小鳥から金木犀の香りがしてもだもだする山鳥毛の話
【おまけ1:例の事案用意見箱】
『例の事案用意見箱』
主さまと某派の眼や耳や腕や翼や羽や猫があるところでは気軽に言えない、聞けない、例の事案の進展についての質問に、僕たち主さまの側仕え短刀衆がお答えします。
質問を書いた紙は夜寝るときに、立体折り紙の要領で星型に折って枕元に置いてください。見回りの短刀がこっそり回収します。お返事も、朝お目覚めの前に枕元にこっそり置いておきます。
過去の質問と回答アーカイブは、過去の事件アーカイブといっしょに例の場所で保管しています。閲覧は主様と某派に気づかれないように行ってください。
お約束:
・星型でない紙は回収しません。
・万一に備え、固有名詞は全て隠語や仮名、三人称等で表してください。
・読んだら即火中です。
・反対派、容認派、中立派、心づくしの膳派、さまざまな意見がありますが、みなさんの心は「主さまのお幸せのために」という点で同じはずです。自分と違う意見だからと否定することはしないで、主さまのお気持ちに、ことの成り行きをゆだねましょう。
220x年x月x日 (PN:一番主の役に立つ打刀)
「このところ側仕え短刀連中の怠慢が目立つ。日夜、一瞬たりとも主のお側を離れないのが側仕えだろう。なぜ奴のほうが早起きの日があるんだ」
お答えします! (担当の短刀:秘蔵の懐刀)
「大丈夫だよ。『彼のほうが早起き』が成功するのは平均して五日に一回以下の頻度になるようにみんなで示し合わせて調整してるし、彼が『早起き』成功のときも俺たちのうち最低二口は屋根裏と廊下に控えているんだ。怠慢なんかしてないよ」
【おまけ2:同田貫が雑に面倒を見たら山鳥毛が羞恥で死んだ話】
金木犀の香りの一件から数日後のことだっただろうか。
やはり気分のいい秋晴れの日で、山鳥毛は同田貫と共に内番で畑当番を命じられていた。
当番表を見たとき、山鳥毛はほんの少しだけ表情を陰らせたが、礼儀としてすぐなんでもない顔を作った。
この本丸の同田貫正国は、古参であるため、面倒見がよい。新参の刀の面倒も進んでみるし、面倒をみる必要がなくなったはずの古参の短刀たちにもよく懐かれて遊んでやることもしばしばだ。
山鳥毛も顕現したてのころは何かと同田貫の世話になった記憶があるのだが、いつのころからか、同田貫に――主の信任篤く、近侍を命じられることも先陣を任されることも多い刀に――苦手意識をもつようになっていた。なぜ苦手に思ってしまうのかは……近頃やっとわかりかけているのだが、これについてはあまり日常的に意識したい感情だとは、山鳥毛は思っていない。
当番の時間に畑へ行くと、同田貫はもう来ていて畑の様子を確認していた。山鳥毛が来たのに気づくと、同田貫は戦以外では感情の見えない金の目で、ちらと山鳥毛を見てから、今日は主の指示された仕事のほかにも地面に落ちた枯れ葉集め――堆肥にするのだ――をしたほうがいいと思うということを伝えてきた。
作業は黙々と進んだ。この本丸の同田貫は多弁な性質ではなく、与えられた仕事は着実に行う刀だったので、畑当番では必要以上に相方となった刀に話しかけることはしない。山鳥毛も、同田貫から何も話しかけられないのをありがたく思って、嘴を開かずに作業を続けた。
しかし休憩時間になる。
畑の横に置かれたベンチに座って休んだとき、同田貫が、そういえば、と口を開いた。
「あんたは主に、香を贈らないんだな」
やはり感情も意図も見えづらい語調で、山鳥毛は反応に困った。
……先日の同田貫は、やはり小豆長光に万屋街の惣菜屋で売られているコロッケ一個で買収されていた(そして両手に金木犀の香りのハンドクリームをあれこれ塗って、「どれが一番、主の好みに合うか」「主の肌を損なわないか」を検証したうえ、当て馬にされるという、非常に割りに合わない思いをした)。そのとき小豆から聞いた予想では、引っ掻き回してやれば山鳥毛も奮起して、香なり衣なりを主に贈りつけるだろうというものだったが、そうはならなかった。
山鳥毛が贈ったのは、品質も評判も高いが、無香料で肌馴染みのよい、無難なハンドクリームだった。それを同田貫は意外に思ったのである。
山鳥毛は、先日の件についてのこと、と推測はついても、なぜそんなあたりまえのことを同田貫が言うのかがわからない。まごつきながら答えた。
「それは、野暮だろう。彼女はいつも同じ香を愛用しているようだから」
香は邪気を払う、という。
白檀の静謐が邪霊を祓い、樒の気高さが悪獣を遠ざけるように、香は纏うものを聖別し、守護する。
それにあやかったのだろう、審神者なる者たちのなかには、魔除けとして日常的に香を纏う者もあった。神と妖のあわいにある刀剣を率いて前線に奔らせる、その業の深さを思えば、守護などいくらあっても足りるものではないと彼らは直観していたのかもしれない。
そのゆえか、山鳥毛が傍に寄ると、この本丸の審神者はいつもほのかに甘く香った。
香りそのものは強くはない。近づかねばわからないほど幽かな香りだ。けれど、どうしようもないほどにかぐわしい。いつまでも聞いていたくなるような心地にさせる香りだった。
それなのに、同田貫にはぴんとこないらしい。何を言っているのか皆目不可解といった様子で山鳥毛を見た。
「はあ?」
「彼女は、その、いつも仄甘い匂いがするだろう。梔子のような、白桃の実のような、沈丁花のような、」
胸を締め付けられるような、手を伸べずにはいられないような、いつまでも羽で包んでおきたくなるような。
きっとあれは守護の香か何かを付けているのだと、山鳥毛は考えている。でなければあれほど、守りたくなるようなにおいがするわけがないというのが彼の判断だった。
「何の香を付けているのかはわからないが、いつも甘い。儚い草の花ではなく、地に根を張った木の花の匂いだと思う。すでに好んで纏っている香があるなら、わざわざ違うものを渡すのは野暮かと思うのだが」
山鳥毛は別段、礼を失するような発言をしたつもりはなかった。小鳥だって自らの好む物で囲まれていたほうが日々の暮らしも楽しかろう、最前線を守る審神者なる務めをしているとてそれくらいの自由は許されてしかるべきだろうと、それだけの思いだった。
なのに山鳥毛がしゃべればしゃべるほど、同田貫の表情は見る見る険しくなっていく。
「あー……、山鳥毛。これ、嗅げ。どういう臭いがする?」
ぶづり、と、同田貫は無造作に、近くに生えていた雑草を引き抜き、泥がたっぷりついた根のほうを山鳥毛の鼻に押し付けるようにして尋ねた。唐突な問に戸惑いながらも、山鳥毛が「泥と草」と答えると、それでは満足いかなかったようで、泥とはどんな臭いか、草とはどんな臭いかと詳しく答えさせられた。それでやっと同田貫は満足するかと思われたが、そうはならなかった。
「これはどうだ。どういう臭いがする?」
畑にあるものを次々を毟ったり取ったりして、山鳥毛に臭いをかがせ、詳細を答えさせる。ついには同田貫の視線が草の上に止まっていたカメムシにまで伸びたので、同田貫の手が動くより前に山鳥毛は必死で止めた。そうしてやっと同田貫は満足したようだった。
「臭いがわからなくなったわけじゃねえようだが……」
なぜだか同田貫は、山鳥毛の嗅覚を心配しているようだった。険しい顔のまま、腕を組んで唸りはじめる。はて、と山鳥毛が首をかしげる。
「私は別に、嗅覚に問題があるわけでは、」
「俺には判断がつかねえ。一度主に相談しろ。鼻が悪かったって戦には出られるだろうが、もし肉の器の不具合の兆しなら事だ」
同田貫は山鳥毛の鼻が悪いと決めてかかって、山鳥毛の話を聞かないばかりでなく、違うことまで心配をはじめた。ますますわけがわからなくなった山鳥毛に、同田貫は二つの金の満月を訝しげにして、胡乱な物を見るようにして言い放った。
「俺は、この五年間、あんたより長く、あんたより濃く、あんたより近く、主に仕えてきた。……甘い匂いだァ? 主からそんなのを感じたことは、一度もねえよ」
そんなはずは、と、山鳥毛は反論しようと試みた。かすかであるとはいえ、あれほど甘く芳しく、一度でも嗅いだら忘れられないほどの香りがわからないなどと、同田貫のほうが鼻が曲がっているに違いないと考えた。
しかし彼の中の、理性にも肉の器にも、刀にも属さぬ部分――本能、あるいは鳥の性とでも言おうか、とりわけ鋭くできている感性は、なぜだか素直に同田貫の話を受け容れていた。それどころかこの部分は、同田貫が審神者の香りを嗅ぎ分けられないことに、やや意地の悪い優越と安堵を覚えていた。ああ、このいくさ刀は小鳥の香りがわからぬのだ、このいくさ刀は小鳥とはつがえぬのだ、と。
そこまで思って、はたと山鳥毛の思考は立ち止まる。
――『小鳥の香り』?
『小鳥の香り』と、己の本能はさえずったか。『小鳥が纏っている香』ではなく。
そこでやっと山鳥毛は、いったい己が、何を甘く、何をかぐわしいと、好ましいと、守りたいと嗅ぎとっていたのかを悟った。
「いいな? 必ず主に言えよ。……おい、聞いてんのか? 山鳥毛?」
赤面して片手で顔を押さえてしまった山鳥毛に、同田貫の声はもう聞こえない。
その様子を見て同田貫は、気高いこの太刀は己が身の器に起きた不具合を恥じているのだろうと的違いにも考え、そして非常に正確に、この太刀は主に助けを求める気はなさそうだ、ということを嗅ぎ分けた。古参の勘であった。
「――言わねえつもりだな? わかった。あんたがそのつもりなら、こっちにも考えがある」
泥も拭わぬその手で、同田貫は山鳥毛の腕をむんずと掴むと、抵抗を許さぬ力強さで、山鳥毛を引きずるようにして歩き出した。
『新入りというのは肉の器の正常と異常の区別を付けられなくてギリギリまで無理をするものだ』というのは、同田貫がこの五年間、後進の刀たちの面倒を見ながら学んだことで、『刀派も格も関係ない。新入りの面倒を見るのは、古参の当然の役割だ』というのが、この本丸の『一の太刀』たる同田貫正国の考えだった。山鳥毛は顕現から十か月を経ていたが、ヒトの身いちねんせいのうちは、同田貫にとっては新入りである。
「! 何を⁉」
「何をって、連れてくんだよ。主のところへさァ」
同田貫正国・極。極練度八十四、打撃百十七、衝力七十九、主の信任の篤さゆえに非常時に備え本丸内でも刀装の装備と(審神者への事後報告義務はあるものの)自己判断による刀装展開許可を与えられており、現在の刀装は軽騎兵特上を三つ。
この本丸において、初期刀の歌仙兼定の次に『腕ずくで』という手段の有効性を不言実行で示す一口であった。
抵抗虚しく審神者の執務室へ連行された山鳥毛は、同田貫が審神者に、それはもう雑に、
「こいつ、主の体からいつも甘くていい匂いがするからいつまでも嗅いでたいとか言ってんだけど。俺は畑に戻るから、詳しい話は山鳥毛に聞いてくれ」
と言い放って戻っていったのを茫然と見ているしかできなかった。
同田貫としては、『不具合だと思うから診てやってほしい』という意味で、『それくらい、ガキでもねえし山鳥毛が自分で言えんだろ。主だって体を悪くした個体の対応は慣れてるしな』という考えによることであった。ただ古参として当然の、最低限度の役割を果たしただけのつもりであった。
これが自分の言葉でうまく説明できないような刀剣であったなら、同田貫ももっとこまやかに面倒を見ただろう。しかし同田貫からすると山鳥毛は鎌倉時代[[rb:鍛造 > うまれ]]のいい歳をした太刀であったから、自分のことは自分で正確に言えるだろうという信用があった。
それに、山鳥毛は一文字という一派を背負う刀である。そんな立場にある刀が、他派の、それも随分と時代が下った、宝物としての格などない実用品に、親が幼子にするように症状の詳細を訳知り顔で言い立てられては面目が立つまい、不具合の可能性などという繊細な[[rb:問題 > よわみ]]を他刃に聞かれて不快にならぬわけがあるまい、と考えたのだ。
山鳥毛とは刀としての在り方を遥か遠くに置くものの、同田貫もその身ひとつに一派を束ねて負う刀である。一派の名という看板の重さは知っている。審神者への説明を山鳥毛に任せたのは、ただ一振にして一派の無数の【我ら】を束ね、同田貫鍛冶の『折れず曲がらず』の名を背負って本丸に在る、同田貫正国の誇りに由来する優しさでもあった。
が、突然体臭だのなんだの言われた審神者にそんなことわかるわけがない。おろおろと山鳥毛を見ながら発せられた、呟くような声は持ち刀の変態性にどん引きして震えていた。
「えっ、あっ…あっ…………石鹸、のせい、でしょうか……?」
山鳥毛のいとしい小鳥は、常なれば執務時間中は本丸を統べる審神者なるものとしての表情を崩さない。けれど今は、感情を隠し切れず、年相応の若い娘の……困惑しきった表情をしていた。山鳥毛は羞恥で死んだ。
これが後に側仕え短刀たちが語り継ぎ、【例の事案意見箱】を数週間に渡って紛糾せしめたところの、『体臭くんかくんかいいにおいドン引き事件』である。
無銘一文字、号山鳥毛の名誉のために、このあと誤解を解くまでに発生した彼と審神者のしどろもどろは省略させていただきたい。
……その晩の夕食のデザートは小豆長光謹製ブランマンジェの金木犀と蜜柑のソース掛けだったのだが、なぜだか同田貫のだけ他の刀たちのには小奇麗に添えられているスペアミント――花言葉は『思いやり』――の葉がなく、代わりに皿の縁にソースで小さく『やりすぎだぞ!』と書かれていて、しかし同田貫は意味が取れずに首をかしげるだけだったという。
(おまけ。おしまい)
『例の事案用意見箱』
主さまと某派の眼や耳や腕や翼や羽や猫があるところでは気軽に言えない、聞けない、例の事案の進展についての質問に、僕たち主さまの側仕え短刀衆がお答えします。
質問を書いた紙は夜寝るときに、立体折り紙の要領で星型に折って枕元に置いてください。見回りの短刀がこっそり回収します。お返事も、朝お目覚めの前に枕元にこっそり置いておきます。
過去の質問と回答アーカイブは、過去の事件アーカイブといっしょに例の場所で保管しています。閲覧は主様と某派に気づかれないように行ってください。
お約束:
・星型でない紙は回収しません。
・万一に備え、固有名詞は全て隠語や仮名、三人称等で表してください。
・読んだら即火中です。
・反対派、容認派、中立派、心づくしの膳派、さまざまな意見がありますが、みなさんの心は「主さまのお幸せのために」という点で同じはずです。自分と違う意見だからと否定することはしないで、主さまのお気持ちに、ことの成り行きをゆだねましょう。
220x年x月x日 (PN:一番主の役に立つ打刀)
「このところ側仕え短刀連中の怠慢が目立つ。日夜、一瞬たりとも主のお側を離れないのが側仕えだろう。なぜ奴のほうが早起きの日があるんだ」
お答えします! (担当の短刀:秘蔵の懐刀)
「大丈夫だよ。『彼のほうが早起き』が成功するのは平均して五日に一回以下の頻度になるようにみんなで示し合わせて調整してるし、彼が『早起き』成功のときも俺たちのうち最低二口は屋根裏と廊下に控えているんだ。怠慢なんかしてないよ」
【おまけ2:同田貫が雑に面倒を見たら山鳥毛が羞恥で死んだ話】
金木犀の香りの一件から数日後のことだっただろうか。
やはり気分のいい秋晴れの日で、山鳥毛は同田貫と共に内番で畑当番を命じられていた。
当番表を見たとき、山鳥毛はほんの少しだけ表情を陰らせたが、礼儀としてすぐなんでもない顔を作った。
この本丸の同田貫正国は、古参であるため、面倒見がよい。新参の刀の面倒も進んでみるし、面倒をみる必要がなくなったはずの古参の短刀たちにもよく懐かれて遊んでやることもしばしばだ。
山鳥毛も顕現したてのころは何かと同田貫の世話になった記憶があるのだが、いつのころからか、同田貫に――主の信任篤く、近侍を命じられることも先陣を任されることも多い刀に――苦手意識をもつようになっていた。なぜ苦手に思ってしまうのかは……近頃やっとわかりかけているのだが、これについてはあまり日常的に意識したい感情だとは、山鳥毛は思っていない。
当番の時間に畑へ行くと、同田貫はもう来ていて畑の様子を確認していた。山鳥毛が来たのに気づくと、同田貫は戦以外では感情の見えない金の目で、ちらと山鳥毛を見てから、今日は主の指示された仕事のほかにも地面に落ちた枯れ葉集め――堆肥にするのだ――をしたほうがいいと思うということを伝えてきた。
作業は黙々と進んだ。この本丸の同田貫は多弁な性質ではなく、与えられた仕事は着実に行う刀だったので、畑当番では必要以上に相方となった刀に話しかけることはしない。山鳥毛も、同田貫から何も話しかけられないのをありがたく思って、嘴を開かずに作業を続けた。
しかし休憩時間になる。
畑の横に置かれたベンチに座って休んだとき、同田貫が、そういえば、と口を開いた。
「あんたは主に、香を贈らないんだな」
やはり感情も意図も見えづらい語調で、山鳥毛は反応に困った。
……先日の同田貫は、やはり小豆長光に万屋街の惣菜屋で売られているコロッケ一個で買収されていた(そして両手に金木犀の香りのハンドクリームをあれこれ塗って、「どれが一番、主の好みに合うか」「主の肌を損なわないか」を検証したうえ、当て馬にされるという、非常に割りに合わない思いをした)。そのとき小豆から聞いた予想では、引っ掻き回してやれば山鳥毛も奮起して、香なり衣なりを主に贈りつけるだろうというものだったが、そうはならなかった。
山鳥毛が贈ったのは、品質も評判も高いが、無香料で肌馴染みのよい、無難なハンドクリームだった。それを同田貫は意外に思ったのである。
山鳥毛は、先日の件についてのこと、と推測はついても、なぜそんなあたりまえのことを同田貫が言うのかがわからない。まごつきながら答えた。
「それは、野暮だろう。彼女はいつも同じ香を愛用しているようだから」
香は邪気を払う、という。
白檀の静謐が邪霊を祓い、樒の気高さが悪獣を遠ざけるように、香は纏うものを聖別し、守護する。
それにあやかったのだろう、審神者なる者たちのなかには、魔除けとして日常的に香を纏う者もあった。神と妖のあわいにある刀剣を率いて前線に奔らせる、その業の深さを思えば、守護などいくらあっても足りるものではないと彼らは直観していたのかもしれない。
そのゆえか、山鳥毛が傍に寄ると、この本丸の審神者はいつもほのかに甘く香った。
香りそのものは強くはない。近づかねばわからないほど幽かな香りだ。けれど、どうしようもないほどにかぐわしい。いつまでも聞いていたくなるような心地にさせる香りだった。
それなのに、同田貫にはぴんとこないらしい。何を言っているのか皆目不可解といった様子で山鳥毛を見た。
「はあ?」
「彼女は、その、いつも仄甘い匂いがするだろう。梔子のような、白桃の実のような、沈丁花のような、」
胸を締め付けられるような、手を伸べずにはいられないような、いつまでも羽で包んでおきたくなるような。
きっとあれは守護の香か何かを付けているのだと、山鳥毛は考えている。でなければあれほど、守りたくなるようなにおいがするわけがないというのが彼の判断だった。
「何の香を付けているのかはわからないが、いつも甘い。儚い草の花ではなく、地に根を張った木の花の匂いだと思う。すでに好んで纏っている香があるなら、わざわざ違うものを渡すのは野暮かと思うのだが」
山鳥毛は別段、礼を失するような発言をしたつもりはなかった。小鳥だって自らの好む物で囲まれていたほうが日々の暮らしも楽しかろう、最前線を守る審神者なる務めをしているとてそれくらいの自由は許されてしかるべきだろうと、それだけの思いだった。
なのに山鳥毛がしゃべればしゃべるほど、同田貫の表情は見る見る険しくなっていく。
「あー……、山鳥毛。これ、嗅げ。どういう臭いがする?」
ぶづり、と、同田貫は無造作に、近くに生えていた雑草を引き抜き、泥がたっぷりついた根のほうを山鳥毛の鼻に押し付けるようにして尋ねた。唐突な問に戸惑いながらも、山鳥毛が「泥と草」と答えると、それでは満足いかなかったようで、泥とはどんな臭いか、草とはどんな臭いかと詳しく答えさせられた。それでやっと同田貫は満足するかと思われたが、そうはならなかった。
「これはどうだ。どういう臭いがする?」
畑にあるものを次々を毟ったり取ったりして、山鳥毛に臭いをかがせ、詳細を答えさせる。ついには同田貫の視線が草の上に止まっていたカメムシにまで伸びたので、同田貫の手が動くより前に山鳥毛は必死で止めた。そうしてやっと同田貫は満足したようだった。
「臭いがわからなくなったわけじゃねえようだが……」
なぜだか同田貫は、山鳥毛の嗅覚を心配しているようだった。険しい顔のまま、腕を組んで唸りはじめる。はて、と山鳥毛が首をかしげる。
「私は別に、嗅覚に問題があるわけでは、」
「俺には判断がつかねえ。一度主に相談しろ。鼻が悪かったって戦には出られるだろうが、もし肉の器の不具合の兆しなら事だ」
同田貫は山鳥毛の鼻が悪いと決めてかかって、山鳥毛の話を聞かないばかりでなく、違うことまで心配をはじめた。ますますわけがわからなくなった山鳥毛に、同田貫は二つの金の満月を訝しげにして、胡乱な物を見るようにして言い放った。
「俺は、この五年間、あんたより長く、あんたより濃く、あんたより近く、主に仕えてきた。……甘い匂いだァ? 主からそんなのを感じたことは、一度もねえよ」
そんなはずは、と、山鳥毛は反論しようと試みた。かすかであるとはいえ、あれほど甘く芳しく、一度でも嗅いだら忘れられないほどの香りがわからないなどと、同田貫のほうが鼻が曲がっているに違いないと考えた。
しかし彼の中の、理性にも肉の器にも、刀にも属さぬ部分――本能、あるいは鳥の性とでも言おうか、とりわけ鋭くできている感性は、なぜだか素直に同田貫の話を受け容れていた。それどころかこの部分は、同田貫が審神者の香りを嗅ぎ分けられないことに、やや意地の悪い優越と安堵を覚えていた。ああ、このいくさ刀は小鳥の香りがわからぬのだ、このいくさ刀は小鳥とはつがえぬのだ、と。
そこまで思って、はたと山鳥毛の思考は立ち止まる。
――『小鳥の香り』?
『小鳥の香り』と、己の本能はさえずったか。『小鳥が纏っている香』ではなく。
そこでやっと山鳥毛は、いったい己が、何を甘く、何をかぐわしいと、好ましいと、守りたいと嗅ぎとっていたのかを悟った。
「いいな? 必ず主に言えよ。……おい、聞いてんのか? 山鳥毛?」
赤面して片手で顔を押さえてしまった山鳥毛に、同田貫の声はもう聞こえない。
その様子を見て同田貫は、気高いこの太刀は己が身の器に起きた不具合を恥じているのだろうと的違いにも考え、そして非常に正確に、この太刀は主に助けを求める気はなさそうだ、ということを嗅ぎ分けた。古参の勘であった。
「――言わねえつもりだな? わかった。あんたがそのつもりなら、こっちにも考えがある」
泥も拭わぬその手で、同田貫は山鳥毛の腕をむんずと掴むと、抵抗を許さぬ力強さで、山鳥毛を引きずるようにして歩き出した。
『新入りというのは肉の器の正常と異常の区別を付けられなくてギリギリまで無理をするものだ』というのは、同田貫がこの五年間、後進の刀たちの面倒を見ながら学んだことで、『刀派も格も関係ない。新入りの面倒を見るのは、古参の当然の役割だ』というのが、この本丸の『一の太刀』たる同田貫正国の考えだった。山鳥毛は顕現から十か月を経ていたが、ヒトの身いちねんせいのうちは、同田貫にとっては新入りである。
「! 何を⁉」
「何をって、連れてくんだよ。主のところへさァ」
同田貫正国・極。極練度八十四、打撃百十七、衝力七十九、主の信任の篤さゆえに非常時に備え本丸内でも刀装の装備と(審神者への事後報告義務はあるものの)自己判断による刀装展開許可を与えられており、現在の刀装は軽騎兵特上を三つ。
この本丸において、初期刀の歌仙兼定の次に『腕ずくで』という手段の有効性を不言実行で示す一口であった。
抵抗虚しく審神者の執務室へ連行された山鳥毛は、同田貫が審神者に、それはもう雑に、
「こいつ、主の体からいつも甘くていい匂いがするからいつまでも嗅いでたいとか言ってんだけど。俺は畑に戻るから、詳しい話は山鳥毛に聞いてくれ」
と言い放って戻っていったのを茫然と見ているしかできなかった。
同田貫としては、『不具合だと思うから診てやってほしい』という意味で、『それくらい、ガキでもねえし山鳥毛が自分で言えんだろ。主だって体を悪くした個体の対応は慣れてるしな』という考えによることであった。ただ古参として当然の、最低限度の役割を果たしただけのつもりであった。
これが自分の言葉でうまく説明できないような刀剣であったなら、同田貫ももっとこまやかに面倒を見ただろう。しかし同田貫からすると山鳥毛は鎌倉時代[[rb:鍛造 > うまれ]]のいい歳をした太刀であったから、自分のことは自分で正確に言えるだろうという信用があった。
それに、山鳥毛は一文字という一派を背負う刀である。そんな立場にある刀が、他派の、それも随分と時代が下った、宝物としての格などない実用品に、親が幼子にするように症状の詳細を訳知り顔で言い立てられては面目が立つまい、不具合の可能性などという繊細な[[rb:問題 > よわみ]]を他刃に聞かれて不快にならぬわけがあるまい、と考えたのだ。
山鳥毛とは刀としての在り方を遥か遠くに置くものの、同田貫もその身ひとつに一派を束ねて負う刀である。一派の名という看板の重さは知っている。審神者への説明を山鳥毛に任せたのは、ただ一振にして一派の無数の【我ら】を束ね、同田貫鍛冶の『折れず曲がらず』の名を背負って本丸に在る、同田貫正国の誇りに由来する優しさでもあった。
が、突然体臭だのなんだの言われた審神者にそんなことわかるわけがない。おろおろと山鳥毛を見ながら発せられた、呟くような声は持ち刀の変態性にどん引きして震えていた。
「えっ、あっ…あっ…………石鹸、のせい、でしょうか……?」
山鳥毛のいとしい小鳥は、常なれば執務時間中は本丸を統べる審神者なるものとしての表情を崩さない。けれど今は、感情を隠し切れず、年相応の若い娘の……困惑しきった表情をしていた。山鳥毛は羞恥で死んだ。
これが後に側仕え短刀たちが語り継ぎ、【例の事案意見箱】を数週間に渡って紛糾せしめたところの、『体臭くんかくんかいいにおいドン引き事件』である。
無銘一文字、号山鳥毛の名誉のために、このあと誤解を解くまでに発生した彼と審神者のしどろもどろは省略させていただきたい。
……その晩の夕食のデザートは小豆長光謹製ブランマンジェの金木犀と蜜柑のソース掛けだったのだが、なぜだか同田貫のだけ他の刀たちのには小奇麗に添えられているスペアミント――花言葉は『思いやり』――の葉がなく、代わりに皿の縁にソースで小さく『やりすぎだぞ!』と書かれていて、しかし同田貫は意味が取れずに首をかしげるだけだったという。
(おまけ。おしまい)
