「母子」

 泉の本は、開く前から、表紙と裏表紙を貫通する位置に大きく、抉り取られた空間を作る形の濃い染みが見られた。本人は脇腹をやられたと申告していたため、その傷の反映と考えられた。幸い頁の欠損は無い。調速機を使用しなければ、補修は数時間あれば済むだろう。だが、今回は時間がない。
「いったい、何があったのか。全てが終わったら、聞けるのでしょうか」
 部屋を閉め切り、万が一のないように鍵をかけ、調速機の調整をしながら、司書は泉の本の隣に置いた石川の本を見た。先程四名全員の本を確認したが、最も攻撃を受けたとされた泉よりも、石川の本に表れた侵蝕の方が程度が酷かった。それも染みではなく、文字の歪みや乱れと言った形で表れている。それは指環も同様だ。元来美しい石に、今は悍ましい洋墨の濁りが蠢いている。固有の本や指環の状態は、魂で繋がる文豪へ直結する。
 侵蝕者との戦いは長引いたと、萩原や北原、泉が言っていた。石川は突如現れた少年型の侵蝕者からの襲撃を受け、一人応戦していたという。その戦いで受けたダメージなのだろうか。
「しかし、指環の侵蝕は様子がおかしい……傷が無い。外傷もなくこんな汚染がされるとは……或いは、内側からの……」
 刃が受けた傷の反映というよりも、使って放置された装飾品が次第に錆びて曇ったようにも見える。洋墨が蠢く侵蝕からそんな印象を受けることも奇妙で、司書は唇を噛むしかない。結局何も分からないも同義なのだ。
 司書は、医務室を固辞した石川の背中を思った。言葉を交わさねばと思うのだが、一度も目が合わず、どこかへ行ってしまった。本がここにあり、一時間という制限がある以上、そこまで遠くへは行かないだろうが、果たして戻ってくるだろうか。
「……」
 司書は頭を振り、補修すべき目の前の本に向き合った。四名分の補修、軽度様々、これを一時間以内に全て補修しなくてはならない。調速機で設定した時間に余裕は持たせなかった。可能な限り素早く、事を運ぶべき時だ。
「始めましょう」
 調速機の稼働を開始した。部屋内の空間だけ、時間の流れが変わる。決まった手順だが気は抜けない。
 油断なく手順をこなすうち、いつか石川が突きつけてきた、刃の光を思い出していた。あの冴え冴えとした光は、これほどの侵蝕を受けてもなお、保たれているものなのか。戦わない司書には、知り得ない。





 石川は一人むしゃくしゃしていた。萩原の抗議も、帰還の判断を告げたときの泉の目も、「それが良いね」と他人事のように煙草をくゆらす北原も、石川の神経を逆撫でした。司書は多くを語らなかったが、何か言いたげな視線を寄越してきていたのは知っていた。大方苦情か、否、司書のことだからただ判断の理由を問いたいだけだろう。己の判断ではないことを説明など出来るはずがない。
 医務室にも補修室にも、潜書室にも帰りたいと思わなかった。事の次第はすぐに仲間内に広まる。そう思うと図書館内にも居たくなくなった。高村が声をかけてこようとするのも無視し、大股で歩き続け、いつしか図書館を出ていた。
 空は重苦しい曇天だった。いつの間にか雨が降ったらしく、地面が泥濘んでいる。泥を跳ね飛ばしながらずかずかと歩き続け、敷地を区切る門の境を跨ぐ。このままどこまでも遠のいてやろうかと考える。ポケットに手を入れたが、何も入っていなかった。舌打ちを一つし、北原がくれようとした煙草を貰うだけ貰っておけば良かったと後悔した。だがもらっていたとして、火を点けるマッチもない。何も無いのだ。

『君はずっと、こんな作品は消えてしまえば良いって、思ってる。でも、それは、君の自傷だ』

「だったら何だってんだ、クソが」
 その辺に転がっていた石ころを靴底でなじる。ぎりぎりと軋む感触が微かに足に伝わる。
「俺様の書いたもんを俺様がどうしようと勝手だろうが。どうしようがどう思おうが、お前らに何の関係がある。どうせこんなことでもなきゃ、見向きもしなかったくせに」
 踏んだ石ころを蹴飛ばすだけで飽き足らず、近くの雑草を足で薙ぐが、雑草であるが故に強く、いくら蹴っても立ち上がってくる。その強靱さがまた石川を苛つかせる。
「誰も読まねえ本が侵蝕されようが消えようが、何も困らねえ。読まれねえ本なんざ無数にある、そのうちの一冊があれだってだけだ、何でこんなとやかく言われなきゃならねえんだよ。何で俺様が悪者にされるんだ、ふざけんじゃねえ」
 雑草を蹴っていると、先に蹴飛ばした石ころがまた飛び出してきた。ころころと目の前に転がる様は無様だ。己を詰った相手の前に平気で転がり出る様が、また酷く石川の癪に障る。どうせ誰も見向きもしない石ころだ。ちょうど近くに側溝がある。最近の雨で増水したか、ごうごうと音を立てて流れている。蹴り入れれば流されていくだろう。水やコンクリートに削られて、やがて跡形もなく砕け散るだろう。その様を考えると総毛立った。知らずに口角が吊り上がった。蹴り入れてやろうと片足を引き、
「荒れてるなあ、啄木」
間の抜けた馴染みの声がそれを止めた。
 顔を上げると、いつの間にか、若山がそこにいて、赤ら顔でゆるい眼差しをしている。ほんの少しも尖ったところのない柔和な眼差しで、石川を見ている。
 雲の切れ間から日が差して、この辺りを温かく照らす。やめろと言われたわけでもないのに、それで石川はなんとなく、石ころを蹴飛ばす勢いを失ってしまった。
「……ぼっさん」
「お前さんがどうにもならなくなってる時は、すぐに分かる。悪態ついて、ものや周りに当たり散らして、歩き回る。分かりやすいのは助かるが、もうちっと頼って欲しいもんだなぁ」
「いつの間に」
「お前さんがずかずか出てくところを、たまたま見かけちまってな。着いてきちまった」
「……」
「啄木や。お前さんは目が良いだろ」
「…………」
 石ころを蹴飛ばす力は完全に失せ、石川はぼうっとそこに突っ立っているだけになった。案山子のようになったそこへ若山は近寄り、痩せっぽちの背中に腕を回す。
「しっかりしたと思ったら、また痩せたか? ちゃんと食ってるか、最近」
「……ぼっさん、俺」
「腹が減ってるのさ。そういうときの人間はろくなもんじゃない。帰って食堂で簡単に食おう。それともこのままどこかで、買い食いでもしていくか?」
「何も、持ってねえ」
「今日ぐらいは俺が奢ってやろう。何か食いたいものはあるか?」
 鼻の奥がツンとするのを堪え、石川は眉に皺を寄せた。あやすようにぽんぽんと軽く叩かれる。他人の心など分からない。だが、若山は決して、石川啄木を侮ったりしない。
「……ぼっさんの、奢り?」
「ああ」
「……お結び、塩」
「おや、後は?」
「ぼっさんの佃煮……と、茶。熱いやつ」
「じゃあ図書館に帰らなくちゃならんぞ」
「もう、いい」
「お前さんは本当に、寂しいくらい手がかからなくなっちまって。作ってやろうな。行こう」
 酒が入って熱を帯びた手のひらに押され、図書館の方へ一歩踏む。少し石ころを振り返ると、置き去りの一欠片がぽつねんと静かに転がっている。蹴り入れようと考えていた、あのごうごうと音を立てていた側溝は見当たらず、静かなものだった。





 食堂に入ると、もう昼時も過ぎていたせいか、人はまばらだった。石川は適当な椅子に腰を下ろし、若山が厨房にふらりと入っていくのを眺めた。
中の片付けの職員に挨拶なんかをしているらしい声が遠い。待っていると、あちあちと声が聞こえる。ぼうっと眺めているだけで、多少落ち着く気がした。
 やがて若山は、結びを二つ載せた皿と、小皿に盛ったニシンの佃煮、大根の薄く切ったのが入った味噌汁、空の湯飲み二つに急須、これらを盆に載せて運んできた。「味噌汁はおまけだ」と言って石川の前に配膳すると、若山も石川に座り、自分の湯呑みに茶を注いだ。
「そら、全部お前さんのだ。俺も茶を貰うが、無くなったらまた入れてやる。足りなかったら幾らでも握ってやるから、遠慮しないでガツガツいけ」
 結びは丸みの強い三角にくるりと海苔を巻き付けてある。手に持つと指先に痺れるような熱が伝わった。
 一口かじりつくと、米粒がほろりと解れ、仄かな塩味と米の柔らかな甘みが舌に溶ける。箸の先でつまんだ佃煮を一切れ口に入れると、辛めに炊かれたニシンの味に食欲が更に呼び起こされて、食べているのに腹が鳴った。急に腹が空いてくる。結びに、先ほどよりも大口でかぶりつく。
「むぐ、っ」
「そう焦らなくても、食べ物は逃げんよ。ゆっくりでいい」
 そんなことは分かっていると返したかったが、手が止まらなかった。洋墨や土埃の臭いに曲がっていた鼻がうまそうな香りに気づき始め、味噌汁に手をつける。熱く溶けた味噌の深みが胃の腑に染みて、思わずほっと息をついた。汗をかいていたからか、塩分が効く。うまい。ちゃんとした食事を口にしたのはいつぶりだろうと思った。
 結びを一つ胃に収め、間を置かず二つ目にかじりつく。味噌汁や佃煮があるからか、二つとも具がなく、仄かに塩がまぶされているのみだ。これで調和がとられている。いつ食べたか思い出せない梅干し握りの味を思い出した。
「良い食べっぷりだ」
 石川を見ながら茶を啜っていた若山は、目尻に皺を作った。
「安心したよ」
「……知らねえうちに、結構心配かけてたか?」
「結構どころじゃないし、俺だけでもないぞ。啄木は最近、仕事と調べ物以外は部屋に篭もりっぱなしだったろ。たまにしか見かけない、見かけても何かしてる、遊びに誘っても来やしない。酒を奢ると言ってすら……って、何人が神妙そうに報告したやら」
 石川は少し箸を止めた。そういえば、これまでの半年に、何人かに脈絡なく飲みに誘われたような記憶が、頭をもたげてくる。その誰もが普段通りに、その時は見えていたが、断ると決まって残念そうだったり、何か言いたげにしてやめておく時の顔をしていた。
「……暇な奴らばっかりだな」
 箸で味噌汁の大根をつつき、ほくほく解れたのを口に入れた。まだ青いところだったのか、少し苦い。
「お前さんに一目置いてる奴がそれだけいるってことだ。そういや多喜二もいたな。お前さんが……小説の新作に手をつけている噂を聞いたらしい」
「……その噂なんだが、どっから流れたんだよ。まさかぼっさんが流したんじゃないよな?」
 石川自身は、自分が小説を書いていることなど、言いふらしたつもりはなかった。どこかで、例えば酔った勢いで、吉井などにはうっかり零したらしい。また高村や北原、若山には、筆が進まないことで、半年ほど前に口を滑らせた。だがそのくらいだ。相手はごくごく身内に限ったから、小林にも言ったことは無いし、他の誰にも同じ。まさかあの司書が、口を滑らせるとも思えない。
「まさか。俺の口は岩より硬い。酔ってたって口は割らんよ」
「……まさか高村か?」
「いいや、誓って他人には話しちゃいないとさ。俺があえて聞きに行った以外は誓って、だそうだ」
 湯呑みを持ち上げ、若山は穏やかに言う。茶の湯気が顔に当たってふわりと散る。
「大方相談の時なんかに、たまたまその辺を通りがかった誰かしらがいたんだろうと、光太郎さんは言っていたな。それを信じるも信じないも啄木次第だが、俺としちゃそんなことより大事なことがあると思うぞ」
「……大事なことってなんだよ」
「決まってるだろ。それだけ啄木の動向を、気にしてる奴がいるってことだ。お前さんが何に困ってるのか、最近何を書いたのか、そういうのを知りたい奴らは大勢いる。お前さんが困ってることがあるなら、助けになりたいと思うやつも沢山いる。白秋もそうだし俺もそうだ。皆啄木を案じていたんだよ。お前さんだけだ、気づいてなかったのは」
 石川はじっと押し黙って聞いていたが、内容が内容なだけに居心地が悪かった。若山に恩を売る気がないと分かってはいても、今のその手の想いは、聞くだけですらずしりと重い。箸の動きが鈍ったのにも気づいてか、若山は湯呑みを下ろし、
「けど、言えなかったんだよな」
続けた。
「あの石川啄木様が、自分の書く小説の意義を見失った、なんて話は」
「っ」
 箸につまんだ大根が割れた。ちゃぽんと音がしても、ちょっとの間硬直した体は金縛りから解放されない。何も言わないでいるのも図星らしく嫌で、何とか絞り出した言葉が、
「……ぼっさん、意地悪いな」
であったので、どちらにせよ同じことだ、と、石川は諦めて嘆息した。





「前、言ったっけ。なんで働いてんのかも分かんねぇって話」
 若山の出してくれた温かい食事を全部食い切ってしまって、ようやく石川は続きを話し始める決心がついた。半年前の話など、人によっては完全に忘れていることもあるが、若山は「安定した生活で、労働と文学の目的が分からなくなった、って話だったな」と大まかにまとめてすらくれる。
「目的が分からなくなったから、手段で勝負するしかねぇって思ったんだよ」
「……それで、調べ物を?」
「そう。昔の俺が書いてたもんを上回るようなもんが書ければ、俺の勝ちだろ。だから、石川啄木が書いてた小説がどんなもんで、どんな風に読まれて、今どう伝わってんのか、当たってみたんだよ」
 若山は、「お前さんの考えそうなことだな」と言いながら、まだ案じている目で頬杖をついた。酒をあえて入れていないのか、少し顔色が悪そうにも見えるが、頻繁に茶を注いで誤魔化しているらしい。気にしないで良いのに、と石川は一瞬思ったが、すぐに思い当たった。
(俺が、今は酒を呑めねぇからか)
「……それで? 成果はあったかい」
 気遣いの声音が素直に有難く、石川は困り眉で破顔した。
「見ての通りだよ。調子が最悪になっちまった。調べても調べても、石川啄木の小説を大絶賛する奴なんかそうそういねえし。部分は褒めるが欠点の方がそれ以上に目につく。論文の枕詞に『啄木の小説は見直されなければならない』だの、『長く生きて経験を積んだ時どんな作品を書いたのか、それが見られないことが悔やまれる』だの。笑っちまった」
 笑ってみせるが、笑える心境でもない。自分で言うのもそれなりに苦しいものがある。若山は止めもしないが、口も挟まずにいてくれた。
「俺には、前に生きてた頃の実感も、ほとんど無いんだ。記憶だってあるにはあるが、兄弟のアルバムでも見るような感じで、だから客観的に見られると思ってたんだけどなー。そう上手くいかなかった。それで余計にわかんなくなっちまった」
「何のために書くのか、か」
「期待してた、いや期待されてたんだ。全部裏切って失敗した。そっから俺は地続きなんだ。……何が書けるんだって話だよな。それなのに」
 砂も握れない手指を広げる。司書に投げつけるように渡してきて、今は手元にない指環の冷たさを、今は多少思い出せる。
「……刃に変わる指環なんざもらっちまったから、あれがあるから、捨てることも出来ねぇ。もう俺には書けねえってしちまいてえんだぜ? 転生しても思い通りにならねぇことばっかだ」
 今回の侵蝕だって、と、さらに口が滑る。
「萩原の言うとおりだ。『二筋の血』になんざ潜書したくなかった。あれは石川啄木の小説の中でも、選ばれない方だ。一回こっきり雑誌に断られただけで音沙汰もなくなった話を、なんで随分経ってから書き直そうと思ったのか、それすら知れねぇ。ただ題材があったから書いただけなのか……ほんとに、『一番早く死ぬ人が、一番幸福な人ではなかろうか』なんてことが書きたかったのか」
 潜書室に四人集まった時から、三人と石川の間には温度差があると、石川自身が一番分かっていた。それを泉あたりが不審がっているのも肌でひしひしと感じていた。普通は著作が侵蝕されれば、一番張り切るのは著者だからだ。石川が出来なかったのは、自身が著作の存在意義を疑っていたからに他ならない。
「終わらなきゃ終われねぇから、ちゃんと浄化の努力はしたんだけどな。分かろうとしたんだが、分からねぇままだった。だから、さ」
 言いかけて、ふと気になり、周囲を見回した。石川と若山以外誰も居ないのを確かめて、それでも地獄耳の誰かがいやしないかと不安があり、声を潜めて、続けた。
「あの侵蝕者は、俺なんじゃないか……って、ちょっと本気で思えて来ちまった。俺、自分を倒さなきゃならねぇのかも」
「……啄木が侵蝕者、ねぇ」
 滅多なことを言うなと、叱られるかと、少しだけ身構えた。だが若山の目元は柔和なままで、「そうだなぁ」とふんわりした相槌が挟まり、
「じゃあ、もう分かってるんじゃないか。お前さんが侵蝕者なら、何をしたら良いのか。どうしてやったら浄化できるのか」
「……けど、まだ俺は」
「それと、『二筋の血』って作品の芯がどこにあるのか」
 芯。そんなものがあるのか、と咄嗟に言い返そうとするが、言葉に詰まる。
「お前さん自身が侵蝕してるなら、ことは思ってるより簡単かもしれんぞ。侵蝕は、負の感情の持ち主が、作品の特に気に食わんところを好き勝手に弄るんだろ? 侵蝕が重いやつは特に、作品の根っこの近いところに侵蝕者の意図も根付いている」
 つまり、だ、と、若山は石川の胸の辺りを指さした。
「お前さんが作品に言いたいことが、侵蝕の形だ。同時に、浄化のためにどうすりゃいいのか分かってるなら、それはお前さん自身が、作品を消しちまいたい想いを、自分で否定したいってことでもある」
「……」
「お前さんは自分に、もっと期待してやっても良いと思うぞ。俺はな、啄木はできる奴だって、心から思ってるよ」
 とん、と、胸の辺りを指先が突いた。
「石川啄木って作家を、もっと信じてやってくれや」
「――……」
 暫く、何も言えなくなった。人の心に打たれて、鼻の奥がツンとすることも、暫くなかった。突かれたところが熱い。久しくそこにも、熱を感じなかった。長らく通わなかった血が、今になってようやく流れ込んできたような。
「……ぼっさんが言うと、あー、そうしなくちゃなーって、不思議と思える」
「お、そうか? そりゃ良い、言った甲斐がある」
「……石川啄木は、書けんのかな」
 自分でも情けない言葉だ、と笑う心がいる。若山も今度は拳で胸を叩き、「そこは書くぞって胸を張れ」と笑った。
「それが出来るのが、石川啄木って作家だと、俺は思うよ」
 肩までどんと叩かれる。もちろんこのくらいで参る石川ではない。石川の体は転生しても丈夫にはならないが、どこまで歩いていっても、それで息を切らし、疲れ、胸に痛みを覚えたとしても、何度でもまた立ち上がれる。転生してから何度も感じた有難さで、次第に自信になっていったことだ。
「……チェッ」
 わざとらしい舌打ち紛いをひとつ。笑みが零れた。
「書けるって言ってくれてもいいだろー? ひでぇよ、ぼっさん」
 冗談交じりの弾みが戻り、若山の目に安堵が光った。
「俺は言ってるぞ、お前さんはできる、啄木ならできるって」
「漠然としすぎなんだよ。でも……おかげでほんとに元気が出て来た」
 湯呑に残った茶を一気に喉に流し込む。もうとっくに温くなっていたので、自分で急須を掴んでもう一杯注ぎ、それも一気に飲み干した。今度は少し熱く、喉がぴりと焼ける感覚がしたが、堪えて飲み干す。腹に熱が戻る。体に、熱が回る。
「そういや言ってなかった、ごちそーさま! ぼっさんが作ってくれたやつ、全部美味かった。また作ってくれよ、気が滅入ってどうしようもない時に頼みに来るからさ」
「このぐらいで良けりゃ、いつでも作れる。いつでも来い」
「サンキュー! やっぱ持つべきものはぼっさんだよな……ありがとな」
 若山は「どういたしまして」と、穏やかに言った。おおらかな山の裾野を思わせる心の構えが頼もしく、石川はようやく席を立てた。盆の上に皿や湯呑を一通り載せ、返却台に返してから、食堂を大股で出て行く時にもう一度振り返り、
「できるかどうかはまだ全然わかんねぇけど、信じてみる。だからぼっさん、良い報せ、期待しててくれよな」
 食堂を出る。後ろから「頑張れよ」と背中を押され、「おう」と返した。
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