小鳥から金木犀の香りがしてもだもだする山鳥毛の話
その日も山鳥毛は近侍ではなかった。
部隊配属も内番も命じられず、日課にしている鍛錬と、刀たちが自発的に持ち回りで行っている本丸内の巡回警固や雑事の当番を終えてしまうと手持ち無沙汰になる。さてどうしたものか、再度道場で身を鍛えてもよいし、書庫から何か借りてきて読書してもよいし、と山鳥毛が思案していたところに、廊下の向こう側から明確な殺気を放って、刀が一振り、足音荒くどすどすと歩いてきた。
同田貫正国である。彼は審神者に近侍を命じられ、朝から万屋街への買い出しに同行していた。すでに本丸へ戻っていたらしい。
ただ、様子がおかしい。同田貫は器物寄りの刀剣男士で、ことさらに物音を立てることは珍しい。また、この本丸の同田貫は、熊本で城仕えをしていた――つまりは御城備刀――個体の性質が比較的強く出たようで、使い捨てられる端武者の刀とはいえ武家の作法を一通りは心得ている。普段ならこんな足音の立て方はしない。よほど気が立っているようだった。板張りの廊下が震えている。
同田貫は山鳥毛など目も呉れぬ様子で通り過ぎようとした。山鳥毛も廊下の脇に寄って道を譲る。すれ違いざまに、同田貫からひたひたと臭気がする。その臭気は同田貫正国が同田貫正国である限り、本体を洗おうが研ごうが、肉の器のほうを風呂に入れようが何をしようが、決して消えないもの、戦場刀の証だった。
(血と泥と鋼の、常通りの戦場の[[rb:気配 > におい]]だな…………うん?)
山鳥毛は首をかしげた。何か違うものが混ざっている。天然の匂いではない。何か、香料をあわせて造られた匂い。これは、
「金木犀?」
思わず口に出してしまい、同田貫がぴたりと足を止めた。数歩先から振り向き、金満月の凶眼が山鳥毛を睨め上げた。
「ァんだよ」
地を這うよりも低い声で凄まれる。下から睨め上げる眼が剣呑だった。
同田貫正国は小兵である。背丈は決して高くはない。長身の山鳥毛とは随分と身長の開きがある。加えて童顔で、若くも幼くも見える。しかしその短躯に、戦場で敵を殺すためだけの実用的な筋肉をみっちりと詰め込んで、全身には使い潰されてきた無数の実戦刀たちに由来する古傷が刻まれている。顔に大きく斜めに入った向こう傷が非常に剣呑な印象を与えることと相まって、今の同田貫は、恐ろしいほどの威圧感があった。
「いや……何でもない」
怯んだわけではないが、山鳥毛はそれだけを口から出した。この本丸の同田貫は、決して、道で行き会っただけの刀を威圧して悦に入るような刀ではない。それくらいは山鳥毛とて知っている。山鳥毛は、同田貫は己の身から金木犀の匂いがしていることがたまらなく嫌で、他の刀にも指摘されたくなかったらしいと悟り、それ以上の言及を避けたのである。
同田貫は左右の手を交互に鼻へやって匂いを嗅ぎ、思いっきり顔をしかめた。同田貫が手を動かすと金木犀がより香ったから、匂いのもとは手に塗りこめられているのだと山鳥毛も察した。
そうしてから同田貫は、いまだ困惑の眼差しで自身を見ている山鳥毛をもう一度睨んで、
「見せもんじゃねぇぞ」
と言い捨てると、そのまま去ろうとした。思わず呼び止める。
「どこへ、」
「風呂。手ぇ洗う。ついでにひとっ風呂浴びて匂い流してくる」
「君は近侍だろう。小鳥の傍を離れるのか」
己ならば決して小鳥を放り出すことなどしない、という思いが、山鳥毛の声音を非難がましいものにした。
同田貫は振り向きもせず大きく舌打ちすると、不機嫌を隠そうともしない声を投げてきた。
「じゃああんたが行けばいいだろうが」
なぜだか山鳥毛が呼び止める前よりも殺気を強めて、足音も大きく、同田貫は去っていった。
古参の打刀の不可解な言動に眉を顰めた山鳥毛は、言われるまでもない、とぽつり独りごちて執務室に向けて歩き出す。ただ、用もないのに参じるのは気恥ずかしかったから、言い訳代わりに、途中で厨房へ寄って茶と菓子を支度した。ちょうど小豆がバターパウンドケーキを切り分けているところだったので、小鳥のためにと一皿貰う。
[newpage]
執務室の前で入室の許しを乞うと、そう間も置かずに許可のいらえがあった。入ると、上座に据えられた執務用の文机で、審神者が独り、業務を続けている。ちらと見渡したが誰一口として控えていなかった。側仕えの短刀もいない。
誰も審神者を護衛する物がいないのに同田貫はここを離れたのかと思うと、山鳥毛は内心、舌打ちでもしたい気分だった。
審神者は近侍も側仕えもいないのを特に気にした様子もなく、いつものように穏やかに凪いだ目を山鳥毛に向けて歓迎を述べる。この審神者は執務時間中、本丸を統べる審神者なるものとしての表情を心掛けているのだが、山鳥毛とともにあるときはやや目元がやわらかく、表情に変化を許しがちになる……山鳥毛と共にあるときだけの変化だから、肝心の山鳥毛はこれを知らない。山鳥毛は彼女のまなざしの柔らかさをいっとう好ましく思っていたから、その目で見られて沸きあがるほどはしゃぎそうになるこころを抑えねばならなかった。高鳴るよろこびを抑えて、いそいそと小鳥の傍に侍る。
彼女が、手元の書類をとん、とん、とまとめて机上に置く。それを見て切りのいいところまで進んでいたらしいと踏んで、山鳥毛はひとつ、息をして、己を落ち着かせてから、切り出した。
「茶でもどうかと思って用意してきた」
盆の上の一人用の茶と菓子を示すと、審神者は夜色の眼を和らげて笑み、礼を述べた。
「ありがとうございます。でも、買い物から戻ったばかりでそれほど働いていませんから、休憩には少し早いかもしれません」
「買い物も、君の私用ではなく消耗品の買い出しだったのだろう。充分に仕事さ。歩いて疲れただろうから、休みなさい」
疲労を案じるこころは本心からだったが、それとは別に、この小鳥の世話を焼きたいという己の欲求に従ったのもある。
「山鳥毛さんは一家の長だけあって、本当に面倒見のよい方ですよね。……では、お言葉に甘えて」
彼女の手が盆に伸びたのと同時、不意に場の匂いが変わる。
思わず山鳥毛は眉を顰めそうになった。審神者の手から、匂いがする。強いものではない。動くと香る。ほのかに甘い。しかし、山鳥毛にとっては非常に不快に臭う。
金木犀だ。
それも、生花にしては粘度の高い、べったりと平面な匂い。審神者がふだんから纏っている淡く穏やかな香りを不躾に塗り潰して、不自然に甘く、秋を造り出す匂い。……先ほど同田貫から感じたのと、同じ匂い。
ひくり、と鋭く嗅ぎ分けた山鳥毛に、審神者は手をとめ、小首を傾げて視線で問う。どうしましたか、と。
「……いや、君の手から香りが。金木犀だろうか?」
問えば審神者は納得したように、強すぎましたか、などと独りごち、受け取った横に置いて、左右の手を交互に鼻へやって匂いを嗅ぐ。仕草が少しだけ同田貫に似ていると思ってしまったのは、山鳥毛の穿ちすぎだろうか。目の前の太刀が胸に不快感を覚えているとは知らず、審神者はちいさく笑って答えた。
「午前の買い出しのときに、[[rb:同田貫 > どうたぬき]]が」
同田貫。審神者の凪いだ笑顔は山鳥毛が何より好むところであるのに、含まれた名前に、かすかに山鳥毛の縦長の瞳孔が開く。
彼女は出会って一年も経たぬ山鳥毛のことは彼の雰囲気もあって『山鳥毛さん』と呼ぶが、長く慣れ親しんだかつての初太刀のことは、『同田貫』とだけ呼ぶ。それ以外で呼ぶならば、あの忌々しい『私の一の太刀』という呼称で呼ぶ。ただ初めに彼女の喚び声に応えた太刀というだけで、打刀になってなお、その呼称を得ているのだ。
「そろそろ、乾燥で、指の皮が切れやすくなる季節だからと。ハンドクリーム……ええと、保湿のための軟膏をくれたんです」
そういって文机の横の抽斗から取り出して見せたのは、チューブ状の容器だ。審神者くらいの年ごろの娘が喜ぶ――そう決めつけるのも山鳥毛の古臭さであると同時に、十か月かけて、山鳥毛が彼女の好みを理解できたからである――明るい色の可愛らしい外装で、金木犀の花を模した絵が散らされている。
金木犀は、審神者が好む花でもある。
――こんな、可愛らしい、審神者が好みそうなものを、あの武骨な同田貫が選んで買い与えた。
同田貫の名が出ただけでもこの古鳥の心地は穏やかでいられないのに、審神者のためのものを買い与えたとあっては猶更だった。どうにかせねばと気が急きかけて、しかしなぜ己が焦っているのかがわからない。その不可解さが不快だった。その同田貫が審神者に物を与え、彼らから同じ匂いがするとなると――腸が、妙な煮え方をする。
情が煮えていることへの自覚が薄いまま、ただ山鳥毛は、彼女の持ち刀として、一文字の長として、自制なく一方的な不快感を表明する不作法を忌んで、意図して、極めて寛容な声を造り出した。……温厚な声、ではない、寛容な声、だ。この種の違いもやはり、山鳥毛は自覚できていない。
ヒトを、女として恋い求めるなど、永く器物として世にあり付喪神にまでなった山鳥毛にも、少なくともこの分霊個体にとっては初めてのことなのだ。想いままならぬときの感情の処理は、まだ、不慣れだった。
「なるほど。秋から冬は空気から水分がなくなると聞いたが」
それを教えたのは五虎退であった。空気が乾くと火がよく燃える。小火など起こさぬよう、厨房で火を使ったあとや焚火をしたあとなどは気を付けるようにと、秋口に入ってすぐ、この年に顕現した山鳥毛、鬼丸国綱、日光一文字、治金丸は、側仕え短刀衆の控室に呼ばれて正座で説明を聞いたものである。
「……肌が斬れるほどに乾いてしまうものとは知らなかった」
聞いた内容を思い返しながら、審神者の手を痛ましげに見る。この可愛らしい小さな手からさえ、季節は水を奪い、あまつさえ斬り裂くのかと。いたわる声色も視線も、審神者からすると大仰が過ぎたので、思わず眼を少しだけ丸くして、笑った。
持ち刀の勘違いを解き人体について教えるのも、審神者なる者の仕事である。山鳥毛は威厳も思慮もある刀だから、その山鳥毛がこのような勘違いをすると、審神者は、かわいい、と胸が弾みそうになる。私情を顔に出さないよう心するのも審神者のつとめと心得ている。
「あなたがた刀剣はそのようにできていませんからね。人間の肌は乾燥や加齢などで乾くものです……切れるといっても、書類の端で少しだけですよ」
自然のことですよ、だから、軟膏を塗って乾きを防ぐのです、と。心配させないように、何でもないことのように説明しながら、山鳥毛がちらと視線でハンドクリームの容器をわずかに気にしているのに気付いたようで、気になるならと差し出してくる。なぜ気にしているのかには気づけなかった。
山鳥毛は受け取ったハンドクリームの容器に視線を落とす。表は審神者が好みそうな外装、裏面には効能書きや成分表があり、それらより上の部分に商品紹介と共に金木犀の花言葉が書かれている。説明からすると、花言葉のイメージをもとに香りづけしたシリーズであるらしかった。
金木犀の花言葉は、初恋、陶酔、謙虚、気高い人、信実、誘惑――初恋。ひとがはじめてひとを恋うこと。
なぜだか山鳥毛がどきりとしてしまったのは、己の身の上のためにか、同田貫と審神者の、兄妹あるいは姉弟のような親しさが何かを連想させたためだろうか。
口惜しい。山鳥毛の胸のうちにその一語が焼き付く。
「その、毎年のことなのだろうか? 同田貫から軟膏を贈られるのは」
もし恋しい小鳥の手指を乾いた空気が損なうと知っていたならば、己は同田貫より先に、同田貫が選ぶよりずっとよいものを小鳥に献じることができていた。
――口惜しい。
ここで、夏前の、想いを自覚する前のように、審神者に与えるものをただ競うことができたなら楽だったろうに、もう彼は己が目の前の小鳥を心から乞うていることを自覚してしまっていた。他の何はわからずとも、それだけは彼の中で事実として確立されていた。そして、恋う以上は、小鳥に呆れられること、疎まれること――つがう雄鳥として相応しくないとみなされることだけは避けたいという見栄が生じていた。
声も、表情も、山鳥毛は『部下として』完璧に取り繕ったから、そして審神者は山鳥毛と会話できるだけでうれしかったから、何も違和感を覚えることができなかった。
「いえ、はじめてのことで……、ふふふ」
何を思い出したのか、随分と楽しげに笑った。
この審神者は誰に対しても明け透けにこんな話をするような人間ではない。彼女にとって同田貫は、もちろん人と刀、主と従の境を守った付き合い方をしてはいるが、付き合いの長さもあって家族のように気安い相手だ。己にとって家族のような刀を、山鳥毛にも親しみを以てよく思ってほしいと思っていた。夏以降、なぜだか山鳥毛が同田貫に苦手意識を持っているらしいことを察していたから、尚のことだった。
彼女は若くして本丸に据えられてから数年、己を主と仰ぐ刀ばかりに囲まれて成長した。本丸に据えられる前は、審神者の任に堪えるかどうか厳しく検品され、訓練される日々のなか、誰かを想うことなど知らずに生きてきた。
山鳥毛の顕現まで刀らから女として想われたこともなく、誰かと想いを通じ合わせたことなどなかったから、下策を打った。……慕うは己ばかり、それも叶わぬこと、知られてはならぬことと思い定めていたから、『審神者として』業務に障りのない程度に嫌われたくないとだけ思い、それより先にまでは考えが至らなかったのである。
「いつもは自分で買ったものか、加州が選んでくれたものを使っています。どういう風の吹き回しでしょうね、同田貫ったら、自分の手でハンドクリームを何種類も試して選んでくれたんです」
迷わず己の手でクリームを試した同田貫に審神者が驚いた声を出すと、同田貫は怪訝な顔をして、当然と言わんばかりにこのように言ってのけた。
『あんたの肌につけるもんだろ? へんなもん渡せねぇだろうが。毒味だよ』
いくつか試した中で、手への馴染みがよく、審神者が好みそうな香りのものを贈ったらしい。さきほど同田貫の手から山鳥毛が感じた匂いはその名残であろう。
「うれしいのですが……同田貫は、あの通りの刀でしょう。その同田貫に気遣わせて女物の軟膏の試し塗りまでさせてしまって、審神者として申し訳ないです」
何の色も気負いもない、ただ刀だから、所有物だから、主の、所有者の安全を優先する。同田貫のそんなところを審神者は心から信頼していた。審神者にとってはこのうえなく、有難く、忝い美点だが、山鳥毛は彼女の意図とは全く逆に、親しむどころかこれを非常な脅威を以て聞いていた。表情だけはなんとか取り繕ったものの、あまり愛想のよい相槌は打てなかった。
「それでさっそく塗ってみたということか」
言ったあとで、突き放すような声がわずかに滲んだことに彼は驚く。気づかれたくない、と思ったときにはすでに彼女に届いていた。
「……『[[rb:かみ > 、、]]に指を切られる前にさっさと塗れ』、と。買い出しから帰ってすぐ言われたので」
なぜ山鳥毛の声がそれほど固いのかを探るような答え方だった。いつも凪いでいる夜色の眼にも戸惑いをはっきりと見て、山鳥毛は悔いる。何でもない、と首を振って話題をずらそうと試みた。話題を探す。五虎退が世話をしている畑の野菜のこと、日が短くなってきて南泉が昼寝の場所をより厳選するようになったこと、瞬時に候補を考えて……どれもこれも露骨な転換が過ぎて不自然かと思い当たってしまい、出したくもない話題を出すことになる。
「先ほど同田貫と廊下で行き合った。随分と、虫の居所が悪そうだったが」
途端、審神者は喉に何かつっかえたみたいな顔をした。
「……からかってしまって。冗談にしても悪いことを言ったと思っています」
「悪いこととは?」
問いながら、山鳥毛は己のこころが、醜く汚い動きをするのを、審神者と同田貫の中に波が立ったことを密かに悦ぶ動きがあるのを、驚きと苦さで以て感じていた。小鳥と対すると余裕がなくなるのは常のことだったが、このような汚さが身のうちにあることを彼は知らなかった。彼の内心に気づきもしないで、審神者は肩をすくめて答える。
「同田貫からはこんなかわいい贈り物なんて初めてだったので、『誘惑』でもされているみたいね、と。花言葉にかけた軽口のつもりでした」
「誘惑――……」
金木犀の花言葉のうちの一つだ。
失敗をした子供の打ち明け話のような苦笑いで彼女は告げる。絶対にありえないことと審神者も同田貫もわかっているからこその、冗談のつもりだった。
「当然怒られました」
ふざけるな、俺はあんたの[[rb:所有物 > 持ち刀]]だ、と。
審神者相手であっても、気に喰わなければ、特に彼女が審神者なる者として相応しくない、主従の分を見誤るようなことをすれば、同田貫は怒る。同田貫にとっての快、不快によるところも大きいのだが、それでも審神者のために諫めてくれるのだ。そんなところまで含めて彼女は同田貫を信頼している。
ここで、彼女は山鳥毛の表情が非常に固いことに気づいた。彼女からすると失敗談を笑い話として打ち明けたつもりであったのに、色硝子越しに見える山鳥毛の緋の眼の光が、随分と……昏い。
表情は先ほどまでと一切変わらないのに、眼の生気だけが違っているのだ。
勘違いを招いた、審神者でありながら刀との風紀を乱していると咎められたと感じた審神者はすぐさま釘を刺す。山鳥毛のこころの温度を測り違えていたのである。彼女は審神者なる者、この本丸の主である。不要なからまりがあっては本丸の運営に支障が出る。また……山鳥毛には、審神者として不適切な女とは思われたくないという意図もあった。
「念のため申し上げますが、同田貫は気高い刀です、誘惑なんてことは絶対にしません」
「君は随分と、あの墨色の打刀を信用しているんだな」
山鳥毛が、同田貫、と言えなかったのは無意識に名前すら避けたことによる。声はさきほどから寛容さを保ってはいるが、墨色の打刀などと持って回った言い方をしてしまう程度には、腸は自覚したくないこころに煮えていた。
審神者は困ったように眉を下げた。
「長い付き合いですから、気心が知れていますし、信頼しています。彼は私の一の太刀ですから」
――『私の一の太刀』。
山鳥毛はこのとき、己の腸が千切れる思いをした。
審神者の、何も含むところのない真っ直ぐな目も、真っ正直な信愛から発せられた声も、山鳥毛には心から腹立たしい。刀が主に『腹立たしい』などと、向けるべきでない情であるのは理性ではわかっていても、腹が立つ。なぜ腹立たしいのかがわからないのがより不快だ。いや、わかっているがわかりたくない、認めたくない、こんな、こんな感情など。己の意地汚い狭量さを鼻先に押し付けられたようで、たとえようもないほどに不快感が増す。
度し難い。認めたくない。
人に愛されることで永らえてきた器物として、永く珍重されてきた宝刀として、こんな小さくか弱く見える女一人にままならなくなる、こころなるもの、が歯がゆく度し難く許せない。しかしそれ以上に、審神者に、心から乞う小鳥に、これほど狭量では選ばれまい、という焦りがある。小鳥から望んで選ぶよう、よい雄鳥と見せなければならないのに、それが叶わぬ事態など許せない。己にこれほどの余裕なく、みっともない面があるのを、認めたくない。
これでは手に入らない。そう思ってしまう、こころ、を認めたくない。
なんたる無様さ。同田貫の、己は所有物と割り切った審神者への思いやりは、山鳥毛の粘着とは在り方を遥か遠くに置く。審神者の信を無条件に受ける同田貫と、未だ新参に過ぎぬ我が身とを引き比べて、訳の分からぬヒトのこころに似せた情動に身を焼かれる醜態。己の身の内の炎を制御できぬ惨めさ。
焔宿す山鳥の刃紋により、一つの家で重代の宝と大切に守られた己に、一文字一家の長として相応の振る舞いをせねばならぬ己に、全く相応しくない動きをする、こころ。
度し難い、……苦しい、こころ。
奥歯を噛んで苦しみに耐えようとした山鳥毛の表情の理由を、審神者は理解できていなかった。しかし持ち刀、それもこころ密かに慕う相手が何のゆえにか苦しんでいることを察し、眉を寄せて、文机を挟んで山鳥毛に手を伸ばす。
「大丈夫ですか……? どこか不調でも……?」
そのとき、彼女の手とともに動いた香気。
彼女の手にへばりつく金木犀の匂い――彼女を塗りつぶす、他の雄の匂い。
やっと山鳥毛はこの段になって己の腹のうちに居座る不快感と向き合った。
(嗚呼、これが、……嫉妬)
慕う相手に他の雄鳥が痕跡を残していることへの焦り。恋しい小鳥に、手の届かぬことへの恐れ。――彼女のことが欲しくて欲しくて、彼女に己を見てほしくてたまらないという、手前勝手で青臭い、恋情のくるしみ。
これが、嫉妬。
途端、山鳥毛の腹のうちで嚇として決まるものがある。意図するよりも早く、また、恥じらいが邪魔をするよりも早く、彼の手は、己に伸べられた審神者の手を取っていた。
これが嫉妬だ、これが、己を欲しがるだけで、何も為せぬ力ない雄に留め置いてしまう、枷となるもの、己を小鳥にふさわしい雄ではなくしてしまうもの。
――こんなものにかかずらっていては、負けるために戦うようなものではないか。
肚を決めてしまった山鳥毛は強かった。そして大人げなかった。審神者が手を取られてわずかに目を見開きながらも、
「山鳥毛さん?」
と、いまだ彼を案じているのを逃がさない。もはや彼は誰をも何をも慮りはしなかった。夏以前の、想いを自覚しなかったころと同様に、正面から彼女に攻め入った。夏前と違うのは、あのころは慮る理由がなかったが、今は慮る余裕がないことだ。
小鳥の片手の手指に、己の片手の手指を絡ませる。力は籠めない。しかし離すつもりはない。山鳥毛は指の腹で、忌々しい金木犀の香りがこびりついた痛ましい小鳥の手の甲をいたわって愛撫した。指に宿った体温を感じたのか、あるいは体温以外のものを察しとったのか、彼女の手はびくりと震えて指を引っ込めようとするがそれを許す山鳥毛ではない。さらにもう片手を伸ばし、大きな両の掌で小鳥の手を包み、懇願を込めて、切々と撫で上げる。正直なところ彼としてもとても気恥ずかしいことをしてしまっている自覚はあるのだが、もはや引くことなどできやしない。
それに、何より、夏ぶりに大胆に触れてしまった彼女の肌の温度がここちよく、この世に有り難きものに思えて、離せそうになかった。
「小鳥は、この香りが好きなのかな?」
いっそわざとらしいほど、嫣然と微笑んで見せた。誘惑する。小鳥の夜色の眼が、己の[[rb:緋 > 火]]色に魅入られてか、揺れながらもそらせなくなっているのが心地よい。そのまま己の眼のほか何も見なければよい。
「はい、金木犀が好きで……」
「口惜しいな」
絡めた指に力を込めて乞う。
「君を塗りつぶす、この香りになれないことが悔しい。小鳥よ、私は何度か、君に聞いただろう。『買ってもらいたいものでもあるのかな』と。」
それは何度か、彼が近侍として万屋への伴行きを命じられた際に、はしゃぐ心のまま、己の為したことによって審神者を喜ばせたいあまりにさえずった言葉だった。
「……慎み深い君はいつも、何もない、いらないとばかり答えていたね。私はいつだって君に与えたくてしかたがないのに、君は私に、真心を献じる機会を与えてはくれない。なのに同田貫は易々と、私が得られぬ機会を得て、君をこんな臭気で塗りつぶしてしまった。実に口惜しいことだよ」
「それは、たまたま、今日は彼が近侍で……」
「そうだ、問題はそこだよ、小鳥」
自然、片眉を上げてたしなめるような口調になる。主君の言を遮る不敬は承知していたが、どうしても今ばかりは譲れない。
「私も同田貫と同じく君の持ち刀、君の部下だ。であるからには、君と近しくありたいと願うのは当然だろう。……それを、せっかくの好機を、たまたま近侍だった同田貫だけに独占されてしまっては、年甲斐なくも――嫉妬してしまうな」
「しっと……」
一文字の長の口から出るとは思いもよらぬ言葉であったらしい。小鳥は困惑と驚きのまま、耳で聞き取った音を呆然と繰り返した。
山鳥毛が、嫉妬。何の間違いだろうと彼女は逡巡する。常に泰然として在る彼には似合わぬことに思われた。第一、彼女と彼は審神者と刀剣男士、主と従である。彼女には特定の刀剣だけを贔屓して用いる愚は避けてきたという自負もある。嫉妬なる感情が入り込むいわれがあろうはずもない……いわれがあるなどと自惚れるほど恥を忘れた覚えもない。そう思い山鳥毛の表情から真意を分析しようと試みるが――彼は、苦くも穏やかに微笑んでいた。その笑み一つで、ざわり、と、小鳥の心臓が震える。期待してはいけないことを期待しそうになってしまう。山鳥毛は微苦笑のまま、心の内をさえずった。
「そう、嫉妬だ」
口に出すとまだ山鳥毛の舌の根にえぐみを感じさせる語だった。思わず、ほのかな自嘲で口の端がより苦いかたちになる。しかし、認めてしまうと格段に攻め入りやすかった。
――己が、嫉妬なる人間じみた感情に苦しめられているのは、すべて、ひとえに、小鳥により近づきたい、小鳥とのつながりをより多く得たいと願ったがゆえだ。
ならば、より近く、より多くを得るために動くまでではないか。そのように彼の無意識は働いていたのである。
「私にも君に真心を贈る誉れをいただけないだろうか。必ずや、君の気にいるものを選んでみせよう」
「そんな、悪いです。ハンドクリームだけで大げさな、」
「小鳥」
さえぎる。さえずる。どうかこの声が彼女の鼓膜に甘く甘く響くようにと願いながら、彼女の眼を見つめて誘惑する。
既にして彼の中では、彼女は仰ぎ守るべき部領であると同時に、いつかは己が巣に招き入れ、己の翼の下に入れるべき小鳥になっていた。
「小鳥。どうか君の持ち刀に、私に情けを」
これが山鳥の恋なのだ。これが初めての恋で、恋なのだ。この乞いを実らせられないならば、残るのは不毛の飢えばかりである。
――是と言っておくれ。
[[rb:緋 > 火]]の眼にゆらめき立ち上る、熱く切実な乞いの炎。
それに呑まれたか、焼かれたか。審神者は呼吸をひとつ、喉の奥に置き忘れた。瞬きもできずに炎に魅入られたしばしの無音ののち、彼女は前後の脈絡も忘れて、気づけば、こくり、と頷きで以て答えていた。肯定以外の応答の術を忘れてしまったかのようであった。
その頬は、目元は、ほのかに、朱い。
必ずや我がつがいにと思い定めた雌の斯くのごとき有様に、山鳥は大変大人げなくも、心から喜び、はしゃいで、文机の向こうへ身を乗り出して小鳥の額に顔を寄せた。唇が彼女の肌に触れ得るほどの近さであるゆえか、微かに、甘く、彼女が香る。無作法な金木犀に塗りつぶされていない香りは、大変に好ましく山鳥毛を魅了した。
触れる。囁く。攻めて落とすと決めたからには、彼はもはや遠慮などしない。
「ふふ。高揚してしまいそうだ。それでは小鳥、約束だぞ。屹度受け取っておくれ」
……山鳥毛がうきうきと退出したのを見送ったのち、その日の夕方ごろまで、審神者はいつかの初夏の日の散歩のように素数を数えていたとか、動転しすぎて途中で間違えてずっとただの奇数を数えていたことに気づかなかったとか。
(続く)
(※このふたりの関係性をどこまで進めるか迷ったのですが、まだ少しこのままです)
部隊配属も内番も命じられず、日課にしている鍛錬と、刀たちが自発的に持ち回りで行っている本丸内の巡回警固や雑事の当番を終えてしまうと手持ち無沙汰になる。さてどうしたものか、再度道場で身を鍛えてもよいし、書庫から何か借りてきて読書してもよいし、と山鳥毛が思案していたところに、廊下の向こう側から明確な殺気を放って、刀が一振り、足音荒くどすどすと歩いてきた。
同田貫正国である。彼は審神者に近侍を命じられ、朝から万屋街への買い出しに同行していた。すでに本丸へ戻っていたらしい。
ただ、様子がおかしい。同田貫は器物寄りの刀剣男士で、ことさらに物音を立てることは珍しい。また、この本丸の同田貫は、熊本で城仕えをしていた――つまりは御城備刀――個体の性質が比較的強く出たようで、使い捨てられる端武者の刀とはいえ武家の作法を一通りは心得ている。普段ならこんな足音の立て方はしない。よほど気が立っているようだった。板張りの廊下が震えている。
同田貫は山鳥毛など目も呉れぬ様子で通り過ぎようとした。山鳥毛も廊下の脇に寄って道を譲る。すれ違いざまに、同田貫からひたひたと臭気がする。その臭気は同田貫正国が同田貫正国である限り、本体を洗おうが研ごうが、肉の器のほうを風呂に入れようが何をしようが、決して消えないもの、戦場刀の証だった。
(血と泥と鋼の、常通りの戦場の[[rb:気配 > におい]]だな…………うん?)
山鳥毛は首をかしげた。何か違うものが混ざっている。天然の匂いではない。何か、香料をあわせて造られた匂い。これは、
「金木犀?」
思わず口に出してしまい、同田貫がぴたりと足を止めた。数歩先から振り向き、金満月の凶眼が山鳥毛を睨め上げた。
「ァんだよ」
地を這うよりも低い声で凄まれる。下から睨め上げる眼が剣呑だった。
同田貫正国は小兵である。背丈は決して高くはない。長身の山鳥毛とは随分と身長の開きがある。加えて童顔で、若くも幼くも見える。しかしその短躯に、戦場で敵を殺すためだけの実用的な筋肉をみっちりと詰め込んで、全身には使い潰されてきた無数の実戦刀たちに由来する古傷が刻まれている。顔に大きく斜めに入った向こう傷が非常に剣呑な印象を与えることと相まって、今の同田貫は、恐ろしいほどの威圧感があった。
「いや……何でもない」
怯んだわけではないが、山鳥毛はそれだけを口から出した。この本丸の同田貫は、決して、道で行き会っただけの刀を威圧して悦に入るような刀ではない。それくらいは山鳥毛とて知っている。山鳥毛は、同田貫は己の身から金木犀の匂いがしていることがたまらなく嫌で、他の刀にも指摘されたくなかったらしいと悟り、それ以上の言及を避けたのである。
同田貫は左右の手を交互に鼻へやって匂いを嗅ぎ、思いっきり顔をしかめた。同田貫が手を動かすと金木犀がより香ったから、匂いのもとは手に塗りこめられているのだと山鳥毛も察した。
そうしてから同田貫は、いまだ困惑の眼差しで自身を見ている山鳥毛をもう一度睨んで、
「見せもんじゃねぇぞ」
と言い捨てると、そのまま去ろうとした。思わず呼び止める。
「どこへ、」
「風呂。手ぇ洗う。ついでにひとっ風呂浴びて匂い流してくる」
「君は近侍だろう。小鳥の傍を離れるのか」
己ならば決して小鳥を放り出すことなどしない、という思いが、山鳥毛の声音を非難がましいものにした。
同田貫は振り向きもせず大きく舌打ちすると、不機嫌を隠そうともしない声を投げてきた。
「じゃああんたが行けばいいだろうが」
なぜだか山鳥毛が呼び止める前よりも殺気を強めて、足音も大きく、同田貫は去っていった。
古参の打刀の不可解な言動に眉を顰めた山鳥毛は、言われるまでもない、とぽつり独りごちて執務室に向けて歩き出す。ただ、用もないのに参じるのは気恥ずかしかったから、言い訳代わりに、途中で厨房へ寄って茶と菓子を支度した。ちょうど小豆がバターパウンドケーキを切り分けているところだったので、小鳥のためにと一皿貰う。
[newpage]
執務室の前で入室の許しを乞うと、そう間も置かずに許可のいらえがあった。入ると、上座に据えられた執務用の文机で、審神者が独り、業務を続けている。ちらと見渡したが誰一口として控えていなかった。側仕えの短刀もいない。
誰も審神者を護衛する物がいないのに同田貫はここを離れたのかと思うと、山鳥毛は内心、舌打ちでもしたい気分だった。
審神者は近侍も側仕えもいないのを特に気にした様子もなく、いつものように穏やかに凪いだ目を山鳥毛に向けて歓迎を述べる。この審神者は執務時間中、本丸を統べる審神者なるものとしての表情を心掛けているのだが、山鳥毛とともにあるときはやや目元がやわらかく、表情に変化を許しがちになる……山鳥毛と共にあるときだけの変化だから、肝心の山鳥毛はこれを知らない。山鳥毛は彼女のまなざしの柔らかさをいっとう好ましく思っていたから、その目で見られて沸きあがるほどはしゃぎそうになるこころを抑えねばならなかった。高鳴るよろこびを抑えて、いそいそと小鳥の傍に侍る。
彼女が、手元の書類をとん、とん、とまとめて机上に置く。それを見て切りのいいところまで進んでいたらしいと踏んで、山鳥毛はひとつ、息をして、己を落ち着かせてから、切り出した。
「茶でもどうかと思って用意してきた」
盆の上の一人用の茶と菓子を示すと、審神者は夜色の眼を和らげて笑み、礼を述べた。
「ありがとうございます。でも、買い物から戻ったばかりでそれほど働いていませんから、休憩には少し早いかもしれません」
「買い物も、君の私用ではなく消耗品の買い出しだったのだろう。充分に仕事さ。歩いて疲れただろうから、休みなさい」
疲労を案じるこころは本心からだったが、それとは別に、この小鳥の世話を焼きたいという己の欲求に従ったのもある。
「山鳥毛さんは一家の長だけあって、本当に面倒見のよい方ですよね。……では、お言葉に甘えて」
彼女の手が盆に伸びたのと同時、不意に場の匂いが変わる。
思わず山鳥毛は眉を顰めそうになった。審神者の手から、匂いがする。強いものではない。動くと香る。ほのかに甘い。しかし、山鳥毛にとっては非常に不快に臭う。
金木犀だ。
それも、生花にしては粘度の高い、べったりと平面な匂い。審神者がふだんから纏っている淡く穏やかな香りを不躾に塗り潰して、不自然に甘く、秋を造り出す匂い。……先ほど同田貫から感じたのと、同じ匂い。
ひくり、と鋭く嗅ぎ分けた山鳥毛に、審神者は手をとめ、小首を傾げて視線で問う。どうしましたか、と。
「……いや、君の手から香りが。金木犀だろうか?」
問えば審神者は納得したように、強すぎましたか、などと独りごち、受け取った横に置いて、左右の手を交互に鼻へやって匂いを嗅ぐ。仕草が少しだけ同田貫に似ていると思ってしまったのは、山鳥毛の穿ちすぎだろうか。目の前の太刀が胸に不快感を覚えているとは知らず、審神者はちいさく笑って答えた。
「午前の買い出しのときに、[[rb:同田貫 > どうたぬき]]が」
同田貫。審神者の凪いだ笑顔は山鳥毛が何より好むところであるのに、含まれた名前に、かすかに山鳥毛の縦長の瞳孔が開く。
彼女は出会って一年も経たぬ山鳥毛のことは彼の雰囲気もあって『山鳥毛さん』と呼ぶが、長く慣れ親しんだかつての初太刀のことは、『同田貫』とだけ呼ぶ。それ以外で呼ぶならば、あの忌々しい『私の一の太刀』という呼称で呼ぶ。ただ初めに彼女の喚び声に応えた太刀というだけで、打刀になってなお、その呼称を得ているのだ。
「そろそろ、乾燥で、指の皮が切れやすくなる季節だからと。ハンドクリーム……ええと、保湿のための軟膏をくれたんです」
そういって文机の横の抽斗から取り出して見せたのは、チューブ状の容器だ。審神者くらいの年ごろの娘が喜ぶ――そう決めつけるのも山鳥毛の古臭さであると同時に、十か月かけて、山鳥毛が彼女の好みを理解できたからである――明るい色の可愛らしい外装で、金木犀の花を模した絵が散らされている。
金木犀は、審神者が好む花でもある。
――こんな、可愛らしい、審神者が好みそうなものを、あの武骨な同田貫が選んで買い与えた。
同田貫の名が出ただけでもこの古鳥の心地は穏やかでいられないのに、審神者のためのものを買い与えたとあっては猶更だった。どうにかせねばと気が急きかけて、しかしなぜ己が焦っているのかがわからない。その不可解さが不快だった。その同田貫が審神者に物を与え、彼らから同じ匂いがするとなると――腸が、妙な煮え方をする。
情が煮えていることへの自覚が薄いまま、ただ山鳥毛は、彼女の持ち刀として、一文字の長として、自制なく一方的な不快感を表明する不作法を忌んで、意図して、極めて寛容な声を造り出した。……温厚な声、ではない、寛容な声、だ。この種の違いもやはり、山鳥毛は自覚できていない。
ヒトを、女として恋い求めるなど、永く器物として世にあり付喪神にまでなった山鳥毛にも、少なくともこの分霊個体にとっては初めてのことなのだ。想いままならぬときの感情の処理は、まだ、不慣れだった。
「なるほど。秋から冬は空気から水分がなくなると聞いたが」
それを教えたのは五虎退であった。空気が乾くと火がよく燃える。小火など起こさぬよう、厨房で火を使ったあとや焚火をしたあとなどは気を付けるようにと、秋口に入ってすぐ、この年に顕現した山鳥毛、鬼丸国綱、日光一文字、治金丸は、側仕え短刀衆の控室に呼ばれて正座で説明を聞いたものである。
「……肌が斬れるほどに乾いてしまうものとは知らなかった」
聞いた内容を思い返しながら、審神者の手を痛ましげに見る。この可愛らしい小さな手からさえ、季節は水を奪い、あまつさえ斬り裂くのかと。いたわる声色も視線も、審神者からすると大仰が過ぎたので、思わず眼を少しだけ丸くして、笑った。
持ち刀の勘違いを解き人体について教えるのも、審神者なる者の仕事である。山鳥毛は威厳も思慮もある刀だから、その山鳥毛がこのような勘違いをすると、審神者は、かわいい、と胸が弾みそうになる。私情を顔に出さないよう心するのも審神者のつとめと心得ている。
「あなたがた刀剣はそのようにできていませんからね。人間の肌は乾燥や加齢などで乾くものです……切れるといっても、書類の端で少しだけですよ」
自然のことですよ、だから、軟膏を塗って乾きを防ぐのです、と。心配させないように、何でもないことのように説明しながら、山鳥毛がちらと視線でハンドクリームの容器をわずかに気にしているのに気付いたようで、気になるならと差し出してくる。なぜ気にしているのかには気づけなかった。
山鳥毛は受け取ったハンドクリームの容器に視線を落とす。表は審神者が好みそうな外装、裏面には効能書きや成分表があり、それらより上の部分に商品紹介と共に金木犀の花言葉が書かれている。説明からすると、花言葉のイメージをもとに香りづけしたシリーズであるらしかった。
金木犀の花言葉は、初恋、陶酔、謙虚、気高い人、信実、誘惑――初恋。ひとがはじめてひとを恋うこと。
なぜだか山鳥毛がどきりとしてしまったのは、己の身の上のためにか、同田貫と審神者の、兄妹あるいは姉弟のような親しさが何かを連想させたためだろうか。
口惜しい。山鳥毛の胸のうちにその一語が焼き付く。
「その、毎年のことなのだろうか? 同田貫から軟膏を贈られるのは」
もし恋しい小鳥の手指を乾いた空気が損なうと知っていたならば、己は同田貫より先に、同田貫が選ぶよりずっとよいものを小鳥に献じることができていた。
――口惜しい。
ここで、夏前の、想いを自覚する前のように、審神者に与えるものをただ競うことができたなら楽だったろうに、もう彼は己が目の前の小鳥を心から乞うていることを自覚してしまっていた。他の何はわからずとも、それだけは彼の中で事実として確立されていた。そして、恋う以上は、小鳥に呆れられること、疎まれること――つがう雄鳥として相応しくないとみなされることだけは避けたいという見栄が生じていた。
声も、表情も、山鳥毛は『部下として』完璧に取り繕ったから、そして審神者は山鳥毛と会話できるだけでうれしかったから、何も違和感を覚えることができなかった。
「いえ、はじめてのことで……、ふふふ」
何を思い出したのか、随分と楽しげに笑った。
この審神者は誰に対しても明け透けにこんな話をするような人間ではない。彼女にとって同田貫は、もちろん人と刀、主と従の境を守った付き合い方をしてはいるが、付き合いの長さもあって家族のように気安い相手だ。己にとって家族のような刀を、山鳥毛にも親しみを以てよく思ってほしいと思っていた。夏以降、なぜだか山鳥毛が同田貫に苦手意識を持っているらしいことを察していたから、尚のことだった。
彼女は若くして本丸に据えられてから数年、己を主と仰ぐ刀ばかりに囲まれて成長した。本丸に据えられる前は、審神者の任に堪えるかどうか厳しく検品され、訓練される日々のなか、誰かを想うことなど知らずに生きてきた。
山鳥毛の顕現まで刀らから女として想われたこともなく、誰かと想いを通じ合わせたことなどなかったから、下策を打った。……慕うは己ばかり、それも叶わぬこと、知られてはならぬことと思い定めていたから、『審神者として』業務に障りのない程度に嫌われたくないとだけ思い、それより先にまでは考えが至らなかったのである。
「いつもは自分で買ったものか、加州が選んでくれたものを使っています。どういう風の吹き回しでしょうね、同田貫ったら、自分の手でハンドクリームを何種類も試して選んでくれたんです」
迷わず己の手でクリームを試した同田貫に審神者が驚いた声を出すと、同田貫は怪訝な顔をして、当然と言わんばかりにこのように言ってのけた。
『あんたの肌につけるもんだろ? へんなもん渡せねぇだろうが。毒味だよ』
いくつか試した中で、手への馴染みがよく、審神者が好みそうな香りのものを贈ったらしい。さきほど同田貫の手から山鳥毛が感じた匂いはその名残であろう。
「うれしいのですが……同田貫は、あの通りの刀でしょう。その同田貫に気遣わせて女物の軟膏の試し塗りまでさせてしまって、審神者として申し訳ないです」
何の色も気負いもない、ただ刀だから、所有物だから、主の、所有者の安全を優先する。同田貫のそんなところを審神者は心から信頼していた。審神者にとってはこのうえなく、有難く、忝い美点だが、山鳥毛は彼女の意図とは全く逆に、親しむどころかこれを非常な脅威を以て聞いていた。表情だけはなんとか取り繕ったものの、あまり愛想のよい相槌は打てなかった。
「それでさっそく塗ってみたということか」
言ったあとで、突き放すような声がわずかに滲んだことに彼は驚く。気づかれたくない、と思ったときにはすでに彼女に届いていた。
「……『[[rb:かみ > 、、]]に指を切られる前にさっさと塗れ』、と。買い出しから帰ってすぐ言われたので」
なぜ山鳥毛の声がそれほど固いのかを探るような答え方だった。いつも凪いでいる夜色の眼にも戸惑いをはっきりと見て、山鳥毛は悔いる。何でもない、と首を振って話題をずらそうと試みた。話題を探す。五虎退が世話をしている畑の野菜のこと、日が短くなってきて南泉が昼寝の場所をより厳選するようになったこと、瞬時に候補を考えて……どれもこれも露骨な転換が過ぎて不自然かと思い当たってしまい、出したくもない話題を出すことになる。
「先ほど同田貫と廊下で行き合った。随分と、虫の居所が悪そうだったが」
途端、審神者は喉に何かつっかえたみたいな顔をした。
「……からかってしまって。冗談にしても悪いことを言ったと思っています」
「悪いこととは?」
問いながら、山鳥毛は己のこころが、醜く汚い動きをするのを、審神者と同田貫の中に波が立ったことを密かに悦ぶ動きがあるのを、驚きと苦さで以て感じていた。小鳥と対すると余裕がなくなるのは常のことだったが、このような汚さが身のうちにあることを彼は知らなかった。彼の内心に気づきもしないで、審神者は肩をすくめて答える。
「同田貫からはこんなかわいい贈り物なんて初めてだったので、『誘惑』でもされているみたいね、と。花言葉にかけた軽口のつもりでした」
「誘惑――……」
金木犀の花言葉のうちの一つだ。
失敗をした子供の打ち明け話のような苦笑いで彼女は告げる。絶対にありえないことと審神者も同田貫もわかっているからこその、冗談のつもりだった。
「当然怒られました」
ふざけるな、俺はあんたの[[rb:所有物 > 持ち刀]]だ、と。
審神者相手であっても、気に喰わなければ、特に彼女が審神者なる者として相応しくない、主従の分を見誤るようなことをすれば、同田貫は怒る。同田貫にとっての快、不快によるところも大きいのだが、それでも審神者のために諫めてくれるのだ。そんなところまで含めて彼女は同田貫を信頼している。
ここで、彼女は山鳥毛の表情が非常に固いことに気づいた。彼女からすると失敗談を笑い話として打ち明けたつもりであったのに、色硝子越しに見える山鳥毛の緋の眼の光が、随分と……昏い。
表情は先ほどまでと一切変わらないのに、眼の生気だけが違っているのだ。
勘違いを招いた、審神者でありながら刀との風紀を乱していると咎められたと感じた審神者はすぐさま釘を刺す。山鳥毛のこころの温度を測り違えていたのである。彼女は審神者なる者、この本丸の主である。不要なからまりがあっては本丸の運営に支障が出る。また……山鳥毛には、審神者として不適切な女とは思われたくないという意図もあった。
「念のため申し上げますが、同田貫は気高い刀です、誘惑なんてことは絶対にしません」
「君は随分と、あの墨色の打刀を信用しているんだな」
山鳥毛が、同田貫、と言えなかったのは無意識に名前すら避けたことによる。声はさきほどから寛容さを保ってはいるが、墨色の打刀などと持って回った言い方をしてしまう程度には、腸は自覚したくないこころに煮えていた。
審神者は困ったように眉を下げた。
「長い付き合いですから、気心が知れていますし、信頼しています。彼は私の一の太刀ですから」
――『私の一の太刀』。
山鳥毛はこのとき、己の腸が千切れる思いをした。
審神者の、何も含むところのない真っ直ぐな目も、真っ正直な信愛から発せられた声も、山鳥毛には心から腹立たしい。刀が主に『腹立たしい』などと、向けるべきでない情であるのは理性ではわかっていても、腹が立つ。なぜ腹立たしいのかがわからないのがより不快だ。いや、わかっているがわかりたくない、認めたくない、こんな、こんな感情など。己の意地汚い狭量さを鼻先に押し付けられたようで、たとえようもないほどに不快感が増す。
度し難い。認めたくない。
人に愛されることで永らえてきた器物として、永く珍重されてきた宝刀として、こんな小さくか弱く見える女一人にままならなくなる、こころなるもの、が歯がゆく度し難く許せない。しかしそれ以上に、審神者に、心から乞う小鳥に、これほど狭量では選ばれまい、という焦りがある。小鳥から望んで選ぶよう、よい雄鳥と見せなければならないのに、それが叶わぬ事態など許せない。己にこれほどの余裕なく、みっともない面があるのを、認めたくない。
これでは手に入らない。そう思ってしまう、こころ、を認めたくない。
なんたる無様さ。同田貫の、己は所有物と割り切った審神者への思いやりは、山鳥毛の粘着とは在り方を遥か遠くに置く。審神者の信を無条件に受ける同田貫と、未だ新参に過ぎぬ我が身とを引き比べて、訳の分からぬヒトのこころに似せた情動に身を焼かれる醜態。己の身の内の炎を制御できぬ惨めさ。
焔宿す山鳥の刃紋により、一つの家で重代の宝と大切に守られた己に、一文字一家の長として相応の振る舞いをせねばならぬ己に、全く相応しくない動きをする、こころ。
度し難い、……苦しい、こころ。
奥歯を噛んで苦しみに耐えようとした山鳥毛の表情の理由を、審神者は理解できていなかった。しかし持ち刀、それもこころ密かに慕う相手が何のゆえにか苦しんでいることを察し、眉を寄せて、文机を挟んで山鳥毛に手を伸ばす。
「大丈夫ですか……? どこか不調でも……?」
そのとき、彼女の手とともに動いた香気。
彼女の手にへばりつく金木犀の匂い――彼女を塗りつぶす、他の雄の匂い。
やっと山鳥毛はこの段になって己の腹のうちに居座る不快感と向き合った。
(嗚呼、これが、……嫉妬)
慕う相手に他の雄鳥が痕跡を残していることへの焦り。恋しい小鳥に、手の届かぬことへの恐れ。――彼女のことが欲しくて欲しくて、彼女に己を見てほしくてたまらないという、手前勝手で青臭い、恋情のくるしみ。
これが、嫉妬。
途端、山鳥毛の腹のうちで嚇として決まるものがある。意図するよりも早く、また、恥じらいが邪魔をするよりも早く、彼の手は、己に伸べられた審神者の手を取っていた。
これが嫉妬だ、これが、己を欲しがるだけで、何も為せぬ力ない雄に留め置いてしまう、枷となるもの、己を小鳥にふさわしい雄ではなくしてしまうもの。
――こんなものにかかずらっていては、負けるために戦うようなものではないか。
肚を決めてしまった山鳥毛は強かった。そして大人げなかった。審神者が手を取られてわずかに目を見開きながらも、
「山鳥毛さん?」
と、いまだ彼を案じているのを逃がさない。もはや彼は誰をも何をも慮りはしなかった。夏以前の、想いを自覚しなかったころと同様に、正面から彼女に攻め入った。夏前と違うのは、あのころは慮る理由がなかったが、今は慮る余裕がないことだ。
小鳥の片手の手指に、己の片手の手指を絡ませる。力は籠めない。しかし離すつもりはない。山鳥毛は指の腹で、忌々しい金木犀の香りがこびりついた痛ましい小鳥の手の甲をいたわって愛撫した。指に宿った体温を感じたのか、あるいは体温以外のものを察しとったのか、彼女の手はびくりと震えて指を引っ込めようとするがそれを許す山鳥毛ではない。さらにもう片手を伸ばし、大きな両の掌で小鳥の手を包み、懇願を込めて、切々と撫で上げる。正直なところ彼としてもとても気恥ずかしいことをしてしまっている自覚はあるのだが、もはや引くことなどできやしない。
それに、何より、夏ぶりに大胆に触れてしまった彼女の肌の温度がここちよく、この世に有り難きものに思えて、離せそうになかった。
「小鳥は、この香りが好きなのかな?」
いっそわざとらしいほど、嫣然と微笑んで見せた。誘惑する。小鳥の夜色の眼が、己の[[rb:緋 > 火]]色に魅入られてか、揺れながらもそらせなくなっているのが心地よい。そのまま己の眼のほか何も見なければよい。
「はい、金木犀が好きで……」
「口惜しいな」
絡めた指に力を込めて乞う。
「君を塗りつぶす、この香りになれないことが悔しい。小鳥よ、私は何度か、君に聞いただろう。『買ってもらいたいものでもあるのかな』と。」
それは何度か、彼が近侍として万屋への伴行きを命じられた際に、はしゃぐ心のまま、己の為したことによって審神者を喜ばせたいあまりにさえずった言葉だった。
「……慎み深い君はいつも、何もない、いらないとばかり答えていたね。私はいつだって君に与えたくてしかたがないのに、君は私に、真心を献じる機会を与えてはくれない。なのに同田貫は易々と、私が得られぬ機会を得て、君をこんな臭気で塗りつぶしてしまった。実に口惜しいことだよ」
「それは、たまたま、今日は彼が近侍で……」
「そうだ、問題はそこだよ、小鳥」
自然、片眉を上げてたしなめるような口調になる。主君の言を遮る不敬は承知していたが、どうしても今ばかりは譲れない。
「私も同田貫と同じく君の持ち刀、君の部下だ。であるからには、君と近しくありたいと願うのは当然だろう。……それを、せっかくの好機を、たまたま近侍だった同田貫だけに独占されてしまっては、年甲斐なくも――嫉妬してしまうな」
「しっと……」
一文字の長の口から出るとは思いもよらぬ言葉であったらしい。小鳥は困惑と驚きのまま、耳で聞き取った音を呆然と繰り返した。
山鳥毛が、嫉妬。何の間違いだろうと彼女は逡巡する。常に泰然として在る彼には似合わぬことに思われた。第一、彼女と彼は審神者と刀剣男士、主と従である。彼女には特定の刀剣だけを贔屓して用いる愚は避けてきたという自負もある。嫉妬なる感情が入り込むいわれがあろうはずもない……いわれがあるなどと自惚れるほど恥を忘れた覚えもない。そう思い山鳥毛の表情から真意を分析しようと試みるが――彼は、苦くも穏やかに微笑んでいた。その笑み一つで、ざわり、と、小鳥の心臓が震える。期待してはいけないことを期待しそうになってしまう。山鳥毛は微苦笑のまま、心の内をさえずった。
「そう、嫉妬だ」
口に出すとまだ山鳥毛の舌の根にえぐみを感じさせる語だった。思わず、ほのかな自嘲で口の端がより苦いかたちになる。しかし、認めてしまうと格段に攻め入りやすかった。
――己が、嫉妬なる人間じみた感情に苦しめられているのは、すべて、ひとえに、小鳥により近づきたい、小鳥とのつながりをより多く得たいと願ったがゆえだ。
ならば、より近く、より多くを得るために動くまでではないか。そのように彼の無意識は働いていたのである。
「私にも君に真心を贈る誉れをいただけないだろうか。必ずや、君の気にいるものを選んでみせよう」
「そんな、悪いです。ハンドクリームだけで大げさな、」
「小鳥」
さえぎる。さえずる。どうかこの声が彼女の鼓膜に甘く甘く響くようにと願いながら、彼女の眼を見つめて誘惑する。
既にして彼の中では、彼女は仰ぎ守るべき部領であると同時に、いつかは己が巣に招き入れ、己の翼の下に入れるべき小鳥になっていた。
「小鳥。どうか君の持ち刀に、私に情けを」
これが山鳥の恋なのだ。これが初めての恋で、恋なのだ。この乞いを実らせられないならば、残るのは不毛の飢えばかりである。
――是と言っておくれ。
[[rb:緋 > 火]]の眼にゆらめき立ち上る、熱く切実な乞いの炎。
それに呑まれたか、焼かれたか。審神者は呼吸をひとつ、喉の奥に置き忘れた。瞬きもできずに炎に魅入られたしばしの無音ののち、彼女は前後の脈絡も忘れて、気づけば、こくり、と頷きで以て答えていた。肯定以外の応答の術を忘れてしまったかのようであった。
その頬は、目元は、ほのかに、朱い。
必ずや我がつがいにと思い定めた雌の斯くのごとき有様に、山鳥は大変大人げなくも、心から喜び、はしゃいで、文机の向こうへ身を乗り出して小鳥の額に顔を寄せた。唇が彼女の肌に触れ得るほどの近さであるゆえか、微かに、甘く、彼女が香る。無作法な金木犀に塗りつぶされていない香りは、大変に好ましく山鳥毛を魅了した。
触れる。囁く。攻めて落とすと決めたからには、彼はもはや遠慮などしない。
「ふふ。高揚してしまいそうだ。それでは小鳥、約束だぞ。屹度受け取っておくれ」
……山鳥毛がうきうきと退出したのを見送ったのち、その日の夕方ごろまで、審神者はいつかの初夏の日の散歩のように素数を数えていたとか、動転しすぎて途中で間違えてずっとただの奇数を数えていたことに気づかなかったとか。
(続く)
(※このふたりの関係性をどこまで進めるか迷ったのですが、まだ少しこのままです)
