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とある本丸の一振目の山鳥毛がポメラニアンになってしまったようです。 

 夜。

「お頭、せめて何か食べなければお身体に障ります」

 などと赤心ぶったことを言いながら、日光一文字がときめきを抑えきれない表情でどきどきと差し出しているのは犬用のチューブタイプのおやつ、いわゆるちゅーるの類です。水煙草のポメラニアンはたとえ獣になろうとも一文字一家の長として誇りを捨てたわけではありません。『山鳥毛』の分霊の1振として、一家の鳥の前に這いつくばり情けなくも舌を伸ばしておやつぺろぺろなどもってのほかです。ちゅーるなんかに負けない、きりっ。

(我が翼よ、お前は少しはしゃぎすぎだぞ)

 諭すよりは警告に近い気持ちで、きゃん! と吠えます。それでもあんまりに水煙草のポメラニアンがちっちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんなので、日光一文字は口を手で抑えて、

「俺のお頭がこんなに可愛いわけがない」

などと世迷い言を言うばかりです。可愛いは傾城。
 そもそもとして、ポメラニアンになった水煙草の山鳥のために日光一文字が用意したのが犬のおやつ類ばかりで、これでは水煙草のポメラニアンに食べられるものはありません。
 幸いにして姿はポメラニアンでも本質は刀剣『山鳥毛』の付喪神の分霊のままでしたから、ヒトや生き物の真似事をして食事を摂らなくても体調に影響はありません。
 わふ、と鼻を鳴らし、ぺたんと伏せをして拒絶します。ポメラニアンは気高きスピッツ、孤高のぽめぽめなのです。日光一文字が哀れっぽい声を上げてちゅーる片手に追い縋ってくるのを、横目で冷ややかに眺めて思うのは小鳥のことと我が身のことです。
 審神者が水煙草のポメラニアンを愛さないのは諦めきれずともわかっていたことです。
しかし審神者は秀でた研究者であるがゆえに敵が多く、審神者の研究成果を狙っての妨害呪符や盗聴術式、果ては審神者を逆恨みして危害を与えんとする呪などを仕掛けられた回数は両手両足の指を二度ずつ折り返しても足りないほどです。本丸という閉鎖空間のなかに在るからまだ無事でいられるものの、それだって朝な夕なに水煙草の山鳥を筆頭に刀剣たちが審神者の周囲に目を配り、審神者を守り参らせてきたからこそです。

(この身では小鳥の敵を斬り払うこともままならない……)

 刀剣男士山鳥毛ならともかく、ちっちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんでは万一の危機が審神者に迫ってもできることは何もありません。うるうるおめめで見上げてもふられるくらいしかできないのです。……そんなことは水煙草のポメラニアンの、天下に一たる刀派の長、上杉重代の無二の宝と謳われたるその矜持には耐え難いことでした。

(どうにかしなければ)

 現状、ポメガバースバグの解決法は精神的疲労の回復のみとされています。水煙草のポメラニアンは鼻先を、ちょい、ちょい、と、かすめていく目障りなちゅーるをできるだけ見ないようにしながら思案します。
 このくるしみの、かなしみの、むなしさの根源は審神者です。
 もし審神者がただの一度でも水煙草のポメラニアンを労い、忠勤を――想いをなどという欲は言いません――認めてくれるならば、彼はすぐさまちっちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんの姿を捨て去り刀剣男士としての姿を取り戻すでしょう。
 けれどかの小鳥は水煙草のポメラニアンを疎んでいます。疎み……怯えているのです。
 水煙草のポメラニアンはかつて、求愛の失敗とともに審神者の傷を知りました。いまだ癒える見込みもない心の傷を我欲によって再び抉ろうとは思いません。

(小鳥を煩わせたくない。何があろうと小鳥だけは平穏のうちに)

 ならばどうにかして独りでバグの解決を目指すしかありません。すべては小鳥の身を守るため。彼は、あいされたい、報われたいと切実に叫ぶ我が心を意地と矜持で封じます。
 水煙草のポメラニアンとて、『曲がり角』の山鳥、たとえ報われ小鳥の幸福のためならば我が身など、と頑なに誓いを奉じた営巣できない山鳥毛たちのうちの1羽……、1匹? です。

(小鳥さえ無事なら、私は、それだけで)

 それは信念のはずなのにちくりと彼の胸を刺しました。
 水煙草のポメラニアンは疲労に任せて無理矢理に目を閉じます。もうちいちゃなぽめぽめにとっては遅い時間でした。一刻も早くもとに戻るため、少しでも体を休めて明日に備えなければなりません。小鳥に目もくれられぬ我が身を思うと苦々しいさびしさに喉が詰まって眠るどころではありませんが、それでも無理にあいを乞うてかつてのように小鳥を怯えさせるなんて、彼は二度としたくないのです。
 小鳥だけはたとえ己からであっても守りたい。それが彼のあいでした。
 ちっちゃくてかわいいみじめでぶざまなくりーむいろのもふもふちゃんは、固く固く目を閉じて、ついでに、「もふもふの寝顔!」と悶絶しながらカメラを取りに走った日光一文字をすっかり無視して、心の苦さに耐えて眠ろうとしました。
 苦さ、で思い当たった[[rb:四行詩 > رباعی]]の一節を思い浮かべながら。

(『たとえ苦くとも、君よ、咎める勿れ。苦いのが道理、それが我が命というものだ』……)



[newpage]
 その審神者には、『女』に生まれたことへの非常に強い劣等感と敗北感がありました。女として見られることは、劣った、惨めな、無能で、非力で、どうとでもねじ伏せられる相手として見られること。そう固く信じ、女として扱われまいと、自身の女性性を1つずつ剥ぎ取っては仕舞い込んで生きてきました。
 それは審神者自身が、劣った、惨めな、無能で、非力な『物』として扱われ、どうとでも捻じ伏せられてきた経験によります。男でも女でもない――男にも女にもなれない――もののように振舞いながら、審神者は女性性を憎悪し、男性性を恐怖していました。
 そんな審神者にとって、本丸とは唯一心から休まる場所でした。
 彼女が着任した本丸は政府研究機関直属の、戦闘術式や補修術式の臨場試験を担当する被検体本丸です。初期刀も初短刀もなく、すべて政府から貸与された刀剣で、着任した審神者は任期中のみ『主』としてふるまうことを許されます。
 かりそめの主従にもかかわらず、刀剣たちは審神者を主として、つまりは人間として、敬い、守り、一度だって審神者を『女』として見ませんでした。年齢不相応にちいちゃな女児扱いされて菓子やら花やらを握らされることはありましたが、それだって審神者への敬意なしに行われることはありませんでした。
 審神者は本丸内では女性性の呪いから解き放たれて、自由でいられました。安心しきっていたのです。刀剣男士は人間ではない、だから己を『女』としてどうにかしようなどと思うことは決してないと。
 ――ゆえにあの日の山鳥毛からの、心から信頼していた近侍からの告白は、審神者にとって手痛い裏切りであり、絶大な恐怖でした。

『かけがえのない、唯一無二のいとしい[[rb:雌 > ひと]]。どうか私に――――』

 蜜よりも甘ったるい声音と眼差しを不意に思い出し、審神者はぞくりとした悪寒に背を震えさせ筆を持つのをとめてしまいました。
 蘇った恐怖に眼を見開いて硬直した審神者に、2振目の――抹茶豆乳の――山鳥毛はそっと飲み物を差し出します。マグカップに入れて温めた抹茶豆乳(黒糖風味)です。審神者が何を思い出しているかに思い当たっていても、気づかないことにする、それが2振目の山鳥毛にできる配慮でした。

「疲れたかな? 少し休憩しよう」

 私はこんなに原稿が進んだぞ、などと無邪気に示しながら言われると、強がりがちな審神者でも素直に応じることができました。長く息をついて肩の力を抜きます。
 2振目の山鳥毛との夜間の原稿作業は、審神者にとって心の休まる穏やかな時間でした。2振目の山鳥毛は審神者に、持ち刀としての敬意と信愛を向けますが、いい意味で放任、無干渉でいてくれました。審神者が何をしているかを不必要に詮索せず、審神者が楽しく、心地よく過ごせているかだけを気にかけて、程よい距離で世話を焼き、好きにさせてくれます。審神者は2振目の山鳥毛が寄越した抹茶豆乳(黒蜜風味)をちびちびとなめるように飲みました。
 実のところ彼女の作業は――1振目のポメラニアンが気になって――あまり捗らなかったのですが、温めた豆乳を飲んでいると少しは落ち着いて作業できそうな気がしました。へんなものを思い出したせいで張り詰めてしまったものをゆるゆると寛げていきます。
 あんな裏切りは、忘れて、知らなかったことにして、2振目の山鳥毛と平和に過ごすに越したことはないのです。
 そんなありさまの審神者を、2振目の山鳥毛は微笑ましく見守ります。女らしい身体の線を隠したがって、みっともないほどぶかぶかの男物のシャツを着た上から白衣(ポケットが多くて便利なのです)をひっかけ、豊かな胸が目立たないように猫背になって肩を丸め、目線を伏せた姿。2振目が顕現する前の資料を見ると、例の裏切り事件が起こるまでは、体の線のわかりにくい女物の服を選んで着ていたようなのですが、今では審神者は必要に迫られた場合以外で女物の衣類を着ることはありません。
 2振目が知っている審神者は最初からこの怯えきった姿でした。
 2振目の山鳥毛はこの醜く哀れでわがままで頼りない審神者が可愛くてなりません。1振目はなぜこんな自分を守るだけで精一杯の未成熟な雛鳥――一個の自己として育ちきらぬもの――を雌と見做したのか、2振目には全く理解ができません。どこからどう見ても、体ばかり立派に育って、まだまだ餌の取り方も羽撃き方も知らない、庇い守るべきか弱い雛鳥です。2振目からすれば、せめて外の世界に怯えなくなるまでは親鳥として羽の下に入れておくべきとしか思えませんでした。その点三条あたりはよく心得ていて審神者を裳着も済ませぬ稚い子のように可愛がって、特に審神者から三番、一〇番と呼ばれている者らが、細々の菓子やら手遊びの玩具やらを与えているのをよく見かけます。あのように接していれば、1振目の山鳥毛も審神者に避けられなどしなかったはずです。

(どうにも下手を働いたものだ)

 己と1振目とは同じく太刀『山鳥毛』の分霊ながら、1振目の、小鳥に対し下中の下の策ばかり打つ[[rb:性質 > ぽんこつ具合]]だけは理解できない……と思いながら、審神者の様子を伺います。
 疲れのためか、審神者は温かい飲み物で一息ついてもあまり顔色がよくありませんでした。そろそろ入浴させ、床を延べて寝かしつけたほうがよいかもしれません。審神者は自身の身体に関わること全般を蔑ろにしがちなので、2振目の山鳥毛によるこまやかな体調管理が欠かせないのです。
 2振目が、今夜は小鳥の寝かしつけにどんな御本を読んでやろうか、と思いを巡らしたときです。それは来ました。
 鼓膜で感じる衝撃。続いて破裂音。
 咄嗟、2振目の山鳥毛は審神者を抱きかかえて床に伏せました。彼の背に硝子片が降ります。ふたりが今いる離れが破裂弾で狙撃されたことは明白でした。

「敵襲ッ!」

 声を上げ、頭をもたげようとした審神者を、2振目は抑え込みます。……臨場実験用被検体本丸に固有の本丸防衛プログラムおよび防御結界が発動した様子はありません。また、研究室が置かれた離れの建材、窓硝子は特に強化されたもの、時の政府直属研究所と同レベルのものを使用しています。これを事前情報なしに一撃で破壊できたとは考えられません。防御プログラムについても同様です。厳重にプロテクトされ〇・六秒単位で更新され続けるプログラムアクセスキーを、遡行軍が容易く解析できるとも思えません。
 つまり、この本丸の実験室を、審神者を狙ったのは。

(研究所の中に心当たりが多すぎるね)

 皮肉と悲しさと寂しさに、審神者が口の端を歪めたのと同時、軽やかな曲線を描いて投げ込まれたものがありました。着地と同時に噴霧口が開き、薄橙のガスを吐き出します。

「目を閉じなさい! ……息を止めていろッ!!」

 2振目の叫ぶ声。後頭部で大きな掌を、耳で銃撃音を感じ、審神者は、ぎっ、と瞼と唇に力を籠めました。しかし間に合わず、ひとくちぶんのガスを吸ってしまいます。

(ちょももん。なんだか、命令するのに慣れた声だなあ)

と、ぼんやりと間の抜けたことを審神者が思ったときには、もう肺にガスが到達していました。思考できません。

(あ。ちょももんも、山鳥毛、だった、ね……)

 瞼の暗がりのなか、彼女は無音のなかに落ちていきました。


[newpage]
 水煙草のポメラニアンが飛び起きたのは、耳の毛の先に不穏の震えを感じ取ったためでした。間を置かず本丸中に響き渡る警戒音。遠くで怒号と、何かを激しく打ち叩く音までします。何事かと頭を巡らせた水煙草のポメラニアンの前に、日光一文字が参じて片膝を折ります。犬の姿相手でもこういうところは序列正しくきちんとするのが一文字一家なのである、なのです。彼の内番着のポケットはいまだに各種のわんこのおやつで膨らんでいますけれども、それは見なかったことにいたしましょう。

「お頭!」
(何事だ、我が翼)

 聞けば――といっても日光一文字に犬語はわからないので、勝手に話し始めたに過ぎないのですが――審神者の離れが何者かに襲撃され、しかし本丸防衛プログラムが誤作動して防御結界が反転展開、刀剣らは皆、結界の霊力探知に引っかかり、母屋や居住棟に閉じ込められて身動きがとれぬというのです。さきほど聞こえた打ち叩く音は、防御結界を破って討って出ようと、石切丸らを中心とした一部の刀剣らが結界破壊を試みて失敗した音であったようです。

「すでに襲撃から推定4分が経過、いまだ主と2振目のお頭の安否は不明です」

 対襲撃マニュアルでは、襲撃から審神者保護不能のまま15分経過で審神者の生存確率は五割未満と見て、本丸の廃棄と機密情報の破棄を第一と方針を切り替えるよう定められています。実際は審神者が生きていたとしても、死んだものとして見捨てねばなりません。

「水心子正秀、山姥切長義らが時の政府への援軍を要請していますが通信状況が悪く、未だ応答が……、お頭?」

 水煙草のポメラニアンは日光一文字の報告を仕舞いまで聞かず、離れに続く渡り廊下へ向けて駆けだしました。

(小鳥の命を見切るまで、あと、11分……!?)
「お頭! お待ちください、お頭! 反転した結界は解除できていません!」

 もはや水煙草のには何も聞こえていませんでした。ポメラニアンのみじかいあんよで疾駆します。くりーむいろのちっちゃくてまんまるい弾丸となった水煙草のを、中腰で両腕を広げて追いかける日光一文字が捕まえられるわけがありません。
 水煙草のポメラニアンには、一厘の勝算がありました。日光一文字は、刀剣らが討って出られないのは結界の霊力探知のゆえと言いました。そして、昼間、審神者はこういったのです。

『霊力と神気のきわめて微弱な反応がなければどこからどう見てもただの犬だ、すごいぞ一八〇番!』

 ポメガバースバグを発症し、本来の霊力、神気を抑制されているちっちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんは、何をどう測定しても、定型の刀剣男士からは遠く隔たり、ほんのわずかな霊力と神気を発するだけの『ただの犬』になっているのです。
 本丸防衛プログラムが正常に動作したうえでの防御結界であれば、定型からどれほど外れていたとてゼロコンマ六十桁までは見逃しません。しかし今、防衛プログラムは本来の機能を果たしていないのです。
 可能性は、少なくともゼロではないように思われました。

(行ける。今の私ならば、私だけは、小鳥の元へ行ける!)

 走る、走る、走る走る走る走る!
 水煙草のポメラニアンはまるまるころころと疾走します。
 彼を捕まえて退避させようと腕を伸ばし中腰で追走してくる日光一文字を振り払い、置き去りにし、ついに渡り廊下へ至ります。そこで審神者を救うべく、障壁と成り下がった結界を一刻も早く破壊しようと試み続ける三条の刀たちも、野生剥き出しで審神者を繰り返し呼びながら結界に挑みかかる小狐丸も、水煙草のポメラニアンにはもう見えていませんでした。
 彼が守り参らすべき、愛しく無情な唯一の雌は、この渡り廊下の向こうにいるのです。

(小鳥、小鳥! 間に合ってくれ!)

 ――わん!

 祈りの咆哮はとってもかわいいわんちゃんの鳴き声となって夜闇に響きました。
 ポメラニアンを追いかけて日光一文字が三条の刀たちに衝突して将棋倒しを引き起こしたのさえ一顧だにせず、水煙草のは駆けて、駆けて、そして、ぽん、と跳びました。
 結界を超えたのです。やはりプログラムも結界も、正常な動作をしていませんでした。
 鬼の形相の小狐丸が審神者の身を案じて――小狐丸はこの本丸で唯一、審神者の手で鍛刀された刀剣でした――何事か絶叫するのを背に……ふわふわもっふもふぷりぷりのおしりに受けながらも、水煙草のポメラニアンは4つの足を1つも休めず突き進みます。
 このときすでに、襲撃から推定で7分が経過。残り、8分。水煙草のは知らないことでしたが、時を同じくして本丸の通信室には、襲撃から15分で審神者の救出を断念して本丸を破棄するよう政府からの指令が入っています。時間はありません。
 息せききって、ちいちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんは、審神者の離れ、襲撃被害の中心地へ駆けこんでいきました。


[newpage]
 時は少し戻り、水煙草のポメラニアンが目を覚ましたころ。
 審神者は吐瀉物まみれの床に横たわり強烈な嘔吐感とフラッシュバックに震えていました。自白剤の副作用です。
 この時点で、母屋の刀剣男士たちは『襲撃から4分が経過』と認識していました。しかし実際には襲撃者たちに報知機能は大幅に狂わされ、刀剣男士たちが審神者の危機を察したときにはすでに襲撃開始から57分、催眠ガスで前後不覚となった審神者が髪を掴まれ、顔と腹を殴られ、無様だとせせら嗤われ、強制開口されて、最初の自白剤を打たれてから――襲撃者たちによる拷問が始まってから、41分が経過していました。
 彼女も時の政府で禄を食む研究者のひとり、敵対勢力から虜囚の辱めを受けたときに備えてある程度の薬物への耐性はつけさせられていましたし、彼女自身、研究成果をくれてやるくらいなら自決する覚悟もありました。しかし襲撃者たちは彼女が何も白状しないのに業を煮やし、繰り返して自白剤を投与したのです。その量はとっくに適正使用量を超えて、彼女の正気を脅かしました。
 目を開けても閉じても、激しい耳鳴りと過去の幻覚が審神者を襲います。
 小学校のテストの100点と、母の呆れ顔。『女の子なのに』。70点を取った弟と、弟を抱きしめて褒める母。国立中央研究院付属中学への推薦を『女の子だから』というだけで勝手に断っていた父母。初潮、汚れた下着、鈍痛、言いようのない不安と、これで[[rb:女の子らしく > 大人しく]]なるでしょうと安心した母。体が変わっていく恐ろしさ、ふくらみ始めた胸、『色気づきやがって!』、指さして嗤った父、何も考えずに父を真似て大笑いする弟。『娘が女の子らしく育たなかった』せいで、母を責める父、母が出て行った日、母が出て行った夜、布団の上から撫でまわす手、飛び起きてやめろと叫んだ彼女を打ち据えた手、女だろう、今日からお前が母さんの代わりをしろ、そう怒鳴ってパジャマに伸びた、手――……。
 悲鳴を上げて泣きじゃくり、宵の口に飲んだ抹茶豆乳をすべて吐き戻してしまった彼女には、もはや襲撃者たちの質問など何も聞こえませんでした。蹴ろうが殴ろうが何をしようが、何も答えず意味のわからないことを断片的に口走るばかりなので、襲撃者たちは薬の作用が弱まるまで審神者を床に転がしておくことにして、離れ内部の物色を始めます。
 審神者は、血の気が引いてはたらきの弱まった頭脳と、冷え切った指先、硬直していく体、喉の奥を焼く酸を感じていました。フラッシュバックの合間、一時的に戻った正気で2振目の山鳥毛を呼ばわります。

(ちょももん、ちょももん……)

 残念ながら、呼びかけは一音も声にはできませんでした。襲撃から真っ先に審神者を庇った2振目の山鳥毛は、審神者が目を覚まし自白剤を打たれるときにはすでに、何の外法によるものか、審神者からの霊力供給回路を断たれてヒトのかたちを保てなくなっていました。本体たる太刀に強制的に戻されて、審神者が立ち上がってほんの数歩も行けば手に取れるところに放り投げられています。……しかし審神者は、指の一本も動かせません。

(ちょももん……ごめんね、巻き込んで、ごめん……)

 抹茶豆乳の緑を残した胃液が異臭を放つ吐瀉物となって審神者の口から数滴垂れていきます。もう彼女のなかには、吐くものさえ何もないのです。
 この本丸の奥の院、審神者と2振目の山鳥毛のためだけの城であった離れを、襲撃者たちは無遠慮な手で荒らし回り、不躾な目で眺めて回ります。彼らの目的は、現在審神者が転がされている彼女の私室の隣室、離れの研究室です。研究室は有事に備えて、暗号キーと電子キーと物理キーの三段構えにしていました。生体キーは、審神者の体の一部を切り取って使えばすぐアンロックできてしまう脆弱性から採用していません。
 襲撃の手口、そしていまだ母屋から刀剣男士たちの救援が来る気配が一切ないことから考えるに、暗号キーと電子キーの緊急アンロックを含む防衛プログラムは間違いなく襲撃者たちの手に落ちています。彼らは残る物理キーを探しているのです。
 審神者は耳鳴りと悪寒に気を遠くしかけながら、聞くともなしに、襲撃者たちが審神者と2振目の山鳥が心血注いだウ=ス異本の原稿を発見するのを聞いていました。

「なんだこれは。暗号か?」
「……物語っぽいな。内容は……」
「うへぇ! 山鳥毛が女審神者を手籠めにするんだとよ。なんだよこの女、欲求不満かよ」

 2振目の山鳥毛ではなく、審神者の作と誤認したようです。審神者は吐瀉物の水溜りに頬を浸しながら、動かぬ唇で必死に抗議しようとしました。

(触るな……ちょももんの、ちょももんの原稿に……ちょももんの物語に、汚い手で触るな……ッ!!」

 しかし当然声も出ず、鼻腔に吐瀉物が入り込んだだけで終わります。咳き込む力さえありません。耳鳴りと悪寒が酷くなり始めました。次のフラッシュバックの予兆です。

「そっちのは?」

 どうやら審神者の原稿にも気づかれてしまったようです。

「……巫女が触手で犯されてる」

 審神者は聖なる女――彼女にとっての女性性――を創作内でぼっこぼこのぐっちゃぐちゃにする癖がありました。物語のなかで架空の女の心身を不可逆に傷つけ辱めることで一時の安らぎを得ていたのです。

「マジかよ変態じゃん! 何? さっきの山鳥毛が描いたのかこれ?」
「主従そろって性欲持て余してるとか終わってる」
「ほんまそれな」

 審神者が、違う、ちょももんはそんな汚いものなんか描かない、と叫びたくても、舌どころか睫毛の一本すら動かせません。聞こえてくるけたたましい嘲笑に、閉じた瞼から自然と涙が溢れてきます。いつもなら真っ先に審神者の涙をぬぐって慰め、審神者の目を塞いで現実を遠ざけてくれる2振目の山鳥毛は、ただの器物として沈黙したままです。

(ちょももん、ごめん。不甲斐ない部領で、本当にごめん)

 彼女が薄れていく正気の中で、涙のひとつぶとともに許しを乞うた、そのときです。

「[[rb:わん > 小鳥]]! [[rb:わんわん > 返事をしておくれ]]! [[rb:わん > 小鳥]]!!」

 きゃんきゃんかわいいわんちゃんの鳴き声が離れに響きます。
 水煙草のポメラニアンがやってきたのです。
 彼は今現在、自身がちいちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんになっていることも審神者が犬語を解さないことも忘れて、どうにか審神者のもとへ辿り着き、身柄を保護したい一心で、精一杯に吠え立て、ぱたぱたぱた、と廊下を疾走しているのでした。
 襲撃者たちは一瞬、顔を見合わせます。

「この女、犬なんか飼ってたのか?」
「報告書にはなかったぞ」

 彼らがしばし黙り込む間にも、水煙草のポメラニアンはちいちゃなあんよで審神者の私室へ駆けつけていました。そして目撃します。床に転がる同位体の本体と、饐えた吐瀉物の水溜まりと、吐瀉物にまみれて横たわる、彼の、大切な、唯一の、恋しい、

「[[rb:わおおおおおん > 小鳥ーーーッ]]!」

 衝撃と怒りに絶叫します。かの女こそは彼の小鳥、決して結ばれることのない相手でも、彼が唯一真心を捧げた、かけがえのない、たった一人の主君であり、女です。全身のもふもふを逆立て、喉の奥から滾る獣性と殺意のままに襲撃者たちに対峙します。もし彼が今、ヒト型をとっていたならば、激昂のあまり冷ややかに嗤い、こう言ったことでしょう。

「貴様ら、よほど首も命も惜しくないと見えるな――!!」

 そして言い終えたときには襲撃者たちの首は残らず刎ねられていたに違いないのです。ですが、今の水煙草のはポメラニアンでした。

「きゃん! きゃんきゃん!」

 襲撃者のうちの一人の男の足に飛び掛かっても、ちいちゃなわんわんが精いっぱいにたっちをしているようにしか見えませんでした。これには彼らもめろめろです。

「んんんん! きゃわいいわんちゃんでちゅねえ!」
「あンらァ! まあ可愛い! どこからきたんでちゅかー? もっふもふでちゅねえ!」

 みんな任務を忘れてやいのやいのいいながら水煙草のポメラニアンを取り囲み、取り押さえて抱き上げ、頬ずりちゅっちゅします。可愛いは傾世。

「わん! わんわん! ぎゃんッ!」

 水煙草のポメラニアンがたまらず吠え、暴れても、無力で非力でなぁんにもできない、かわいいかわいいわんちゃんがじゃれているようにしか見えません。寄ってたかってもみくちゃに撫でまわされ、もふられます。なんと無遠慮な手つきでしょう! 非合意のおさわり、それも、審神者をげろまみれのぼろ雑巾にした男たちからのおさわりに、ちいちゃなぽめぽめは生理的嫌悪を禁じえません。ポメラニアンになったとて、上杉家御手選三十五腰が一にして、一文字一家の長たる山鳥毛の誇りは安くないのです。小鳥でもない相手に首やら耳やら足の付け根やら尻やらをもふりしだかれるなど断固として許せません。いえするっきんぐもふもふ、のーたっち。

「ぎゃわんッ!!」

 激怒の牙は、くりーむいろのぽめぽめをひしっとだっこして一番不躾にもふもふちゅっちゅした男の指に食い込みました。

「痛てっ」

 不機嫌な声が痛みを訴えると、水煙草のポメラニアンは力任せに床に投げつけられました。水煙草のはすかさず審神者に駆け寄ろうとしましたが、銃声。ぎゃん、という情けない悲鳴は……音にもならずに消えました。

「こいつ! 可愛がってやったのに噛みやがった!」

 噛まれたいらだちのまま、襲撃者はちいちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんに発砲したのです。脇腹を撃たれたポメラニアンは、ぱたん、と床に転がりました。

「おー、おー。大人しく尻尾振ってりゃいいのに。飼い主に似て可愛げのねー犬っころ」
「やっぱりわかるんだろ、飼い主をやっちまったのが俺らだって」

 銃弾など、刀剣男士山鳥毛に対してであればたった一発脇腹をぶちぬいたところで致命傷を負わせることは叶いません。しかし今の水煙草のは、骨格も筋組織もほぼポメラニアンなのです。畢竟、たかだか一発の鉛玉は、水煙草のポメラニアンを行動不能にせしむるに足るだけの重傷を負わせました。ちいさなぽめぽめの体にとっては、ショック死してもおかしくないほどの傷です。
 動けなくなった水煙草のポメラニアンの左後ろ足を、襲撃者のうちの一人が無造作に掴み上げます。そうして彼を、横たわっている審神者のほうにむかって乱暴に放り投げました。ぼどり。ちいさなくりーむいろの体が床を濡らす吐瀉物にまみれ、審神者の目と鼻の先に転がりました。その距離、ぽめぽめのあんよにして、数歩。しかしその数歩を歩くほどの体力は、ちいさなからだのどこを探しても見当たりません。
 水煙草のポメラニアンは、それでも気力だけで立ち上がります。

(小鳥、私の、小鳥)

 一歩、一歩、這いずるように歩いて、倒れこむように審神者に寄り添います。

(小鳥。ああ。なんということだ。こんな……惨い目に……)

 ヒトのかたちであれば、迷わず彼女を抱きしめて涙していたでしょう。しかし彼はポメラニアン。きゅん、くぅん、そんな鳴き声を血まみれの喉から絞り出しながら、審神者の、ひどい味のする頬を舐めるしかできません。

(苦しいだろう。小鳥。小鳥。すまない、守ってやれなくてすまない)

 審神者の頬を濡らした涙は、緑の吐瀉物と混ざってもはや判別もつきません。しかし水煙草のポメラニアンには、恋しい小鳥が傷ついて泣いたことがはっきりとわかりました。
 弱々しくも気力の許す限り繰り返し、温かでちいさな舌で審神者の頬を慰めます。その舌の、涙のような温もりを感じ取ったのでしょうか、審神者の睫毛が震えます。僅かに開く瞼。茫洋とした瞳がのろのろと焦点を定めます。

「……ひゃ、……ち、…ゅ…う、ばん……」

 胃液に焼かれた声は潰れていました。それでもたしかに、水煙草のポメラニアンを見とめて、一八〇番、そう呼んだのです。水煙草のポメラニアンの尾は、動いていたなら力いっぱい、審神者の生存という希望に振られていたにちがいありません。
 この時点での襲撃からの経過時間、63分。母屋の刀剣男士たちおよび時の政府が認識している経過時間にして、10分。
 残り5分でこの本丸は審神者ごと破棄されます。
 襲撃者たちは死に損なったちいちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんへの興味を失ったようでした。唾を吐き、背を向け、またがさごそと家探しに戻っていきます。
 一方で、水煙草のポメラニアンも襲撃者たちに構っている余裕も暇もありません。小鳥、小鳥と、徐々に動きの鈍くなる舌をはぁはぁさせて、必死に言葉をかたちづくろうとしました。しかしやはり彼はポメラニアン。一語の音にもなりません。それでも、彼と彼女は刀剣男士と審神者です。結んだ縁によるものか、これまでの複雑怪奇極まる相互感情のゆえか、審神者は水煙草のポメラニアンの言わんとすることを捉えたようでした。
 朦朧とする意識、冷たくなる体、遅くなる呼吸――。審神者は自身の状態と、ただポメラニアンだけが駆けつけた本丸としての戦況をよく理解して、見切りをつけていました。

「ごめん……逃げ…て……」

 きゃふん! 水煙草のが鼻を鳴らしても、審神者は眼差しで、否、と答えます。首を横に振ることもできないのです。なおも水煙草のポメラニアンが言い募ろうと――きゅんきゅんひゃんひゃん鳴こうと――するのを、審神者は最後の力を振り絞って制しました。
 両の腕で抱きしめたのです。

「ごめん、ごめんね、山鳥毛」

 今生の別れのような謝罪でした。
 山鳥毛。長らく――水煙草の山鳥が小鳥に想いを伝えてしまってから、長らく、審神者から忌避され、文字記録の上でさえ彼を指しては呼ばれることのなかった号です。思えば番号を用いた呼称が徹底されるようになったのはあの一事件からでした。
 審神者が何を清算しようとしているのかを察し、ポメラニアンが口を開きかけた、まさにそのとき、審神者は己の口を犬の口吻に押し当て、舌を捻じ込みました。ぽめぽめのおくちに広がるげろのあじ(字余り)。思わず怯んだ水煙草のが逃げようとするのを抑え込み、さらに口吻のうちに押し込まれたものがあります。驚いた水煙草のポメラニアンが抵抗をやめると、それをぽめぽめのおくちのなかに預けて、審神者はぼとりと床に頭を預けました。そのまま笑ったふりをして、開いて見せた彼女の口には、第一大臼歯があるはずの部位に、ぽっかりとした空白がありました。

「……それが、私の、全部。常時[[rb:…… > 記録]]オンに、してる……」

 常時記録の、記録、を唇の動きだけで発したのは、襲撃者たちを警戒してでしょう。水煙草のポメラニアンも察します。これは、奥歯に擬態して隠し持っていた、これは。

(小鳥の研究の、[[rb:密閉機密化装置 > Black Box]]――!?)

 審神者は微笑んだつもりのようでした。

「それ、しか、ないの……わたし……。ごめん……ほんとうに……山鳥毛、ごめん」

 ――全部ゆだねるから、逃げてほしい。それを持って逃げてほしい。最後まで我が身我がことばかりの己を、どうか許してほしい。なぜなら己の価値は、それしかないのだから。
 声にできなかったところまで、水煙草のポメラニアンには審神者の言い分がわかってしまいました。わかってしまうほど、彼はずっと、彼の小鳥だけを見つめてきたためです。
 しかし、わかってしまったからこそ、彼は言葉を失いました。憤怒のためです。

(私の小鳥に、それしかない、だと?)

 見開いたぽめぽめまんまるおめめの、左側のその下に、じう、と肉を焼くような熱が灯ります……いいえ、灯ったのではありません。戻ってきたのです。

(小鳥よ。可能性の卵より生まれたいとしきひとよ。私の、ただ唯一の君よ――)

 燃えたのは、彼の眼か、魂か。いずれにしろ華烈な[[rb:緋 > 火]]が彼の奥より咆哮のように弾けたことだけは確かです。熱は彼の腕を奔り、胴を奔り、脚を奔り、爪の先、髪の一筋一筋までもを焼き清めました。脇腹の風穴などはもはや瑣事未満です。
 彼は激怒していました。小鳥を傷つけた者どもに、小鳥に己はそれだけだと思い込ませた過去に、己はそれだけだと見限って、諦めてしまった小鳥自身に。彼がただひとり、主君と仰ぎつがいにと願ったひとは、成果物を生む価値しかない物品ではないのです。
 彼は掌に、小鳥のすべてになどなりえない密閉機密化装置を吐き捨てます。――水煙草の山鳥、この本丸の1振目の山鳥毛は、苦りきった表情で眉を顰め、傷つききった痛ましい小鳥を腕に抱いたまま断言しました。

「いくら君であっても、君自身を蔑むことだけは許せない」

 彼はちっちゃくてかわいいくりーむいろのもふもふちゃんを脱ぎ捨て、刀剣男士としての姿を取り戻したのです。

「山鳥毛……ポメラニアンは……?」
「生憎と、疲れたままではいられない状況なのでね。明日の研究にお付き合いできないことについてはお許しいただこう」

 水煙草の山鳥は審神者の手を力強くとると、その掌にさきほど託された密閉機密化装置を握らせます。

「……いくら小鳥の命令であっても、さきほどのものだけは従えない。この件については、君の治療が終わってからゆっくりとしようか」

 清潔な床を選んで小鳥を横たわらせ、彼女の頬を汚す吐瀉物を拭き取り、さて、と彼が立ち上がったとき、にわかに背後が騒がしくなりました。

「刀剣男士だ!」
「ばかな、まだ結界は破られていないはずだぞ!」
「あれっ? ぽめぽめちゃんは? ぽめぽめちゃんがいない!?」
「怯むな! 相手は太刀だぞ! 夜の室内ではこちらが有利だ、すぐに無力化、」

 無力化すればいい、という意味の音の代わりに、耳の汚れとしか言いようのない悲鳴が響きました。その男の腕が床に転がっていたのです。水煙草の山鳥が振り向きざまに大きく踏み込み、斬り飛ばしたのでした。
 山鳥毛。かの太刀こそは、福岡一文字一家の当代の長、炎宿す重代の宝刀、無銘一文字号山鳥毛。縄張り意識激つよの山鳥の性宿す刀剣なるがゆえに、彼は己の巣に土足で入り込むものと、巣のなかで守られるべきものを害されることを何よりも憎悪します。
 過ぎた憤怒は、却って冷え冷えと、赫すぎる火焔の刺青は、いっそ黒々として見えました。牙を剥き出しにするような笑顔を浮かべ、三下の取るに足らぬ汚い血を刃から振り払い、横から襲い掛かってきた別の男の横っ面を蹴り上げ、男が地に伏せると、その顎を踏み抜いて砕きます。水煙草のの靴裏には蹄鉄がついているので、蹴られるととぉっても痛いのです。襲撃者たちは恐慌に陥りました。ですが、それを見逃す水煙草の山鳥ではありません。また誰かの脚が飛びます。何せ彼らは山鳥毛にとって、小鳥の研究結果を狙った襲撃者である以前に、小鳥をいたぶった憎い憎い侵略者なのです。

「小鳥が受けた苦しみの、千にも億にも倍するだけの苦痛を味わわせてやりたいが……」

 水煙草の山鳥は、己が本体たる太刀を殺意深く構え直します。しかし、殺しだけはしてやる気はありません。部下として小鳥のおん前を下郎の死で穢す不敬を忌んだのと、殺しては、誰が、こんな凶事を企んだのかわからなくなるためです。生きたまま捕らえて拷問して自白剤をたんまり投与して、全部を大人しく吐いてくれる、証人にせねばなりません。

「――さァ、ここからは本気でやらせてもらうぞ!!」

 本丸の破棄まで、残り、3分を切っています。時間はありませんが、水煙草の山鳥毛にとってはこれらの制圧など、たとえ夜闇の中であっても2分もあれば十分すぎるほどでした。
 彼は、彼こそは、小鳥の幸福だけを祈り、小鳥を守り参らせるためだけに刃澄まし技磨いて時を過ごした、『山鳥の曲がり角』随一の武闘派山鳥、号水煙草。

 もはやちっちゃくてかわいいだけのくりーむいろのぽめぽめちゃんではないのです。

 ……本丸の破棄まで残り40秒で、反転結界は排除され、本丸防衛プログラムは正常に戻りました。決死の形相で離れに乗り込んできた三条の刀剣らが目撃したのは、地に伏し行動不能になった襲撃者たちと、1振目の山鳥毛に抱きかかえられた審神者、そして床に器物のまま転がっている2振目の山鳥毛でした。審神者の生存に歓喜したのも束の間、彼女の頬の蒼白さと饐えた胃液の臭気に、すぐに小狐丸が気づいて叫びを上げます。
 そこからは何もかもが迅速に処理されていきました。
 政府への襲撃者撃退完了報告。医療機関への審神者の搬送と入院手配。襲撃者たちを殺さないためだけの応急処置と、政府直属調査機関特務局への身柄引き渡し。器物に戻されていた2振目の山鳥毛の霊力回路および顕現状態の回復。それから、襲撃者たちを今すぐ本丸内で尋問すべきだと主張し一文字の刀たちを呼び集め始めた水煙草の山鳥を手入れ部屋にぶちこんでおやすみさせること。すべて瞬く間に済んでいきました。なお水煙草の山鳥に呼応して参じた日光一文字が、もはや水煙草のがポメラニアンでないのを見て取るや、

「俺のもふもふぽめぽめちゃん……」

と、涙ぐみ歯を食いしばりちゅーるを握りしめ号泣寸前の顔をしてから、

「ご復帰なによりです」

すぐさま、スン……っと左腕の顔になったことは申し添えておきます。お前のではない。
 こうして事件はひと段落。結局、離れの研究室と審神者を襲った者どもの素性はわからず、一人残らず獄中自殺――両腕を斬り落とされた者まで含めて、全員首を吊ったそうです――、遺体も手違いで通常の囚人同様に焼却されてしまい、犯行の狙いは何もわからないままで解決とあいなりました。この本丸の刀剣男士らが、防衛プログラムの不自然なエラーから、審神者の研究を狙った同業者、政府の中の研究者ないし研究機関の仕業だと主張しても当然通らず、すべては歴史遡行軍の犯行であると結論付けられたのです。
 後味悪く、まったくもってめでたしめでたしでない顛末でした。刀剣らは不服でしたが、それでも審神者が自白剤過剰投与の副作用から回復して本丸に戻ると、事件の真相追及よりも審神者にかかりきりになります。結局彼らは刀剣男士、ヒトに愛され使われ長く永く在った器物の成れの果て、自らが戴く主の生還より大切なものなどありはしないのです。
 事件の後も水煙草の山鳥と審神者との関係は、相変わらずの様相を保っていました。しばらく寝たきりで刀剣男士らの介助を必要とした審神者に、水煙草の山鳥は甲斐甲斐しく尽くしながら、どうか、どうか小鳥よ、その心身を損なってくれるな、貶めてくれるな、君の代わりなどありはしない、君は生きているだけでただ尊い、と繰り返し囀ったので、

「はいはい、御説御尤も」

うんざりした顔の審神者に耳を塞ぐ仕草つきで拒絶されてしまいました。
 とはいえ、今は審神者も起きて眠るだけでいっぱいいっぱいなほど弱り切っていましたから、いつもなら水煙草の山鳥が近づくだけで嫌がるのに、今だけはと身の回りに寄るのを許して、今だけはと水煙草の山鳥が支度した療養食にも手をつけるのでした。

「……刀帳番号一八〇番」

 ある日の夕食時。審神者は水煙草の山鳥に常通りの呼びかけをしながらも、その声の調子は常通りとは言えません。もう襲撃から二週間が経ちますが、薬物を注射されて一時間も嬲り者にされたダメージは、いまだ審神者の心身を健康から遠ざけていました。気が弱っているのです。だからこそ、この日の彼女は少しだけ、素直でした。

「あの夜はごめん」

 水煙草の山鳥は困ったように眉を下げながら応じます。

「その謝罪は何に対してだ?」
「奥歯のあれ。押し付けて。……無理やりキスまでしてしまった」

 審神者の声も顔も気まずそうでした。水煙草のの顔色を窺うようなこわばりかたです。水煙草の山鳥は首を横に振ります。

「小鳥よ。私は君の、一介の部下だ。君の命令ならば従って当然。ゆえにその件については何も思っていないよ。――その件については、だが」

 耳に心地よい温順の声色ですが、これが審神者を必要以上に追い詰めぬよう、彼が心を砕いて出した音だと、審神者も実は気づいています。俯いて黙るよりありません。

「私はまだ怒っている。君が君を信じてくれないことがたまらなく哀しい。だからどうか、君には[[rb:研究の成果 > たったあれだけ]]研究の成果しかないなどと、そんな世迷い事は、どうか、二度と言ってくれるな」

 切々と言い募られても審神者は何も返せませんでした。その場しのぎにならず、嘘にもならず、誠実に、水煙草の山鳥に向かい合う言葉を生む[[rb:過去 > 中身]]が、彼女にはなかったのです。
 ……黙りこくってしまった審神者に、水煙草の山鳥は、弱く、苦く、微笑みました。そして退出の挨拶をして出ていこうとします。彼は縄張り意識激つよの山鳥でしたので、そろそろ夜のランニング――縄張り確認――の時間なのです。

「――山鳥毛!」

 泣きそうな声で呼び止められました。

「ごめん。あなたの心を踏みにじって、本当に、ごめんなさい」

 水煙草の山鳥は振り向いて、泣きそうな顔で首を横に振り、許しました。
 ……彼の退出から数分後、入れ替わりで入室した刀剣があります。2振目の山鳥毛でした。彼は襲撃時に外法で器物に貶められましたが、その後問題なく回復して彼の愛好するちょもさに原稿にいそしんでいます。彼は自分×小鳥は解釈違いで地雷ですが、ちょもさにが大好物でちょもさにを日々見たり聞いたり読んだり描いたりしないとQOLダダ下がりしてらめぇ死んじゃうのぉ、というけったいな山鳥毛集団、『山鳥の観覧席』の一員です。

「小鳥よ。気分はどうだろうか。……1振目には、例の話を伝えたのかな?」

 審神者はうつむいたまま首を激しく左右にして否定します。――先日の襲撃事件について、審神者は時の政府から、重要機密を擁する実験用本丸の主としての責任を問われ、本丸の審神者としての任期の更新がないことを言い渡されていました。あと半年で、この本丸を去らねばならないのです。

「何て言えば、何も言っていいわけないのに、私……どうしたら……」

 泣くに泣けず、歯を食いしばるばかりの審神者を、2振目の山鳥毛は抱きしめて背をさすります。……別れの時が迫ることを知らぬまま、水煙草の山鳥は縄張りを見回ります。己の何もかものすべては、彼の小鳥の幸福のためだけにと、ただ祈りながら。


(おしまい)
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