第一部
トオイリシノが仕えるカガミハラ家には、噂がある。カガミハラの家は呪われている――霊獣の怒りを買い、当主を失ったカガミハラに生まれた唯一の男子は角をもった鬼の子である――
それらは、まったくのでたらめではなかった。先代の当主が霊獣の怒りを買って命を落としたのは事実にほかならないし、生まれたばかりのタツマルに角が生えていたのもまた事実。しかして、シノが知る限りではカガミハラの家は呪われてなどいないし、タツマルは鬼の子などではなかった。
だのに、忌々しい噂は人々をカガミハラから遠ざけ、当時まだ乳飲み子であったタツマルさえをも畏怖の対象にさせた。乳を必要とするタツマルの乳母をさがして町を駆け回ったときのことを、シノは今でも鮮明に覚えている。近隣で戦があるわけでもないというのに、町はしんと静まり返り、人々は家に閉じこもっていた。閉ざされた戸の向こうで息を潜める町民らは、戸を叩き呼びかけるシノに応じることさえなかった。
ゆえに、タツマルは獣の乳で育った。偶然、町を訪れていた旅の娘が分けてくれたものだった。娘は見慣れぬ獣を連れており、タツマルが乳離れするまでの間、町に滞在しては屋敷へ獣の乳を届けてくれた。娘は町民の噂を聞いても、カガミハラを、タツマルを恐れなかった。まだ目も開かないタツマルの姿を見ては「愛らしい」と笑った。鬼の子と呼ばれる所以たる角の存在など、気にも留めていないようだった。
「この屋敷で働いてはくれないか」
タツマルが乳離れをし、娘が町を立つと言った日。シノは、娘にそう話をもちかけた。当時の屋敷にはトオイリ家の女中を通わせてはいたが、人手が足りなかった。愛情をもって、タツマルの世話をする者が、いなかった。だが、赤子であるタツマルを愛らしいと言ったこの娘ならば、あるいは。シノの胸には、そんな思いがあった。
果たして、娘は首を縦には振らなかった。何故かとシノが理由を問うても、娘は悲しげに笑って答えなかった。後になって女中から聞いた話では、娘はカガミハラの家に出入りするようになって間もなく、宿を追い出されていたという。以来、娘は町外れの森へ姿を消し、そこから姿を現すようになった。カガミハラの家に出入りし、人知れず森に消える娘を、町民は物の怪の類だと噂した。ひどいときには石を投げつけられることもあり、女中がその手当てをしたこともあった。
娘は女中に、決して誰にも言わないでくれと口止めをしていたようだったが、人の口に戸はたてられない。女中は娘が町を去った理由を、こう語った。ただでさえカガミハラの家は町民の不安のもととなっています、そこへ物の怪と呼ばれる自分のような者が住みこむようになれば民の不安は増すばかり、最悪カガミハラ家の存続さえも危うくなる――
親の愛を知らずに育ったタツマルは、物心がつくと親恋しさに泣くようになった。自然と食も細くなった。シノは、どうにかタツマルの気を晴らそうと屋敷の外へ連れ出したのだが、タツマルを見た町の子らは「鬼の子」とはやし立て、町民は畏怖の眼差しを向ける。タツマルは屋敷の中にこもり、ますます親恋しさに泣いた。その涙をかたわらで見つめながら、シノは己の無力さにこぶしを握る日々が続いた。
ところが、あるときから、タツマルはぴたりと泣かないようになった。親がいないことを気にするそぶりを、シノに見せなくなった。そして、世話役としてのシノは、これをいぶかった。
無論、シノとてタツマルが悲しみを乗り越えたのだと考えなかったわけではない。しかし、親のいない悲しみを乗り越えるには、あまりにタツマルは幼く、それは唐突すぎた。シノは以前にも増して、タツマルのようすを気にかけるようになった。タツマルの食の細さは相変わらずであったし、屋敷の外へ出ようとすることもない。ただ時折、シノに起こされるよりも前に、タツマルが着替えをすませていることがあった。それが意味するところを、シノは長らく知らずにいたが、ある晩をきっかけにして、タツマルの意図を悟ることとなった。
その晩。シノは妙な胸騒ぎに襲われて、タツマルの部屋を訪れた。それは、常ならばタツマルもとうに床についている時間。シノが障子越しに声をかけても応えはなく、寝入っているのであれば、そのようすだけを確認しようと思った。だが、部屋の中を覗き見たシノは、屋敷を飛び出した。床に敷かれた布団は、もぬけの殻となっていた。
シノは町中を駆けずり回り、外れの森で、ようやくタツマルを見つけた。目もとを赤くはれさせたタツマルのかたわらには、一人の娘がいた。
思い返せば、シノはこのときに気づくべきだった。しかして、そのとき辺りを照らしていたのはわずかな月明かりだけで、シノ自身もまた完全に我を忘れていたのだ。この娘こそがタツマルを攫い、害を成したのだと、シノはそう考えてしまった。シノは娘を叩き斬るつもりで刀に手をかけ、そして、それをタツマルに制された――
この一件を境に、タツマルは食への強い興味を示すようになった。身体に良いと聞いたものに関しては、好き嫌いもしない。ものをよく食べるようになった。一方で、タツマルは、あの晩の多くを語ろうとはしなかった。森にいた理由、食に興味を示すようになった理由――けれど、シノは語られずとも、その理由を察した。ゆえに、シノはタツマルに言った。
「屋敷を出る際には、屋敷の者におっしゃってくだされ。タツマル様がいらっしゃらないと知ったときは、このシノ、肝が潰れる思いでしたぞ」
「すまない、悪かった」
罰が悪そうに目を伏せたタツマルの横顔は、しかし、どこか以前よりもたくましくなっている。それが食のおかげだけではないことを、シノは重々に感じていた。タツマルをカガミハラ家の当主として育てあげるには、やはり自分だけの力では足りない。シノは、自ら行動にでることを決めた。
夜になりタツマルが寝入ると、シノはトオイリ家の者に屋敷を任せ、町外れへと向かった。森は月明かりの下で黒々とした闇を抱いて、静かにたたずんでいる。古くから存在するその森は、立ち入れば帰ることができないといわれるほどに深く、かつては霊獣の世へ続く地だとされていた。そのため、町民らは決して近寄らない場所でもある。
「まだ早いだろうと黙っていたが、やはり血が呼ぶものなのか」
先代がこの森で奥方と出会ったように、タツマルもまた自らこの森を訪れていた――この事実に、シノは胸が詰まる思いだった。なぜなら、この森に関わりがあるのは――
考えて、シノはかぶりを振る。そうして腰の刀を手で確かめると、森へと足を踏み入れた。
「おや、今宵のお客人はいささか大きい人のようだ」
声がしたのは、森へ入って間もなく。森の奥というにはまだ浅く、木々もまばらな開けた場所だった。シノが声のしたほうを振り返れば、木立の中に人影が浮かびあがる。
「今夜はおちびさんは来ていないけれど、一体誰を迎えに来たのかな」
問う声に、シノは刀にかけていた手をおろした。人影と向き合い、口を開く。
「しいて言うなら、おまえを迎えに来た――マツリ」
それはかつて、タツマルのためにと獣の乳を譲ってくれていた娘の名。タツマルをさがしに来た晩は気づくことができなかったが、思い返せばその声には聞き覚えがあった。
歩み寄ってくる人影を、シノが目を細めて見つめていれば、徐々に姿がはっきりとしてくる。やがて、枝葉の合間からもれる月明かりが、その顔を照らしだした。シノの記憶にある娘の姿と、目の前にいる娘の姿が重なる。
「マツリ、やはりおまえだったのか」
娘は肯定こそしなかったが、否定もしなかった。ただ、いつかも見た悲しげな笑みを浮かべて、シノを見る。知らず、シノは眉を寄せていた。
「また、答えないつもりか」
その意図を探ろうと、シノは娘の目を見つめる。しかし、シノを見返すその瞳は、澄んだ水のようでありながら、底を見透かすことのできない深さがあった。得体の知れない空気をまとう娘に、シノが胸に抱いたひとつの疑惑が深くなっていく。シノは一度まぶたをおろし、再びその底知れぬ瞳を見据えた。
「おまえには恩がある。おまえが語りたくないというなら無理に聞くつもりはない。だが、ひとつだけ確かめたいことがある」
娘は、ひとつだけ瞬きをした。不思議と言葉の先をうながされているように感じた。
「おまえは、タツマル様の母君なのか」
胸に迫る気持ちを押し隠しながら、シノは問う。霊獣の世へ続くとされる森に現れ、タツマルの心境に変化をもたらした娘。以前は旅の途中に偶然立ち寄っただけだと言っていたが、本当はこの森でタツマルのことを見守っていたのではないか。仲間に連れ戻されたタツマルの母親が姿を変えているのではないのか。
シノの問いかけに、娘はゆるりと目をつむる。そして、静かに首を振った。
「残念ながら」
と、娘は言った。
「私はマツリだよ、シノ」
申しわけなさそうに答えた娘――マツリは、けれど、シノがその返答に安堵していたなどとは知る由もない。シノはマツリの前へと進み出た。
「ならば、今一度おまえに頼みたいことがある」
相対する目が、かすかに大きくなる。今度はマツリがシノの意図を探ろうと目を細める番だった。
「私があの子の母親だと、不都合があった?」
「そうだ。タツマル様にも――俺にも」
なぜ。と、マツリの目がシノに問うてくる。答えないという選択もあったが、シノはあえてその選択をしなかった。深く息を吐き、マツリを見据える。
「タツマル様には、もはやカガミハラの家しか残されていない」
古くから、人と霊獣は関わってはならないと言い伝えられている。この東雲の國ではないが、霊獣を神として祀り、民が接触することを禁じる國もあるほどだ。人々は暗黙のうちに人と霊獣との間に線引きをしていた。しかし、先代のカガミハラ家当主はこれに疑問を抱いたのだ。人と霊獣はなぜ関わってはならないのか、なぜ同じ星の下で生きながら避けあうのか――
人々の中には先代の当主に共感する者もいたが、恐れを抱く者のほうが圧倒的に多かった。カガミハラの家は呪われている。そう噂された最初の所以は、ここにあった。だが、先代は霊獣であった奥方と心を通わせ、ついにはその子を授かった。人々の中で古き言い伝えは薄れ、新たな時代さえをも予感させていたのだ――先代がいかずちに撃たれ、奥方が連れ戻されるそのときまでは。
「タツマル様は先代と違って命こそ奪われはしなかった。だが、奥方様とも違い連れてゆかれることもなかった」
人々は古の言い伝えが正しかったと知った。そして、霊獣という存在もまた、人との関わりを避けていることを。
自身の眉間にしわが刻まれていくのを感じながら、シノはそれを禁じえなかった。行き場のない憤りを胸に、低く言葉を続ける。
「霊獣が人との間に生まれたタツマル様を認めぬのであれば、タツマル様は人の世で生きるより道はない」
なぜなら、タツマルの母親は夫である先代当主の死を避けられなかった。ほかの霊獣の凶行を、許してしまった。それだけで、その力の程は知れている。母親について霊獣の世に行ったところで、タツマルが生き延びられるとは考えがたく、逆に霊獣である母親が先代の庇護なくして人の世で全うに生きられるとも考えがたかった。
「なるほどね」
シノの言葉を黙って聞いていたマツリが、小さく息を吐いた。
「あの子にとって不都合になる理由はわかった――それで、シノは?」
問われて、シノは一瞬だけ面食らう。けれど、先刻たしかに自分自身でそう言ったのだったと思い出し、決まりが悪くなった。至極真面目なようすのマツリから向けられた視線が、居心地悪い。ついと、シノは顔をそらしていた。
「俺のことはつまらん話だ。忘れろ」
すると、マツリは拍子抜けしたのだろう。しばし沈黙した後、小さく笑った。
「わかったよ。先代の奥方にこんな口を利いていたとなったら、シノは切腹してしまいそうだしね」
「よくわかっている」
思わず、シノは苦笑していた。本当に、この娘はシノの性格をよくわかっている。けれど、シノの言った「つまらない話」というのは、それではない。もっとつまらない話だった。
しかし、シノはそれをマツリに語ることを選ばなかった。ここへ来た目的を果たすべく、また口を開く。
「マツリ、おまえが町を去った理由は聞いている。おまえの判断は正しいとも思う。だが、それでもカガミハラ家には、タツマル様には、おまえの存在が必要だ」
「それは、あの子がちゃんとものを食べるようになったから?」
マツリの問いに、シノはかすかに目をみはった。
「知っていたのか」
「少し前から。風が教えてくれたよ」
「風?」
問い返したシノを見て、マツリもまた目をみはる。
「シノには」
わからないの。マツリの唇がそう紡いだのを、シノはそのとき、たしかに見た。だのに、奇妙なことに聞くことができなかった。まるで何かに阻まれるかのように、マツリの声だけが、シノの耳に届かなかった。シノが眉根を寄せると、マツリはどういうわけか静かにかぶりを振る。「ごめん、なんでもない」
そう言ったマツリは、何かを悟ったような顔をしていた。一方でこれをいぶからないほど、シノも無頓着ではない。昔から不可思議な点の多い娘だとは思っていたが、これはシノ自身にも関わることのようだった。何を隠しているのかと問い詰めようとしたシノに対して、さりとて、マツリは一枚上手だった。
「それで、シノは私を家に迎え入れようとここへ来たということでいいのかな」
それかけていた話を本題へ戻され、シノは完全に追及する機会を失った。あるいはもし、これが別のことであったのなら、シノも話には乗らなかっただろう。けれども、これはシノが仕えるカガミハラ家の問題であり、タツマルの未来にも関わる事柄――ないがしろにすることはできなかった。
「そういうことになる」
腑に落ちない思いをもて余しながらも、シノはマツリの言葉に応じる。すると、マツリはまた悲しそうな笑みを浮かべた。
「私は、トオイリの家にも行けない」
やはり、マツリは聡い娘だった。
実のところ、シノがマツリを迎え入れようと考えていたのは、カガミハラの家ではない。シノの生まれたトオイリの家だった。それは、かつてのマツリがカガミハラ家の存続を危ぶんで町を去ったためであり、町民の不安を少しでも軽減させるための案だった。
素性も知れない旅の娘――それも霊獣の世へ続くとされる森を出入りしているとあっては、町民が不安に思うのも無理はない。ならば素性をはっきりとさせ、寝泊りする場所を用意してやればいい。名のある家で雇われる者は、大概それだけで町民らの信頼を得られるものだ。だが、それはカガミハラの家であってはならない。なぜなら、今のカガミハラ家はひどく脆く、危うい。シノの忠義心を知らない町民らが、トオイリ家によるカガミハラ家ののっとりを望むほどに。
シノは町民らの期待を忌々しく思ってはいたが、これを逆手に取ろうと考えた。トオイリ家への信頼が厚くなっている今ならば、マツリをトオイリ家に仕える者とすればいい。そうすれば、マツリがカガミハラに出入りすることへの問題などなくなる――そのはずだった。当のマツリが拒みさえしなければ。
「なぜだ」
苦々しい気持ちを隠しきれず、低くうめくような声がシノの口から出る。
「成長なされたタツマル様を恐れたのか。鬼の子の所以たる角が目立つようになり、おぞましく感じたのか」
シノはいらだちに任せ、吐き捨てるように言った。反面、シノの胸の内では違う思いが湧きあがる。そんなはずはない、おぞましいと感じたのならばタツマルの食の細さを案じて関わろうとするはずはない――
だのに、マツリは何も語らない。儚げな笑みをたたえたまま、たたずむだけ。その事実が、より一層シノの神経を逆撫でした。
「なぜ何も言わない――なぜ隠す――なぜ、おまえはそんな顔をする――!」
声を荒げ、シノは腰の刀に手を伸ばす。抜くつもりはなかった。ただ、脅しをかける程度のつもりだった。そして、おそらく、マツリはそれを見透かしていた。
「シノ、お迎えのようだよ」
柳か何かのようにシノの言葉を流し、マツリはシノの向こうへと目を向ける。「もういい、シノ」響いたのは、あどけなさを残しながらも凛とした声だった。
シノが背後を振り返れば、そこには未だ幼き主が立っている。
「タツマル様、なぜここに」
屋敷の者には少し留守にすると告げたが、場所までは教えなかったはず。とっさに記憶をたぐるシノのようすを見てか、タツマルは薄く笑った。
「おまえが俺のそばにいた時間と同じだけ、俺はおまえを見てきた。今のおまえが俺を残して行くところなんてほかにない。違うか」
タツマルに返す言葉を、シノはもたなかった。寄せられる信頼をひしと感じて、胸が詰まる。シノは手をおろし、ただ黙ってこうべを垂れた。タツマルの視線が、マツリへと移る。
「おまえがシノの知り合いだとは知らなかった」
「私も、そこの彼にまた会うとは思っていなかったよ」
応じるマツリの口調は、どこかよそよそしい。だが、タツマルがそれを気にする風はなかった。
「ひとつだけ聞きたい」
「何かな、おちびさん」
「俺が」言いかけて、一度タツマルは口を閉じた。「おまえはシノを嫌っているのか」
シノは弾かれたように、タツマルを見た。違う。タツマルが本当に聞きたいことはそんなことではない。それを気にかけたのはシノのほうであって、タツマルが本当に聞きたかったであろうことは、
「おかしなことを言うね」
マツリが笑った。
「私は彼を嫌ってなどいないよ、おちびさん」
それはよそよそしくも、ひどくおだやかな口調だった。マツリはタツマルへと歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがみこむ。タツマルの目がおどろきの色に染まった。月明かりに浮かびあがる白い手が、タツマルの頭にふれていた。
「例えるなら兄か弟か――いずれにせよ、私は彼やきみを想っているよ。厭うことなんてない」
自身よりも家臣の胸の内を晴らそうとした幼い虚勢など、マツリにはお見通しだったのだろう。シノにはマツリの表情はよく見えなかったものの、その声音から大よその想像はついた。そして、そこに嘘偽りがないということも。
「……なら、いい」
タツマルが、ぶっきらぼうに言った。「シノ、帰るぞ」
きびすを返したタツマルの背を、シノはすぐさま追う。そうして、マツリのかたわらを通り過ぎようとしたとき、おもむろにその口が開かれた。
「トオイリの当主になるのであれば、いずれは聞かされるはず。それを早めるかどうかは、その心次第」
知らず、シノの足が止まる。次いで、タツマルも足を止めて振り返った。
「またおいで。夜はいつもここにいるから」
月明かりの下にたたずむ娘は、その顔に変わらない笑みをたたえていた。
それらは、まったくのでたらめではなかった。先代の当主が霊獣の怒りを買って命を落としたのは事実にほかならないし、生まれたばかりのタツマルに角が生えていたのもまた事実。しかして、シノが知る限りではカガミハラの家は呪われてなどいないし、タツマルは鬼の子などではなかった。
だのに、忌々しい噂は人々をカガミハラから遠ざけ、当時まだ乳飲み子であったタツマルさえをも畏怖の対象にさせた。乳を必要とするタツマルの乳母をさがして町を駆け回ったときのことを、シノは今でも鮮明に覚えている。近隣で戦があるわけでもないというのに、町はしんと静まり返り、人々は家に閉じこもっていた。閉ざされた戸の向こうで息を潜める町民らは、戸を叩き呼びかけるシノに応じることさえなかった。
ゆえに、タツマルは獣の乳で育った。偶然、町を訪れていた旅の娘が分けてくれたものだった。娘は見慣れぬ獣を連れており、タツマルが乳離れするまでの間、町に滞在しては屋敷へ獣の乳を届けてくれた。娘は町民の噂を聞いても、カガミハラを、タツマルを恐れなかった。まだ目も開かないタツマルの姿を見ては「愛らしい」と笑った。鬼の子と呼ばれる所以たる角の存在など、気にも留めていないようだった。
「この屋敷で働いてはくれないか」
タツマルが乳離れをし、娘が町を立つと言った日。シノは、娘にそう話をもちかけた。当時の屋敷にはトオイリ家の女中を通わせてはいたが、人手が足りなかった。愛情をもって、タツマルの世話をする者が、いなかった。だが、赤子であるタツマルを愛らしいと言ったこの娘ならば、あるいは。シノの胸には、そんな思いがあった。
果たして、娘は首を縦には振らなかった。何故かとシノが理由を問うても、娘は悲しげに笑って答えなかった。後になって女中から聞いた話では、娘はカガミハラの家に出入りするようになって間もなく、宿を追い出されていたという。以来、娘は町外れの森へ姿を消し、そこから姿を現すようになった。カガミハラの家に出入りし、人知れず森に消える娘を、町民は物の怪の類だと噂した。ひどいときには石を投げつけられることもあり、女中がその手当てをしたこともあった。
娘は女中に、決して誰にも言わないでくれと口止めをしていたようだったが、人の口に戸はたてられない。女中は娘が町を去った理由を、こう語った。ただでさえカガミハラの家は町民の不安のもととなっています、そこへ物の怪と呼ばれる自分のような者が住みこむようになれば民の不安は増すばかり、最悪カガミハラ家の存続さえも危うくなる――
親の愛を知らずに育ったタツマルは、物心がつくと親恋しさに泣くようになった。自然と食も細くなった。シノは、どうにかタツマルの気を晴らそうと屋敷の外へ連れ出したのだが、タツマルを見た町の子らは「鬼の子」とはやし立て、町民は畏怖の眼差しを向ける。タツマルは屋敷の中にこもり、ますます親恋しさに泣いた。その涙をかたわらで見つめながら、シノは己の無力さにこぶしを握る日々が続いた。
ところが、あるときから、タツマルはぴたりと泣かないようになった。親がいないことを気にするそぶりを、シノに見せなくなった。そして、世話役としてのシノは、これをいぶかった。
無論、シノとてタツマルが悲しみを乗り越えたのだと考えなかったわけではない。しかし、親のいない悲しみを乗り越えるには、あまりにタツマルは幼く、それは唐突すぎた。シノは以前にも増して、タツマルのようすを気にかけるようになった。タツマルの食の細さは相変わらずであったし、屋敷の外へ出ようとすることもない。ただ時折、シノに起こされるよりも前に、タツマルが着替えをすませていることがあった。それが意味するところを、シノは長らく知らずにいたが、ある晩をきっかけにして、タツマルの意図を悟ることとなった。
その晩。シノは妙な胸騒ぎに襲われて、タツマルの部屋を訪れた。それは、常ならばタツマルもとうに床についている時間。シノが障子越しに声をかけても応えはなく、寝入っているのであれば、そのようすだけを確認しようと思った。だが、部屋の中を覗き見たシノは、屋敷を飛び出した。床に敷かれた布団は、もぬけの殻となっていた。
シノは町中を駆けずり回り、外れの森で、ようやくタツマルを見つけた。目もとを赤くはれさせたタツマルのかたわらには、一人の娘がいた。
思い返せば、シノはこのときに気づくべきだった。しかして、そのとき辺りを照らしていたのはわずかな月明かりだけで、シノ自身もまた完全に我を忘れていたのだ。この娘こそがタツマルを攫い、害を成したのだと、シノはそう考えてしまった。シノは娘を叩き斬るつもりで刀に手をかけ、そして、それをタツマルに制された――
この一件を境に、タツマルは食への強い興味を示すようになった。身体に良いと聞いたものに関しては、好き嫌いもしない。ものをよく食べるようになった。一方で、タツマルは、あの晩の多くを語ろうとはしなかった。森にいた理由、食に興味を示すようになった理由――けれど、シノは語られずとも、その理由を察した。ゆえに、シノはタツマルに言った。
「屋敷を出る際には、屋敷の者におっしゃってくだされ。タツマル様がいらっしゃらないと知ったときは、このシノ、肝が潰れる思いでしたぞ」
「すまない、悪かった」
罰が悪そうに目を伏せたタツマルの横顔は、しかし、どこか以前よりもたくましくなっている。それが食のおかげだけではないことを、シノは重々に感じていた。タツマルをカガミハラ家の当主として育てあげるには、やはり自分だけの力では足りない。シノは、自ら行動にでることを決めた。
夜になりタツマルが寝入ると、シノはトオイリ家の者に屋敷を任せ、町外れへと向かった。森は月明かりの下で黒々とした闇を抱いて、静かにたたずんでいる。古くから存在するその森は、立ち入れば帰ることができないといわれるほどに深く、かつては霊獣の世へ続く地だとされていた。そのため、町民らは決して近寄らない場所でもある。
「まだ早いだろうと黙っていたが、やはり血が呼ぶものなのか」
先代がこの森で奥方と出会ったように、タツマルもまた自らこの森を訪れていた――この事実に、シノは胸が詰まる思いだった。なぜなら、この森に関わりがあるのは――
考えて、シノはかぶりを振る。そうして腰の刀を手で確かめると、森へと足を踏み入れた。
「おや、今宵のお客人はいささか大きい人のようだ」
声がしたのは、森へ入って間もなく。森の奥というにはまだ浅く、木々もまばらな開けた場所だった。シノが声のしたほうを振り返れば、木立の中に人影が浮かびあがる。
「今夜はおちびさんは来ていないけれど、一体誰を迎えに来たのかな」
問う声に、シノは刀にかけていた手をおろした。人影と向き合い、口を開く。
「しいて言うなら、おまえを迎えに来た――マツリ」
それはかつて、タツマルのためにと獣の乳を譲ってくれていた娘の名。タツマルをさがしに来た晩は気づくことができなかったが、思い返せばその声には聞き覚えがあった。
歩み寄ってくる人影を、シノが目を細めて見つめていれば、徐々に姿がはっきりとしてくる。やがて、枝葉の合間からもれる月明かりが、その顔を照らしだした。シノの記憶にある娘の姿と、目の前にいる娘の姿が重なる。
「マツリ、やはりおまえだったのか」
娘は肯定こそしなかったが、否定もしなかった。ただ、いつかも見た悲しげな笑みを浮かべて、シノを見る。知らず、シノは眉を寄せていた。
「また、答えないつもりか」
その意図を探ろうと、シノは娘の目を見つめる。しかし、シノを見返すその瞳は、澄んだ水のようでありながら、底を見透かすことのできない深さがあった。得体の知れない空気をまとう娘に、シノが胸に抱いたひとつの疑惑が深くなっていく。シノは一度まぶたをおろし、再びその底知れぬ瞳を見据えた。
「おまえには恩がある。おまえが語りたくないというなら無理に聞くつもりはない。だが、ひとつだけ確かめたいことがある」
娘は、ひとつだけ瞬きをした。不思議と言葉の先をうながされているように感じた。
「おまえは、タツマル様の母君なのか」
胸に迫る気持ちを押し隠しながら、シノは問う。霊獣の世へ続くとされる森に現れ、タツマルの心境に変化をもたらした娘。以前は旅の途中に偶然立ち寄っただけだと言っていたが、本当はこの森でタツマルのことを見守っていたのではないか。仲間に連れ戻されたタツマルの母親が姿を変えているのではないのか。
シノの問いかけに、娘はゆるりと目をつむる。そして、静かに首を振った。
「残念ながら」
と、娘は言った。
「私はマツリだよ、シノ」
申しわけなさそうに答えた娘――マツリは、けれど、シノがその返答に安堵していたなどとは知る由もない。シノはマツリの前へと進み出た。
「ならば、今一度おまえに頼みたいことがある」
相対する目が、かすかに大きくなる。今度はマツリがシノの意図を探ろうと目を細める番だった。
「私があの子の母親だと、不都合があった?」
「そうだ。タツマル様にも――俺にも」
なぜ。と、マツリの目がシノに問うてくる。答えないという選択もあったが、シノはあえてその選択をしなかった。深く息を吐き、マツリを見据える。
「タツマル様には、もはやカガミハラの家しか残されていない」
古くから、人と霊獣は関わってはならないと言い伝えられている。この東雲の國ではないが、霊獣を神として祀り、民が接触することを禁じる國もあるほどだ。人々は暗黙のうちに人と霊獣との間に線引きをしていた。しかし、先代のカガミハラ家当主はこれに疑問を抱いたのだ。人と霊獣はなぜ関わってはならないのか、なぜ同じ星の下で生きながら避けあうのか――
人々の中には先代の当主に共感する者もいたが、恐れを抱く者のほうが圧倒的に多かった。カガミハラの家は呪われている。そう噂された最初の所以は、ここにあった。だが、先代は霊獣であった奥方と心を通わせ、ついにはその子を授かった。人々の中で古き言い伝えは薄れ、新たな時代さえをも予感させていたのだ――先代がいかずちに撃たれ、奥方が連れ戻されるそのときまでは。
「タツマル様は先代と違って命こそ奪われはしなかった。だが、奥方様とも違い連れてゆかれることもなかった」
人々は古の言い伝えが正しかったと知った。そして、霊獣という存在もまた、人との関わりを避けていることを。
自身の眉間にしわが刻まれていくのを感じながら、シノはそれを禁じえなかった。行き場のない憤りを胸に、低く言葉を続ける。
「霊獣が人との間に生まれたタツマル様を認めぬのであれば、タツマル様は人の世で生きるより道はない」
なぜなら、タツマルの母親は夫である先代当主の死を避けられなかった。ほかの霊獣の凶行を、許してしまった。それだけで、その力の程は知れている。母親について霊獣の世に行ったところで、タツマルが生き延びられるとは考えがたく、逆に霊獣である母親が先代の庇護なくして人の世で全うに生きられるとも考えがたかった。
「なるほどね」
シノの言葉を黙って聞いていたマツリが、小さく息を吐いた。
「あの子にとって不都合になる理由はわかった――それで、シノは?」
問われて、シノは一瞬だけ面食らう。けれど、先刻たしかに自分自身でそう言ったのだったと思い出し、決まりが悪くなった。至極真面目なようすのマツリから向けられた視線が、居心地悪い。ついと、シノは顔をそらしていた。
「俺のことはつまらん話だ。忘れろ」
すると、マツリは拍子抜けしたのだろう。しばし沈黙した後、小さく笑った。
「わかったよ。先代の奥方にこんな口を利いていたとなったら、シノは切腹してしまいそうだしね」
「よくわかっている」
思わず、シノは苦笑していた。本当に、この娘はシノの性格をよくわかっている。けれど、シノの言った「つまらない話」というのは、それではない。もっとつまらない話だった。
しかし、シノはそれをマツリに語ることを選ばなかった。ここへ来た目的を果たすべく、また口を開く。
「マツリ、おまえが町を去った理由は聞いている。おまえの判断は正しいとも思う。だが、それでもカガミハラ家には、タツマル様には、おまえの存在が必要だ」
「それは、あの子がちゃんとものを食べるようになったから?」
マツリの問いに、シノはかすかに目をみはった。
「知っていたのか」
「少し前から。風が教えてくれたよ」
「風?」
問い返したシノを見て、マツリもまた目をみはる。
「シノには」
わからないの。マツリの唇がそう紡いだのを、シノはそのとき、たしかに見た。だのに、奇妙なことに聞くことができなかった。まるで何かに阻まれるかのように、マツリの声だけが、シノの耳に届かなかった。シノが眉根を寄せると、マツリはどういうわけか静かにかぶりを振る。「ごめん、なんでもない」
そう言ったマツリは、何かを悟ったような顔をしていた。一方でこれをいぶからないほど、シノも無頓着ではない。昔から不可思議な点の多い娘だとは思っていたが、これはシノ自身にも関わることのようだった。何を隠しているのかと問い詰めようとしたシノに対して、さりとて、マツリは一枚上手だった。
「それで、シノは私を家に迎え入れようとここへ来たということでいいのかな」
それかけていた話を本題へ戻され、シノは完全に追及する機会を失った。あるいはもし、これが別のことであったのなら、シノも話には乗らなかっただろう。けれども、これはシノが仕えるカガミハラ家の問題であり、タツマルの未来にも関わる事柄――ないがしろにすることはできなかった。
「そういうことになる」
腑に落ちない思いをもて余しながらも、シノはマツリの言葉に応じる。すると、マツリはまた悲しそうな笑みを浮かべた。
「私は、トオイリの家にも行けない」
やはり、マツリは聡い娘だった。
実のところ、シノがマツリを迎え入れようと考えていたのは、カガミハラの家ではない。シノの生まれたトオイリの家だった。それは、かつてのマツリがカガミハラ家の存続を危ぶんで町を去ったためであり、町民の不安を少しでも軽減させるための案だった。
素性も知れない旅の娘――それも霊獣の世へ続くとされる森を出入りしているとあっては、町民が不安に思うのも無理はない。ならば素性をはっきりとさせ、寝泊りする場所を用意してやればいい。名のある家で雇われる者は、大概それだけで町民らの信頼を得られるものだ。だが、それはカガミハラの家であってはならない。なぜなら、今のカガミハラ家はひどく脆く、危うい。シノの忠義心を知らない町民らが、トオイリ家によるカガミハラ家ののっとりを望むほどに。
シノは町民らの期待を忌々しく思ってはいたが、これを逆手に取ろうと考えた。トオイリ家への信頼が厚くなっている今ならば、マツリをトオイリ家に仕える者とすればいい。そうすれば、マツリがカガミハラに出入りすることへの問題などなくなる――そのはずだった。当のマツリが拒みさえしなければ。
「なぜだ」
苦々しい気持ちを隠しきれず、低くうめくような声がシノの口から出る。
「成長なされたタツマル様を恐れたのか。鬼の子の所以たる角が目立つようになり、おぞましく感じたのか」
シノはいらだちに任せ、吐き捨てるように言った。反面、シノの胸の内では違う思いが湧きあがる。そんなはずはない、おぞましいと感じたのならばタツマルの食の細さを案じて関わろうとするはずはない――
だのに、マツリは何も語らない。儚げな笑みをたたえたまま、たたずむだけ。その事実が、より一層シノの神経を逆撫でした。
「なぜ何も言わない――なぜ隠す――なぜ、おまえはそんな顔をする――!」
声を荒げ、シノは腰の刀に手を伸ばす。抜くつもりはなかった。ただ、脅しをかける程度のつもりだった。そして、おそらく、マツリはそれを見透かしていた。
「シノ、お迎えのようだよ」
柳か何かのようにシノの言葉を流し、マツリはシノの向こうへと目を向ける。「もういい、シノ」響いたのは、あどけなさを残しながらも凛とした声だった。
シノが背後を振り返れば、そこには未だ幼き主が立っている。
「タツマル様、なぜここに」
屋敷の者には少し留守にすると告げたが、場所までは教えなかったはず。とっさに記憶をたぐるシノのようすを見てか、タツマルは薄く笑った。
「おまえが俺のそばにいた時間と同じだけ、俺はおまえを見てきた。今のおまえが俺を残して行くところなんてほかにない。違うか」
タツマルに返す言葉を、シノはもたなかった。寄せられる信頼をひしと感じて、胸が詰まる。シノは手をおろし、ただ黙ってこうべを垂れた。タツマルの視線が、マツリへと移る。
「おまえがシノの知り合いだとは知らなかった」
「私も、そこの彼にまた会うとは思っていなかったよ」
応じるマツリの口調は、どこかよそよそしい。だが、タツマルがそれを気にする風はなかった。
「ひとつだけ聞きたい」
「何かな、おちびさん」
「俺が」言いかけて、一度タツマルは口を閉じた。「おまえはシノを嫌っているのか」
シノは弾かれたように、タツマルを見た。違う。タツマルが本当に聞きたいことはそんなことではない。それを気にかけたのはシノのほうであって、タツマルが本当に聞きたかったであろうことは、
「おかしなことを言うね」
マツリが笑った。
「私は彼を嫌ってなどいないよ、おちびさん」
それはよそよそしくも、ひどくおだやかな口調だった。マツリはタツマルへと歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがみこむ。タツマルの目がおどろきの色に染まった。月明かりに浮かびあがる白い手が、タツマルの頭にふれていた。
「例えるなら兄か弟か――いずれにせよ、私は彼やきみを想っているよ。厭うことなんてない」
自身よりも家臣の胸の内を晴らそうとした幼い虚勢など、マツリにはお見通しだったのだろう。シノにはマツリの表情はよく見えなかったものの、その声音から大よその想像はついた。そして、そこに嘘偽りがないということも。
「……なら、いい」
タツマルが、ぶっきらぼうに言った。「シノ、帰るぞ」
きびすを返したタツマルの背を、シノはすぐさま追う。そうして、マツリのかたわらを通り過ぎようとしたとき、おもむろにその口が開かれた。
「トオイリの当主になるのであれば、いずれは聞かされるはず。それを早めるかどうかは、その心次第」
知らず、シノの足が止まる。次いで、タツマルも足を止めて振り返った。
「またおいで。夜はいつもここにいるから」
月明かりの下にたたずむ娘は、その顔に変わらない笑みをたたえていた。