穴
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精進の名の下に、日々の努力を怠ることなく生きてきた俺が、ついに恋というものを知ってしまった。しまったというのも、忍たるもの破ってはならない三禁というのがあって、うち一つが色なのだ。
必要上、それを学び、また実践課題をせねばならないがそれはあくまでも忍としてやるべきことなのである。一人間としての恋心なんてものはどこかに捨てるべきであったのに、どうして彼女を好きになってしまったのだろう。
彼女は、名を永藤咲良という。
彼女とは学園の中ですれ違いに見かける、特に接点のない間柄だ。正式な面識はない。所謂、一目惚れってやつだ。
なんというか、話した感じだとか性格だとかが彼女の好いところだというならまだよかったかもしれない。だが俺は、自分より二つも年下のくせに愛らしくどこか色気づいている、そんな女にうっかり惚れてしまったというのだから、悔しいとしか言えない。
彼女が歩き、その美しい髪が揺れるのを見ると、その度に自分の脈は速く強く打ちつけ、胸が苦しくなるのだ。
これほどにつらい気持ちになるのなら、ほんとうに恋などという浮ついたものに気づかなければよかったと後悔する。
しかしながら、彼女を想うと首元から段々と血が沸騰し、思考という思考が溶けてゆくような快感を覚えて、俺はもうその熱から逃れることができなくなっていた。
好きなんだ。
心から、純粋に、どうしようもないほどに。
秋の朝は、冬のよりだいぶ暖かく夏のより明らかに肌寒い。うすらと陽の光が辺りに滲みはじめる頃、俺は目を覚ました。
休日とはいえ、いつもの時間に目覚めたのはこの身体に染みついた習慣のせいだろう。昨晩は課外授業があったので、身体は布団に籠りたがっていたが、無理やりに己を起こして洗面のために井戸へと向かった。
冷たい廊下をゆき、長屋から出てしばらくするとそこには井戸が見えてくる。この井戸は学園全員の共用物であり、洗濯用の水なんかもここから汲む。だからここへ来ると必ず誰彼かに会うものだ。
今日の俺は最高に運が良かった。
丁度井戸を使い終え、部屋に戻ってゆく様子の咲良に会うことができたのだ。彼女は俺に気づくと、おはようございますと挨拶をしてさっさと行ってしまった。
俺は露が滴る彼女の髪の毛先に見惚れて、たぶんあやふやに返事をしただろうと思う。
彼女がいなくなってから桶に水を汲むと、足元に手ぬぐいが落ちていることに気がついた。まだ軽く湿ったそれは、どうやら彼女が落としていったものだろう、丁寧に蜜柑色の糸で咲良と刺繍されている。
追いかけてすぐに返そうとも思ったが、彼女が去ってだいぶ経っていたし、なにより彼女が使ったものだと思うと、様々な邪念が湧いてきたのでしばらく手に握りしめていた。
咲良のことをもっと知りたいという純粋な興味だけが俺をつき動かす。俺は少しぐらい彼女の香りが残っていないかと思って顔を近づけたのだ。匂いだけじゃなくて、もっと彼女の実体的な部分に触れてみたい、そんな想いが脳を柔らかく霞めた。
その時、俺はなんてことをしているのだろうとふと我に返った。俺は断ち切れ、断ち切るんだと自分に言い聞かせ、己の煩悩を洗い流すように桶の水に手ぬぐいを突っ込んで洗った。彼女にきちんと返そうと決心をして。
手ぬぐいは昼間まで乾かし、綺麗にたたんだ。これを返して、彼女への気持ちは無かったことにしようと俺は心にきめた。
今まで、自ら彼女に会いに行こうとしたことはないし、いつも偶然に見かけるのばかりを期待していたから、彼女がどこにいるのか全く見当もつかないし、知るあてもない。とりあえずそれを持って部屋を出た。
だが、忍たまは情報で世を生き抜くことができるようにと育てられるものだから、すぐに彼女のいるらしい場所はわかるのだ。途中で見かけたくのたまに尋ねたところ、咲良は普段彼女たちが作法や行儀の実践を行う和室にいるだろうと聞いた。
その和室ははなれのようになっていて、時々作法委員も使用しているところだから誰でも入れる場所である。俺は急いでそこへと向かった。
例の和室の前まで来ると、刃物が何かをさくさくと切る音が聞こえてきた。彼女かは分からないが、人はいるらしい。
俺は襖の縁を軽く三度ほど叩き、中にいる人物に呼びかけた。
「六年の潮江だが、永藤という生徒はいるだろうか」
その人物は、はたはたと畳を踏みしめてこちらへやってくる。はいなんでしょう、と言ってその襖を開けたのは他でもない彼女だった。
「実は、君の落とし物を偶然拾ったので届けようと思ってな」
俺は半日を共に過ごした彼女の手ぬぐいを差し出して言った。すると、彼女の顔はみるみるうちに明るくなる。
「よかった、見つかって。井戸に落としてしまったと思ってすっかり諦めていたんです。ほんとうにありがとうございます、潮江先輩」
「いや、いいんだ。見つけたのだから届けるのが当然だろう。記名されていたのだし。そういえば、水で洗ってしまったのだが、かまわなかっただろうか」
届けてくださった上に洗っていてくださったなんて、と彼女は重ね重ね申し訳ないといったように謝罪と感謝の言葉を口にした。
「どうぞお上がりになってください。すぐにお茶を淹れますから」
これで彼女とは最後と思っていたので、俺は勿論その誘いを断った。けれども彼女はどうしてもその手拭いの礼をさせてほしいと言うので、俺は断りきれず、その誘いにのってしまった。
その部屋に入って辺りを見回すと、奥にある花瓶を中心に花が散らばり、中にははさみ等の道具もあった。彼女は花を生ける途中なのだろう。いそいそと茶の準備をする彼女の背中に声をかける。
「すまない、君にもやることがあったのに中断させてしまって」
「いいのですよ、これはお礼なんですから。どうぞ座って待っていてください」
もう少しでできますから、そうつけ加えて彼女は振り向きざま、俺に微笑んだ。
俺が茶を喫する間、彼女はどんどんと花を花瓶に差していった。花をたしなみながら茶を頂くという贅沢に心が安らぐ。また、退屈にならないよう、彼女は俺に話を聞かせてくれた。
「実はあの刺繍、わたしの祖母に習ったもので。一番はじめに縫ったものなんです。だからこの手ぬぐいはずっと大事にしていて、見つかってとても嬉しいんです」
咲良は甘美な笑みを浮かべて花々を見つめた。うっとりとしたその表情に俺の心は揺らいだ。つくづく彼女を諦めるには勿体ないように思えてしまったのだ。
こんなに美しい人は他にいない。彼女の手先の器用さや、小さいものを愛でる優しさまでもを知ってしまった今、もう後には退けやしないと悟ったのだった。
「祖母は才能に溢れた人です。裁縫も、生け花も祖母に仕込んでもらいましたが、その術にはまだまだ追いつけないんです。だから私は祖母のような人になりたくて、あんな人になるために日々精進の暮らしなんです」
「あの名は綺麗に縫い取られていたと思うがなあ。だとしたら君のおばあ様という人は本当にすごい人なんだな」
興奮したようにそうなんです、そうなんですと相槌を打ち、彼女はその言葉に自分が褒められたのと同じぐらい喜んだ。彼女は祖母に対する愛情の深い娘なのだろう。
「さあ、これでいいでしょうか。どうです、素敵ではありませんか、自信作です」
茶も飲み終わる頃、彼女は花台をくるりと回して俺に見せた。そこには、まさに秋季があった。
艶々の葉に夕焼けの色で染めたような葉と、まっ白い菊の花。よくある組み合わせだが、そこはかとなくある季節の寂しさがしみじみと感じられて、彼女の生け花の才覚が透けて見えた。
「実は学園長先生のところの床の間に飾る予定だったので、誰かに見ていただきたかったのですが、いかがでしょう」
彼女は窺うように尋ねた。
自己の評価と他人の評価では誤差が生まれるのは当然だ。自信作とは言いつつも、多かれ少なかれ不安はあるだろう。
「ああ、風流で見事だというのだろうな。すまない、いかんせんこういうことには疎くてな、なんと誉むべきかよく知らないのだが実にきれいだと思う」
咲良の顔が安心で綻んだ。
学園長にこの仕事を頼まれたのだろうが、それは恐らく彼女の腕を買ってのことであろう。きっと彼女が自分で考えているより周囲からの評価は高いものだ。
俺はそう思ったが、「精進」を掲げている彼女にそんなふうには言えまい。喉まででかかった言葉を腹の奥に隠した。
「そういえばまた潮江先輩に借をつくってしまいましたね。またよければここへ来てください、今度はお茶菓子も用意しておきますから」
「こんなこと、借のうちに入らないだろう」
彼女は丁寧な人で必ず恩には報いる女性だが、目の前の男はそれを蹴って避けなければならない用事をもっている。申し訳なさと悔しさとで織り混ざった心が軋むような音を立てた。ほんとうは彼女の多くを見ることができるのなら、ずっとそばにいたいのに。
「甘味なんかはお好きではありませんか。しょっぱいのがよければ知り合いのお店の美味しいお煎餅を準備しておきますよ」
彼女は俺が遠慮をしているのだろうと思ってあたり障りのないように訊いた。
正直、根負けだ。こうも咲良に提案されてばかりでは、岩のように堅く育てたつもりの志も、すっかり脆くなってしまう。惚れた弱味、己の唯一とも言える弱点。彼女に触れられて、ほろほろと崩れてゆく俺の心は、またもや彼女に抗えなかったのだ。
「なら、ひとつお願いがある。今度は刺繍をするところも見せてくれないだろうか」
口から滑り出たものは、ついに雪崩れるように続く。
彼女を知りたくなかった。この気持ちがなんたるかを理解できぬままでよかった。なにもかも、気づいたりしたくなかった。でも今は、彼女の多くをわかりたいという欲が足下からせりあがってくる。
単なる憧れとは言い訳しがたくなったそれは、もう恋と呼ぶ他になんと呼ぶべきなのだろう。
そんなものがお礼になるのならば、と微笑んだ彼女の細めた目と俺の目があったとき、改めて恋というのは厄介なものだと心得たのだった。
必要上、それを学び、また実践課題をせねばならないがそれはあくまでも忍としてやるべきことなのである。一人間としての恋心なんてものはどこかに捨てるべきであったのに、どうして彼女を好きになってしまったのだろう。
彼女は、名を永藤咲良という。
彼女とは学園の中ですれ違いに見かける、特に接点のない間柄だ。正式な面識はない。所謂、一目惚れってやつだ。
なんというか、話した感じだとか性格だとかが彼女の好いところだというならまだよかったかもしれない。だが俺は、自分より二つも年下のくせに愛らしくどこか色気づいている、そんな女にうっかり惚れてしまったというのだから、悔しいとしか言えない。
彼女が歩き、その美しい髪が揺れるのを見ると、その度に自分の脈は速く強く打ちつけ、胸が苦しくなるのだ。
これほどにつらい気持ちになるのなら、ほんとうに恋などという浮ついたものに気づかなければよかったと後悔する。
しかしながら、彼女を想うと首元から段々と血が沸騰し、思考という思考が溶けてゆくような快感を覚えて、俺はもうその熱から逃れることができなくなっていた。
好きなんだ。
心から、純粋に、どうしようもないほどに。
秋の朝は、冬のよりだいぶ暖かく夏のより明らかに肌寒い。うすらと陽の光が辺りに滲みはじめる頃、俺は目を覚ました。
休日とはいえ、いつもの時間に目覚めたのはこの身体に染みついた習慣のせいだろう。昨晩は課外授業があったので、身体は布団に籠りたがっていたが、無理やりに己を起こして洗面のために井戸へと向かった。
冷たい廊下をゆき、長屋から出てしばらくするとそこには井戸が見えてくる。この井戸は学園全員の共用物であり、洗濯用の水なんかもここから汲む。だからここへ来ると必ず誰彼かに会うものだ。
今日の俺は最高に運が良かった。
丁度井戸を使い終え、部屋に戻ってゆく様子の咲良に会うことができたのだ。彼女は俺に気づくと、おはようございますと挨拶をしてさっさと行ってしまった。
俺は露が滴る彼女の髪の毛先に見惚れて、たぶんあやふやに返事をしただろうと思う。
彼女がいなくなってから桶に水を汲むと、足元に手ぬぐいが落ちていることに気がついた。まだ軽く湿ったそれは、どうやら彼女が落としていったものだろう、丁寧に蜜柑色の糸で咲良と刺繍されている。
追いかけてすぐに返そうとも思ったが、彼女が去ってだいぶ経っていたし、なにより彼女が使ったものだと思うと、様々な邪念が湧いてきたのでしばらく手に握りしめていた。
咲良のことをもっと知りたいという純粋な興味だけが俺をつき動かす。俺は少しぐらい彼女の香りが残っていないかと思って顔を近づけたのだ。匂いだけじゃなくて、もっと彼女の実体的な部分に触れてみたい、そんな想いが脳を柔らかく霞めた。
その時、俺はなんてことをしているのだろうとふと我に返った。俺は断ち切れ、断ち切るんだと自分に言い聞かせ、己の煩悩を洗い流すように桶の水に手ぬぐいを突っ込んで洗った。彼女にきちんと返そうと決心をして。
手ぬぐいは昼間まで乾かし、綺麗にたたんだ。これを返して、彼女への気持ちは無かったことにしようと俺は心にきめた。
今まで、自ら彼女に会いに行こうとしたことはないし、いつも偶然に見かけるのばかりを期待していたから、彼女がどこにいるのか全く見当もつかないし、知るあてもない。とりあえずそれを持って部屋を出た。
だが、忍たまは情報で世を生き抜くことができるようにと育てられるものだから、すぐに彼女のいるらしい場所はわかるのだ。途中で見かけたくのたまに尋ねたところ、咲良は普段彼女たちが作法や行儀の実践を行う和室にいるだろうと聞いた。
その和室ははなれのようになっていて、時々作法委員も使用しているところだから誰でも入れる場所である。俺は急いでそこへと向かった。
例の和室の前まで来ると、刃物が何かをさくさくと切る音が聞こえてきた。彼女かは分からないが、人はいるらしい。
俺は襖の縁を軽く三度ほど叩き、中にいる人物に呼びかけた。
「六年の潮江だが、永藤という生徒はいるだろうか」
その人物は、はたはたと畳を踏みしめてこちらへやってくる。はいなんでしょう、と言ってその襖を開けたのは他でもない彼女だった。
「実は、君の落とし物を偶然拾ったので届けようと思ってな」
俺は半日を共に過ごした彼女の手ぬぐいを差し出して言った。すると、彼女の顔はみるみるうちに明るくなる。
「よかった、見つかって。井戸に落としてしまったと思ってすっかり諦めていたんです。ほんとうにありがとうございます、潮江先輩」
「いや、いいんだ。見つけたのだから届けるのが当然だろう。記名されていたのだし。そういえば、水で洗ってしまったのだが、かまわなかっただろうか」
届けてくださった上に洗っていてくださったなんて、と彼女は重ね重ね申し訳ないといったように謝罪と感謝の言葉を口にした。
「どうぞお上がりになってください。すぐにお茶を淹れますから」
これで彼女とは最後と思っていたので、俺は勿論その誘いを断った。けれども彼女はどうしてもその手拭いの礼をさせてほしいと言うので、俺は断りきれず、その誘いにのってしまった。
その部屋に入って辺りを見回すと、奥にある花瓶を中心に花が散らばり、中にははさみ等の道具もあった。彼女は花を生ける途中なのだろう。いそいそと茶の準備をする彼女の背中に声をかける。
「すまない、君にもやることがあったのに中断させてしまって」
「いいのですよ、これはお礼なんですから。どうぞ座って待っていてください」
もう少しでできますから、そうつけ加えて彼女は振り向きざま、俺に微笑んだ。
俺が茶を喫する間、彼女はどんどんと花を花瓶に差していった。花をたしなみながら茶を頂くという贅沢に心が安らぐ。また、退屈にならないよう、彼女は俺に話を聞かせてくれた。
「実はあの刺繍、わたしの祖母に習ったもので。一番はじめに縫ったものなんです。だからこの手ぬぐいはずっと大事にしていて、見つかってとても嬉しいんです」
咲良は甘美な笑みを浮かべて花々を見つめた。うっとりとしたその表情に俺の心は揺らいだ。つくづく彼女を諦めるには勿体ないように思えてしまったのだ。
こんなに美しい人は他にいない。彼女の手先の器用さや、小さいものを愛でる優しさまでもを知ってしまった今、もう後には退けやしないと悟ったのだった。
「祖母は才能に溢れた人です。裁縫も、生け花も祖母に仕込んでもらいましたが、その術にはまだまだ追いつけないんです。だから私は祖母のような人になりたくて、あんな人になるために日々精進の暮らしなんです」
「あの名は綺麗に縫い取られていたと思うがなあ。だとしたら君のおばあ様という人は本当にすごい人なんだな」
興奮したようにそうなんです、そうなんですと相槌を打ち、彼女はその言葉に自分が褒められたのと同じぐらい喜んだ。彼女は祖母に対する愛情の深い娘なのだろう。
「さあ、これでいいでしょうか。どうです、素敵ではありませんか、自信作です」
茶も飲み終わる頃、彼女は花台をくるりと回して俺に見せた。そこには、まさに秋季があった。
艶々の葉に夕焼けの色で染めたような葉と、まっ白い菊の花。よくある組み合わせだが、そこはかとなくある季節の寂しさがしみじみと感じられて、彼女の生け花の才覚が透けて見えた。
「実は学園長先生のところの床の間に飾る予定だったので、誰かに見ていただきたかったのですが、いかがでしょう」
彼女は窺うように尋ねた。
自己の評価と他人の評価では誤差が生まれるのは当然だ。自信作とは言いつつも、多かれ少なかれ不安はあるだろう。
「ああ、風流で見事だというのだろうな。すまない、いかんせんこういうことには疎くてな、なんと誉むべきかよく知らないのだが実にきれいだと思う」
咲良の顔が安心で綻んだ。
学園長にこの仕事を頼まれたのだろうが、それは恐らく彼女の腕を買ってのことであろう。きっと彼女が自分で考えているより周囲からの評価は高いものだ。
俺はそう思ったが、「精進」を掲げている彼女にそんなふうには言えまい。喉まででかかった言葉を腹の奥に隠した。
「そういえばまた潮江先輩に借をつくってしまいましたね。またよければここへ来てください、今度はお茶菓子も用意しておきますから」
「こんなこと、借のうちに入らないだろう」
彼女は丁寧な人で必ず恩には報いる女性だが、目の前の男はそれを蹴って避けなければならない用事をもっている。申し訳なさと悔しさとで織り混ざった心が軋むような音を立てた。ほんとうは彼女の多くを見ることができるのなら、ずっとそばにいたいのに。
「甘味なんかはお好きではありませんか。しょっぱいのがよければ知り合いのお店の美味しいお煎餅を準備しておきますよ」
彼女は俺が遠慮をしているのだろうと思ってあたり障りのないように訊いた。
正直、根負けだ。こうも咲良に提案されてばかりでは、岩のように堅く育てたつもりの志も、すっかり脆くなってしまう。惚れた弱味、己の唯一とも言える弱点。彼女に触れられて、ほろほろと崩れてゆく俺の心は、またもや彼女に抗えなかったのだ。
「なら、ひとつお願いがある。今度は刺繍をするところも見せてくれないだろうか」
口から滑り出たものは、ついに雪崩れるように続く。
彼女を知りたくなかった。この気持ちがなんたるかを理解できぬままでよかった。なにもかも、気づいたりしたくなかった。でも今は、彼女の多くをわかりたいという欲が足下からせりあがってくる。
単なる憧れとは言い訳しがたくなったそれは、もう恋と呼ぶ他になんと呼ぶべきなのだろう。
そんなものがお礼になるのならば、と微笑んだ彼女の細めた目と俺の目があったとき、改めて恋というのは厄介なものだと心得たのだった。
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