花ほころびし、三月某日。
菜の花というのは、どうにもにおいが独特で、百合などのような芳しいものとは言いがたい。けれど、手ずから花を生けていくふたりの間には、談笑が絶えなかった。菜の花のにおいを、ぷんと漂わせ、軽やかに言葉を交わす。
「飾る場所はどこにしようか」
キョウヤがそう口にしたのなら、チヨコはたのしそうに「あのね」と言った。
「チヨ、お屋敷中に飾りたい」
お屋敷のあちこちに飾って、どこもかしこも菜の花畑にしたいのだと、チヨコは無邪気に笑う。これまで、チヨコの世界といえば、キヨシから宛がわれた、かつての客室だけだった。狭い窓に切り取られた外を見るだけの、小さな世界。それが、今や、モノベ邸全体にまで広がっている。チヨコが、自分の目に映る世界を花で埋め尽くしたいと願ったのかはわからない。ただ、花が好きなチヨコらしい願いだと、キョウヤは笑った。
「そうかい。それじゃあ、花瓶をもっと用意しなくてはね」
キョウヤは通りがかった下女を呼び止めて、花瓶をあるだけ持ってきてくれるよう頼むと、花瓶に咲く菜の花を見つめた。
千代紙で折られた色とりどりの花も、世界を白で染めあげる雪も、鮮やかに咲いた菜の花も――チヨコが望む世界は、いつだって、うつくしいものであふれかえっている。女子であれば、あるいはそれは当然のことなのかもしれない。しかし、キョウヤは思うのだ。チヨコのそういった願いを聞くたびに、どこか物悲しい気持ちに駆られ、思うのだ。チヨコはまるで、あの日の焼け跡を塗りつぶそうとしているかのようだと。
そう思えばこそ、菜の花のにおいの、どれほど芳しいことか。あの焦土のそれとは、比べものにならない。たまらず、キョウヤは眉根を寄せた。
「おチヨ」
「なあに、キョウヤ」
ほの暗い影など、微塵も感じさせぬ声が返る。
「きみは今、幸せかい」
キョウヤは知っている。今も、たびたび夢にみるほど、チヨコの幼い心は深く傷ついている。そしてそれは、自分と通い合ったがゆえに起こしてしまった惨劇だ。あるいは――そう、あるいは――チヨコとキョウヤが出会っていなかったのなら、キョウヤが、存在していなかったのなら、
「チヨは幸せよ」
チヨコが言った。
「キョウヤに会って、ハルオミやトシヒコに会って、今こうして一緒にいられることができて、チヨは幸せよ」
「そうか」
「そうよ」
花瓶に生けたばかりの菜の花を、細い手が短く手折る。チヨコは、うんと背伸びをしたかと思うと、キョウヤの胸ポケットにそれを差した。白いかんばせが、笑みを浮かべる。
「キョウヤ、お花のにおい」
きっと、それは戯れであった。キョウヤの錯覚であった。けれど、あどけなく紡がれた言葉が、声が、音もなく、キョウヤに語りかけてくる。だから、もういいのだと。笑ってほしいと。あの、おそろしい世界は、もうここにはないのだからと。
まさしく、救われる思いだった。錯覚であって、戯れであっても、チヨコが浮かべる笑みに偽りはない。キョウヤは、伸ばした指先で花瓶の花を折った。チヨコのつややかな髪へと差してやれば、黒に菜の花の黄色が、とてもよく映える。
「これで、おそろいだ」
キョウヤが笑うと、チヨコもまた笑った。あの鼻を覆いたくなるような凄惨なにおいは、このモノベ邸のどこからも漂ってはこない。鼻をくすぐるのは、菜の花のそれだ。チヨコが望む世界は、あるいは、キョウヤの望む世界と同じであったのかもしれない。今さらながらに思って、キョウヤはふと笑みを深めた。
「飾る場所はどこにしようか」
キョウヤがそう口にしたのなら、チヨコはたのしそうに「あのね」と言った。
「チヨ、お屋敷中に飾りたい」
お屋敷のあちこちに飾って、どこもかしこも菜の花畑にしたいのだと、チヨコは無邪気に笑う。これまで、チヨコの世界といえば、キヨシから宛がわれた、かつての客室だけだった。狭い窓に切り取られた外を見るだけの、小さな世界。それが、今や、モノベ邸全体にまで広がっている。チヨコが、自分の目に映る世界を花で埋め尽くしたいと願ったのかはわからない。ただ、花が好きなチヨコらしい願いだと、キョウヤは笑った。
「そうかい。それじゃあ、花瓶をもっと用意しなくてはね」
キョウヤは通りがかった下女を呼び止めて、花瓶をあるだけ持ってきてくれるよう頼むと、花瓶に咲く菜の花を見つめた。
千代紙で折られた色とりどりの花も、世界を白で染めあげる雪も、鮮やかに咲いた菜の花も――チヨコが望む世界は、いつだって、うつくしいものであふれかえっている。女子であれば、あるいはそれは当然のことなのかもしれない。しかし、キョウヤは思うのだ。チヨコのそういった願いを聞くたびに、どこか物悲しい気持ちに駆られ、思うのだ。チヨコはまるで、あの日の焼け跡を塗りつぶそうとしているかのようだと。
そう思えばこそ、菜の花のにおいの、どれほど芳しいことか。あの焦土のそれとは、比べものにならない。たまらず、キョウヤは眉根を寄せた。
「おチヨ」
「なあに、キョウヤ」
ほの暗い影など、微塵も感じさせぬ声が返る。
「きみは今、幸せかい」
キョウヤは知っている。今も、たびたび夢にみるほど、チヨコの幼い心は深く傷ついている。そしてそれは、自分と通い合ったがゆえに起こしてしまった惨劇だ。あるいは――そう、あるいは――チヨコとキョウヤが出会っていなかったのなら、キョウヤが、存在していなかったのなら、
「チヨは幸せよ」
チヨコが言った。
「キョウヤに会って、ハルオミやトシヒコに会って、今こうして一緒にいられることができて、チヨは幸せよ」
「そうか」
「そうよ」
花瓶に生けたばかりの菜の花を、細い手が短く手折る。チヨコは、うんと背伸びをしたかと思うと、キョウヤの胸ポケットにそれを差した。白いかんばせが、笑みを浮かべる。
「キョウヤ、お花のにおい」
きっと、それは戯れであった。キョウヤの錯覚であった。けれど、あどけなく紡がれた言葉が、声が、音もなく、キョウヤに語りかけてくる。だから、もういいのだと。笑ってほしいと。あの、おそろしい世界は、もうここにはないのだからと。
まさしく、救われる思いだった。錯覚であって、戯れであっても、チヨコが浮かべる笑みに偽りはない。キョウヤは、伸ばした指先で花瓶の花を折った。チヨコのつややかな髪へと差してやれば、黒に菜の花の黄色が、とてもよく映える。
「これで、おそろいだ」
キョウヤが笑うと、チヨコもまた笑った。あの鼻を覆いたくなるような凄惨なにおいは、このモノベ邸のどこからも漂ってはこない。鼻をくすぐるのは、菜の花のそれだ。チヨコが望む世界は、あるいは、キョウヤの望む世界と同じであったのかもしれない。今さらながらに思って、キョウヤはふと笑みを深めた。