あれから17年後


時間は午後3時を少し過ぎたところだ。

細い路地裏にある小さな飲み屋の外階段を、この店の店主が降りて来る。

2階は彼、野間忠一郎の自宅になっていた。

くわえ煙草で眠そうに目を擦ると鉄の階段がギシギシと揺れる。

ふと見下ろすと、店の前に男が1人立っていた。

男のスーツは酷くくたびている。

 「おぅ、洋平じゃねーか
 どーした?サボりか?」

声を掛けられた水戸洋平は少し眩しそうに野間を見上げ「…まぁな」と苦笑した。

かつての桜木軍団で唯一、サラリーマンの道を選んだ水戸。

三流企業ではあるが
30歳を過ぎ、そろそろ責任ある仕事も任せられ始めている。

鍵を回し、野間が「よいしょ」と立て付けの悪い引き戸を開けた。

薄暗い店内の空気は澱み、まだ僅かに熱を帯びている。

安酒と煙草と油が入り交じった匂いに、水戸は一瞬、眉をひそめた。

 「相変わらず汚ねー店だな、たまには掃除くらいしても罰は当たんねーぞ?」

 「うるせー、ほっとけ」

野間は返しながらカウンターを入る。

慣れた動作でガス台の大鍋に火を入れ、ラジオをつけ、シンクに溜まった食器を洗い始めた。

 「ビールもらうぞ」

水戸はそう言うと店の奥にあるケースから冷えた瓶を一本掴み、カウンター席にドサッと座る。

 「勤務中じゃねーのか?」

洗い物の手は休めぬままで野間が問い掛けた。

 「ああ、…いいんだ
 今日はもうあがりだ」

 「そうかよ」

 「おまえも飲むか?」

 「いや、いい
 昨日、飲み過ぎた」

頷くと水戸は一気にグラスを空にする。

そして一点を見つめた。

 「なんかあったのか?
 洋平」

 「いや、…何にもねーよ」

 「そーか」

それきり店の中は
時々ノイズの入るラジオと野間が仕込みをする包丁の音とカタカタ吹き上げる鍋と換気扇の音だけになった。

水戸は小さくため息をつくと、そっと背広の内ポケットに手を当てる。

中の封筒には、たった今引き出して来たばかりの現金10万円が入っている。

正直、相場は分からない。

これくらいで足りるのか…

付き合っている女に
「子供が出来た」と告げられたのは一昨日の事だった。

女は3つ年上で取引先の経理部で働いている。

集金の為に出入りしているうちに何となく深い仲になった。

容姿、性格ともに可もなく不可もなく、何事も普通が一番という水戸の好みには合致していたが、それ以上特に強く惹かれる所もなかった。

一時の暇潰し程度にしか考えていなかったのに、別れよう別れようと思いながら気付けば1年近く経つ。

一昨日、水戸を呼び出した女は結婚を迫る事はなかった。

ただ、子供を産ませて欲しいとだけ言った。

水戸に迷惑は掛けない、1人で育てるから、とも言った。

勘弁してほしいぜ…

まさに晴天の霹靂だった。

たいして好きでもない女とその女から産まれくる自分の子供の面倒を、これから一生みていくなど想像すら出来ない。

かといって聞いたからには
はい、そうですか
じゃあ勝手にして下さい さようなら、というわけにもいかないだろう。

ここは絶対に女にガキを諦めさせねーと…

これだって立派な責任の取り方だろ?違うか?

苦し紛れの自問自答、自己の正当化…

あぁ…
ついてねぇ

さっさと別れちまえば良かった…

水戸は内ポケットの封筒を表側からギュッと握り締める。

本当は野間の所になど寄らず、真っ直ぐに女の所へ行くつもりだった。

だが、さすがにまるっきり素面ではキツいものを感じ
途中でつい立ち寄ってしまったというわけだ。

しかしそれは裏を返せば
水戸の中に強い罪悪感があるという事。

今、自分は人間として最低の事をしようとしている…

それは彼自身が一番よく解っていた。

水戸が深いため息をついたところで引き戸がガタガタと動き、店に客が入って来た。

 「なーはっはっはっは
 ちゅーいちろーくん
 元気で働いてるかね?」

それは珍しく上機嫌な桜木花道だった。

最近はずっと眉間に皺を寄せ誰が話し掛けても上の空だったのに、まるで何かを吹っ切ったように今日の桜木は清々しい。

 「なんだ
 洋平じゃねーか
 珍しいなこんな時間に
 サボりか?」

 「まぁな」

 「おい花道
 ずいぶんとご機嫌じゃねーか、晴子ちゃんとデートでもして来たか?」

カウンターの中から野間が茶化す。

 「ハ、ハルコさんは関係ねーよ」

桜木は顔を赤らめたあと、「知りてーか?仕方ねーな」と自慢気に鼻を鳴らした。

 「オレは
 もう逃げるのは止めたぜ
 そうしなきゃいつまで経っても前に進めねーって事がわかったからな」

 「なんだ、そりゃあ」

野間が首を傾げる。

 「なははははっ
 所詮、庶民には解らねー話よ
 いいからまずは乾杯だーっっ!!」

桜木は嫌がる野間に無理やりグラスを持たせると水戸の前の滴だらけの瓶を掴む。

そして3つのグラスがカチンとぶつかった。

水戸は嬉しそうな親友の横顔を黙ったままジッと見ている。

今の俺も逃げてるだけかもな…

そう思った途端、フッと心が軽くなった。

 「わりぃ
 ちょっと野暮用思い出したわ」

水戸は席を立つと店から飛び出した。

まだ、間に合うか…

走りながら腕時計を見る。

向かった先は市役所だった。

 「すいません、あの…
 婚姻届の用紙、ほしいんすけど」

その顔は桜木に負けないくらい清々しかった。


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