「母子」

「さっぱりしたね。気が晴れたかい」
 潜書室へ向かう途中の廊下で、北原が壁にもたれかかり、腕を組んで待っていた。
「白秋、何こんなところで油売ってんだ」
「君を待っていたんだよ、啄木。少し話がしたくてね。時間にはまだ少し余裕があるから、付き合いたまえよ」
「どっかに行く余裕はねぇぞ」
「ここでいいから」
 北原が一体何の用があるのか、まさか小言かと疑いつつ、石川も北原の隣に並んで壁にもたれた。北原の手にいつもの本があるのを見て、どうやら補修は終わったらしいと悟る。確かに道中登った階段も随分足が軽かったような気がした。
「……司書に、会ったか?」
「司書さんの機嫌が気になるかい?」
 気になるだろうね、と言われても、素直に頷けないのは石川の常だ。北原も分かっている。
「司書さんはご機嫌斜めだったよ」
「あいつが?」
「どこかの万年助手が無茶なことばかりするから。挙句にちっとも目が合わないとくれば、怒るのも無理はないよ」
 ご最もだ。石川も苦虫を噛み潰した顔で、もう前方に少し見える潜書室の看板から、また目を背けた。
「顔合わせたくねえー……」
「自分から逃げたのだから腹を括りたまえよ。君も男子の端くれなら、『泣いてはなりません』だ」
「るせぇ」
「まあ心配はいらないさ。ご機嫌斜めと言っても、実際彼女のことだからね。どうしても気が引けるなら、僕も一緒に行ってあげよう。お詫びの品を選ぶ手伝いまでなら、してあげなくもないよ」
「……やけに優しいな。いつもは『人を巻き込まないでくれ、自分のしたことは自分で責任を取りなさい』なのによ」
 北原は、伏し目がちに、薄く笑った。
「君の不調の原因の一端は、僕にあるかもしれないからね」
「……はぁ?」
 青天の霹靂、否、意味のわからない告白で、石川は否定するのも忘れてぽかんとした。北原が原因になるような出来事に、一切覚えがない。北原だけは深刻で、緩く両手は体の横に下げる。
「君の不調は、執筆に由来するものだろう。生前君の小説が、特に初期の頃に受けた不遇、それ自体は作家につきものだ。当たり前の、よくあること。でもあの時期の君にとっては死活問題だった」
「……よせよ」
「作品が受け入れられなかった君は、あの頃、死を思うまで思い詰めていた。やめてしまっていた短歌を、堰を切ったように歌い始めるに至ったことは、今にして思えば複雑にすら思えてくる……焦りに反し、収入が無いまま、下宿代の催促が嵩んだ」
「おい今その話関係……」
「今、君は、その頃の君自身と、無意識に近いところにいるんじゃないか。これは僕の仮説だ」
 北原は真剣だ。語る言葉にいつもの余裕が無く、石川が茶化す隙すら与えない。北原が何を考えているのか、あまり感じ取れないが、思い詰めているのは今むしろ北原の方のようにさえ見える。
「君は君でいるだけで、人の視線を集める。君が望むかどうかに関わらずだ。短歌の新たな道筋を作り出した君の言葉は、身近な生活に根付いた心が籠っているから、誰しも君のうたを聞けば、どれかに共感するんだ。君の言葉には誰もが注目する。次はどんな歌をうたってくれるだろうと……僕も同じだった」
「……」
「なんでも、過剰なものは、負担となる。増してや、君が書きたいものとズレているとすれば、負担は想像以上だろう……それが君の不調の一因になったのではないか。とね」
 僕なりに、と、笑う。眉尻を下げた笑みですら、優しい風が吹くようで、怒る気分も湧かない。石川は「なぁに言ってんだよ」と照れ隠しに、北原の肩を強めに叩いた。不意を突かれた北原の体が傾ぐので、更に重ねて何度も叩いてから、「でも、まぁ」と、非難の眼差しを避けた。
「そんだけ俺様のこと、考えてくれたんだな」
「何を今更……」
「考えてくれたお礼に、ひとつ勘違いしてることを教えてやろう」
「……勘違い?」
 石川は、緩く握った拳を北原に向けた。殴りはせず、フリだけだ。指の甲が北原に向く。
「俺様は期待には応える男だ。どんだけ時間がかかろうが、借りた金は返すし原稿頼まれりゃ間に合わせる、仕事がありゃ期待以上に働く。つまらねぇ仕事ならサボるけどな」
 もはや、知っているだろう、とすら聞くのは野暮な間柄だ。だから石川は代わりに、不敵な笑みを見せてやる。好んで様々なものを背負おうとする優しい男へ。
「見くびんなよ。どうせ気にするんならこう言え。『折角書くなら、僕を唸らせるような傑作を書きたまえよ』ってな。そんだけで、昔と今じゃ、全然話が違ってくるんだからよ」
 北原は、石川の目を見て、はっとして目を丸くし、それから拳を見て、「あぁ」と、納得したように零した。
「そうか。そうだった、君は……そういう奴だったね」
「言い直すなら聞いてやるぜ」
「いいのかい? じゃあ、お言葉に甘えて」
 安堵と、喜に近しい感情とで笑みを浮かべ、北原は石川の拳に、自分の拳をこつんとぶつけた。
「誰もの心を強く揺り動かす傑作を書き、大作家になりたまえ。僕は君の歌も、詩も、評論や小説にも、大いに期待しているのだから」
「おう。……」
 優れた詩人が紡ぐ言葉には、力が宿る。真正面から受け取ることが出来た幸運な読者には、時に頼もしく、時に優しく、言葉が寄り添う。北原の言葉は詩でこそないが、石川には必要だった。言葉に嘘をつかない北原からの期待は、若山のものと少し違った形で、浮動しかける心の要石に収まってくれる。
「それでこそ、白秋だよな」
「……? よく分からないが、ありがとうと言っておこうか。あぁ、それと、朔太郎くんも君のことをたいそう気にしていたよ。もう先に潜書室へ行っているはずだから、君に事情がなければ、声をかけてやっておくれ」





「お待ちしておりました」
 潜書室には、もう泉と萩原、司書が揃っていた。司書と真っ先に目が合い、石川は不器用な微笑を返すよりも、無造作に片手を上げる選択をした。それで司書はほっと息をつき、あとから着いて入ってきた北原に軽く一礼する。
「御一緒だったんですね」
「ちょっとそこで話をしていてね。少し遅れてしまったかな」
「時間通りですので、問題ありません。では、石川さん」
「おう」
 返事をしがてら、石川は萩原を視界の端に見つけた。わざと石川の視野から逃げようとじりじり動いているらしい。
「本をお返しいたします。こちら、ご確認ください」
 司書は丁重な手つきで、陰気なノートを差し出した。石川は片手で受け取り、形式的に中を検めるが、その前に随分軽くなったのを感じる。中に問題が無いのを見、すぐに閉じて定位置に押し込んだ。この本に対する意識自体は、然程変わらない。
「ご気分はいかがですか」
 司書は気遣わしげだ。無理もない、と思えるくらいには、石川にも余裕が戻っている。一応小説のモデルにしようと考えている女が、少し前にしていたはずの表情を覚えていないことに、今更さっぱりと自嘲した。
「まあ悪くはねえな。白秋や、ぼっさん…………と、お前の補修のおかげって奴だ」
 敢えて声を張る。司書も微笑で受け取った。
「それは良かった、本当に。……こちらも、補修は完了しています。どうされますか」
 布張りの小さな箱を開けて見せられた。中で指環の石が、小さく、鋭く光る。終わりの見えない戦いの中で、二度も石川の目を眩ませた、紅の輝きだ。
「サンキュー」
とだけ言って、箱から指環を引き抜き、ポケットに突っ込んだ。司書は顔を綻ばせる。
「承知しました。……しかし、やはり剥き出しは危険ですよ。つけていかれるか、箱の中にでも」
「るせぇな、落としやしねえっての。大事なモンなんだから」
「大切なものですが、管理が不足では、ご自身で落とさないつもりであっても……」
「お前は俺のカカアかよ。箱ん中になんざ入れてたら出す時に手間取って、敵の攻撃を食らっちまうっての」
 北原はくすっと笑った。泉は呆れ、「急を要するのではなかったのですか?」と苛立った。司書は咳払いをひとつして、石川のポケットの辺りを一瞥してから、居住まいを正して四人を見渡す。
「では、現状について、改めて手短に。現在、対象図書の侵蝕は中程度で一時的に停止。前半部分はほぼ収束していますが、後半、特に最終部……そして奇妙なことに、最序盤部分の侵蝕が重い状況です」
「おや。最序盤と言うと……潜書して最初に入った、あの村か。あの村は侵蝕を受けた『二筋の血』が辿る未来を表している、というのが、啄木の予想だったね」
 北原の言葉に、石川も短く「ああ」と同調し、司書も頷いた。
「皆様が遭遇した影が、恐らく侵蝕者の親玉か、それに近いものと見て間違いないでしょう。引き続きの目標は、影の捜索と撃破です。充分に気をつけて進行してください」
「このまま浄化を続けていけば、自ずと姿を現すでしょう。次こそは必ずや打ち払ってみせます」
 泉は胸を張った。もうどこにも傷はなく、全快して表情に力が戻っている。
「泉さん、補修は完全に行いましたが、病み上がりには変わりません。どうかご無理なさらずに」
「もちろん。先程紅葉先生に励ましの言葉を頂きましたから、もう遅れはとりません。魂を賭けて戦いましょう」
「相変わらず張り切ってんな、泉センセイは」
「貴方も気張るのですよ、石川さん。皆で、この作品を浄化し、僕たちの文学を守り抜きましょう」
「はは。……藤野さんが板に着いちまったなァ?」
 泉はにこりとして、「未来ある少年の導きにふさわしい振る舞いが出来ていますか? であれば褒め言葉と受け取りましょう」とすげなく返した。石川も「揚げ足とられなくて良かったぜ」と、喉奥でくくっと笑い、これから自分たちが潜る本をようやく見る。
 真紅の装丁がされた薄い上製本が、開いたまま、下から噴き上がる光の中に浮いている。侵蝕は一時停止しているというが、石川らが侵蝕の只中で撤退したためか、半分以上に洋墨の滲んだページが露わになっていた。それを見て、初めて、哀れを感じる。生前見向きもされなかった作品が、今になってこのような辱めを受ける謂れも無いはずだと、ようやく思えた。
(じゃあ、俺様が何とかしてやるのが、やっぱ筋ってもんだな)
「よし。じゃ、行くか」
「石川さん」
 戦いが始まってから初めて前向きに音頭をとったそこへ、司書が呼びかけた。
「無茶な真似はしないでください。決して。よろしいですか」
 再会してから、あまりに穏やかであったので、ご機嫌斜めだと北原が言ったのも疑っていた。だが実際、釘を刺した声音は険しい。
「……小言は帰ってから、じっくり聞いてやる」
「石川さん」
「無茶もヘマもしねぇ。ちゃんと浄化して、生きて、帰ってくる。だから信じて、待っとけ」
 司書の表情はそれでも晴れず、言葉で足りないのは一見して分かった。いつまでも曇られるのも気分が悪い。石川はずかずかと寄っていって、
「おら」
辛気臭い額を指で弾いた。
「痛っ」
額を手で抑えた司書を笑い、石川は司書の頭に手を置いた。ぐしゃ、と一度乱して離し、
「一番手柄あげてきてやるよ。全部終わったら」
「……?」
「この件をネタにして、一本書いて読ませてやる。だから首長くして、待ってろよ」





「大きく出たねぇ」
 再潜書直前。本の正面に立った石川の隣に並んだ北原は、誰にも知られないくらい小さく笑っていた。北原を挟んで石川と反対側に萩原がおり、その袖を北原ががっちり掴んでいる。泉は北原と反対の、石川の隣に立っており、北原の話しかけには口を噤んでいる。
「一本、書けるのかい」
「るせぇ、言っちまったからには書く、書いてやるよ」
「ふふ」
「まずは書き上げるとこからだって、色んな奴らに言われてんだ」
「それはそうだね。でなければ、始まることさえできない」
 北原は背後を肩越しに振り向く。そこには見守る司書がいるはずで、石川はもう振り向かないと決めたが、潜書が始まって紙面から光が溢れ出した頃、
「彼女は本当に、君を――……」
最後まで言わずに文字の渦に呑まれていったものだから、石川は意識が一瞬途切れるその時まで、振り向くか否かを迷う羽目になった。





「石川君たち、また潜ったんだね」
 四名全員が、書の中へ向かったのを見送った頃、扉から高村が覗き込んできた。司書は振り向き、「はい」と頷く。
「様子はどうだった?」
 高村が心配を隠さないのは、本人がここにいないのもあろうが、潜書からの帰還時に石川へ声をかけようとして、一言も交わせず逃げられたことに由来する。司書もそれを知っているので、話の内容よりも、事実を中心に述べようと決めた。
「全快とまではいかないようですが、補修自体は完了させています」
「そう、頑張ってくれたんだね。僕からもお礼を言わせてくれ、ありがとう」
 司書は緩く頭を振る。「今私に出来る限りをしたまでのことです。特に石川さんは、北原さん方とのお話もあってようやく……」
「……ようやく?」
「七割、かと」
 高村は少し目を見開いた。
「それは、何の数字? 補修は完了しているんでしょう?」
「ええ。それを含めても、まだ好調とは言えません。よほど……石川さんの心に差した影が、根深いものであるということかと」
 高村は潜書室に全身入り、後ろ手に扉を閉めながら、「なるほどね」と思案した。
「恐らく石川君の不調は、彼の生前、そして今も受けることのある評価に由来する……元を断たない限り、完全復活は難しい、ということか」
「仰る通りです。しかし世間一般における評価というものは、一朝一夕に、何も無くして覆せるものでもなく」
「結局、本人次第、ということでもある、か」
 司書は物憂げに俯く。その額に薄く赤みが残っているのを見た高村は、ふ、と口元を緩める。
「そう気を落とさないで。石川君のことだ、彼が絶好調な時といえば、人の奢りで豪遊できた時や、賭け事で大勝ちした時ぐらいのものだよ。帰ってきた時の、あの酷い顔を思えば……七割も元気があるなら充分だ」
「……そう、そうですね」
 高村は、ふふ、と笑って、司書の額を指さした。
「石川君にやられたの?」
「はい……突然」
「あの男、照れ隠しが下手だよね」
「……そう、なのでしょう、か?」
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