ムーンライトシンデレラ
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ある日、風に揺れるのれんをくぐって、ひとりの客が入ってきた。
菅笠を深く被り、顔の半分以上は隠れている。
背は高く、がっしりとした体格。歩みはゆっくりで、妙に静かだ。
結衣は茶釜に手をかけたまま、動きを止めていた。
――見覚えのある赤い雲の模様。
その男の身に纏われた黒い外套。
それは、イタチがあの夜、そっと肩に掛けてくれた外套と同じものだった。
喉が音を立てて鳴った気がした。
呼吸を忘れるほどに、胸がざわめく。
男は無言のまま、縁側に近い席へ腰を下ろす。
その動作一つひとつに、妙な威圧感がある。けれど、それは“敵意”というより“力”の重さだった。
「……いらっしゃいませ。おひとり、ですか?」
ようやく出た声は、震えていた。
男は僅かに頷いた。そして、低くくぐもった声で言った。
「ええ。こちらの団子、絶品と聞きましてね……一度、味わってみたいと思っていたんですよ」
その声音に、結衣の指先が震える。
穏やかさを装っている。けれど、どこか異質だった。
まるで――何かを試しているような気配。
「……ありがとうございます。すぐにお持ちしますね」
背を向けて台所へ戻ると、胸の鼓動が耳の奥で鳴り響いていた。
ただの旅人にしては、異様に大きな気配。そしてあの外套。
――確信した。あの人は忍で、イタチの“仲間”だ。
団子を用意しながら、結衣は無意識に息を整えようとしていた。
けれど、震えは止まらなかった。
(どうして……どうして、今になって? イタチさんはもう来ないって……)
再び席に戻り、丁寧に団子を供する。
香ばしい焦げ目のついたみたらしが、湯気を上げた。
「お口に合うか、わかりませんが……どうぞ」
男はそれをじっと見つめ、やがてゆっくりと串を取り、口に運ぶ。
大きな顎が一度、ゆっくりと動く。
「……なるほど。これは確かに、人を甘い夢に誘う味ですね」
その言葉に、結衣の背中を冷たい汗が伝った。
どこか、イタチに似た表現の仕方。けれど、それは比喩にしてはあまりに的を射すぎていた。
男は串を置き、ようやく笠を外す。
露わになったのは、鋭い目つきと青白い肌。異様に大きなサメのような歯。
「おどかすつもりはありませんよ。
実は、共に行動している者から頼まれて来たんです。あなたのことを、“見てきてくれ”と」
「……もしかして、イタチ、さんが?」
声に、無意識に力が入った。
鬼鮫は、ふっと唇の端を吊り上げるように笑った。
「ええ。妙に気にしてたんですよ。
“無事でいるだろうか”……らしくないとは思いましたが、まあ、それがイタチという男でしてね」
胸が、じん、と音を立てた。
あの人は――私のことを、まだ覚えていてくれた。
私がどんなに苦しんでいたか、少しでも届いていたんだ。
「……元気で、いらっしゃるんですか?」
「元気……そう見えるなら、あなたには特別な目があるんでしょうね」
鬼鮫は曖昧に笑い、どこか遠い目をした。
「まあ、今、手が離せないんですよ。厄介な任務が続いててね。
でも、“会えなくても、気にしている”ということだけは……伝えておきますよ」
結衣はその場に立ち尽くしながら、しばらく言葉を失った。
外套の匂い、話し方、そして――イタチの想い。
思っていたよりずっと、彼の心は遠くなかったのかもしれない。
けれど、同時に思う。
今の彼に、私は触れていいのだろうか――
鬼鮫は静かに団子を食べ終えると、紙で口元を拭きながらこう言った。
「……あなた、面白い人ですね」
「……どうして、そう思われるんですか?」
結衣の声はまだ、かすかに震えていた。
鬼鮫はその問いに、肩をすくめる。
「イタチさんが“見てきてくれ”なんて言う相手に会うのは初めてだったものでね。
何事にも一歩引いた姿勢で関わる男なんですが……あなたのことになると、妙に言葉に棘がない」
「……棘、ですか」
「ええ。“優しい人だった。だからこそ、関わるべきじゃなかった”――そう言ってましたよ」
その一言が、胸の奥に深く沈む。
“優しい人だった”。
過去形――それが余計に、苦しい。
「今、イタチさんは……どこで、何をしているんですか?」
鬼鮫は少しだけ沈黙し、それから静かに答えた。
「命を、削ってますよ。少しずつ、確実に。
忍として、暁として……そして、ある約束を果たすために」
その声は、冗談めかしてはいなかった。
まるで、深く深く沈んでいく者を見ているような、重い響きだった。
「……あの人は、今も苦しんでるんですね」
「苦しみを、苦しみと感じないようにしてる。そう言ったほうが正確か。
ただ――あなたの団子の話をするときだけ、ふっと表情が和らぐんです」
結衣は何も言えずに、唇をきゅっと結んだ。
心がちぎれそうだった。
それでも――彼の中に、少しでも自分の存在が残っていることが、嬉しかった。
鬼鮫は立ち上がり、再び菅笠を手に取る。
「ひとつ、忠告しておきましょう」
その声が、先ほどまでとは違って低く、重いものだった。
「……巻き込まれぬように」
「……え?」
「あなたが本当にあの人を想うのなら、会わない方が身のためだ。
イタチさんは追われている身ですからね。あの外套を纏っているだけで、いくつもの刃が背中に向けられている」
「…………」
「優しい人ほど、失うのが早いのが世の常。
そして――あの人は、“自分のために誰かが傷つく”のを、何よりも忌む人間です」
その言葉が、痛いほど突き刺さる。
結衣の視界が滲んだ。
「……それでも、会いたいと思ってしまうんです。どうしても」
その声に、鬼鮫はわずかに目を細め、何かを言いかけた。
けれど、やがて口を閉じ、ほんの一瞬、唇の端を持ち上げて笑った。
「……罪な男ですよ、ほんと」
そして、くるりと背を向けた。
「わたしはこれで。ご馳走さま、団子屋の娘さん」
イタチが、確かに結衣を覚えていたという事実。
そしてその優しさゆえに、遠ざかろうとしている現実。
それでも―― 結衣の心には、ある決意が芽吹き始めていた。
会いたい。もう一度、会いたい。
このまま終わっていい恋じゃない――そんな気持ちが、胸の奥で確かに息づいていた。
鬼鮫が店を後にしようとしたそのとき――
結衣は手にしていた包みをそっと差し出した。
「これ……持っていってください。イタチさんと一緒に召し上がってください」
鬼鮫は眉をひそめるように一瞬だけ目を細め、だがすぐに口角を持ち上げて受け取った。
「おや、これは……上等な手土産だ。ありがたく頂戴しましょう」
「……伝えてください。“わたしは大丈夫です”って。
いつでも、団子が食べたくなったら来てくださいって」
包みを手渡す結衣の手は震えていなかった。
瞳も、まっすぐに据えられていた。
鬼鮫はその姿を見て、少しだけ驚いたように目を見開く。
そして、静かに頷いた。
「……承知しました」
それだけを残し、鬼鮫はのれんをくぐり、雨上がりの道へと消えていった。
その姿が見えなくなるのを見届けてから、結衣は包みを入れていた籠を胸に抱き、しばしその場に立ち尽くしていた。
そして――
その夜、結衣は再び、あの丘を目指した。
⸻
夜の風が、草を撫でている。
丘は、何も変わらずそこにあった。
月下美人の花は今夜も静かに咲き、結衣を迎えるように揺れていた。
「……ただいま、って言えばいいのかな」
そう呟き、草の上にそっと腰を下ろす。
小さな包みを開き、団子を並べる。
手製の湯筒からお茶を注ぎ、いつものように団子をひとくち。
イタチの姿は、ない。
けれど、彼がそこに座っていた気配が、風に混ざって感じられる。
「……また、いつか来てくれますよね。」
そう呟いた言葉は、誰に届くこともなかったが――
胸の奥にある痛みは、ほんの少しだけやわらいだ気がした。
どこか、遠くの山中――暗い岩場の奥、焚き火の明かりのもと
「……なかなか、強い女性ですね」
夜の静けさの中、鬼鮫は団子の包みを開きながら言った。
焚き火の明かりに照らされて、そこにいるのは――イタチ。
黒い外套のまま、火の向こうで目を閉じている。
「…… 結衣のことか」
「ええ。わたしの顔見ても、あんまり動じなかった。
“イタチさんと召し上がってください”
“わたしは大丈夫です”――と仰っていましたよ」
イタチの指が、ふと止まる。
ほんの一瞬、目が開かれたが、また静かに閉じられた。
「……そうか」
「わたしが嘘をついてるわけじゃあない。
本当に、あの娘……すごく、いい顔をしてた。
“会いたいけど、立ち止まらない”って顔だ」
鬼鮫が団子をひとつ口に運び、満足そうに頷く。
「……これは確かに、“人を惑わせる味”に違いありませんね」
イタチはその言葉に、口元をほんの僅かに緩めた。
「……俺は、もう……会わないほうがいい」
「そうでしょうか」
「――俺と関わる限り、彼女は穏やかな暮らしに戻れない」
「それでも、あの娘は強く望んでいましたよ。
“団子が食べたくなったら、いつでも来てください”……そう言って」
焚き火がぱち、と音を立てた。
イタチの目が、火の揺らぎを映して静かに光る。
その瞳の奥に浮かぶものは、言葉にはならなかった。
けれど、鬼鮫は黙って団子の包みをもう一度彼の前に差し出した。
「イタチさん。……今だけは、そういうもんを口にしても罰は当たらんでしょう」
静かに受け取ったその団子を、イタチはしばらく見つめ――
ゆっくりと、口に運んだ。
その味は、あの丘で結衣と過ごした時間のすべてを呼び戻すように、
やさしく、苦く、胸の奥に染み渡った。
「……変わらない味だ」
焚き火の火がまた、ぱち、と弾けた。
ふたりの沈黙の中で、結衣が握った決意の灯だけが、遠くに、確かに燃えていた。