紅茶と角砂糖と、それから
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※モブのおやじが出てきます。穂花ちゃんが少しお口悪めです。※セクハラ注意
全部私が悪い。
「最近寝てないだろう」
「うん。終わらないから」
「今日で何日目だ」
「あー、えーっと3日……4日目かな、まあそれくらい。ねぇちょっと後でにして?」
「駄目だ、一度休め。食事もロクに取ってないだろう」
「大丈夫だってば」
カツカツカツ……
シャーペンの先が繰り返し消したせいで毛羽立ってしまっている五線譜を叩く。
2日前からパタリと止んでしまった音の雨。
仕事を受けたときはまだポツポツと降ってきていたのに。
五線譜に向かってもピアノを鳴らしても、全く降らなくなってしまった。
意識の向こうでカミュが何かを言っているけど、耳元でブンブンと飛ぶ蚊のように煩わしさしか感じない。
『あと少しで一段落つくから』『ちゃんとご飯も食べるよ』『心配してくれてありがとう』
どんなに伝えてもカミュは同じ事を繰り返してくる。
段々と大きく長くなるそれは作曲の邪魔でしかなくなった。
「……っるさい!!!さっき後でにしてって言ったよね?!徹夜なんて今日に始まったことじゃないでしょ?!3日4日寝食しなくても死にやしないんだからほっといてよ!!!!」
「穂花落ち着け」
「落ち着いてるし、もういいよ。どうせカミュの家 に居たって進まないし、無駄な心配かけちゃうもんね?明日せっかくの半休ならと思って来たけど私が居たら休むものも休まないでしょ。私帰るから」
鞄に私物を詰め込み玄関を飛び出す。
雑に詰め込んだから五線譜はシワになっているだろうけど、気にしていられない。
建物の裏側に停めた車に乗り込みエンジンをかけた。
最低限の交通ルールを守ってアクセルを踏み、自宅への道を進んでいく。
つけっぱなしだった深夜のカーラジオから陽気なラブソングが流れている。
洋楽ばかりを流すこのラジオはお気に入りでよく聴いているけれど、今はそういう気分にもなれない。
サビにかかったところでブツリとラジオを切った。
車内に聞こえるのはエンジン音と鼻を啜る音だけ。
「……ほんと最悪」
***
結局ぐしゃぐしゃの五線譜に書きなぐったものをパソコンで打ち直し、データとして納入したのは朝の情報番組が6時の時報をお知らせした頃だった。
そのあとの記憶は余りなくて。
ただ上半身だけ下着という中途半端な格好でベッドを横断するように寝ていたから、布団に入ろうとしたことだけは分かった。
電池切れでつかないスマホを充電器に繋いで洗面台に向かう。
行き掛けにリビングの時計を確認すると13時過ぎをさしていた。
まだ寝足りないのかぼぅとする頭で歯磨きと洗顔を終えて鏡に映った自分と目が合う。
墓から這い出てきた不死者 のような顔にドン引きを通り越して虚しさすら沸いてくる。
徹夜続きで目の下に出来た青黒いくまとズボラな食生活が伺える痩けた頬、時期的に周期前だからか所々ボロボロになった肌だけをとってもゾンビのようだ。
「最悪……」
スランプでイライラして体調管理も出来てなくて、挙げ句の果てにはカミュに八つ当たりして。
冷蔵庫は案の定何も入ってなかった。辛うじてストックされていたミネラルウォーターのペットボトルを取り出し寝室に向かう。
ベッドに腰かけてミネラルウォーターを飲み干す。ほとんど飲まず食わずだった空っぽの身体の中を水が通っていく感覚が伝わってきて少し気持ちが悪い。
そんな感覚を紛らわすようにゴロリと転がって充電器に繋いだままのスマホを起動させた。
ロックを開けたあと一番初めに目についたのは電話のアイコンについた上限数MAXを示したバッジ。
納入関係で何かやらかしたか?!と慌てて開けると同一人物から夥しい 数の不在着信が残っていた。
最新で表示されている着信履歴の時間は3時間前で。仕事の合間に掛けてくれたんだろう。
一方的に私が悪いとはいえ心配をかけたまま仕事に行かせてしまったことに罪悪感と後悔で深いため息がでる。
メッセージアプリを開いて電話ほどではないが同一人物からの通知に既読をつけた。
『昨日はごめんなさい。仕事が終わったらそっちに帰ります。』
***
こんなことなら適当に断っときゃ良かった……。
全身を嘗め回すような視線と事あることに肩や腰に手を回そうとしてくるクライアント に貼り付けた笑顔の下で悪態をつく。
あのあと先方から無事納入されたとの報告と最終打ち合わせの連絡が入った。急な連絡だなとは思ったけど、提示された時間が遅かったし他に仕事もなかったので二つ返事で了承した。
シャワーを浴びて人前に出れるくらいまであのゾンビ顔を化粧で誤魔化し、途中寄った事務所の敷地内にあるカフェテリアで遅めの昼食を取った。
打ち合わせ場所は先方が指定したうちの事務所の会議室。
夕方から夜になる時間帯だからか事務所内の人気も少ない。
もちろん目に見えるところに居ないだけであって関係者以外立ち入り禁止のレコーディングルームやダンススタジオ、事務室などにはまだ職員さんもいる。
そんな大声を出せば誰かしらくるような環境で───────
(ベタベタ触るんじゃねぇよ、くそおやじ)
ニコニコと笑顔を貼り付けながら心の中で盛大に舌打ちをかます。
どんなに味方が多い陣地だろうが結果として今後の活動が不利になることは避けては通れない。
まぁ事務所も作曲家としての名前も関係ない、一人の女として隣にいるセクハラおやじを殴り飛ばしていいのならとっくにそうしてる訳で。
最終打ち合わせと言えば聞こえはいいが、蓋を開けてみれば打ち合わせなど早々に終わり残りはくそおやじのセクハラに耐えるだけの無駄な時間。
依頼してきたときに対応してくれた頭の切れるお姉さんは外されたのか、それともこのセクハラおやじが勝手な行動をしているだけなのかは知らんがこの場に居るのは隣に陣取ってる部長さん と初対面の新人くん。
目の前に座ってるのに一度も目が合わない新人くんの肩はカタカタと小刻みに震えてたりする。肩だけに、なんちゃって。
「打ち合わせ中失礼します。泉さん、次の予約のお客様がお見えになっておりますので……」
「ああ、すみません。すぐ終わらせます」
控えめなノックが聞こえたあと声を掛けてきたのは顔馴染みの事務員さん。
急遽打ち合わせで使いたいと連絡した時にうちのあとにもう一件利用の予約があるらしいとのことだったから、終了時間間近になっても出てこない場合は少し早めに声を掛けるように事務員さんにお願いしてあった。
時間を見ると予定よりも15分ほど早い……が、いまさら打ち合わせも何も無いだろう。
新人くんもこの場からさっさと退出したいのか対して使いもしなかった資料をそそくさとしまっている。
身の回りの私物をしまって席を立った。
「申し訳ございません。私達のあとにも利用されるお客様がいらっしゃるようなので、本日の打ち合わせはここまでにさせて頂きます」
「いやぁ~気にしないでくれ。それよりも出口まで少し話をしようじゃないか」
話すことなんてねぇわ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで事務所のエントランスまで付き添う。
まだ諦めていないのか交わしても交わしても肩や腰に手を回してはニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべている。
こんだけ監視カメラの用意された敵地 でよくやるよ……。
「穂花ちゃん、このあとディナーでもどう?」
「申し訳ございません。この後も別の仕事が残っておりまして」
「そんなこと言って本当は何もないんじゃないの?こんな時間だよ?……ああ!バーの方がいいかなぁ?ホテルのバーとかどう?」
こんな時間ってどの口が言うんだ。
つまり最初からその気だったわけで。ホテルのバーなんて行ったら最後このクソおやじの餌食になるわ。
「申し訳ございません。この後も担当の者との打ち合わせがございますので、お気持ちだけで失礼させていただきます」
「穂花ちゃぁん、そんなこと言って良いのかなぁ?お仕事こなくなっちゃ「泉さん」
ニタニタと今日一番の至近距離で話すコイツの顔面に一発入れてやろうと拳を握ったタイミングでかかった声は一瞬でエントランスを絶対零度の空気に変えた。
エレベーター側から姿を現したカミュは営業スマイルのままこちらに歩いてくる。
「お取り込み中のところ申し訳ありません。泉さん、社長との打ち合わせの時間が迫っていますよ」
「え……!もうそんな時間ですか?呼びに来ていただいてすみません」
「いえ私のことはお気になさらず。それよりもそちらの方々は“まだ”泉さんにご用件が?」
「え、あ、いやその……」
「こちらもクライアントを待たせていますので、ご用件が無いようでしたらここで失礼させて頂きます」
「あ、はい……失礼します……」
カミュの登場から何も出来ずにタクシーで帰っていった二人を形だけでも見送りエントランスから撤退する。
事務室で先方が帰ったことを伝え関係者以外立ち入り禁止の通用口まで来たところで私はしゃがみ込んだ。
「うぅ……、気持ち悪い……」
もともとボロボロだった体調に加え、あのクソおやじのセクハラと煙草やら香水やら加齢臭やらの混じった臭いでヤバかったのだ。
至近距離で臭いのついてしまったジャケットを脱ぐ。この時期ブラウス一枚では冷えるがここでぶっ倒れて泡を吹くよりはマシだろう。
「カミュありがとう……、助かった……」
「礼を言うなら事務員の方だな。お前があの男に絡まれていると早乙女のところに伝えに来た」
「そっか、呼びに来てくれたときに……後でお礼言わなきゃ」
社長に話がいってるならあのクライアントとの仕事はもうないな、と働かない頭で考える。
しゃがみ込んだのはいいけど、足に力が入らなくて立ち上がることも出来ない。
最悪、車は事務所に停めっぱなしでも問題は無いからあとはどうやって帰るかな……まだ謝ってもいないのに……。
ズルズルと壁を伝って落ちていく背中を支える気力もない。
ああ、そろそろヤバイな……
「帰るぞ」
呟かれた言葉と共に脇に腕を入れられカミュの肩口に顔を埋めるような形で抱き抱えられる。
スンっと息を吸うと胸に広がる匂いは安心する大好きな匂い。
カミュはそのまま通用口を進み裏口を出てマスターコースの寮がある方へ進んでいく。
暫く進んだ先の人気が全くない月明かりの下で一匹の白馬が大人しく主人の帰りを待っていた。
「─────、待たせたな」
「ヒヒィィン」
返事をするように鳴く彼の背を優しく撫でたあと、カミュは私を先に乗せ背後から抱き締めるように跨がった。
主人が跨がったのを確認したあと、ゆっくりとゆっくりと白馬は歩き出す。事務所の森の奥へと月明かりだけを頼りに進んでいく様は、まるでお伽噺に出てくる王子様のように見えるはずだ。
「カミュ昨日はごめんなさい、八つ当たりした……。ちょっと余裕がなかった……」
「お前に何かあってからでは遅い、せめて寝食だけでも取れ。こんなにボロボロではおちおち寝ることもできん」
「ごめん……」
心地よい揺れに揺られながら背後のカミュに身体を預けた。
そして目を閉じながらこれからのことを考える。
家についたらまずはお風呂に入ろう。ゆっくりと湯船に浸かったら、カチカチになった全身を揉みほぐして……。
そのあとはふかふかのベッドで眠りたいな。ご飯は食べてたら寝ちゃいそう。
そして……────────
「あまり心配させるな」
すぅすぅと聞こえる寝息に小さな笑みが溢れた。先程まで化粧では隠しきれていなかった顔色の悪さは少し良くなってきている。
最後に抱き締めたときから短期間で随分と細くなってしまった腰に腕を回し、落ちないように抱き締めた。
「───────、姫がお眠りだ。慎重に頼む」
長年一緒にいる相棒は返事の代わりに先程よりもペースを落とし、我が家への帰路を進んでいく。
森の中を白馬に乗り姫を抱き抱えながら進んでいく様を知るのは、月明かりのみ──────────。
全部私が悪い。
「最近寝てないだろう」
「うん。終わらないから」
「今日で何日目だ」
「あー、えーっと3日……4日目かな、まあそれくらい。ねぇちょっと後でにして?」
「駄目だ、一度休め。食事もロクに取ってないだろう」
「大丈夫だってば」
カツカツカツ……
シャーペンの先が繰り返し消したせいで毛羽立ってしまっている五線譜を叩く。
2日前からパタリと止んでしまった音の雨。
仕事を受けたときはまだポツポツと降ってきていたのに。
五線譜に向かってもピアノを鳴らしても、全く降らなくなってしまった。
意識の向こうでカミュが何かを言っているけど、耳元でブンブンと飛ぶ蚊のように煩わしさしか感じない。
『あと少しで一段落つくから』『ちゃんとご飯も食べるよ』『心配してくれてありがとう』
どんなに伝えてもカミュは同じ事を繰り返してくる。
段々と大きく長くなるそれは作曲の邪魔でしかなくなった。
「……っるさい!!!さっき後でにしてって言ったよね?!徹夜なんて今日に始まったことじゃないでしょ?!3日4日寝食しなくても死にやしないんだからほっといてよ!!!!」
「穂花落ち着け」
「落ち着いてるし、もういいよ。どうせ
鞄に私物を詰め込み玄関を飛び出す。
雑に詰め込んだから五線譜はシワになっているだろうけど、気にしていられない。
建物の裏側に停めた車に乗り込みエンジンをかけた。
最低限の交通ルールを守ってアクセルを踏み、自宅への道を進んでいく。
つけっぱなしだった深夜のカーラジオから陽気なラブソングが流れている。
洋楽ばかりを流すこのラジオはお気に入りでよく聴いているけれど、今はそういう気分にもなれない。
サビにかかったところでブツリとラジオを切った。
車内に聞こえるのはエンジン音と鼻を啜る音だけ。
「……ほんと最悪」
***
結局ぐしゃぐしゃの五線譜に書きなぐったものをパソコンで打ち直し、データとして納入したのは朝の情報番組が6時の時報をお知らせした頃だった。
そのあとの記憶は余りなくて。
ただ上半身だけ下着という中途半端な格好でベッドを横断するように寝ていたから、布団に入ろうとしたことだけは分かった。
電池切れでつかないスマホを充電器に繋いで洗面台に向かう。
行き掛けにリビングの時計を確認すると13時過ぎをさしていた。
まだ寝足りないのかぼぅとする頭で歯磨きと洗顔を終えて鏡に映った自分と目が合う。
墓から這い出てきた
徹夜続きで目の下に出来た青黒いくまとズボラな食生活が伺える痩けた頬、時期的に周期前だからか所々ボロボロになった肌だけをとってもゾンビのようだ。
「最悪……」
スランプでイライラして体調管理も出来てなくて、挙げ句の果てにはカミュに八つ当たりして。
冷蔵庫は案の定何も入ってなかった。辛うじてストックされていたミネラルウォーターのペットボトルを取り出し寝室に向かう。
ベッドに腰かけてミネラルウォーターを飲み干す。ほとんど飲まず食わずだった空っぽの身体の中を水が通っていく感覚が伝わってきて少し気持ちが悪い。
そんな感覚を紛らわすようにゴロリと転がって充電器に繋いだままのスマホを起動させた。
ロックを開けたあと一番初めに目についたのは電話のアイコンについた上限数MAXを示したバッジ。
納入関係で何かやらかしたか?!と慌てて開けると同一人物から
最新で表示されている着信履歴の時間は3時間前で。仕事の合間に掛けてくれたんだろう。
一方的に私が悪いとはいえ心配をかけたまま仕事に行かせてしまったことに罪悪感と後悔で深いため息がでる。
メッセージアプリを開いて電話ほどではないが同一人物からの通知に既読をつけた。
『昨日はごめんなさい。仕事が終わったらそっちに帰ります。』
***
こんなことなら適当に断っときゃ良かった……。
全身を嘗め回すような視線と事あることに肩や腰に手を回そうとしてくる
あのあと先方から無事納入されたとの報告と最終打ち合わせの連絡が入った。急な連絡だなとは思ったけど、提示された時間が遅かったし他に仕事もなかったので二つ返事で了承した。
シャワーを浴びて人前に出れるくらいまであのゾンビ顔を化粧で誤魔化し、途中寄った事務所の敷地内にあるカフェテリアで遅めの昼食を取った。
打ち合わせ場所は先方が指定したうちの事務所の会議室。
夕方から夜になる時間帯だからか事務所内の人気も少ない。
もちろん目に見えるところに居ないだけであって関係者以外立ち入り禁止のレコーディングルームやダンススタジオ、事務室などにはまだ職員さんもいる。
そんな大声を出せば誰かしらくるような環境で───────
(ベタベタ触るんじゃねぇよ、くそおやじ)
ニコニコと笑顔を貼り付けながら心の中で盛大に舌打ちをかます。
どんなに味方が多い陣地だろうが結果として今後の活動が不利になることは避けては通れない。
まぁ事務所も作曲家としての名前も関係ない、一人の女として隣にいるセクハラおやじを殴り飛ばしていいのならとっくにそうしてる訳で。
最終打ち合わせと言えば聞こえはいいが、蓋を開けてみれば打ち合わせなど早々に終わり残りはくそおやじのセクハラに耐えるだけの無駄な時間。
依頼してきたときに対応してくれた頭の切れるお姉さんは外されたのか、それともこのセクハラおやじが勝手な行動をしているだけなのかは知らんがこの場に居るのは隣に陣取ってる
目の前に座ってるのに一度も目が合わない新人くんの肩はカタカタと小刻みに震えてたりする。肩だけに、なんちゃって。
「打ち合わせ中失礼します。泉さん、次の予約のお客様がお見えになっておりますので……」
「ああ、すみません。すぐ終わらせます」
控えめなノックが聞こえたあと声を掛けてきたのは顔馴染みの事務員さん。
急遽打ち合わせで使いたいと連絡した時にうちのあとにもう一件利用の予約があるらしいとのことだったから、終了時間間近になっても出てこない場合は少し早めに声を掛けるように事務員さんにお願いしてあった。
時間を見ると予定よりも15分ほど早い……が、いまさら打ち合わせも何も無いだろう。
新人くんもこの場からさっさと退出したいのか対して使いもしなかった資料をそそくさとしまっている。
身の回りの私物をしまって席を立った。
「申し訳ございません。私達のあとにも利用されるお客様がいらっしゃるようなので、本日の打ち合わせはここまでにさせて頂きます」
「いやぁ~気にしないでくれ。それよりも出口まで少し話をしようじゃないか」
話すことなんてねぇわ、と喉まで出かかった言葉を飲み込んで事務所のエントランスまで付き添う。
まだ諦めていないのか交わしても交わしても肩や腰に手を回してはニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべている。
こんだけ監視カメラの用意された
「穂花ちゃん、このあとディナーでもどう?」
「申し訳ございません。この後も別の仕事が残っておりまして」
「そんなこと言って本当は何もないんじゃないの?こんな時間だよ?……ああ!バーの方がいいかなぁ?ホテルのバーとかどう?」
こんな時間ってどの口が言うんだ。
つまり最初からその気だったわけで。ホテルのバーなんて行ったら最後このクソおやじの餌食になるわ。
「申し訳ございません。この後も担当の者との打ち合わせがございますので、お気持ちだけで失礼させていただきます」
「穂花ちゃぁん、そんなこと言って良いのかなぁ?お仕事こなくなっちゃ「泉さん」
ニタニタと今日一番の至近距離で話すコイツの顔面に一発入れてやろうと拳を握ったタイミングでかかった声は一瞬でエントランスを絶対零度の空気に変えた。
エレベーター側から姿を現したカミュは営業スマイルのままこちらに歩いてくる。
「お取り込み中のところ申し訳ありません。泉さん、社長との打ち合わせの時間が迫っていますよ」
「え……!もうそんな時間ですか?呼びに来ていただいてすみません」
「いえ私のことはお気になさらず。それよりもそちらの方々は“まだ”泉さんにご用件が?」
「え、あ、いやその……」
「こちらもクライアントを待たせていますので、ご用件が無いようでしたらここで失礼させて頂きます」
「あ、はい……失礼します……」
カミュの登場から何も出来ずにタクシーで帰っていった二人を形だけでも見送りエントランスから撤退する。
事務室で先方が帰ったことを伝え関係者以外立ち入り禁止の通用口まで来たところで私はしゃがみ込んだ。
「うぅ……、気持ち悪い……」
もともとボロボロだった体調に加え、あのクソおやじのセクハラと煙草やら香水やら加齢臭やらの混じった臭いでヤバかったのだ。
至近距離で臭いのついてしまったジャケットを脱ぐ。この時期ブラウス一枚では冷えるがここでぶっ倒れて泡を吹くよりはマシだろう。
「カミュありがとう……、助かった……」
「礼を言うなら事務員の方だな。お前があの男に絡まれていると早乙女のところに伝えに来た」
「そっか、呼びに来てくれたときに……後でお礼言わなきゃ」
社長に話がいってるならあのクライアントとの仕事はもうないな、と働かない頭で考える。
しゃがみ込んだのはいいけど、足に力が入らなくて立ち上がることも出来ない。
最悪、車は事務所に停めっぱなしでも問題は無いからあとはどうやって帰るかな……まだ謝ってもいないのに……。
ズルズルと壁を伝って落ちていく背中を支える気力もない。
ああ、そろそろヤバイな……
「帰るぞ」
呟かれた言葉と共に脇に腕を入れられカミュの肩口に顔を埋めるような形で抱き抱えられる。
スンっと息を吸うと胸に広がる匂いは安心する大好きな匂い。
カミュはそのまま通用口を進み裏口を出てマスターコースの寮がある方へ進んでいく。
暫く進んだ先の人気が全くない月明かりの下で一匹の白馬が大人しく主人の帰りを待っていた。
「─────、待たせたな」
「ヒヒィィン」
返事をするように鳴く彼の背を優しく撫でたあと、カミュは私を先に乗せ背後から抱き締めるように跨がった。
主人が跨がったのを確認したあと、ゆっくりとゆっくりと白馬は歩き出す。事務所の森の奥へと月明かりだけを頼りに進んでいく様は、まるでお伽噺に出てくる王子様のように見えるはずだ。
「カミュ昨日はごめんなさい、八つ当たりした……。ちょっと余裕がなかった……」
「お前に何かあってからでは遅い、せめて寝食だけでも取れ。こんなにボロボロではおちおち寝ることもできん」
「ごめん……」
心地よい揺れに揺られながら背後のカミュに身体を預けた。
そして目を閉じながらこれからのことを考える。
家についたらまずはお風呂に入ろう。ゆっくりと湯船に浸かったら、カチカチになった全身を揉みほぐして……。
そのあとはふかふかのベッドで眠りたいな。ご飯は食べてたら寝ちゃいそう。
そして……────────
「あまり心配させるな」
すぅすぅと聞こえる寝息に小さな笑みが溢れた。先程まで化粧では隠しきれていなかった顔色の悪さは少し良くなってきている。
最後に抱き締めたときから短期間で随分と細くなってしまった腰に腕を回し、落ちないように抱き締めた。
「───────、姫がお眠りだ。慎重に頼む」
長年一緒にいる相棒は返事の代わりに先程よりもペースを落とし、我が家への帰路を進んでいく。
森の中を白馬に乗り姫を抱き抱えながら進んでいく様を知るのは、月明かりのみ──────────。