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20190928(土)22:57
追記
サイトが一周年を迎えました。その記念としてこの作品を掲載します。
最近は忙しくてなかなか更新できていませんでしたのでちょっと申し訳ないです。
いつもの解説です。
今作で一番悩んだのは土井先生、きり丸の関係性をどう表現していくかです。
側から見ると「年の離れた兄弟」。親子ではないんです。だから本作のテーマである「子供の成長の喜び」を受ける大人が彼でいいのか、大変に悩みました。
この悩みを解決するのは、本作を書き上げる過程の中にありました。
土井先生、きり丸の関係と奥さん、きり丸の関係は似ているようで全くの別物なんです。
きり丸が土井先生を「先生」と呼ぶのは、彼が明らかに「先生」だからなんです。土井先生からすれば、きり丸は生徒の一人なんです。一見この関係性はドライに見えますが、彼らには先生と生徒という超えられない大事な肩書きがありますから仕方のない事なんです。幾分か互いを他の誰かより大事に思っていたとしても、社会はその肩書を貼って扱います。
対してきり丸と奥さんの関係は「他人」の一言で表せる簡単なものなんです。「他人」という関係性に偶然がもたらされて知り合いになり、今度は同居人になります。しかし、社会や世間といったときに、二人の関係は無であります。
ところが無は悲しいことではありません。無であるからこそ、そこに革新的な創造が発生します。同居する大人と子供。「先生」ではない、絶対的に子供を導く立場ではない奥さんは、常に新しい気持ちできり丸と接することができるのです。またそれはきり丸にとっても同じことが言えますね。
彼の成長の喜びを受け取る人が奥さんなら。「他人」という関係から築かれたはずの仲がこれから深まっていくからこそ、人間らしい取っ組み合いができるんです。ついでに奥さんは旦那さんにそんな日々の喜びを伝える、当たり前の夫婦像がこの作品であると私は思っています。20190327(水)22:00
追記
春です。
どの辺が春かといいますと、気圧配置です。本州では桜のいい時期なのでしょうが、北の大地は未だ寒さの出口に留まっています。
暑いのより寒いのがいいとは思いますが、寒いのよりは少し暖かいのが好きですね。
解説をつけます。
まずはじめにごめんなさい土下座です。
潮江くんがこんなに変態じみた性格で描かれてしまって本当に申し訳ない。申し訳なさでいっぱいです、すいません。
それは置いておくとして。
恋と憧れの違いって難しくないですか、というのが今回のテーマです。
昔読んだ本に、こんな一節がありました。
この恋は幼さゆえの憧れだったのかもしれない、と。
しかしながら、そう心境を打ち明けたその主人公は、その恋心が間違いでも勘違いなんかじゃない、その相手を想っていたことを少しも後悔していないとも言います。
では、恋と憧れの違いって、ますます分からなくなったではないか。
そうですねえ、そうですね。
基本的に、恋と憧れは同じ種類の感情でしょうね。
恋ってのは必ず憧れという段階を通過しますから。
例えば、わかりやすく言うと、「足のはやい人がかっこいい!好き!」という小学生って多いですよね。
私が小学生時代に好きだった人は勿論足のはやい人でしたし、素晴らしい運動神経の持ち主でした。一方の私は運動がとても苦手でしたね。
自分にないものを持っている、というのはやはり憧れることですよね。
その憧れがどこから恋に変わるかが問題なんです。
この問題は案外と簡単ですね。
「恋しい」という言葉がありますが、その発祥は「恋する、愛する人との別れを悲しく思う」というところにあります。
相手と別れたくない、さよならと言いたくない、離したりなど諦めたりなど絶対するものか。そういう感情が芽生えたとき、憧れは恋に変身するのです。
潮江くん、彼が彼女と出会うまでは幼さゆえの憧れと言えるでしょう。
出会って、知って、彼女のそばから離れたくないと思うのなら、それは立派な恋です。もう言い訳できませんよ、恋と呼ぶほかありません。
ちなみに、タイトルは「穴」ですが、ほんとうに潮江くんは「偶然」その手ぬぐいを拾ったのでしょうか。もし誰かが、彼の気を惹くために計画していたことだったとしたら、どうでしょうね。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。20190222(金)22:47
追記
こんばんは、久しぶりの更新です。
世間では聖ヴァレンタインの日も過ぎて、桃の節句の準備に忙しくなる頃ですね。
今年の雪はもう既にとけはじめていますから、そろそろ春が近くなってきている予感がします。
さていつもの解説です。
中在家くんのお話を書こうと決めたとき、彼の人となりがよくわからなくなってしまいました。というのも、彼が容易く心を打ち明けるような人に思えなくて、一体どんなことを彼に考えさせ言わせれば良いのだろうと私は一生懸命考えていたのです。
原作をみかえしてみましたが、まあ彼は口数の少ないというか、彼の思っていることを直接読み取るのが難しいと言いますか。
しかしながら優しく穏やかな気性の持ち主で、それが行動の端々にも読みとれますから、そういった行動のできる人間の心はきっと素直で真面目なのだろうと思います。
彼はきっとそういう人なのですね。
というように彼を勝手に解釈してお話にしました。
そうしたところ、恋という方面にかなり積極的な人間として書かれていながら、「好き」とか「愛してる」とかそういう耳に甘い言葉を己の口からは言わないという年相応に不器用なような彼になったのです。不思議です、私もこのような彼が書けると思いませんでした。
誰に恋をしても、その人の百を初めから知っている人はいません。相手がなにを喜び、なにに悲しみ、また悩み、そんなことはわからなくて当然なのです。
今回のお話で、彼らは互いに知らないことを知り合いました。彼は彼女の身の上を、彼女は彼の気難しさではなく奥に秘めた思いやりや思う気持ちの情熱的なところ。
人は好きになって、知り合って、それを全てまとめて認められるようになって、やっと互いを愛します。愛とは認めることです。
読めば、彼の性格を「垣間見」ることができますから、少しずつ彼を理解していくような楽しみを是非とも吟味してください。
ちなみに作中の「あの花」は、タイトルである紫君子蘭をモデルにしております。英名はアガパンサスで、夏の紫色のお花です。明治時代に輸入されたお花ですから、室町の地に生えるという時代錯誤の不思議な雰囲気がまた美しいかと思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。20190128(月)23:25
追記
まず皆さまに寒中お見舞いを申し上げます。
新年もあけ、もう一月ほど経ってしまいますね。更新がおくれてしまって申し訳ありません。
作品を好きになる切っ掛けであった彼を写し書くことができて嬉しく思っています。ちょっと時間はかかってしまったけれど、後悔などはありません!
いつもの解説です。
仙蔵くんって、六年生のなかでもっとも達観しているように見えるんです。他のみんなが実直なのに対してね。
俯瞰して己を見つめてるという自負というのも少なからずあるような気がします。
でも、彼ってほんとうは自分が思ってるほど大人な人間でもなくて。
例えば、心から大切に想う人の気持ちはちょっとも見えないとか。
大人になりきれない、可愛い一面がそういうところにあると思いますね。
文章を書いているとつくづく思うことがあって。
言葉ってきっと鉛より重くて、ダイヤモンドより固いものなんですね。
どんな言葉にも発信するがわの気持ちが、強かれ弱かれ含まれていて、決して脆くはないんです。
その証拠に「好きなひとに好きと囁かれると安心する」というのが挙げられますでしょうか。
好きとか愛とか、優しくて柔らかい言葉でも、私たちの心を補強する役割があるのです。それが脆いはずありませんよね。
しかしながら、鋭くて痛い言葉も脆くはありません。
どんな言葉にも、人の魂を揺らす「言霊」が秘められていますね。
今回のお話で重要なのは、実は二人のお名前でした。
仙蔵くんはその必要がない限りずっと「彼女」と少女を呼びました。
少女も仙蔵くんに様を付けたり、「貴方」とばかり呼びましたね。
なんとなく他人っぽいその呼びかけこそが二人の気持ちを反映した部分です。
名前で呼び捨てにしてしまえば、相手が自分のものになってしまうような言霊を感じたから。その恐ろしさがあったから。
その恐ろしさが消えたときには互いを恋人らしく呼ぶのです。
愛しているからこそ遠ざけていたい。
そんな不器用な二人に幸あれ。20181224(月)00:04
追記
世間はすっかりクリスマス一色で染まっていますね。私は今年も募金活動を通じて「奉仕の精神」を学びました。これこそ素敵なクリスマスの過ごし方かと思います。
また解説を入れておきます。
雷蔵くんって、迷う癖を除けば何でもできて優秀な生徒なんですよね。ただそういう人っていつも底なしの努力をしていると思います。だから現状に満足しない、満身したりしないだろうと思いながら今度のお話を書きました。
テーマは「愛」そのものでした。珍しくなんの捻りもなくそのままですね。
歴史の教科書を開くと度々その人物は男色家であったとか推測できるような記述がありますね。しかし、そういった人々が世間的に許されてきたかというとそうでもありません。結果的に暗い幕袖にひっそりとはけていくような人物ばかりかと思います。
勘違いが生まれないよう、ここで明言しておきますが、私は決して同性愛を否定したりしているわけではありません。
作中、そういった表現がいくつかありますが、それは時代が理由なので、悪しからず。
しかし、そういった時代でも彼らは相手がどんな姿かたちであろうと、愛し大切にすると約束しあうのですから、そこに二人の気持ちを測ることができると思います。
ロミオとジュリエットのように、血が二人を決別させようとも二人は必ず自らの愛を貫くのです。
愛とは人々が考えるよりずっと単純なモノなのかもしれません。
自分に対して優しいものにはすがりたくなる。自分にとって都合のいいものは頼りにしたくなる。自分の欲望を満たすものは便利だから手の届く位置にあってほしい。
愛を解剖してしまえば、結局そんなものなんです。
だからそばにいたいとか、そういう勝手のよい言葉は一種の依存から生まれたようなものです。
人間はどうやら愛だの恋だのという話になるとそういったことを見落としがちです。冷静さや理性などは失せてしまいます。
甘い実を食べるのは自分だけでいい。そんな利己的な考えが愛の根元です。
ですから、愛というのは互いに想いあっていることが前提条件なのです。愛が実を結ぶにはそうでなければなりません。でなければその気持ちはただの我儘な押しつけですから。
相手の愛に不安が生まれるということは、想いあうことの重要さを解っている証拠であります。言葉によるその確認は愛を怠らないという努力です。
彼女は本当に化粧がうまくできたから連れ出したぐらいの気持ちでしたが、彼の不安や熱心な気持ちを汲み取って応えました。
彼らは確実に通じあっているのだとわかりますね。
愛とは斯くあれという姿だと思います。
長くなりましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。20181215(土)00:44
追記
本日は雪の降りようがすさまじかったです。
朝起きたときに窓の外を見るとホワイトアウトで視界が悪かったので、さすがに休校ではと思い期待しましたが現実は其ほど甘くありませんでした。
待降節らしい天気でしたが吹雪はもう散々です。
では解説を。
昔、妹が大きな病気で長らく入院していました。時々、一時帰宅といった形で家に戻ることがありましたが、人混みは避けねばならなかったので、折角病院から出れても出掛けられまでんでした。行けたとしても近所のコンビニぐらい。
彼女にとって、そのコンビニへ行くことが大変に嬉しいことのようでした。売っているものも大して珍しいものでもないのに、にこにこと笑っていました。その姿がなんとも言えないぐらい健気で、当時幼かった私も同じく幸せな気持ちになったのです。
今はすっかり元気ですよ、あのこ。毎日一緒に学校へ行っています。あんな大病を患ったとは思えないぐらいに元気なんです。しかし、あの頃を思い出すと、私は辛くなります。
どうして、誰も彼女の病気を代わってあげられなかったのだろう。私が病気になればよかった。あのこの辛い気持ちが無くなるのなら、私は何を差し出したって構わない。そう本気で思っていたし、今もそのように感じます。健気な笑顔を思い出す度に、彼女は心のそこから幸せを感じられていただろうかと考えてしまいます。
病気じゃない私や、家族の心はどんどんすり減っていきました。
タイトルの「蝋燭」は、宗教の時間に習ったキャンドルについてから着想をえています。己がいくら犠牲を払っても周囲を灯し、温める蝋燭はまさに愛情の象徴なのです。
私は妹を心から愛しています。何にも代えがたい、大事な大事な妹なんです。普段そんなことを面と向かって言ったりできませんがね。
辛くて、今にも燃え付きそうなわたしの心は、今の妹が返してくれる愛でなんとか埋まっています。
ああ愛とは、他者との分かち合いであるとつくづく思うのです。
細かな設定のお話です。
留三郎、小平太の続きのように書きましたが、読切ですので、一応何が起きたかここから読んだ人にも分かるようにしたつもりです。
時々忘れがちですが、四年生ってたったの13かそこらなんですね。13歳経験者的に言わせてもらうと、まだまだ幼い頃じゃないですか。伊作くんはその幼さをわかっているので名前をちゃん付けで呼ぶし、愛でるんですよね。
言ってしまえば、まだ彼女の女らしいところをきちんと知らないわけです。だがしかし、心の中では呼び捨てにしたり色々と矛盾が発生するわけです。
その辺の矛盾解決は皆様のご想像で解決して頂きたいです。あえてヒントを言うならば……同衾の課題の行方とでも。留三郎のお話と対になっている(留三郎は朝御飯の心配、伊作は夕御飯の心なども対にしてありますよ、こっそり)のでもしかしたらわかるか。いや、どうだろう。
いつか成長した彼女を知ったときに驚くだろうなあ、伊作。
眠いせいかいらんことばっかり書いてしまいますね。これ以上はまた今度どこかで。
長い身の上話と本作品を読んでくださりありがとうございました。20181205(水)22:18
追記
すっかり冬ですね……と言いたいところですが、今年は例年よりも雪が少なくてあまり実感のない寒いだけの季節になっています。
今日も積もることなくアスファルトに解けていく雪を見て、なんて儚いのだろうと思いました。
タイトルは「コンテンポラリー」とさせていただきました。前衛的といった意味を持ちます。
今度のテーマは「季節の推進力、決して止まることのない命の時間」。今という時は常に最前線である。そんなメッセージをタイトルに込めたつもりです。
ここからはいつもの解説になりますが……。
古文の「あはれ」には二つの意味がありまして、しみじみと感じられる哀しさ、それから深い愛情なんかもこの一言で表せるんです。
此度、彼らは最も死に近い経験をしました。それは生と死の狭間であり、「あはれ」の言葉の通り哀しいと愛しいが裏表の場面だったかと思います。吊り橋効果の原理ってこれなんでしょうかね。
決して二人の恋が吊り橋効果なんていう幻想から生まれたとは言いませんが、互いを拠り所とする姿は彼らがいかに生きるのに必死であったかをうかがわせます。
彼は彼女をただ「憧れていた」と言いましたが、短い人の生をこの人のために過ごそうと思えるほどちゃんと「好き」でした。
彼女は彼をまるで心中のようなものに誘うほど、とっても「好き」でした。
一見、生と死のように真逆である二人ですが、どこか歯車のように支えあえる夫婦なのではないかと私は思います。むしろ、生には必ず死がついてくるものなので実際はイコールなのかもしれませんね。彼らも同じように似た者同士かもしれません。
そして、勘のいい方はお気づきでしょうが、私の書いた短編作品は世界線が繋がっております。というか、繋げることにしました。
なので、短編と表記していたタブを「読切」というように変えておきましたことをご報告いたします。
なんだかもう少し話したいことがあった気がしますが、すっかり忘れてしまったのでこの辺で終わります。
ここまで読んで頂きありがとうございました。20181121(水)19:54
追記
スランプ中に書いていた作品をなんとか手直ししました。どうしても世の人に読んでいただきたかったのです…。
私は投稿してから誤字チェックする癖があって、直後に読まれると「あれ?なんか矛盾してない?」とか「あれ?誤字脱字多すぎない?」ってところが多くあるかと思います。
この記録をつけた後はだいぶ減っているはずです!
今度のお話について説明を添えておきます。
「素晴らしき恩寵」というのはあの有名なアメイジング・グレイスの和訳であります。この歌は赦しの歌であるという話もまた有名ですね。
「赦し」とは人々の懺悔に対し、神様がその罪や責任を免除するという意味です。
「素晴らしき恩寵」のどの辺りが赦しかと言いますと、作詞者である牧師さまが黒人奴隷貿易に関わったことへの後悔やそれでも神様が見放さずそばにいてくださったことへの感謝がうたわれているからなのです。
作中、少女は罪のない兎を傷つけてしまいます。普通の人間なら罪悪感で潰されますよね、こんなことが自分のせいで起きてしまえば。しかしそれにもめげず、兎を救おうとしました。
そんな彼女に相応しいのは赦しであると思ったんです。
私はキリスト教信者ではありませんが、カトリックを少しかじった人間としてこのお話をどうしても書きたかったのです…。
それから、細かい設定について。
当時本当に金平糖って高価なものだったみたいで。それを毎年贈るということは経済力を示すことにも繋がるんですね。
プロポーズと金平糖って一見無関係のようにも思えますが、これをその場面で贈るというのは全く脈絡のない行動というわけでもないんです。
とても長くなりましたが、今回はここまでにします。
お読みいただき、ありがとうございました。20181117(土)22:36
追記
一作目の「湯浴み、水浴び」はサイト開設日である9月28日に掲載しました。
間が空きましたが、やっとかけたので新しいものを納めます。お気に召していただければ幸いです。
昔の文献によると、東北付近では青や緑の瞳を持った人がいたとかなんとか。
事実かはわかりませんが、突然変異であることがほとんどらしいので滅多になかったでしょうね。
その上、本作での設定はオッドアイの少女。
珍しいケースに珍しいケースを重ねました。
鉢屋三郎くんにはそんな「奇なるもの」にほれこんでほしかったんです。
「奇なるもの」に美しさを見出すことができる人間であってほしかったんです。
わたしが描いた部分では見られませんが、きっと学園のみんなもこの少女を受け入れてくれると思っています。
皆、「いい子たち」ですから。