親知らず
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うす赤く燃える囲炉裏の中の炭がその上の鍋をくつくつと煮立たせる。夕食は冬の野菜と狢の汁物だ。男の二人暮らしの時より食事が豪華なのは、あのきり丸よりも遣り繰りの上手な奥さんのおかげである。
突き刺すような冬の寒さも、この囲炉裏のまわりだけは感じられない。
彼女は米櫃から茶碗にご飯を、鍋から漆のお椀に汁ものをよそう。うっすらとした囲炉裏の炎が彼女の白い手を浮かび上がらせている。
その手から少し顔を上げて彼女の顔を覗き込むと、私と目があう。すると彼女はにこにこと笑ってから私にお椀を手渡してくれた。手の中で液体が揺れ動く感覚、湯気にのって香り立つその料理。中身がなんであろうと絶対的に美味いだろうという予感がした。
私の奥さんは永藤咲良といって、弓矢と馬術に長けているとして名の通った女性だ。戦場で勇敢果敢に先陣を切り進むその姿は巴御前の再来とも呼ばれ、大男でさえ恐れおののくという噂である。
普段の彼女は非常に愛らしい様子をしているので、戦場での彼女の様子を見たことのない私にはその姿を想像することなどできやしないが。
彼女との結婚の決め手は三つほどあるが、うち一つははまさにそれであった。
己の身を護ることのできる人。彼女が武芸に秀でているのは武家の生まれであるからだ。七人兄弟の末っ子である奥さんは周囲の大人からたいそう可愛がられて育ったそうだが、武術に関しては全く手の抜かない教育があったらしい。
私の職業柄、家にずっといるということもできないし、尚且つ危険な目に遭わないという保証がないからそのような屈強な彼女が頼もしいと思えたのだった。
第二に、彼女の血筋は学園に信頼されている。
彼女の祖父という方は学園長と親しい。その縁あって、彼女の類い稀ない武術の才がかわれ時折彼女は特別の講師として学園の授業に呼ばれる。子供達は彼女の授業が近々予定されているらしいと知ると、学園の上から下までちょっとした騒ぎが起きる。それくらい彼女は人気なのだ。
それから、最大の決め手はきり丸と気の合う人だったからだ。やはり、同居において両者に避けがたい気まずさがあってはならないと私は常々考えていた。しかしそんな心配は無用であったようだ。よく言えばやり手、粗雑に言えばせっかちで慳貪とも言える二人は相思相愛と言えるぐらい似ていた。二人の相異なるところといえば彼女の倹約ぶりが賢い主婦のそれであるということくらい。
きり丸は奥さんのことを咲良ちゃんと頻りに呼んで大層慕っている。彼女は今年十七になる。年齢の通り若くて綺麗な奥さんだ。私やきり丸との年齢差は側から見ると年の差がある兄弟のようにも思えるだろうか。
以前、彼に何気なく彼女との仲を尋ねたことがあった。すると彼は照れくそうにしながらも、咲良ちゃんはいい姉貴みたいで好きだと言ったのだった。
私はそのことがとても嬉しくて、その一連のことを手紙に書きつけて彼女に速達で送った。彼女の方からもすぐに返事があり、それ曰く、大変に光栄なこととあった。彼女も彼を弟のように可愛がってくれていたのだ。
食事中、奥さんは私たちの話をたくさん聞かせてくれとせがんだ。
実を言うとこの休みがはじまったのはもう三日も前のことであったが、学園の方で色々と処理せねばならない仕事が立て込んでしまった。そのため、帰るのが予定より遅くなっていたのだ。私たちの帰還を彼女は何より楽しみにしていたから、こうしてやっと帰ってきた私たちに会えて嬉しいのだと思う。食事にも未だ手をつけず、彼女は私ときり丸の話を聞いた。
「咲良、せっかくの美味しい食事が冷めてしまうよ。さあ食べなさい」
「やだ半助さんたらセンセイみたいよ」
話題が三つ四つとかわって暫くした後、私が小言めいたことを言うと彼女も軽い嫌味を言った。
「私は先生だからな」
わかってるわよ。若奥さまは頬を膨らませて渋々箸をとった。
彼女はまず汁もののお椀をとり、大根を箸でつまんで口に入れた。その姿がなんとなく愛らしく思えたので、私は彼女が大根を口に含み噛み砕く様子をじっと見つめた。こんなに人の食事に見惚れたのは初めてだ、というのもおかしな話だろうか。私はそれほどに彼女が好きなんだ。
私が見つめていると、彼女は突然顔をしかめた。
「どうかしたの、咲良ちゃん」
彼女の異変にきり丸も気がついた。
「なんでもないの、ちょっと大根が渋くって」
彼女はそう言うが、それは嘘だな。
奥さんは嘘をつくとき、必ず一度姿勢を正す。現に彼女は座り直して背筋を伸ばした。そして奥さんが嘘をつくとき、それは大抵私たちに心配かけまいとしているのだ。そうか、彼女はなにか調子が悪い。体調にしろ何にしろ、食事の場になる今の今まで私たちが気づけなかったということは食事に必要なものごと___つまり口の中に問題があるということになる。
「咲良、こちらへ来なさい」
心配ゆえ、少し厳しい私の言い方に驚いた奥さんはそれに従う。席を立ち、私の近くまで来て座った。
「口の中を見せて」
私は彼女と向かい合って大人しく開かれたその口の中を見ようとするが、この部屋の明るさではどうしようもないほど見えるものがない。
私は彼女の下唇を左手の親指で軽く撫でてさらに大きく口を開けさせた。それから右手の人差し指を彼女の口に差し入れてその中を弄る。上下左右、舌の上、舌の裏それから歯列。問題が何であるかはよくわかった。
しばらくそのように口の中を触られていた彼女は苦しそうに声を上げて涙目にした。指を抜いてくれ、そう訴える目はしっとりとした夜闇を含んでいる。その姿がちょっと扇情的だと思ったのはきり丸の手前、秘密にしておこう。
「すまない、咲良。苦しかったね」
「大丈夫です。あとごめんなさい、嘘をついて」
彼女は涙をぬぐいながら謝った。私は嘘だとはっきり指摘していないのに、彼女は謝った。
奥さんのいいところはそういうところだ。潔くて正しく、自分の心に従い行動を起こすところ。まさに武士道を心得た人間らしく、私は彼女のそんなところも好きだと改めて思う。
「いいさ。君なりの気遣いだろ。でも次はすぐ言うこと。私たちは君の嘘を見抜けるんだからね」
「きり丸にもわかったの」
「うん、まあ。咲良ちゃん、たぶん自分で思ってるよりわかりやすい態度してるよ」
きり丸は茶碗に残っていた最後の一口を詰め込んでから答えた。奥さんは暗所でもわかるくらいその恥ずかしさに耳まで赤くしてお椀の二口目を食べようと自分の座っていたところに戻った。
「たぶん咲良が痛がってたのは親知らずだよ」
「土井先生、オヤシラズってなに」
私は少なくとも一瞬この話題を持ち込むことに怯んだ。
親知らずとは成長すると奥歯のその奥に生えてくる歯のことで、その名の由来は「親が知らない間」に生えてくる歯だからだ。
一通りそう説明すると、きり丸がさして興味がなさそうにふーんとだけ返事をした。話した後で後悔も感じられたような気がした。しかし今は親がどうだって話で落ち込むような時分じゃないと胸を張って言えるぐらいの環境を私は整えたはずだと信じている。この信じこみが私の自分勝手なら、私は私を許せない。
「おれも生えるのか、親知らず。まあ確かに知らないよな、親はさ」
彼はあっけらかんとしてそう言った。
「私の親知らずは『きり丸と半助さんは知ってる』ね。ほら、二人は事情がわかってるから。もし私が知ればきり丸の親知らずは『咲良は知ってる』になるわね。もちろん私が知れば半助さんも知るだろうし、そうなれば『私たちは知ってる』だわ」
「きり丸と半助さんは知ってる」、彼女の天真爛漫さがはっきりと表された言葉であった。成長の喜びを私たちと共有することが彼女の中では大変な幸福なのだ。
きっと奥さんの言う「私たちは知ってる」は、きり丸に親知らずが生えてくる頃もこんな他愛ない話をしあう仲でいたい、それこそきり丸の成長を大人として祝う存在でありたいと願う気持ちが込められたそれだ。
「咲良ちゃんはおれがそんなに大きくなるまで面倒見てくれるの」
彼は十分期待して尋ねた。
「もちろん、約束するわ」
そう答えた奥さんの優しい微笑みにはくもりが一つもない。
どれだけ彼女は一途で真面目なんだろう。 この人と一緒になれてよかった、そう思う時は今までたくさんあったけれど、きり丸のことに真摯に向き合ってくれるところが私にとっては愛しいんだ。
私たちが遭遇してきたことはただ偶然の巡り合わせなのかも知れない。神や仏がいるのなら、彼らは恵を少しずつ私に注いでくれているのだ。私が器だとしたら、たった今その注がれたもので満たされているはず。器から溢れてしまわないよう両手いっぱいに抱えて守っているものは過去の苦しみではなく、現在の幸福なのであると私は誇らしく言うのだ。
突き刺すような冬の寒さも、この囲炉裏のまわりだけは感じられない。
彼女は米櫃から茶碗にご飯を、鍋から漆のお椀に汁ものをよそう。うっすらとした囲炉裏の炎が彼女の白い手を浮かび上がらせている。
その手から少し顔を上げて彼女の顔を覗き込むと、私と目があう。すると彼女はにこにこと笑ってから私にお椀を手渡してくれた。手の中で液体が揺れ動く感覚、湯気にのって香り立つその料理。中身がなんであろうと絶対的に美味いだろうという予感がした。
私の奥さんは永藤咲良といって、弓矢と馬術に長けているとして名の通った女性だ。戦場で勇敢果敢に先陣を切り進むその姿は巴御前の再来とも呼ばれ、大男でさえ恐れおののくという噂である。
普段の彼女は非常に愛らしい様子をしているので、戦場での彼女の様子を見たことのない私にはその姿を想像することなどできやしないが。
彼女との結婚の決め手は三つほどあるが、うち一つははまさにそれであった。
己の身を護ることのできる人。彼女が武芸に秀でているのは武家の生まれであるからだ。七人兄弟の末っ子である奥さんは周囲の大人からたいそう可愛がられて育ったそうだが、武術に関しては全く手の抜かない教育があったらしい。
私の職業柄、家にずっといるということもできないし、尚且つ危険な目に遭わないという保証がないからそのような屈強な彼女が頼もしいと思えたのだった。
第二に、彼女の血筋は学園に信頼されている。
彼女の祖父という方は学園長と親しい。その縁あって、彼女の類い稀ない武術の才がかわれ時折彼女は特別の講師として学園の授業に呼ばれる。子供達は彼女の授業が近々予定されているらしいと知ると、学園の上から下までちょっとした騒ぎが起きる。それくらい彼女は人気なのだ。
それから、最大の決め手はきり丸と気の合う人だったからだ。やはり、同居において両者に避けがたい気まずさがあってはならないと私は常々考えていた。しかしそんな心配は無用であったようだ。よく言えばやり手、粗雑に言えばせっかちで慳貪とも言える二人は相思相愛と言えるぐらい似ていた。二人の相異なるところといえば彼女の倹約ぶりが賢い主婦のそれであるということくらい。
きり丸は奥さんのことを咲良ちゃんと頻りに呼んで大層慕っている。彼女は今年十七になる。年齢の通り若くて綺麗な奥さんだ。私やきり丸との年齢差は側から見ると年の差がある兄弟のようにも思えるだろうか。
以前、彼に何気なく彼女との仲を尋ねたことがあった。すると彼は照れくそうにしながらも、咲良ちゃんはいい姉貴みたいで好きだと言ったのだった。
私はそのことがとても嬉しくて、その一連のことを手紙に書きつけて彼女に速達で送った。彼女の方からもすぐに返事があり、それ曰く、大変に光栄なこととあった。彼女も彼を弟のように可愛がってくれていたのだ。
食事中、奥さんは私たちの話をたくさん聞かせてくれとせがんだ。
実を言うとこの休みがはじまったのはもう三日も前のことであったが、学園の方で色々と処理せねばならない仕事が立て込んでしまった。そのため、帰るのが予定より遅くなっていたのだ。私たちの帰還を彼女は何より楽しみにしていたから、こうしてやっと帰ってきた私たちに会えて嬉しいのだと思う。食事にも未だ手をつけず、彼女は私ときり丸の話を聞いた。
「咲良、せっかくの美味しい食事が冷めてしまうよ。さあ食べなさい」
「やだ半助さんたらセンセイみたいよ」
話題が三つ四つとかわって暫くした後、私が小言めいたことを言うと彼女も軽い嫌味を言った。
「私は先生だからな」
わかってるわよ。若奥さまは頬を膨らませて渋々箸をとった。
彼女はまず汁もののお椀をとり、大根を箸でつまんで口に入れた。その姿がなんとなく愛らしく思えたので、私は彼女が大根を口に含み噛み砕く様子をじっと見つめた。こんなに人の食事に見惚れたのは初めてだ、というのもおかしな話だろうか。私はそれほどに彼女が好きなんだ。
私が見つめていると、彼女は突然顔をしかめた。
「どうかしたの、咲良ちゃん」
彼女の異変にきり丸も気がついた。
「なんでもないの、ちょっと大根が渋くって」
彼女はそう言うが、それは嘘だな。
奥さんは嘘をつくとき、必ず一度姿勢を正す。現に彼女は座り直して背筋を伸ばした。そして奥さんが嘘をつくとき、それは大抵私たちに心配かけまいとしているのだ。そうか、彼女はなにか調子が悪い。体調にしろ何にしろ、食事の場になる今の今まで私たちが気づけなかったということは食事に必要なものごと___つまり口の中に問題があるということになる。
「咲良、こちらへ来なさい」
心配ゆえ、少し厳しい私の言い方に驚いた奥さんはそれに従う。席を立ち、私の近くまで来て座った。
「口の中を見せて」
私は彼女と向かい合って大人しく開かれたその口の中を見ようとするが、この部屋の明るさではどうしようもないほど見えるものがない。
私は彼女の下唇を左手の親指で軽く撫でてさらに大きく口を開けさせた。それから右手の人差し指を彼女の口に差し入れてその中を弄る。上下左右、舌の上、舌の裏それから歯列。問題が何であるかはよくわかった。
しばらくそのように口の中を触られていた彼女は苦しそうに声を上げて涙目にした。指を抜いてくれ、そう訴える目はしっとりとした夜闇を含んでいる。その姿がちょっと扇情的だと思ったのはきり丸の手前、秘密にしておこう。
「すまない、咲良。苦しかったね」
「大丈夫です。あとごめんなさい、嘘をついて」
彼女は涙をぬぐいながら謝った。私は嘘だとはっきり指摘していないのに、彼女は謝った。
奥さんのいいところはそういうところだ。潔くて正しく、自分の心に従い行動を起こすところ。まさに武士道を心得た人間らしく、私は彼女のそんなところも好きだと改めて思う。
「いいさ。君なりの気遣いだろ。でも次はすぐ言うこと。私たちは君の嘘を見抜けるんだからね」
「きり丸にもわかったの」
「うん、まあ。咲良ちゃん、たぶん自分で思ってるよりわかりやすい態度してるよ」
きり丸は茶碗に残っていた最後の一口を詰め込んでから答えた。奥さんは暗所でもわかるくらいその恥ずかしさに耳まで赤くしてお椀の二口目を食べようと自分の座っていたところに戻った。
「たぶん咲良が痛がってたのは親知らずだよ」
「土井先生、オヤシラズってなに」
私は少なくとも一瞬この話題を持ち込むことに怯んだ。
親知らずとは成長すると奥歯のその奥に生えてくる歯のことで、その名の由来は「親が知らない間」に生えてくる歯だからだ。
一通りそう説明すると、きり丸がさして興味がなさそうにふーんとだけ返事をした。話した後で後悔も感じられたような気がした。しかし今は親がどうだって話で落ち込むような時分じゃないと胸を張って言えるぐらいの環境を私は整えたはずだと信じている。この信じこみが私の自分勝手なら、私は私を許せない。
「おれも生えるのか、親知らず。まあ確かに知らないよな、親はさ」
彼はあっけらかんとしてそう言った。
「私の親知らずは『きり丸と半助さんは知ってる』ね。ほら、二人は事情がわかってるから。もし私が知ればきり丸の親知らずは『咲良は知ってる』になるわね。もちろん私が知れば半助さんも知るだろうし、そうなれば『私たちは知ってる』だわ」
「きり丸と半助さんは知ってる」、彼女の天真爛漫さがはっきりと表された言葉であった。成長の喜びを私たちと共有することが彼女の中では大変な幸福なのだ。
きっと奥さんの言う「私たちは知ってる」は、きり丸に親知らずが生えてくる頃もこんな他愛ない話をしあう仲でいたい、それこそきり丸の成長を大人として祝う存在でありたいと願う気持ちが込められたそれだ。
「咲良ちゃんはおれがそんなに大きくなるまで面倒見てくれるの」
彼は十分期待して尋ねた。
「もちろん、約束するわ」
そう答えた奥さんの優しい微笑みにはくもりが一つもない。
どれだけ彼女は一途で真面目なんだろう。 この人と一緒になれてよかった、そう思う時は今までたくさんあったけれど、きり丸のことに真摯に向き合ってくれるところが私にとっては愛しいんだ。
私たちが遭遇してきたことはただ偶然の巡り合わせなのかも知れない。神や仏がいるのなら、彼らは恵を少しずつ私に注いでくれているのだ。私が器だとしたら、たった今その注がれたもので満たされているはず。器から溢れてしまわないよう両手いっぱいに抱えて守っているものは過去の苦しみではなく、現在の幸福なのであると私は誇らしく言うのだ。
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