「母子」
『まったく、災難だった』
潜書し降り立った場所は、先ほど帰還したあの木立の中だった。少し離れた所に件の小屋もあり、続きからであることは誰の目にも明らかだ。じわりと汗ばむ真夏の炎天下で、気の毒にも扉は壊れて開きっぱなしだ。窓に近寄り、よく耳を澄ませていると、男と女の声がする。
『まさか、この何もない家に盗人が入るとは。仕事道具の一つも置いていけば、お前が襲われずに済んだかもわからない。すまないことをした。折角、平穏を約束したばかりだというのに』
『いえ、この子も無事です、私も……あなたが帰ってくれて良かった……』
石川は窓を覗いた。すると男の目が見え、咄嗟に頭を下げて息を殺す。
『……どうかしましたか?』
『今、そこの窓に……』
男の訝しげな声を、赤ん坊の泣き声が遮った。二人は赤ん坊にかかりきりになったようで、辛うじて、窓の外を怪しまれずに済んだ。
「……良かった。無事、みたいだ」
萩原がぼそりと呟いた後、はっと息をのんで、石川の様子を伺い、深く俯く。まだ気にしているらしい。石川は、しょうがないと言わんばかりに肩を竦め、萩原の隣ににじり寄った。もちろん萩原の向こうには北原がいて、どこにも逃げられないように、黙って壁の役割をしてくれる。
「う、……」
「萩原」
「石川く、さ、さっきはごめん……自分も敵から攻撃を受けていて、気が立っていたみたいで、それで」
「お前が止めてくれなきゃ、目ぇ覚めなかったろーから。ありがとな。それと、悪かった。謝罪させてくれ」
素直な謝罪に目を白黒させた萩原は、ふらついて壁に頭を打ち付けそうになった。北原の手に後頭部を支えられながら、「ああ、うう」などとひとしきり呻いた後、
「……よ、良かった、のかな。石川君、改心はしてくれたんだ……」
と、少し混乱しながら胸を撫で下ろした。
「改めたかどうかは……正直、別だぜ? 何しろ、あの女にはどっちにしたって、乞食に戻ってもらわなきゃ始まらねぇんだから」
「それでも……やっと、いつもの石川君と話せる気がする」
「今の俺様は、ちったぁマシな顔してるか?」
萩原は頷いた。「やってやっても良いか、って顔をしてる」
「お二人共、仲直りが済んだのなら、それ以上の話は後にしましょう」
小屋の内側に絶えず注意し続けていた泉は、手で誰かを、自分の隣から窓を覗くように招いた。
「あの男、先ほど小屋を出て行った男と同一人物ですよね」
招く手に従い、萩原が覗き、「うん」と言った。
「あの服や靴、間違いないよ」
「あの男はいったい誰なんでしょうか。侵蝕者が、本来の筋に存在しない役を勝手に作り出す例は存在しますが、その場合は侵蝕者自身が成りすましているものです。あれからはやはり、穢れの匂いがしない」
「それは僕も不思議でした……まるで、最初からこの世界にいたみたい……」
萩原も首を捻り、泉も腰を落としながら顎に緩く曲げた指を当てて考え込む。石川も再度慎重に覗いてみると、ようやく泣きやみつつある赤ん坊をあやしながら、男は幸せそうに笑っていた。赤ん坊を抱く女も微笑している。先程男は『平穏を約束した』と言っていたのが、石川の考えに引っかかっている。
「……啄木。この物語に、あの男らしき登場人物はいなかったね?」
北原は一度も窓を覗かないが、不意に言った。
「ああ、いなかった」
「それでいて、侵蝕者でもない。ならば考えられるのはもう一つのパターン。啄木の書いた、別の作品の登場人物」
「別の作品?」
萩原は北原の隣にしゃがみこんで、興味深そうに顔を近づけた。
「どういうことですか?」
「何、本来いたわけでもないのによく世界観に馴染めていて、侵蝕者でもないなら、同じ空気感を共有する場所にいた男であるかもしれないと考えたまでのことだよ。作品世界はしばしば、別の世界とつながることもあるから」
「なるほど……」
「というわけだ、啄木。心当たりはないかい? 君の作品で、ああいう男が登場する物語はあったかな」
石川は腕組みをし、眉間に渓谷のような皺を作って唸る。
「男なんざいくらでもいるんだが、ああいう男となると咄嗟には思いつかねえよ」
「おや、そうか。では目論見は外れたかな」
「いや、俺様も同じようなことは考えてた。とはいえ、実際どっかから連れてこられたにせよ、この世界にとっちゃ本来異物なのは間違いねぇ。やっぱあいつを使って、何とかするっきゃねえな」
乞食の女を拾い、平穏を約束した男。女は赤ん坊を連れているが、夫であるはずの男の姿はない。どこかの作品世界と繋がり、今小屋にいる男が連れてこられたとするならば、近しい境遇を辿った男がいるはずだった。だが、一体どの話か。考えるが、まだ靄の晴れ切らない頭に、あまり読み返してこなかった小説の登場人物は姿を見せようとしない。石川は頭を抱え、
「うー、お前ら覚えねぇか? 俺様の小説だ、多分。なんかあーいう男がいたやつに、見覚えとか……あるわけなくても覚えてねぇかー……?」
煮詰まってきて助けを求めた。北原は呆れ返って、「君に覚えがないのに一体誰が」と言いかけた時、
「『病院の窓』……」
萩原が口の中で呟いた。北原がすぐに萩原の口元へ耳を寄せ、「もう一度」と促したせいで、萩原は狼狽し何度か言葉がもつれた。
「『病院の窓』、って作品が、あったような、と思ったんです……確か主人公の、野村という男が、乞食の夫婦と……い、石川君。どうしてそんな目でこっちを見るの?」
頭を押さえる手も忘れ、石川は呆然と、萩原を見た。熱風が頬を掠める。
「……お前、ひょっとして俺様の小説、読んだのか?」
「え、……うん。読んだよ……転生してから、だけどね……」
「……」
石川の胸中に、一瞬、近頃無かったほどの言葉と、衝動が湧き出して、溢れかけた。舌先まで伸びた疑問符付きの一言は、枯れかけていた唾液にもつれて引っかかり、喉から音になり損なった風が抜けるだけ抜けていき、
「……いや、なんでもない」
何も言えずに、恥ずかしがった萩原の真似をして、顔を逸らした。
泉は小首を傾げたが、萩原に向き直り、「その野村という男が、あの男に近いのですね」と確かめる。萩原は「多分」と、こくんと頷いた。
「なるほど。であれば、あの男には本来の世界に帰って頂くのが良いでしょう。別の作品との境目を探し……」
「……んなことはしなくていい」
口元を片手で覆っている石川は、小屋の壁に背中を預けて正面の木立を睨みながら続けた。先程から吹き出した風に揺れて、ざわざわと、木々が頻りに騒々しい。
「『病院の窓』が侵蝕されたって話があれば司書が話したはずだ。言わなかったってことはあっちは無事だ。あの男が本当に野村かどうかは確かめられねぇが、萩原の言う通り確かに状況が似てる。……つまり」
小屋の中からは、男と女の歓談が漏れ聞こえる。平和で、穏やかに、これから家族になろうとする、歓楽の声だ。
「ここを、『野村の過去』にしちまえば良い、ってわけだ。神社じゃねぇが、見立てりゃ良い」
ああ、残酷なことを言った、と、石川は胸に哀しく刺さった痛みを思った。恐らく今これを共有できるのは、萩原ぐらいのものなのだろう。
「オウオウテメェ、いい度胸じゃあねェか、アァ!?」
フードを深く被った石川は、小屋の扉を殴りつけながら、怒号を男女に投げつけた。二人は身を寄せ合い、突然の闖入者に悲鳴を上げたりして、卓を挟んで石川と向かい合う。女は赤ん坊を抱き込み、男の陰に隠れた。男は女を守ろうと、体躯を盾として立ち塞がる。
「お、お、お前は一体!」
「そこの女の、夫だよ」
なるべく低く、怒りを乗せて答えた。本来髭面の男であるはずで、外見は描写で繕ってはいるが、気を抜けば矛盾が出る。
「夫の知らぬところで密通か。知らなかったで通らんぞ」
「なっ、お前が夫だなどと、そんなことを信じるものか」
「馬鹿なことを言いやがって、テメェと嬶が俺の見ないところで文通してたのも知ってんだぞ。俺は二度と手紙など寄越すなと言ったのに、そこの嬶は俺に黙ってついにこんな所まで逃げてきやがった!」
卓を殴りつける。細かな設定などろくに考えていなかったのに、なぜだか妙にすんなりと言葉や手が出る。苦味が引っかかった喉元が煩わしく、吐き出そうと声を出せば全てががなり声となって、何故か特に、男よりも女の方を打ち付ける。
「もし今度手紙を見つけた時には離縁だと言ったが、そこの嬶は書類を書く前に逃げ出しやがった。だからここまで追ってきたんだ。まさか不義の男の面まで拝めるとはな? どうだテメェ、人の嬶を犯した味は? 楽しかったろう、さぞ愉快だったことだろう! あ、どうだ? この腰抜け! 守ると言うなら守って見せろ、貴様の方が罪人だがな!!」
「っ、あ、貴方、違うの」
女が乗ってきた。否、状況に合わされたのだろう。石川は眉を歪めた。ふと視界に入った窓に映る赤いフードの男は、その面までが朱に染まった、物凄い表情をしている。
「う、あ」
男は──『野村』は、気が弱い男だ。石川に責め立てられると、当初の気迫はどこかへ吹き飛び、女を壁へ押しやりながら後退りをし始めていることに気づいていない。顔はわななき、手は震え、目が泳いで焦点が合わない。女の叫んだ「貴方」が、決め手となったようだ。
「あ、ああああ!!」
男は情けない悲鳴をあげた。女がたまらずにすがりつこうとしたが、それも無理に腕を振り回して払いのける。男が頼りにならず、怒り心頭の夫が目の前に立ち塞がるともなれば、赤ん坊を抱いた母親はもうじっとしているわけにいかない。ちらと男を、悲しげに見て、女は赤ん坊をきつく抱きしめ、石川の立つ出入口の方へと突進した。
「お前、待て!」
石川は敢えて、咄嗟にやった風に身を逸らし、女を通した。外へ駆け出すのを少し追いかけ、戸口を出たあたりで立ち止まり、走っていく痩身の背を見送る。女は裸足のままで、この暑い、熱い地面の上を、石川から逃げ出すために一散に。
「何もそんなに逃げなくたっていいじゃねえか……」
「石川君……」
身を隠していたはずの萩原が飛び出してきて、石川の傍に立った。手を伸ばし、石川の頭に被さったフードを外してやる。
「外まで聞こえていたよ……あれで、良かったの?」
「……ああ、良かった。目論見は成功、あとはあの女を追っかけるだけだ」
「……石川君、辛かったろう」
緩慢に、石川は萩原を向いた。口角はやや上がったまま貼り付いている。
「一瞬、本気で気が違うかと思った。あの女も、そうなったと思うか? 萩原。どう思う?」
「……自分には分からないよ」
背後から、男の喚く声が聞こえる。
「罪人、ああ、俺は罪人か? 神様! 神様……!」
「……」
様子を見てか、北原と泉も静かに来た。泉は冷ややかに、「でっちあげにしては克明でしたね。身に覚えが?」などと言い、北原は知らぬ存ぜぬで、女の走っていった方を眺める。
「傷を負わせなかったようだけど」
「……やってけば、なるようになる。行く先はどうせ同じ場所だ」
石川が先に立って行こうとしたのを、泉が「彼は良いのですか?」と袖を引いて止めた。ああ、うう、と慟哭する男を、石川は一瞥したが、
「いいんだよ」
「しかし、あのままでは」
「あいつの辿った本当の筋でも、あいつを慰めたやつなんかいなかったが、生きてそのうち窓を覗く。だからいいんだよ」
「……」
「行くぞ」
後はもう振り返らない。萩原と北原も後に続いた。泉は少し小屋を気にしたが、やがて頭を振り、仲間の後を追いかけた。
誰もいなくなった小屋の、壊れた扉の向こうで、男の声はしばらく続いた。
女は走っていた。石を踏み、高い夏草で足や脛に幾つもの傷を作りながら、ともかく自分と子を害するものから逃げるために走っていた。
無我夢中だった。蝉時雨に混ざる、車輪が石を砕く固い音にも気づかぬ程。
「アッ」
石に蹴躓いて、せめて赤ん坊を下敷きにせぬようにと咄嗟に身を捻り、半身を砂利にすり下ろされながら地面に転がる。赤ん坊が泣く、その頭の上を、何かが凄まじい速さで通過した。危うく青黒い刃が、赤ん坊の首を刈り取るところだった。
「う、ゥ」
女はもう動けないほど全身を痛めつけられており、赤ん坊を抱き込んで自分の身を盾にした。着物が綻び、破れ、汗ばんだ体に土が染みる。まだ頭に傷はないが、満身創痍であるのは最早疑いない。そこへ真っ直ぐに、車輪の激しく回る音が近づいてくる。幾つもの足が力強く大地を駆ける足音も、また同様に。
それは四頭の、青い馬に引かせた、禍々しい霊柩馬車の姿をしている。この炎天下にひやりとした風が、女の髪を逆撫でて行く。馬車の先頭に立った陰気な御者が、行く手に寝転ぶ邪魔な乞食を殺気混じりに睨み据えた。鞭が打たれ、馬が嘶き、前足を振り上げる。最早立ち上がることも出来ない女の腕の中で、赤子がけたたましく泣いていた。
ドン、と低き底に響く音がして、御者の頭に穴が空く。馬は嘶き、道を逸れた。車輪が石にかかり、砕けた石の破片が飛び散り、そのうち大きく鋭いものが、女の額に飛んだ。
「ウッ」
額を打たれた女は、がくりと地面に頭を落とし、気を失ってか動かなくなる。赤ん坊だけが、母親の腕に守られながら、尚もぎゃあぎゃあと泣いている。
車輪となっている巨大な歯車は止まった。馬の青い外皮がずるりと剥がれ落ち、骨が剥き出しになる。霊柩馬車から飛び出した白布の亡霊が、馬車の主である御者を取り巻いた。その御者は、頭を撃ち抜かれたというのに、帽子の下の青い目を、下手人たちへぎろりと向けた。
「やっぱり、このぐらいじゃ倒れないね」
萩原は銃を構え直した。御者の指示で向かってくる亡霊たちを、北原の両手から放たれた銃弾が牽制する。
「通称、死の渇望……死神の侵蝕者か。頭に当たるのに牽制で終わるというのは毎度のことだが不快だね。やはり侵蝕者本体、核を狙わなければだめだということかな」
亡霊が飛び回る、それを連射で打ち払い、手近なものは蹴飛ばした石川は目を凝らし、霊柩馬車を指さした。
「おいお前ら、見えるか。奴の馬車にガキが乗ってる」
御者の鞭が鋭く鳴り、それを合図に白布が飛びかかる。軌道が読みにくく、一発が重い銃弾は外れやすい。泉が前に立ち、飛んでくるものを横一線に薙ぎ払った。何匹かがはらはらと破れ落ち、その向こうに馬車の窓が見える。洋墨の掠れに濁った向こうに、子どもが転がされているのが見えた。それは一見して分かりにくかったが、
「あれは、新太郎さん!?」
近づけば亡霊が増える。女の傍からは離れぬようにしつつ距離を取り、一行は死角を潰すために背中を仲間に預けた。石川は引き攣った口角を上げ、ひっきりなしに飛び交う亡霊を時折撃ち抜く。
「本来乗ってくる予定だった荷馬車に取り憑いて、侵蝕者にしちまったってところだろうな。あの侵蝕者も、馬車曳の爺に取り憑いてたりするか?」
「だとしたら厄介だが、容赦はできそうにないね」
北原は銃身で、亡霊の攻撃や御者の鞭を防ぎつつ、常に馬車を睨むことを忘れない。核は普通の場所になく、また点在している。それでいてこの侵蝕者は殺意が高く、数と威力の両方で攻め立ててくる、非常に強力なものだ。何故こんなものが、とは、流石の石川も今は考えなかった。
「爺はどうにでもなるが、ガキはそうはいかねぇな。助け出すか、さっさと倒しちまうかだ」
「確か、あの馬それぞれの肋骨の中に一つずつ。それと御者のどこかにひとつ、でしたね」
萩原がよく狙って撃った銃弾が、亡霊を何匹も撃ち抜き、なおも馬車へ向かった。それが馬に届く前に、鞭が両断する。馬はおぞましい嘶きを上げ、地面をカツカツと頻りに蹴散らした。それに呼ばれ、青黒い影から、人影が生える。嫉妬に己の身を燃やし続ける男が、ぎりぎりと歯軋りをして、八つ当たりのように腕を振り炎を放った。女へ届く前に石川が幾つか撃ったが、軌道を外れたものは近くの木に燃え移り、木は見る間に燃え上がって塵となる。
「チッ、この辺一帯燃やしちまう気かよ」
「ただでさえ暑いと言うのに、これでは傷よりも先に熱中症で倒れてしまいますよ」
「向こうは暑さを感じないのだろうねぇ、こればかりは少し羨ましいな」
泉の剣戟で僅か、亡霊の波が引く。馬車からは、今まで運んできた死者の数だけ亡霊が湧き出し、彼らが纏う布にまで炎が移り始めた。亡霊たちが無軌道に飛び回ると木々に火の粉が散り移る。次第に、先の村での戦闘時に近く、燃え盛る炎の中での戦いを強いられていく。
「あっちぃ!! 馬鹿かよ!!」
罵倒に乗せて撃ちまくる弾は一定の効果を発揮した。少なくとも石川の早撃ちと泉の刃のために、一定の範囲内より内側に敵は入ってこられない。だが汗が噴き出し、目に染みて、萩原が目を擦る間に間近にまで嫉妬の男が迫り、
「朔太郎君!」
辛うじて北原が退けた。
「ありがとうございます、先生っ……う、炎が眩しい……ううん、これは太陽……?」
萩原が混乱するのも無理はない。時間の経過とともに、日陰が減っている。
「奴らはいよいよ、僕らを焼き殺す算段のようだ。なにか手を考えなくてはならないよ、筆頭」
滅多に乱れない北原の衣装も、汗と連戦で大きく乱れ、額や頬に汗が伝い落ちるのを拭うことも出来ない。悠々とした御者は低く笑い声を立て、四頭の馬に鞭を打った。
「危ない!」
泉は咄嗟に、女の腕から這い出しかけた赤ん坊を抱き抱えた。北原も女を抱え、危ういところで馬車の突進を避ける。通りすがりに馬車の中で、気を失ってぐったりしている様子の子どもが、揺れに翻弄されて窓にしこたま足をぶつけた。それでも泣き声ひとつ上げない辺り、余程深い昏睡らしい。
「チッ、意味がわからねぇ」
石川はすかさず御者へ銃を向けたが、弾は御者の左胸を撃ち抜いてもまだ止まらない。風穴を空けたまま、手綱を捌き、燃え落ちた木々の滓を轢き殺しながら、無理な軌道で再び石川たちへ馬車を差し向ける。北原が避けた先に、嫉妬の男がぬぅっと立ち塞がり、炎を構えた腕で直接北原を殴打した。
「やってくれる」
ふらりと揺れた北原は、片頬を吊り上げ、片足で地面を強く踏んだ。女を小脇に抱えたまま、片手で銃を振り、男の頬を殴り、返す動きで顎を砕き、鳩尾に直接銃を撃ち込む。嫉妬の男が悲鳴すらあげられずに消滅するのを見た石川は、一抹の恐怖を込めて口笛をひとつ。
「白秋センセイ、怖ぇー」
「当然なのだよ。さて啄木……この侵蝕者の意図は、そろそろ読めたかい」
女を抱えたままでは戦えない。まだ燃えていない木陰に寝かせ、北原は馬車に向かって立った。御者の視線は憎悪に満ちて、国民詩人たる北原を捉えている。その北原の隣に立ち、石川は銃に弾を込め直した。
「意味不明なことしかねぇが、一つだけわかる」
「ほう、それは?」
「あいつは、あの影じゃねぇってことだ!」
間に割り込むように飛び込んできた亡霊の刃を、石川は転がり北原は跳んで避け、それぞれ回避動作から身を捻って銃口を亡霊に向け、二者同時に弾を放った。白布は穴だらけになり、その穴を通すように、北原はもう一丁の銃で、今度は馬を狙った。撃たれた一頭は骨こそ頑丈だが、その間を通されてはひとたまりも無い。核を砕かれた馬は悲痛な鳴き声を上げながら膝を屈し、座り込むように崩れ落ちて掻き消える。バランスの悪くなった馬車は僅かに動きを鈍らせた。
「やっと一頭か。骨が折れるね」
「動きが鈍った今がチャンスか? なあ白秋、ちょうどそこに涼しげな馬車もあることだしよぉ」
「ふふ」
北原は笑い、銃を肩に担いだ。馬車へ向かう道の途上は幾匹の化物に溢れているが、それらへ向けた石川の銃口は真っ直ぐだ。
「それは良い。あの御者には降りてもらい、皆で馬車の旅と洒落こもう」
「馬も道連れにしてやるがな!」
石川が先立ち化け物の群れの隙間に素早く潜り込んだ。至近に迫るものは殴り飛ばし、足をすくおうとするものは蹴りつけ、よろめいたところを撃ち、できた道に隙なく北原も駆け込んだ。
亡霊たちも馬車も、女と赤ん坊に狙いを定めているのは明白だ。だからこそ、灯台下暗し、車体の方が僅かに手薄になるのを、見逃しはしない。
「オラァッ!! 邪魔だどけ!!」
亡霊の合間に湧いて出てくる洋墨瓶の眷属を撃ち割った。威力が完全ではないが戻ってきている。今ならと石川は馬車の窓へ銃口を向けた。二、三発立て続けにやり、窓だけでなく戸の蝶番の辺りに当たるように少しずつずらして何発も撃った。未熟な攻撃では傷一つ付かない馬車が、撃たれる毎に揺れ、軋み、やがてある一発によって戸の片側が完全に破壊されて車体の内側が顕になった。ご丁寧に座席まで誂えておきながら、子どもは床にぐったりと寝そべって手足を投げ出している。
「しめた、攫ってくぜ白秋!」
「その言い草、どっちが悪党なんだか分かりやしないよ」
「細けえことは良いだろ、援護しろよ!」
「言われなくとも」
応えながら、北原は振り向いて馬の足を撃った。馬の片側の一頭が膝をつき、馬車はまともに走れずにがたがたと揺さぶった。車体の隙間に石川が滑り込み、子どもの両脇に腕を差し入れた時、
「うおっ!?」
子どもの体から落ちる影が、突如立ち上がる。
「くっそ、こっちにいやがった!!」
咄嗟に撃つが、弾は影をすり抜けて車体を貫通するだけだ。燃え落ちなくとも手応えがないことには変わりない。一対の眼光だけを浮かべた影は、ぐったりとだらけた子どもを己の内に抱き込むと、自ら馬車を、堰を切って溢れ出す水のように抜け出した。
「待ちやがれ!!」
「啄木、どこに行くんだい!」
「そっちはお前らに任せた! 俺様はあのガキをとっ捕まえる!!」
石川の声はあっという間に木立の向こうへ遠のいた。北原は、はぁあ、と溜息をつく。
「元気になったのは良いけれどもね」
ちらと馬車を一瞥した。立ち上がれない一頭の他に、あともう一頭のものと思しき悲痛な鳴き声が聞こえてくる。恐らく泉か萩原の功績だろう。馬車は石川たちを追う気配もない。亡霊も、同様に。石川たちの駆けて行った方は、奇妙なまでに静かだ。
「……死の渇望は、影ではない。全く別の勢力ということか。となれば本命は」
北原は銃を担ぎ、林の向こうに沈む闇を見据えた。
『朔太郎君、泉さん! ここを任せても良いかい! 僕は啄木を追い、新太郎を連れてくるよ!』
北原の凛とした声を、萩原は耳が痛くなるほどの音の中に確かに聞いた。もう何度も重い弾を撃ったので、腕は痺れるし、暑さのせいか頭もくらくらして、間もなく転んで倒れてしまうかというところだった。だが北原の言葉は信頼だ。それで萩原は、ぐっと唇を噛んで、夢に呑まれかけた意識を留めるべく踏ん張った。
「……はい!!」
「朔太郎さん、本当にいけますか?」
少し前に出て、なるべく亡霊や眷属の数を減らしてくれていた泉が、萩原の隣に戻って声をかけてくれる。北原の声を同様に聞いたのだろう。萩原は頷いた。
「信頼されてるから、やるだけなんだ。大丈夫……僕たちなら、やれるよ、泉さん」
「……良いですね、その意気です。そう来なくては」
泉も口角をつりあげた。羽織の裾をパンと叩いて仕切り直し、真っ直ぐに立って御者の鞭と向かい合う。
「誰かに信頼されることは重い。ですが、それを真に自分の力に出来れば、僕たちは何にも負けません」
萩原も手汗を袖でぐいと拭い、滑らないように何度か拳を握り開きして、改めて銃を握り直した。
最早日陰はない。辺りの木は燃え尽きた。萩原も頭痛がしているし、泉も顔色が常より青白い。大きく動くなら次が最後だ、と、萩原も何となくわかっていた。
「朔太郎さん。奴の急所は分かりますか」
近づく亡霊は、塵を払うように斬る。泉の手は度重なる同じ動作で震えている。
「はっきりとは分からないけど、予想してるところはあるよ」
「奇遇ですね、僕も一箇所、ここではないかと考えています。同時に、言ってみますか」
御者が高く腕を振り上げる。鞭を地面に叩きつけ、使い魔たちをけしかける予備動作だ。萩原は銃口を向けた。
『鞭を持つ手首』
ドン、と一発。無防備に高く上がった御者の手首が、鞭ごと吹き飛んだ。
『――ッッ!!』
ぐらり、御者が傾くが、馬車から落ちはしない。主人の混乱が伝染したように亡霊たちの動きが活発化し、陽動のために大きく旋回しがちだった個体たちも含め、一斉に萩原たちに襲いかかる。
「……ふぅ、」
泉は肺にいっぱい、熱を吸い込み、細剣を構え、突進した。一点を突破するため、有象無象は眼中に入れず、亡霊の手先が掠めても、嫉妬の火の粉が頬を焼いても、御者の男が再び、慣れぬ片腕で鞭を握るのだけを視野の中心に置き続ける。
「泉さん!!」
萩原の銃が、最後の馬の腹を撃った。傾ぐ身体をすり抜け、馬車の前に走り込み、
「その首、貰い受ける」
剣を振り上げ、御者の手首をもう一本切断した。
『――……!!』
御者はもはや何も出来ない。ぐらりと倒れかかる、その瞳は憎悪に満ち、歯ぎしりで歯を砕き、醜い面を晒す。それが一瞬哀れに思え、泉はもう一太刀で、御者の首を落とした。もう、叫びすら上げずに消えていく。
御者に従い、炎も、亡霊も消え去った。気の毒な馬も消失した。後には焼け爛れた地面だけが、煌々とした日に照らされる。泉はその真ん中にぐたりと膝を着いた。流石に、頭痛が酷く、目の前も定かでなくなっていた。ふう、ふう、と早い呼吸が胸苦しい。
「い、泉、さん」
ふと泉の身体を覆うように影が差しかけられる。見上げると萩原が、泉が作ってやった日傘とは別の唐傘を差して、影の中に自らと泉をなんとか収めていた。
「ありがとうございます、朔太郎さん……流石に、疲れましたね」
「うん、うん……でも、良かった……」
辺りに蝉時雨が戻ってくる。戦闘中の意識が徐々に日常に帰ってくると、赤ん坊の泣き声にも気づいた。見ると、女はうつ伏したまま動かず、赤ん坊はまだ泣いているが弱々しい。日に照らされておりいかにも暑そうで、二人は親子の元まで這って寄り、物語が正しく進む時まで、もう一本の傘に入れてやることにした。
「石川君達は、どこまで行ったんだろう……」
「さあ……ですが、きっと新太郎さんを取り戻してくれるでしょう。北原さんも行ったのですし、石川さんも……多少は、気が晴れたみたいですから。きっと上手くやるはずです」
「……そう、だね」
萩原は、泉が赤ん坊を優しく撫でてやるのを、ぼんやり眺めた。母親でないので泣き止まないが、号泣はおさまり、ぐずるくらいまで落ち着いていく。
「子どもが、好きなの」
「……何故でしょうね。新太郎さんもそうですが、何故か、可愛がってやりたいような気にさせられるんです」
「そうなんだ……」
「……確か、近くに橋がありましたね。橋を渡すなら……小川のひとつでも、あるはず。不衛生ですが……水を染み込ませた手拭いで、汗や汚れを拭き取るだけでも、幾らかマシになるかもしれません」
萩原は自ら立ち上がり、「探してくるよ。泉さんは、ここで親子を見ていて」と言った。泉は微笑み、
「では、簡易的な浄水装置でも作って待っていますね」
と返した。
「啄木! どこだい!」
石川を追ってきたはずだったが、北原はその後ろ姿を見失っていた。進めば進むほど影が濃くなり、辺りが薄暗くなる。あれほど暑かった日差しが木々に遮られ、脛を傷つける落枝も避けられなくなった。汗は引き、寒ささえ覚え、銃を持ちながら腕をさする。
「こんな奥まで。あまり進みすぎると、世界の外へ出てしまいそうだ」
小説内に描写された世界は、描写された限りの範囲に留まることが多かった。この作品で森や林の奥へ潜って行った記述はない。ある境を超えると、別の作品の世界に移ることもあれば、時空の狭間のような場所へ辿り着くこともある。書かれていない場所は不安定で、用が無ければ行かない方が良い、というのが基本だった。だが未だに、石川と子どもが見当たらない。誘い込まれたのでなければ良いが、と、北原は心中の予感を黙殺した。
「こう暗いと、あの影が紛れて見えないかもしれないね。おぉーい、啄木! どこかに居るなら、返事を! おぉーい」
すると、左前方の闇の中から、
「白秋か!」
石川の声がする。すぐさま走ってゆこうとした時、声が続いた。
「こっちに向かって撃て!! こいつっ、俺様の銃じゃ意地でも黙らねぇ!!」
「……」
罠か、と考えた。石川の声は急かしてくる。先の戦闘で、石川の弾丸は影を貫通し影響を及ぼさなかったのを、北原自身も視認している。
「……分かった!」
双銃、共に声のする方へ向け、続けざまに撃った。闇の中でどうなったのかは分からないが、少なくとも聞こえてくる悲鳴は人のものではない。
「……白秋! 白秋、こっち来い! 手伝え!」
元気そうだ。北原は肩の力を抜き、はは、と笑って、緩く首を振った。
「人使いが荒いやつだね、全く。お礼のひとつも無いとは」
果たして北原が声のした方へ行くと、石川が草むらにしゃがんでいる格好で、何か激しくやりあっているらしかった。
「逃げんなくそ、暴れんじゃねぇ」
近づくと、黒く膨らんだ何かを、両腕と体を使って取り押さえている。その膨らみ方を見た北原は、ふむ、と少し思案した。
「うぐっ、抑えきれねぇっ……白秋はまだかよ、あいつっ……」
「僕ならここにいるのだよ」
「いるんなら助けろ!! こいつを大人しくさせんの、手伝えっ……いってぇ!」
影は薄暗い中でいっそう濃く、輪郭がはっきり見えた。石川の腕の中で時折つきのけるように一部が飛び出す様や、ひっきりなしに蠢いて時折甲高い音を出すのも、北原にとあるものを想起させてやまない。そこで北原は、銃を収め、代わりに手の平へ一本の長い布紐を作り出した。
「啄木、君はその影をどうするつもりなんだい」
「あぁ!? どうするって何だよ!」
「抑えきったら、倒すのかい。銃で撃って」
「馬鹿言え、こん中にガキがいるんだぞ!」
北原は笑んだ。
「それを聞いて安心した。ちょっとそのまま、抑えていなさい」
「はぁ!? それが出来ねぇから、ってなんだそれ」
北原は石川が全身で覆い被さるように抑え込む影に紐をかけた。よく動き一時もじっとしない黒いソレに、優しく声までかけてやりながら、
「よし、よし。元気な良い子だ、寂しかろう」
手早く紐を通し、からげていく。すると不思議なことに、北原が声をかけると影の動きが少しずつ弱まる。弱る、と言うよりも、大人しくなる、という方が相応しい変化を見せ、やがて北原が少し手を止める頃には、僅かな抵抗を見せるように身動ぎをするばかりになった。
「うん、うん。さ、啄木、手を離したまえ」
「いや、お前、この結び方……」
「そら、よいせっと」
北原は影を両腕で抱え、それを石川が立ち上がるより先に素早く、背中に乗せた。
「うおっ!?」
「そうら、おっとうだ。痩せっぽちだが」
「おい何して、重っ」
「何言ってるんだい、病弱な六歳だろう。このぐらい軽々と背負いたまえよ」
「んなことッ……あ?」
石川も気づいて、惚けた声を上げながら、背中を振り向こうとする。影はもうぴっとりと石川の背中にくっついてしまったのだ。それでいてもう身動ぎひとつしない。母親の背中で寝入った赤子のように、しんと静かになってしまった。
「……どうなってやがんだ」
まだ分かっていない石川に、北原は、影を撫でてやりながら答えた。
「この子は、君の子なんだ」
「俺様にガキはいねぇ」
「僕が僕の詩を我が子のように慈しむのと、同じことだよ」
「……」
「おかしなことじゃあないだろう。僕たちが書かなければ生まれなかったという意味で、子供だと言うのは間違いじゃない。この作品も、この子も、かつての君が書いてやったからこそ、こうして生きていられているんだ」
影は、撫でても感触がないはずだが、手のひらには綺麗に剃りあげた綺麗な形が感触として伝わってくる。石川の言った通りであり、北原の考える通りでもある。
「君はこの作品でこう書いていたね。『男と女が不用意の歓楽に耽つてゐる時、其不用意の間から子が出来る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。』と。それは確かにそうかもしれない。けれど、望む望まざるに関わらず、生まれてきた子たちは愛されるべき存在としてこの世に降りてくる。この子がいずれ、自分の誕生を嘆かなくてはならなくなるとしても……」
むずがる影を、慈しみ、撫でてやる。藤色の瞳はどこまでも柔らかい。
「それでも、この子を愛した人たちを、君はちゃんと書いた。それが答えだよ、啄木」
「……」
「そういうものだ。必ずどこかに、見ていてくれる誰かはいるものだよ」
「…………」
石川は、顔を伏せた。目も瞑る。
「……こいつは、これから、あの乞食の女の血を見るんだぞ」
声がいつもより数段低い。
「不条理を恨んで、否応なしに振り回された挙句に運命に打ちのめされた女の血を、見るんだぞ。それでも、そんなことが」
「言えるさ」
石川の肩に、北原はそっと手を添えた。重しを載せるようでも、支えるようでもある。
「愛されていたことに、変わりはない」
「…………お坊ちゃんだもんなぁ、お前」
「これでも君より、人生はやったのだよ。君もこれから、わかるようになる」
「……」
「さ、行こう。泉さんたちを待たせているから」
とん、と肩を押してやると、石川はふらつくように三歩進んで止まった。そこで止まっても何にもならないので、北原はとんとんと押してやりながら、子守唄を歌ってやる。ゆっくりとしたリズムに合わせて、影を下から支えて揺らしてやると、石川の足もゆっくりと進んだ。
「あ、先生、石川君……」
「おや……可愛らしいじゃありませんか」
萩原と泉は、石川らが漸く戻ってきたのを、安堵で迎えた。一つの唐傘に二人で入り、泉の傍らには妙な装置らしきものと、小さな湯呑が二つある。萩原の側には手桶があって、日の光にちらちらと光っていた。
「おや、良いものがあるね」
「北原さんも如何ですか。僕はやはり飲めそうにありませんが……お二人の分の湯呑もありますよ。新太郎さんの分も」
「意外と、飲めます……田舎の水だから、かな。じ、自分がいれます」
「ありがとう。頂くよ」
北原は石川を置いてさっさと萩原の元へ行き、萩原から受け取った湯呑を煽った。石川はちょっと背中を見る。微かに寝息が聞こえる。
「こいつの分は要らねぇよ……それより、女と赤ん坊はどうした?」
「こちらに」
泉が指す先に、女と赤ん坊が横たわっている。女は泥だらけの手を投げ出し、腕の中から赤ん坊が這い出しても気づかない。
「生きてるか?」
「ええ。今なら、まだ」
「なるほどな。俺様のはあとでいいや。白秋、これ外すぞ」
「おや、もう外してしまうのかい。折角板についていたのに」
石川は、自分と子どもを結んでいた布紐の結び目を解き、「俺様にはやっぱ、荷が重ぇや」と独り言ちた。影の塊でしかなかったものはいつのまにか、あの時計の玩具を受け取った子どもの姿で、完全に寝入っている。
「良く寝ていますね。寝心地が良かったのでしょうか」
「なわけねぇよ、疲れてたんだろ。それより、こいつはまだ女の血を見てない」
石川は女の前に片膝をつき、手を伸ばして、女の額に掛かった前髪に触れた。汗と垢でじっとりと固まり重い髪の筋には、赤いものが滲んでいる。普通に考えればとっくに凝固していそうなものだが、触れた石川の指はまだ濡れた。紅の色に思い出される光が別にある。
「……健気な奴。そんなのばっかだ」
石川は血の付いた指を握り込んだ。立ち上がり、泉が手袋越しに撫でてやる子どもの元へ戻る。萩原は北原から空の湯呑を受け取った手のまま、「起こすの?」と眉尻を下げた。
「ああ」
石川は子どもの背中に手を置く。
「いいの、石川君」
「何がだよ」
「話を進めると、きっとこの親子は……」
「何を気にしてんだよ、萩原。そいつらは、乞食の母親と、その子どもだ。それ以上でも以下でも、ないんだぜ」
でも、と、揺さぶる前に、穏やかな寝息に耳を澄ます。『夏、畳の上、通りに面した窓を開け放した床屋の二階二間に寝そべる子どもの頭に手を伸ばして撫でてやる』幻想が、脳裏に薄く過る。
「……起きるな、起きるな」
呟き、自嘲した。
「お前にゃ夕暮れは、まだ遠すぎるか」
「はッ」
子どもはうつ伏せから勢いよく顔を起こした。額に砂利が食い込む痛みが、寝起きのぼんやりとした意識をゆっくり覚まさせる。悪い夢を見ていたような、良い夢であったような、複雑な心境だった。辺りを見回せば、そこは若松の並木の下。何故こんなところに、と困惑し、身を起こした時、ふと視界に入ってきた異物にぎくりとする。
「ワッ……」
目と鼻の先に、汚い女がうつ伏せになって倒れていた。乱れた衣服も真白い肌も土気と汗と垢に塗れてほとんど茶色がこびりついている。更に悪いことに、誰がやったのか、草付きの土が半端にかけられている。子どもは咄嗟に、同級の子供等の仕業だと考えた。決して自分が、そんなことをするはずはないと強く思わねば、足がぐらぐらしてまた眠ってしまいそうだった。
「う、ウゥ」
なぜか子どもが目を離せずにいると、その視線を餌にでもしたかのように、俄かに女が身動きをする。頭を擡げ、前髪が落ち、酷い疲労と苦痛に歪んだ眼が、何も知らぬ子どもを映す。その額から、つぅと一筋、紅の筋が伝い、頬から顎、首を伝って、胸の方まで。
子どもは、何もできなかった。視界の縁に、別のものが映っていた。それはぐったりと横たわる赤ん坊で、浅い呼吸を繰り返すばかりで泣き声一つ上げない。子どもは、見ていた。何もできないというのに、女の眼差しと、伝い落ちた血の筋とが目に焼き付く。
赫灼たる炎天、子どもはひとりの母親が、子どもを守り切ることも出来ずに力尽きていくのを、じっと見守った。
潜書し降り立った場所は、先ほど帰還したあの木立の中だった。少し離れた所に件の小屋もあり、続きからであることは誰の目にも明らかだ。じわりと汗ばむ真夏の炎天下で、気の毒にも扉は壊れて開きっぱなしだ。窓に近寄り、よく耳を澄ませていると、男と女の声がする。
『まさか、この何もない家に盗人が入るとは。仕事道具の一つも置いていけば、お前が襲われずに済んだかもわからない。すまないことをした。折角、平穏を約束したばかりだというのに』
『いえ、この子も無事です、私も……あなたが帰ってくれて良かった……』
石川は窓を覗いた。すると男の目が見え、咄嗟に頭を下げて息を殺す。
『……どうかしましたか?』
『今、そこの窓に……』
男の訝しげな声を、赤ん坊の泣き声が遮った。二人は赤ん坊にかかりきりになったようで、辛うじて、窓の外を怪しまれずに済んだ。
「……良かった。無事、みたいだ」
萩原がぼそりと呟いた後、はっと息をのんで、石川の様子を伺い、深く俯く。まだ気にしているらしい。石川は、しょうがないと言わんばかりに肩を竦め、萩原の隣ににじり寄った。もちろん萩原の向こうには北原がいて、どこにも逃げられないように、黙って壁の役割をしてくれる。
「う、……」
「萩原」
「石川く、さ、さっきはごめん……自分も敵から攻撃を受けていて、気が立っていたみたいで、それで」
「お前が止めてくれなきゃ、目ぇ覚めなかったろーから。ありがとな。それと、悪かった。謝罪させてくれ」
素直な謝罪に目を白黒させた萩原は、ふらついて壁に頭を打ち付けそうになった。北原の手に後頭部を支えられながら、「ああ、うう」などとひとしきり呻いた後、
「……よ、良かった、のかな。石川君、改心はしてくれたんだ……」
と、少し混乱しながら胸を撫で下ろした。
「改めたかどうかは……正直、別だぜ? 何しろ、あの女にはどっちにしたって、乞食に戻ってもらわなきゃ始まらねぇんだから」
「それでも……やっと、いつもの石川君と話せる気がする」
「今の俺様は、ちったぁマシな顔してるか?」
萩原は頷いた。「やってやっても良いか、って顔をしてる」
「お二人共、仲直りが済んだのなら、それ以上の話は後にしましょう」
小屋の内側に絶えず注意し続けていた泉は、手で誰かを、自分の隣から窓を覗くように招いた。
「あの男、先ほど小屋を出て行った男と同一人物ですよね」
招く手に従い、萩原が覗き、「うん」と言った。
「あの服や靴、間違いないよ」
「あの男はいったい誰なんでしょうか。侵蝕者が、本来の筋に存在しない役を勝手に作り出す例は存在しますが、その場合は侵蝕者自身が成りすましているものです。あれからはやはり、穢れの匂いがしない」
「それは僕も不思議でした……まるで、最初からこの世界にいたみたい……」
萩原も首を捻り、泉も腰を落としながら顎に緩く曲げた指を当てて考え込む。石川も再度慎重に覗いてみると、ようやく泣きやみつつある赤ん坊をあやしながら、男は幸せそうに笑っていた。赤ん坊を抱く女も微笑している。先程男は『平穏を約束した』と言っていたのが、石川の考えに引っかかっている。
「……啄木。この物語に、あの男らしき登場人物はいなかったね?」
北原は一度も窓を覗かないが、不意に言った。
「ああ、いなかった」
「それでいて、侵蝕者でもない。ならば考えられるのはもう一つのパターン。啄木の書いた、別の作品の登場人物」
「別の作品?」
萩原は北原の隣にしゃがみこんで、興味深そうに顔を近づけた。
「どういうことですか?」
「何、本来いたわけでもないのによく世界観に馴染めていて、侵蝕者でもないなら、同じ空気感を共有する場所にいた男であるかもしれないと考えたまでのことだよ。作品世界はしばしば、別の世界とつながることもあるから」
「なるほど……」
「というわけだ、啄木。心当たりはないかい? 君の作品で、ああいう男が登場する物語はあったかな」
石川は腕組みをし、眉間に渓谷のような皺を作って唸る。
「男なんざいくらでもいるんだが、ああいう男となると咄嗟には思いつかねえよ」
「おや、そうか。では目論見は外れたかな」
「いや、俺様も同じようなことは考えてた。とはいえ、実際どっかから連れてこられたにせよ、この世界にとっちゃ本来異物なのは間違いねぇ。やっぱあいつを使って、何とかするっきゃねえな」
乞食の女を拾い、平穏を約束した男。女は赤ん坊を連れているが、夫であるはずの男の姿はない。どこかの作品世界と繋がり、今小屋にいる男が連れてこられたとするならば、近しい境遇を辿った男がいるはずだった。だが、一体どの話か。考えるが、まだ靄の晴れ切らない頭に、あまり読み返してこなかった小説の登場人物は姿を見せようとしない。石川は頭を抱え、
「うー、お前ら覚えねぇか? 俺様の小説だ、多分。なんかあーいう男がいたやつに、見覚えとか……あるわけなくても覚えてねぇかー……?」
煮詰まってきて助けを求めた。北原は呆れ返って、「君に覚えがないのに一体誰が」と言いかけた時、
「『病院の窓』……」
萩原が口の中で呟いた。北原がすぐに萩原の口元へ耳を寄せ、「もう一度」と促したせいで、萩原は狼狽し何度か言葉がもつれた。
「『病院の窓』、って作品が、あったような、と思ったんです……確か主人公の、野村という男が、乞食の夫婦と……い、石川君。どうしてそんな目でこっちを見るの?」
頭を押さえる手も忘れ、石川は呆然と、萩原を見た。熱風が頬を掠める。
「……お前、ひょっとして俺様の小説、読んだのか?」
「え、……うん。読んだよ……転生してから、だけどね……」
「……」
石川の胸中に、一瞬、近頃無かったほどの言葉と、衝動が湧き出して、溢れかけた。舌先まで伸びた疑問符付きの一言は、枯れかけていた唾液にもつれて引っかかり、喉から音になり損なった風が抜けるだけ抜けていき、
「……いや、なんでもない」
何も言えずに、恥ずかしがった萩原の真似をして、顔を逸らした。
泉は小首を傾げたが、萩原に向き直り、「その野村という男が、あの男に近いのですね」と確かめる。萩原は「多分」と、こくんと頷いた。
「なるほど。であれば、あの男には本来の世界に帰って頂くのが良いでしょう。別の作品との境目を探し……」
「……んなことはしなくていい」
口元を片手で覆っている石川は、小屋の壁に背中を預けて正面の木立を睨みながら続けた。先程から吹き出した風に揺れて、ざわざわと、木々が頻りに騒々しい。
「『病院の窓』が侵蝕されたって話があれば司書が話したはずだ。言わなかったってことはあっちは無事だ。あの男が本当に野村かどうかは確かめられねぇが、萩原の言う通り確かに状況が似てる。……つまり」
小屋の中からは、男と女の歓談が漏れ聞こえる。平和で、穏やかに、これから家族になろうとする、歓楽の声だ。
「ここを、『野村の過去』にしちまえば良い、ってわけだ。神社じゃねぇが、見立てりゃ良い」
ああ、残酷なことを言った、と、石川は胸に哀しく刺さった痛みを思った。恐らく今これを共有できるのは、萩原ぐらいのものなのだろう。
「オウオウテメェ、いい度胸じゃあねェか、アァ!?」
フードを深く被った石川は、小屋の扉を殴りつけながら、怒号を男女に投げつけた。二人は身を寄せ合い、突然の闖入者に悲鳴を上げたりして、卓を挟んで石川と向かい合う。女は赤ん坊を抱き込み、男の陰に隠れた。男は女を守ろうと、体躯を盾として立ち塞がる。
「お、お、お前は一体!」
「そこの女の、夫だよ」
なるべく低く、怒りを乗せて答えた。本来髭面の男であるはずで、外見は描写で繕ってはいるが、気を抜けば矛盾が出る。
「夫の知らぬところで密通か。知らなかったで通らんぞ」
「なっ、お前が夫だなどと、そんなことを信じるものか」
「馬鹿なことを言いやがって、テメェと嬶が俺の見ないところで文通してたのも知ってんだぞ。俺は二度と手紙など寄越すなと言ったのに、そこの嬶は俺に黙ってついにこんな所まで逃げてきやがった!」
卓を殴りつける。細かな設定などろくに考えていなかったのに、なぜだか妙にすんなりと言葉や手が出る。苦味が引っかかった喉元が煩わしく、吐き出そうと声を出せば全てががなり声となって、何故か特に、男よりも女の方を打ち付ける。
「もし今度手紙を見つけた時には離縁だと言ったが、そこの嬶は書類を書く前に逃げ出しやがった。だからここまで追ってきたんだ。まさか不義の男の面まで拝めるとはな? どうだテメェ、人の嬶を犯した味は? 楽しかったろう、さぞ愉快だったことだろう! あ、どうだ? この腰抜け! 守ると言うなら守って見せろ、貴様の方が罪人だがな!!」
「っ、あ、貴方、違うの」
女が乗ってきた。否、状況に合わされたのだろう。石川は眉を歪めた。ふと視界に入った窓に映る赤いフードの男は、その面までが朱に染まった、物凄い表情をしている。
「う、あ」
男は──『野村』は、気が弱い男だ。石川に責め立てられると、当初の気迫はどこかへ吹き飛び、女を壁へ押しやりながら後退りをし始めていることに気づいていない。顔はわななき、手は震え、目が泳いで焦点が合わない。女の叫んだ「貴方」が、決め手となったようだ。
「あ、ああああ!!」
男は情けない悲鳴をあげた。女がたまらずにすがりつこうとしたが、それも無理に腕を振り回して払いのける。男が頼りにならず、怒り心頭の夫が目の前に立ち塞がるともなれば、赤ん坊を抱いた母親はもうじっとしているわけにいかない。ちらと男を、悲しげに見て、女は赤ん坊をきつく抱きしめ、石川の立つ出入口の方へと突進した。
「お前、待て!」
石川は敢えて、咄嗟にやった風に身を逸らし、女を通した。外へ駆け出すのを少し追いかけ、戸口を出たあたりで立ち止まり、走っていく痩身の背を見送る。女は裸足のままで、この暑い、熱い地面の上を、石川から逃げ出すために一散に。
「何もそんなに逃げなくたっていいじゃねえか……」
「石川君……」
身を隠していたはずの萩原が飛び出してきて、石川の傍に立った。手を伸ばし、石川の頭に被さったフードを外してやる。
「外まで聞こえていたよ……あれで、良かったの?」
「……ああ、良かった。目論見は成功、あとはあの女を追っかけるだけだ」
「……石川君、辛かったろう」
緩慢に、石川は萩原を向いた。口角はやや上がったまま貼り付いている。
「一瞬、本気で気が違うかと思った。あの女も、そうなったと思うか? 萩原。どう思う?」
「……自分には分からないよ」
背後から、男の喚く声が聞こえる。
「罪人、ああ、俺は罪人か? 神様! 神様……!」
「……」
様子を見てか、北原と泉も静かに来た。泉は冷ややかに、「でっちあげにしては克明でしたね。身に覚えが?」などと言い、北原は知らぬ存ぜぬで、女の走っていった方を眺める。
「傷を負わせなかったようだけど」
「……やってけば、なるようになる。行く先はどうせ同じ場所だ」
石川が先に立って行こうとしたのを、泉が「彼は良いのですか?」と袖を引いて止めた。ああ、うう、と慟哭する男を、石川は一瞥したが、
「いいんだよ」
「しかし、あのままでは」
「あいつの辿った本当の筋でも、あいつを慰めたやつなんかいなかったが、生きてそのうち窓を覗く。だからいいんだよ」
「……」
「行くぞ」
後はもう振り返らない。萩原と北原も後に続いた。泉は少し小屋を気にしたが、やがて頭を振り、仲間の後を追いかけた。
誰もいなくなった小屋の、壊れた扉の向こうで、男の声はしばらく続いた。
女は走っていた。石を踏み、高い夏草で足や脛に幾つもの傷を作りながら、ともかく自分と子を害するものから逃げるために走っていた。
無我夢中だった。蝉時雨に混ざる、車輪が石を砕く固い音にも気づかぬ程。
「アッ」
石に蹴躓いて、せめて赤ん坊を下敷きにせぬようにと咄嗟に身を捻り、半身を砂利にすり下ろされながら地面に転がる。赤ん坊が泣く、その頭の上を、何かが凄まじい速さで通過した。危うく青黒い刃が、赤ん坊の首を刈り取るところだった。
「う、ゥ」
女はもう動けないほど全身を痛めつけられており、赤ん坊を抱き込んで自分の身を盾にした。着物が綻び、破れ、汗ばんだ体に土が染みる。まだ頭に傷はないが、満身創痍であるのは最早疑いない。そこへ真っ直ぐに、車輪の激しく回る音が近づいてくる。幾つもの足が力強く大地を駆ける足音も、また同様に。
それは四頭の、青い馬に引かせた、禍々しい霊柩馬車の姿をしている。この炎天下にひやりとした風が、女の髪を逆撫でて行く。馬車の先頭に立った陰気な御者が、行く手に寝転ぶ邪魔な乞食を殺気混じりに睨み据えた。鞭が打たれ、馬が嘶き、前足を振り上げる。最早立ち上がることも出来ない女の腕の中で、赤子がけたたましく泣いていた。
ドン、と低き底に響く音がして、御者の頭に穴が空く。馬は嘶き、道を逸れた。車輪が石にかかり、砕けた石の破片が飛び散り、そのうち大きく鋭いものが、女の額に飛んだ。
「ウッ」
額を打たれた女は、がくりと地面に頭を落とし、気を失ってか動かなくなる。赤ん坊だけが、母親の腕に守られながら、尚もぎゃあぎゃあと泣いている。
車輪となっている巨大な歯車は止まった。馬の青い外皮がずるりと剥がれ落ち、骨が剥き出しになる。霊柩馬車から飛び出した白布の亡霊が、馬車の主である御者を取り巻いた。その御者は、頭を撃ち抜かれたというのに、帽子の下の青い目を、下手人たちへぎろりと向けた。
「やっぱり、このぐらいじゃ倒れないね」
萩原は銃を構え直した。御者の指示で向かってくる亡霊たちを、北原の両手から放たれた銃弾が牽制する。
「通称、死の渇望……死神の侵蝕者か。頭に当たるのに牽制で終わるというのは毎度のことだが不快だね。やはり侵蝕者本体、核を狙わなければだめだということかな」
亡霊が飛び回る、それを連射で打ち払い、手近なものは蹴飛ばした石川は目を凝らし、霊柩馬車を指さした。
「おいお前ら、見えるか。奴の馬車にガキが乗ってる」
御者の鞭が鋭く鳴り、それを合図に白布が飛びかかる。軌道が読みにくく、一発が重い銃弾は外れやすい。泉が前に立ち、飛んでくるものを横一線に薙ぎ払った。何匹かがはらはらと破れ落ち、その向こうに馬車の窓が見える。洋墨の掠れに濁った向こうに、子どもが転がされているのが見えた。それは一見して分かりにくかったが、
「あれは、新太郎さん!?」
近づけば亡霊が増える。女の傍からは離れぬようにしつつ距離を取り、一行は死角を潰すために背中を仲間に預けた。石川は引き攣った口角を上げ、ひっきりなしに飛び交う亡霊を時折撃ち抜く。
「本来乗ってくる予定だった荷馬車に取り憑いて、侵蝕者にしちまったってところだろうな。あの侵蝕者も、馬車曳の爺に取り憑いてたりするか?」
「だとしたら厄介だが、容赦はできそうにないね」
北原は銃身で、亡霊の攻撃や御者の鞭を防ぎつつ、常に馬車を睨むことを忘れない。核は普通の場所になく、また点在している。それでいてこの侵蝕者は殺意が高く、数と威力の両方で攻め立ててくる、非常に強力なものだ。何故こんなものが、とは、流石の石川も今は考えなかった。
「爺はどうにでもなるが、ガキはそうはいかねぇな。助け出すか、さっさと倒しちまうかだ」
「確か、あの馬それぞれの肋骨の中に一つずつ。それと御者のどこかにひとつ、でしたね」
萩原がよく狙って撃った銃弾が、亡霊を何匹も撃ち抜き、なおも馬車へ向かった。それが馬に届く前に、鞭が両断する。馬はおぞましい嘶きを上げ、地面をカツカツと頻りに蹴散らした。それに呼ばれ、青黒い影から、人影が生える。嫉妬に己の身を燃やし続ける男が、ぎりぎりと歯軋りをして、八つ当たりのように腕を振り炎を放った。女へ届く前に石川が幾つか撃ったが、軌道を外れたものは近くの木に燃え移り、木は見る間に燃え上がって塵となる。
「チッ、この辺一帯燃やしちまう気かよ」
「ただでさえ暑いと言うのに、これでは傷よりも先に熱中症で倒れてしまいますよ」
「向こうは暑さを感じないのだろうねぇ、こればかりは少し羨ましいな」
泉の剣戟で僅か、亡霊の波が引く。馬車からは、今まで運んできた死者の数だけ亡霊が湧き出し、彼らが纏う布にまで炎が移り始めた。亡霊たちが無軌道に飛び回ると木々に火の粉が散り移る。次第に、先の村での戦闘時に近く、燃え盛る炎の中での戦いを強いられていく。
「あっちぃ!! 馬鹿かよ!!」
罵倒に乗せて撃ちまくる弾は一定の効果を発揮した。少なくとも石川の早撃ちと泉の刃のために、一定の範囲内より内側に敵は入ってこられない。だが汗が噴き出し、目に染みて、萩原が目を擦る間に間近にまで嫉妬の男が迫り、
「朔太郎君!」
辛うじて北原が退けた。
「ありがとうございます、先生っ……う、炎が眩しい……ううん、これは太陽……?」
萩原が混乱するのも無理はない。時間の経過とともに、日陰が減っている。
「奴らはいよいよ、僕らを焼き殺す算段のようだ。なにか手を考えなくてはならないよ、筆頭」
滅多に乱れない北原の衣装も、汗と連戦で大きく乱れ、額や頬に汗が伝い落ちるのを拭うことも出来ない。悠々とした御者は低く笑い声を立て、四頭の馬に鞭を打った。
「危ない!」
泉は咄嗟に、女の腕から這い出しかけた赤ん坊を抱き抱えた。北原も女を抱え、危ういところで馬車の突進を避ける。通りすがりに馬車の中で、気を失ってぐったりしている様子の子どもが、揺れに翻弄されて窓にしこたま足をぶつけた。それでも泣き声ひとつ上げない辺り、余程深い昏睡らしい。
「チッ、意味がわからねぇ」
石川はすかさず御者へ銃を向けたが、弾は御者の左胸を撃ち抜いてもまだ止まらない。風穴を空けたまま、手綱を捌き、燃え落ちた木々の滓を轢き殺しながら、無理な軌道で再び石川たちへ馬車を差し向ける。北原が避けた先に、嫉妬の男がぬぅっと立ち塞がり、炎を構えた腕で直接北原を殴打した。
「やってくれる」
ふらりと揺れた北原は、片頬を吊り上げ、片足で地面を強く踏んだ。女を小脇に抱えたまま、片手で銃を振り、男の頬を殴り、返す動きで顎を砕き、鳩尾に直接銃を撃ち込む。嫉妬の男が悲鳴すらあげられずに消滅するのを見た石川は、一抹の恐怖を込めて口笛をひとつ。
「白秋センセイ、怖ぇー」
「当然なのだよ。さて啄木……この侵蝕者の意図は、そろそろ読めたかい」
女を抱えたままでは戦えない。まだ燃えていない木陰に寝かせ、北原は馬車に向かって立った。御者の視線は憎悪に満ちて、国民詩人たる北原を捉えている。その北原の隣に立ち、石川は銃に弾を込め直した。
「意味不明なことしかねぇが、一つだけわかる」
「ほう、それは?」
「あいつは、あの影じゃねぇってことだ!」
間に割り込むように飛び込んできた亡霊の刃を、石川は転がり北原は跳んで避け、それぞれ回避動作から身を捻って銃口を亡霊に向け、二者同時に弾を放った。白布は穴だらけになり、その穴を通すように、北原はもう一丁の銃で、今度は馬を狙った。撃たれた一頭は骨こそ頑丈だが、その間を通されてはひとたまりも無い。核を砕かれた馬は悲痛な鳴き声を上げながら膝を屈し、座り込むように崩れ落ちて掻き消える。バランスの悪くなった馬車は僅かに動きを鈍らせた。
「やっと一頭か。骨が折れるね」
「動きが鈍った今がチャンスか? なあ白秋、ちょうどそこに涼しげな馬車もあることだしよぉ」
「ふふ」
北原は笑い、銃を肩に担いだ。馬車へ向かう道の途上は幾匹の化物に溢れているが、それらへ向けた石川の銃口は真っ直ぐだ。
「それは良い。あの御者には降りてもらい、皆で馬車の旅と洒落こもう」
「馬も道連れにしてやるがな!」
石川が先立ち化け物の群れの隙間に素早く潜り込んだ。至近に迫るものは殴り飛ばし、足をすくおうとするものは蹴りつけ、よろめいたところを撃ち、できた道に隙なく北原も駆け込んだ。
亡霊たちも馬車も、女と赤ん坊に狙いを定めているのは明白だ。だからこそ、灯台下暗し、車体の方が僅かに手薄になるのを、見逃しはしない。
「オラァッ!! 邪魔だどけ!!」
亡霊の合間に湧いて出てくる洋墨瓶の眷属を撃ち割った。威力が完全ではないが戻ってきている。今ならと石川は馬車の窓へ銃口を向けた。二、三発立て続けにやり、窓だけでなく戸の蝶番の辺りに当たるように少しずつずらして何発も撃った。未熟な攻撃では傷一つ付かない馬車が、撃たれる毎に揺れ、軋み、やがてある一発によって戸の片側が完全に破壊されて車体の内側が顕になった。ご丁寧に座席まで誂えておきながら、子どもは床にぐったりと寝そべって手足を投げ出している。
「しめた、攫ってくぜ白秋!」
「その言い草、どっちが悪党なんだか分かりやしないよ」
「細けえことは良いだろ、援護しろよ!」
「言われなくとも」
応えながら、北原は振り向いて馬の足を撃った。馬の片側の一頭が膝をつき、馬車はまともに走れずにがたがたと揺さぶった。車体の隙間に石川が滑り込み、子どもの両脇に腕を差し入れた時、
「うおっ!?」
子どもの体から落ちる影が、突如立ち上がる。
「くっそ、こっちにいやがった!!」
咄嗟に撃つが、弾は影をすり抜けて車体を貫通するだけだ。燃え落ちなくとも手応えがないことには変わりない。一対の眼光だけを浮かべた影は、ぐったりとだらけた子どもを己の内に抱き込むと、自ら馬車を、堰を切って溢れ出す水のように抜け出した。
「待ちやがれ!!」
「啄木、どこに行くんだい!」
「そっちはお前らに任せた! 俺様はあのガキをとっ捕まえる!!」
石川の声はあっという間に木立の向こうへ遠のいた。北原は、はぁあ、と溜息をつく。
「元気になったのは良いけれどもね」
ちらと馬車を一瞥した。立ち上がれない一頭の他に、あともう一頭のものと思しき悲痛な鳴き声が聞こえてくる。恐らく泉か萩原の功績だろう。馬車は石川たちを追う気配もない。亡霊も、同様に。石川たちの駆けて行った方は、奇妙なまでに静かだ。
「……死の渇望は、影ではない。全く別の勢力ということか。となれば本命は」
北原は銃を担ぎ、林の向こうに沈む闇を見据えた。
『朔太郎君、泉さん! ここを任せても良いかい! 僕は啄木を追い、新太郎を連れてくるよ!』
北原の凛とした声を、萩原は耳が痛くなるほどの音の中に確かに聞いた。もう何度も重い弾を撃ったので、腕は痺れるし、暑さのせいか頭もくらくらして、間もなく転んで倒れてしまうかというところだった。だが北原の言葉は信頼だ。それで萩原は、ぐっと唇を噛んで、夢に呑まれかけた意識を留めるべく踏ん張った。
「……はい!!」
「朔太郎さん、本当にいけますか?」
少し前に出て、なるべく亡霊や眷属の数を減らしてくれていた泉が、萩原の隣に戻って声をかけてくれる。北原の声を同様に聞いたのだろう。萩原は頷いた。
「信頼されてるから、やるだけなんだ。大丈夫……僕たちなら、やれるよ、泉さん」
「……良いですね、その意気です。そう来なくては」
泉も口角をつりあげた。羽織の裾をパンと叩いて仕切り直し、真っ直ぐに立って御者の鞭と向かい合う。
「誰かに信頼されることは重い。ですが、それを真に自分の力に出来れば、僕たちは何にも負けません」
萩原も手汗を袖でぐいと拭い、滑らないように何度か拳を握り開きして、改めて銃を握り直した。
最早日陰はない。辺りの木は燃え尽きた。萩原も頭痛がしているし、泉も顔色が常より青白い。大きく動くなら次が最後だ、と、萩原も何となくわかっていた。
「朔太郎さん。奴の急所は分かりますか」
近づく亡霊は、塵を払うように斬る。泉の手は度重なる同じ動作で震えている。
「はっきりとは分からないけど、予想してるところはあるよ」
「奇遇ですね、僕も一箇所、ここではないかと考えています。同時に、言ってみますか」
御者が高く腕を振り上げる。鞭を地面に叩きつけ、使い魔たちをけしかける予備動作だ。萩原は銃口を向けた。
『鞭を持つ手首』
ドン、と一発。無防備に高く上がった御者の手首が、鞭ごと吹き飛んだ。
『――ッッ!!』
ぐらり、御者が傾くが、馬車から落ちはしない。主人の混乱が伝染したように亡霊たちの動きが活発化し、陽動のために大きく旋回しがちだった個体たちも含め、一斉に萩原たちに襲いかかる。
「……ふぅ、」
泉は肺にいっぱい、熱を吸い込み、細剣を構え、突進した。一点を突破するため、有象無象は眼中に入れず、亡霊の手先が掠めても、嫉妬の火の粉が頬を焼いても、御者の男が再び、慣れぬ片腕で鞭を握るのだけを視野の中心に置き続ける。
「泉さん!!」
萩原の銃が、最後の馬の腹を撃った。傾ぐ身体をすり抜け、馬車の前に走り込み、
「その首、貰い受ける」
剣を振り上げ、御者の手首をもう一本切断した。
『――……!!』
御者はもはや何も出来ない。ぐらりと倒れかかる、その瞳は憎悪に満ち、歯ぎしりで歯を砕き、醜い面を晒す。それが一瞬哀れに思え、泉はもう一太刀で、御者の首を落とした。もう、叫びすら上げずに消えていく。
御者に従い、炎も、亡霊も消え去った。気の毒な馬も消失した。後には焼け爛れた地面だけが、煌々とした日に照らされる。泉はその真ん中にぐたりと膝を着いた。流石に、頭痛が酷く、目の前も定かでなくなっていた。ふう、ふう、と早い呼吸が胸苦しい。
「い、泉、さん」
ふと泉の身体を覆うように影が差しかけられる。見上げると萩原が、泉が作ってやった日傘とは別の唐傘を差して、影の中に自らと泉をなんとか収めていた。
「ありがとうございます、朔太郎さん……流石に、疲れましたね」
「うん、うん……でも、良かった……」
辺りに蝉時雨が戻ってくる。戦闘中の意識が徐々に日常に帰ってくると、赤ん坊の泣き声にも気づいた。見ると、女はうつ伏したまま動かず、赤ん坊はまだ泣いているが弱々しい。日に照らされておりいかにも暑そうで、二人は親子の元まで這って寄り、物語が正しく進む時まで、もう一本の傘に入れてやることにした。
「石川君達は、どこまで行ったんだろう……」
「さあ……ですが、きっと新太郎さんを取り戻してくれるでしょう。北原さんも行ったのですし、石川さんも……多少は、気が晴れたみたいですから。きっと上手くやるはずです」
「……そう、だね」
萩原は、泉が赤ん坊を優しく撫でてやるのを、ぼんやり眺めた。母親でないので泣き止まないが、号泣はおさまり、ぐずるくらいまで落ち着いていく。
「子どもが、好きなの」
「……何故でしょうね。新太郎さんもそうですが、何故か、可愛がってやりたいような気にさせられるんです」
「そうなんだ……」
「……確か、近くに橋がありましたね。橋を渡すなら……小川のひとつでも、あるはず。不衛生ですが……水を染み込ませた手拭いで、汗や汚れを拭き取るだけでも、幾らかマシになるかもしれません」
萩原は自ら立ち上がり、「探してくるよ。泉さんは、ここで親子を見ていて」と言った。泉は微笑み、
「では、簡易的な浄水装置でも作って待っていますね」
と返した。
「啄木! どこだい!」
石川を追ってきたはずだったが、北原はその後ろ姿を見失っていた。進めば進むほど影が濃くなり、辺りが薄暗くなる。あれほど暑かった日差しが木々に遮られ、脛を傷つける落枝も避けられなくなった。汗は引き、寒ささえ覚え、銃を持ちながら腕をさする。
「こんな奥まで。あまり進みすぎると、世界の外へ出てしまいそうだ」
小説内に描写された世界は、描写された限りの範囲に留まることが多かった。この作品で森や林の奥へ潜って行った記述はない。ある境を超えると、別の作品の世界に移ることもあれば、時空の狭間のような場所へ辿り着くこともある。書かれていない場所は不安定で、用が無ければ行かない方が良い、というのが基本だった。だが未だに、石川と子どもが見当たらない。誘い込まれたのでなければ良いが、と、北原は心中の予感を黙殺した。
「こう暗いと、あの影が紛れて見えないかもしれないね。おぉーい、啄木! どこかに居るなら、返事を! おぉーい」
すると、左前方の闇の中から、
「白秋か!」
石川の声がする。すぐさま走ってゆこうとした時、声が続いた。
「こっちに向かって撃て!! こいつっ、俺様の銃じゃ意地でも黙らねぇ!!」
「……」
罠か、と考えた。石川の声は急かしてくる。先の戦闘で、石川の弾丸は影を貫通し影響を及ぼさなかったのを、北原自身も視認している。
「……分かった!」
双銃、共に声のする方へ向け、続けざまに撃った。闇の中でどうなったのかは分からないが、少なくとも聞こえてくる悲鳴は人のものではない。
「……白秋! 白秋、こっち来い! 手伝え!」
元気そうだ。北原は肩の力を抜き、はは、と笑って、緩く首を振った。
「人使いが荒いやつだね、全く。お礼のひとつも無いとは」
果たして北原が声のした方へ行くと、石川が草むらにしゃがんでいる格好で、何か激しくやりあっているらしかった。
「逃げんなくそ、暴れんじゃねぇ」
近づくと、黒く膨らんだ何かを、両腕と体を使って取り押さえている。その膨らみ方を見た北原は、ふむ、と少し思案した。
「うぐっ、抑えきれねぇっ……白秋はまだかよ、あいつっ……」
「僕ならここにいるのだよ」
「いるんなら助けろ!! こいつを大人しくさせんの、手伝えっ……いってぇ!」
影は薄暗い中でいっそう濃く、輪郭がはっきり見えた。石川の腕の中で時折つきのけるように一部が飛び出す様や、ひっきりなしに蠢いて時折甲高い音を出すのも、北原にとあるものを想起させてやまない。そこで北原は、銃を収め、代わりに手の平へ一本の長い布紐を作り出した。
「啄木、君はその影をどうするつもりなんだい」
「あぁ!? どうするって何だよ!」
「抑えきったら、倒すのかい。銃で撃って」
「馬鹿言え、こん中にガキがいるんだぞ!」
北原は笑んだ。
「それを聞いて安心した。ちょっとそのまま、抑えていなさい」
「はぁ!? それが出来ねぇから、ってなんだそれ」
北原は石川が全身で覆い被さるように抑え込む影に紐をかけた。よく動き一時もじっとしない黒いソレに、優しく声までかけてやりながら、
「よし、よし。元気な良い子だ、寂しかろう」
手早く紐を通し、からげていく。すると不思議なことに、北原が声をかけると影の動きが少しずつ弱まる。弱る、と言うよりも、大人しくなる、という方が相応しい変化を見せ、やがて北原が少し手を止める頃には、僅かな抵抗を見せるように身動ぎをするばかりになった。
「うん、うん。さ、啄木、手を離したまえ」
「いや、お前、この結び方……」
「そら、よいせっと」
北原は影を両腕で抱え、それを石川が立ち上がるより先に素早く、背中に乗せた。
「うおっ!?」
「そうら、おっとうだ。痩せっぽちだが」
「おい何して、重っ」
「何言ってるんだい、病弱な六歳だろう。このぐらい軽々と背負いたまえよ」
「んなことッ……あ?」
石川も気づいて、惚けた声を上げながら、背中を振り向こうとする。影はもうぴっとりと石川の背中にくっついてしまったのだ。それでいてもう身動ぎひとつしない。母親の背中で寝入った赤子のように、しんと静かになってしまった。
「……どうなってやがんだ」
まだ分かっていない石川に、北原は、影を撫でてやりながら答えた。
「この子は、君の子なんだ」
「俺様にガキはいねぇ」
「僕が僕の詩を我が子のように慈しむのと、同じことだよ」
「……」
「おかしなことじゃあないだろう。僕たちが書かなければ生まれなかったという意味で、子供だと言うのは間違いじゃない。この作品も、この子も、かつての君が書いてやったからこそ、こうして生きていられているんだ」
影は、撫でても感触がないはずだが、手のひらには綺麗に剃りあげた綺麗な形が感触として伝わってくる。石川の言った通りであり、北原の考える通りでもある。
「君はこの作品でこう書いていたね。『男と女が不用意の歓楽に耽つてゐる時、其不用意の間から子が出来る。人は偶然に生れるのだと思ふと、人程痛ましいものはなく、人程悲しいものはない。』と。それは確かにそうかもしれない。けれど、望む望まざるに関わらず、生まれてきた子たちは愛されるべき存在としてこの世に降りてくる。この子がいずれ、自分の誕生を嘆かなくてはならなくなるとしても……」
むずがる影を、慈しみ、撫でてやる。藤色の瞳はどこまでも柔らかい。
「それでも、この子を愛した人たちを、君はちゃんと書いた。それが答えだよ、啄木」
「……」
「そういうものだ。必ずどこかに、見ていてくれる誰かはいるものだよ」
「…………」
石川は、顔を伏せた。目も瞑る。
「……こいつは、これから、あの乞食の女の血を見るんだぞ」
声がいつもより数段低い。
「不条理を恨んで、否応なしに振り回された挙句に運命に打ちのめされた女の血を、見るんだぞ。それでも、そんなことが」
「言えるさ」
石川の肩に、北原はそっと手を添えた。重しを載せるようでも、支えるようでもある。
「愛されていたことに、変わりはない」
「…………お坊ちゃんだもんなぁ、お前」
「これでも君より、人生はやったのだよ。君もこれから、わかるようになる」
「……」
「さ、行こう。泉さんたちを待たせているから」
とん、と肩を押してやると、石川はふらつくように三歩進んで止まった。そこで止まっても何にもならないので、北原はとんとんと押してやりながら、子守唄を歌ってやる。ゆっくりとしたリズムに合わせて、影を下から支えて揺らしてやると、石川の足もゆっくりと進んだ。
「あ、先生、石川君……」
「おや……可愛らしいじゃありませんか」
萩原と泉は、石川らが漸く戻ってきたのを、安堵で迎えた。一つの唐傘に二人で入り、泉の傍らには妙な装置らしきものと、小さな湯呑が二つある。萩原の側には手桶があって、日の光にちらちらと光っていた。
「おや、良いものがあるね」
「北原さんも如何ですか。僕はやはり飲めそうにありませんが……お二人の分の湯呑もありますよ。新太郎さんの分も」
「意外と、飲めます……田舎の水だから、かな。じ、自分がいれます」
「ありがとう。頂くよ」
北原は石川を置いてさっさと萩原の元へ行き、萩原から受け取った湯呑を煽った。石川はちょっと背中を見る。微かに寝息が聞こえる。
「こいつの分は要らねぇよ……それより、女と赤ん坊はどうした?」
「こちらに」
泉が指す先に、女と赤ん坊が横たわっている。女は泥だらけの手を投げ出し、腕の中から赤ん坊が這い出しても気づかない。
「生きてるか?」
「ええ。今なら、まだ」
「なるほどな。俺様のはあとでいいや。白秋、これ外すぞ」
「おや、もう外してしまうのかい。折角板についていたのに」
石川は、自分と子どもを結んでいた布紐の結び目を解き、「俺様にはやっぱ、荷が重ぇや」と独り言ちた。影の塊でしかなかったものはいつのまにか、あの時計の玩具を受け取った子どもの姿で、完全に寝入っている。
「良く寝ていますね。寝心地が良かったのでしょうか」
「なわけねぇよ、疲れてたんだろ。それより、こいつはまだ女の血を見てない」
石川は女の前に片膝をつき、手を伸ばして、女の額に掛かった前髪に触れた。汗と垢でじっとりと固まり重い髪の筋には、赤いものが滲んでいる。普通に考えればとっくに凝固していそうなものだが、触れた石川の指はまだ濡れた。紅の色に思い出される光が別にある。
「……健気な奴。そんなのばっかだ」
石川は血の付いた指を握り込んだ。立ち上がり、泉が手袋越しに撫でてやる子どもの元へ戻る。萩原は北原から空の湯呑を受け取った手のまま、「起こすの?」と眉尻を下げた。
「ああ」
石川は子どもの背中に手を置く。
「いいの、石川君」
「何がだよ」
「話を進めると、きっとこの親子は……」
「何を気にしてんだよ、萩原。そいつらは、乞食の母親と、その子どもだ。それ以上でも以下でも、ないんだぜ」
でも、と、揺さぶる前に、穏やかな寝息に耳を澄ます。『夏、畳の上、通りに面した窓を開け放した床屋の二階二間に寝そべる子どもの頭に手を伸ばして撫でてやる』幻想が、脳裏に薄く過る。
「……起きるな、起きるな」
呟き、自嘲した。
「お前にゃ夕暮れは、まだ遠すぎるか」
「はッ」
子どもはうつ伏せから勢いよく顔を起こした。額に砂利が食い込む痛みが、寝起きのぼんやりとした意識をゆっくり覚まさせる。悪い夢を見ていたような、良い夢であったような、複雑な心境だった。辺りを見回せば、そこは若松の並木の下。何故こんなところに、と困惑し、身を起こした時、ふと視界に入ってきた異物にぎくりとする。
「ワッ……」
目と鼻の先に、汚い女がうつ伏せになって倒れていた。乱れた衣服も真白い肌も土気と汗と垢に塗れてほとんど茶色がこびりついている。更に悪いことに、誰がやったのか、草付きの土が半端にかけられている。子どもは咄嗟に、同級の子供等の仕業だと考えた。決して自分が、そんなことをするはずはないと強く思わねば、足がぐらぐらしてまた眠ってしまいそうだった。
「う、ウゥ」
なぜか子どもが目を離せずにいると、その視線を餌にでもしたかのように、俄かに女が身動きをする。頭を擡げ、前髪が落ち、酷い疲労と苦痛に歪んだ眼が、何も知らぬ子どもを映す。その額から、つぅと一筋、紅の筋が伝い、頬から顎、首を伝って、胸の方まで。
子どもは、何もできなかった。視界の縁に、別のものが映っていた。それはぐったりと横たわる赤ん坊で、浅い呼吸を繰り返すばかりで泣き声一つ上げない。子どもは、見ていた。何もできないというのに、女の眼差しと、伝い落ちた血の筋とが目に焼き付く。
赫灼たる炎天、子どもはひとりの母親が、子どもを守り切ることも出来ずに力尽きていくのを、じっと見守った。
