ムーンライトシンデレラ
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夜が明ける頃、雨はすでに止んでいた。
空には鈍い灰色が広がり、地面には夜の名残が、草のしずくとなって残っている。
結衣は、昨夜と同じようにイタチの外套を肩にかけたまま、大木の根元で目を覚ました。
すぐ隣に、イタチの姿は――なかった。
「……イタチさん?」
驚いて身体を起こすと、少し離れた木陰に彼が立っていた。
静かに、周囲を見渡している。
その背はどこか、いつもより張り詰めていた。
結衣が近づくと、彼はすぐに気づいて、いつものように微かに笑った。
けれどその笑みは、夜のものとは少し違った。どこか遠くを見つめるような、冷たい色が混じっていた。
「おはよう、結衣」
「……おはようございます。早いですね」
「眠れなかった。風の匂いが少し……妙だった」
「……匂い?」
イタチは黙って頷き、しばし無言で遠くの山のほうを見つめる。
その目は鋭く、まるで何かを警戒しているようだった。
「……このあたりに、忍が近づいている。一般人の気配じゃない。訓練された、殺気のある匂いだ」
「まさか……この村に?」
「まだ断定はできない。けれど……もしそうなら、危うい」
言葉の端々に、今までにはなかった硬さがあった。
昨夜まで優しく笑っていた彼とは、まるで別人のような雰囲気に、結衣は胸の奥がざわつくのを感じた。
「……イタチさん。何かあったんですか?」
彼は、わずかに目を細め、結衣を見た。
「…… 結衣。昨夜は……ありがとう。
あれは……俺の弱さだ」
「……弱さ?」
「触れてはいけないものに、触れた。……本当は、初めからこうなるべきじゃなかった」
言葉が、心の奥に冷たく刺さる。
けれど、結衣は黙って彼の瞳を見つめた。
「それでも、わたしは……嬉しかったです」
イタチの目が、少し揺れる。
「……君は、強いな」
「違います。強くなろうとしてるだけです。あなたと、ちゃんと向き合いたくて」
風が、ふたりの間をすり抜ける。
イタチは小さく息を吐き、外套を結衣の肩から外して、そっと抱え直した。
「結衣」
「はい」
「……次は、来られないかもしれない」
その言葉に、心臓が凍るような感覚を覚えた。
冗談ではない。目の奥に宿るのは、覚悟と痛み。どちらも、本気だった。
「それは……どういう……」
「ここが巻き込まれる前に、距離を置くべきだ。俺がここに現れることで、村を危険に晒す可能性がある」
「……そんなの……」
「君を、守りたい。……それが、今の俺にできる唯一のことだ」
静かに、はっきりと告げられたその言葉に、何も言い返すことができなかった。
彼は、結衣の髪にそっと触れ、ほんの一瞬だけ撫でた。
けれど、それは決して抱きしめるための手ではなかった。
「結衣。……もし次に会えたなら、そのときは――もう少しだけ、わがままになってもいいだろうか」
「……そんなの、ずっとそうしてくれてよかったのに」
「……ありがとう」
そう言って、イタチは一歩、二歩と後ろに下がり、静かに背を向けた。
その黒い背中が木々の向こうへと消えていくまで、結衣は一歩も動くことができなかった。
風がまた吹き抜けた。
どこか遠く、森の奥で鴉が一声鳴いた。
胸の奥が静かに疼いた――
これは、ただの別れではない。
嵐の前の静けさ。何かが、動き始めている。
次の月夜が、もう一度ふたりを引き合わせてくれることを、結衣はただ、祈るしかなかった。
あれから、いくつ朝を迎えたのか、よく思い出せない。
時間は確かに流れているはずなのに、私の中だけは止まってしまったようだった。
店先で団子を焼いていても、焦がしてしまう。
客に声をかけられても、うまく返事ができない。
お盆を持った手が震え、器を落としかけて、お染さんに心配そうに見つめられる。
「結衣ちゃん、どうしたの。顔色がよくないよ」
「……なんでも、ないんです」
それしか言えなかった。
なんでもあるのに、なんでもないふりをするしかなかった。
あの人は言った。
「次は来られないかもしれない」と。
そのときからわかっていたはずなのに。
でも、それでも、ほんの一縷の望みにすがっていた。
――きっと来てくれる。
――また、団子をほおばってくれる。
――私の名前を、あの声で呼んでくれる。
そう信じたかった。
だから、次の満月の夜も、私はあの丘へ行った。
けれど、そこに彼の姿はなかった。
ただ静かに月が浮かび、月下美人の花が変わらず咲き誇っていた。
まるで、そこに彼がいたなんて幻だったように。
足が震えて、座り込んで、
あたたかいはずの月光が、やけに冷たく感じられた。
涙も出なかった。ただ、胸の奥がじんじんと痛くて、息ができなくなりそうだった。
それからというもの、食事も喉を通らない。
団子の甘さが、逆に胸を締めつける。
何を見ても、何をしても、あの人の声と瞳が浮かんでくる。
「……あの人は、優しかったな」
ぽつりと零れた言葉に、自分でも驚いた。
まるで、もう戻らない誰かのことを語るような声音だったから。
初めての失恋――
これが、そういうものなのだろうか。
私の心の一部を、あの人は確かに持っていってしまった。
なのに、それを返してくれとも言えない。
だって、あの人は、わたしのことを“守るために離れた”のだから。
それでも……苦しい。
こんなに苦しいのなら、
あの夜、彼が背を向けたときに――しがみついてでも、着いていけばよかった。
「何があっても離れたくない」って、叫べばよかった。
悔やんでも悔やみきれない想いが、何度も胸を打つ。
けれど時間は残酷で、朝は来る。
店は開く。客は来る。団子は焼ける。
なのに私は、
空っぽの器のまま、その流れに乗せられて、ただ生きているだけだった。
このまま、きっと誰にも心を動かせずに、終わっていくのだろう。
「……二度と、あんなふうに人を好きになることはない」
そう、胸の奥で囁く自分の声が、あまりに冷たくて。
私はひとり、また月を仰ぐ夜に――そっと、涙を落とした。