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妖怪仙人山鳥毛さんが琴の妖精小鳥ちゃんを人界に退治にいく話。

 ――――その琴は、随分と永く、人の世に在った。

 造られたのが人間が言うところのいつの時代だったかは、琴にはわからない。ただ多くの人間たちが己の身を大切に扱い、大切に弾いて、次の人間へ、次の人間へと伝えてくれたことだけは知っている。彼らが己を、よい琴だ、名器のなかの名器だ、とほめてくれたのも覚えている。
 これもいつのことだったか、琴ははっきりとはわからないのだが、長く世にあるうち、あるとき突然、琴は意思をもった。自我というほどはっきりしたものではない。ただ、この弾き手は上手だからもっと弾いてほしいだとか、この曲を弾くとこの弾き手は泣いてしまうのだな、だとか、己を弾く人間の指と、己から発せられる音と、己を弾きながら人間がうたう声だけを思っていた。

 ――――このひとはじょうず。もっとひいて。
 ――――このひとはこれからじょうず。もっとひいて。
 ――――このひとは……がんばれば……いつかはじょうず……。
 ――――このひとはとってもじょうず! たくさんひいて! わたしをひいて! とってもじょうず!

 琴は器物である。器物は、己が生み出された目的のために使役されることこそ、幸福である。琴は幸福だった。職人が丹精して造ったその身は弾き手の指を、心を、よく映しとって、余さず音にした。名琴との呼び名も高くなった琴を手に入れた人間はみな、琴を愛し、琴を存分に弾いた。
 琴は意思を持ったのちも、ただ人間の指と、声と、己の音だけを思っていればよかった。
 ところがあるとき、琴は「体」を得た。蜥蜴のような前後の足と尾、尨犬のような頭と胴をもつ姿に転じて、夜な夜な歩き回れるようになったのだ。なぜかは琴にもわからない。ただ、琴の所有者がいなくなった。所有者に家から放り出されて、どうしよう、どうしよう、と途方に暮れていたとき、己に動く四肢があることに気づいたのだ。
 長く世に在った琴も、こんなことは初めてだった。動く体があることも、己を所有する人間が誰もいないということも。琴は名高い名琴であったから、人間たちは必ず、琴に次の人間を用意してくれた。大切に扱いなさいと、師から弟子へと伝えてくれた。その連綿たる系譜が突然ぷつんと、弦に鋏でも入れたかのように切れてしまったのだ。
 琴は困って、喉の奥の弦を――動く体では、琴の弦、音を決める部分は、喉の奥にあるようだった――心細く、ぽろろん、ぽろろん、と鳴らした。
 琴は器物だ。小さな動く体を得、四つ足で地に立ち、己を弾いてくれる人間はどこだろう、と思ったとき、それに気づいた。己は器物だ。己は琴だ。己は、弾いてもらうためだけに、この世に生じた。
 人間がいないのは困る。人間がいないならなんのための我が身だろう。琴は次の人間を探すことにした。
 琴は己を定義した。妖精となった琴は、自我を得たのだ。
 さて次の人間を探し始めた琴だったが、進捗はあまりよろしくない。もしかしたら所有者が戻ってくるかもしれないので、黒っぽくなって崩れてしまった草庵の跡から遠くへは行けず、近くの街道までの範囲内で探しているのだが、うまく行かない。人間に逃げられてしまうのだ。
 琴は、人間を見れば、七弦の琴に触れたことのある人間かどうかがわかる。器物としての本能だった。だから、街道を行く人間のなかに七弦の琴を嗜んでいる者を見つけると、いまだ慣れぬ蜥蜴のような足で躓き躓き駆けて行って、その膝の上に乗ろうとした。琴は名琴である。膝に載せ、手で触れたなら、世に二つとない名器であることは一目瞭然であった。
 だから触れてもらおうとしたのだ。触れて、弾いてもらおうとした。そうすれば人間はよろこんで琴を持ち帰ってくれるはずだった。琴に触れたうえで、その身を欲さなかった人間はいない。ただの琴であったときは必ずそうなった。なのに、誰も琴を欲しがらない。
 欲しがらないばかりか、放り投げるようにして(そんな無礼は琴はされたことがなかったのに、自分で次の人間を探すようになってからほぼ毎回そんな目に合わされた)、琴を置いて逃げてしまう。琴の嗜みがあるのに、この身の価値がわからないのだろうかと、琴は落ち込んだ。もしかしたらこれまでの人間たちが優しかっただけで、己にはぜひ持ち帰りたいと思わせるほどの音は備わっていなかったのかもしれないとまで思えた。……それでも、琴は次の人間を探すことをやめられなかった。
 琴に触れたことがあると思われる人間を見つければ、おそらく腕前も心得も備わっていないような人間相手であっても、喜び勇んで駆けつけて、その身を差し出した。
 わたしをひいて。
 なのに人間は逃げてしまう。
 そのうち琴を弾けそうな人間はめっきり街道を歩かなくなった。仕方がないので、人間であれば、と妥協して、街道を行く人間全てにその身を差し出した。
 わたしをひいて。
 今は知らずとも学べばいいのだ、琴は初学者であっても全力で支える気構えでいた。しかし、人間はみな、逃げてしまう。
 とうとう、街道に人影はまばらとなり、ついには、琴が動き回れる黄昏から夜明けまでの間は誰一人として街道を行かなくなった。それまでは都への急使など、特に急ぐ者は必ずこの街道を夜通し駆けていたのに。琴は途方に暮れた。

 だれもわたしをひいてくれない……。

 琴が次の人間を探しだしてどれほどが経っただろう。それほどの日数は経っていないのだが、琴には数十年数百年は経ってしまったと思われるほどの長い長い隔絶だった。人間を探してうろうろと歩き回り、日の出が近づくと、所有者がいなくなってしまった家の跡の、瓦礫の隙間を選んで身を横たえる。
 琴という楽器は文人の清浄な書斎の明るい窓辺に置かれるはずのものなのに、今はただ、雨が漏らないところ、家の跡のなかであまり煤けてしまっていないところ、そればかりを考えて身の置き場を選ぶ。琴としての身を汚したり損なったりしては人間に見向きもされなくなってしまうから、琴のままではなく動く体の姿で眠った。早く次の人間を見つけたかった。
 ある晩も、瓦礫の隙間で目を覚まし、蜥蜴の足と尨犬の胴で伸びをする。琴の動く体はとても小さい。琴は、七弦の琴としてはきちんと定形の大きさと形状なのに、動く体は子犬ほどの大きさで、歩くときも躓き躓き歩く。これは妖精として生まれたての幼さの故だが、琴はまだそんなことは知らない。
 琴は道具だ、本当なら、場所を変えるなら人間の意思と手によってのみのはずたった。人間が運ばないからこんなに不便なのだと思って、人間に持ち帰って貰えないという事実に琴はしょんぼりと耳を伏せる。それでも、今夜も人間を探す。
 まず、所有者が帰ってきていないか、黒く崩れてしまった家の跡を歩き回る。琴が置かれていた書斎のあたりは念入りに三遍探した。所有者は老年の男で、歩くときは杖を使うから、杖をつくときの音で帰ってきているかどうかわかるのだ。しかし、やはり戻ってきていない。書斎の崩れた壁の隙間から、庭だったところへ出る。琴が自我に目覚めた場所だ。所有者に庭に放り出されて池に落ちた。今ではその池も干上がっている。
 あのときは琴の他にも所有者に手荒く扱われた物がいくつかあって、その名残がまだ庭跡には残っている。池の近くに積まれて、雨露に晒されて墨が滲んでしまっている紙の山がそれだ。所有者の書斎に大切に保管されていた琴譜、琴書、それもとびきり貴重かつ稀覯なものを、所有者は琴の次に部屋から放り出して、もう一度部屋に戻っていった。
 ……それから所有者の姿を見ない。これまで琴に触れた人間のなかでも特に技巧に優れ、曲のこころがわかり、琴の手入れを優しく行う、よい人間だった。叶うなら戻ってきてほしいので、琴は毎晩、書斎のあたりを念入りに探す。今夜も戻っていないようだった。
 こんないい月夜にどこへ行ったのだろう。琴は尨犬の首で月を見上げる。明るく澄んだ夜だった。所有者が見たら、きっと琴を持って庭に出て、うつくしい曲を四つ、五つ、夜が更けるまで弾き通したに違いない。それほどのいい夜だった。
 うつくしい事象に触れた歓びを、うつくしい音にする。人間が楽器に願ったことのうちの一つだ。だから琴は自然と、喉の奥の弦を鳴らして、明月を吟じて曲を奏でた。月の光の清らなるを、夜の静寂の妙なるを、古の名曲に託してうたう。聴くものもない瓦礫の山に、弦の響きが水面の波紋のようにそっと行き渡る。
 七弦の琴は賢者の楽器、聖王の楽器である。この琴は特に出色の名器であったのが、長く人間たちに伝えられ、文人の窓辺に陽と月の光の精気をいっぱいに浴びて、健やかに育った五爪の龍の幼生だった。幼生、かつ天犬という不純物混じりとはいえ、龍の力は強大だ。音の届いたところから、月の精気で浄められていく。
 しかし琴には、そんな小難しいことはわからない。琴は楽器だから、うつくしいものをうつくしいと嘉し、うつくしくないものもうつくしく純化するだけだ。今は月がうつくしいから、そのうつくしさを弦の限りに奏でるだけだった。
 長い曲が終わり、庭跡にしじまが戻る。

 ――――だれもひいてくれない。だれもきいてくれない。

 琴を満たしたのは名曲を音で満たした喜びではなく、無性の哀しさだった。尨犬の首を垂れてしゅんとする。この哀しさをおしまいにするには、やはり次の人間が必要だ。気を取り直して街道へ向かおうとした琴の耳に、聞こえるはずのないものが聞こえた。
 拍手だった。
 琴は跳ねるようにして拍手がした方へ向き直る。全身に畏れと恐れが走った。ただならぬ妖気。見れば月下、廃墟の庭園を背にして、男が立っていた。月光を凝らせたよりもなお眩い白金の髪が、夜風に揺れている。拍手を終えた男は、一歩、また、一歩と歩み寄ってくる。琴は恐ろしくて尨犬の耳を伏せた。
 男の表情は穏やかだったが、夜闇にあっても、緋、とわかる神炎の眼に情は見えない。かつ、男の、刺青が奔る右手には抜身の――火精の妖力と金精の霊力が溢れ出る、神の首も妖の頭も跳ね落とす、抜身の名刀が握られていた。

「すばらしい音色だった」

 称賛する声もまた穏やかで、音への感性に富む琴をして、美音、と思わしめるものだったが、続いた言葉は剣呑だった。

「――ところで、その家を焼いたのは、お前か?」

 とうとう人肉の味を覚えたか、と。
 琴の身を悪寒が走る。咄嗟、初撃から逃れられたのは曲がりなりにもさすがは龍の幼生というべきか。思うより先に琴の蜥蜴の足は転がるようにして動き、身を僅かばかり横へ動かした。それが生死を分けた。
 琴の喉の奥の弦が、曲にもならない悲鳴を掻き鳴らす。今しがたまで琴が立っていた空間が『裂けていた』。裂けた空間は見る間に修復されて消えるが、その地点の草も瓦礫もすっぽりと消え失せていた。
 びゃん! でたらめに喉の奥の弦を強くはじいて悲鳴を上げると、琴は転がり躓き、瓦礫の隙間に身を隠す場所を探そうとした。
 必死で駆け回って逃げ場を探す。

「さすがは五爪の龍の幼生といったところか。その幼さですでに術を使うとは」

 思ったより近くから声がしたと思うと、すぐ隣がやはり空間ごと焦げた。尨犬の毛も何本かちりちりと焦げた。火が起こったことすら琴には知覚できない。焦げ終えた、という時点からのみ捉え得た。
 なぜ襲われたのか、琴にはわからない。

「……妖精に成って、本当に間がないようだな。幼い物を痛めつける趣味はないのだが」

 わけのわからないことを言う男が恐ろしくて恐ろしくてならなかった。
 琴は楽器だ。音を鳴らすために人の世に造り出された。攻撃に対し攻撃で返すなどという作法は知らない。攻撃を防いで身を守るという作法も知らない。知っているのは曲を奏でることだけだった。人間だって、うつくしい音を慰めにしたり、うつくしい音で気を鎮めたりということがあった。
 どうか気を鎮めてほしい、害を加えないでほしい、もし身を損ねてしまえばもう二度と人間たちから見向きもされず弾いてももらえなくなる。そう願って喉の奥の弦を振り絞り、赤子が寝てしまうようなやさしい曲を選んでいっぱいいっぱいに奏で続けたが、追撃は止まなかった。
 それどころか、琴が出す音を頼りに、男――仙界から龍宿しの琴の化け物を始末せよと命じられて人界に降りた大妖の仙、山鳥毛は攻撃の焦点を絞ってくる。五爪の龍の幼生、そのうえ天犬まで混ざっているだけあり、琴の妖精は無意識にか術を使っていた。その身の在り処を陽炎で歪めて攻撃を避けている。
 通常、ありえないことだった。妖精というのは術を使うどころか、魔性を帯びて意思をもった己の身を知覚し制御するだけで手一杯のはずで、術を使うほどの力をもった物などまずいない。妖精のうちから術を使う妖は、後は必ず大妖に成った。かつての山鳥毛のように。
 この琴は陽炎を用いたから、おそらく火精。
 山鳥毛のなかに、やはり厄介だ、という思いが浮かぶ。火精の龍、則ち赤龍は、龍の多くのように水を司りはしない。赤龍が喚ぶのは、干魃だ。日照りを招き人間を飢えさせる。しかも最高位の五爪ときた。そこにどのような術がなされたか、戦乱を喚ぶ赤い凶獣、天犬が混ぜられている。もしこの琴を人界に放置すれば、必ずや戦乱と干魃とで人と妖の理を乱す。
 陽炎は位置を錯覚させるだけで、実際の場所を分散させるほどのものではないと、すぐさま山鳥毛は見抜く。尨犬のような蜥蜴のような体の喉から絶えず琴曲が聞こえているから、音を頼りにその喉を狙えばよい。あるいはその琴曲が罠か術かという可能性も考えないではなかったが、短い足で必死に逃げ回る、子犬のような子蜥蜴のような姿を見ると、そんな余力や知恵があるとは思えない。七弦の琴の妖精は賢人、哲人のようにふるまう物が多いなかで、どうやらこれは例外であるらしい。

(龍としても琴としても、あまり賢くない個体のようだ)

 手応えのなさに鼻白みかけるが、つとめを思って気を取り直す。「今」だから、幼生を相手にしているから、そんなことを思えるのだ、これが長じて牙を剥けば山鳥毛とて無傷では済まない凶獣になる。

 ――――必ずや、今夜、幼生のうちに仕留めよう。

 琴は必死に逃げ回る。やさしい曲で慰められないなら、詩人が慷慨する叫びに、あるいは静まり返った天地のひろがりに安らぐのかもしれないと思って、ひとくさり鳴らしては曲を変え、一節奏でては調べを変えて、男を鎮めようとしたがうまくいかない。
 ついには逃げ場を失って、行き止まりを背にして山鳥毛と向き合うことになった。もう一度、と、やわらかに喉の奥の弦を鳴らすが、返答はしたたかな打撃によってなされた。顎を蹴り上げられたのだ。山鳥毛としては、追い詰められた龍が音に呪を込めることを警戒しての当然の措置だったが、琴からすれば溜まったものではない。小さな幼い妖精は、ぽん、と毬よりも軽く宙へ跳ね上げられて、地面へ叩きつけられた。喉の奥の弦がかろうじて切れていないことだけが幸いだった。

(きいて、おとを、きいて)

 蜥蜴の四肢になけなしの力を込めて立ち上がる。

(こわくないよ、おとを、きいて)

 尨犬の首を必死にめぐらして山鳥毛を見上げ、再度喉の奥の弦を鳴らそうとすると、山鳥毛はゆっくりと持っていた刀を振り上げるところだった。その緋色の眼、あの日、琴の所有者をその向こう側へ隠してしまった炎よりもなお緋いその眼を見て、琴は山鳥毛に、おとを聴く気が一切ないことを悟った。
 刹那、琴を満たしたのは、赫々たる憤怒だった。ただ、楽器として道具として、当然の在り方をしたいだけ、人の手に在り、人の手で使われていたいだけ、楽器としての幸福のなかにいたいだけ、それだけしか望まぬ己に、あなたはいったい、何をするのかと。
 四肢にも尾にも力を込めて、地を踏み、天を仰ぎ、喉をそらして、琴は己の望みと悲しみを弦の限りにぶちまけた。
 古い、古いうただ。語句の意味なんか琴は知らない。ただこの曲のこころは、熱烈な求めうた、狂うほどに己の片割れを求めるうただということだけは識っていた。
 琴は楽器だ、楽器は人に使われて音を生むものだ、楽器だけでは完全ではない。楽器は弾き手を必要とする。弾き手という片割れを得てやっと、琴は琴として、世に在ることができる。琴は片割れが欲しかった、弾き手が恋しかった。得られぬならばこの身など滅びよ、そう思うだけなのに、あなたはなぜ、と、琴曲の調べに託して弦を極め音の限りに弾ききった。
 本来ならば余韻をもって迎えるべき曲の終わりまで、叩きつけるようにして喉の奥の弦を掻き鳴らしきって、そうしてやっと琴は、山鳥毛が刀をおろし、何とも言えない表情で琴を見ていることに――――琴のおとをきいたことに気づいた。

「お前は、」

 躊躇うように山鳥毛が口を開く。

「……君は、今の曲の意味を知っているのか?」

 琴は尨犬の首を傾げる。歌詞の意味など知らないが、曲のこころはよくよく識っている。あの曲の名は鳳求凰。唯一の片割れを求めてやまぬという強い強い想いのうただ。子犬のような琴の仕草に、山鳥毛は毒気を抜かれた。

「そうだな、君は楽器だから、人間とは求めるものが違うのか」

 琴には山鳥毛が刀を下ろした理由はわからない。ただ、今の曲は聴こえていたということだけを理解した。

(いまのがすきなきょくだった?)

 それなら、済まないことをしたと思う。本当はあんな、音で殴るような弾き方はしない曲なのだ。もっと、切々とうたいあげる曲なのだ。改めて、と、琴は喉の奥の弦を鳴らす。
 再度の曲の終わりに、山鳥毛は諦めたように刀を鞘に納めた。この幼い琴が、弾き手を、人間を求めてうたう物が、人間を害するとは到底思えなかった。

「すまない。琴違い……というのかな、別の物と間違えたようだ。痛めつけてしまって、本当に悪いことをした」

 頭を下げて詫びる。彼はその格に伴った気位の高さは持ち合わせていたが、己の非を認められぬような小物ではなかった。琴は、やはり難しいことはわからない――妖精として目覚めたばかりの身には、複雑な思考能力は備わっていないのだ――が、もう山鳥毛が己を害さないことだけはわかった。

(厄介なことになった……)

 山鳥毛は思う。この琴が今回の化け物でないとすると、この近辺にもう一体も、龍宿しの琴、天犬混じりの五爪の龍などという稀なるものが存在し、人間を襲っていることになる。そんなものが複数体も同じところにいるはずがないから、やはり何者かが恣意的に混ざりモノを造っていると考えるべきだろう。あるいはこの琴が何か知らないかとも思ったが、どうやら未だ人語を話せないようで、琴の喉からは、ぽろろん、ぽろろん、と弦の音がするだけだった。
 無論、この琴とて天犬混じりの五爪の龍などという特大の危険物に変わりはないから、仙界へ持ち帰って妖精の教導に長けた妖仙を選別し、しかるべき者に琴を託さねばならない。龍を殺し背後を潰すだけの仕事のはずが、手間が増えてしまった。
 ふう、と気怠く息をついた山鳥毛を琴はじっと見上げる。
 山鳥毛は力のある妖仙。人変の術は息をするよりも自然に、完璧にこなしていたから、人間に酷似した姿をしている。人間と変わるところはどこにもない。しかしその身のうちには、とてつもないモノが渦巻いているようだった。
 琴は思う。「これ」は、人間ではない。己の弾き手にはなってくれない。
 そう思うのだが、やはり琴は山鳥毛を見てしまう。
 ……人間のような頭と目玉がある、つまりは琴譜を理解できる。
 人間のような耳がある、つまりは琴の音を聴きわけることができる。
 人間のような、手指がある――――つまりは、琴を弾くことができる。
 「これ」は、人間ではない。どう見てももっとおそろしい何かだ。それは琴にも解る。けれど、琴は、もう耐えられないほどに、己を爪弾く指に飢えていた。
 何かを考え込んでいる山鳥毛の気を引こうと、控えめに喉の奥の弦を鳴らす。

(これ、さっきの。このおと、すき?)

 好きなはずだ、だってこの曲を聴いて刀を納めてくれたのだから。
 琴は楽器だ。人間のために人間に作り出された。しかし今は、人間でなくてもよかった。おそろしい何かでもよかった。この身を楽器として扱ってくれるのであれば、誰何者であってもよかった。

(このきょく、すき? ひく?)

 誘いかけるように、鳳求凰の曲の弾きはじめの部分を、ゆるやかに繰り返した。
 この曲の運指の詳細を知らなくてもよかった。琴を膝に置いて、指を添えて、知っている部分だけなぞってくれるだけでよかった……山鳥毛が七弦の琴の扱いを知らないかもしれないという不安は、琴のなかに欠片もなかった。

 このひとは、ひける。

 器物としての本能だった。
 琴の誘いかけを理解したのか、山鳥毛は琴を見下ろして、やわらかく苦笑いした。遊び好きの子犬を見る目だった。彼は近くの瓦礫に腰を下ろすと、琴を招いた。

「来なさい」

 膝をぽん、と、ひと叩きして呼ばれたから、琴はすぐさま山鳥毛の意を理解した。喜び勇んで、蜥蜴の足でころころと転がるように駆け参じて、土まみれの足でその膝によじ登る。山鳥毛の同門の妖怪仙人ら、特に彼が「我が翼」と倚みにする日光がみれば、「この駄犬!」とでも声も目も鋭くして叱り飛ばし琴を山鳥毛から引き離しただろうが、幸いにしてここには彼と琴のほか誰もいない。
 短い四肢でどうにかこうにかよじ登ろうとしていると、くすくすと笑みが聞こえて、琴の両の前足と胴との間に手が伸ばされて、ひょいと抱えあげられる。そうして膝に置いて貰えたので、琴はうれしくて、うれしくて、本性たる名琴に転じて身を差し出した。山鳥毛の膝の上に、梧桐に漆を施した、完美な七絃の琴が現れた。古い、古い、しかしどこも損なわれたところのない美しい琴で、古びているがゆえに漆は表面に龍の鱗のような断を描いている。それがまたうつくしい。

(わたしをひいて)

 琴はそれだけ願って再度、誘いかけに弦を鳴らす。山鳥毛の指が降りてきて、誘いの音をなぞり、そして超えていく。曲の先へ、こころの奥へ。弦が鳴る。音の高きも低きも、曲に備わった求愛も嘆きも、すべて弾き手のおもうがままだった。弦が鳴る。琴は弾かれている。己で鳴らすのでなくて、弾き手に奏でられている。
 琴は幸福だった。

(わたし、ひかれてる! わたしから、おとがする!)

 琴は楽器だ、己で己を鳴らすのでなくて、弾き手に奏でてもらうのが器物としての正しい在り方だ。その在り方を、精緻な動きで、山鳥毛の指が満たしていく。琴の本能は正しかった。彼は七弦の琴の奏法に、非常に長けていた。
 うっとりと山鳥毛の指に身を任せて、琴は、弦の限りを捧げて鳴った。本体の裏の共鳴孔、竜池も鳳沼も存分に震わせて、弾き手が望む限りの響きを献じた。

 しあわせ。

 琴は器物としての幸福、久方ぶりに果たした己の本分を噛み締めていた。
 器物としての役を果たして満たされる。これほどの幸福がほかにあるとは思えない。山鳥毛の手に身を任せて奏でられていた琴だったが、最終音が空に消えて曲が終わると、春の夢に冷水を浴びせ目覚めさせられたような心地がした。これでおしまい? これで足りるわけがない。
 山鳥毛が琴から手を離さぬうちに、ねだるようにして次の曲を誘いかける。今度はもっと長い大曲で誘った。山鳥毛は戸惑ったようだが、琴が何度も何度も、ひいて、と誘いかけると、仕方無しと弦をはじいて誘いに応じた。この曲も美事に弾き切られた。
 月明かりの下で、琴はあれも、これもと曲をねだった。思いつくかぎり、秘曲も、小品も、永く人の世に在って気に入った曲を片っ端からねだった。琴からすれば不思議なことに、あるいは、おそろしいことに、山鳥毛はそれらの曲をみな知っていて、よく弾きこなして琴を喜ばせた。
 山鳥毛は琴などとは比較にならぬ永い永い時を人界と仙界で過ごした大妖の仙である。当然、琴よりも多くを知って身につけていた。場の流れで弾いてやったにすぎないものを、これほど求められるとは思わず少々呆れる。と同時に、欲張って曲を求める琴が腹を空かせて餌を求める鳥の雛に見えて、知らず笑みを浮かべていた。
 夜が白み始めたころになってやっと、龍の雛のねだり鳴きは終わった。思う存分弾かれて、まるで腹がくちくなった子犬のように、琴はとろとろと眠くなる。このまま弾き手の膝の上で眠ってしまいたいが、そうしたらやっと見つけた弾き手は琴を置いていってしまうかもしれない。
 これほどの巧者を琴は知らない。人間ではないが、すばらしい弾き手には違いない。やっと見つけた弾き手に置いていかれてはたまらないので、まどろむ意識に鞭打って、動く体に転じようとした。動く体には爪があるから、それでしがみついてしまえば置いていかれないと思ったのだ。もう二度と、弾き手をなくしたくなかった。置いて行かれるのは嫌だった。

「琴のままでいなさい」

 しかし上から声が降る。夜のうちに聞いたどの声よりも、ずっとやわい声だった。

「もう日が昇る。琴のまま、眠りなさい」

 山鳥毛がそう言って琴の琴額をいたわるように撫でるものだから、琴はとろとろと眠りに落ちてしまった。琴は本体を守るためにいつも動く体で眠っていたが、本当は、動く体の形のままで朝を迎えると消耗が激しいのだ。
 日が昇りきるよりまえに琴の妖精が眠りについたのを確認して、山鳥毛は安堵の息をつく。普通の妖精は、人界では日のあるうちは妖精体を保てないので原型になって身を保つのだ……『普通』の妖精は。それを日の出目前にして変化しようなどとするので、少しだけひやりとした。そんなことをすれば琴が弱ってしまうと思ったのだ。
 そして、琴がなぜそんなことをしようとしたのかに思いを致し、何とも言えない気分になる。膝に載せ、指で奏でた山鳥毛にはわかる、この琴は、類稀なる名品だった。人間どもがあたら捨て置くとは思えないのに、こんなところで弾き手に飢えていた。
 おそらくはあの草庵の焼跡と関わりがあるのだろうと考えながら、撫でていた琴額から手をどける。琴額に象嵌された白蝶貝の鳥花文様が目についた。弾いている最中も気になってはいたのだ。箏などのほかの楽器と違い、通常、琴は華美な装飾をされることはない。
 楽器でありながら、哲学と修身の道具とされてきた長い歴史によるものだ。なのにこの名琴には、珍しいことに白蝶貝の象嵌などが施されている。しげしげと見遣り、指でもなぞって、山鳥毛は微小な違和感を覚えた。気をつけて再度なぞると、象嵌がただの飾りではないことを知る。傷隠しだった。
 琴の構造は極めて単純だ。単純だからこそ、少しの歪みがすべての音を歪ませる。飾りを何も考えずに象嵌すればどれほど歪むかわからない。それを、琴額から糸穴すれすれに走った致命傷ともいうべき傷を、名のある工人が慎重に繕った跡がこの鳥花だった。
 長く大切にされてきた古い器物には、こうした人から愛された証が残っていることがある。一度損なわれかけたものをここまでして活かし残すとは随分な愛着だ。感心して山鳥毛は、妖仙が妖精にするにはかなり不躾なことであったが、そっと琴を裏返して検める。
 早朝の薄明のなか、よくよく目を凝らすと、琴の裏面にも、目立たぬよう音を損なわぬよう、歴代の持ち主たちが苦心して修繕と保存につとめた痕跡がいくつも見受けられた。名琴を世に残すためだけに手を加えたか、とも思ったが、先程ねだり鳴りをした琴は名うての名手たちに長く長く弾き込まれてきたような奏でぶりだった。
 あの鳴り方とこれらの痕跡で、人間がこの琴を楽器として使い込み、愛し、守ってきたことがよくわかった。器物冥利につきることだな、と独り言ちた山鳥毛は、ふと、琴の裏面の端に、何やら紙片が貼り付いているのをみとめる。糊で貼り付けられたのではなく、濡れた紙がひっついたのが乾いただけのもののようで、山鳥毛が触れるとすぐに取れた。
 文字がいくらか読み取れる。

「……山海経?」

 断片的な内容から、人間たちが霊獣神獣や化け物についてまとめた書物と判断する。濡れ紙を貼り付けていたからか、琴の裏面に墨が移ってしまっていた。これほどの名器に、痛ましい。そう思って胸元から手巾を出し、琴を拭ってやろうとした山鳥毛は、はっとした。
 琴に墨を移してしまった、その頁は。

 ――――山海経、大荒西経。有赤犬、名曰天犬。其所下者有兵。

 山鳥毛はこの琴の妖精の胴が、なぜ天犬なのかを知った。驚きのまま、山鳥毛は琴を抱えて草庵の焼跡を巡る。干上がった池。外に積まれた希少な琴譜。……書斎跡らしき場所の、人間の焼死体。
 山鳥毛は腕の中の琴を驚嘆の目で見る。

「ここまで人に愛されたか――」

 按ずるに、何が火元かはわからないが、ここで火事があった。そこで琴の所有者は琴と琴譜を火から守ろうと外に出したのだろう。そのとき、特にこの琴だけは傷も汚れもつけまいと、書斎の書籍を破いて紙で包み、池に投げ込んだのだ。火も水も楽器にとっては大敵だが、短時間濡れただけなら、琴は蘇る。
 濡れて琴に貼り付いていた紙、天犬の頁は所有者が手を尽くした跡だ。所有者自身で、濡らしてしまった琴の手入れをするつもりであったろう。しかしどうやら、焼け死んでしまったらしい。そこまでして琴を活かそうとしたのだから、器物からすれば、よい所有者といえる。問題は、妖精に成り立ての琴一匹が遺されてしまったこと。
 やっと山鳥毛のなかで糸が通った。

――――天犬混じりの龍が、人間を襲う。
――――人間の膝にとびついて、琴に転じる。人間が逃げれば、追ってはこない。

 妖精に成りたての身で、あるいは火事を契機に妖精に成った身で、身を任せるべき所有者を亡くし、器物の本能のままに次の所有者を求めて彷徨っていたのだろう。
 だが、妖精に変じたばかりで自己を認知できていないから、原型と妖精体が人間にとってどれほどかけ離れているか、想像すらできなかったに違いない。――――琴違いなどではなく、この琴が人間を『襲って』いたのだ。背後も、禁呪の行使も、何もありはしない。ただ、琴を愛した人間と、人間を恋うた琴があっただけだ。
 あまりに御粗末な龍退治の顛末となった。
 溜息をつくようにして、彼は眠る琴に語りかける。

「それほどまでに、人間の手が恋しかったのか」

 山鳥毛にとっては久しく忘れていた情とも、数千年の永きに渡り一睡たりとて忘れたことのない情とも言えた。愚問であろう。器物の妖は、人間に愛され守られたからこそ長く世にあり、妖となったのだ。
 腕の中の琴は、人に愛され、長く愛され、文人たちの書斎で日ごと夜ごとよく弾かれて、すこやかに霊威を宿して妖精に成ったのだ。天犬と混ざってなお、己を襲った相手に攻撃でも呪詛でもなく、おとのうたいかけをするほどに、大切に大切に守られて世に在ったのだ。滅多にある例ではない。
 それほどまでに愛されて…………人間の手が恋しくないわけがない。
 器物の妖として、愚かしく羨ましい限りだった。
 山鳥毛は琴を腕の中でそっと、大事に抱え直した。仙境へ戻り、真君に復命しよう。そして顛末を語り、この龍宿しの琴の妖精、天犬混じりの五爪の龍の幼生を、手元で育てる許可を得ねばならない。
 飢えた琴に弾き手の餌を与えてしまった責任をとるつもりだった。


 ――――刀剣の妖あまた集う金精豊かなあの仙境、なかでもとりわけ険しい一の霊山、さらにそのうちの霊穴通ずる福嶽洞の主、長々しき美名もつ古刀の大妖仙、山鳥毛が弟子を迎えるのはおよそ百年ぶりのこと、刀剣でない弟子を取るのは、実に数千年の間なかったこと……つまりは、彼にとっても初めてのことであった。
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