紫君子蘭
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そのひとを見つけたのは雨が一日中降り続けた夏の日であった。
彼女は道端にしゃがんで、なにかを覗き込んでいた。そこに紫の可憐な花が咲いていて、彼女は自分のためにさしていた傘をその花に添えたのだ。
やがて彼女の服は雨粒に打たれ、暗く染まっていく。髪もより一層深みが増し、艶めいた色になって、その姿はまるで羽の濡れた蝶々のようであった。
その姿に私は目を奪われたのだ。
名をなんと言うのだろう、どのような声で話すのだろう。雨の上がった次の日でも、ずっと彼女のことが気になるばかりであった。
彼女と知り合うきっかけは、思っていたより早くやってきた。
ちょうど私が図書委員の仕事をしていたとき、彼女は貸出の手続きをしにやってきたのだ。悪いとは思いつつ、その記された名前を盗み見た。
彼女の賢そうな雰囲気に似合う整った字で、永藤咲良とそこにはある。
学年は一つだけ下。彼女が図書室で借りている本は物語ばかりのようで、少し意外なような気がしたが、皮肉な意味を含まず純粋に、幼らしい趣味で可愛いなと思った。
なにか彼女に声をかけてみようとしたけれど、ここが図書室であることを思い出してはばかられた。私は机の上にあった紙を手繰り寄せ、筆をとる。
「風邪はひいていないのか」
あの日、彼女はずぶ濡れになりながらくのたまの長屋へと戻っていったから、このことも気がかりであった。彼女は戸惑ったような顔をつくって首をかしげる。
雨の日に、と私が続けて書くと、私の意図を察したように彼女は柔らかく微笑み、大丈夫ですといった感じで頷く。
これが初めて彼女と「会話」をしたときのことである。
それから何度も彼女を見かけているが、なかなか話す機会は訪れなかった。
というのも私たちは図書館で会うばかりで、筆談での話ししかできなかったからだ。希に廊下ですれ違っても、互いに会釈で挨拶をする程度、声をかけあうことはない。
しかしながら彼女との筆談は楽しみで、友人たちに最近付き合いが悪いと文句をこぼされる程ほとんど毎日、図書委員の仕事を受けもっていた。
話すことといえば、どんな本が好きかとか今度の課題が難しいとか他愛ないことばかりで、特別なことはなにひとつない。けれども、これによって彼女の人となりを少しずつ知ってゆくと、不思議なことに段々に心が惹かれていくのがわかった。
咲良はあの日の花のように可憐で、優しい女の子だ。色々な物語を知っていて、知的で物知りな一面もあるのだとわかる。
どこをとっても彼女が愛しく感じられてきて、気がつけば私は彼女を好きになっていた。
彼女もまた私に対し決して素っ気ないような態度はとらなかった。だから、その居心地のよさについ甘えたくなって、また咲良に会いたくなる。恋仲になって、図書室でなくとも彼女を独占していたいという欲求がどんどんと湧いてきた。
私はついに彼女にこの思いを打ち明けようと決心したのだった。
どんな伝え方が彼女にとって素敵だろう。
かの源氏の君はこんな問題を容易く解決できたのだろうか、そうならばなかなかに羨ましい。
彼女の物語好きな側面を考えると、答えはだいたい固まった。
咲良が廊下の向こうから歩いてくるのが見えて、これはまたとない機会だと確信した。
私たちがすれ違うかどうかの間際、彼女は私に気づいて、いつものように礼をして去って行ってしまいそうだったが、腕を掴んで半ば無理矢理にひき止めた。
「咲良、これを受け取ってほしい」
私は彼女の前に一輪の花を差し出した。花はどことなく懐かしく見覚えのあるような雰囲気のあるもので、その茎の部分に文が結ばれている。
その文にはこうしたためておいた。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに
乱れそめにしわれならなくに
伊勢物語初段の初冠でも登場するこの歌は、忍ぶ恋心を表すものである。昔男のように咲良を垣間見たときから、私はそのひとの虜であったのだと、暗に示したかったのだ。
物語をよく知る彼女ならばそのことに気づけるだろうと、私は信じていた。
彼女はその花を受け取り文を読むが、うろたえるばかりでなにも言わない。少々やり過ぎてしまったかと反省して、俯く彼女を屈んで覗き込むと、彼女は頬を染め目にたっぷりと涙を溜めていた。
雨水の玉が硝子に置いて、より一層輝きを増したようなその瞳は、屈んだ私の目に焦点が合うと、もの憂げに揺れた。しばらく見つめあっていただろうが、ついに彼女は視線を逸らし、そのままどこかへと走り去ってゆく。
率直に言えば、しまったと思った。時機を、そして彼女の気持ちを見誤ったとも。彼女が私に対して良好な態度を取っているというのは、完全なる自分の勘違いであったのだろうか。
悔しいような、悲しいような何とも言い難い遣る瀬無い気持ちばかりが心に渦巻く。
空から屋根にぽつりぽつりと水滴が落ちてきた。また雨が降りはじめたのだ。まるで、私のどんよりとした心を空に写したかのように、段々と雨脚は強まっていく。
その雨はしばらく続いている。
それに合わせて、気分も落ち込み続けるばかりで、何をするのもどことなく億劫だ。咲良にこの心を打ち明ける以前にはほとんど毎日通っていた図書室にも足が向かず、少なくともここ三日ほどは委員の仕事を後輩たちに任せてしまっている。
そろそろ切りかえて、やるべきことをきちんとせねばならないと思い、やっと私は重い腰をあげた。
静かな図書室は落ち着きある空間だが、あまりにも静かで、彼女のことばかりが頭に浮かばれた。
あのあと、咲良はどんな想いでいるだろうか。もし、今に彼女が図書室のその襖をくぐってきたとき、私は普通の態度でやり過ごせるだろうか。
答えは後にはっきりと知ることとなる。
そろそろ夕食の時間が近づいたので、この部屋も閉めようと準備をしていたとき、遅めの来客があった。なんと咲良がやってきたのだ。そのときの私はたいそう当惑していただろうが、一方の彼女は目を見開き、また安心したような表情で私のところまでやってきた。
彼女は嬉々としてその懐から一通の文を出し、私に半ば押し付けるように渡した。私がそれに首をかしげると、彼女は是非読んでくれといったように頷いた。
文を広げたところにはこうある。
御返事が遅れてしまったこと、ほんとうに申し訳なく思います。
中在家先輩のお気持ちを頂けて大変嬉しくも思います。あの一首を目にしたとき、わたしはとても救われましたから。
それはなぜかといいますと、わたしは口が利けないからです。
利けないといっても、生まれつきのものではなく、精神的なものからくる病だとお医者様からはきいています。幼少の頃、母を亡くしたわたしはどうしようもない哀しみに暮れ、やがて言葉を無くしてしまったのです。
お医者様はいつか治るかもしれないと言いますが、見込みは無いのでしょうね。
大好きな父や、祖父母とも話せなくなって、わたしは孤独の世界に閉じ込められてしまいました。
そのわたしを初めに救ったのがお伽噺たちなのです。口が利けないわたしが寂しさを拭うには読み書きしかありませんでしたから、昼には書き、夕方にはお話を読み耽っていたのです。
知らないことは書物のなかに沢山ありましたし、読んでいれば、いつかわたしもこうして素敵な言葉をこの唇から紡いでみたいと憧れましたから、わたしはちっとも寂しさを感じなくなりました。
もっと多くを学ぼうと決めたわたしは、女子でも教養をたくわえられるこの学園にきました。でもなかなか周りの人と交流するのが難しい性質ですから、またわたしはひとりぼっちのときに逆戻り。
そのわたしの支えになるものはやはり物語だけだと思い知らされて、その世界に閉じ籠るばかりになってしまいました。
しかし、その私とお話たちだけの世界に光の差す日がきたのです。それは図書室で先輩と初めて不思議な会話をした日です。
久しぶりに、必要以上の会話というのをこの学園でしました。そこで気づいたことがあって、わたしは声が出ないということにかこつけて人との関わりあいを避けてきたのでしょうと。
先輩はきっとわたしの口が利けないことに気づいていなかったでしょうが、こうしたかたちのお話しを嫌わない人もいるのだと知りました。
それに気づかせてくださった先輩を、わたしは少しずつお慕いするようになったのです。それからあの文がくくりつけられたお花を頂いたのですから、とても嬉しかったです。
すぐにでも、わたしも歌で御返事をしようと思いましたが、やはり声が思うようにでなくって、伝えたい気持ちが伝えられませんでした。嬉しさ反面、そのもどかしさに哀しくなりました。それからは、先輩に口が利けないことが知られて、嫌われたらどうしようと不安になりました。
しかしながら、先輩がそのようなことで私を嫌うほど薄情な性分のお方ではないとわたしは知っていましたから、すぐにこの文を書くべく筆をとっています。
わたしの気持ちは今や貴方のお側にいたいと強く願っています。
そうか確かに彼女は決して私に「話しかける」ことをしなかった。その理由がわかった今、私はまだまだ咲良をよく知らないままに彼女を想い続けていたのだから、自身が浅はかで滑稽なようにも思えた。そして嬉しさと安堵感が心にどっと流れてきて、沈みきっていた気がすっきりと軽くなる。
手元の文を読み終わった様子の私を、彼女は恐る恐る見上げた。
「嫌うはずなどない。むしろ咲良を思いやることが出来ていなかったことに、心からすまないと謝っておきたい」
そう言うと彼女は目を細め、首を横に振る。そして、胸のあたりに手を置いて頷いた。
心から、その振る舞いからそう聞こえてくるような気がした。心から私を慕い愛しているというように。
なにとなく彼女の手を引いて図書室から廊下に出た。好きな人とは理由もなく触れ合っていたいし、近くにその存在を感じていたいものなのだとしみじみ思われる。
私は喋らず黙っていることが多いが、彼女もある意味で無口だ。二人の間に会話は少ないけれど、互いの呼吸や微動から想いが伝わり合うものだから苦しさを感じることもない。むしろ、共にいて安らぐくらいだ。
しばらくして、彼女がひとつ瞬きをした。どうかしたのか、などと名を呼び尋ねる必要などない。彼女の目線を辿りその先を見上げると、雨雲のすっかり去って、茜色に染まり上がった空が堂々としてある。
明日も晴れるだろうか。そう思ったとき、咲良が私の手を優しく握って返事をした。
彼女は道端にしゃがんで、なにかを覗き込んでいた。そこに紫の可憐な花が咲いていて、彼女は自分のためにさしていた傘をその花に添えたのだ。
やがて彼女の服は雨粒に打たれ、暗く染まっていく。髪もより一層深みが増し、艶めいた色になって、その姿はまるで羽の濡れた蝶々のようであった。
その姿に私は目を奪われたのだ。
名をなんと言うのだろう、どのような声で話すのだろう。雨の上がった次の日でも、ずっと彼女のことが気になるばかりであった。
彼女と知り合うきっかけは、思っていたより早くやってきた。
ちょうど私が図書委員の仕事をしていたとき、彼女は貸出の手続きをしにやってきたのだ。悪いとは思いつつ、その記された名前を盗み見た。
彼女の賢そうな雰囲気に似合う整った字で、永藤咲良とそこにはある。
学年は一つだけ下。彼女が図書室で借りている本は物語ばかりのようで、少し意外なような気がしたが、皮肉な意味を含まず純粋に、幼らしい趣味で可愛いなと思った。
なにか彼女に声をかけてみようとしたけれど、ここが図書室であることを思い出してはばかられた。私は机の上にあった紙を手繰り寄せ、筆をとる。
「風邪はひいていないのか」
あの日、彼女はずぶ濡れになりながらくのたまの長屋へと戻っていったから、このことも気がかりであった。彼女は戸惑ったような顔をつくって首をかしげる。
雨の日に、と私が続けて書くと、私の意図を察したように彼女は柔らかく微笑み、大丈夫ですといった感じで頷く。
これが初めて彼女と「会話」をしたときのことである。
それから何度も彼女を見かけているが、なかなか話す機会は訪れなかった。
というのも私たちは図書館で会うばかりで、筆談での話ししかできなかったからだ。希に廊下ですれ違っても、互いに会釈で挨拶をする程度、声をかけあうことはない。
しかしながら彼女との筆談は楽しみで、友人たちに最近付き合いが悪いと文句をこぼされる程ほとんど毎日、図書委員の仕事を受けもっていた。
話すことといえば、どんな本が好きかとか今度の課題が難しいとか他愛ないことばかりで、特別なことはなにひとつない。けれども、これによって彼女の人となりを少しずつ知ってゆくと、不思議なことに段々に心が惹かれていくのがわかった。
咲良はあの日の花のように可憐で、優しい女の子だ。色々な物語を知っていて、知的で物知りな一面もあるのだとわかる。
どこをとっても彼女が愛しく感じられてきて、気がつけば私は彼女を好きになっていた。
彼女もまた私に対し決して素っ気ないような態度はとらなかった。だから、その居心地のよさについ甘えたくなって、また咲良に会いたくなる。恋仲になって、図書室でなくとも彼女を独占していたいという欲求がどんどんと湧いてきた。
私はついに彼女にこの思いを打ち明けようと決心したのだった。
どんな伝え方が彼女にとって素敵だろう。
かの源氏の君はこんな問題を容易く解決できたのだろうか、そうならばなかなかに羨ましい。
彼女の物語好きな側面を考えると、答えはだいたい固まった。
咲良が廊下の向こうから歩いてくるのが見えて、これはまたとない機会だと確信した。
私たちがすれ違うかどうかの間際、彼女は私に気づいて、いつものように礼をして去って行ってしまいそうだったが、腕を掴んで半ば無理矢理にひき止めた。
「咲良、これを受け取ってほしい」
私は彼女の前に一輪の花を差し出した。花はどことなく懐かしく見覚えのあるような雰囲気のあるもので、その茎の部分に文が結ばれている。
その文にはこうしたためておいた。
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆえに
乱れそめにしわれならなくに
伊勢物語初段の初冠でも登場するこの歌は、忍ぶ恋心を表すものである。昔男のように咲良を垣間見たときから、私はそのひとの虜であったのだと、暗に示したかったのだ。
物語をよく知る彼女ならばそのことに気づけるだろうと、私は信じていた。
彼女はその花を受け取り文を読むが、うろたえるばかりでなにも言わない。少々やり過ぎてしまったかと反省して、俯く彼女を屈んで覗き込むと、彼女は頬を染め目にたっぷりと涙を溜めていた。
雨水の玉が硝子に置いて、より一層輝きを増したようなその瞳は、屈んだ私の目に焦点が合うと、もの憂げに揺れた。しばらく見つめあっていただろうが、ついに彼女は視線を逸らし、そのままどこかへと走り去ってゆく。
率直に言えば、しまったと思った。時機を、そして彼女の気持ちを見誤ったとも。彼女が私に対して良好な態度を取っているというのは、完全なる自分の勘違いであったのだろうか。
悔しいような、悲しいような何とも言い難い遣る瀬無い気持ちばかりが心に渦巻く。
空から屋根にぽつりぽつりと水滴が落ちてきた。また雨が降りはじめたのだ。まるで、私のどんよりとした心を空に写したかのように、段々と雨脚は強まっていく。
その雨はしばらく続いている。
それに合わせて、気分も落ち込み続けるばかりで、何をするのもどことなく億劫だ。咲良にこの心を打ち明ける以前にはほとんど毎日通っていた図書室にも足が向かず、少なくともここ三日ほどは委員の仕事を後輩たちに任せてしまっている。
そろそろ切りかえて、やるべきことをきちんとせねばならないと思い、やっと私は重い腰をあげた。
静かな図書室は落ち着きある空間だが、あまりにも静かで、彼女のことばかりが頭に浮かばれた。
あのあと、咲良はどんな想いでいるだろうか。もし、今に彼女が図書室のその襖をくぐってきたとき、私は普通の態度でやり過ごせるだろうか。
答えは後にはっきりと知ることとなる。
そろそろ夕食の時間が近づいたので、この部屋も閉めようと準備をしていたとき、遅めの来客があった。なんと咲良がやってきたのだ。そのときの私はたいそう当惑していただろうが、一方の彼女は目を見開き、また安心したような表情で私のところまでやってきた。
彼女は嬉々としてその懐から一通の文を出し、私に半ば押し付けるように渡した。私がそれに首をかしげると、彼女は是非読んでくれといったように頷いた。
文を広げたところにはこうある。
御返事が遅れてしまったこと、ほんとうに申し訳なく思います。
中在家先輩のお気持ちを頂けて大変嬉しくも思います。あの一首を目にしたとき、わたしはとても救われましたから。
それはなぜかといいますと、わたしは口が利けないからです。
利けないといっても、生まれつきのものではなく、精神的なものからくる病だとお医者様からはきいています。幼少の頃、母を亡くしたわたしはどうしようもない哀しみに暮れ、やがて言葉を無くしてしまったのです。
お医者様はいつか治るかもしれないと言いますが、見込みは無いのでしょうね。
大好きな父や、祖父母とも話せなくなって、わたしは孤独の世界に閉じ込められてしまいました。
そのわたしを初めに救ったのがお伽噺たちなのです。口が利けないわたしが寂しさを拭うには読み書きしかありませんでしたから、昼には書き、夕方にはお話を読み耽っていたのです。
知らないことは書物のなかに沢山ありましたし、読んでいれば、いつかわたしもこうして素敵な言葉をこの唇から紡いでみたいと憧れましたから、わたしはちっとも寂しさを感じなくなりました。
もっと多くを学ぼうと決めたわたしは、女子でも教養をたくわえられるこの学園にきました。でもなかなか周りの人と交流するのが難しい性質ですから、またわたしはひとりぼっちのときに逆戻り。
そのわたしの支えになるものはやはり物語だけだと思い知らされて、その世界に閉じ籠るばかりになってしまいました。
しかし、その私とお話たちだけの世界に光の差す日がきたのです。それは図書室で先輩と初めて不思議な会話をした日です。
久しぶりに、必要以上の会話というのをこの学園でしました。そこで気づいたことがあって、わたしは声が出ないということにかこつけて人との関わりあいを避けてきたのでしょうと。
先輩はきっとわたしの口が利けないことに気づいていなかったでしょうが、こうしたかたちのお話しを嫌わない人もいるのだと知りました。
それに気づかせてくださった先輩を、わたしは少しずつお慕いするようになったのです。それからあの文がくくりつけられたお花を頂いたのですから、とても嬉しかったです。
すぐにでも、わたしも歌で御返事をしようと思いましたが、やはり声が思うようにでなくって、伝えたい気持ちが伝えられませんでした。嬉しさ反面、そのもどかしさに哀しくなりました。それからは、先輩に口が利けないことが知られて、嫌われたらどうしようと不安になりました。
しかしながら、先輩がそのようなことで私を嫌うほど薄情な性分のお方ではないとわたしは知っていましたから、すぐにこの文を書くべく筆をとっています。
わたしの気持ちは今や貴方のお側にいたいと強く願っています。
そうか確かに彼女は決して私に「話しかける」ことをしなかった。その理由がわかった今、私はまだまだ咲良をよく知らないままに彼女を想い続けていたのだから、自身が浅はかで滑稽なようにも思えた。そして嬉しさと安堵感が心にどっと流れてきて、沈みきっていた気がすっきりと軽くなる。
手元の文を読み終わった様子の私を、彼女は恐る恐る見上げた。
「嫌うはずなどない。むしろ咲良を思いやることが出来ていなかったことに、心からすまないと謝っておきたい」
そう言うと彼女は目を細め、首を横に振る。そして、胸のあたりに手を置いて頷いた。
心から、その振る舞いからそう聞こえてくるような気がした。心から私を慕い愛しているというように。
なにとなく彼女の手を引いて図書室から廊下に出た。好きな人とは理由もなく触れ合っていたいし、近くにその存在を感じていたいものなのだとしみじみ思われる。
私は喋らず黙っていることが多いが、彼女もある意味で無口だ。二人の間に会話は少ないけれど、互いの呼吸や微動から想いが伝わり合うものだから苦しさを感じることもない。むしろ、共にいて安らぐくらいだ。
しばらくして、彼女がひとつ瞬きをした。どうかしたのか、などと名を呼び尋ねる必要などない。彼女の目線を辿りその先を見上げると、雨雲のすっかり去って、茜色に染まり上がった空が堂々としてある。
明日も晴れるだろうか。そう思ったとき、咲良が私の手を優しく握って返事をした。