あれから17年後
宮城彩子はデスクの時計に目をやり、仕事の手を止める。
もうこんな時間か…
あって無いような終業時刻は当に過ぎているが
部屋の中は昼間の活気を保ったままだ。
雑誌の編集部ならこれが当たり前の風景。
少し前までは何の抵抗もなくその中で働いていた彩子だったが、姓が変わった今では少し…いや、だいぶ気持ちが違う。
今日こそはちゃんと夕食を作ろうと思ったのに…
昨夜は宅配ピザ、その前は出来合いの惣菜を皿に並べただけだった。
とても新婚とは思えない。
それなのに夫の宮城リョータは文句1つ言わずにいてくれるのが、余計につらい。
彩子が詫びると
「どうして謝るの?
アヤちゃんは今まで通りでいいんだぜ
こうして隣に居てくれるだけで俺は満足だから」
と笑う。
いくら何でもそれでは甘え過ぎだろう。
そう解ってはいるものの、やはり一歩外へ出れば仕事が最優先になってしまう。
職場では今まで通りに仕事をこなしたかった。
新婚という立場に甘えるつもりは毛頭無いし、周りからそう見られるのはもっと嫌だった。
だが仕事と家庭の両立は彩子が考えていたものよりずっと厳しく、宮城への負い目は日に日に大きくなっていく。
やはり結婚などするべきではなかったのか…
気付くといつもそこで思考が停止していた。
ハァ…と、ため息をつくと不意に彩子の前に湯気の上がるマグカップが置かれる。
「どう?
締め切りまで間に合いそう?」
「編集長っ!!」
隣で相田弥生が腕組みをして立っていた。
「コーヒー、ありがとうございます
何とか間に合わせますから、ご安心を!!」
彩子は腕まくりをすると再びパソコンに向かう。
その様子をしばらく見た後
弥生がふと口を開いた。
「ねえ、彩子」
「はい、何でしょう」
「彩子は本当に優秀な部下だと思うわ」
そう言うと隣の席にゆっくりと腰を下ろす。
「私としては鼻が高いし今こうして居てくれるのはすごく有難い事だけど…」
「買い被り過ぎです
何も出ませんよ?」
恐縮する彩子をよそに弥生は続ける。
「彩子はさぁ
……なんで寿退社しなかったの?」
「……?
…はぃぃ!??」
「もしかしてそれ、私のせいかなって…
私が結婚しても今まで通りに働けって言ったからかなって…」
珍しく弥生は相手から視線を逸らして言った。
「そ、そんな事!!
編集長は全く関係ありませんよっ
これは私が自分で決めた事です
私、この仕事大好きですから」
「そ、…だったらいいんだけどね」
「はいっ!!
ご心配なく」
「ただね、まぁ余計なお節介かもしれないけど
私は仕事と結婚しちゃったような女でしょ?
でも時々フッと思うのよ
他にも幸せはあったんじゃないか…ってね
彩子は私と似て、器用じゃないから心配なの
せっかく他の幸せも見つけたのに、それを見失ってしまうんじゃないかって」
「…編集長」
「あ、ごめんごめん
くだらない事言って邪魔したね、忘れて」
弥生はいつもの強い眼差しに戻るとスィと席を立った。
「くれぐれも無理だけは
……しないように」
「はい、
ありがとうございます」
彩子は弥生の後ろ姿に会釈しながら、ふと思う。
他の幸せ…?
言われてみれば確かに
少し前までは仕事さえしていれば幸せだった。
自分は仕事が恋人で目標は弥生だった。
でもある時、その気持ちがホンの少しだけブレた。
そう、忘れもしない。
あれは割烹うおずみで、娘と電話で話す流川楓を見てから…
結婚て、家族を持つって
なんかすごく素敵な事なのかもしれないと素直に思った。
それから程なくして、彩子は宮城のプロポーズを受けたのだった。
そーいえば、アイツ今
日本に来てるんだったけ…
沢北と2人でMAKI SPORTSのCMに出るという話は、関係者の間でちょっとしたセンセーションを巻き起こしている。
彩子はまた流川に会って、あの時の幸せに満ち溢れた顔を見てみたいと思った。
そうしたら、何かが解りそうな気がした。
前に歩き出す勇気が貰える気がした。
流川に連絡を取ろうと携帯に触れた瞬間、バイブが着信を報せる。
相手は夫、宮城リョータだ。
「もしもしアヤちゃん?
仕事まだ終わらない?」
「どうしたの?」
「今、横に
珍しいヤツがいてさ
一緒に食事でもどうかなって」
「だれ?珍しいヤツって」
「ほら、ちょっと出ろよ」
宮城の声が離れると、次に彩子の耳に飛び込んで来た声は…
「……ウス、先輩」
「…る、流川ぁ!??」
「アヤちゃん、ピンポ~ン
しかも子連れだぜ!!」
再び電話口は宮城に替わった。
彩子は危うく携帯を落とし掛ける。
「うん、わかった
……すぐ行く」
この素晴らしい偶然に胸がドキドキする。
久しぶりに全身でテンションが上がってくるのを感じた。
電話を切ると同時に弥生と目が合う。
「あ、あの…
編集長、私…
言い掛けたところで弥生は軽く頷く。
すいません
明日、早出してちゃんと仕上げますから!!」
言い終わるや否や、彩子は部屋を飛び出して行った。
その笑顔の先にあるのはきっと彩子が今、一番欲しい答なんだろう。
冷めたコーヒーを啜ると弥生は目を伏せて優しく笑った。
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