第一部

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 しばし、時はさかのぼる。それは東雲の國が真白い雪に閉ざされ、カガミハラ家の嫡子が齢四つを数えた年のこと。

 ヒワタリヤストヨ――幼名コノマルは、五つにして生まれて初めて東雲の銀世界というものを見た。というのも、コノマルは東雲の民ではない。東雲よりも南方にある南雲という國を治めるヒワタリ家の養子である。温暖な気候の南雲では雪が降ることは滅多になく、ましてやそれが大地を覆いつくしてしまうことなど南雲の建國以来、一度としてなかった。

 コノマルの養父は戦を好まない温厚な性格ではあったが、世は乱世。南雲と東雲の関係は、決して友好的なものではない。國境に近づくことさえ危険だとされている中で、コノマルは護衛に付き添われて東雲の雪を踏みしめた。

 けれど、コノマルとその護衛である忍たちが東雲の領地に踏み入ることは公にされておらず、東雲の領主でさえ与り知らない――いわば、それは密入國であった。それと知れればすぐにでも戦となりかねないというのに、戦を嫌う南雲の領主がコノマルたちを東雲へ行かせたのには理由がある。

 そもそも、南雲では古くから霊獣「九尾狐」の血を引く一族を匿っており、城を出入りする者は皆その強大な力をよく知っている。その一方、東雲の領主は霊獣の存在に対してひどく懐疑的で、霊獣にまつわるとされる者をあえて過酷な環境に置き、その力を試すという悪癖があった。力を試すのは戦での利用価値があるか否かを選定するためだといわれているものの、真意は定かではない。ただ、この悪癖によって奪われた命が少なくないということは、紛れもない事実だった。

 そんな領主へと書状を送り、霊獣に縁ある者との面会を取り計らってもらおうだなどとするのは正気の沙汰ではない。面会をする者もまた霊獣との関わりがあるとなれば、それはなおさらのこと――かつて天から南雲の城へと落ちてきたコノマルの出生を確かにするべく、霊獣の巫女を訪ねるというその目的は、決して東雲の領主に知られてはならないことだった。

 ところが、奇しくもそのときの東雲には南雲の城下町を訪れていた行商人が滞在していたのである。そして、あろうことか、その男は城下町を駆け回って遊ぶコノマルの顔を覚えていた。これはこれはコノマル様ではございませんか、ヒワタリのご子息である貴方様がいるということは南雲と東雲は同盟を結ばれたのですか――

 コノマルは、嘘というものを吐くことができない。いくら隠しごとをしようとしても、周囲の者にはすぐにそれを見破られてしまうのだ。コノマル付きの忍であるキイヤスノリいわく、コノマルは感情が態度や表情に出やすいのだという。当のコノマル自身は自覚などないのだが、若くとも忍としての実力を認められたヤスノリが言うのだから、そのとおりなのだろうとは思っていた。

 だからこそ、コノマルは話しかけてくる行商人には気づかないふりをしたし、急ぎ駆けつけたヤスノリに商人の相手を任せた。コノマルと違って人を欺くことを得手とするヤスノリは、当然のごとく商人の言葉を笑い飛ばし、人違いであるとうそぶくことでその場を切り抜けてみせた。そして、コノマルはこれにひどく安堵してしまった。やはりヤスノリは頼りになる男だと、そう密かに表情を緩めてしまった。いかにヤスノリが上手く商人を欺いてみせたところで、そこで緊張を途切れさせてはその道に通ずる者が不審に思うなどとは、露とも頭になかったのだ。

「コノマル様は、ここでじっとしていて」

 雪深い森の奥、立ち枯れた古木の洞にコノマルを押しこんだヤスノリが言った。「何があっても絶対にここから動かないって約束して」

 まるで、ヤスノリはたった一人で追手と戦うつもりでいるかのようだった。けれど、コノマルにはそれが解せない。ヒワタリの次男として育てられたコノマルはまだまだ未熟とはいえ武術を学んでいるし、並の兵程度なら打ち負かす技量だってもっている。だのに、ヤスノリは言うのだ。コノマルに「ここで隠れていろ」と言うのだ。

「なぜだ、ヤスノリ! 小生とて戦える!」

 國から携えてきた三節棍を握りしめて声をあげれば、ヤスノリは目を細めた。そうして、くしゃりとコノマルの頭を撫でる。思わぬヤスノリの行動にコノマルが目を丸くすると、ヤスノリは静かな声音で言った。

「いいかい、コノマル様。俺たちをまとめていた忍頭はやられた。ほかの連中だって所在が知れないし、数も地の利も遥かに向こうが上だよ。下手に動けば、奴らの思うつぼだ」

「し、しかし、義父上は霊獣の巫女に会えと」

 食いさがるコノマルに、されど、ヤスノリはゆるりと首を振った。

「今回の任務は失敗だ」

「そんな」

「認めたくはないだろうけど、認めなくちゃならない。コノマル様の戦いは終わったんだ」と、ヤスノリは言う。「コノマル様にとってそれが、どんなに不本意で悔しくともね」

 馴染んだ武器を握る手が、ふるえる。そのふるえがヤスノリの言う悔しさからくるのか、それとも、厳しい冬の寒さからくるのか、コノマルにはわからなかった。何も言えずに唇を噛みしめたコノマルの頭を、ヤスノリはただ静かに撫でている。

「だけれど、すべての役目が終わったわけじゃない。コノマル様には生きて國に帰るという役目がある」

 さとすようなヤスノリの言葉は、コノマルと五つ違うだけだとは思えないほど落ち着きがあるように感じられた。

「同じように、俺にだって役目があるんだ」

「ヤスノリの役目?」

 顔をあげ、コノマルはヤスノリの顔を見る。コノマルの頭を撫でる手を止めて、ヤスノリはふと笑った。「そう、俺の役目」

 それはなんだと、コノマルが問う間もなかった。ヤスノリの手がコノマルの頭から離れたかと思うと、陽炎のようにその姿が歪む。気がつけばそこにヤスノリの姿はなく、コノマルがひどく見慣れた顔があった。思わず、コノマルは目を瞬かせる。

「ヤスノリ」と、ためらいながらも名前を呼んだ。目の前にある顔へと――自分と全く同じそれへと、手を伸ばす。すると、コノマルの前にある顔は、ひどく大人びた顔で笑った。

「なんだい、コノマル様」

 応じた声は、ヤスノリの声そのものだった。目も、髪も、着物ですらも、コノマルと同じ姿をしているというのに、応じる声だけが違う。そして、コノマルは知ったのだ。物心ついたときからそばにいたヤスノリの正体を。

「そなただったのか。霊獣の、九尾狐の血を引く一族というのは」

 九尾狐の血を引く一族は大地を豊かにするが他人を化かして遊ぶことを好む、それゆえに一族の本当の名と姿を知る者はいない――それは、南雲の城内でまことしやかにささやかれていた噂である。コノマルは忍であるヤスノリに何度も噂の真偽を調べさせていたし、ヤスノリもまた積極的に城内の者に対して探りを入れていた。夜な夜なコノマルの部屋に集っては、誰それが怪しいだとか、誰それは違うだとか、そんな情報のやりとりをしていた。ましてや、ヤスノリは城を出入りする者の名簿まで作って調べていたはずだというのに。

 コノマルが信じられない思いで眼前のヤスノリを見ると、コノマルの姿をしたヤスノリは口もとに笑みを浮かべたまま、わずかに肩をすくめる。

「だましていて悪かったね」

 と、そう詫びるヤスノリの声は、普段となんら変わらない、涼しげなものだった。

「だけれど、これが俺たち一族の掟なんだ。領主様以外に正体を明かすことはできないんだよ」

 言いながら、ヤスノリは三節棍を握るコノマルの指を一本、また一本と外していく。そうして、呆然とするコノマルの手から武器を抜き出し、ゆるりと立ちあがった。

「そしてこれが、俺の役目」

 にこりとして、ヤスノリはコノマルから奪った三節棍を軽く振るう。ひどく、こなれた手つきだった。「――どうだ、立派に化けられているとは思わないか」

 ヤスノリは姿だけでなく、声や口調、武器の扱いまで、すっかりコノマルと同じになっていた。コノマルは唖然としてヤスノリを見つめ、そして唐突に悟った。ヤスノリの意図を、その役目を、とうとう理解してしまった。たちまち、コノマルの頭には血がのぼる。感情に任せるがまま、コノマルはヤスノリにつかみかかった。

「馬鹿を申すな! 小生はそのようなことを認めた覚えなどないぞ、ヤスノリ!」

 ヤスノリはコノマルの身代わりとして討ち取られるつもりなのだ。そう思えばこそ、コノマルはなおさら黙っていられない。力の限りにこぶしを握り、声を荒げた。

「ならぬ、小生は許さぬ! 例えそれが義父上の命であったとしても、そなたはこのコノマルの配下なのだ! 勝手は許さぬ!」

 ヤスノリは自分とともに南雲へと帰るのだ、討ち死になど決して許さない、一人で逝くことなど許さない――まくし立てるコノマルを、ヤスノリの目は静かに見つめていた。コノマルは息を荒くし、その目を睨み返す。胸の中で、何やらもやもやとした気分の悪いものが渦を巻いていた。怒っているはずだというのに、どうしてかコノマルの目頭は熱くなる。こらえて噛みしめた唇から、鉄の味がした。ヤスノリのまなじりが、かすかにさがる。

「コノマル様、俺はあんた付きの忍でよかったよ」と、ヤスノリは笑った。「大層、手が焼けるけれどね」

 コノマルの首裏に衝撃が走ったのは、そのとき。こらえきれずに膝をついたコノマルを見おろし、ヤスノリは三節棍を肩に担いだ。

「あんたは少しも俺を疑わない。俺があんたを囮にして逃げるだなんて思いもしない。呆れるくらいに楽天的で、おめでたい人だ。俺が容易く他人を欺くなんて身を以って知ったばかりだろうに。南雲の領主に命じられたからって、わざわざ俺が死ににいくと思うのかい」

 薄れゆく意識の中、必死に顔をあげようとするコノマルのかたわらでヤスノリの声が言った。それじゃあお達者で――
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