いやがる」
「おや、他にも同じ考えがいたかい。ある程度は共通の見解のようだね?」
 北原は大袈裟に意外そうな口ぶりをした。
「驚きもしねえのに大振りの反応やめろ」
「ふふ。君の口ぶりからして、てっきり諦めさせて欲しいのかと思ったから。その調子で話しているなら、君が相談をするような相手は、皆同じことを言うだろうね」
「お前そーいうのは向いてねぇだろ」
「それらしいことを並べてみたつもりなのだけど、君が苛立っているからには、実際効いたようだね」
「るせぇ。俺様には短歌の方が性に合ってる。んなことは分かってんだよ」
「それでも書きたい、というんだろう。その意欲がもし生前の君から来るというのなら、昔の人生に立ち返るのも悪くないだろう。そこは、どうなんだい」
「……」
 問われた時、石川の思考を過るのは、いつも同じ景色だった。
 壁に追いやられ、首筋にはナイフの刃。
 眼鏡の向こうから、似合わぬ程黒い、眼差し。
 直ぐに伸びた月光の青白さ、女の微笑。
「動機は既に見つかっているようだね」
 あまり良いタイミングで北原の声を聞いたため、驚き、手に持った握り飯を軽く潰した。
「何の話だよ」
「君、今何かを思い浮かべていただろう。瞳が夢を見たよ」
「そんなんじゃねぇし。あぁあぁ勿体ねぇ……」
 形の歪んだ握り飯のラップをぴりりと剥がし、付いて剥がれた米粒を摘んで先に食べた。微かな米の甘みが舌上に延びる。北原は呆れて微笑んだ。
「君、未だに牛鍋の牛肉を冷めるまで後に回すのかい」
「流石にしてねぇ、熱いうちが美味いって煩い連中も増えたし……けどたまに、こんなぐらいの飯が懐かしくって、無性に食いたくなる時はあるよな」
 言ってから、握り飯に齧り付いた。中の具は梅で、芳醇な香りだがどこか表面的に甘い米にうまく塩味を添える。北原のふぅと零す息に纏い付く煙の臭いが鼻をついた。その香りが、握り飯にはあまり合わないと知ったのはいつだったか。
「天下の万年助手の昼餉が、握り飯二つとは侘しいものだよ」
「幾らでもいるだろ、ここはそういう奴が」
「いくらでも居ようと、君がそうすることとは関係ない。もっと良いものを、一人の時でも食べたら良いのに」
「俺様にはこっちのがお似合いだ。大層なモンなんかむず痒くていつもは食ってられねぇ。たまにありつけりゃ充分だよ。良い酒はしょっちゅう欲しいけど!」
「たまに君らしいことを言うものだ。ところで啄木、一本飲むかい。気が向いたから上げないことはないよ」
 北原は懐から紙の小箱を取り出し石川に差し出した。石川は暫くの間じっと箱を見ていたが、やがて目を逸らした。
「いい」
「先にくれと言ったのは君なのに、結局要らないのかい。今世、君はあまり煙草を飲まないね」
「ひとに煙草入れを贈るくせに、煙草の匂いを避けて通る妙ちきりんな奴がいるからよ。仕事に障ったらめんどくせぇ」
 そうかいと、小箱を引っ込めた北原は、一人悠然と煙草を飲んだ。吹いた煙は緩い雲となって宙に流れた。ほんの少しのお裾分けのように、吸い込めば、そこはかとなく林檎にも似ていた。
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