第一部
それからというもの、タツマルはシノを連れて、たびたびマツリのもとを訪ねるようになった。森を訪ねていくと、マツリは必ずその前に姿を現し、森の奥にある家へと案内してくれた。マツリは知が深く、シノも知らないようなことを多く知っていた。タツマルはマツリが語り聞かせる話で知識を深める一方、家臣であるシノという人間に対する理解も深めていった。
例えば、シノは自身よりも他人を優先する節がある。そのうえ頭が固いものだから遊びという概念がわからず、冗談を真に受けやすい。タツマルやマツリが、たわむれに突飛なことを言えば、簡単に狼狽するのだ。タツマルにとってのシノは、いつでも冷静な家臣という印象が強かったせいか、これはひどく新鮮に感じられた。
けれど、いくらタツマルが森へ通おうとも、マツリという存在のことだけは知ることができない。それどころか、会えば会うほどにその謎は深まっていく――そんなようにさえ感じていた。
ある晩。トオイリ家の当主に呼ばれたシノが屋敷を出てしまい、タツマルは一人でマツリのいる森へと足を運ぶことになった。あらかじめタツマルが来ると知っていたかのように、その日もマツリは姿を見せた。いつもならかたわらに控えているシノの姿がないことにさえ、疑問を抱いていないようだった。変わらぬ微笑を浮かべて、タツマルを出迎える。
「いらっしゃい、おちびさん」
「俺はタツマルだ。おまえはいい加減に覚えろ」
タツマルがマツリと出会ってから、季節はもう四つも巡っていた。けれども、マツリはタツマルのことをいつまでも「おちびさん」と呼ぶ。だから、タツマルも意固地になってマツリのことを「おまえ」としか呼んでいなかった。
「では、おちびさんが私の名前を覚えられたら考えようか」
「おまえが俺の名前を覚えたらな」
決して名前を覚えられていないわけではないことくらい、互いに承知していた。それでも、こんな軽口を叩き合うのも悪くはないと、タツマルは思っていた。そして、その後に続く不思議な夜話もまた。
ところが、その晩は少しだけいつもの夜とは違っていた。シノがいないということもあったのかもしれないし、明るい月夜だったということもあったのかもしれない。タツマルが聞いたこともないような話を毎晩のように語り聞かせるマツリに対して、何気なく投げかけた問い。それが、発端だった。
「おまえはどこでそんな話を聞いてくるんだ」
今夜は月がきれいだからと、縁側に腰かけて茶をすすっていたマツリは、タツマルの問いかけに一瞬だけ動きを止めた。そうして、何かを考えこむようにふつりと黙る。マツリの手にしていた湯呑みが、茶請けの隣に置かれた。
「私の故郷の國だから、聞いてくるというよりは聞いて育ったというほうが正しいのだろうね」
どこか遠くを見つめるようにして、マツリが空を仰ぐ。そのとき、タツマルはマツリの瞳の中に、わずかな陰りを見出した。
「おまえ、亡國の民なのか」思わず、タツマルはマツリに尋ねていた。
この乱世。いくつもの國が存在し、その覇権を争っている。その争いの最中でいくつの國が滅び、またいくつの國が生まれたのか、それを仔細に知る者はそう多くはない。ゆえに、國を失くした民というのは、そう珍しいものではなかった。実際そういった町民は多くいたし、さまざまな亡國の民たちが集って小さな集落をつくることもあるという。
しかし、タツマルを振り返ったマツリは曖昧に笑った。そうして、はぐらかすかのように「さて、ね」と、再び天を仰ぐ。答えるつもりがないのは、明白だった。こうなるとマツリは梃子でも動かない。それを重々に承知していたタツマルは真実を聞くことをあきらめ、ならうように頭上を仰いだ。空には、蒼い月が昇っている。しばしの静寂が、辺りを満たした。
「かつて、月には罪を犯した姫がいた」
ぽつりと、マツリが呟くように言った。タツマルはマツリを振り返ったが、当の本人は変わらず空を眺めている。その横顔は、ほのかな月明かりの中で淡く光っているように見えた。瞬きも忘れ、タツマルはマツリを見る。その間にも、とうとうとマツリは言葉を紡いだ。
「姫は罰として地へ降ろされ、そこで老夫婦に育てられた。やがて姫は誰よりも美しい娘となり、國中の男たちを魅了した。國中の誰もが姫を欲した。けれど、姫は決して誰の求めにも応えなかった」
そうしてそのまま姫は迎えの者に連れられ月へと帰っていった――そう言葉を結び、マツリはふと寂しげな笑みを浮かべる。
「果たして姫はどのような罪を犯し、どのような罰を受け、どのような想いで帰っていったのだろうね――私には想像もつかないんだよ」
タツマルにはなんと声をかけてやればいいのか、わからなかった。マツリが何を言わんとしているのかも、わからない。常からタツマルにはわからないことだらけのマツリだったが、今はますます何を思っているのかがわからない。けれど、それでも、タツマルはマツリのそんな寂しげな顔は見たくないと思った。
「おまえは」
気づけば、タツマルはそう口を開いていた。
「おまえは、ずっとこの國にいればいい。俺のそばにいればいい。罪も罰も、俺が一緒に背負ってやる。おまえは、俺が守ってやる」
タツマルのこの言葉を、マツリはどう思ったのだろうか。初陣どころか元服すらしていない子どもの戯言だと、そう思っただろうか。自分を慰めるための安い同情だと思っただろうか。だが、マツリは今にも泣きだしそうな顔で笑っていた。そうして、ただ「ありがとう」と、それだけを繰り返した。
タツマルはこのとき、いつも飄々としてつかみどころのないマツリの、その本当の心にふれたような気がした。強くしなやかに生きているように見えたマツリもまた、脆く儚い存在なのかもしれないと、そう思った。
そしてこれをきっかけに、タツマルは武家の子として守るべきものを強く意識するようになった。町民の目につくことも構わずタツマルは日が高い内から外を出歩き、時には民家の屋根から町民たちの暮らしを眺めることもあった。タツマルが町を歩くと民たちはそそくさとその場を後にしたものだったが、屋根の上から眺めているときは誰もがその日を生きるために自らのできることをしている。井戸で水を汲み家へと運ぶ者、来る冬に備えて柿や魚を軒先に干す者、声を張りあげて客引きをする者、そして、仕事に精を出す親に代わって弟や妹たちをあやす子ら――
タツマルは考えた。普段自分が口にしているものや着ているものは、すべてこの民たちの手によってつくられたもの。けれど、タツマルは民のように生活をするため自ら動くことはない。あったとしても、シノに頼みこんで教わった料理をするときくらいだ。一方で、普段のタツマルは町民がすることのないことをしている。剣の稽古をし、馬に乗り、兵法を学ぶ――
これらはすべて戦う力を得るためだ。負けない力を得るためだ。それでは、その力は一体なんのために使うのか。國のため、領主のため、家のため――模範的な回答はいくつでも浮かんだ。だのに、どれもこれもタツマルの胸にぴたりと当てはまらない。考えにふけるタツマルの耳に、ふいにあわてた声が飛びこんできた。
「やべえ、ひっくり返しちまった!」
「逃げろ! 梅干しばばあが出てくるぞ!」
タツマルの足もとから、蜘蛛の子を散らすように子どもたちが逃げていく。何事かと思ってタツマルが屋根の下を覗くと、ちょうど年老いた女が中から出てくるところだった。地面には白く丸いものがいくつも転がっている――そういえば今日タツマルが登ったのはまんじゅう屋の上だったか。大方、先ほどの子どもたちが誤って商品のまんじゅうを散らかしてしまったのだろう。
けれど、店から出てきた女には逃げた子どもたちを追いかけるだけの体力はなかった。重いため息を吐き、丸まった背中をさらに丸めて、まんじゅうを拾い集め始める。近くには町民たちの姿もまばらで、手伝う者もいないようだった。タツマルは女のようすを屋根から眺め、やがてそこから飛び降りた。
突然、屋根から降ってきた人影に女はおどろいた声をあげたが、それが町で鬼の子と噂されるタツマルだと知ってなおさらおどろいたのだろう。これ以上ないくらいに目を見開いた後、腰を抜かしてしりもちをついた。「タ、タツマル様!」
とたん、その通りを歩いていたわずかな町民たちがタツマルを見る。以前のタツマルならば、間違いなく怯んでいただろう畏怖の視線。けれども、不思議なことに今のタツマルにはなんとも感じられなかった。それ以上に、目の前の女のことが気がかりだった。
「いくらだ」
タツマルが地面に転がるまんじゅうをあごで差して問えば、女はとたんに顔を青ざめさせた。
「と、とんでございません! タツマル様からお金なんていただけません!」
「いいから答えろ。有り金置いてくぞ」
答えを催促するタツマルに、女は困惑の表情を隠せないようだった。怯えた目でタツマルを仰ぎ、すぐにうつむく。
「で、ですが、こんな汚れたものでは商品には」
女が目を向けた先には、土に塗れたまんじゅうが転がっていた。タツマルは黙ってそのひとつを拾いあげる。土を払い、しげしげとまんじゅうを眺めた。そうして、それにかぶりつく。女が悲鳴じみた声をあげた。柔らかな皮に包まれた甘い餡が、タツマルの口の中へ広がってゆく。
「ああ、うまいな」
それは、世辞でもなんでもない。タツマルの素直な感想だった。
タツマル自身は自分で意識したことなどなかったのだが、あるいはそのとき、タツマルは初めて民の前で笑ったのかもしれない。「悪いな、腹が減っているところにうまそうなもんがあったから食っちまった。こいつは、いくらする」
※
このタツマルの行動をシノが聞いたのは、父親であるトオイリ家当主――ユキマサと話をしていたときだった。たまたま町へ出ていた女中の一人が見たというのである。この女中、トオイリ家に古くからおり、カガミハラ家にも出入りしていた者で、喋り好きなのは珠に傷だがシノがタツマルへ強い忠誠をささげていることを理解している数少ない人間だった。
「そうか、タツマル様がそのようなことを」
「はい。その後は抱えられるだけの菓子をお持ちになって、屋敷へ帰られました」
シノは熱をもつ目頭を指で押さえ、女中に言った。
「ご苦労。さがっていい」
女中は深々と頭をさげ、静かに部屋を出て行く。それを見送った後、ユキマサが口を開いた。
「もう良い頃合いなのかもしれぬ。タツマル様は、もはや子どもではない。当主としての器をもつ立派な武士になられた」
ユキマサの言葉を聞き、シノはゆるりとうなずく。「そのようです」
タツマルの成長を見つめてきたシノはこれを感慨深く思いながら、自分は間違っていたのだと痛感した。そう、もはやタツマルは子どもではない――
あれはいつのことだったか。普段と変わらずカガミハラ家で過ごしていたシノが、ユキマサに呼ばれてトオイリの家に戻らなくてはならなくなったときのことだった。
「タツマル様、急で申し訳ありませんが、シノはこれから少し屋敷を離れます」
「シノが?」
外の用事は女中らに任せていることが多いせいだろう。意外そうな顔で振り返ったタツマルに、シノは頭をさげたまま言った。
「すぐに戻って参りますゆえ、しばしお待ちいただきたく」
けれど、タツマルはかぶりを振り、
「いい。カガミハラに仕える以前に、おまえもトオイリの次期当主だ。やることもあるだろ――いや、これ以上は野暮だな。戻るのは明日か?」
タツマルの言葉に、シノは思わず呆けた。未だ元服していないとはいえ、いずれタツマルがカガミハラの当主となることは明白。当主としての務めを教えたことがないわけではないが、シノから見たタツマルはまだ幼く、そういう話をされるとは思ってもみなかったのだ。
「は、いえ――そういったことでは――」
しどろもどろになって言葉をさがす。が、そんなシノの耳にすべりこんできたのは、くつくつと喉を鳴らす音だった。
「わかってる。冗談だ」
「タ、タツマル様!」
思わず抗議の声をあげたシノを、けれども、タツマルは不敵な笑みで見る。
「おまえは相変わらずだな、シノ。いつまでも俺をガキ扱いしてるからそうなるんだぜ?」
図星、というべきなのだろう。シノ自身もどこかで自覚していた分、そのときは反論することができなかったのだが、やはりタツマルに対しての認識は改めなければならないようだった。今になって思い返せば、タツマルがシノに涙を見せなくなったのも、その成長ゆえ。あのころから、タツマルは目下の者を気遣うことができるようになっていた――
「タツマル様は、強くなられました。あの娘と出会ってから、瞬く間に成長なされた」
「霊獣の森に住まう娘か」
ユキマサの問いに、シノは静かにうなずいた。
「マツリ――いえ、あの者なくして今のタツマル様はありません」
マツリはタツマルに対して真摯な愛情を以って接していた。タツマルにふれるその手は、まるでシノが知る母の手のように、いつも慈愛に満ちていた。親のいない悲しみさえも、いつしかタツマルは乗り越えていた。
「そうであろうな。あの霊獣の巫女がいなければ、タツマル様も先代と同じように命を奪われていた」
重々しくうなずいたユキマサは、ところが、ふいにその表情を陰らせる。「シノ」と、短く名を呼ばれ、シノはすぐたたずまいを直した。どれほど不利な戦でも決して臆することなく挑んだというユキマサの唇が、かすかに慄いている。
「直に、おまえはトオイリの当主として、カガミハラに仕えるだろう。だが、今一度聞きたい。おまえは家を継ぐことに悔いはないのか。このユキマサを――父を、恨む気持ちはないのか」
それは、トオイリ家当主としてではなく、一人の父親としての問いだった。このとき、シノはトオイリ家当主であり自らの父親でもあるユキマサの苦悩を知った。
というのも、シノがカガミハラ家のもとを去らずに残ったのはシノ自身の意思だったが、トオイリ家の当主たるユキマサがそれを止めなかったことにもわけがあったからだ。そして、シノがこのことを知るきっかけとなったのは、マツリの意味深な発言にほかならない。
――トオイリの当主になるのであれば、いずれは聞かされるはず。それを早めるかどうかはその心次第。
シノは、トオイリ家にはなんらかの秘密があると考えた。そして、これを現当主である父に聞くか、自らの手で調べるかを考えた結果、シノは後者を選んだ。鍵のかけられた蔵に入り、いくつかの書物を読み解いていくうちに、その真相はすぐにわかった。トオイリは、カガミハラと同じだった――否、正しくはトオイリ家の祖先がカガミハラ家に生まれたタツマルと同じだったのだ。
この真偽を父に問いただすべく蔵を出たシノは、そこでユキマサと鉢合わせた。ユキマサはシノの行動を「風から聞いた」と言い、人払いをした部屋へとシノを呼んだ。シノはそこで、蔵にあった書物に記されていたことと違わぬトオイリ家の真実を聞かされた。
トオイリの祖先は、かつて「鳳凰」と呼ばれる霊獣と心を通わせた人間から生まれた。しかし、古くからの言い伝えに反した祖先は人から迫害され、故郷を追われ、流浪の民となった。トオイリ家に伝わる剣舞を初めとする舞や唄の類は、祖先が各地を放浪していたころの名残であるとシノが知ったのはそのときのこと。トオイリの一族は自分たちを受け入れてくれる地を探してはさまよい、ついにこの東雲の國へとたどり着いた。すべてを知った上でカガミハラ家は快くトオイリの一族を迎え入れ、その素性を誰にも明かさなかった。カガミハラはトオイリが人として生きられるように計らい、トオイリはカガミハラへの恩に報いるためその忠誠を誓った。
だが、あろうことか、そのカガミハラの当主がトオイリと同じ過ちを犯してしまった。もはや、この地のカガミハラ家にトオイリ家を守る力はなく、立場は逆転しているといってもいい。ともすれば、カガミハラ家とともにトオイリ家が再び迫害される可能性は多分にあるのだ。トオイリの当主であるユキマサが、カガミハラへの忠義と一族を守る役目との間で葛藤していたのは、当然のことでもあったのだろう。ゆえに、この葛藤を我が子に背負わせるだろうということを、そしてその身に流れる血の宿命を背負わせてしまったことを、父としてのユキマサは憂いているのだ。
生まれて初めて見た父の弱さを前に、けれど、シノの意思が揺らぐことはなかった。
「父上らしからぬお言葉です。どうか、私に教えを」
背筋を伸ばし、真っ直ぐにその瞳を見つめる。父であり、当主であるユキマサの表情は、やがて武士のそれへと変わった。
「よかろう。戦の気配も近づいておる。しばらくはカガミハラ家への出入りはできぬと思え」
例えば、シノは自身よりも他人を優先する節がある。そのうえ頭が固いものだから遊びという概念がわからず、冗談を真に受けやすい。タツマルやマツリが、たわむれに突飛なことを言えば、簡単に狼狽するのだ。タツマルにとってのシノは、いつでも冷静な家臣という印象が強かったせいか、これはひどく新鮮に感じられた。
けれど、いくらタツマルが森へ通おうとも、マツリという存在のことだけは知ることができない。それどころか、会えば会うほどにその謎は深まっていく――そんなようにさえ感じていた。
ある晩。トオイリ家の当主に呼ばれたシノが屋敷を出てしまい、タツマルは一人でマツリのいる森へと足を運ぶことになった。あらかじめタツマルが来ると知っていたかのように、その日もマツリは姿を見せた。いつもならかたわらに控えているシノの姿がないことにさえ、疑問を抱いていないようだった。変わらぬ微笑を浮かべて、タツマルを出迎える。
「いらっしゃい、おちびさん」
「俺はタツマルだ。おまえはいい加減に覚えろ」
タツマルがマツリと出会ってから、季節はもう四つも巡っていた。けれども、マツリはタツマルのことをいつまでも「おちびさん」と呼ぶ。だから、タツマルも意固地になってマツリのことを「おまえ」としか呼んでいなかった。
「では、おちびさんが私の名前を覚えられたら考えようか」
「おまえが俺の名前を覚えたらな」
決して名前を覚えられていないわけではないことくらい、互いに承知していた。それでも、こんな軽口を叩き合うのも悪くはないと、タツマルは思っていた。そして、その後に続く不思議な夜話もまた。
ところが、その晩は少しだけいつもの夜とは違っていた。シノがいないということもあったのかもしれないし、明るい月夜だったということもあったのかもしれない。タツマルが聞いたこともないような話を毎晩のように語り聞かせるマツリに対して、何気なく投げかけた問い。それが、発端だった。
「おまえはどこでそんな話を聞いてくるんだ」
今夜は月がきれいだからと、縁側に腰かけて茶をすすっていたマツリは、タツマルの問いかけに一瞬だけ動きを止めた。そうして、何かを考えこむようにふつりと黙る。マツリの手にしていた湯呑みが、茶請けの隣に置かれた。
「私の故郷の國だから、聞いてくるというよりは聞いて育ったというほうが正しいのだろうね」
どこか遠くを見つめるようにして、マツリが空を仰ぐ。そのとき、タツマルはマツリの瞳の中に、わずかな陰りを見出した。
「おまえ、亡國の民なのか」思わず、タツマルはマツリに尋ねていた。
この乱世。いくつもの國が存在し、その覇権を争っている。その争いの最中でいくつの國が滅び、またいくつの國が生まれたのか、それを仔細に知る者はそう多くはない。ゆえに、國を失くした民というのは、そう珍しいものではなかった。実際そういった町民は多くいたし、さまざまな亡國の民たちが集って小さな集落をつくることもあるという。
しかし、タツマルを振り返ったマツリは曖昧に笑った。そうして、はぐらかすかのように「さて、ね」と、再び天を仰ぐ。答えるつもりがないのは、明白だった。こうなるとマツリは梃子でも動かない。それを重々に承知していたタツマルは真実を聞くことをあきらめ、ならうように頭上を仰いだ。空には、蒼い月が昇っている。しばしの静寂が、辺りを満たした。
「かつて、月には罪を犯した姫がいた」
ぽつりと、マツリが呟くように言った。タツマルはマツリを振り返ったが、当の本人は変わらず空を眺めている。その横顔は、ほのかな月明かりの中で淡く光っているように見えた。瞬きも忘れ、タツマルはマツリを見る。その間にも、とうとうとマツリは言葉を紡いだ。
「姫は罰として地へ降ろされ、そこで老夫婦に育てられた。やがて姫は誰よりも美しい娘となり、國中の男たちを魅了した。國中の誰もが姫を欲した。けれど、姫は決して誰の求めにも応えなかった」
そうしてそのまま姫は迎えの者に連れられ月へと帰っていった――そう言葉を結び、マツリはふと寂しげな笑みを浮かべる。
「果たして姫はどのような罪を犯し、どのような罰を受け、どのような想いで帰っていったのだろうね――私には想像もつかないんだよ」
タツマルにはなんと声をかけてやればいいのか、わからなかった。マツリが何を言わんとしているのかも、わからない。常からタツマルにはわからないことだらけのマツリだったが、今はますます何を思っているのかがわからない。けれど、それでも、タツマルはマツリのそんな寂しげな顔は見たくないと思った。
「おまえは」
気づけば、タツマルはそう口を開いていた。
「おまえは、ずっとこの國にいればいい。俺のそばにいればいい。罪も罰も、俺が一緒に背負ってやる。おまえは、俺が守ってやる」
タツマルのこの言葉を、マツリはどう思ったのだろうか。初陣どころか元服すらしていない子どもの戯言だと、そう思っただろうか。自分を慰めるための安い同情だと思っただろうか。だが、マツリは今にも泣きだしそうな顔で笑っていた。そうして、ただ「ありがとう」と、それだけを繰り返した。
タツマルはこのとき、いつも飄々としてつかみどころのないマツリの、その本当の心にふれたような気がした。強くしなやかに生きているように見えたマツリもまた、脆く儚い存在なのかもしれないと、そう思った。
そしてこれをきっかけに、タツマルは武家の子として守るべきものを強く意識するようになった。町民の目につくことも構わずタツマルは日が高い内から外を出歩き、時には民家の屋根から町民たちの暮らしを眺めることもあった。タツマルが町を歩くと民たちはそそくさとその場を後にしたものだったが、屋根の上から眺めているときは誰もがその日を生きるために自らのできることをしている。井戸で水を汲み家へと運ぶ者、来る冬に備えて柿や魚を軒先に干す者、声を張りあげて客引きをする者、そして、仕事に精を出す親に代わって弟や妹たちをあやす子ら――
タツマルは考えた。普段自分が口にしているものや着ているものは、すべてこの民たちの手によってつくられたもの。けれど、タツマルは民のように生活をするため自ら動くことはない。あったとしても、シノに頼みこんで教わった料理をするときくらいだ。一方で、普段のタツマルは町民がすることのないことをしている。剣の稽古をし、馬に乗り、兵法を学ぶ――
これらはすべて戦う力を得るためだ。負けない力を得るためだ。それでは、その力は一体なんのために使うのか。國のため、領主のため、家のため――模範的な回答はいくつでも浮かんだ。だのに、どれもこれもタツマルの胸にぴたりと当てはまらない。考えにふけるタツマルの耳に、ふいにあわてた声が飛びこんできた。
「やべえ、ひっくり返しちまった!」
「逃げろ! 梅干しばばあが出てくるぞ!」
タツマルの足もとから、蜘蛛の子を散らすように子どもたちが逃げていく。何事かと思ってタツマルが屋根の下を覗くと、ちょうど年老いた女が中から出てくるところだった。地面には白く丸いものがいくつも転がっている――そういえば今日タツマルが登ったのはまんじゅう屋の上だったか。大方、先ほどの子どもたちが誤って商品のまんじゅうを散らかしてしまったのだろう。
けれど、店から出てきた女には逃げた子どもたちを追いかけるだけの体力はなかった。重いため息を吐き、丸まった背中をさらに丸めて、まんじゅうを拾い集め始める。近くには町民たちの姿もまばらで、手伝う者もいないようだった。タツマルは女のようすを屋根から眺め、やがてそこから飛び降りた。
突然、屋根から降ってきた人影に女はおどろいた声をあげたが、それが町で鬼の子と噂されるタツマルだと知ってなおさらおどろいたのだろう。これ以上ないくらいに目を見開いた後、腰を抜かしてしりもちをついた。「タ、タツマル様!」
とたん、その通りを歩いていたわずかな町民たちがタツマルを見る。以前のタツマルならば、間違いなく怯んでいただろう畏怖の視線。けれども、不思議なことに今のタツマルにはなんとも感じられなかった。それ以上に、目の前の女のことが気がかりだった。
「いくらだ」
タツマルが地面に転がるまんじゅうをあごで差して問えば、女はとたんに顔を青ざめさせた。
「と、とんでございません! タツマル様からお金なんていただけません!」
「いいから答えろ。有り金置いてくぞ」
答えを催促するタツマルに、女は困惑の表情を隠せないようだった。怯えた目でタツマルを仰ぎ、すぐにうつむく。
「で、ですが、こんな汚れたものでは商品には」
女が目を向けた先には、土に塗れたまんじゅうが転がっていた。タツマルは黙ってそのひとつを拾いあげる。土を払い、しげしげとまんじゅうを眺めた。そうして、それにかぶりつく。女が悲鳴じみた声をあげた。柔らかな皮に包まれた甘い餡が、タツマルの口の中へ広がってゆく。
「ああ、うまいな」
それは、世辞でもなんでもない。タツマルの素直な感想だった。
タツマル自身は自分で意識したことなどなかったのだが、あるいはそのとき、タツマルは初めて民の前で笑ったのかもしれない。「悪いな、腹が減っているところにうまそうなもんがあったから食っちまった。こいつは、いくらする」
※
このタツマルの行動をシノが聞いたのは、父親であるトオイリ家当主――ユキマサと話をしていたときだった。たまたま町へ出ていた女中の一人が見たというのである。この女中、トオイリ家に古くからおり、カガミハラ家にも出入りしていた者で、喋り好きなのは珠に傷だがシノがタツマルへ強い忠誠をささげていることを理解している数少ない人間だった。
「そうか、タツマル様がそのようなことを」
「はい。その後は抱えられるだけの菓子をお持ちになって、屋敷へ帰られました」
シノは熱をもつ目頭を指で押さえ、女中に言った。
「ご苦労。さがっていい」
女中は深々と頭をさげ、静かに部屋を出て行く。それを見送った後、ユキマサが口を開いた。
「もう良い頃合いなのかもしれぬ。タツマル様は、もはや子どもではない。当主としての器をもつ立派な武士になられた」
ユキマサの言葉を聞き、シノはゆるりとうなずく。「そのようです」
タツマルの成長を見つめてきたシノはこれを感慨深く思いながら、自分は間違っていたのだと痛感した。そう、もはやタツマルは子どもではない――
あれはいつのことだったか。普段と変わらずカガミハラ家で過ごしていたシノが、ユキマサに呼ばれてトオイリの家に戻らなくてはならなくなったときのことだった。
「タツマル様、急で申し訳ありませんが、シノはこれから少し屋敷を離れます」
「シノが?」
外の用事は女中らに任せていることが多いせいだろう。意外そうな顔で振り返ったタツマルに、シノは頭をさげたまま言った。
「すぐに戻って参りますゆえ、しばしお待ちいただきたく」
けれど、タツマルはかぶりを振り、
「いい。カガミハラに仕える以前に、おまえもトオイリの次期当主だ。やることもあるだろ――いや、これ以上は野暮だな。戻るのは明日か?」
タツマルの言葉に、シノは思わず呆けた。未だ元服していないとはいえ、いずれタツマルがカガミハラの当主となることは明白。当主としての務めを教えたことがないわけではないが、シノから見たタツマルはまだ幼く、そういう話をされるとは思ってもみなかったのだ。
「は、いえ――そういったことでは――」
しどろもどろになって言葉をさがす。が、そんなシノの耳にすべりこんできたのは、くつくつと喉を鳴らす音だった。
「わかってる。冗談だ」
「タ、タツマル様!」
思わず抗議の声をあげたシノを、けれども、タツマルは不敵な笑みで見る。
「おまえは相変わらずだな、シノ。いつまでも俺をガキ扱いしてるからそうなるんだぜ?」
図星、というべきなのだろう。シノ自身もどこかで自覚していた分、そのときは反論することができなかったのだが、やはりタツマルに対しての認識は改めなければならないようだった。今になって思い返せば、タツマルがシノに涙を見せなくなったのも、その成長ゆえ。あのころから、タツマルは目下の者を気遣うことができるようになっていた――
「タツマル様は、強くなられました。あの娘と出会ってから、瞬く間に成長なされた」
「霊獣の森に住まう娘か」
ユキマサの問いに、シノは静かにうなずいた。
「マツリ――いえ、あの者なくして今のタツマル様はありません」
マツリはタツマルに対して真摯な愛情を以って接していた。タツマルにふれるその手は、まるでシノが知る母の手のように、いつも慈愛に満ちていた。親のいない悲しみさえも、いつしかタツマルは乗り越えていた。
「そうであろうな。あの霊獣の巫女がいなければ、タツマル様も先代と同じように命を奪われていた」
重々しくうなずいたユキマサは、ところが、ふいにその表情を陰らせる。「シノ」と、短く名を呼ばれ、シノはすぐたたずまいを直した。どれほど不利な戦でも決して臆することなく挑んだというユキマサの唇が、かすかに慄いている。
「直に、おまえはトオイリの当主として、カガミハラに仕えるだろう。だが、今一度聞きたい。おまえは家を継ぐことに悔いはないのか。このユキマサを――父を、恨む気持ちはないのか」
それは、トオイリ家当主としてではなく、一人の父親としての問いだった。このとき、シノはトオイリ家当主であり自らの父親でもあるユキマサの苦悩を知った。
というのも、シノがカガミハラ家のもとを去らずに残ったのはシノ自身の意思だったが、トオイリ家の当主たるユキマサがそれを止めなかったことにもわけがあったからだ。そして、シノがこのことを知るきっかけとなったのは、マツリの意味深な発言にほかならない。
――トオイリの当主になるのであれば、いずれは聞かされるはず。それを早めるかどうかはその心次第。
シノは、トオイリ家にはなんらかの秘密があると考えた。そして、これを現当主である父に聞くか、自らの手で調べるかを考えた結果、シノは後者を選んだ。鍵のかけられた蔵に入り、いくつかの書物を読み解いていくうちに、その真相はすぐにわかった。トオイリは、カガミハラと同じだった――否、正しくはトオイリ家の祖先がカガミハラ家に生まれたタツマルと同じだったのだ。
この真偽を父に問いただすべく蔵を出たシノは、そこでユキマサと鉢合わせた。ユキマサはシノの行動を「風から聞いた」と言い、人払いをした部屋へとシノを呼んだ。シノはそこで、蔵にあった書物に記されていたことと違わぬトオイリ家の真実を聞かされた。
トオイリの祖先は、かつて「鳳凰」と呼ばれる霊獣と心を通わせた人間から生まれた。しかし、古くからの言い伝えに反した祖先は人から迫害され、故郷を追われ、流浪の民となった。トオイリ家に伝わる剣舞を初めとする舞や唄の類は、祖先が各地を放浪していたころの名残であるとシノが知ったのはそのときのこと。トオイリの一族は自分たちを受け入れてくれる地を探してはさまよい、ついにこの東雲の國へとたどり着いた。すべてを知った上でカガミハラ家は快くトオイリの一族を迎え入れ、その素性を誰にも明かさなかった。カガミハラはトオイリが人として生きられるように計らい、トオイリはカガミハラへの恩に報いるためその忠誠を誓った。
だが、あろうことか、そのカガミハラの当主がトオイリと同じ過ちを犯してしまった。もはや、この地のカガミハラ家にトオイリ家を守る力はなく、立場は逆転しているといってもいい。ともすれば、カガミハラ家とともにトオイリ家が再び迫害される可能性は多分にあるのだ。トオイリの当主であるユキマサが、カガミハラへの忠義と一族を守る役目との間で葛藤していたのは、当然のことでもあったのだろう。ゆえに、この葛藤を我が子に背負わせるだろうということを、そしてその身に流れる血の宿命を背負わせてしまったことを、父としてのユキマサは憂いているのだ。
生まれて初めて見た父の弱さを前に、けれど、シノの意思が揺らぐことはなかった。
「父上らしからぬお言葉です。どうか、私に教えを」
背筋を伸ばし、真っ直ぐにその瞳を見つめる。父であり、当主であるユキマサの表情は、やがて武士のそれへと変わった。
「よかろう。戦の気配も近づいておる。しばらくはカガミハラ家への出入りはできぬと思え」