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大典太光世は主が小鳥になるのを阻止したい。

 ごぼり、と、咳とは思えぬ苦しく重い空気の塊が、審神者の喉から吐き出された。
 このところの彼女は暑さに耐えかねてタオルケットだけで寝ていたのが、今はその上から夏用の薄手の掛布団と薄手の毛布まで掛けられていた。主が悪寒で苦しまぬようにという、側仕えの短刀たち――特に、初鍛刀の平野藤四郎――の心遣いだった。熱くて暑くて、寒い。体が馬鹿になりそう、と思って、彼女はふと言い古された言葉に思い当たった。

「夏風邪は、馬鹿がひくものと、知ってはいましたが……」
「しゃべるな。寝ていろ」

 間髪入れずに、枕辺から声がかかる。近侍の大典太光世であった。
 青みを帯びた黒の蓬髪は、横たわる審神者を見下ろすと影を作っていっそおどろおどろしいほど。血の色の眼は陰気に翳り、口もとはぎゅうと「へ」の字に結ばれて、風体も表情も辛気臭いことこの上なかったが、彼と付き合いの長い彼女は、その表情が己を案じているがゆえのものだと察していた。
 大典太光世は昨夜から審神者の枕辺を片時も離れなかった。本来非番であるのに戦装束を纏っているのは、審神者の枕元に彼の本体、魔を退け病を祓うと名高きその太刀を献じているからだろう。主に近寄るならば怪異も病も全て断ち斬るという表明であろうか。

「これは風邪じゃない。病魔は見えない。……無理をしすぎたから、疲れたんだろう」

 大典太の声は、低くて静かで、労わりの色があった。
 夏の連隊戦でこの本丸は、治金丸二振り、山鳥毛乱舞レベル4、という目標を立てた。昨年末に入手済みの山鳥毛を目標に入れたのは、死傷者を出す懸念のない連隊戦でそのくらい周回して極刀剣たちの練度の底上げを図りたい、という意図によるので、実際には僅かに届かず山鳥毛は乱舞レベル3となっている。
 練度向上を目的としているのだから刀剣たちに負担をかけることはわかっていたが、それでも可能な限りは刀剣たちを苦労させたくなくて、彼女は連隊戦の期間中ずっと、出陣・遠征・内番の当番表とにらめっこし続けた。その甲斐あって本丸の刀剣全てが疲弊するなどの愚かな事態は一度も起こさなかった。しかし代わりに、連隊戦を終えた昨晩、審神者が熱を出して倒れた。
 申し訳なさに、彼女は眉根を寄せてうめくように声を絞り出した。

「すみませんね、看病なんかさせて」

 大典太は首を左右に振って、水で絞った手巾で主の額の汗をぬぐってやる。彼は昨夜から寝ずに彼女の傍らに控えていたが、元が器物であるので、「眠らない」という行為に対しては、そこまで体に負担は感じていない。それよりも主が熱に苦しんでうめき声を上げるのを見守るしかできなかったほうがずっと苦しくて、息をする心地もせぬほどだった。
 汗を拭う大典太の手つきは静かだった。熱に震える身体に、手巾の冷たさが心地よい。ほっと目を閉じた彼女の上に、やはり静かな声が降る。

「気にするな、どうせ俺はこういうときのための置物だよ……」

 いらえの内容こそ投げやりだったが、やはり労わりと、安堵の色がはっきりと見えた。看病をしている間、大典太は不吉な想像に駆られて不安で不安でならなかった。倒れた直後は、彼女は口もきけずにただ高熱に魘されるだけだったのだ。明け方からやっと熱が少し下がりだして、昼前となった今は意識もきちんとしている。
 生きている。
 大典太にとってこれ以上なく幸いなことだった。やっと息がつけた心地がした。午後からは前田と看病を交代する約束になっている。審神者のこの調子ならば、明日にも回復するかもしれない。
 ちらと大典太が壁に掛けられた時計を見ると、11時半を指していた。

「……そろそろ昼だが、食欲は?」

 栄養のあるものを摂って体力を戻してほしかったが、無理はしてほしくなかったので、彼の口調は恐る恐る探るようなものになった。そんな様子がたまらなく微笑ましく思えて、審神者は、力なく、けれど能う限りいっぱいに笑んでみせた。
 彼女は、この一見恐ろしい近侍が、奥手なだけの笑みを笑みで分かち合ってくれる心優しい刀だと知っていたので。礼にすらならないのはわかっていたが、この本丸の審神者はまだ笑ったりしゃべったりできる程度には生きていると示して、大典太を安心させてやりたかったのである。
 事実、大典太は、審神者が笑うと胸の奥があたたかになる心地がする。

「……あまり。食べられなくはないと思いますが、積極的には食べたくないです……」

 が、安堵させてやりたい気持ちと、実際の体調は無論別だった。
 大典太が思案気に主の眼を覗き込んだ。常なれば生気が溢れている彼女の眼は、まだ熱があるために、ぼんやりとうるんでいる。彼は暗紅の眼を揺らして少し迷ってから、朝のうちに短刀たちが差し入れてくれた果物類――「果物なら、熱があっても食べやすいと思ったんです」「あるじさまが目を覚まされて、食欲があるようでしたら」「少しでも何か食べてほしくって」「皿と果物ナイフはこっちだよ」「大将を頼んだぜ。オレたちが大勢で居座ると休めないだろうからさ」――の中から、林檎をひとつ、取り出した。

「林檎なら食べられるか? 食べるのなら剥く」

 審神者がこくりと頷いたのを見て、大典太は果物ナイフを取り出し手際よく繰った。己が刀身以外の刃を、誰かのためや何かのために使うことは、大典太光世が刀剣男士として顕現し蔵の外を知って覚えたことのうちの一つである。肉の器を得なければできなかったことによって、肉の器を与えてくれた女に報いる。なんだか不思議な気分だった。悪い気分ではない。知らずして彼の口角はかすかに上がっていた。
 さりさりと林檎が剥かれていく。大典太は顕現からすでに四年。手慣れたもので、数分もしないうちに、皿の上には切られた林檎が並んだ。はじめて庖丁の使い方を習ったときは手指も食材もぼろぼろにしてしまっていたのが懐かしい。
 手を拭ってから、大典太は審神者の背に手を貸して、上半身を起こさせる。
 皿とフォークを渡された審神者は小さく歓声を上げた。

「うさちゃん。かわいい」

 皿の上には、細身のうさぎが八羽。うさぎ林檎だ。
 かわいい、と繰り返し呟いて大切そうに皿を受け取り、うれしそうに林檎を見つめる主に、大典太はまごついた。前田藤四郎に習ったとおりの剥き方なので不作法にはなっていないはず、と、彼は思って剥いたが、そんなに喜ばれるとは露思っていなかったのである。照れ隠しに、ぶっきらぼうに、おずおずと申し出る。

「……食べづらいなら、皮をすべて取る。それともすりおろすか?」
「うさちゃんがいいです。このまま食べます」

 近侍の奥手な様子が可愛らしく――こんな図体の大きい男のかたちをした刀を形容する言葉として適切ではないかもしれないが、彼女にとっては大典太は可愛くて大切な持ち刀の一つだった――思えて、審神者はくすくすと笑った。さきほどと比べると、ずいぶんとしっかりとした笑い方で、そんなところを見ても回復の傾向がうかがえて、大典太は安堵するのだった。
 審神者がしゃりしゃりと歯音よく、少しずつ少しずつ林檎を食べていると、なんだか彼女こそうさぎのように可愛らしく思えて、大典太は微笑んだ。大典太の微笑みを見て、やはり審神者も、胸の内があたたかになる心地がして、微笑み返した。
 ゆっくりゆっくりと審神者がうさぎ林檎を四切れ食べて腹が満ちてきたころ、襖の外から声がかかる。大典太とはまた違った種類の低く静かな、穏やかな声だった。

「山鳥毛だ。入室の許可を願いたい」

 審神者の小さく弱弱しい諾の声を聞き逃さず、作法正しく入室してきたのは、一文字一家の長、山鳥毛であった。
 大典太の眉根がぎゅうと険しくなる。
 昨年の暮れにやってきたこの新参の古鳥は、審神者に対して随分と甘ったるい態度を隠しもしないので、一部の刀剣らから反発を買っている。大典太もその「一部の刀剣」のうちのひとつだ。けれど山鳥毛は大典太のしかめっ面など構いもしない。大典太が他の刀剣に積極的な手出しをしない刀であることを、山鳥毛はすでに把握していたためであった。涼しい顔で、手には恭しく盆を捧げ持ったまま、まっすぐ審神者の布団の傍らに坐した。

「小鳥よ、体調はどうだろうか。そろそろ昼なので、何か食べやすいものをと思い、卵粥を煮てきた」

 はにかむ山鳥毛が持つ盆の上には、小さな土鍋が乗っている。出来立てなのだろう、鍋の蓋の隙間からは白い湯気がふわりと出ていた。審神者ははてと思う。山鳥毛が料理番たちから料理を習っている姿など、一度たりとて見たことはなかった。
 大典太は嫌な予感がしてすぐさま、主はもう昼食を済ませた、と言おうとしたのだがそれを待つ山鳥毛ではない。彼が蓋を外すと、ぐつッ、と、炭のような生臭いような、鼻の奥をぐりぐりと圧し潰すような異臭がした。
 大典太が咄嗟に手を伸ばして審神者の鼻を押さえたちょうどそのとき、粥(仮)が姿を現す。
 どす黒い焦げのようなものと、生煮えの卵らしき黄色と白と、米の残骸らしき茶色が狂おしくぐちゃぐちゃと混ざった名状しがたき冒涜的な半固体の慄然たるどろどろであった。

「「…………」」

 審神者も大典太も硬直する。
 それがおかゆ、ですか? という一言が審神者の口から出なかったのは、体調不良のためが半分と、礼儀作法が四分の一と、持ち刀への思いやりが四分の一あったからだった。もう少し具合がよければ、うめくなり、労をねぎらったうえでそれとなく生身の人間には摂取してはならない種類の物質がこの世には存在することを教えるなり、なんなりしたかもしれないが、発熱で心身が弱っている今はただ大典太に鼻を押さえられたまま黙っているしかできない。
 さすがに、主と大典太の態度から何かは察したのか、山鳥毛はしゅんと落ち込む様子を見せた。他の刀剣らには寛大で堂々とした態度を崩さないくせに、山鳥毛は審神者に対してだけ、時折弱ったような、困ったような態度を見せるときがある。そうすると彼はなんだかずっと幼く見えて、審神者の保護欲を上手にくすぐり、それと同時に大典太の神経を逆撫でするのだった。ちょうど今のように。

「その、見栄えはしないが、……小鳥を思って精いっぱいに作ったつもりだ」

 よくよく見れば山鳥毛の両手の手指には絆創膏やら何やらを何か所も巻き付けてある。こまごまの雑務は一家の鳥たちに手伝ってもらうことが多い彼のこと、きっと粥など煮たのも初めてだろう。絆創膏の下は火傷だ、と審神者は直感した。顕現してまだ数か月、慣れぬ炊事で、もしかしたら熱くなった鍋を素手で触ってしまったのかもしれないと思うと――粥から発せられる異臭はともかくとして――この古鳥のことが雛鳥のように健気でいじらしく思えた。
 手入れをしましょう、と口走りかけた彼女を大典太が制した。

「主はこの状態だ。あんたの手入れを今すぐする余裕はないぞ」
「承知している。この程度、手傷のうちにも入らないさ。――――さあ、小鳥、口をあけてくれ」

 言いながらも山鳥毛は持参してきた匙で、人理に反した土鍋の内容物を一口分すくいあげようとした。異臭がきつくなる。悲鳴をあげそうになった審神者を大典太が枕辺に引き寄せて後ろから抱きしめ、大きな片手の掌で彼女の鼻と口を庇うように覆い隠した。

「だめだ。粥は、歌仙か、燭台切が作ったもの以外食べさせない」

 大典太には珍しい、厳しく強い言い方だった。背から抱え込まれている審神者には見えなかったが、きっとその唇は常よりもさらに「へ」のかたちをしているだろうし、その血色の眼は、山鳥毛の緋色を苛烈に睨んでいるに違いなかった。
 山鳥毛の表情にかすかな不服の働きを察しとった審神者は、とんとんと大典太の手を軽くたたいて緩ませると、動きづらい喉を叱咤して懸命に――この雛鳥のような古鳥を傷つけない言葉を探して――弁明を述べた。

「ごめんなさい、山鳥毛。……私、何年か前に、卵粥で食あたりを起こしたことがあって、」

 この場しのぎの嘘ではない。
 『何年か前』とは四年前のことである。少し熱っぽい日が続き、食欲をなくした審神者のために、鶴丸が卵粥を煮て持ってきたことがある。ひとくち食べて、へんなあじがする、と思ったところまでは記憶があるが、次に意識が戻ったのは翌日の昼過ぎだった。高熱を出して、体の節々が痛くて、それからさらに丸二日寝込んだ。
 鶴丸は、「驚いてほしくて隠し味を入れた」と言っていて、いろいろと入れてしまったうちのどれかに当たったのだろうというのが薬研の見立てだったが、大典太は「悪い卵を使ったからだ」と言い張っていた。(実際、鶏卵ではなく、何か別のよくわからない鳥の卵が使われていたらしいが、大典太が「あんたは知らないほうがいい」と言って詳しいことを審神者に教えなかった。)
 当時、大典太はまだ新参だった。病人を傷つけやしないか恐る恐るといった手つきで、口では「どうせ俺はこんなときにしか、云々」と言いながらだったが、大変こまやかに審神者の看病をした。世話を焼くだけでなく、寝衣を替えたりなどはさりげなく前田を呼んで席を外す気遣いを見せた。思わぬこまやかさから、彼の、女人の寝所で病魔を祓ったこともあるという経歴に、審神者は深く納得したものだった。
 顕現早々に審神者の体調不良を看てしまったせいか、大典太はどうも審神者を持病持ちか何かのように見ている節があり、審神者の体調や食べるものに気を配り続けている。陰からそっと手を貸して守るようなやり方だったから、過保護、とは審神者は思っていなかったが、それでも大典太は厳重に審神者を守ってきた。近侍になってからは、保護の度合いも増している。そのかいあって、審神者は「鶴丸の卵粥事件」以来、ほとんど体調を崩さなかった――――。
 四年間健康そのものだった審神者が体調を崩したのだから、今回の発熱はただごとではないとわかっている、そんなときに変なものは食べさせられない、というのが大典太の言い分だった。
 かつての事件のあらましを、審神者に代わって大典太が語って聞かせると、山鳥毛は少し残念そうな様子を見せたが、すぐに表情を切り替えて鷹揚に頷いた。

「承知した。そういう事情があったならば、前田家の宝刀が気遣うのも道理だろう」

 とはいいつつも、山鳥毛はちらと名状しがたき土鍋の中身に視線を落としてから、小鳥、と、ひときわ甘くやわらかに囀って、匙を審神者に向けてきた。鍋の異臭と声の甘さの落差で審神者はきもちわるくなりそうだった。

「……もしよければ、小鳥、せめて一口だけでもどうだろうか」
「あの……山鳥毛さん。おかゆの味見は、なさいましたか?」
「いや。していないが?」

 目をぱちり、と瞬かせて小首を傾げる。

「小鳥のための食事に手をつけるような不作法は、無論、していないとも」

 なぜ味見(そんなこと)が必要なのか理解していないようだった。審神者の表情が心労でひきつる。鎌倉の昔から在る古い刀であるはずなのに、随分とあざと……童のように可愛らしい仕草と様子だった。大典太が不快そうに鼻を鳴らす。

「さあ、冷める前に。風邪のときは温かい食べ物がよいと聞いたぞ」

 善意100%に見える、とろける蜜のような表情と声音だった。
 審神者はうめく。健康時であれば身の限りの蛮勇と菩薩心を振り絞って一口くらいは食べたかもしれない。しかし今はだめだ。九十近い刀剣らに肉の器を与え、育て、器物と生物の違いに戸惑いながら、彼らをヒトの生活様式に落とし込んできた審神者なるものとしての勘が叫ぶ――――匙の先の半分でも食べれば、死ぬ、と。
 長い沈黙があった。
 大典太は引き続き山鳥毛に険しい目線を呉れてやっていて、威嚇して審神者の代わりに追い払おうとしてくれているようだった。ただ、鳥よけネットの威嚇で山鳥毛が引き下がるかどうかは非常に怪しい。大典太はあまり苛烈な言動をとる太刀ではないが、もし審神者の体調を守るために強い手に出て、同じ本丸の太刀同士で関係が悪化してはことだった。
 小鳥、と、山鳥毛が心配そうに鳴く。
 絶対に構うなよ、と、大典太が耳元で囁いた。
 やはり審神者自身でどうにかせねばならなかった。山鳥毛が「なぜその粥がいけないのか」を理解していないのは明らかだったのと、審神者は彼の手指に傷があることに気づいてしまっていたから、これはとても気力を要すること、疲弊した身を削ることだった。

「ごめんなさい、いま、林檎を食べたばかりで。もうおなかがいっぱいで……」

 まごつきそうになりながら、しかしきちんと伝えた。
 山鳥毛の眉根が、しゅん、と寄る。

「そうであれば無理強いはしないが……一口も、かな?」
「一口だってそんなもの主に喰わせてたまるか」

 間髪入れずに応じた大典太が再度審神者の口と鼻を掌で覆ってしまって、そのうえぎゅうと抱き込む力を強め腕のなかに囲い込んで、能う限り山鳥毛から審神者を遠ざけようとした。さらに大典太は体の向きまで変えてしまったので、山鳥毛からは審神者の顔が見えなくなってしまった。
 ここにきてやっと、山鳥毛は審神者を含まずに大典太だけを見た。
 両の眼の神炎の温度が、限りなく、低い。

「私は小鳥と話していたつもりだが」
「主の危機だ、口出しくらいする……」
「口出し、か。そもそも君が小鳥をそう抱え込んでしまうから、小鳥は粥を食べられないのではないか? 可哀そうに、大きな古刀にそうも威圧されては、食べたいものも食べたいと言えないだろう」
「何とでも言え。主にそれは食べさせない。主は林檎で昼食を済ませた。あんたのそれの出番はない……」

 普段、他の刀に強くは言わない大典太である。彼にしては珍しい毅然とした態度だった。
 山鳥毛は肩をすくめてみせる。

「どうにも聞き分けないようだな。……小鳥、そこでは苦しいだろう、こちらへ出てきなさい。寝かしつけてあげよう。眠りは何よりの薬だ」
「何もしなくても主は寝るさ、あんたがこの部屋を出ていきさえすればな」
「…………、加賀前田の宝刀よ。私は、今、私の小鳥に話しているのだが?」
「主があんたの小鳥だと? 寝言は寝て言えよ」

 言い合いは剣呑さを増していく。審神者として、彼らの主として止めなければと彼女は思うのだが、山鳥毛が甘ったるい声で、小鳥、小鳥、と審神者を呼ぶたびに大典太が腕の力を強めるので身が圧迫されて苦しかった。
 昨夜は高熱で意識もなかった身である。
 応酬する言葉に威圧的な言霊や神気まで乗り始めて、疲弊した体でそれらに間接的に圧迫されて、審神者は目を回してしまった。めまいがひどい。気分が悪い。頭をあげていられない。

「主、」
「小鳥!」

 すぐに大典太が気づいて腕の力を緩め、彼女を布団に戻した。

「すみません、もう、寝ていいですか」
「ああ。ゆっくり休んでくれ」

 大典太は掛布団と毛布を審神者の喉元まで優しく引き上げる。
 疲労からまた急に熱が上がってきたようで、審神者は吸う息も吐く息も絶え絶えだった。が、山鳥毛の手が素早く冒涜的な土鍋に伸びたのだけは審神者の生存本能が見逃さなかった。

「一口もいらないです……すみません……」
「小鳥……」
 
 悲痛な声で山鳥毛が鳴いたが、聞き届ける前に審神者は目を閉じていた。
 随分よくなったとはいえやはり熱で消耗したあとだったから、そう時も置かずに、審神者は眠りへと落ちていった。寝息が深い。きっと、少しの声だけでは起こせぬほど深く眠っている。当分は目を覚ましそうになかった。

「おやすみ、小鳥。佳い夢を」

 甘く、穏やかに、審神者のためだけの声で山鳥毛が囀った。

「その呼び方」

 低く静かだが棘を隠さぬ声で大典太が咎める。

「前々から思っていたが、今は特に気に入らないな……。『小鳥』だと? 主に名を与えてどうしようっていうんだ……」

 名は体である。名は存在を定義する。
 もともと、審神者は大典太の強烈な霊力をものともしないだけの健やかな生命力を持っていた。むしろ、大典太の神気や霊力とは非常に相性がよく、彼を本丸に迎え入れてからこの四年間、先の鶴丸の卵粥事件以外で審神者は体調を崩すことがほとんどなかった。
 それが、昨年の暮れに山鳥毛を迎え入れてから様子が変わった。

『ああ、小鳥に呼ばれたか。』

 小鳥、と。山鳥毛が審神者をそう呼べば呼ぶほど――――『小鳥』が呼び名として審神者の意識に定着して縛れば縛るほど、少しずつ、少しずつ、審神者は山鳥毛の神気に馴染まされて、大典太の神気も霊力も受け付けなくなっていった。この夏の連隊戦で山鳥毛を繰り返し習合したのがさらに悪かった。古鳥は同位体を束ねて得た、より強い力で、審神者の魂を縛り上げようとしたのだ。
 結果として、昨夜、審神者は高熱を出して倒れた。まるで鳥が大典太の霊力で弱ってしまうように――――審神者が、本当に小鳥にでもなって、遠からず落鳥してしまうかのように、大典太には思われた。
 ぞっとした。
 主だけは、何としても守らなければ。その一念で大典太は昨夜寝ずの番をした。かつて『鳥止まらずの蔵』の元となった霊力で、審神者の魂のうえをねっとりと這うように絡みついていた『鳥』の尾羽のからまりをひとつひとつ斬り落としていった。毒々しい甘い芳香を纏った、煤けた白金の、十三の節を持つ長々しき見事な尾羽は、テイカカズラのように審神者の魂に固着して複雑に絡みついていた。これを審神者を害さずに引きはがすのは相当な根気と労力がいったが、大典太は成し遂げた。
 そして最後のからまりを断ち斬ったとき、大典太は確かに聞いたのだ、いま彼の目の前にいる『鳥』の、苦々しげな舌打ちを。

「主は弱っている。……これ幸いと仮名(かりな)を強めて縛ろうなどと思うなよ。体に障る」

 声を荒げぬように――――消耗して眠っている主に触らぬように、意識して淡々と、大典太は山鳥毛に釘を刺す。そして、忌々しいものを見る目で、土鍋に視線を向けた。弱り切ってしまった審神者にはわからなかっただろうが、大典太光世は破魔の太刀、その内容物の正体を正確に見極めていた。

「――――それ、本当に粥か? 臭うぞ。火と災いと、鳥の臭気だ」

 するり、と、山鳥毛の余裕ぶった甘い微笑が消える。やや大典太を侮るふうであった緋色の眼に、少しだけ関心と感心が映った。……大典太はそんなもの見たくなかった。審神者なるものは、器物の想いを励起し受肉させるもの。あの主のほとばしる生命力と霊力が、こんないびつな、末恐ろしいものを呼び覚ますような性質のものだとは思いたくなかった。同じ主君を仰ぐべき同胞たる刀が、こんな歪んだ逆心を抱いているなどと、悪い夢のようだった。

「何を混ぜた」
「…………」

 山鳥毛は無表情のまま答えない。ただ、絆創膏だらけの手で、そっと土鍋の蓋を閉じた。途端、土鍋の中でぎちぎちと昏い火の爆ぜる気配があって、ややもせぬ間に燃えつきた炭の臭いがした。きっと中身はすべて焼き切られて、検証などできなくなっているだろう。

「鶴丸の粥のときは、小鳥は味から違和感を察知して一口以上食べなかったと聞いて――――わからぬようにとよくよく焦がしたのだがな。無駄になってしまった」

 審神者には一度も聞かせたことのない、甘さの欠片もない、情のない、平淡な声だった。
 山鳥毛のその様子に、大典太はため息をついた。深い深いため息だった。答えなど聞かずとも確信に近い推測を得ていた。土鍋の中身の正体にも、絆創膏の下には火傷ではなく『刀で表皮を裂かれたような』切り傷があるであろうことにも。

「主は人間だ。時に病み、時に癒え、定命を生きて死んでいく。それを、鶴丸といい、あんたといい……鳥どもはどうして“卵”を喰わせようとするんだ……」

 まるで理解できなくて、諦めとも呆れともつかぬ声が出た。わかりあえないのはわかりきっている。再度、ため息をついた。
 ややの沈黙があって、山鳥毛も小さく、息をついた。

「一つ聞かせてもらってもいいだろうか」
「……」
「なぜこの人間に肩入れする? 君ほどの刀からすれば、たかが小娘一羽だろう」

 理由を知りたいのではなく苦情であることは明らかだったが、『それ』くらい私に分け前として呉れてよこしてもいいだろう、とでも言いたげな語調だった。事実、大典太光世が審神者に近侍として近く仕え、互いに信を通わせていることは、山鳥毛には口惜しい計算違いだった。
 刀剣男士、無銘一文字号山鳥毛は、一文字の長にふさわしく気位の高い刀である。
 殊にこの分霊はその傾向が強かった。自らに膝を折らせて顕現させる本丸は、戦力があり、かつそれを統率できるだけの力量のある審神者を戴いているところでなければ我慢ならなかったから、冬の連隊戦で特に早く目標数値を達成したこの本丸を選んで降りた。顕現直後の名乗りで『小鳥に呼ばれた』と言ったのは嘘ではなかったが、呼ばれるより前から目を付けて呼ばれるのをじっと待っていたというのが正しい。
 そうやって見出した己の小鳥を、山鳥毛は一目で気に入った。数か月を仕えて、なお気に入った。可愛らしく御し易しと見せて、その実けっして、靡かない。山鳥毛がどれほど愛でても節度を失わない。好ましく思った。このちいさな雌鳥を屈服させてあいを囀らせるのは大層楽しいだろうと思われた。
 だから己の神気(いろ)で染めようとした。時間をかけてじわじわと、絞め殺すようにして染めていって、あと少しというところまで漕ぎつけた。もう少しだった。もう少しで審神者は、名実ともに山鳥毛の小鳥になっていた。だというのにこの鳥をも落とす破魔の太刀が邪魔立てをする。部領が小鳥に成るのを阻もうとする。
 大変に、面白くないことだった。

「君は、この人間の、なんでもないのだろう。ならば私の■■■になる人間に、手出しはしないでいただこうか」

 山鳥毛が真顔で言い放ったのは、ヒトには聞き取れぬ音、あまりにおぞましい語だった。
 ヒトはヒトとして、ヒトの幸福の中で生きることこそ幸いだと大典太は信じる。それを踏みにじって、■■とヒトの垣根を取り壊して、ヒトとして懸命に生きている主を喰らい、呑み墜とし、そうやって■■■■■■モノにして、果ては■に、■■■に貶めて我が物にせんという。断じて許せぬことだった。


「そうだな。今は、こいつと俺はなんでもない。だが……こいつは俺を、蔵から出した」

 大典太光世は病も怪異も退ける破魔の太刀。あまりの霊威を畏れられて蔵に封じ祀られた太刀。
 己には蔵が似合いだと言い、己ごときがと他の刀への不要な手出しを避け、外界も他者との触れ合いも諦め、けれど誰よりも焦がれてきた太刀。
 審神者が励起しなければ、大典太光世は蔵の外へ出られなかった。
 審神者が大典太光世を励起して、すべてを与えたのだ。
 牙を剥き唸る獣のごとくに、言い放つ。鋭い言葉は剣戟の火花が散るのにも似ていた。

「こいつを守れなければ、蔵から出された意味がないんでな。鳥も怪異も、こいつに手出しできると思うなよ」
「――――なるほど。心しておこう」

 山鳥毛は手指の傷に未だ残る、雷のごとき霊力で裂かれた痛みを思い起こしながらも、傲然と、にんまりと笑んだ。
 彼らの審神者は、なにも知覚できぬまま、ただ深い深い眠りの中で身を休めている…………。
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