しじまに咲いて、名を呼べば
name change
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〈暁アジト・地下回廊〉
湿り気を含んだ石の回廊を、湿り気を孕んだ石の回廊に、結衣の足音が淡く溶けていく。
封印術師── 結衣は、「暁」への協力者として正式に迎えられ、この日初めて、各構成員のもとへ顔を出すことになっていた。
彼の部屋へ案内されるということは、つまり──
赤砂のサソリとの再会を意味していた。
数年ぶりのことだった。
あの古寺の出会い以来、一度も姿を見ていない。
ただ、墨で描いた蝶の幻だけが、なぜか記憶に残っていた。
鉄扉の向こうに、赤い影があった。
背を向けて机に向かう男。その姿は、時の流れなど寄せつけないように整っていた。
結衣は扉の前で一度呼吸を整え、そして静かに言葉を放った。
「……ずいぶんと、狭いところを好まれるのですね。」
沈黙。
しかし、指先の動きがわずかに止まる。
やがて、サソリはゆるやかに振り向いた。
「……誰が、お前をここに通した。」
その声音も、昔と同じだった。
けれど、結衣にはその無機質の奥に、わずかな“探る色”を感じ取れた。
「正式な契約者として通されました。本日より、術者としての常駐が認められたそうです。」
「……余計なことはするな。」
「そう仰るなら……先に声をかけたのは、あなた様の方では?」
サソリの目がわずかに細められる。
結衣は、くすりと小さく笑った。
「……変わられませんね。」
空気がわずかに緩む。
その隙間に、かつて交わした“あのやりとり”が、重なるように流れていく。
結衣は彼の机に近づき、未完成の傀儡の腕を見つめた。
「これは……“目を覚ましたがっている”のでしょうか。」
その言葉に、サソリの目が一瞬だけ動いた。
あの古寺で交わした台詞を、覚えていたということか。
「お前はまだ、あのときのようなことを言うのか。」
「ええ。私は術者ですから。変わる理由がございません。」
「……面倒な術者だな。」
「面倒でなければ、術にはなりませんよ。」
それは確かに、同じやりとりだった。
だが、あの頃よりも少しだけ言葉の温度があたたかい。
結衣はそっと懐から墨を取り出し、机の端に置いた。
けれど筆を取ることはしなかった。
「……今日は、蝶は飛ばしません。」
「なぜだ。」
「……蝶は、記憶に、残りすぎてしまいますから。」
そして、静かに彼の名を呼んだ。
「……サソリさん。」
その声音は、柔らかく、けれどまっすぐだった。
彼の瞳がわずかに揺れる。ほんの、ほんの僅かに。
名を呼ぶ。
たったそれだけの行為に、理由などいらなかった。
ただ、それは確かに届いてしまった。
彼は答えず、ただ一言だけ冷たく告げた。
「仕事をしろ。」
けれど、その声の奥にあったもの──
それが、かつての無表情な人形とは違っていたことに、結衣は気づいていた。
少しずつ、また、何かが始まっていく。
かつて失くしかけた何かを──
もう一度、記憶の底からすくい上げるように。