「新太郎」

「終わったのかな、侵蝕は」
 若松の並木を後にした石川達は、林を離れ、村まで続く通りの上に戻ってきた。道中でふと日差しや陽炎が停止し、通りに戻るといよいよ分かりやすく、世界が完全に停止している。それで萩原が、空を仰ぎながら口にした。もちろん、疑い混じりの言葉であるのは、空に未だ文字の雲が浮かんでいることで、他の三人にも知れている。
「次のシーンへ移行する気配が無いということは、このシーンのどこかに侵蝕が残っているのでしょうか」
「或いは、行き先がねぇか、だ」
 石川は村の方を見遥かした。久方ぶりに遠くに見る岩手山は、すべてが停止し色を失った世界でも、長閑に広々として、一行を見守っている。
「朔太郎君、あの手紙はもっているね?」
「あっ、そうだった。はい、先生!」
 萩原はすぐに袂を探った。ちりちりと忙しなく鈴の音を鳴らしてから、ずるりと、服を乱しながら封筒を引っ張り出して、北原に両手で手渡した。北原は取り出した便箋を開き、息を吸う。



『友よ
 学を修め故郷へ錦を飾る君に、最大かつ素直な祝辞を述べたいと思ふ。君を思ふと、笑ふも泣くも罪なかりき昔が物悲しい許り。君は覚えてゐるか、あの頃泥中に咲き、儚くも人の作りし水車に搗かれて潰れた悲しき蓮のありしを。■■さんは君にも笑いかけて呉れたらうが、かのなつかしい温情に拠て我が目は開き、文字を学ぶ喜びをも知り得たのは、実に我ばかりと信じてゐる。それに、君は覚えてゐるか。高島先生が皆の目を見て、乞食にひどい真似をしてはいけないとお話されたことを。実は私は乞食の母子に会つていて、それを受けてお話されたのだ。私は決して石など投げなかつたが、乞食の母子は悲哀に満ちていた。そこでお願いだ。どうか家族を大切にされよ。かつての同輩に会ったときにはどうか「奴は大変元気」とばかり伝えて下さい。』



「うん。つながりも悪くなさそうだ。少なくとも、女乞食のシーンは浄化が完了した……と見て良いだろうね、啄木?」
 便箋を折り畳み、封筒に収め、北原は石川に手渡した。
「なんで俺様に」
「君が持っているべきだ」
 石川は黙って受け取った。封筒の差出人には『檜沢新太郎』と書かれている。
「ああ。そっちは、良いんだろうな」
「だが、浄化は終わらない。終わったのなら……司書さんからの連絡もあるだろうけど」
 北原が目を遣ると、石川は逆方向を見た。泉は不審げに顔をしかめる。
「そういえば、石川さん。ここに来てから一度も、司書さんたちとの連絡を取っている所を見ませんでしたが、僕の知らぬところで連携していたのですか?」
 石川は泉からも視線を逃がした。だが今度はそちらへ北原が、笑みで回り込み、石川は頬を引きつらせて、やがて観念した。
「……置いてきた」
「はい? ……もう一度仰ってください」
「置いてきた。二回目は、忘れてきた」
「どこに?」
「……部屋に」
「…………はぁっ……」
 泉の心底のため息は重い。北原は逃げる石川の顎を捕まえて、「君という奴はまったく」と、広い額をもう片方の手でぺちんと打った。
「いって、悪かったって!」
「悪かったどころではないよ、全く。今回君は信じられないことばかりして。司書さんに直接、しっかり怒られなさい。全て無事に終わったらね」
「へーい……」
 萩原はくすくす笑った。戦闘の傷はそれぞれそれなりに負っているが、それでも一行の間に漂う雰囲気はむしろ、はじめよりも穏やかなものになっている。灰色に固まった世界で、四人だけが鮮やかだった。
 ――否、四人と、石川の手に収まった封筒だけは。
「……この先のことだが。シーンを進める方法に、心当たりがある。聞くか?」
 封筒を握り、石川が口を開いた。無論、三人とも石川の周囲を囲う。
「心当たり、というのは」
「今の『二筋の血』は、主人公が手紙を書いて、その中身に書いてあることを回想するって形式になってるって、前に言ったよな」
「うん。それで、その手紙が、その封筒の中身……」
「だから、啄木が書き加えた記述を手掛かりにして、過去へ戻り、侵蝕によって無かったことにされていたエピソードを浄化することで、手紙の内容の欠けた部分を補ってきたのだったね」
「そうだ。で、大きな話は二つとも、『あったこと』になった。そうしたら次のシーン……つまり、この場合は、時間軸で言う現在に、戻るはずだが」
「何故か、戻らない。ですね。これを進めるのに必要なことが、足りていないのでしょう」
 石川は、「足りてねぇのはこれだ」と、三人の前に封筒を、裏返して突き出した。萩原は、書かれてある新太郎の名前をまじまじと見つめる。
「……何が、足りないの? 数字がひとつ足りない?」
「そんなんじゃねえ。お前ら……これは俺様の仮定に過ぎねぇが。そもそもこの話から、『新太郎』がいなくなってるっつったら、つじつまが合うと思わねぇか?」
「まさか」
 泉は片手で口元を覆った。「先程も、新太郎さんがいたではありませんか。まさか、あの子は全く関係のない、村の子どもだったとでも?」
「主人公格に据えられた、仮の登場人物、ってとこだろうな。あいつは新太じゃねえ……侵蝕者の野郎に用意された、仮想人格だ」
「……なるほど」
 北原は石川を見直した。
「君がこれまで頑なに、あの子を新太と呼ばなかったのは、そういうことか。いつから気付いていたんだい」
「気づいてはなかった。……なんとなく呼べなかったんだ。最初はただの心境の問題だと思ってたが、佐藤藤野の話の途中、あいつに時計の玩具を渡すときになんとなく思った。あいつ、ふざけてるような態度のくせして、ずっと素直過ぎたんだ」
「ならばそれをなぜもっと早く、僕たちに伝えなかったのです」
「確信がなかったんだよ。話が進まなくなってようやくってところだ……言わなかったの自体は謝罪するが、それで実際はちゃんと新太でしたなんて言ったら、お笑い草だろ? 作者サマがよ」
「新太に、侵蝕者がとりついてる、ってわけでもないの? 石川君……それともあの子が、侵蝕者の本体……影の主?」
 それぞれ戸惑いながら、封筒に書かれた『新太郎』の文字を見下ろした。石川が言いだしてから、小筆で書かれたと思しき墨文字が、怯えた子どものごとく、僅かに震えている。
「まだ分からねぇが……とりついてる、の方が、近いのかもな」
「啄木。予想でも構わない。全部話してくれないか。ここには侵蝕者もいないようだが、次のシーンに進めば終盤だ。ゆっくり話していられる余裕がなくなるかもしれない」
 石川は、一度、深く息を吸って、吐いた。北原のいうことは全く理に適っており、拒む方が無理がある。
「この封筒の差出人は、侵蝕者が書き換えた。自分の一生に絶望した侵蝕者が、仮初の人格に人生をやり直させて、無学な田舎者が平凡に、好都合に生きていられるだけの話にしようとして、俺様たちみてぇなのに邪魔されねぇように、本当は仮想人格が書いた手紙の差出人を、念のため……自分の名前に、しておいたんだろ」
「……つまり、侵蝕者の正体は」
 石川は、空いていた片手で、封筒の差出人を撫でた。
「新太郎だ」
 文字が掻き消える、と同時に、止まっていた世界へ、一陣、風が吹き抜けた。盛岡の方から渋民の村へ向かう風が、一行も巻き込み、一瞬吹き飛ばされそうなほど煽られて目も開けていられなくなる。萩原の「おわぁぁああ」という声だけが、風に紛れてなお聞こえた。





 目を開ける。すると世界は、見覚えのある姿を晒した。聳え立つ、なだらかに裾野を広げた母なる山、大いなる岩手山が、過去からの帰還者たちを穏やかに迎えている。白昼、青く抜けた空の下。そこは渋民、ふるい故郷の地に続く、道の上。靴底が踏む砂利道は狭く、正面に延びていて、薄ら轍が残っている。その行先を遠く見やれば、道の向こうに煙が立つ、微かに人の声もする、行ったばかりの馬車の車輪が砂利を踏む音もする。
 最初に石川と北原が降り立った道上に、戻ってきたのだ。だが、時間帯だけが変っている。日は低い位置にあり、夕暮れが近い。
「ここから物語が開始されたんだ。再開もまた、ここからになるのは、ある種の道理か」
 北原は、萩原の腕をがっちりと掴んでいる。萩原はひどく髪や袖を暴れ放題にしていて、何故か北原が掴んでいない方の手に、鈴のついた筆入れを握っている。
「今回は、皆さん揃って同じところに来られましたね」
 裾や襟元を整え、つむじ風に混じって絡んだ土埃を丁寧にはたき落としながら、泉も言った。表情はまだ少し固いが、気にしないように努めているように見受けられ、石川は泉の方に手を置いた。泉は「馴れ馴れしいですよ」と叩く仕草だけしたが、本当に叩き落としはしなかった。
「っし、無事にシーンが移ったな」
 赤く色づいた世界に、もう一度風が吹く。石川達の背中を、村の方へと押し出す風だ。
「はじめに、戻るか。桶屋の主人に、直談判だ」
1/4ページ
スキ