ムーンライトシンデレラ
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古寺は、想像していたよりも荒れてはいなかった。
瓦は欠け、柱には苔が生えていたが、静けさが何よりの防壁となっていた。
森の獣すら寄りつかぬというその寺は、まるで時間から切り離されたように、ひっそりとそこにあった。
結衣は、夜明け前に到着したその場所を見上げながら、思った。
(ここが……あの人の“逃げ場”だったのかもしれない)
堂の奥にある小さな一室――元は僧侶が寝泊まりしていたらしいその空間に、ふたりは身を落ち着けた。
床には編み敷き、湯は釜で沸かす。灯りは蝋燭、食事は持ち寄った保存食と、結衣が握った団子。
忍の生活には不釣り合いな、ひとときの安らぎ。
けれどその安らぎの影に、常に張りつめた沈黙があった。
イタチはあくまで冷静だった。
会話は必要最小限。気配は薄く、夜になればずっと外の気配を探っていた。
それでも、結衣は一言も文句を言わなかった。
そっと食器を洗い、針と糸で破れた外套を直し、傷薬を調合して棚に並べる。
できることを、ただ静かに積み重ねた。
そうして数日が経ったある晩――
「……っ、く……!」
不意に聞こえた、呻き声。
火を熾していた結衣が振り返ると、イタチが床に片膝をついていた。
額には冷や汗、呼吸が乱れている。
「イタチさん……!?」
慌てて駆け寄ると、彼は必死に顔を背けた。
「……来るな、結衣……」
「でもっ……!」
震える指先が胸元を押さえている。
結衣は咄嗟に掌を伸ばし、彼の背を支えた。
「いいから……預けてください。……お体、どうしたんですか?」
「……持病だ……昔から……こうなる」
言葉は断続的だった。
それでも、目だけは必死に正気を保とうとしていた。
「薬……何かあるんですか?」
「懐……袋の奥に……」
結衣は震える手で懐を探り、小さな瓢箪に入った薬を取り出した。
彼の口元に運び、喉を軽く押さえると、彼は苦しげに喉を鳴らして薬を呑んだ。
時間がゆっくりと流れる。
やがて、イタチの呼吸が少しずつ落ち着いてくる。
その場に崩れ落ちたように横たわった彼に、結衣はそっと毛布をかけた。
「……ありがとう。……怖く、なかったか」
「……怖いわけありません。……あなたを守りたいと思ってるんですから」
その言葉に、イタチの目がわずかに揺れた。
「……君が巻き込まれるのが……一番怖いんだ。俺には……時間が、ない」
「知ってます」
「……え?」
「なんとなく……見ていて、わかるんです。
だから、できる限りのことをしてあげたい。
後悔しないように……あなたの隣で」
イタチは目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。
けれどその胸の奥に、何かが静かに沁み込んでいくような感覚があった。
翌朝、結衣が早く目覚め、外で水を汲んでいると――
寺の軒下に腰かけるイタチの姿があった。
「……昨日は、すまなかった」
「もう、大丈夫ですか?」
「……ああ。ありがとう、結衣」
彼が、結衣の名前を初めて“穏やかな声”で呼んだ気がした。
それだけで、結衣の胸が静かに温かくなる。
そして――
「……今日も、団子を握ってくれるか?」
結衣は微笑んで頷いた。
「もちろんです。今日は、栗餡と、味噌。……どちらがお好きですか?」
イタチは目を細め、言った。
「……どちらも、楽しみにしている」
ほんのわずか。
心の壁が、ひとひらだけ、音もなく崩れた朝だった。