ムーンライトシンデレラ
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世の中には、不思議なことがたくさんある。
たとえば、月下美人という花――白く、気高く、甘く芳しい香りを漂わせるその姿は、まるで夜に咲く花魁のようだという。艶やかで儚く、満月の夜に、ある限られた環境でしか花開かないという。
そんな花が、一面に咲き誇る丘を見つけた。
地図にも載っていない、忘れ去られたような片田舎のはずれ。まるで誰かの記憶の中だけに存在していたような、不思議な場所。人の気配はほとんどなく、訪れる者もないその静けさが、かえって心に沁みる。
乾ききった心も、傷ついた過去も、そして孤独も――この丘に身を委ねれば、少しずつ癒されていく気がした。わたしだけが知る、小さな秘密の楽園だった。
今夜は、満月。
手製の団子を抱えて、いつものように丘の真ん中に腰を下ろし、月を仰ぎながら一人、静かに過ごす。
わたしは、この村にある団子屋の跡取りだ。
代々続く老舗で、かつては大名の御用達だったという古い茶屋。もとは分家の娘だったが、跡継ぎがいないという理由で、本家へ呼び戻されることとなった。
年寄りばかりのこの村では、わたしは“若い娘”として可愛がられはするが、どこか“姥捨て山に流された”ような気持ちになることがある。縁談の話もいくつか来た。けれど、顔も知らない誰かと結ばれる未来など、想像もできなかった。
――このまま、茶屋で団子を丸めながら、人生を終えていくのだろうか。
そう思うと、胸のどこかが、ひんやりと冷たくなる。
最近では、化粧もすっかり疎くなってきた。洒落っ気もなくなり、時折やってくる旅人の屈強な姿を遠くから眺めるだけで、声をかけることもできず、ため息をつくのが日課になっていた。
でも、それはそれとして――
今夜の月は、ことさら美しい。空気が澄んでいるせいか、餅をつく兎の影までもくっきりと浮かび上がって見える。
こんな夜には、日常がすっと遠のいていくような、不思議な出来事が起こるのかもしれない。
そう思いながら、団子を口に運ぼうとしたときだった。
――唐楓の木々がざわめき、微かな気配とともに、物音がした。
はっとして視線を向けると、月下美人の白い花に囲まれた大きな樹のそばに、人影がある。
猪か、それとも村の誰かだろうか――警戒しながら団子を包み直し、そっと足を運ぶ。
木の影を回り込むと、ひとりの青年が、こちらに背を向けて座っていた。黒装束に身を包み、静かに何かの手入れをしている様子。
思わず、足が止まった。
長い黒髪、すっと通った鼻梁。
赤く深い瞳に、艶やかな睫毛。
その横顔を見た瞬間――わたしは、息をのんだ。
あまりの美しさに、夢か幻かと、疑いたくなるほどだった。
「……あの……」
「……?」
思わず声をかけてしまったが、そのあとの言葉が出てこない。青年が不思議そうに振り返る。
「……こんばんは」
「……こんばんは」
低く柔らかな声が、静寂の中に響いた。その声音に、胸がふるえた。
こんな夜に、こんな場所で、こんな人に出会うなんて――もしかして、月の使者か、あるいは妖精か。
「……ひ、人ですよね?」
「……ああ。たぶん、な」
「ここで……何をしてたんですか?」
「道具の手入れをしていた。だが、君こそ……こんな夜更けに、ひとりで?」
「わたし、この村の者なんです。……この丘には、よく来るんです」
そう言って彼の手元を見やると、手には見慣れぬ小刀が握られていた。――苦無。
ああ、この人は、忍なのだ。
納得しかけたとき、彼はそれを静かに懐に収め、穏やかな口調で言った。
「……驚かせてしまったなら、すまない。ここが、あまりに綺麗で……つい、足を止めてしまった」
「……綺麗、ですよね。ここ……わたしも、好きなんです」
青年は月を仰ぎ、咲き誇る花々を見渡した。
その横顔に、焚き火のような静かな光が宿るのを、わたしはじっと見つめていた。
次の風が吹くまで、時が止まっていたかのようだった。
そして――
「ところで……君は、ここで何を?」
そう尋ねられて、ようやく我に返る。
「あっ……お団子、食べてただけで……月見、しに来たんです」
そう言うと、彼はふっと微笑んだ。
「……よければ、少しだけ……俺も隣で、月を見させてもらえないか?」
わたしは、こくりと頷いた。
それが――
すべての始まりだった。
たとえば、月下美人という花――白く、気高く、甘く芳しい香りを漂わせるその姿は、まるで夜に咲く花魁のようだという。艶やかで儚く、満月の夜に、ある限られた環境でしか花開かないという。
そんな花が、一面に咲き誇る丘を見つけた。
地図にも載っていない、忘れ去られたような片田舎のはずれ。まるで誰かの記憶の中だけに存在していたような、不思議な場所。人の気配はほとんどなく、訪れる者もないその静けさが、かえって心に沁みる。
乾ききった心も、傷ついた過去も、そして孤独も――この丘に身を委ねれば、少しずつ癒されていく気がした。わたしだけが知る、小さな秘密の楽園だった。
今夜は、満月。
手製の団子を抱えて、いつものように丘の真ん中に腰を下ろし、月を仰ぎながら一人、静かに過ごす。
わたしは、この村にある団子屋の跡取りだ。
代々続く老舗で、かつては大名の御用達だったという古い茶屋。もとは分家の娘だったが、跡継ぎがいないという理由で、本家へ呼び戻されることとなった。
年寄りばかりのこの村では、わたしは“若い娘”として可愛がられはするが、どこか“姥捨て山に流された”ような気持ちになることがある。縁談の話もいくつか来た。けれど、顔も知らない誰かと結ばれる未来など、想像もできなかった。
――このまま、茶屋で団子を丸めながら、人生を終えていくのだろうか。
そう思うと、胸のどこかが、ひんやりと冷たくなる。
最近では、化粧もすっかり疎くなってきた。洒落っ気もなくなり、時折やってくる旅人の屈強な姿を遠くから眺めるだけで、声をかけることもできず、ため息をつくのが日課になっていた。
でも、それはそれとして――
今夜の月は、ことさら美しい。空気が澄んでいるせいか、餅をつく兎の影までもくっきりと浮かび上がって見える。
こんな夜には、日常がすっと遠のいていくような、不思議な出来事が起こるのかもしれない。
そう思いながら、団子を口に運ぼうとしたときだった。
――唐楓の木々がざわめき、微かな気配とともに、物音がした。
はっとして視線を向けると、月下美人の白い花に囲まれた大きな樹のそばに、人影がある。
猪か、それとも村の誰かだろうか――警戒しながら団子を包み直し、そっと足を運ぶ。
木の影を回り込むと、ひとりの青年が、こちらに背を向けて座っていた。黒装束に身を包み、静かに何かの手入れをしている様子。
思わず、足が止まった。
長い黒髪、すっと通った鼻梁。
赤く深い瞳に、艶やかな睫毛。
その横顔を見た瞬間――わたしは、息をのんだ。
あまりの美しさに、夢か幻かと、疑いたくなるほどだった。
「……あの……」
「……?」
思わず声をかけてしまったが、そのあとの言葉が出てこない。青年が不思議そうに振り返る。
「……こんばんは」
「……こんばんは」
低く柔らかな声が、静寂の中に響いた。その声音に、胸がふるえた。
こんな夜に、こんな場所で、こんな人に出会うなんて――もしかして、月の使者か、あるいは妖精か。
「……ひ、人ですよね?」
「……ああ。たぶん、な」
「ここで……何をしてたんですか?」
「道具の手入れをしていた。だが、君こそ……こんな夜更けに、ひとりで?」
「わたし、この村の者なんです。……この丘には、よく来るんです」
そう言って彼の手元を見やると、手には見慣れぬ小刀が握られていた。――苦無。
ああ、この人は、忍なのだ。
納得しかけたとき、彼はそれを静かに懐に収め、穏やかな口調で言った。
「……驚かせてしまったなら、すまない。ここが、あまりに綺麗で……つい、足を止めてしまった」
「……綺麗、ですよね。ここ……わたしも、好きなんです」
青年は月を仰ぎ、咲き誇る花々を見渡した。
その横顔に、焚き火のような静かな光が宿るのを、わたしはじっと見つめていた。
次の風が吹くまで、時が止まっていたかのようだった。
そして――
「ところで……君は、ここで何を?」
そう尋ねられて、ようやく我に返る。
「あっ……お団子、食べてただけで……月見、しに来たんです」
そう言うと、彼はふっと微笑んだ。
「……よければ、少しだけ……俺も隣で、月を見させてもらえないか?」
わたしは、こくりと頷いた。
それが――
すべての始まりだった。
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