しじまに咲いて、名を呼べば
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場所:暁のアジト・地下工房
サソリはいつものように、傀儡の修復作業をしていた。
机には分解されたパーツ、歯車、関節、毒針。
細かく緻密で、寸分の狂いも許されない作業。
その隣に、静かに座っているのが結衣。
ある日、彼女は静かに「傀儡の修復を、見ていてもよいですか」と尋ねた。
それからというもの、彼女の白い衣と長い髪は、この部屋に溶け込むように何度も現れるようになった。
「……お前にこれが理解できるとは思えんがな。」
ぼそりとサソリがつぶやく。
結衣は巻物を片手に、傀儡の指のパーツを見つめている。
「精密さと均整。……人ではなく、完璧な形。」
「人は不完全だ。だからこそ、俺は人間でいることをやめた。」
結衣はそれに答えず、指パーツをそっと机に戻した。
「接合部、緩んでいますね。金属の腐食が進んでいます。」
サソリが軽く眉をひそめる。
「見れば分かる。だが、今は部品が──」
そのとき。
結衣の手が、サソリの手の上に重なった。
パーツを取りに行こうとした彼の動きと、結衣の動きが重なった一瞬だった。
その瞬間、空気の温度すら変わった気がした。
ピタリと、音も息も、時さえも、静止する。
結衣の指は細く、柔らかく、温かい。
サソリの手は傀儡の殻に覆われているが、その中には、まだ人の感触が残っていた。
「……触れるな。」
低い声で、サソリが言う。
結衣はそっと手を引いた。だが、すぐに謝らなかった。
「あなたは、もう人間ではないと言う。
でも、その手は、怒ると少しだけ震えます。」
「震えてなど──」
「精密な手を持つ者は、無駄な力は使わないはずです。……なのに、時々、力が入る。感情に。」
サソリは黙った。
再びピンセットを手に取るが、その先は少しだけ揺れていた。
「お前に触れられると、不安定になる。」
「私は壊しません。」
サソリの目が、初めて結衣を正面から見た。
その瞳は、まるで「心を読むな」と言わんばかりの警戒と、ほんの一滴の、信頼の予兆が入り混じっていた。
「壊さなくても、染みつく。」
それが、サソリの最大の“感情”だった。
結衣は微かに笑ったように見えた。
そして傀儡の腕を手に取り、静かに言う。
「……なら、私が残していくのは、壊れない記憶です。」
サソリは、その日の作業を少し早く終えた。
理由は言わなかったが、作業部屋の明かりを消す前に、
ふと自分の手の甲に目を落とし、しばらく動かさずにいた。
それはただの無機物の手。
けれどその表面に、誰かの“温度の痕跡”が残っている気がした。
それを払いのけることも、振り返ることもせず。
ただ、黙って“手を握る”という行為を、彼は選んだ。
深夜。暁のアジトは静まり返り、廊下を歩く足音もない。
結衣は、作業後にお茶を淹れていた。
香りだけがほんのり漂う、温かいけれど主張しない香木茶。
それを一人静かに湯呑みに注いでいた時――
「……そんなものに、効能があるとは思えんがな。」
振り返ると、サソリがいつの間にか立っていた。
いつもの無表情。けれど、その腕が傀儡のままではなく、布で覆われていることに結衣は気づく。
「香りは、感覚を刺激します。眠れない夜にはちょうどいい。」
結衣は、もうひとつの湯呑みに茶を注ぐ。
「いるかどうか」とは訊かず、ただ黙って差し出す。
サソリは黙って受け取った。口はつけない。ただ手の中に収めている。
「……今日の作業中、手が震えていた。」
唐突に、サソリが口を開いた。
それは結衣の手に触れられたあと、明らかに彼の調子が変わったことを自分でも認めたという意味だった。
「あなたにとって、私は毒でしたか?」
「いや──」
わずかに間があく。
「……予期せぬ刺激だっただけだ。」
結衣は静かに頷いた。
「あなたの傀儡たちは、よく出来ている。傷も、磨耗も、感情も──外から見えない。」
「当然だ。」
「でも今日、あの傀儡の関節から、血のような古いオイルが少し滲んでいました。」
サソリは湯呑みを見つめながら、しばらく動かさなかった指先を、ゆっくりと緩めた。
そしてぽつりと、低く呟く。
「……それもお前には見えるのか。」
「“触れてはいけない部分”は、見ることと似ています。」
その言葉に、サソリの眼差しがわずかに緩む。
「お前は、壊すことよりも、見続けることを選ぶのか。」
「はい。……壊さずに、ただ隣にいること。それが私の封印術の原点です。」
沈黙が降りる。だが、それは重くはなかった。
どこか静謐で、夜の空気と溶け合うような“対話の沈黙”。
結衣が再び口を開く。
「……あなたの作ったものは、確かに“死なない”。でも、その手で作られたという事実は、どんなに時が経っても消えません。」
サソリは湯呑みを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……人をやめても、何かは、染みつくものだな。」
結衣は微笑む。声にしないその表情を、サソリは初めて美しいとは思わなかったが、邪魔ではないと思った。
そして彼は、ふと口元に湯呑みを運び、一口だけ飲んだ。
舌の奥に、かすかな苦みと共に、ほのかな香が余韻のように残った。
まるで、消えゆく記憶のように──けれど、不思議と、思い出せそうな味だった。
夜、サソリが傀儡の指を研磨していたとき、
不意に自分の手の甲を見ていた。
何もついていない。結衣の手も、茶の熱も、跡形もなく消えた。
けれど、そこには確かに“記憶”があった。
「壊れずに、ただ隣にいる。」
人間だった頃、確かに誰かが──ただ隣にいてくれた記憶がある。
忘れていたはずのぬくもりが、いま、また静かに、手のひらに滲んでいた。
サソリはいつものように、傀儡の修復作業をしていた。
机には分解されたパーツ、歯車、関節、毒針。
細かく緻密で、寸分の狂いも許されない作業。
その隣に、静かに座っているのが結衣。
ある日、彼女は静かに「傀儡の修復を、見ていてもよいですか」と尋ねた。
それからというもの、彼女の白い衣と長い髪は、この部屋に溶け込むように何度も現れるようになった。
「……お前にこれが理解できるとは思えんがな。」
ぼそりとサソリがつぶやく。
結衣は巻物を片手に、傀儡の指のパーツを見つめている。
「精密さと均整。……人ではなく、完璧な形。」
「人は不完全だ。だからこそ、俺は人間でいることをやめた。」
結衣はそれに答えず、指パーツをそっと机に戻した。
「接合部、緩んでいますね。金属の腐食が進んでいます。」
サソリが軽く眉をひそめる。
「見れば分かる。だが、今は部品が──」
そのとき。
結衣の手が、サソリの手の上に重なった。
パーツを取りに行こうとした彼の動きと、結衣の動きが重なった一瞬だった。
その瞬間、空気の温度すら変わった気がした。
ピタリと、音も息も、時さえも、静止する。
結衣の指は細く、柔らかく、温かい。
サソリの手は傀儡の殻に覆われているが、その中には、まだ人の感触が残っていた。
「……触れるな。」
低い声で、サソリが言う。
結衣はそっと手を引いた。だが、すぐに謝らなかった。
「あなたは、もう人間ではないと言う。
でも、その手は、怒ると少しだけ震えます。」
「震えてなど──」
「精密な手を持つ者は、無駄な力は使わないはずです。……なのに、時々、力が入る。感情に。」
サソリは黙った。
再びピンセットを手に取るが、その先は少しだけ揺れていた。
「お前に触れられると、不安定になる。」
「私は壊しません。」
サソリの目が、初めて結衣を正面から見た。
その瞳は、まるで「心を読むな」と言わんばかりの警戒と、ほんの一滴の、信頼の予兆が入り混じっていた。
「壊さなくても、染みつく。」
それが、サソリの最大の“感情”だった。
結衣は微かに笑ったように見えた。
そして傀儡の腕を手に取り、静かに言う。
「……なら、私が残していくのは、壊れない記憶です。」
サソリは、その日の作業を少し早く終えた。
理由は言わなかったが、作業部屋の明かりを消す前に、
ふと自分の手の甲に目を落とし、しばらく動かさずにいた。
それはただの無機物の手。
けれどその表面に、誰かの“温度の痕跡”が残っている気がした。
それを払いのけることも、振り返ることもせず。
ただ、黙って“手を握る”という行為を、彼は選んだ。
深夜。暁のアジトは静まり返り、廊下を歩く足音もない。
結衣は、作業後にお茶を淹れていた。
香りだけがほんのり漂う、温かいけれど主張しない香木茶。
それを一人静かに湯呑みに注いでいた時――
「……そんなものに、効能があるとは思えんがな。」
振り返ると、サソリがいつの間にか立っていた。
いつもの無表情。けれど、その腕が傀儡のままではなく、布で覆われていることに結衣は気づく。
「香りは、感覚を刺激します。眠れない夜にはちょうどいい。」
結衣は、もうひとつの湯呑みに茶を注ぐ。
「いるかどうか」とは訊かず、ただ黙って差し出す。
サソリは黙って受け取った。口はつけない。ただ手の中に収めている。
「……今日の作業中、手が震えていた。」
唐突に、サソリが口を開いた。
それは結衣の手に触れられたあと、明らかに彼の調子が変わったことを自分でも認めたという意味だった。
「あなたにとって、私は毒でしたか?」
「いや──」
わずかに間があく。
「……予期せぬ刺激だっただけだ。」
結衣は静かに頷いた。
「あなたの傀儡たちは、よく出来ている。傷も、磨耗も、感情も──外から見えない。」
「当然だ。」
「でも今日、あの傀儡の関節から、血のような古いオイルが少し滲んでいました。」
サソリは湯呑みを見つめながら、しばらく動かさなかった指先を、ゆっくりと緩めた。
そしてぽつりと、低く呟く。
「……それもお前には見えるのか。」
「“触れてはいけない部分”は、見ることと似ています。」
その言葉に、サソリの眼差しがわずかに緩む。
「お前は、壊すことよりも、見続けることを選ぶのか。」
「はい。……壊さずに、ただ隣にいること。それが私の封印術の原点です。」
沈黙が降りる。だが、それは重くはなかった。
どこか静謐で、夜の空気と溶け合うような“対話の沈黙”。
結衣が再び口を開く。
「……あなたの作ったものは、確かに“死なない”。でも、その手で作られたという事実は、どんなに時が経っても消えません。」
サソリは湯呑みを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……人をやめても、何かは、染みつくものだな。」
結衣は微笑む。声にしないその表情を、サソリは初めて美しいとは思わなかったが、邪魔ではないと思った。
そして彼は、ふと口元に湯呑みを運び、一口だけ飲んだ。
舌の奥に、かすかな苦みと共に、ほのかな香が余韻のように残った。
まるで、消えゆく記憶のように──けれど、不思議と、思い出せそうな味だった。
夜、サソリが傀儡の指を研磨していたとき、
不意に自分の手の甲を見ていた。
何もついていない。結衣の手も、茶の熱も、跡形もなく消えた。
けれど、そこには確かに“記憶”があった。
「壊れずに、ただ隣にいる。」
人間だった頃、確かに誰かが──ただ隣にいてくれた記憶がある。
忘れていたはずのぬくもりが、いま、また静かに、手のひらに滲んでいた。