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ぬいぐるみ相手に大敗北する山鳥毛の話

 ぬくい寝床で、山鳥毛は鳥の声を聞いた。
 温もりの根源は彼の腕を枕に夢の中にいる。山鳥毛が目を覚ましたのは黎明よりも前だったが、どうにもこのぬくもりから離れがたくて、空が白みだした今まで、ずっと動けず見守るままに居た。
 小鳥とのはじめての共寝の翌朝。山鳥毛は審神者の寝顔を、愛しい、別れがたい、いつまでも手元に置きたいと、朝の清々しさには似合わぬ執着でもって眺めていた。見ているだけで可愛くて守りたくて胸が焦げるのに、どうにでもしてやりたくなって喉の奥で黒々と熱いものが煮える。
 つがった雄がどんなモノなのかも知らないで、安穏と微睡みのなかで心地よさそうにたゆたっている雌が、愛しく腹立たしく、堪らず唇を奪いそうになったが踏みとどまる。そんなことをすれば起こしてしまう。眠る小鳥に無体を強いるのは本意ではなかった。昨夜は随分な無理をさせた自覚もあったから。まだまだ己と体温を共にして安らいでいてほしい。
 彼が、もう少しお休み、と額にくちづけたとき、彼女の睫毛が震えて、目が開く。まだ目覚めきっていないぼんやりとした視線がふらふらと彷徨い、しばししてみとめた山鳥毛の貌を見惚れるようにぽやぽやと微笑んだ直後、一気に意識が覚醒したか、何故山鳥毛と一つ寝床で身を休めているかに思い当たった彼女は顔を朱で焼いて布団に隠れようとした。
 それを山鳥毛は、顔を隠すならこちらに、と胸に引き寄せて抱え直す。それさえも小鳥は恥じて身をよじろうとしたが、彼が耳元で、おはよう、と一言囀っただけでもういっぱいいっぱいになってしまったらしく、彼女は恥ずかしさとうれしさに耳まで焼きながら大人しく山鳥毛に身を任せた。身を任せられるという信頼があたたかい。

「おはよう、小鳥」

 再度囀る。返答まで、少しだけの間があった。彼女は目も合わせられぬほどの恥じらいをどうにか制して、腕の中から山鳥毛を見上げてきた。まなざしの温度、恥じらいだけでなく、確かに感じられる、情の温度。触れたわけでもないのにぬくいと確信できるほどのあたたかな幸福で山鳥毛は包まれる。返答の声はおずおずと小さなものだった。

「……おはようございます、山鳥毛さん」

 そのありさまの愛しさに、山鳥毛はやはり喉の奥て昂ぶるものを感じ、自制して小鳥の耳朶をやわく喰むに留めた。起こしてしまったね、よく休めただろうか、体につらいところは。そんな障りのないいたわりの言葉を本心から発しながらも、腹の中にはつがいの雌を我が手に収めたことへの狂暴な歓喜があった。
 小鳥が、だいじょうぶ、へいきです、と、純潔を暴かれて平気なわけがなかろうに健気にも答えて山鳥毛の胸にほほ寄せ甘えてくるものだから、彼は彼女を抱く腕の力を込めすぎないようにするのに苦労した。小鳥の顔も、見たくてならないが、今はまだ見ぬほうがよいと己に命じた。
 見てしまえば、喉の奥の熱、腹の奥の歓喜は、小鳥をけっして幸福にはしないやり方で縛り上げようとするだろうと判っていたからだ。

(この雌は私のつがい)

 彼女に後朝の別れがたさをささやきながらも、彼の心は独り言つ。

(余さず喰らってしまいたい)

 この雌は彼のもの、彼だけのもの。
 もしこのつがいの雌を己から取り上げるものがあったなら、それが彼女自身であったとしても、山鳥毛は決して許せない。必ずや目に物見せてつがいの雌を取り戻し、二度と己から離れぬように小鳥の風切羽を毟ってしまうだろう、小鳥がどれほど苦しんだとしても。
 ……そんな苛烈な執着心を見せてはきっと、小鳥を怯えさせてしまうから、山鳥毛は穏やかな、寛大な、よいつがいの雄と見えるよう、小鳥が安らぎ自ら選ぶ枝であるよう、努力してきた。枝に擬態した、口に入れた小禽を余さず飲み込む白鵜と見破られぬよう、今改めて心するのだった。
 繰り返して小鳥、小鳥、と甘く囁く。囁くたびに頬の朱を深くして、かすかに身を震わせて山鳥毛に縋る彼女がいとおしい。
 やっと手に入れたのだ、やっと、やっとだ。彼は顕現から昨夜でちょうど一年。勝ち取られて、祈られ、喚ばれ、応え、そうして彼は彼女の持ち刀になった。己を喚び従えたおんなあるじの眼を見据えたとき、彼は天啓に撃たれた。この雌こそ我がつがいと思い定めたのである。
 それから彼はよくつとめた。持ち刀として、部下として、十二分によくよくつとめを果たして彼女の目に留まるよう、彼女のつがいとして相応しい雄であると示しながら、彼女に囀り、給餌し、誘惑して、しばらくの月日のうちに彼女と同じ枝に停まる許しを得た。
 それからさらに彼女に示し、誘い、囀り続けて、やっと昨夜、同じ巣に営む許しを得た。やっと、なのだ。丸一年囀り続けて、やっと得た温度ある幸福。己こそがこの雌の唯一無二であるという強烈な自負心を伴う幸福。もう手放せるわけがなかった。彼こそ彼女の唯一のつがいなのだから。
 一年。千年近い星霜を世に過ごした古刀である彼にとっての、最新の一年。……百年よりも永い一年だった。彼は噛みしめる。

「いとしい、いとしい、私の小鳥。君を、『私の』小鳥と呼べる幸福は、なにものにも代えられない」

 しみじみと山鳥毛が言うものだから、彼女は頬の朱を新たにした。
 まだまだ別れがたく、つがいと一つ寝床で温みを分かち合っていたかったが、すでに夜は白んでいる。いつまでも朝寝はしていられない。仕方無しに山鳥毛は身を起こすが、小鳥はやはり疲れと痛みが残っているようで、上体を起こすも覚束ない有様だった。やはり無理をさせてしまった、と、彼は申し訳なく眉尻を下げて見せた。不調の理由が昨夜にあるから、小鳥は不調であることも不調を案じられることも恥ずかしいようで、また布団に隠れてしまおうとする。小鳥にきちんと布団をかけ直して、髪を撫でてやりながら、今日は休んでいなさい、万事こちらで取り図ろう、と請け負う。
 遠慮しようとした小鳥の耳元に、山鳥毛はくすりと笑んで唇寄せ、昨夜明かされた宝物を音にした。

「――――」

 春の夢よりもとろけて甘い一声に彼女の血潮がさざめく。真名だった。昨夜やっと、一年がかりでやっと、彼が得た宝。彼女からの無二の信頼の証。

「休んでいなさい。いいね?」

 言葉を発する口があることも忘れてこくこくと頷く小鳥が可愛くて、山鳥毛は彼女の額にもう一度くちづけた。眠って、身を休めるように、と言い含めて、今度こそ起床する。一番鶏は未だ鳴かずとも、既に薄明の時は過ぎて日が登りかけていた。ぐずぐずと閨に留まっては主君たる彼女に恥をかかせてしまう。
 手早く身支度を整えながら、彼の頭のうちはすらすらと動く。彼女が朝食を私室で取れるように手配すること、本日の仕事のうち彼女の裁可がなければならないものがないか、特に急ぎのものがなかったかを考え、段取りを作っておく。仕事などで彼女の頭を埋められてはたまらなかった。雑事はすべて取り除いてしまいたかった。
 今日の小鳥には、身の疲れと共に、その身を愛したのが誰なのかを感じて、それだけを思っていてほしかった。
 身支度を終えて退出前にもう一度と、彼女を見やると、やはり疲れの色が濃く、起きて山鳥毛を見送ろうとしていることはわかるのだが今にも瞼が落ちそうだった。そんなありさままで可愛らしくて、知らず笑む。
 眠りなさい、小鳥、お休み。声をかけて頬を撫でてやると、彼女は微睡みへ帰っていこうとした。
 しかし長年の――山鳥毛が知りもしなかった――習慣から、彼女は布団から利き手を枕辺へ伸ばした。山鳥毛ははじめ、それを己の手を探してか、それとも審神者なる者のつとめから端末を確認しようとしてか、と思い微笑ましく見ていたのだが、彼女の手は手慣れた様子で、迷いなく、枕辺の一点を目指す。
 彼女が伸ばした手の先にあったのはぬいぐるみだった。古いものなのだろう、雄鶏を模した体はやや白さを失っていたが、経てきたと思われる年月にしては非常に状態よく清潔に保たれていた。ぬいぐるみの胴をそっと掴むと、山鳥毛からすれば信じられないことに、彼女はぬいぐるみを寝床に引き入れた!
 こともあろうにそのままぬいぐるみを両の腕でひしと抱きしめ、ぬいぐるみに頬ずりまでした。昨夜あれほど山鳥毛に縋り付いた腕で、山鳥毛に擦り寄った頬で、だ。加えて、おやすみ、こけこっこ、などと足りぬ舌で紡いでそのまま眠ろうとするものだから、たまらず彼は目を剥いた。

「小鳥!」

 つがいに裏切られた雄の叫び声は悲痛に響いた。信じられない。後朝から不貞、後朝から不貞、後朝からつがいの目の前で不貞だ。しかもかなり手慣れた動きだった。彼は己の目と耳がおかしくなったのかと思った。肉の器が不具合を起こして悪い幻覚でも見ているのかと思った。
 しかし幻覚ではない現実は、彼に大層無情だった。小鳥は山鳥毛の叫びで眠気が少しは飛んだようだが、いまだ眠りとうつつの境目にいて、何故山鳥毛がそんな声を出したのかさっぱりわからぬ様子でとろんとした目をしばたかせた。その細腕には変わらず間男を抱いている。
 山鳥毛も昨夜散々に味わい、独占した、まろく白いもち肌の乳房。古ぼけた雄鶏のぬいぐるみはその谷間に嘴を向け、頭をうずめて、小鳥の胸こそ定位置とばかりに居座っている。驚愕が過ぎたためか、彼と彼女にとって非常に幸福なことに、このとき彼は怒りという情動を発動することを失念していた。
 昨夜から今しがたまで、山鳥毛と小鳥が愛しあい、共に安らぎ共に憩い、共に温めた褥で、その小鳥が己ではない鳥を抱いている――――。頭が真っ白になる、という言葉の意味を山鳥毛は身を以て知った。

「山鳥毛さん……?」

 ぼんやりした小鳥の声に罪悪感はひとかけらも窺えない。
 そのありさまに、彼は、目の前が真っ暗になる、という言葉の意味もまた身を以て知った。裏切られた。一年、百歳(ももとせ)より永い一年、身命を賭して愛し続けた雌に、後朝だというのに目の前で裏切られた。何の罪悪感もなく裏切られて、昨夜山鳥毛の首にすがった腕で未だ知らぬ雄鶏を抱いている。

「それは、何だ」

 なぜ息をしていられるのかもわからないまま、かろうじて山鳥毛は問うた。

「それ……?」
「その布人形だ!」

 縄張りを踏み躙られた山鳥の羽撃ちにも似た切羽詰まった哀しみの声に、ようやく彼女の頭は動いて、ただならぬことをしてしまったと認識し始めた。
 ……眼の前のいとしい男が、人間ではなく器物だ、と、ようやく思い出したのだ。
 彼女はそのまま、ぬいぐるみを投げ捨てて許しを請うべきだった。しかし彼女は、山鳥毛の寛大さを――山鳥毛がこの一年誘導し続けた通りに――誤認していた。話せばわかると、わかり合える事案だと呑気にも考えた。布団からゆるゆると上体を起こして弁明を試みる。

「あの、この子はこけこっこといって、子供のころからの宝物で……すみません、配慮が足りませんでした」
「配慮? 配慮だと!?」

 この子、この子といったか、この雌は! やっと山鳥毛の腸に怒りが帰ってきた。小鳥はぬいぐるみを「この子」と呼び、意識してか無意識にか、意思あるものとして扱い、しかも子供の頃からの、山鳥毛が共有しえぬずっと古くからの小鳥の宝だと言う。何より山鳥毛の腸を焼いたのは「配慮」という一言だった。

「その布人形と睦むのに、私の目を盗む『配慮』が必要だったと、そういう意味か?」

 布人形と睦むのはやめるつもりはないと宣言されたも同義だった。
 やっと彼女は失言を悟った。

「すみません、そういう意味では、」
「ではどういう意味だ! 私と睦んだ翌朝に、私と睦んだ寝床に、私ではない鳥を招き入れて! どういう意味だったと?」
「……子供の頃からの、習慣で、」
「習慣?」
「……おやすみと、おはようは、」

 ここで彼女は言葉を選んだ。

「こけこっこにも言う習慣が……」

 隠し立てせず言うならば、彼女の習慣とは、目覚めと寝入りのときにぬいぐるみを抱きしめ、頬ずりし、「おはよう」あるいは「お休み」と言ってから「こけこっこ、大好きだよ」とキスするというものだ。
 ただ今朝は、いとしい男に大切に愛された歓びから、昨夜くちづけで与えられたしあわせを身のうちだけにしまってしまいたくて、誰にも分け与えたくなくて、意識しないうちにぬいぐるみへの習慣のキスを忘れさせられていたのである。しかしそんなことは山鳥毛の知るところではない。

「習慣。なるほど、習慣」

 つまりは、山鳥毛がいようがいまいが小鳥の血肉に染み付いた動き、意識に刷り込まれた動きが、今尚続いている不貞行為ということだ。山鳥毛の怒りはまだ激しく煮えているが、熱すぎる火は青く見える。怒気は消えていないが小鳥には山鳥毛が一先ず落ち着いたように見えた。

「そうなんです、習慣で、朝と夜は、こけこっこと一緒に……他意はなかったんです、何か考えたわけではなくて、本当に習慣で」
「私は習慣によって、何も考えないままに、つがった雌に裏切られたと?」

 失言を重ねていることを小鳥は自覚しない。

「……裏切ったつもりは。ただのぬいぐるみですよ?」

 なんとも軽い一言に、今度こそ山鳥毛の全身の血が煮えた。赫々たる怒気のままに腕を伸ばしてつがいの胸を占領する憎い雄鶏を力尽くで奪い取る。その手に走る刺青は、鋼鍛う炉の火から与えられた何よりも清浄な神炎を映したはずのその刺青は、汚れきった血のごとく赤黒く彼の肌で蠢いていた。
 ただならぬ怒りを感じていたのに、彼女は愚かにも無神経にも、いまだ山鳥毛は寛大な刀だと信じ込んだままでいた。

「何をするんですか!」

 手を伸ばして取り戻そうとする、その動きがより深く山鳥毛の心臓に哀しみを植え付ける。

「返してください」
「断る」

 さきほどまで、彼女は布団から身を起こすのもつらそうであったのに、今は山鳥毛から宝物を取り戻そうと手を伸ばし、山鳥毛の手のうちのぬいぐるみばかりを見ている。昨夜は己だけに向けられていた彼女の目が、己でない雄鳥へ向けられている。我慢ならなかった。

「それほど大切なのか? こんな布人形が」

 問う声には棘だけが乗った。平素の、彼が彼女にかける声の甘さも慈しみも、欠片もない。

「大切です、こーちゃんは私の宝物です!」
「…………こーちゃん………………?」
「そのぬいぐるみの愛称です、名前がこけこっこだから、こーちゃん」

 審神者の無邪気な言葉に、思わず山鳥毛は息を呑んだ。彼は千年近い星霜を世に在った付喪神であるが、本性は器物である。器物は通常、刀、だの、鞘、だの、器物の種類を以て呼称される。それを、所有者から与えられた固有の名で呼ばれるというのは愛着の証。ただ銘打った(なづけた)だけでなく、号(あいしょう)まで与えたとなれば、器物はそこに、所有者からのひとかたならぬ寵愛と情を見るのだ。
 つまり、この布人形は――――。
 それでもまだ山鳥毛は彼女と会話を続けるために、喉から絞り出される声の調子がただの火炎にならぬよう、彼女に届く人語であるよう、制御しようと試みた。己こそは彼女に愛されたつがいだとの自負のゆえだった。

「名前と愛称は、君が?」
「子供の頃につけました。宝物なんです、返してください!」
「宝物……」
「こーちゃんがいないと、私、眠れないんです、お願いです、返してください」
「なるほど……」

 山鳥毛の血は怒りに、心臓は哀しみに、煮え、震え、揺れながら、気付けば彼の声は平坦なものになっていた……許せる上限を遥かに超えてしまっていたからだ。

「これが『いない』と眠れない、か」

 唇が皮肉げに吊り上がる。

「つまり毎晩、君はこの布人形と?」

 山鳥毛は器物である。枕元に置かれただけならまだ見逃すが、腕に抱いて毎夜寝ていたとあっては、それがただのぬいぐるみ、ただの幼児期からの習慣といっても、見逃すことはできない。
 しまった、と表情を変えた小鳥に、山鳥毛は嗜虐心を抑えるだけで必死だった。

「……随分と、深い寵を受けているようだな、この布切れは……!」

 布と綿だけでできたぬいぐるみの柔い胴に彼の爪が立てられ指が食い込む。

 ――――布人形、ではなく、布切れ、と、彼は言った。

 その意図を正確に察した彼女は震え上がった。

「ごめんなさい、やめて、こーちゃんにひどいことしないでください、もう二度としませんから、こーちゃんを返し「誰が返すものか!八つ裂きにしたとて足りるものか!!」

 彼女の願いを最後まで聞くことすらせずに彼は叫んだ。言葉の荒々しさとは裏腹に、その響きは哀切を極めていた。山鳥毛の声の哀しみに、思わず、小鳥は伸ばしていた手を引っ込める。山鳥毛の左目の下の、赤黒く染まった刺青が、なぜだか涙に見えた。血の涙に見えた。

「宝物といったな、小鳥。この布切れは、私よりも大切な宝なのか?」

 天下に一との矜持を以て、一の文字を銘に背負う一派、一文字。そのなかでも随一無二の名刀、世に比類なき宝の中の宝、上杉家に於いても軍神の手により選ばれた三十五腰の筆頭にも数えられた刀、刃紋の美を山鳥の毛に、燃える夕陽に、焼き尽くされる山にたとえられた至宝、無銘一文字号山鳥毛。
 その己よりも。この一年、小鳥に誰よりも近く仕えた部下、小鳥のための持ち刀、小鳥だけに声を尽くして囀り続けた一羽の雄、そんな己よりも。

「……この布切れが、君の宝なのか?」

 一家の長として泰然と振る舞うことの多い彼からは想像もできない、弱りきった、寄る辺ない声だった。

「私ではなく、この布切れが?」

 答えてくれと迫りながら、まるで、答えないでくれと言うような声で求められて、彼女は首を強く横に振った。
 ……そして、人間としての感覚のままに、さらなる下手を打った。貴方だけが宝という模範解答は、彼女のうちにはなかったのである。

「山鳥毛さんは私の大切なひと、こけこっこはただのぬいぐるみです」

 その一言で、人間としては、山鳥毛とぬいぐるみでは比較の対象にすらならず、山鳥毛こそが愛しいのだと意思を示したつもりだった。
 ……山鳥毛には、それは人間によくある、あの宝もこの宝も手元に置きたいという、強欲の表明として届いた。彼の炎色の眼から、生気が消えていく。己こそは小鳥の唯一無二。己こそは小鳥のつがい。つい先程まで彼を満たしていた自負と歓びは、これ以上ないほどに損なわれていた。
 ふと、彼はぬいぐるみに視線を落とす。古びて、使い古された、量産品の、どこにでもある何の価値も感じられない、安物のぬいぐるみだ。それを大切に大切に手入れをし続けて、彼女は手元に置いてきたのだと、この布人形こそが、取り上げられれば手を伸ばして取り戻そうとするほどの、彼女の宝物なのだと。
 これと比べられることすらなく敗れた我が身の虚しさを思うと同時に、山鳥毛の目は、ぬいぐるみの足裏に何があるのかを捉えてしまった。……ひらがなで、数文字。刺繍がある。山鳥毛は、なぜこのぬいぐるみが、刀剣の出入りを固く禁じた審神者の私室で秘蔵されていたのかを知った。

(これは……)

 昨夜、彼が一年愛を囀ってやっとの昨夜、彼女から許された、たった一つの名前だった。
 名はこけこっこ、愛称はこーちゃん。名も呼び名も彼女から授けられ、山鳥毛が共にできなかった長い年月を彼女の腕の中で過ごしただけでなく、その足裏に、所有の証として、彼女の真名が刺繍されている、雄鶏のぬいぐるみ。
 山鳥毛が何を見たのか察した彼女は、言い訳のように呟いた。

「……こけこっこを買ってくれたのは両親なんですが、私のだとわかるようにって、祖母が刺繍を……」

 山鳥毛は、嘆き、嗤った。彼は、唯一でも、無二でも、なかったのである。ぬいぐるみの布地を傷めるほどに強く握り締めていた指から、静かに力が失われていくのを、彼は他刃ごとのように感じていた。
 山鳥毛は彼女の両親を知らない。彼女の祖母が山鳥毛の顕現より前に亡くなったことだけは知っている。このぬいぐるみは、彼女の両親に我が子の友たれと願われて買い求められ、彼女の祖母に我が孫と共にあれと祈られて名を刻まれている。年月も、在り方も、彼女との関わりも、山鳥毛とは異なっていた。
 山鳥毛は己の刀身、国の宝と誉れ高き刀を思い、手の内の薄汚い古ぼけた布切れに綿を詰めただけの玩具と比べ…………最初から、比べるまでもなく、勝敗がついていたことを知った。小鳥の父母と祖母が認めた相手、小鳥自ら名を与え、小鳥の真名を刻まれ、夜毎小鳥の腕にあって小鳥を寝かし付けてきた物。
 彼は、我が身の分を思い知った。たった一年、何も知らずに彼女の傍らで囀ることしかできなかった我が身と、己が一年囀ってやっと許されたものを最初からすべて与えられている布人形の違いを思い知った。

 ――――勝てるはずがなかった。

 泣けなかった、のは、最後の矜持であろう。
 力ない腕は愛想のない動きで、彼女に宝物を返していた。彼女は恐る恐るといった様子で礼を言い、受け取ったぬいぐるみをいつもの癖で腕に抱こうとして、はっとした様子で腕には抱かず、枕辺の所定位置に安置した。そんな動きを、山鳥毛は見るともなく見ていた。

「小鳥」

 意図せずして縋る声が出る。
 少し前まで己の腕の中にいた雌が、夜を分かち合って情をひとつにしたはずのつがいが、もう触れられないほど遠かった。
 器物として、彼は思い知っていた。布人形はまだ付喪神ではない。しかし長く長く彼女に愛されてきた。彼女の短い生のほとんどの夜を、この布人形は与えられてきた。分をわきまえるべきは布人形ではなく己だと。
 己は、この薄汚い古びた布切れの目溢しあって彼女に触れる僥倖を得ただけの、宝ではない、彼女の唯一でも無二でもない、間男にすぎぬのだと。彼は砂の味を噛み締めた。

「私との一年は……君にとって……」

 戯れだったのだな、と。
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