ムーンライトシンデレラ
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朝から空はどこか重たく、雲が低く垂れ込めていた。
風も落ち着きがなく、湿った空気が肌にまとわりつくように流れていく。
“今夜は、来ないかもしれない。”
そんな不安を何度も頭の中で繰り返した。
でも、来なければ来ないでいい。待つことが苦しいのではなくて、
待ちたいと思ってしまう、この気持ちを止められないことが――少し、怖かった。
空の色は宵になっても変わらず鈍く、月の姿も見えない。
それでも私は、団子の包みを手に丘へ向かった。
そして、丘の頂に立ったとき――
そこに、いた。
唐楓の下、黒い装束のまま、まるでそこが定位置であるかのように静かに立つ姿。
心の奥で、ふっと風が通り抜けたような安堵を覚えた。
「……来て、くれたんですね」
「約束は、守る主義なんだ」
いつものように穏やかで、それでいてどこか柔らかい声音。
思わず目尻が緩むのを感じながら、傍に歩み寄る。
ふたりで団子を頬張り、他愛もない話を交わす。
結衣の作った小豆団子に、イタチはわずかに目を細めて「……うまい」と呟く。
そのときだった。
冷たい風が一陣、草を波打たせるように吹き抜け――やがて、
しと……しと……
空から、細かな雨粒が落ちてきた。
「あ……」
「急に来たな。……こっちへ」
イタチが唐楓の裏手にある大木の根元を指差し、先に歩き出す。
そこは、葉が傘のように広がり、雨をいくぶんか遮ってくれる場所だった。
ふたりは肩が触れそうな距離で、大きな幹の下に身を寄せて座った。
しとしとと降り続く雨音。
それ以外、音はなかった。
風も落ち着き、どこか静謐な空気が辺りを包んでいた。
「……濡れませんでしたか?」
「大丈夫だ。君は?」
「はい。……ありがとうございます」
ふと、隣に座るイタチの指先が、わたしの袖にふれる。
わたしの肩に雨粒が落ちたのを見て、払おうとしたのかもしれない。
けれど――その手は、すぐに止まった。
ほんの数センチの距離で、彼の指先が宙を泳いでいる。
触れたい。でも、触れてはいけない。
その揺れが、空気ごしに伝わってきた。
わたしもまた、何かを言おうとして、言葉が喉の奥で止まった。
代わりに、ぽつりとこぼれたのは――
「……わたし、あなたのことを思うと、胸が痛くなるんです」
彼は、ゆっくりとこちらを見た。
「あなたがそんなに苦しい過去を背負って、誰にも頼らずに生きてきたなんて。
知れば知るほど……どうしてそんなに優しく笑えるんだろうって」
気づけば、涙が一粒、頬を伝っていた。
「結衣……」
「ごめんなさい、こんなの……迷惑ですよね。
でも、どうしたらいいかわからなくて――」
次の瞬間。
そっと、彼の指が頬に触れた。
雨に濡れて冷たかったはずの指先が、私の涙を拭ったとき――
その温度は、驚くほどあたたかかった。
「……涙は、悪いものじゃない。君がそうやって、俺のために泣いてくれることが……少し、救いになる」
彼の目も、ほんの少し潤んで見えた気がした。
でも、それは雨のせいかもしれない。
「こんなふうに、触れてはいけないと思っていた。……だが、今は……」
その続きを、彼は言わなかった。
言葉は飲み込まれ、代わりに静かに目を伏せる。
けれど、頬に残った彼の温もりは、雨の中でも消えずにそこにあった。
その夜、ふたりは何も言わずにただ、雨音の下で寄り添っていた。
触れそうで、触れられない。けれど、確かに心がふれている。
雨脚は依然として静かに、唐楓の葉を濡らしていた。
濃い緑の葉の上から、ぽつ、ぽつ、と落ちるしずくが、ふたりの頭上を優しく叩いている。
風は弱まり、冷たさが肌を刺すほどではない。
けれど、濡れた衣の重みが、身体の奥にまで冷えを呼び込んでくる。
そのとき、イタチがそっと動いた。
静かに外套を脱ぎ、何も言わずに――私の肩に掛けてくれる。
「あ……」
「身体を冷やしてはいけない」
それだけを呟いた声は、いつものように低く、静かだった。
けれどそこには、どこか決壊しそうな思いが滲んでいた。
肩に掛けられた布の温もりよりも――彼の想いのほうが、ずっと温かく感じられた。
ふたりの距離が近づき、視線が、再び重なる。
イタチの赤い瞳に、雨が映って揺れていた。
私の目にも、彼の姿が映っていたと思う。
そして――
彼の手が、また私の頬に伸びる。
けれど今度は、ためらいがちな指先ではなく、
何かを越えるように、意志を持った手だった。
そっと、頬にふれた指。
あたたかくて、繊細で、哀しくなるほど優しかった。
私はその手を、拒まなかった。
ただ、そっと瞼を閉じる。
心が、呼吸が、ふと静かになる。
そして――
音もなく、唇が重なった。
雨音の中にすら、飲み込まれるほど静かな、それでいて確かなくちづけだった。
唇が触れ合った瞬間、胸の奥が震えた。
焦りも欲もない、ただ、心の奥底から滲み出たような、穏やかなぬくもり。
この人は、触れることすら長く拒んできたのだと思う。
誰かに求められることを。
誰かを求めてしまうことを。
それでも、今は――違った。
イタチの手が、私の肩にそっと添えられる。
その手が少しだけ震えていたのを、私は知っていた。
離れた唇の余韻が、胸の中に静かに広がっていく。
目を開ければ、彼もまた、私を見つめていた。
言葉はいらなかった。
ふたりの間にあったものが、いま確かに形を持った気がした。
けれど――その瞳の奥に、一瞬だけ、
深い迷いと決意の色が差したのを、私は見逃さなかった。
それはきっと、
このぬくもりの先にあるものを、彼が誰よりも分かっている証だった。
そして私もまた、胸の奥に芽吹いたひとひらの痛みに、そっと目を伏せた。
けれど今は、ただ――この雨が止むまで。
この夜が明けるまで。
ふたりの世界が、誰にも邪魔されることのないままであってほしいと、願わずにはいられなかった。
風も落ち着きがなく、湿った空気が肌にまとわりつくように流れていく。
“今夜は、来ないかもしれない。”
そんな不安を何度も頭の中で繰り返した。
でも、来なければ来ないでいい。待つことが苦しいのではなくて、
待ちたいと思ってしまう、この気持ちを止められないことが――少し、怖かった。
空の色は宵になっても変わらず鈍く、月の姿も見えない。
それでも私は、団子の包みを手に丘へ向かった。
そして、丘の頂に立ったとき――
そこに、いた。
唐楓の下、黒い装束のまま、まるでそこが定位置であるかのように静かに立つ姿。
心の奥で、ふっと風が通り抜けたような安堵を覚えた。
「……来て、くれたんですね」
「約束は、守る主義なんだ」
いつものように穏やかで、それでいてどこか柔らかい声音。
思わず目尻が緩むのを感じながら、傍に歩み寄る。
ふたりで団子を頬張り、他愛もない話を交わす。
結衣の作った小豆団子に、イタチはわずかに目を細めて「……うまい」と呟く。
そのときだった。
冷たい風が一陣、草を波打たせるように吹き抜け――やがて、
しと……しと……
空から、細かな雨粒が落ちてきた。
「あ……」
「急に来たな。……こっちへ」
イタチが唐楓の裏手にある大木の根元を指差し、先に歩き出す。
そこは、葉が傘のように広がり、雨をいくぶんか遮ってくれる場所だった。
ふたりは肩が触れそうな距離で、大きな幹の下に身を寄せて座った。
しとしとと降り続く雨音。
それ以外、音はなかった。
風も落ち着き、どこか静謐な空気が辺りを包んでいた。
「……濡れませんでしたか?」
「大丈夫だ。君は?」
「はい。……ありがとうございます」
ふと、隣に座るイタチの指先が、わたしの袖にふれる。
わたしの肩に雨粒が落ちたのを見て、払おうとしたのかもしれない。
けれど――その手は、すぐに止まった。
ほんの数センチの距離で、彼の指先が宙を泳いでいる。
触れたい。でも、触れてはいけない。
その揺れが、空気ごしに伝わってきた。
わたしもまた、何かを言おうとして、言葉が喉の奥で止まった。
代わりに、ぽつりとこぼれたのは――
「……わたし、あなたのことを思うと、胸が痛くなるんです」
彼は、ゆっくりとこちらを見た。
「あなたがそんなに苦しい過去を背負って、誰にも頼らずに生きてきたなんて。
知れば知るほど……どうしてそんなに優しく笑えるんだろうって」
気づけば、涙が一粒、頬を伝っていた。
「結衣……」
「ごめんなさい、こんなの……迷惑ですよね。
でも、どうしたらいいかわからなくて――」
次の瞬間。
そっと、彼の指が頬に触れた。
雨に濡れて冷たかったはずの指先が、私の涙を拭ったとき――
その温度は、驚くほどあたたかかった。
「……涙は、悪いものじゃない。君がそうやって、俺のために泣いてくれることが……少し、救いになる」
彼の目も、ほんの少し潤んで見えた気がした。
でも、それは雨のせいかもしれない。
「こんなふうに、触れてはいけないと思っていた。……だが、今は……」
その続きを、彼は言わなかった。
言葉は飲み込まれ、代わりに静かに目を伏せる。
けれど、頬に残った彼の温もりは、雨の中でも消えずにそこにあった。
その夜、ふたりは何も言わずにただ、雨音の下で寄り添っていた。
触れそうで、触れられない。けれど、確かに心がふれている。
雨脚は依然として静かに、唐楓の葉を濡らしていた。
濃い緑の葉の上から、ぽつ、ぽつ、と落ちるしずくが、ふたりの頭上を優しく叩いている。
風は弱まり、冷たさが肌を刺すほどではない。
けれど、濡れた衣の重みが、身体の奥にまで冷えを呼び込んでくる。
そのとき、イタチがそっと動いた。
静かに外套を脱ぎ、何も言わずに――私の肩に掛けてくれる。
「あ……」
「身体を冷やしてはいけない」
それだけを呟いた声は、いつものように低く、静かだった。
けれどそこには、どこか決壊しそうな思いが滲んでいた。
肩に掛けられた布の温もりよりも――彼の想いのほうが、ずっと温かく感じられた。
ふたりの距離が近づき、視線が、再び重なる。
イタチの赤い瞳に、雨が映って揺れていた。
私の目にも、彼の姿が映っていたと思う。
そして――
彼の手が、また私の頬に伸びる。
けれど今度は、ためらいがちな指先ではなく、
何かを越えるように、意志を持った手だった。
そっと、頬にふれた指。
あたたかくて、繊細で、哀しくなるほど優しかった。
私はその手を、拒まなかった。
ただ、そっと瞼を閉じる。
心が、呼吸が、ふと静かになる。
そして――
音もなく、唇が重なった。
雨音の中にすら、飲み込まれるほど静かな、それでいて確かなくちづけだった。
唇が触れ合った瞬間、胸の奥が震えた。
焦りも欲もない、ただ、心の奥底から滲み出たような、穏やかなぬくもり。
この人は、触れることすら長く拒んできたのだと思う。
誰かに求められることを。
誰かを求めてしまうことを。
それでも、今は――違った。
イタチの手が、私の肩にそっと添えられる。
その手が少しだけ震えていたのを、私は知っていた。
離れた唇の余韻が、胸の中に静かに広がっていく。
目を開ければ、彼もまた、私を見つめていた。
言葉はいらなかった。
ふたりの間にあったものが、いま確かに形を持った気がした。
けれど――その瞳の奥に、一瞬だけ、
深い迷いと決意の色が差したのを、私は見逃さなかった。
それはきっと、
このぬくもりの先にあるものを、彼が誰よりも分かっている証だった。
そして私もまた、胸の奥に芽吹いたひとひらの痛みに、そっと目を伏せた。
けれど今は、ただ――この雨が止むまで。
この夜が明けるまで。
ふたりの世界が、誰にも邪魔されることのないままであってほしいと、願わずにはいられなかった。