小鳥にネクタイを結んでほしい山鳥毛の話
この本丸には、出陣前の儀式がある。
儀式と言ってもそう大したものではない。負けるな、折れるな、生きて帰れという訓示とともに、主に見送られるというだけのことだ。しかし、一部の短刀など――正確には、『儀式』を恥ずかしがらない刀――はこのとき、彼らの主から『儀式』を受ける。
玉の緒を結ばれるのである。
もともとは数年前、顕現して日が浅かった五虎退がネクタイをうまく結べず歪んだまま出陣しようとしたのを、審神者が結びなおしてやったことにはじまる。今では粟田口の短刀はこの本丸に多く顕現し、互いに結び合うなどして身だしなみを整えるから、ネクタイを結べなくて困る、ということはない。けれどあのころ――本丸に、歌仙兼定と五虎退と愛染国俊、それから同田貫正国しかいなかった駆け出しのころ――はそうもいかなかった。
慣れぬ肉体でうまくできず、他にネクタイの結び方を知っている刀もおらず、五虎退は泣きそうな顔で門の前にやってきた。それをどうにか慰めたくて、審神者は、無事に帰ってこられるおまじないだとネクタイを結びなおしてやった。本当は彼女も、ひとのネクタイを結ぶなどという経験はこのときがはじめてで、完全無欠の美しい仕上がりとはいかなかったのだが、心を込めて結んだ。
結ぶ、という行為は呪(しゅ)である。
モノとモノとをつなぎ合わせて、離れぬようにという祈りである。
どうかこのちいさな神様が、折れずに生きて帰ってこられますようにと、玉の緒がほどけぬようにと、審神者は祈りながらネクタイを結んだ。
それを愛染がうらやましがったので、愛染には刀の下緒を、同田貫には肩甲の総角結びを、歌仙には首の飾り紐を、それぞれ結びなおしてやって、それぞれに、生きて帰ってきてほしいと願って、審神者は彼らを戦場へ送り出した。
以来、出陣前は、審神者に何かを結んでもらうのが、この本丸の倣いとなった。
-------------
門の前。今朝の第一部隊の出陣予定時刻にも第二から第四部隊の遠征出発時刻にもまだ間があったが、すでに審神者の前に短刀らが列を成している。
予定時刻になってしまえば結ぶ結ばぬと言っていられなくなるので、刀の数が増えた現在では『儀式』は早い者勝ちであった。となると、身の大きな物たちは小さな物たちに遠慮したり、自分で結べるものを主にしていただくのはと照れたりして、なかなか列には並ばない。畢竟、短刀ばかりが列をつくる。短刀以外で一切遠慮せず堂々と並ぶのは歌仙と同田貫くらいなものであった。
いま、列に並んでいるのは粟田口の短刀たち数振りと、謙信景光だ。謙信は我慢しようとしていたのを、五虎退に手を引かれて列に並んでいる。
審神者が、母か姉かのように、短刀たちに声をかけ、ネクタイを結び、祈りを告げる。『儀式』をしている。
それを第一部隊隊長である山鳥毛は、同じく第一部隊の小豆長光とやや離れた位置から眺めていた。
「きみもしてもらってきてはどうかな?」
そう言う小豆長光の声には、やや面白がるふうがあった。視線の先ではちょうど、ネクタイを結ばれ終えた乱藤四郎が審神者の胸にうれしそうに抱き着いて、頭を撫でてもらっていた。結んだあとに抱擁を求める短刀は多い。
山鳥毛は審神者のその様子から目を離せないながらも、直視はしがたくて、色硝子がきちっと審神者と彼との間を遮るように掛けなおしながら、応えた。
「まさか。私はネクタイくらい、自分で結べる」
「そのわりにはずいぶんとものほしそうなめで、かのじょをみているじゃないか」
くすくすと人のいい顔で小豆は笑うが、笑われた山鳥毛は気分のいいものではない。この古なじみは山鳥毛の心のうちを、審神者に向けるなまざしの色を察したうえで、背を押すとも押さぬとも判別のつかぬからかいをかけているのだった。
「……、…………」
小豆に何か言い返したかったが、巧い切り返しが見つからない。ここしばらく、審神者がかかわることとなると、山鳥毛の舌は恥じらいによって格段に鈍る。
彼が審神者に向けている情が、ただの幼く小さいものへの庇護欲だと思っていたものが、どうにもそうではないと気づいてしまったあの瞬間から、山鳥毛はうまくさえずれなくなってしまった。
意識する前は審神者に手ずから給餌することも、彼女の濡れ羽の髪を羽繕いしてやることも、息をするようにできていたのに、今では触れるのにも声をかけるのにも気力を必要とした。会話中に小鳥の眼を見ることすら激減したように思う。
以前は、小鳥の好む菓子などを手に取って、あの桜色の唇を指で割って、赤い小さな舌へ菓子を載せてやっていたなどと――そのとき、彼女の口の端が汚れれば舌で舐め取ってやっていたなどと――、今では何をどうやって可能としていたのか思い出せない。あれほど自然に、思うよりも先に身体が動いて成し遂げていたことだったのに、小鳥を「こいしい」と意識してしまうと駄目だった。全身が強張って動かなくなる。もう二度とできないかもしれない。小鳥との接し方がわからない。一文字一家の長として何という体たらくかと山鳥毛自身は愕然としたのだが、なぜだか小豆長光はこの山鳥毛の変化を歓迎しているようであった。
審神者は『儀式』を続けていて、今は信濃藤四郎のネクタイを結んでいる最中だった。信濃は、ネクタイを結ぶ間じゅう、審神者の懐に彼の本体を入れたがる。今も、審神者の胸元の合わせから、信濃の本体が覗いていた。
知らず、山鳥毛は白皙の面に薄く、凝視してやっとわかるほどかすかに朱を走らせて、眼を伏せた。
「わたしたちはたちだから、にんげんのふところにしまわれるきぶんなどしらないが、きっと、あたたかいのだろうね」
山鳥毛が何を思ったか察しているだろうに、知らぬていでしみじみと言う小豆長光の声が、より山鳥毛の恥じらいを煽るのであった。
列に並んでいる短刀たちのネクタイを、一振り一振り、心を込めて、審神者は結んでいく。
短刀たちはおねだり上手だ。実際は自分で審神者よりも巧く結べたとしても、「大将が結んでくれよ。オレだときれいにできないからさ」などのように照れまじりに言えば、彼女はにこにこと笑ってネクタイを結んでくれる。声に出して頼むのが恥ずかしければ、わざと歪めてネクタイを結んで彼女の前に立てばいい、彼女は笑ってネクタイを結びなおしてくれる。玉の緒を結び付けて、心から刀らの安全を祈ってくれる。それを幼い身をしたしたたかな神々は知っていた。
「きみもおねだりすればいい。かのじょはうけいれてくれる」
「……古臭いのでな、それは承服しかねる」
「ふるくさいといったって、きみとあわたぐちとは、ほとんどとしもかわらないだろうに」
「心持ちの問題だ。小鳥は審神者だから、立場上、私が求めれば断れまい。……困らせるかもしれない」
小豆長光はそれを聞いて呵々と大きく笑った。
「こまらせてきらわれたくない、か。たかだかねくたいくらいで」
「たかだかネクタイくらいといってもだな……」
長身の山鳥毛と審神者は背丈の差が大きい。一尺ほども違う。無論、そのままでは結べない。山鳥毛が身を屈めるか膝を折るかして彼女に身を近づける必要がある。そんなに近づいては、きっと、目が合ってしまう。彼女が、山鳥毛の眼を見てしまう。あのあたたかな、おだやかな、山鳥毛がとびきり好ましく思っている静かに凪いだ目が、己の眼を見てしまう。そしてきっと、常のように、どの刀にも等しくするように、うんとやわらかに微笑み、山鳥毛の首に手を回して――その姿勢上、顔も寄せて――彼の首にネクタイを白い指で結びつける。彼の玉の緒が、彼女によって結びつけられる。
想像するだけで彼は赤面した。耐えられる気がしなかった。彼女がそうすることにも、それがほかの刀にも等しく与えられる『儀式』であることにも――――もしかしたら、己だけは、彼女を困らせてしまって『儀式』を与えてもらえないのではないかと、根拠のない不安によって彼女の真心を疑ってしまったことにも。
「じゅうしょうだな」
「言わないでくれ……自覚している」
山鳥毛は右手のひらで口元を覆って呻いた。それほどまでに彼は彼女からの『儀式』を乞うている。こんな顔は一家の鳥たちには決して見せられまい。幸いにして今日は南泉一文字も日光一文字も内番を命じられているから、この場にはいなかった。
そうこうしているうちに、最後尾の謙信景光のネクタイが結ばれ終えた。終始照れていた謙信に、彼女は穏やかに笑んで、抱擁を与え、耳元で祈りを告げた。出陣時間は間もなくであった。
「きょうもけっきょく、きみは『ぎしき』をみているだけか」
「あれは短刀たちのための『儀式』だ。私はいい。折れずに戦果を持ち帰るとも」
「ごうじょうだな…………、おや、あれは」
審神者の前の短刀の列が切れたのを見計らってか、一振りの墨色が彼女に近寄って行った。迷いも照れもない足取りだった。
第二部隊隊長、同田貫正国である。
かつて太刀であったこの打刀は、太刀であったころは本丸で最初の太刀であった。打刀となった今でも、『鞘を払ってしまえば太刀も打刀も同田貫は同田貫だから。折れず曲がらず、真っ先に敵に一太刀浴びせて私の道を斬り拓く、よい刀だから』という理屈で、審神者はときおり同田貫を指して『私の一の太刀』と呼び、変わらずに重用していた。山鳥毛はこの、太刀ですらない同田貫に与えられる『私の一の太刀』という呼称を聞いてしまうと、何やら重い不快感が腹のうちにとぐろを巻く――嫉妬、という感情のかたちを、顕現して数か月の彼はまだ明確に知らなかった――ので、同田貫に対しやや苦手意識を持っていた。
その同田貫が、まっすぐに審神者に歩み寄り、迷いなく左肩の総角結びをほどいて、彼女にぐいと差し出した。
「ん。」
頼むでも願うでもなく、それだけの言葉でも互いに通じる。
山鳥毛からすれば非礼極まりない態度と見えたが、同田貫と長く親しんだ審神者にはそれは非礼でもなんでもなかったようで、微笑んで紐を受け取り、同田貫の左肩の甲にうつくしく、総角結びを作っていく。総角結びはネクタイよりも少し時間がかかるから、同田貫の『儀式』を終えればちょうど出陣時刻になるだろう。
同田貫と審神者が何を話しているのかは、山鳥毛の位置からは、ほとんど聞こえない。ただ、結び慣れているとはいえ、やや複雑な結び方に神経を集中させている審神者に、同田貫が――視線に気づいて、起伏に乏しい一瞥を山鳥毛にくれて寄越した同田貫が――ふと審神者に何か告げて、それに審神者が結ぶ手を離して目を白黒させ、何事か抗弁して、さらに同田貫がくつくつと笑い、審神者の頭をわしわしと無遠慮に撫でてやる、その一連のじゃれあいが見えただけだ。
修行を終えて戻ってから、同田貫と審神者の距離はいっそう近くなった。
同田貫は顔立ちがやや幼く、背丈もそれほど高くはない。だから審神者と並んで立つと、歳の近い兄妹、あるいは姉弟のように見える。けれども、同田貫に頭を撫でられてから、再び総角結びをやり直す審神者の頬は、耳は、朱を帯びているように見えた。まるで、
「まるでにあいのいもせ(妹兄)のようにもみえるな」
狙って刺しにいった小豆の言葉は、狙い違わず山鳥毛の心臓を刺し貫いた。
同田貫が『儀式』を終えるのを待たずに、山鳥毛は自らの首から性急な、抜き差しならぬ荒い手つきでネクタイを取り去り、彼女のもとへ足を向ける。まもなく出陣時刻である。猶予はない。
同田貫が審神者の祈りをつつがなく受け取って去っていくのから寸秒を開けず、山鳥毛は審神者に声をかけた。
「小鳥、」
審神者が山鳥毛を見上げる。同田貫とのじゃれあいの名残がまだ残る、つまりは淡く紅潮した頬のまま、山鳥毛を見上げて微笑んだ。
「はい、なんでしょう」
笑みとともに向けられた声さえやわらかい。
彼女の穏やかに凪いだ笑みが、山鳥毛は好きだった。やわらかくて、あたたかくて、ゆるぎない。野の花のようでありながら、大樹のようでもある。多少の逆立った羽はこの笑みですぐ大人しくなってしまう。まるで古木に安らぐ鳥のごとくに。
その笑みを向けられて、山鳥毛は怯んでしまった。さっと気恥ずかしさが立ちのぼって、さきほどまでの勢いが消えてしまう。結局彼は、一、二度瞬きをして、彼女の眼から視線をずらしてしまった。彼女の眼を見てさえずることができない。――――ずらさずに見つめ続ければ、彼女の眼が、山鳥毛に話しかけられたことへの驚きと、好意と、戸惑いと、喜びと、恥じらいで、複雑に揺れるさまを見届けられたのだが、これは山鳥毛にも審神者にもわからないことであった。
恥ずかしさゆえに目を合わせ続けられはしなかったが、それでも、山鳥毛は審神者の祈りが欲しかった。短刀たちや同田貫には与えられて、己は聞き分けよく達観したふりをして傍観しているだけというのは、もう耐えられなかった。
「小鳥、その、だな……私のも結んでくれないだろうか」
目も合わせられないまま、手に持ったネクタイを審神者に差し出す。動作にすればそれだけのことだが、山鳥毛にとっては非常な戸惑いと恥ずかしさを伴った。『儀式』を終えたあとも彼女の周りには数振りの短刀たちが留まっていたが、山鳥毛のその行いを見て、はっとしたように短刀たちは互いに顔を見合わせ、そっと離れていったのも余計にむずむずと彼の羞恥心を煽った。出陣時間まで時間はない。私情による願いは慎むべきなのだろう。それでも、
「……私も短刀の鳥たちのように、君に結びつけられたい。頼めないだろうか。」
敵本陣に乗り込むときとはまた別の度胸を要した願いを、どうにかこうにか、乞う。山鳥毛は、いま、己がどんな顔でいるのか自信がなかった。きっと一家の鳥たちには見せられない顔をしているのだろうと思い、より恥じらい、しかしそれでも、彼女の祈りが欲しかった。情けないことにこのとき彼は審神者の目を見て頼めなかった。見ていたならば、彼女の目に、さきほどよりも明らかな動揺と歓喜とが奔るその瞬間を捉えられたのだが。
「……はい。あ、あの、少し……屈んで頂いてもいいですか?」
照れてちいさく震える声に、はっとして山鳥毛が彼の小鳥を見やった時には、彼女はネクタイを受け取って、耳まで朱色に染めて俯いてしまっていた。そのいじらしい態度がどうにも可愛らしく思えて、山鳥毛まで赤面してしまう。おずおずと身を屈めて彼女と同じ目線の高さを作り出すと、彼女は山鳥毛の首に両手を回した。
「締まりすぎて苦しかったら、すぐ言ってくださいね」
彼女の指先は、かすかに、しかし、確かに震えていた。
額と額がついてしまいそうなほど、近い。
彼女の吐息を、肌で感じる。
彼女の指が、時折、首を、喉仏をかすめてゆく。
彼女の白い指が動き、結ぶ、その動作ひとつ、ひとつ重なるごとに、彼女の霊力が祈りのかたちとなって山鳥毛に向けられているのがわかった。
高揚してしまいそうだった。
ただ、どうしたことか、山鳥毛の先ほどの想像とは異なり、彼らの視線は交わらなかった。神経を集中させているようで、彼女の視線は伏せられ、ネクタイにばかり向いていて、それが山鳥毛にはたまらなくじれったい。さきほど目をそらしたのは山鳥毛が先だったくせに、彼女の眼差しが欲しかった。
(確かに……)
彼は自覚を深くする。
(これは重症だ)
そうこうするうち、首元でネクタイはきっちりと結ばれつつあった。何の変哲もない結び方のネクタイ。守護、というほど強いモノではないが、それでも審神者の霊力が、山鳥毛の無事を願ってそこに結ばれているのが感じられた。腹の底があたたかくなる。
ネクタイの形を整えながら、おずおずと審神者が問うた。やはり視線は交わらない。
「あの、苦しくはないですか?」
「いや、大丈夫だ。小鳥は上手だな」
さすが粟田口の短刀たちで慣れていて、ゆるくもなくきつくもなく、よい具合に結ばれていた。手慣れている。山鳥毛が彼女と出会うよりずっと前から『儀式』は続いてきたのだから当然なのだが、その事実にどうにも胸が急いた。
「うん。……苦しくない。上手だ」
自分でも手をやって具合を確かめながら、再度、かみしめるように言う。褒め言葉のつもりだったが、声色が苦しげになってしまう。はじかれたように審神者が視線を上げた。
「苦しいのでしたら、ご無理はなさらず。あの、たぶん、私がするより山鳥毛さんがなさるほうがきれいに結べますし、」
そこまで言って、彼女はやっと、山鳥毛と視線を合わせた。
色硝子の向こうの炎が、想いに焦がれて、苦しく、切なく、揺らいでいるのを、見てしまった。
思わず息をのんで山鳥毛のネクタイから離れそうになった彼女の手を、慌てて山鳥毛は己の手で包んだ。男の手の大きさに、固さに、熱さに、彼女の肩が跳ねる。その様子に、山鳥毛はことさらに穏やかな声を心掛けた。加えて、乞う。
「本当だ。苦しくないよ。……ピンも、留めて欲しい。君の手で。」
ただし、いま、どんな目で彼女を見ているのか、まともな目で見つめることができているのか、彼にも自信はなかった。
彼女は山鳥毛と視線をからませたまま、浅くなりそうな呼吸を調えて、うれしさと恥ずかしさで震えそうな指を制して、そっとネクタイピンを留める。鳥の羽を象ったピンがあるべきところに留められて、身支度が完了する。一つの家で永く重宝とされた来歴によるものか、山鳥毛は身を人間の手で整えられることが嫌いではない。むしろ、いま、己を整えたのが己が主君であるということに喜びを得ていた。
が、まだ足りぬ。
「仕上げをお願いできないだろうか」
気づけばさらに乞いを重ねていた。
審神者が瞬く。
「しあげ……」
「その……、短刀たちにはいつもの訓示を、結び終えたときに言っているだろう。あれを、私も賜りたい」
照れてなど、恥ずかしがってなどいられなかった。短刀たち、とだけ言って、同田貫の存在に触れなかったのはもはや意地であった。
山鳥毛は思い切って、色硝子を外して胸ポケットへ押しやった。彼女と己の間を隔つものがあるのが、彼女のありようを己が眼に焼き付けるのに余計な色が加わるのが、嫌だった。
彼女の手を取る。深い夜色の眼を、逃がしたくなくて覗き込む。
彼は彼女に乞いをする。
「……私は小鳥の言葉が欲しい」
審神者の息が、止まる。
山鳥毛の囀りは、静かで、甘く、低く、けれど彼女の胸を焼き尽くすには充分すぎたのである。
彼女は彼の乞いを受け容れた。
取られていた手を、握り返す。ゆっくり、深く、息をして、意識を切り替える。次の瞬間には、彼女は部領の顔をしていた。
静かに凪いだ、けれど毅い目が、山鳥毛の緋色を捕らえた。
「無銘一文字、号山鳥毛に命じる。勝ちて帰れ。生きて帰れ。戦果なきを恥じるな、未帰還をこそ背任と心せよ。――征け。」
明瞭な、一点の不明もない主命であった。
途端、さきほど彼に結ばれた審神者の霊力が、より明確な呪のかたちをとって、彼の首を―――玉の緒を、きゅっと結ぶ。結ばれた先は、彼のただ一人の主君たる、この娘の手であった。いまこの身は誰のために肉の器を得ているのか、いまこの身は誰の命に背けぬようにつくられているのか、まざまざと刻み付けるような呪であった。
背任を許さぬ、甘く強く確かな縊りに、今度は山鳥毛の息が止まるばんだった。
このちいさな小鳥に、己の魂を握られているのが、彼にもわけがわからないほど、彼に歓喜と安堵を与えたからである。
「謹んで拝命する」
そう、答えた彼の声は、春の花々の蜜をすべて集めたよりも甘いいろをしていたのだが、彼は自覚しなかった。ただ審神者だけがそのいろに気づいていた。
拝礼して主の前を去ろうとする山鳥毛を、衝動的に審神者は呼び止めていた。
「山鳥毛さんっ、」
山鳥毛が振り向くと、もう将の顔はしていない、年相応の、若い娘の顔をして、耳まで赤く染めた彼女が彼を見ていた。
ぱくぱくと、言うか言うまいかと口を開け閉めして、それでも覚悟を決めた乙女は、山鳥毛の眼をまっすぐに見て、身のうちの願いを伝え切った。
「ご無事のお戻りを、お待ちしております。いってらっしゃいませ」
そこには確かに、彼女のこいがあった。
「――――嗚呼、無論だとも。小鳥のために武威を示そう。吉報を待っていてほしい」
刺青にかすかな緋が走るのをこらえることができなかった。
山鳥毛は晴れ晴れと笑い、己を見上げる審神者の表情をしかと記憶のうちに留めてから、今度こそ背を翻した。
年甲斐もなく浮かれてふわふわと軽々しくなりそうな足取りをどうにか抑えて小豆長光のもとに戻ると、やはり古馴染みのこの刀はにこにこと笑っていた。
「さくらがちっているな。もうあきなのに」
どこかうれしそうな同胞のからかいも、山鳥毛は気にならなかった。
出陣時刻になる。並ぶ四部隊の前に彼女は立つ。この日の出陣、遠征の行き先、目的を説明してから、凛とした将の顔でさきほど山鳥毛が聞いたのと同じ訓示を述べた。今はこの場の鳥たち全てに対して向けられた生きて戻れという祈りを、あのいっときばかりは独占していたのだという充足感が、じわりと山鳥毛の胸を満たす。
ふと、彼と彼女のまなざしがかち合った。
けれどこのときは互いに、将と持ち刀の顔をしていた。仰ぐべき部領が凪いだ目をして頷いて、第一部隊の出陣を促すのを、山鳥毛は謹んで承けた。出会った当初は若くちいさく頼りないばかりに見えた可愛い小鳥が、その実、みずからの手腕でこの巣をまとめ上げてきた主であることが、己が部領であることが、彼の心を誇りと喜びで昂らせた。
この日の第一部隊の戦果は目覚ましかった。
おおはしゃぎした山鳥毛が兜首を悉く刎ねてしまったので隊員は何もすることがなかったとは、その夕べの厨房で、歌仙兼定や燭台切光忠らの料理を手伝いながら上機嫌で小豆長光が報告したことである。
審神者の保護者を自任する歌仙はこれを聞いて、愛用の三徳庖丁を念入りに研いだとか、研がなかったとか。同じく保護者を自任する燭台切は燭台切で、「心尽くしの膳が必要かな?」と、献立を確認したとか、確認しなかったとか。
厨房での出来事など知らず、山鳥毛は審神者の執務室で、彼の部領に報告の義務を果たしていた。彼の小鳥は、彼がいっとう好む穏やかな目をして、彼の報告に耳を澄ませていたという。
(なお、同田貫があのタイミングでわざわざ結んでもらいにいって、審神者にだけ聞こえるように、
「山鳥毛、こっち見てるぜ。あんたに気でもあるんじゃねえの?」
などと告げたのは、むろん事前に、古馴染みのもだもだした恋路を面白がっている小豆と、審神者に人妻になってほしい包丁と、小さい子が増えてほしい毛利にしっかりと買収――内番の畑当番と手合わせの交代券三枚――されていたからである。)
儀式と言ってもそう大したものではない。負けるな、折れるな、生きて帰れという訓示とともに、主に見送られるというだけのことだ。しかし、一部の短刀など――正確には、『儀式』を恥ずかしがらない刀――はこのとき、彼らの主から『儀式』を受ける。
玉の緒を結ばれるのである。
もともとは数年前、顕現して日が浅かった五虎退がネクタイをうまく結べず歪んだまま出陣しようとしたのを、審神者が結びなおしてやったことにはじまる。今では粟田口の短刀はこの本丸に多く顕現し、互いに結び合うなどして身だしなみを整えるから、ネクタイを結べなくて困る、ということはない。けれどあのころ――本丸に、歌仙兼定と五虎退と愛染国俊、それから同田貫正国しかいなかった駆け出しのころ――はそうもいかなかった。
慣れぬ肉体でうまくできず、他にネクタイの結び方を知っている刀もおらず、五虎退は泣きそうな顔で門の前にやってきた。それをどうにか慰めたくて、審神者は、無事に帰ってこられるおまじないだとネクタイを結びなおしてやった。本当は彼女も、ひとのネクタイを結ぶなどという経験はこのときがはじめてで、完全無欠の美しい仕上がりとはいかなかったのだが、心を込めて結んだ。
結ぶ、という行為は呪(しゅ)である。
モノとモノとをつなぎ合わせて、離れぬようにという祈りである。
どうかこのちいさな神様が、折れずに生きて帰ってこられますようにと、玉の緒がほどけぬようにと、審神者は祈りながらネクタイを結んだ。
それを愛染がうらやましがったので、愛染には刀の下緒を、同田貫には肩甲の総角結びを、歌仙には首の飾り紐を、それぞれ結びなおしてやって、それぞれに、生きて帰ってきてほしいと願って、審神者は彼らを戦場へ送り出した。
以来、出陣前は、審神者に何かを結んでもらうのが、この本丸の倣いとなった。
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門の前。今朝の第一部隊の出陣予定時刻にも第二から第四部隊の遠征出発時刻にもまだ間があったが、すでに審神者の前に短刀らが列を成している。
予定時刻になってしまえば結ぶ結ばぬと言っていられなくなるので、刀の数が増えた現在では『儀式』は早い者勝ちであった。となると、身の大きな物たちは小さな物たちに遠慮したり、自分で結べるものを主にしていただくのはと照れたりして、なかなか列には並ばない。畢竟、短刀ばかりが列をつくる。短刀以外で一切遠慮せず堂々と並ぶのは歌仙と同田貫くらいなものであった。
いま、列に並んでいるのは粟田口の短刀たち数振りと、謙信景光だ。謙信は我慢しようとしていたのを、五虎退に手を引かれて列に並んでいる。
審神者が、母か姉かのように、短刀たちに声をかけ、ネクタイを結び、祈りを告げる。『儀式』をしている。
それを第一部隊隊長である山鳥毛は、同じく第一部隊の小豆長光とやや離れた位置から眺めていた。
「きみもしてもらってきてはどうかな?」
そう言う小豆長光の声には、やや面白がるふうがあった。視線の先ではちょうど、ネクタイを結ばれ終えた乱藤四郎が審神者の胸にうれしそうに抱き着いて、頭を撫でてもらっていた。結んだあとに抱擁を求める短刀は多い。
山鳥毛は審神者のその様子から目を離せないながらも、直視はしがたくて、色硝子がきちっと審神者と彼との間を遮るように掛けなおしながら、応えた。
「まさか。私はネクタイくらい、自分で結べる」
「そのわりにはずいぶんとものほしそうなめで、かのじょをみているじゃないか」
くすくすと人のいい顔で小豆は笑うが、笑われた山鳥毛は気分のいいものではない。この古なじみは山鳥毛の心のうちを、審神者に向けるなまざしの色を察したうえで、背を押すとも押さぬとも判別のつかぬからかいをかけているのだった。
「……、…………」
小豆に何か言い返したかったが、巧い切り返しが見つからない。ここしばらく、審神者がかかわることとなると、山鳥毛の舌は恥じらいによって格段に鈍る。
彼が審神者に向けている情が、ただの幼く小さいものへの庇護欲だと思っていたものが、どうにもそうではないと気づいてしまったあの瞬間から、山鳥毛はうまくさえずれなくなってしまった。
意識する前は審神者に手ずから給餌することも、彼女の濡れ羽の髪を羽繕いしてやることも、息をするようにできていたのに、今では触れるのにも声をかけるのにも気力を必要とした。会話中に小鳥の眼を見ることすら激減したように思う。
以前は、小鳥の好む菓子などを手に取って、あの桜色の唇を指で割って、赤い小さな舌へ菓子を載せてやっていたなどと――そのとき、彼女の口の端が汚れれば舌で舐め取ってやっていたなどと――、今では何をどうやって可能としていたのか思い出せない。あれほど自然に、思うよりも先に身体が動いて成し遂げていたことだったのに、小鳥を「こいしい」と意識してしまうと駄目だった。全身が強張って動かなくなる。もう二度とできないかもしれない。小鳥との接し方がわからない。一文字一家の長として何という体たらくかと山鳥毛自身は愕然としたのだが、なぜだか小豆長光はこの山鳥毛の変化を歓迎しているようであった。
審神者は『儀式』を続けていて、今は信濃藤四郎のネクタイを結んでいる最中だった。信濃は、ネクタイを結ぶ間じゅう、審神者の懐に彼の本体を入れたがる。今も、審神者の胸元の合わせから、信濃の本体が覗いていた。
知らず、山鳥毛は白皙の面に薄く、凝視してやっとわかるほどかすかに朱を走らせて、眼を伏せた。
「わたしたちはたちだから、にんげんのふところにしまわれるきぶんなどしらないが、きっと、あたたかいのだろうね」
山鳥毛が何を思ったか察しているだろうに、知らぬていでしみじみと言う小豆長光の声が、より山鳥毛の恥じらいを煽るのであった。
列に並んでいる短刀たちのネクタイを、一振り一振り、心を込めて、審神者は結んでいく。
短刀たちはおねだり上手だ。実際は自分で審神者よりも巧く結べたとしても、「大将が結んでくれよ。オレだときれいにできないからさ」などのように照れまじりに言えば、彼女はにこにこと笑ってネクタイを結んでくれる。声に出して頼むのが恥ずかしければ、わざと歪めてネクタイを結んで彼女の前に立てばいい、彼女は笑ってネクタイを結びなおしてくれる。玉の緒を結び付けて、心から刀らの安全を祈ってくれる。それを幼い身をしたしたたかな神々は知っていた。
「きみもおねだりすればいい。かのじょはうけいれてくれる」
「……古臭いのでな、それは承服しかねる」
「ふるくさいといったって、きみとあわたぐちとは、ほとんどとしもかわらないだろうに」
「心持ちの問題だ。小鳥は審神者だから、立場上、私が求めれば断れまい。……困らせるかもしれない」
小豆長光はそれを聞いて呵々と大きく笑った。
「こまらせてきらわれたくない、か。たかだかねくたいくらいで」
「たかだかネクタイくらいといってもだな……」
長身の山鳥毛と審神者は背丈の差が大きい。一尺ほども違う。無論、そのままでは結べない。山鳥毛が身を屈めるか膝を折るかして彼女に身を近づける必要がある。そんなに近づいては、きっと、目が合ってしまう。彼女が、山鳥毛の眼を見てしまう。あのあたたかな、おだやかな、山鳥毛がとびきり好ましく思っている静かに凪いだ目が、己の眼を見てしまう。そしてきっと、常のように、どの刀にも等しくするように、うんとやわらかに微笑み、山鳥毛の首に手を回して――その姿勢上、顔も寄せて――彼の首にネクタイを白い指で結びつける。彼の玉の緒が、彼女によって結びつけられる。
想像するだけで彼は赤面した。耐えられる気がしなかった。彼女がそうすることにも、それがほかの刀にも等しく与えられる『儀式』であることにも――――もしかしたら、己だけは、彼女を困らせてしまって『儀式』を与えてもらえないのではないかと、根拠のない不安によって彼女の真心を疑ってしまったことにも。
「じゅうしょうだな」
「言わないでくれ……自覚している」
山鳥毛は右手のひらで口元を覆って呻いた。それほどまでに彼は彼女からの『儀式』を乞うている。こんな顔は一家の鳥たちには決して見せられまい。幸いにして今日は南泉一文字も日光一文字も内番を命じられているから、この場にはいなかった。
そうこうしているうちに、最後尾の謙信景光のネクタイが結ばれ終えた。終始照れていた謙信に、彼女は穏やかに笑んで、抱擁を与え、耳元で祈りを告げた。出陣時間は間もなくであった。
「きょうもけっきょく、きみは『ぎしき』をみているだけか」
「あれは短刀たちのための『儀式』だ。私はいい。折れずに戦果を持ち帰るとも」
「ごうじょうだな…………、おや、あれは」
審神者の前の短刀の列が切れたのを見計らってか、一振りの墨色が彼女に近寄って行った。迷いも照れもない足取りだった。
第二部隊隊長、同田貫正国である。
かつて太刀であったこの打刀は、太刀であったころは本丸で最初の太刀であった。打刀となった今でも、『鞘を払ってしまえば太刀も打刀も同田貫は同田貫だから。折れず曲がらず、真っ先に敵に一太刀浴びせて私の道を斬り拓く、よい刀だから』という理屈で、審神者はときおり同田貫を指して『私の一の太刀』と呼び、変わらずに重用していた。山鳥毛はこの、太刀ですらない同田貫に与えられる『私の一の太刀』という呼称を聞いてしまうと、何やら重い不快感が腹のうちにとぐろを巻く――嫉妬、という感情のかたちを、顕現して数か月の彼はまだ明確に知らなかった――ので、同田貫に対しやや苦手意識を持っていた。
その同田貫が、まっすぐに審神者に歩み寄り、迷いなく左肩の総角結びをほどいて、彼女にぐいと差し出した。
「ん。」
頼むでも願うでもなく、それだけの言葉でも互いに通じる。
山鳥毛からすれば非礼極まりない態度と見えたが、同田貫と長く親しんだ審神者にはそれは非礼でもなんでもなかったようで、微笑んで紐を受け取り、同田貫の左肩の甲にうつくしく、総角結びを作っていく。総角結びはネクタイよりも少し時間がかかるから、同田貫の『儀式』を終えればちょうど出陣時刻になるだろう。
同田貫と審神者が何を話しているのかは、山鳥毛の位置からは、ほとんど聞こえない。ただ、結び慣れているとはいえ、やや複雑な結び方に神経を集中させている審神者に、同田貫が――視線に気づいて、起伏に乏しい一瞥を山鳥毛にくれて寄越した同田貫が――ふと審神者に何か告げて、それに審神者が結ぶ手を離して目を白黒させ、何事か抗弁して、さらに同田貫がくつくつと笑い、審神者の頭をわしわしと無遠慮に撫でてやる、その一連のじゃれあいが見えただけだ。
修行を終えて戻ってから、同田貫と審神者の距離はいっそう近くなった。
同田貫は顔立ちがやや幼く、背丈もそれほど高くはない。だから審神者と並んで立つと、歳の近い兄妹、あるいは姉弟のように見える。けれども、同田貫に頭を撫でられてから、再び総角結びをやり直す審神者の頬は、耳は、朱を帯びているように見えた。まるで、
「まるでにあいのいもせ(妹兄)のようにもみえるな」
狙って刺しにいった小豆の言葉は、狙い違わず山鳥毛の心臓を刺し貫いた。
同田貫が『儀式』を終えるのを待たずに、山鳥毛は自らの首から性急な、抜き差しならぬ荒い手つきでネクタイを取り去り、彼女のもとへ足を向ける。まもなく出陣時刻である。猶予はない。
同田貫が審神者の祈りをつつがなく受け取って去っていくのから寸秒を開けず、山鳥毛は審神者に声をかけた。
「小鳥、」
審神者が山鳥毛を見上げる。同田貫とのじゃれあいの名残がまだ残る、つまりは淡く紅潮した頬のまま、山鳥毛を見上げて微笑んだ。
「はい、なんでしょう」
笑みとともに向けられた声さえやわらかい。
彼女の穏やかに凪いだ笑みが、山鳥毛は好きだった。やわらかくて、あたたかくて、ゆるぎない。野の花のようでありながら、大樹のようでもある。多少の逆立った羽はこの笑みですぐ大人しくなってしまう。まるで古木に安らぐ鳥のごとくに。
その笑みを向けられて、山鳥毛は怯んでしまった。さっと気恥ずかしさが立ちのぼって、さきほどまでの勢いが消えてしまう。結局彼は、一、二度瞬きをして、彼女の眼から視線をずらしてしまった。彼女の眼を見てさえずることができない。――――ずらさずに見つめ続ければ、彼女の眼が、山鳥毛に話しかけられたことへの驚きと、好意と、戸惑いと、喜びと、恥じらいで、複雑に揺れるさまを見届けられたのだが、これは山鳥毛にも審神者にもわからないことであった。
恥ずかしさゆえに目を合わせ続けられはしなかったが、それでも、山鳥毛は審神者の祈りが欲しかった。短刀たちや同田貫には与えられて、己は聞き分けよく達観したふりをして傍観しているだけというのは、もう耐えられなかった。
「小鳥、その、だな……私のも結んでくれないだろうか」
目も合わせられないまま、手に持ったネクタイを審神者に差し出す。動作にすればそれだけのことだが、山鳥毛にとっては非常な戸惑いと恥ずかしさを伴った。『儀式』を終えたあとも彼女の周りには数振りの短刀たちが留まっていたが、山鳥毛のその行いを見て、はっとしたように短刀たちは互いに顔を見合わせ、そっと離れていったのも余計にむずむずと彼の羞恥心を煽った。出陣時間まで時間はない。私情による願いは慎むべきなのだろう。それでも、
「……私も短刀の鳥たちのように、君に結びつけられたい。頼めないだろうか。」
敵本陣に乗り込むときとはまた別の度胸を要した願いを、どうにかこうにか、乞う。山鳥毛は、いま、己がどんな顔でいるのか自信がなかった。きっと一家の鳥たちには見せられない顔をしているのだろうと思い、より恥じらい、しかしそれでも、彼女の祈りが欲しかった。情けないことにこのとき彼は審神者の目を見て頼めなかった。見ていたならば、彼女の目に、さきほどよりも明らかな動揺と歓喜とが奔るその瞬間を捉えられたのだが。
「……はい。あ、あの、少し……屈んで頂いてもいいですか?」
照れてちいさく震える声に、はっとして山鳥毛が彼の小鳥を見やった時には、彼女はネクタイを受け取って、耳まで朱色に染めて俯いてしまっていた。そのいじらしい態度がどうにも可愛らしく思えて、山鳥毛まで赤面してしまう。おずおずと身を屈めて彼女と同じ目線の高さを作り出すと、彼女は山鳥毛の首に両手を回した。
「締まりすぎて苦しかったら、すぐ言ってくださいね」
彼女の指先は、かすかに、しかし、確かに震えていた。
額と額がついてしまいそうなほど、近い。
彼女の吐息を、肌で感じる。
彼女の指が、時折、首を、喉仏をかすめてゆく。
彼女の白い指が動き、結ぶ、その動作ひとつ、ひとつ重なるごとに、彼女の霊力が祈りのかたちとなって山鳥毛に向けられているのがわかった。
高揚してしまいそうだった。
ただ、どうしたことか、山鳥毛の先ほどの想像とは異なり、彼らの視線は交わらなかった。神経を集中させているようで、彼女の視線は伏せられ、ネクタイにばかり向いていて、それが山鳥毛にはたまらなくじれったい。さきほど目をそらしたのは山鳥毛が先だったくせに、彼女の眼差しが欲しかった。
(確かに……)
彼は自覚を深くする。
(これは重症だ)
そうこうするうち、首元でネクタイはきっちりと結ばれつつあった。何の変哲もない結び方のネクタイ。守護、というほど強いモノではないが、それでも審神者の霊力が、山鳥毛の無事を願ってそこに結ばれているのが感じられた。腹の底があたたかくなる。
ネクタイの形を整えながら、おずおずと審神者が問うた。やはり視線は交わらない。
「あの、苦しくはないですか?」
「いや、大丈夫だ。小鳥は上手だな」
さすが粟田口の短刀たちで慣れていて、ゆるくもなくきつくもなく、よい具合に結ばれていた。手慣れている。山鳥毛が彼女と出会うよりずっと前から『儀式』は続いてきたのだから当然なのだが、その事実にどうにも胸が急いた。
「うん。……苦しくない。上手だ」
自分でも手をやって具合を確かめながら、再度、かみしめるように言う。褒め言葉のつもりだったが、声色が苦しげになってしまう。はじかれたように審神者が視線を上げた。
「苦しいのでしたら、ご無理はなさらず。あの、たぶん、私がするより山鳥毛さんがなさるほうがきれいに結べますし、」
そこまで言って、彼女はやっと、山鳥毛と視線を合わせた。
色硝子の向こうの炎が、想いに焦がれて、苦しく、切なく、揺らいでいるのを、見てしまった。
思わず息をのんで山鳥毛のネクタイから離れそうになった彼女の手を、慌てて山鳥毛は己の手で包んだ。男の手の大きさに、固さに、熱さに、彼女の肩が跳ねる。その様子に、山鳥毛はことさらに穏やかな声を心掛けた。加えて、乞う。
「本当だ。苦しくないよ。……ピンも、留めて欲しい。君の手で。」
ただし、いま、どんな目で彼女を見ているのか、まともな目で見つめることができているのか、彼にも自信はなかった。
彼女は山鳥毛と視線をからませたまま、浅くなりそうな呼吸を調えて、うれしさと恥ずかしさで震えそうな指を制して、そっとネクタイピンを留める。鳥の羽を象ったピンがあるべきところに留められて、身支度が完了する。一つの家で永く重宝とされた来歴によるものか、山鳥毛は身を人間の手で整えられることが嫌いではない。むしろ、いま、己を整えたのが己が主君であるということに喜びを得ていた。
が、まだ足りぬ。
「仕上げをお願いできないだろうか」
気づけばさらに乞いを重ねていた。
審神者が瞬く。
「しあげ……」
「その……、短刀たちにはいつもの訓示を、結び終えたときに言っているだろう。あれを、私も賜りたい」
照れてなど、恥ずかしがってなどいられなかった。短刀たち、とだけ言って、同田貫の存在に触れなかったのはもはや意地であった。
山鳥毛は思い切って、色硝子を外して胸ポケットへ押しやった。彼女と己の間を隔つものがあるのが、彼女のありようを己が眼に焼き付けるのに余計な色が加わるのが、嫌だった。
彼女の手を取る。深い夜色の眼を、逃がしたくなくて覗き込む。
彼は彼女に乞いをする。
「……私は小鳥の言葉が欲しい」
審神者の息が、止まる。
山鳥毛の囀りは、静かで、甘く、低く、けれど彼女の胸を焼き尽くすには充分すぎたのである。
彼女は彼の乞いを受け容れた。
取られていた手を、握り返す。ゆっくり、深く、息をして、意識を切り替える。次の瞬間には、彼女は部領の顔をしていた。
静かに凪いだ、けれど毅い目が、山鳥毛の緋色を捕らえた。
「無銘一文字、号山鳥毛に命じる。勝ちて帰れ。生きて帰れ。戦果なきを恥じるな、未帰還をこそ背任と心せよ。――征け。」
明瞭な、一点の不明もない主命であった。
途端、さきほど彼に結ばれた審神者の霊力が、より明確な呪のかたちをとって、彼の首を―――玉の緒を、きゅっと結ぶ。結ばれた先は、彼のただ一人の主君たる、この娘の手であった。いまこの身は誰のために肉の器を得ているのか、いまこの身は誰の命に背けぬようにつくられているのか、まざまざと刻み付けるような呪であった。
背任を許さぬ、甘く強く確かな縊りに、今度は山鳥毛の息が止まるばんだった。
このちいさな小鳥に、己の魂を握られているのが、彼にもわけがわからないほど、彼に歓喜と安堵を与えたからである。
「謹んで拝命する」
そう、答えた彼の声は、春の花々の蜜をすべて集めたよりも甘いいろをしていたのだが、彼は自覚しなかった。ただ審神者だけがそのいろに気づいていた。
拝礼して主の前を去ろうとする山鳥毛を、衝動的に審神者は呼び止めていた。
「山鳥毛さんっ、」
山鳥毛が振り向くと、もう将の顔はしていない、年相応の、若い娘の顔をして、耳まで赤く染めた彼女が彼を見ていた。
ぱくぱくと、言うか言うまいかと口を開け閉めして、それでも覚悟を決めた乙女は、山鳥毛の眼をまっすぐに見て、身のうちの願いを伝え切った。
「ご無事のお戻りを、お待ちしております。いってらっしゃいませ」
そこには確かに、彼女のこいがあった。
「――――嗚呼、無論だとも。小鳥のために武威を示そう。吉報を待っていてほしい」
刺青にかすかな緋が走るのをこらえることができなかった。
山鳥毛は晴れ晴れと笑い、己を見上げる審神者の表情をしかと記憶のうちに留めてから、今度こそ背を翻した。
年甲斐もなく浮かれてふわふわと軽々しくなりそうな足取りをどうにか抑えて小豆長光のもとに戻ると、やはり古馴染みのこの刀はにこにこと笑っていた。
「さくらがちっているな。もうあきなのに」
どこかうれしそうな同胞のからかいも、山鳥毛は気にならなかった。
出陣時刻になる。並ぶ四部隊の前に彼女は立つ。この日の出陣、遠征の行き先、目的を説明してから、凛とした将の顔でさきほど山鳥毛が聞いたのと同じ訓示を述べた。今はこの場の鳥たち全てに対して向けられた生きて戻れという祈りを、あのいっときばかりは独占していたのだという充足感が、じわりと山鳥毛の胸を満たす。
ふと、彼と彼女のまなざしがかち合った。
けれどこのときは互いに、将と持ち刀の顔をしていた。仰ぐべき部領が凪いだ目をして頷いて、第一部隊の出陣を促すのを、山鳥毛は謹んで承けた。出会った当初は若くちいさく頼りないばかりに見えた可愛い小鳥が、その実、みずからの手腕でこの巣をまとめ上げてきた主であることが、己が部領であることが、彼の心を誇りと喜びで昂らせた。
この日の第一部隊の戦果は目覚ましかった。
おおはしゃぎした山鳥毛が兜首を悉く刎ねてしまったので隊員は何もすることがなかったとは、その夕べの厨房で、歌仙兼定や燭台切光忠らの料理を手伝いながら上機嫌で小豆長光が報告したことである。
審神者の保護者を自任する歌仙はこれを聞いて、愛用の三徳庖丁を念入りに研いだとか、研がなかったとか。同じく保護者を自任する燭台切は燭台切で、「心尽くしの膳が必要かな?」と、献立を確認したとか、確認しなかったとか。
厨房での出来事など知らず、山鳥毛は審神者の執務室で、彼の部領に報告の義務を果たしていた。彼の小鳥は、彼がいっとう好む穏やかな目をして、彼の報告に耳を澄ませていたという。
(なお、同田貫があのタイミングでわざわざ結んでもらいにいって、審神者にだけ聞こえるように、
「山鳥毛、こっち見てるぜ。あんたに気でもあるんじゃねえの?」
などと告げたのは、むろん事前に、古馴染みのもだもだした恋路を面白がっている小豆と、審神者に人妻になってほしい包丁と、小さい子が増えてほしい毛利にしっかりと買収――内番の畑当番と手合わせの交代券三枚――されていたからである。)
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