小鳥から金木犀の香りがしてもだもだする山鳥毛の話
五感というのは、山鳥毛が肉の器を得て驚いたことのうちの一つだ。
肉もたぬ刀であったころも類似した感覚はあった。しかし、肉の器を経て感じ取るほどの鮮烈さはなかった。
彼にとってとりわけ興味深かったのは、嗅覚である。
戦にも暮らしにも重宝するのは視覚と聴覚だが、におい、というものは、肉の器の他の感覚や機能、果ては感情にまで、強い揺さぶりをかけることができるものだと知った。飯時の前に厨房から流れてくる湯気の匂いを嗅げば急に腹が減るし、戦場で血と泥の臭いに隠れた骨と鋼の臭気を察知すれば意識せずとも全神経が索敵に注がれた。
今も庭から香気を感じて、すん、と鼻を澄ませると、自然と目が香りの元を探していた。
「山鳥毛? ……ああ、きんもくせいだね。いいかおりだ」
報告書作成のために使った資料を書庫へ返しに行った戻り。廊下で急に足を止めて庭を見やった古馴染みを怪訝に思った小豆長光だったが、山鳥毛の視線の先を見て得心がいったようにつぶやいた。
金木犀。秋の香り。昨夜の雨で清められて急に秋の風情をにおわせ始めた庭の草木のなかで、その一本の木は香気によって際立っていた。花開くまでは他の庭木と混ざって決して目立たぬ木であるのに、この季節、一度花開けば、すべて散り終えるまで誰もの注意を惹きつける。
「金木犀……、あの木のことか」
内番着ゆえに色硝子に遮られていない緋の眼を瞬かせ、知識と実体験を結び付けたらしき古馴染みに、小豆はゆるく笑う。
「きみは、あきははじめてだから、あのかおりをきくのもはじめてだろう」
無銘一文字、号山鳥毛は、昨年の年末の連隊戦で勝ち取られてこの本丸に顕現した刀である。顕現から十か月。したがって、肉の器を以て感じる季節は、晩冬と春と夏、までは知っていたが、秋より先の巡りは知らなかった。当然、この花の香りは初めて知るものだ。
「随分と、甘く香るのだな」
「はなそのものはちいさくてじみなんだがな、むれあつまってあのようにかおる」
と、山鳥毛よりも先に本丸に降りていた物として先輩風を吹かせてみるが、小豆長光も顕現して十日目の朝に初めてあの香りに触れたときは驚いたものだった。
一本の木だ。林でも森でもない。それなのに、樹齢があって大きな木だとはいえただ一本の木の花々が、あれほどにも芳しく空気を満たす。不思議だった。
酒飲みの兄弟から異国には金木犀の香りを移した甘い酒もあると聞き、それなら菓子にも使えないかとあの香りを花から取り出すのに随分工夫した。花はそのままだと苦くて食感が悪いので、香りだけをシロップに抽出する必要があった。その甲斐あってこの本丸では、金木犀で香りをつけた菓子が秋の名物となっていた。
「ことしもしろっぷをつくらなければ。きみにもてつだってほしいな。ちいさなはなを かごいっぱいにあつめるのは ほねだから。……そんなにあのかおりがきにいったかい?」
小豆の話を聞きながらも、山鳥毛は気もそぞろといったふうで金木犀の香りを聞いていた。古馴染みの指摘に山鳥毛は目を伏せて、答えをまごつかせた。山鳥毛がこのようにうまくさえずれなくなるときは、必ずこの本丸のおんなあるじに関わることだと、小豆長光は存分前から気づいている。
「その……、小鳥が好みそうな香りだ……と」
常に泰然としているこの一文字一家の長にしては、やや弱く強張った声だった。
彼らの主、この本丸の審神者は女である。この本丸に据えられて五年の、若年ながらも九十近い刀剣らを率いて本丸という組織をゆるぎなく統べる将、静かに凪いだ夜色の目の娘こそ、山鳥毛を心惑わせてさえずりを忘れさせた張本人であった。
彼は彼女に恋をしている。
夏の半ばに想いを自覚してから、山鳥毛はなまくらに、飛びもさえずりもできぬ鳥になった。
自覚するまでは、小さく可愛い私の小鳥よと、何の衒いも照れもなく審神者をただただ己が翼の下に入れて愛で、可愛い可愛い掛け替えのない小鳥と好き放題にさえずることができていた。しかし今では部下として落ち度なくふるまうだけで精一杯で、目を合わせて語り合うのも難しい有様。そのうえ、最初に口を開くのに気力を要するくせに、一度始まれば夢中になってしまい、話が終わっても離れがたくなってしまう。度し難いことだった。
山鳥毛は自身のそんなありさまを、年甲斐もないことだと恥じた。
一文字の長、上杉重代の宝として、君臣の分をわきまえぬ不敬と無様は晒すまいと思うのに、視界の端にでも小鳥の姿を認めれば胸が躍ったし、彼女の傍らに己でない鳥が侍っていれば何やら腸のうちに重く不快なものが居座った。この古鳥はいまだ、しっと、という心の動きを自覚できない程度にはヒトの身に不慣れだった。ゆえに小鳥を想えば思うほど、よろこびと苦しみとが彼のうちで大きくなるのだ。
彼女を想うとどうにもならなかった。山鳥毛はそんな己を恥じ、厭うた。厭うた、のに、彼女を想うのをやめようだとか、彼女の心を乞うのを諦めようだとかは、露思えなかった。けれど、部下としての立場と恥じらいが邪魔をして、踏み出すことができない……。
そうこうするうちに秋が来た。
この本丸では、近侍か厨番など特別な役目がない限りは太刀や大太刀、槍、薙刀の仕事はすべて日没までと決められていたから、秋が来て釣瓶落としに日が落ちるようになったこの頃は、夕食を終えると山鳥毛が審神者に近づく口実がなくなってしまう。
口実などなくとも彼女は持ち刀との対話を喜びこそすれ厭いはしないだろうと、いくら小豆長光がけしかけても、山鳥毛は応じない。ぎゅうと口を結んで、何もさえずれないまま一文字の刀らに与えられた部屋へ戻り、冷えた布団に独り寝て、長々しい夜が明けるのを今か今かと待ちわびながら眠るのがこのところの習慣となっていた。
朝日が昇ったなら、部下として主君に一日の挨拶を申し上ぐるのは彼からすると至極当然のことであったから、山鳥毛はそれまでにも増して早起きになった。
夜明けと同時に目覚め、羽の一本の乱れもなく丹念に丹念に万全の身支度を整えて、彼女の執務室へ伺候する。働き者の彼女も早起きだから、運がよければ側仕えの短刀の鳥たちが彼女のもとへ参じるよりも先に会うことができた。小鳥がその日一番に聞いたさえずりになることができた。
――朝さえくれば、朝さえくればと待つ秋の夜は、毎夜永くもどかしい。
小豆長光は、この古馴染みの古鳥が慣れぬ恋路に迷い惑うのを、時折ちょっかいを出しながらも見守ってきた。今も、人好きのする、けれど小豆をよく知る刀だけは判別できる、とてもとても悪い笑顔をして山鳥毛の恥じらいを楽しんでいた。
「よくわかったな。たしかに、あるじはきんもくせいもすきだときいたよ」
香りは人間の感覚に強く訴えるものだから、個人の好みが強く出る。この本丸のおんなあるじは、梅や梔子や金木犀などの木の花の芳しさを殊の外に好んだ。とはいえ、彼女の初期刀の歌仙兼定が雅事を重んじるので、梅林は別として、梔子も金木犀も悪趣味に林を生すほど植えられることはなく、風に乗って遠く彼女の室に這入り込み、仄甘く空気を満たすように、と計算されつくした位置に数本、植えられているだけだった。
この風向きならば、きっと今、彼女は山鳥毛が聞いているのと同じ金木犀の香りを聞いているはずだった。……そう意識してしまうと、余計に山鳥毛は羞恥を深くしてしまう。
「ひとえだたおって、てみやげにするかい? あいにいくこうじつになる。みごとにさいたから、あるじに、と」
「私は、そういうつもりでは、」
「たんとうたちもよくしていることだ。あるじはよろこぶだろう。すきなかおりだから」
事実、本丸の庭で開いた花があれば、そのうちからいっとう美事なものを選んで主に献じる刀は何口もいる。とくに短刀らはその傾向が顕著だ。山鳥毛も夏までは何度もしていたことだった。そうすると小鳥が笑うから。うんと穏やかに、あたたかく、静かに凪いだ目を細め、桜色のくちびるをほころばせて、やわらかにやわらかに笑むのだ。そして、ありがとうございます、と、言う。
あのあたたかな一言を受ける幸福さ。彼女が在るところだけが常春になる。
山鳥毛の今の体たらくでは、為し得ようもないことに思われた。
「……突然持ち込まれても、迷惑なだけだろう。やめておこう」
柄にもなく臆病な古鳥に、小豆は意地悪く、人好きのする表情でくすくすと笑んだ。
「こばまれやしないさ。くちなしのはなのときだって、あるじはそすうをかぞえながらうけいれただろうに」
「ッ! ……、……………」
山鳥毛はぎょっとして小豆の顔を凝視した。が、すぐに初夏の記憶が襲い来て、白皙の面に朱を奔らせた。小豆はやはりくすくすと笑む。
[newpage]
あの汗ばむ日の山鳥毛は近侍で、雨上がりの庭を散歩する小鳥の伴をした。
散歩の伴は近侍の特権だ。
審神者なる者は本丸という閉鎖空間に坐す前線拠点に据えられる。日々の任務に追われ、また、無許可の遠出もできないから、本丸に籠りがちになる。そんな中で、主がゆるりと息をできるのが庭の散歩の時間だった。近侍はこの伴をする。近侍でなくても庭で行き会えば伴ができるが、散歩をする日に必ずいっしょに庭を歩けるのは近侍だけの特権だった。
山鳥毛は、雨でぬかるんだ道で小鳥が転んでしまってはいけないからと、きっと無意識に理由をつけて、彼女の手をとり、たっぷり時間をかけて広大な庭を歩いた。
彼女は無口ではないが、樹のように落ち着いた娘だ。おしゃべりな性質ではない。それでも道行きに、まだ本丸のなかに知らぬことの多い山鳥毛を気遣って、庭の草木や景石を指し、あれは何で、これは何で、いついつのときにこれに関わるあんなできごとがあって、と耳に優しいやわい声でうたうように話すので、彼にとっても散歩は楽しい時間だった。小鳥が己を思いやっている、というのが面映ゆくも喜ばしかったのを、山鳥毛はよく覚えている。
複数ある散歩の経路から、あの日はとくに大回りする経路を選んで歩いた。その道行きが半ばに差し掛かったころ、道の傍らの、白い花をつける木が目についた。濃い緑の葉は雨露で瑞々しく潤い、花は大気に残る雨の名残によく溶けて、ひときわ甘く芳しく香った。
『梔子の花です。山鳥毛さんは、初めて見ますか? いいにおいですね』
小鳥の、その声が弾むのを聞き、また、眼を閉じて深く香気を肺に満たすのを見て、山鳥毛は瞬時にこの娘はこの花を好むのだと悟った。なぜ悟ったのかはわからない。ただ小鳥が――無意識にも思い定めたつがいの雌が――好むものを捧げたいという本能であった。
何を思うより先に手が動いて、ぽきり、と、一番に美事に咲いていた花を手折った。
その枝を、迷いなく、彼女の耳に挿す。背を屈め、彼女の耳元に顔を近づけて、香りを聞いた。彼女が淡く纏っていた香りと混ざって、梔子は甘く、甘く、誘うように香った。
『うん。小鳥のように甘い香りだ』
『え? あ…、あ、の……』
もっと慎重に、彼女の心機を伺うべきであったのに、このときの山鳥毛はこころだとか、ヒトガタで暮らしていくための節度だとかがまだよくわかっていなかったので、嗚呼、賛辞に不慣れな小鳥も可愛らしいと思うだけだった。
屈んだ身をそのままに、彼女のかんばせを覗き込んだ。山鳥毛は長身で、彼の小鳥とは背丈が一尺ほども違うから、彼女の顔をとっくりと見つめて愛でるには、背を屈めるか膝を折るかして目線の高さをそろえる必要があった。山鳥毛を見上げて目を合わせてくれる小鳥も無論、可愛らしいのだが、やはり少しでも近くで愛でると気が昂る。
可愛らしい小鳥をうつくしい花で飾った喜びのままに、彼は小鳥の頬を、目元を、指で撫でた。小鳥の肌のなめらかさとやわさが殊の外ここちよい。太刀をふるうために造られた山鳥毛のヒトガタにはどこを探しても見当たらない、生身の人間の雌だけのやわらかさ。
『小鳥は、この花が好きなのだろう? すぐわかったよ。よく似合っている』
『山、鳥毛、さん……?』
『前々から思っていたのだが、小鳥にはやはり白が似合うな。ふふ、白は我ら一文字一家の色でもある。数多の名刀を率いる部領たる君を我が家の色が飾っていると思うと、晴れがましいものだ』
赫、と、小鳥の頬に、耳に、首に、朱が迸った。小鳥は色が白く、透きとほるような肌をしているから、顔を赤らめるとすぐわかる。そのさまを見て、山鳥毛は満足して笑んだ。
『嗚呼――』
満足のままに、小鳥の額にくちびるを寄せた。持ち刀としての最上限度の親愛をさえずったつもりだった。
『君は、赤もまた似合うのだな。ますます私の色だ。よく染まっている』
ひぅッ、と、切羽詰まった音が小鳥の喉から聞こえた気がして、山鳥毛が怪訝に思って身を離すと、あわれな小鳥はがっちがちに固まっていた。常は凪いでいる視線が震えている。常は大樹のごとく在る小鳥が、ここまで動揺をあらわにするのは珍しいことだった。
『小鳥?』
『すみません、しばらく、しばらくでいいので話しかけないでいただけますか?』
『うん?』
『素数、素数をですね、数えないといけないんです。あなたの主でいるために』
『わかったが……それは今すべきことなのかな? 私は君と話していたい』
『今こそ、精神統一すべきときなんです、この本丸の審神者として試されているんです』
山鳥毛は不満だったが、他でもない小鳥の望みとあっては致し方なかった。己は古臭いので今時のことを知らないが、そういう修行か何かなのだろうと思って従った。
その後の散歩中、執務室に戻るまで、彼女は素数を数え続けた。
『……八百十一……八百二十一……八百二十三……』
隣を歩く山鳥毛に構わず、ひたすらに彼女は素数を数えた。数える数が大きくなるほど、彼女の纏う空気は研ぎ澄まされて、彼女の眼差しは静かになっていった。それがさびしかったのをよく覚えている。話しかけるなとは言われたが、触れるなとは言われなかったので、取っていた手の握り方を指をからめるものに変え、指先で彼女の手の甲を撫でた。年甲斐のない古鳥は、せっかくの随伴だというのに彼女が寛がず息を詰めて、しかも己を見も構いもしないのがとてもとても寂しかったのである。肌の触れ合いだけでも増やしたかった。
『ッ! 九百四十九、じゃなかった、九百五十三……ええと……九百六十、七……』
彼女がびくりと身を跳ねさせたのといっしょに、香りが揺らぐ。山鳥毛は彼女の注意を引きたかった。けれど、つれない小鳥は応じてくれない。結局彼女は素数をずいぶんと大きい数まで数え上げ、執務室に戻ったときには前線に刀剣を送り込むときにほとんど近いような、凛々しく平然とした将の顔になっていて、山鳥毛に、今日このあとの書類仕事はほとんど雑務だから手伝い無用、非番と思って好きに過ごしてよい、と告げた。
もちろん彼は、好きに過ごしてよいのならば小鳥の傍にありたい、雑事であろうと手伝いたいと願ったが、これしきのことを一人でこなせぬようでは本丸を統べる審神者として未熟の極みであるという理由で退けられてしまった――……。
黒歴史である。
山鳥毛は、あの日の己の胸倉を掴んで揺さぶってやりたい。
何が持ち刀としての親愛だ、それは雄鳥の春情だ。あの日、己は、彼女が肌を染めたのを慣れぬ賛辞への含羞などとただ自分だけに都合よく捉えたが、本当にあれは照れだったのか、本当は、本当は嫌で嫌でたまらなくて、もしかしたら怒りゆえの朱ではなかったか。部下の非礼に憤りながらも、将の温情として、つとめて冷静を保って突き放したというのが真相ではあるまいか。でなければ素数など、一とそれ以外に約数を持たぬ、他と関わりを持たぬ数を、なぜ数えた。君臣の分を弁えぬ、恥知らずの太刀を、どうにか遠ざけたい、関わり合いになりたくないという思いがあって、そんな数を数えたのではあるまいか。
思い返すだけで赤面し、また、肝が冷える心地がする。加えて、あのころは本当に、彼は己の肉の器に備わった『心』というはたらきを今よりもさらに把握しきれていなくて、己の真意を知らなかったから、ただ怪訝に思ったまま、古馴染みの太刀、小豆長光にありのまますべて聞かせて相談していた。小鳥が散歩の途中で素数を数えだしたのだが、何のまじないだろうか、と。その記憶もまた彼の羞恥心を激しく煽った。
ただ、未だに審神者が、変わらずに山鳥毛を信任しているという事実だけが救いだった。
「忘れて、くれと……言っただろう、それは……」
「わたしにとってもかなりきょうれつなはなしだったからね、とうぶんはむずかしそうだ」
「頼む、今日明日でなくとも構わないから、必ず忘れてくれ……」
頼んだところで無理なのはわかっていても、山鳥毛は願わずにはいられないのだった。
なお余談となるが、審神者の側仕えの短刀たちの間では、あの一件は『梔子花挿頭事件』として記憶されているし、事件のあらましを伝え聞いた、初期刀であり審神者の保護者を自任する歌仙兼定は、「あの子に恋愛なんてまだ早い」と鰹一尾を解体しながら厨房で吼えた。が、歌仙は他刃の恋路に口出しするほど不作法ではなかったので、とくに何もしてはこない。ただ愛用の出刃庖丁と三徳庖丁を夜ごと入念に研ぐだけであった。
誰も何も忘れていないのである。幸いにして山鳥毛の知らぬことであった。
「くちなしのときのように、たおったきんもくせいをあるじにさしてやるのはどうだろう」
小豆が古馴染みの気を知らぬふりをして戯れかけても、さすがに今の山鳥毛に首を横に振る以上の反応を示す心的余裕はなかった。からかいすぎたか、と、少しだけ反省した小豆は話をずらすことにした。変えはしない。ずらすだけである。
「さんぽにいこう、きんもくせいがさいたからと、あるじにいえばいいのに」
ここ数日の近侍は、主の信任厚き墨色の刀、この本丸の元・初太刀、現・極打刀部隊隊長の同田貫正国が務めている。これも余談だが、さきほどの小豆長光の発言、「あるじはきんもくせいもすき」の情報源も同田貫であった。かの打刀は本丸が開かれた日の夜に顕現してからずっと彼女の信に応えて仕えてきたので、本刃も意図せぬうちに彼女のことをよくよく知りおおせていたのである。山鳥毛が決して埋められない、過ごした年月の長さと濃さが、同田貫に審神者のことを教えていた。あのふたりが近しくしていると、兄妹または姉弟のように、分かちがたく親しい仲に見えた。山鳥毛にすれば、口惜しいことだった。
今も、あの墨色は、審神者が好む木の花々とはかけ離れた、血と泥と鋼の――戦場の――[[rb:気配 > におい]]をひたひたと纏って彼女の傍らに控えて――そして、彼女がいつも淡く纏っている、彼女だけの甘い香りを塗りつぶして――いるのかと思うと、彼の腹の内から喉元へ、熱く粘ついて不快なものが込み上がりそうだった。
「……近侍は小鳥の采配に依って、そのときどきの戦況や任務に応じて選定される。一介の部下たる私が嘴を差し挟む所ではない。今は極打刀の練度を上げるのが優先目標なのだから、同田貫が近侍であるのが適切だ」
「しっているかい? にんげんがながながとりくつをならべたてるときは、ふにおちていないときなんだよ。きみはかたなだけれど」
「…………」
たしかに、不服ではある。己は小鳥と小鳥の巣を支え守るに足る古鳥であり、近侍の任にも堪えうる刀であるという、実力に根差した自負もある。が、近侍の任命は審神者の権限であるから己が差し出口をしては越権行為に当たるし、何より、そんなことをしては、己は小鳥にどう見られるだろうというおそれが彼を押しとどめようとしていた。
堪え性もなく乞うだけの、無様な雄、などと見られるのは、彼の矜持が許さなかった。
もう一度、首を弱く横に振って拒否を示すと、山鳥毛はとぼとぼと歩みを再開した。
「きみがもっていかないなら、わたしがもっていってしまうぞ」
小豆長光が背に向けて一声投げてもいらえはなかった。山鳥毛はこの古馴染みが己の背を押そうとしているだけで、そんなことは――山鳥毛から審神者を取り上げるような無情なことは――決してしないと信用していたからである。
ぼそりと、小豆長光は剣呑につぶやいた。
「きみがそのつもりなら、こちらにもさくがある」
恋と戦争は、油断したやつが一番悪いのだ。
肉もたぬ刀であったころも類似した感覚はあった。しかし、肉の器を経て感じ取るほどの鮮烈さはなかった。
彼にとってとりわけ興味深かったのは、嗅覚である。
戦にも暮らしにも重宝するのは視覚と聴覚だが、におい、というものは、肉の器の他の感覚や機能、果ては感情にまで、強い揺さぶりをかけることができるものだと知った。飯時の前に厨房から流れてくる湯気の匂いを嗅げば急に腹が減るし、戦場で血と泥の臭いに隠れた骨と鋼の臭気を察知すれば意識せずとも全神経が索敵に注がれた。
今も庭から香気を感じて、すん、と鼻を澄ませると、自然と目が香りの元を探していた。
「山鳥毛? ……ああ、きんもくせいだね。いいかおりだ」
報告書作成のために使った資料を書庫へ返しに行った戻り。廊下で急に足を止めて庭を見やった古馴染みを怪訝に思った小豆長光だったが、山鳥毛の視線の先を見て得心がいったようにつぶやいた。
金木犀。秋の香り。昨夜の雨で清められて急に秋の風情をにおわせ始めた庭の草木のなかで、その一本の木は香気によって際立っていた。花開くまでは他の庭木と混ざって決して目立たぬ木であるのに、この季節、一度花開けば、すべて散り終えるまで誰もの注意を惹きつける。
「金木犀……、あの木のことか」
内番着ゆえに色硝子に遮られていない緋の眼を瞬かせ、知識と実体験を結び付けたらしき古馴染みに、小豆はゆるく笑う。
「きみは、あきははじめてだから、あのかおりをきくのもはじめてだろう」
無銘一文字、号山鳥毛は、昨年の年末の連隊戦で勝ち取られてこの本丸に顕現した刀である。顕現から十か月。したがって、肉の器を以て感じる季節は、晩冬と春と夏、までは知っていたが、秋より先の巡りは知らなかった。当然、この花の香りは初めて知るものだ。
「随分と、甘く香るのだな」
「はなそのものはちいさくてじみなんだがな、むれあつまってあのようにかおる」
と、山鳥毛よりも先に本丸に降りていた物として先輩風を吹かせてみるが、小豆長光も顕現して十日目の朝に初めてあの香りに触れたときは驚いたものだった。
一本の木だ。林でも森でもない。それなのに、樹齢があって大きな木だとはいえただ一本の木の花々が、あれほどにも芳しく空気を満たす。不思議だった。
酒飲みの兄弟から異国には金木犀の香りを移した甘い酒もあると聞き、それなら菓子にも使えないかとあの香りを花から取り出すのに随分工夫した。花はそのままだと苦くて食感が悪いので、香りだけをシロップに抽出する必要があった。その甲斐あってこの本丸では、金木犀で香りをつけた菓子が秋の名物となっていた。
「ことしもしろっぷをつくらなければ。きみにもてつだってほしいな。ちいさなはなを かごいっぱいにあつめるのは ほねだから。……そんなにあのかおりがきにいったかい?」
小豆の話を聞きながらも、山鳥毛は気もそぞろといったふうで金木犀の香りを聞いていた。古馴染みの指摘に山鳥毛は目を伏せて、答えをまごつかせた。山鳥毛がこのようにうまくさえずれなくなるときは、必ずこの本丸のおんなあるじに関わることだと、小豆長光は存分前から気づいている。
「その……、小鳥が好みそうな香りだ……と」
常に泰然としているこの一文字一家の長にしては、やや弱く強張った声だった。
彼らの主、この本丸の審神者は女である。この本丸に据えられて五年の、若年ながらも九十近い刀剣らを率いて本丸という組織をゆるぎなく統べる将、静かに凪いだ夜色の目の娘こそ、山鳥毛を心惑わせてさえずりを忘れさせた張本人であった。
彼は彼女に恋をしている。
夏の半ばに想いを自覚してから、山鳥毛はなまくらに、飛びもさえずりもできぬ鳥になった。
自覚するまでは、小さく可愛い私の小鳥よと、何の衒いも照れもなく審神者をただただ己が翼の下に入れて愛で、可愛い可愛い掛け替えのない小鳥と好き放題にさえずることができていた。しかし今では部下として落ち度なくふるまうだけで精一杯で、目を合わせて語り合うのも難しい有様。そのうえ、最初に口を開くのに気力を要するくせに、一度始まれば夢中になってしまい、話が終わっても離れがたくなってしまう。度し難いことだった。
山鳥毛は自身のそんなありさまを、年甲斐もないことだと恥じた。
一文字の長、上杉重代の宝として、君臣の分をわきまえぬ不敬と無様は晒すまいと思うのに、視界の端にでも小鳥の姿を認めれば胸が躍ったし、彼女の傍らに己でない鳥が侍っていれば何やら腸のうちに重く不快なものが居座った。この古鳥はいまだ、しっと、という心の動きを自覚できない程度にはヒトの身に不慣れだった。ゆえに小鳥を想えば思うほど、よろこびと苦しみとが彼のうちで大きくなるのだ。
彼女を想うとどうにもならなかった。山鳥毛はそんな己を恥じ、厭うた。厭うた、のに、彼女を想うのをやめようだとか、彼女の心を乞うのを諦めようだとかは、露思えなかった。けれど、部下としての立場と恥じらいが邪魔をして、踏み出すことができない……。
そうこうするうちに秋が来た。
この本丸では、近侍か厨番など特別な役目がない限りは太刀や大太刀、槍、薙刀の仕事はすべて日没までと決められていたから、秋が来て釣瓶落としに日が落ちるようになったこの頃は、夕食を終えると山鳥毛が審神者に近づく口実がなくなってしまう。
口実などなくとも彼女は持ち刀との対話を喜びこそすれ厭いはしないだろうと、いくら小豆長光がけしかけても、山鳥毛は応じない。ぎゅうと口を結んで、何もさえずれないまま一文字の刀らに与えられた部屋へ戻り、冷えた布団に独り寝て、長々しい夜が明けるのを今か今かと待ちわびながら眠るのがこのところの習慣となっていた。
朝日が昇ったなら、部下として主君に一日の挨拶を申し上ぐるのは彼からすると至極当然のことであったから、山鳥毛はそれまでにも増して早起きになった。
夜明けと同時に目覚め、羽の一本の乱れもなく丹念に丹念に万全の身支度を整えて、彼女の執務室へ伺候する。働き者の彼女も早起きだから、運がよければ側仕えの短刀の鳥たちが彼女のもとへ参じるよりも先に会うことができた。小鳥がその日一番に聞いたさえずりになることができた。
――朝さえくれば、朝さえくればと待つ秋の夜は、毎夜永くもどかしい。
小豆長光は、この古馴染みの古鳥が慣れぬ恋路に迷い惑うのを、時折ちょっかいを出しながらも見守ってきた。今も、人好きのする、けれど小豆をよく知る刀だけは判別できる、とてもとても悪い笑顔をして山鳥毛の恥じらいを楽しんでいた。
「よくわかったな。たしかに、あるじはきんもくせいもすきだときいたよ」
香りは人間の感覚に強く訴えるものだから、個人の好みが強く出る。この本丸のおんなあるじは、梅や梔子や金木犀などの木の花の芳しさを殊の外に好んだ。とはいえ、彼女の初期刀の歌仙兼定が雅事を重んじるので、梅林は別として、梔子も金木犀も悪趣味に林を生すほど植えられることはなく、風に乗って遠く彼女の室に這入り込み、仄甘く空気を満たすように、と計算されつくした位置に数本、植えられているだけだった。
この風向きならば、きっと今、彼女は山鳥毛が聞いているのと同じ金木犀の香りを聞いているはずだった。……そう意識してしまうと、余計に山鳥毛は羞恥を深くしてしまう。
「ひとえだたおって、てみやげにするかい? あいにいくこうじつになる。みごとにさいたから、あるじに、と」
「私は、そういうつもりでは、」
「たんとうたちもよくしていることだ。あるじはよろこぶだろう。すきなかおりだから」
事実、本丸の庭で開いた花があれば、そのうちからいっとう美事なものを選んで主に献じる刀は何口もいる。とくに短刀らはその傾向が顕著だ。山鳥毛も夏までは何度もしていたことだった。そうすると小鳥が笑うから。うんと穏やかに、あたたかく、静かに凪いだ目を細め、桜色のくちびるをほころばせて、やわらかにやわらかに笑むのだ。そして、ありがとうございます、と、言う。
あのあたたかな一言を受ける幸福さ。彼女が在るところだけが常春になる。
山鳥毛の今の体たらくでは、為し得ようもないことに思われた。
「……突然持ち込まれても、迷惑なだけだろう。やめておこう」
柄にもなく臆病な古鳥に、小豆は意地悪く、人好きのする表情でくすくすと笑んだ。
「こばまれやしないさ。くちなしのはなのときだって、あるじはそすうをかぞえながらうけいれただろうに」
「ッ! ……、……………」
山鳥毛はぎょっとして小豆の顔を凝視した。が、すぐに初夏の記憶が襲い来て、白皙の面に朱を奔らせた。小豆はやはりくすくすと笑む。
[newpage]
あの汗ばむ日の山鳥毛は近侍で、雨上がりの庭を散歩する小鳥の伴をした。
散歩の伴は近侍の特権だ。
審神者なる者は本丸という閉鎖空間に坐す前線拠点に据えられる。日々の任務に追われ、また、無許可の遠出もできないから、本丸に籠りがちになる。そんな中で、主がゆるりと息をできるのが庭の散歩の時間だった。近侍はこの伴をする。近侍でなくても庭で行き会えば伴ができるが、散歩をする日に必ずいっしょに庭を歩けるのは近侍だけの特権だった。
山鳥毛は、雨でぬかるんだ道で小鳥が転んでしまってはいけないからと、きっと無意識に理由をつけて、彼女の手をとり、たっぷり時間をかけて広大な庭を歩いた。
彼女は無口ではないが、樹のように落ち着いた娘だ。おしゃべりな性質ではない。それでも道行きに、まだ本丸のなかに知らぬことの多い山鳥毛を気遣って、庭の草木や景石を指し、あれは何で、これは何で、いついつのときにこれに関わるあんなできごとがあって、と耳に優しいやわい声でうたうように話すので、彼にとっても散歩は楽しい時間だった。小鳥が己を思いやっている、というのが面映ゆくも喜ばしかったのを、山鳥毛はよく覚えている。
複数ある散歩の経路から、あの日はとくに大回りする経路を選んで歩いた。その道行きが半ばに差し掛かったころ、道の傍らの、白い花をつける木が目についた。濃い緑の葉は雨露で瑞々しく潤い、花は大気に残る雨の名残によく溶けて、ひときわ甘く芳しく香った。
『梔子の花です。山鳥毛さんは、初めて見ますか? いいにおいですね』
小鳥の、その声が弾むのを聞き、また、眼を閉じて深く香気を肺に満たすのを見て、山鳥毛は瞬時にこの娘はこの花を好むのだと悟った。なぜ悟ったのかはわからない。ただ小鳥が――無意識にも思い定めたつがいの雌が――好むものを捧げたいという本能であった。
何を思うより先に手が動いて、ぽきり、と、一番に美事に咲いていた花を手折った。
その枝を、迷いなく、彼女の耳に挿す。背を屈め、彼女の耳元に顔を近づけて、香りを聞いた。彼女が淡く纏っていた香りと混ざって、梔子は甘く、甘く、誘うように香った。
『うん。小鳥のように甘い香りだ』
『え? あ…、あ、の……』
もっと慎重に、彼女の心機を伺うべきであったのに、このときの山鳥毛はこころだとか、ヒトガタで暮らしていくための節度だとかがまだよくわかっていなかったので、嗚呼、賛辞に不慣れな小鳥も可愛らしいと思うだけだった。
屈んだ身をそのままに、彼女のかんばせを覗き込んだ。山鳥毛は長身で、彼の小鳥とは背丈が一尺ほども違うから、彼女の顔をとっくりと見つめて愛でるには、背を屈めるか膝を折るかして目線の高さをそろえる必要があった。山鳥毛を見上げて目を合わせてくれる小鳥も無論、可愛らしいのだが、やはり少しでも近くで愛でると気が昂る。
可愛らしい小鳥をうつくしい花で飾った喜びのままに、彼は小鳥の頬を、目元を、指で撫でた。小鳥の肌のなめらかさとやわさが殊の外ここちよい。太刀をふるうために造られた山鳥毛のヒトガタにはどこを探しても見当たらない、生身の人間の雌だけのやわらかさ。
『小鳥は、この花が好きなのだろう? すぐわかったよ。よく似合っている』
『山、鳥毛、さん……?』
『前々から思っていたのだが、小鳥にはやはり白が似合うな。ふふ、白は我ら一文字一家の色でもある。数多の名刀を率いる部領たる君を我が家の色が飾っていると思うと、晴れがましいものだ』
赫、と、小鳥の頬に、耳に、首に、朱が迸った。小鳥は色が白く、透きとほるような肌をしているから、顔を赤らめるとすぐわかる。そのさまを見て、山鳥毛は満足して笑んだ。
『嗚呼――』
満足のままに、小鳥の額にくちびるを寄せた。持ち刀としての最上限度の親愛をさえずったつもりだった。
『君は、赤もまた似合うのだな。ますます私の色だ。よく染まっている』
ひぅッ、と、切羽詰まった音が小鳥の喉から聞こえた気がして、山鳥毛が怪訝に思って身を離すと、あわれな小鳥はがっちがちに固まっていた。常は凪いでいる視線が震えている。常は大樹のごとく在る小鳥が、ここまで動揺をあらわにするのは珍しいことだった。
『小鳥?』
『すみません、しばらく、しばらくでいいので話しかけないでいただけますか?』
『うん?』
『素数、素数をですね、数えないといけないんです。あなたの主でいるために』
『わかったが……それは今すべきことなのかな? 私は君と話していたい』
『今こそ、精神統一すべきときなんです、この本丸の審神者として試されているんです』
山鳥毛は不満だったが、他でもない小鳥の望みとあっては致し方なかった。己は古臭いので今時のことを知らないが、そういう修行か何かなのだろうと思って従った。
その後の散歩中、執務室に戻るまで、彼女は素数を数え続けた。
『……八百十一……八百二十一……八百二十三……』
隣を歩く山鳥毛に構わず、ひたすらに彼女は素数を数えた。数える数が大きくなるほど、彼女の纏う空気は研ぎ澄まされて、彼女の眼差しは静かになっていった。それがさびしかったのをよく覚えている。話しかけるなとは言われたが、触れるなとは言われなかったので、取っていた手の握り方を指をからめるものに変え、指先で彼女の手の甲を撫でた。年甲斐のない古鳥は、せっかくの随伴だというのに彼女が寛がず息を詰めて、しかも己を見も構いもしないのがとてもとても寂しかったのである。肌の触れ合いだけでも増やしたかった。
『ッ! 九百四十九、じゃなかった、九百五十三……ええと……九百六十、七……』
彼女がびくりと身を跳ねさせたのといっしょに、香りが揺らぐ。山鳥毛は彼女の注意を引きたかった。けれど、つれない小鳥は応じてくれない。結局彼女は素数をずいぶんと大きい数まで数え上げ、執務室に戻ったときには前線に刀剣を送り込むときにほとんど近いような、凛々しく平然とした将の顔になっていて、山鳥毛に、今日このあとの書類仕事はほとんど雑務だから手伝い無用、非番と思って好きに過ごしてよい、と告げた。
もちろん彼は、好きに過ごしてよいのならば小鳥の傍にありたい、雑事であろうと手伝いたいと願ったが、これしきのことを一人でこなせぬようでは本丸を統べる審神者として未熟の極みであるという理由で退けられてしまった――……。
黒歴史である。
山鳥毛は、あの日の己の胸倉を掴んで揺さぶってやりたい。
何が持ち刀としての親愛だ、それは雄鳥の春情だ。あの日、己は、彼女が肌を染めたのを慣れぬ賛辞への含羞などとただ自分だけに都合よく捉えたが、本当にあれは照れだったのか、本当は、本当は嫌で嫌でたまらなくて、もしかしたら怒りゆえの朱ではなかったか。部下の非礼に憤りながらも、将の温情として、つとめて冷静を保って突き放したというのが真相ではあるまいか。でなければ素数など、一とそれ以外に約数を持たぬ、他と関わりを持たぬ数を、なぜ数えた。君臣の分を弁えぬ、恥知らずの太刀を、どうにか遠ざけたい、関わり合いになりたくないという思いがあって、そんな数を数えたのではあるまいか。
思い返すだけで赤面し、また、肝が冷える心地がする。加えて、あのころは本当に、彼は己の肉の器に備わった『心』というはたらきを今よりもさらに把握しきれていなくて、己の真意を知らなかったから、ただ怪訝に思ったまま、古馴染みの太刀、小豆長光にありのまますべて聞かせて相談していた。小鳥が散歩の途中で素数を数えだしたのだが、何のまじないだろうか、と。その記憶もまた彼の羞恥心を激しく煽った。
ただ、未だに審神者が、変わらずに山鳥毛を信任しているという事実だけが救いだった。
「忘れて、くれと……言っただろう、それは……」
「わたしにとってもかなりきょうれつなはなしだったからね、とうぶんはむずかしそうだ」
「頼む、今日明日でなくとも構わないから、必ず忘れてくれ……」
頼んだところで無理なのはわかっていても、山鳥毛は願わずにはいられないのだった。
なお余談となるが、審神者の側仕えの短刀たちの間では、あの一件は『梔子花挿頭事件』として記憶されているし、事件のあらましを伝え聞いた、初期刀であり審神者の保護者を自任する歌仙兼定は、「あの子に恋愛なんてまだ早い」と鰹一尾を解体しながら厨房で吼えた。が、歌仙は他刃の恋路に口出しするほど不作法ではなかったので、とくに何もしてはこない。ただ愛用の出刃庖丁と三徳庖丁を夜ごと入念に研ぐだけであった。
誰も何も忘れていないのである。幸いにして山鳥毛の知らぬことであった。
「くちなしのときのように、たおったきんもくせいをあるじにさしてやるのはどうだろう」
小豆が古馴染みの気を知らぬふりをして戯れかけても、さすがに今の山鳥毛に首を横に振る以上の反応を示す心的余裕はなかった。からかいすぎたか、と、少しだけ反省した小豆は話をずらすことにした。変えはしない。ずらすだけである。
「さんぽにいこう、きんもくせいがさいたからと、あるじにいえばいいのに」
ここ数日の近侍は、主の信任厚き墨色の刀、この本丸の元・初太刀、現・極打刀部隊隊長の同田貫正国が務めている。これも余談だが、さきほどの小豆長光の発言、「あるじはきんもくせいもすき」の情報源も同田貫であった。かの打刀は本丸が開かれた日の夜に顕現してからずっと彼女の信に応えて仕えてきたので、本刃も意図せぬうちに彼女のことをよくよく知りおおせていたのである。山鳥毛が決して埋められない、過ごした年月の長さと濃さが、同田貫に審神者のことを教えていた。あのふたりが近しくしていると、兄妹または姉弟のように、分かちがたく親しい仲に見えた。山鳥毛にすれば、口惜しいことだった。
今も、あの墨色は、審神者が好む木の花々とはかけ離れた、血と泥と鋼の――戦場の――[[rb:気配 > におい]]をひたひたと纏って彼女の傍らに控えて――そして、彼女がいつも淡く纏っている、彼女だけの甘い香りを塗りつぶして――いるのかと思うと、彼の腹の内から喉元へ、熱く粘ついて不快なものが込み上がりそうだった。
「……近侍は小鳥の采配に依って、そのときどきの戦況や任務に応じて選定される。一介の部下たる私が嘴を差し挟む所ではない。今は極打刀の練度を上げるのが優先目標なのだから、同田貫が近侍であるのが適切だ」
「しっているかい? にんげんがながながとりくつをならべたてるときは、ふにおちていないときなんだよ。きみはかたなだけれど」
「…………」
たしかに、不服ではある。己は小鳥と小鳥の巣を支え守るに足る古鳥であり、近侍の任にも堪えうる刀であるという、実力に根差した自負もある。が、近侍の任命は審神者の権限であるから己が差し出口をしては越権行為に当たるし、何より、そんなことをしては、己は小鳥にどう見られるだろうというおそれが彼を押しとどめようとしていた。
堪え性もなく乞うだけの、無様な雄、などと見られるのは、彼の矜持が許さなかった。
もう一度、首を弱く横に振って拒否を示すと、山鳥毛はとぼとぼと歩みを再開した。
「きみがもっていかないなら、わたしがもっていってしまうぞ」
小豆長光が背に向けて一声投げてもいらえはなかった。山鳥毛はこの古馴染みが己の背を押そうとしているだけで、そんなことは――山鳥毛から審神者を取り上げるような無情なことは――決してしないと信用していたからである。
ぼそりと、小豆長光は剣呑につぶやいた。
「きみがそのつもりなら、こちらにもさくがある」
恋と戦争は、油断したやつが一番悪いのだ。
