終章

 石川は医務室で目覚めた。目覚めて暫くの間は、何事があったのか判然とせず、体を起こすのも億劫極まりなく、枕に頭を寝かせたままで眼だけをきょろきょろさせた。不夜城でもある医務室は基本明るく、今が何時なのかもはっきりしない。
 最初は誰もいなかったが、暫くして森が来て、石川が目覚めたのに気づくと声をかけてきた。
「気分はどうかね。随分と長いこと眠っていたが」
「長いことって、どのくらいですか」
「萩原君たちが君を引きずって帰ってきたのが半日前。つまり、十二時間だ」
 それは確かに随分なことだ、と、石川は目の間を指先でつまみ揉みながら思った。頭がぼうっとして、考えがまとまらないのも、眠り過ぎたせいだと推測し、枕の周りを再度きょろきょろした。
「何か必要なものが?」
「いや……白秋たちは、どうしてんのかな、って」
「彼らは随分前に補修を終えて退室している。君が目覚めたら真っ先に知らせてくれと頼まれているので、今から報せを飛ばすつもりだが……」
 森はそこで口を閉じ、じっと石川を見下ろした。瞳に気遣いを読み取り、石川は「はは」と薄く笑い、目を瞑る。森は、「気分が落ち着いたら、内線で俺に一報をくれ」と言って、石川のいる寝台脇を離れた。少しして、戸を閉める音がする。後は、秒針が時を刻む音ばかり。
 石川は、暫く、体を起こさずに考えた。今は何時か。半日ということは、もう夜中か。道理で人の声がしないわけだ。帰還してから半日も寝ていたというのは遺憾だ。だが柔らかい布団に包まれて寝ていられるのは気分が良い。森先生の心遣いが芯から有難い。雨が続いた空気はどうにも重いが、あの病室は不思議と不快感を感じなかった。そもそもあの場所から、どうやって帰還したのか。最後、自分は闇に呑まれたはずだが、あの時聞こえた鈴の音は萩原の持ち物だったのか。どうやってあの場所に辿り着いたのか。
 どれ程考えたとて、肝心の疑問には答えが出せそうになかった。本の中では、時折、思いがけないことが起こる。今回のことも恐らくはそれで、石川は偶然に救われたのだろう、と結論付けることにした。
 右腕は動かそうと思えば動かせたので、布団から抜き出し、顔の前に掲げて、手のひらを見た。指環は補修のために抜き取られたらしく、小指にあの光は見えない。相変わらず、決して綺麗とは言えない手だ。ましてこの手は、自らの小説の主人公を刺した手にもなった。
「……俺様の、手は」
 昔の口癖が口をついて出かけたと同時に、戸が動く音がして、すぐに布団を頭まで被った。戸が引かれ、閉まる音。音を大きく立てないように気遣わしげだ。森が戻ってきたのか、と考えつつ、石川は寝たふりを続ける。
 誰かは、森が引いて行った寝台周りのカーテンの外で、暫く静かだった。森が戻ってきたのであれば、診察台の椅子を引く音や、硝子戸を引く音がするだろう。見舞いに来たはいいものの、カーテンが閉まっており、静かなので、邪魔したものか迷っているように思えた。そんなことを気にするのは誰か。
(今一番気まずいのは……司書だな……)
 潜書の際は筆頭に携帯を義務付けられている連絡端末を部屋に忘れて来たこと、結局単独で無茶をして、半日も昏睡していたこと。それらがあの司書の目にどう映ったかは、石川も想像だにしたくなかった。他の者であればどうとでもいなせた気もしたが、司書に関しては始末が悪い。
 やがて、微かな衣擦れの音がする。カーテンをずらしたらしいが、頭まで被った布団のために、誰が覗いたのかはわからない。
「……」
 そのまま、じっとしている。いつしか根競べの様相を呈した。石川は布団の中が次第に熱く、息苦しくなってくるのに辛抱強く耐えながら、何故こんな思いをしてまで隠れなければならないのか、用があるならいっそ起こしてくれれば良いものを、と心中で盛んにまだ見ぬ来訪者を非難した。事実、北原や泉や高村なら、容赦なく布団を剥いだり、声をかけて揺さぶったりして、上手くフリを辞めるきっかけをくれるものだ。吉井や萩原、若山なら、ちょっと顔を見て、寝ていそうなら出直してくれる。そのどちらもせずに、じっとカーテン越しに様子を見て、石川が自らフリを辞めるのを待っているのは、悪い予想が当たっているとしか思えない。
「……っ」
 結局耐えかねて、どうせフリをやめるなら驚かしてやれと、石川は意を決して布団を大きく跳ね上げながら飛び起きた。すると思った通りの短い悲鳴。布団の向こうのカーテンは、驚いた拍子に閉まったのか、まだ少し揺れている。
「誰だ」
「……目を覚ましたんですね」
 そろ、とカーテンが開く。石川の本と、指環を収める小さな箱、それに紅の本を抱えて、司書が戸惑いと安堵がない交ぜになった表情で立っている。微笑ばかりの女を目論見通りに驚かしてやったことに小さな満足を得て、石川は寝台の上で胡坐をかき、「そんなとこに立ってねぇで、こっちに座れよ」と許した。
「御加減はいかがですか。補修は完了していますが」
 司書はいつものように、本を真っ先に手渡してくる。石川もいつものように受け取り、中をさっと確認して、定位置に押し込む。
「まだ起きたばっかだ。けど調子は悪くねぇよ」
「それは良かった。こちら、指環もご確認ください」
 石川は、受け取った箱を開ける時、一瞬躊躇した。開けると、室内灯でも良く光る紅の石が顔を見せる。その石を見た石川の頭に、最後に新太郎へ止めを刺すときに言ったことが想起され、
「……はぁ」
我知らず重い息を吐いていた。
「何かございましたか?」
「あ、いや、こっちじゃねえよ。……その本は?」
 箱の蓋を閉め、目で司書がまだ抱えている赤い本を見る。司書は、「浄化完了の確認が済みましたので、その報告を兼ねまして持参しました」と言いながら、表紙側を石川の前に置く。白いシーツの上に寝そべった『二筋の血』は、存在感が際立つ鮮やかな色をして、静かに本の形をしていた。
「……終わったんだな」
「ええ。親玉は石川さんが倒したのだろうと北原さんたちは仰っておりましたが……」
「確かに倒した……が、そっからの記憶が丸っきりねぇんだ。どうやって俺様が戻ってきたのかも」
 ああ、と、司書は頷き、石川が前後不覚に陥ってからのことを話した。何でも、石川が老婆に手を掴まれた後、諸共に地面に空いた黒々とした穴に落ちたのだという。北原たちも別々の穴に落とされ、バラバラにされて、霧の中をひたすら歩き回ったらしい。
「そこで、萩原さんが握っていた紅葉の鈴が、ひとりでに鳴り始めたと」
「なんだそりゃ」
「頻りに鳴った後、鈴についた水引の紐が伸び、ある方向を示したそうです。萩原さんがそれを辿って行き、泉さん、北原さんと合流。最後に、洋墨に沈みかけていた石川さんに辿り着いた、と」
 いくら潜書中は思いがけぬことがあると考えていても、流石に予想だにしていなかったことで、石川も眉根を詰めて疑った。司書が嘘をつく性格とも、また萩原がそうとも思えないとはいえ、俄かには信じがたい。
「一朝一夕に呑み込める話でないことは確かですが……とはいえその鈴も、元は尾崎さんが萩原さんに、迷子になった時に鳴らして居場所を知らせられるように持たせたものだと伺いました。もしかすると、本の中という抽象的な空間で、鈴が自らの役割を果たしたのかもしれませんね」
「……んなことある、か……? まぁ何でもある……っちゃあるか……描写で何でも作れるような世界だしな……」
「不思議なこともあるものです。ですがそのおかげで助かったのですから……尾崎さんにもよくよく、お礼を申し上げねばなりませんね」
「そうだな……それが無きゃ、俺様も今頃どうなってたか」
「……石川さん。再潜書の際にお伝えしたことは、お忘れではありませんでしたか?」
 思い出したかのように司書の声音が厳しくなる。それに関しては石川も即答で、「忘れてたわけじゃねえよ」と返すが、ばつが悪いのには変わりないので、顔を逸らしてしまう。
「連絡端末は」
「うぐ」
「……北原さんに伺いました。お部屋にお忘れだったんですね? 道理で、全く応答が無かったはずです。潜書時、稀に一切連絡できなくなる事象自体はありましたから、左程不自然とも思いはしませんでしたが……こちらも非常に危機感を覚えたのです。焦ったのですよ」
「悪かったって……」
「目を逸らさずに仰ってください」
 正論に打たれ、石川は物が言えなくなる。じり、じり、と少しずつ司書へ顔を向けると、あまり怯えた風なのが琴線に触れてか、司書はふっと小さく笑った。
「なんて顔をなさるんです。故意ではないことは分かっておりますから、どうか堂々となさってください。今回の浄化作戦は、石川さんの手によって完遂されたのですから」
「……まぁ……そっか。俺様の……浄化、ね……」
 話が潜書中の、特に最後の戦いに至ると、途端に石川の口が重くなる。司書は石川を見つめ、「気になることがありましたか」と敢えて促した。促しても何も言わない時は多く、少し前まではそういう傾向だったが、今は石川の表情も静かで、あまり誇張的でもない。石川は右手の平を無意識に見つめながら、零す。
「侵蝕者を倒す直前に、言っちまった。新太郎が、もっと人生面白くなるような小説を、書いてやるって」
「おや……改作、或いは続き、でしょうか?」
「まだ決めてねぇ。だがあいつ、こうも言ってやがったんだ。俺様が小説家、なんざ、おれだけは許さない、とかなんとか。そんなこと言ってたってのに……俺様が書こうと頑張ったとして」
 手を握る。あの時固く握り過ぎたせいか、痺れのようなものが残っていて、うまく力が入り切らない。
「侵蝕者は……新太郎のやつは、それを望むのか? 自分に止めを刺した奴になんか、書かれたくねぇって思うのが、普通じゃねぇか?」
「そうでしょうか。私にはそうは思えません」
 司書にしては返答が早い。「何でだよ」と石川が問えば、更に言葉を続ける。
「許さない、という言葉の起因となる感情は複数考えられます。名乗るに値しない実力に過ぎないため認められない、若しくは書く内容が未熟で、作家を名乗るには不足であるため認められない……ともあれ、発言者にとって、相手が何らかの部分で不足であり、見逃すことができないため、そのように言うものだと考えます」
「結構ずばずばいうよなお前。傷つくぜ」
「? 私はそのどれも、石川さんには当て嵌まらないものと思っておりますが」
「……本気で言ってんのか?」
「ええ。石川さんが眠っておられる間に、初めて読みましたが。私は、この小説を好みます」
 司書は、赤い本を取り上げ、胸に抱いた。
「幼少の頃に感じた哀切と温かさ……起こる出来事は悲劇で幕を閉じますが、決して冷たいだけの話ではありませんでした。むしろ、故郷という存在に根付いた温かさ、主人公の少年の純朴な心持ちで見る世界の鮮やかさ。そういった素敵なものを、思い出の中に蘇らせている」
 私には、故郷と言うものがありませんから、と、司書は笑む。
「人が過去や故郷や、懐かしい物事を思い出すときには、このように慈しみ、悲しむのだろうと思いました。こういったものが書けるのですから、私にとりましては、石川さんが小説の分野においても一定の能力を持ち合わせていることは明白です」
「…………」
「ですから、石川さんに許さないと言ったその方も……能力の不足というよりも、拗ねていたのではありませんか? 北原さんから伺いましたが、書き直しの構想があったとか。著者の構想を、登場人物が知れるのかはわかりませんが……もし分かっていたとするなら、その方も、長らく待っていたのかもしれません。石川さんが、再び筆を執ることを」
 石川は、拳を握ったまま、司書の胸に抱かれた赤い本をじっと見つめて、暫時何も言わずにいた。何か考えているようでも、ぼうっとしているようでもあり、司書も暫くはそのままで、じっとしていた。やがて秒針がぐるりと一周終える頃に、
「待ってる奴なんか、どこにも居ねぇと思ってた」
独り言ちる。
「本の中で、ずっとこいつは……本当に待ってた、かもしれねぇ、か」
 右手を、緩く開き、司書の方へ差し出す。司書はその手へ、赤い本を手渡した。石川は受け取った本を、膝の上で、そっと開いてやった。
『夢の様な幼少の時の追憶、喜びも悲みも罪のない事許り、それからそれと朧気に續いて、今になつては、皆、仄かな哀感の霞を隔てゝ麗かな子供芝居でも見る様に懐かしいのであるが、――』
「お読みになりますか」
 司書の言葉に、石川は本に視線を落としたまま頷いた。
「少しの間、借りる。読み終わったら、こっちで勝手に戻しておくのでいいか」
「問題ありません。それでは……私は退室します。明日も休養日としておきますので、ご自由にお過ごしくださいね。何かあれば遠慮なく、司書室へお越しください」
 司書は、物音も少なく退室した。また一人残された医務室で、石川は、久方ぶりに『二筋の血』と向き合った。頁をめくる手はいつになく丁寧で、文字を追う目は、子を見る親のように静かで、穏やかな眼差しを湛えていた。
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