「新太郎」

 目を開けると、白い。
「……どこだ、ここ」
 辺りを見回しても、白い。五里霧中のようだ。
 どの程度視界を遮られているのかと、腰の辺りに添えていた手の平を見下ろし、ぎくりとした。赤い。あの老婆に掴まれた形に、赤いものがべっとりと着いている。
「……」
 見なかったことにして、顔を上げた。老婆もいない。店主の亡骸も無い。仲間もいない。足はどこに着いているのか分からない。霧の中に浮いているような錯覚をするが、しかし体の重さはある。
「ここも、侵蝕者の野郎が勝手に作った空間……ってことか?」
 答えは無い。進むしかないようだ。石川はポケットを探った。銃は本に戻っている。指環も、封筒もある。本来もうひとつ収まっているはずだったものについて、石川は苦笑した。
「こんなことになるって分かってりゃあな。持ってきたのによ」
 忘れてきたものは、仕方がない。石川はひとりで、一歩進んだ。ぎし、と木の廊下を踏む音がした。
「お……」
 思うところありつつ、石川はなお進んだ。進みながら、考えた。侵蝕者による『書き直し』は、本来、桶屋で働く店主の男を中心とした、平和で何事も起こらない、風景写真のようなものだったのだろう、と。
 母親も健在だったということは、病もなかったことにしたのだろう。血に乗せて継がれるものは、志や後悔ばかりではなく、もっと肉体に根ざしたどうしようもない部分が大きい。自分の身に降りかかった不幸の根を全て断ち、何もかもが平和に終わる世界を描き出そうとしたのかもしれなかった。
「五ページもありゃ終わる話にしたかったってか」
 つまらぬ話だが、本人たちには切実だったろう。『二筋の血』の終わりには、病床に就いた新太郎の叫び出す嘆きと、拭い去れない虚無感が漂う。何もかも終わり、同じところには眠れず、皆バラバラで、隣に眠る人と交歓することもない。そういう、一度は考え始めて眠れなくなり、やがて答えも出さないままに通過せざるを得ない類の悲痛を、新太郎は抱えさせられたまま終わる。たまったものじゃなかった、はずだ。
「……だから、侵蝕なんて真似に手を出したか? 新太郎。そろそろ顔見せてくれたっていーんじゃねぇか」
 歩めど、歩めど、霧の中だ。霧は動くからどこかではあるようだが、判然としない。鬱屈をそのまま言葉にする。
「作者サマがここまで来てやってんだからよぉー。なぁーおい、新太郎よぉ」
『  騒がしい』
 空間に声が響いた。聞きなれぬ声は、まだ若い。石川は足を止めた。声が続く。
『こちらから出向けぬことは申し訳ない 何分肺を病んでおり 今朝も熱が高くまともに体も起こせぬのだ』
「……じゃあ、しょうがねえからそっちに行ってやるよ。どこに行きゃいいのか、案内しやがれ。そっちもどうせ、俺様に用があんだろ」
 すると風が吹く。霧が動き、ある方向へ流れていく。前方、石川の背を緩く押すので、石川はそちらへ引き続き歩いた。
「ご丁寧にどーも」



 やがてある一歩が、敷居を跨いだ。風が今度は逆向きに流れ始め、霧が背後へ押し流されていく。風向きは、石川の正面奥の大窓が開いていて、そこから吹く風に決められていた。古びた木の床、漆喰の塗られた壁はところどころ剥がれた広い部屋の中に、左右それぞれ四台ずつ、寝台が並ぶ。病室だった。空の寝台が並ぶ中に、人がいるのは一台だけだ。まともに体を起こせぬと仰々しく伝えて来た主に違いなかったが、言葉に反して上半身を起こし、俯いて石川を待っていた。派手な唐縮緬の振袖を着せられた木乃伊が、そこに座っているかのようだ。
「お前か。新太郎」
 清潔そうなシーツに包まれた掛布団に拘束された木乃伊は、徐に石川を向く。唇を僅かに舐めて湿らせ、『如何にも』と答えた直後、また大きく痰の絡んだ咳をするために背中を丸めた。近づいてはならぬと、今なら言われる病態の人間に、石川は敢えて歩み寄った。寝台の傍らまで近づいても、木乃伊の咳は続いた。振袖は胸元が緩く、襟から骨ばかりの肋骨が見える。
 新太郎は、猶も咳き込んだ。するとその背に、背骨の辺りから、黒い何かが湧き出す。
「っ!?」
 石川は咄嗟に本を変じて銃口を向けた。だが、新太郎の手が、ひらひらと、攻撃が不要であると告げる。背骨から湧き出す黒いものは、ぐにゃぐにゃと蠢いた後、小さな塊となって、新太郎の背中にびったりとへばりついた。腫瘍のようにも、赤子のようにも見えた。
『フー  嗚呼 この咳はたまらない 熱もそうだ これがあるせいで 一日何をすることも出来なくなる 以前の様に本を読むことも  手紙を書くことさえ』
「……」
『フ フフ  その封筒の差出人とて 最後の気力を振り絞り ようやく書いた 上手い字を書いたものだろう』
 石川は、ポケットの中に収まったままの封筒を意識した。本来の筋には無いものであるから、早く処分してしまう必要がある。だが持ってきたことを知られているなら、破ろうとした瞬間に阻止されるだろう。
「……どっかで見たことのある字だ、としか思わねぇよ」
『くは それはそうだろうとも』
 言葉こそ、普通に聞こえるが、ところどころの響きに違和感がある。異様な姿と言い、間違いなくこの新太郎が、侵蝕者――影の主であり、この物語を侵蝕する親玉だ。一対一で向き合う状況は危険だったが、未だどこからも仲間の気配はしない。そもそも、仲間がこの空間に辿り着いているのかどうかさえ、分からない。最悪の場合、石川一人で何とかしなくてはならない。無茶は決してしないようにと、言い含めた人間の顔がちらつく。
「お前の、目的は何だ。わざわざ書き直しなんかしやがって。お前の理想があるなら、一から書き始めちまえば良かっただろうが」
 新太郎は失笑した。笑うと身体が大袈裟に見える程震える。背中の影も、ゆさゆさと揺さぶられる。
『貴様は己の書いた小説の主人公に 自らの人生を一切否定し 自らを産み直せと言うのか』
「――……」
『貴様らしい考え方だ ぐ うぐ』
 また咳き込む。頻繁だ。口に当てた手から時折細かな赤い粒が、白いシーツに飛び散る。ふと、寝台の傍らにある卓台が目に入る。一輪挿しがひとつ、ぽつんと置かれているが、何も活けられていない。誰も、ここへは来ないのだ。
『くく だが貴様が己の人生を全く白紙からやり直すことができなかったように おれにも出来たとしてやらなかったことだろう』
 なぜなら、と、新太郎は口元から手を離した。唇の端から、手指の隙間から、血が垂れた。
『おれもまた おれの人生が愛おしく また一秒が惜しいのだ 短い命のために』
「……」
『だが貴様と違い おれの一生は ただ虚しいものに過ぎなかった』
 背中にこびり付いた影が蠢いた。新太郎は血の付いた手で、影を尻から支えてやり、身体を前後して揺さぶってやる。手を回すときに、長い長い袖がまとわりついて如何にも邪魔そうだった。それでふと、石川も気がついた。この新太郎が身につけている振袖は、佐藤藤野が着ていたもので、背中に生えた影というのも、先ほど女乞食の近くで始終泣いていた赤ん坊によく似た形である、と。
「お前、何をしたんだ。自分じゃない自分に、理想の人生を味わわせるために」
『聞きたいか 見れば分かるだろうに』
 正直、聞きたいような話でもなかった。だが、恐らくは石川自身が招いた事象とその余波の内容を、聞いておかなければならない気がしたのだ。新太郎は、石川の表情をじろじろと眺めまわした後、口角を上げた。
『佐藤藤野 藤野さん あのひと以上に美しいひとをおれは今になっても知らない あのひとをどう残しておこうとしても 必ずおれはあのひとを見つけ出すだろうという自負があった』
 あのひとは、世界で一番美しく、善きひとであったから、と、語る懐かし気な眼は何処か虚ろに夢を見ている。それがふと自嘲に歪んだ時、一層凄惨で残忍に変わる。
『だから 頭から喰らってやった』
「……」
『すると おれの身体に藤野さんの着物がまとわりついてきた これはいくら脱ごうとしたとて脱げぬのだ 最後の抵抗か或いは 藤野さんもおれを愚か者だと嘲っているのやもしれぬ』
 喉奥で、くくく、と笑う。その体を寝台に縛り付ける重さとして、振袖は確かに機能している。白昼程度の自然光で、無機質な病室に不似合いなほど、大輪の菊は鮮やかに見え、身に纏う枯れ木のような人物とのアンバランスさを際立たせていた。嘲っている、と見るのも、無理はないと思えるほどに。
『乞食の親子は難儀した なにせ 存在が必ずおれに過大なる影響を及ぼしたとは考えにくいが 間違いなく血の一筋を担う者であるから放っておくわけにもいかなかった』
「……見かけた、って、だけだろ。そのまま放置しても良かったんじゃねえか」
『否 血を継いではならない 一切!』
 新太郎の拳がシーツを殴った。軽い打撃にしかならない、弱々しい拳で、激情は慰められない。
『継げばおれになる 貴様の絶望したおれに!!』
「……」
『貴様はおれに絶望を託したのだ 学び読み書きうたいながら 何にもならぬ虚無を! 徒労を!! おれにすべて引っ被せたのだ それでいて再び失敗した!! こんな屈辱があってたまるか!! おれの生まれた意味は? こんな体に成り果てるために そのために生れて来なければならなかったというのか!!』
 背中の影が膨れ上がる。赤子と思えた大きさがぶくぶくと嵩を増し、新太郎のやせっぽちな体を圧迫し、寝台に押し付ける。新太郎はグゥと呻き、何もできずに潰されていく。御することができないらしい。
『こんな思いをしてまで子を守らねばならない母親の絶望と悲しみは海の底よりもなお深い!! 後ろ盾も失い傷ついた弱者を誰も救わぬ!! 惨めな身の上では最早守るべき赤ん坊さえ成すすべなく見殺しにする外ないのだ!! そのような光景を 幼き頃に見たおれが何を想ったと思う? なぜその乞食の女の面影を おれ自身の母の思い出と重ねなければならなかったと思う!!』
 影に潰されながら、まだ新太郎の拳は寝台を殴り続けた。ほとんど二つ折りになりながら、切り損ねた爪が手のひらの皮膚を破って、そこからまた赤い血を零しながら、新太郎は、
『貴様の家長としての苦しみだ 長男としての絶望だ!! そんなものを継いで何になる!! そんなものを放置できるものか!! 少なくとも子を持つ親の苦痛の顔を 子にありありと焼き印することがあってはならない!!』
病室の空気を震わせるほど、叫ぶ。喉を裂く勢いで、発声も呼吸も無理に行って、重責に潰されながら、今度は、ハハ、と笑う。
『だから苦痛に死ぬ前に 都合が良く気が弱く 有能な男を旦那に据えてやったのだ 貴様などとは似ても似つかぬ男を』
「……やっぱりあれは、俺様への当てつけかよ」
『ク クク どんな気分だった? かつて貴様がしたように 不義理を理由に無茶苦茶に 己の妻をやり込め苛めた気分は?』
 非情に、性格が悪い。だが、石川は責める気にもなれそうになかった。
「お陰様で、最悪の気分だ」
『そうだろう そうだろうなァ  ク、クク、クククク  』
 拳と、袖の模様と、笑い声だけを残し、肥大化した影の塊に、新太郎は殆んどのみ込まれた。寝台の上に、黒い大きな塊がごろりと転がっている、と形容する方が相応しい有様に、石川は口を閉ざす。言葉の代わりに、銃口を向け、
「……」
 一発撃った。だが、銃弾は影に飲み込まれただけで、何にもならない。貫通も、弾けも、揺らぎもしない。影に、石川の銃は、最初から今まで効かないままだ。
「……まだ、こっちは、試したことなかったな」
 石川はポケットに手を入れ、少し探った。やがて冷たい小さな指環に、指先が触れた時、
『貴様が刃とは片腹痛い』
首筋に、ひやりとしたものを感じた。
「……はぁ……?」
 卓台の上、壁に掛かった鏡がある。それに目をやると、石川の首筋の右側に、短い、光るもの――恐らく短刀と思しきものが、あてがわれている。その柄を握るのは、骨と皮ばかりの木乃伊の手。
「とんだマジックだな、どこで覚えたんだよ……新太郎」
『貴様に使いこなせまい そんなものはここに捨て 今すぐ何もせずに立ち去れ作者』
「それが本性か? 何もせずに立ち去るのは吝かじゃねえが、こいつをここに捨ててくってのは頂けねぇな」
『捨ててゆけ それが貴様のためだ石川啄木 貴様に刃は似合わぬ 不釣り合いで不格好で何もかも不足だ 貴様の性にも合うまい』
「……」
『妙な気は起こさぬ方が良い ここはおれの場所 おれはここからすべてを語るのだ おれがここで語ったことは全て 作中における本当となる だからこそあの世界は平穏無事となったのだ あと少しで完全に塗り変わり 全てが終わるところだったのだ』
「便利な能力だな、俺様にもくれよ」
『語ることがあるのであれば好きに語れば良い だが貴様の言葉は銃でこそ輝き そのためにこの場所では一切が無効となる』
 刃が、首に触れる。当たるだけでは切れない。これを前後何れかに素早く引けば、途端に皮膚に近い血管が切り裂かれる。幾ら文豪、外傷が即ち命の危機に繋がる訳でもないイキモノであると言えど、一気に多量の血を失えば、暫く動くことができなくなる。新太郎もどうやってか、それを知っているのだろう。
『選べ 刃を捨てて去りおれに後を譲るか ここで貴様の全てを捨て去るかを』
「……そんなもん、決まってんだろ」
 石川は、引きつった顔を無理に笑わせた。気で負けた方が、死ぬのだ。ここは、病室とは、そういう場所でもある。ポケットの中に突っ込んだままの指環を、指先だけで、小指の、なるたけ根元まで押し込み、
「俺様の刃で、何もかも取り戻すんだよ!!」
銃が刃に変わり切る前に、片足を軸にぐるりと右に回りながら、後ろ手で新太郎の腹の辺りと思わしき場所へ刺した。惜しくも刃が届く前に新太郎が退き、掠りもせずに終わる。石川も新太郎も互いに距離を取り、右手にそれぞれ、ナイフを握って、向かい合う。
『あくまでも貴様は拘るか そうまでして何故書く?』
「書いて、やりてぇことがあるからだ」
『やりたいこととは何だ? 書いたものを新聞や雑誌に掲載し評判を得 出版による印税を得ることか? それが貴様にとって如何に困難な道か まだ分からぬというか』
 新太郎は袖を振り乱し、姿勢低く、床を蹴って石川の足元までほとんど跳ぶように近づいた。病人とは思えぬ運動神経だ。振り上げられた銀光を危うく自らの刃で弾くものの、新太郎も今やただの人ではなく、弾かれたナイフをぐるりと手元で回して、先ほど石川がしたような逆手で石川の心臓を狙う。咄嗟にその細腕を横から拳で殴りつけて軌道を逸らし、今度は石川が、刃で新太郎の首を狙った。形状の関係で、新太郎よりも石川の方が僅かにリーチが短い。そのため殴る動きのために伸ばした腕を、新太郎の刃が深く切りつけ、
「ぐッ」
痛みに脂汗が滲む。骨まで断つつもりの容赦のなさを、やむなく身を引いて回避した。だが新太郎のナイフが執拗く、石川の隙を狙い続ける。時折視界に入る新太郎の目は、いよいよもって侵蝕者の目に近づいていた。あの店主の様に、いつ姿かたちから変わり果ててもおかしくない。
「お前はァッ!! 俺様に刃捨てさせて、どうしようってんだよ!! 銃でやるかどうかって話が、どう関係するって言うんだ!」
 苦し紛れに問いを投げかけると、新太郎は手を緩めずに、『何を言うかと思えば!!』と血を吐きながら答えた。
『刃という形状は 潜書者のうち 特に散文書きが用いるものと聞くぞ!!』
「っ……」
『貴様が 散文書きだと!? よしんば弓であれば許せたものを 貴様如きが刃を持つと見聞きしたその時から おれは貴様を許せなかった!! おれの人生を 虚無に浸した貴様が おれの人生ごと この作品を虚無に落とした貴様が!! 続きを書くと おれの人生を再びやり直そうと 書きながら 続けながら しかし放棄した貴様が!! 刃だと!?』
 ナイフが、石川の目の前で一閃した。危うく目を潰されるというところだった石川の、間近に新太郎が、血走った一対の目を寄せ、
『おれは おれだけは許さぬ!! 貴様を小説家などと 断じて認めてやるものか!!』
怒号を上げ、逆手でナイフを、石川の左肩に突き立てた。
「ぐあぁっ!!」
 激痛が走り、ナイフが抜かれた場所を反射的に抑えようとした右手の首に、ナイフが刺さる。痛み、そしてしびれが右手の先まで走る。脱力しきる前に強く刃のパーツを握ったため、幸い落とさずに済んだものの、手に力は入らなくなる。
『  フ フ  もう諦めろ 作者 おれとて貴様を殺したいわけではない』
 左の口角を引き攣らせ、右の眉を下げ、新太郎は気の毒そうに言って、血に濡れたナイフを下ろした。隙と見ようにも、石川の腕はまだ痛覚を失うことが出来ていない。痛みと続いた回避による息切れと、鳴り続ける警鐘を知りながら、新太郎から目を離さずにいるので精一杯だった。
『貴様には生んでもらった恩がある 何にもならぬ人生であっても おれはおれの人生が愛しかった』
「っ……、っ」
『貴様のためでもあるのだ 石川啄木 貴様は転生により第二の人生を歩み始めた であれば貴様はより良い人生を歩むべきだ 作家仲間に恵まれ いつ何時でも好きなように言葉を紡いで良い場所にいるのであれば』
「……お前に、何がっ……」
『そのために 貴様の小説は不要のものとして おれがすべて消し去ってやろう すべて平穏な世界に塗り変えた上で 幸せのうちに亡きものにしておいてやる』
 石川の視界が揺らぐ。世界が揺らぐのではなく、血を流しすぎたことによる昏倒が近い。前を見ていられなくなり、視界に床が映り込む。するといつの間にか床は黒々として、両足にも黒がまとわりついていた。それは寝台の上の影であると思ったが、洋墨のようにも見えた。
『案ずることは無い その方が貴様にとってしあわせだ 貴様の文学上の欠点 不足を指摘する隙が貴様にとっての小説であるのだから おれがそれを無かったことにしてやるのだ そうすれば貴様は詩人として より名高く 気高く昇り詰めることができるだろう』
 足から、膝まで、黒が上がってくる。粘性が高く、振り解けない。
『そのとき貴様はようやく 文豪と呼ばれるに相応しい文学者となれるに違いない』
「……っ!!」
 顔が、脳裏に浮かぶ。幾人もの顔が。石川啄木という作家に期待する、幾人もの顔が。
 作家になれと、鼓舞した声が。
 石川は、ナイフを強く、強く握った。小指に光る石を、手放さぬように、強く。
「……余計なお世話だよ、クソガキが……っ!!」
 そうして、強かに笑って見せた。歯を噛み締め、新太郎を睨み上げ、耳まで吊り上げるつもりで、笑ってやった。それを見て、新太郎は、
『そうか』
ざぶ、ざぶ、と黒の中を容易く近づいてきて、
『残念だ ならばここで死ね』
石川の胸に、ナイフを、柄まで深く刺した。
『哀れなる作者よ 可能性など 立ちはだかる現実の前には 蜃気楼に過ぎぬというのに』
 抜かれた所から噴き出した血に引っ張られて、石川は、黒に倒れた。





(……胸が、痛ぇ)
 肺に空いた穴に入り込んだ血が、喉にせり上げ、咳き込んで吐く。どうやら片方潰されたらしい。
(何も、見えねぇ)
 部屋を、洋墨が満たしてしまったのか。視界は真黒で、見回そうにも、身体が微動だにしない。
(なんだ、これ。俺、死ぬのか?)
 呼吸がままならない。喉から空気が洩れて抜ける音がするが、それも束の間のことで、痰が血と絡み気道を塞いだ。咳をし、血を吐いた。だがまだ絡む。石川は知っていた。これを繰り返した末に、人は喉に痰を詰まらせて死ぬのだと。
(ああ)
 奇妙なことに、安らかな気分が、どこかにいる。痛みと、呼吸の出来ない苦しさに頭がくらくらして、今にも意識を手放してしまいそうだというのに、心のどこかでは穏やかだった。
(この苦痛が、俺に、帰ってきた)
 なつかしい、と、思った。死にゆく身だ。何もかもに置いて行かれる病床から、何もかもを置いて行く身だ。世間は、何も関わりなく変わってゆく。石川啄木は、死んでゆく。それだけのことだった。
 だが、今ここで『この俺』が死んだならば、どうなる?
(――……)
 知ったことじゃない、と、言いたくとも言えそうもない。そこに楽があろうとも、そこには恐らく、『仕事』もない。
(――こころよく、我にはたらく仕事あれ……それを仕遂げて死なむと思ふ)
 こんな時に浮かぶのも歌なことに、自嘲した。そうして、
「仕遂げるまで、死ねるわけがねぇ……ッ!!」
最後のつもりで、死ぬ程、藻掻いた。動かぬ手足を無闇矢鱈にじたばたさせ、洋墨の海の中で、一筋の葦でも掴まぬものかと足掻いた。やがて指先が、何かに触れる。必死に手の中に握り込んだ、それが強い光を放ち、視界の黒を全て、白く塗り変えた。





 影に満たされた床が、割れる。
『何  !?』
 ヒビの隙間から、光が溢れ出す。新太郎はナイフを握り直したが、光に圧倒されて一歩引いた。その時、更に下から膨れるように亀裂が増え、割れて、零れ、影に呑まれたはずの青年が、
「残念、だったなァ……!!」
ゾンビのように――否、不死鳥の如き鮮やかさで、ふらつきながらも、立ち上がった。何が起こったのか、出で立ちも様変わりしている。纏った羽織は、熟し散りかける頃の、桜のごとくはためいて。
「どんだけ虐められようがなァ、そう簡単に降参する俺様じゃねェんだよ……!!」
 右手に刃を握り締め、石川啄木は、不敵に笑った。
 恐ろしいのは新太郎だ。確実に息の根を止めたと思った人間が、本当に眼前に立ち上がってきたのに狂乱し、
『どうやって 何故 何故だァァアア!!』
叫びながら再びナイフを振りかざして突進をかけた。足元の洋墨は石川の動きを鈍くする性質を持つ影であったが、石川は上半身の動きで新太郎の突進をいなした後、
「弾は届かなくても、こいつなら効くんだろ!!」
と、足元の影に刃を立てた。冷えきったゼラチンが割れていくように、影はさしたる抵抗もなく切れてゆき、石川の足が脱出出来るだけの隙間も容易に開いた。
『一度逃レタトコロデ!!』
 新太郎が手を妙な動きで振ると、病室を浸した影が再び流動性を取り戻す。大きく波打ち、寝台も一輪挿しも鏡でさえも飲み込み尽くし、壁に当たって高く波を打ち上げた様は海辺の如き光景だ。波はそのまま砂上の位置にいる人間ごと飲み込むべく迫った。新太郎も石川にナイフを向け、諸共に沈む構えを見せる。
『期待ガ何ダ! 可能性ガ何ダ!! ソンナモノデ生キラレルモノカ!! 生活ヲ忘レタ貴様二何ガ書ケル!! 何故マダ立チ上ガロウトスル!!』
 ナイフ同士の刃が、火花散るほど擦れ合う。石川はどれ程苦しかろうと、握った右手を決して開かなかった。闇の中で掴んだ光は、どこか紅葉の鈴にも似ていて、ともかく握っていれば何とかなると、確証もなく確信している。
「何でだろうなァ、俺様も、分からねぇよ」
 ナイフを押し返す。受けた傷はそのまま痛むが、今は妙に力が湧いた。
『グ、ウゥッ!!』
「けどなあ新太郎、お前が藤野に、あの懐中時計を渡された時、お前だって言葉にはならなくても、何かを思ったんじゃねえのか」
『グワァッ!!』
 ついに銀の光は弾かれた。自由になった石川は、そのまま自分の上に覆い被さる黒海にさえ、刃一本携えて駆け込んで行く。
「無駄になろうと、虚無だろうとよ!!」
 影に突き立てる。拳ごと押し込む。刃は、通る。
「あの時のお前の中に湧き出した感情は、お前を支える一筋になったはずだろ!!」
 海を斬る。切れたところからボロボロと崩れる影を、一刀両断に割いていく。
「お前を見た女の視線は、お前の足元を揺るがした不吉なものに過ぎなかったかもしれねぇが、」
 やがて刃は壁まで斬った。つまらぬ漆喰も切り裂いて、ハリボテの病室を内側から破ると、外は一面の靄の中だ。
 背後で両断された波の影が崩れ落ち、足元にぶちまけられたものが、壁の外まで流れ出す。それを踏みつけ、
「母親の眼差しに奮い立ったお前の心も、確かにあったはずだ!!」
弾かれて尻をつき、立ち上がれなくなった、腹の膨れた男の元まで真っ直ぐ向かう。
『クルナ ソンナモノハナイ!! オレ二 ソンナマブシクヒカル ヒトノココロナド!!』
 新太郎が足掻きで切っ先を向けてくる、それも弾いて、離させた。遠くの床に落ちて突き立つナイフを他所に、石川は這って逃げようとする新太郎の、長い長い袖を掴んで引き倒し、その上に馬乗りになる。
「こいつは、返すぜ」
 刃を新太郎の首筋に添えつつ、あの封筒をポケットから引き出して、新太郎の胸の上に落とした。宛先はぼやけて読めないはずだったが、見覚えのある名前が薄ら見える気がした。
「なあ新太郎よ。書かなかったから無ぇっていうなら、俺様が書いてやるよ」
『ウ ウゥ  』
「お前が書いたつまらねぇ上っ面の平穏なんかより、もっと面白ぇ人生を、お前に歩ませてやる。だからよ、期待して待っとけ」
 安心しろ、と、石川は、封筒ごと刺し貫いて、言った。
「もう何十年も待たせたりしねえから」



 封筒が、刃の刺さったところから急速に劣化し、塵となると、動かなくなった新太郎もまた、洋墨となって床に広がった。ただ一人残された石川は、ようやく訪れた静寂に息をつく。
「終わった、はずだが……」
 振り返ると、先程破った壁向こうの靄が見える。どうやらこの病室は異界にあるらしい。新太郎がどんな術を使ったのかは分からないままだが、作品を構成から書き直し、主人公も変えるという場に当たって、自分自身を作品から乖離させなくてはならなかったのかもしれない。もし仮説が当たっているのであれば、石川がいる場所は作品世界から離れた異界というわけであり。
「……帰れなくね? どうすんだ、これ。つか格好変わってるし何だこれ……分かんねぇことだらけだ」
 自分の体を包む衣裳は、妙に馴染むが覚えが無い。あの闇の中で何かを掴んでからのことだと思い出し、握ったままの右手を、そっと開いてみた。
 そこには、ほんの少しの砂があるばかり。
「……何だ。結局これかよ」
 ため息をつくと、正体が暴かれたせいか、瞬きひとつで元の格好に戻っていた。珍しくよく働いた短い刃と、小指に嵌めた指環の紅い石だけが、変わらず光っている。
 何が起きたかも分からず、ここを出る宛も無い。おまけにことが済んで気が抜けたのが悪く、座ったまま寝てしまえそうなほど疲れている。
「新太郎のやつ……帰り方ぐらい、どっかに書いとけよな」
 仕方のないことを言ったらいよいよ体に力が入らなくくなり、もう面倒くさくなって、洋墨の中に仰向けに倒れた。勢いよく倒れたので洋墨が飛び散る音がする。天井には埃の溜まった裸電球がひとつきり、線に繋がってぶら下がっている。
「あー……怠……すげぇ疲れたな……ここで暫く寝てていーかぁ……?」
 無論、浄化が本当に完了しているのであれば、なるべく早く帰還せねばならない。だが連絡手段も忘れてきた石川は、どこから帰還したものか知れない。知るためにはこの異界を出なければならないが、疲れた頭では何も考えられそうにない。
 目を閉じた。すると再び闇が覆う。闇の中へ、落ちていくような感覚がする。体が浸った洋墨が、段々せり上がり、腕や、胸や、顎や、鼻先まで、浸していくような錯覚をする。
「……書かなきゃ、なんねー、のに、な……」
 もう、指先一つ、動かせない。





『  め』

『 じめ』

『──はじめ』




 優しい声が、何事かを言う。
 ちりり、と、鈴の音がした。
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