恋に落ちた吸血鬼
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城に掛けられた呪縛が解けて、すべてが元の姿に戻り、厚い黒雲が晴れていく。朝陽が広間に差し込み、その眩しさにアリスは目を開けた。
周りの傀儡達は、次々と人の姿に戻って、それから床に倒れていく。
アリスは慌てて乱れた衣服を直し、光に包まれた広間で立ち上がった。何が起こったのか、なぜ呪いが解けたのか、頭がついていかないまま立ち尽くす。
「アリス…」
名前を呼ばれて恐る恐る振り返ると、少し離れた場所に立つ吸血鬼と目が合った。だがその優しい眼差しに、声に、どういうわけか心がぎゅうと締め付けられるように切なくなる。
「どうして……わたしの名前を……」
「……さあな」
先程、名前を呼ばれた気がした。それは気の所為ではなかった。
でもどうして? 名前を教えた記憶はないというのに。
それに、何故だろう? 憎むべき相手である筈なのに、今はもうそうは思えない。加えて、なんだか大切なことを忘れているような気持ちになる。どこかで会ったことがある、というだけでなく、自分にとってとても大切な人ではなかったかと。先程までの激しい行為の間、自分の中で目覚めようとしていた者は誰なんだろう。
もどかしい気持ちを抱えながら、視線を外すことが出来ない。吸血鬼も黙って此方を見ている。二人は長い時間見つめ合った。
「俺を倒すんだろ?」
「……そのつもりでしたが、どういうわけか呪いが解けたようです…。それに、なんだか貴方とは前にあったことがあるような……たしかに、酷いことをされましたが……」
アリスは丁寧に話を進めた。恐ろしい吸血鬼を倒してくれと街の住民に頼まれたが、攫われた人々が人間に戻ったのなら、もうそれでいいのではないか。
(じゃあ、わたしはもう何もすることがないの……? アンジュを連れて家に帰るの?)
それは違う、とアリスの心の中で声が響く。
わたしはここに何をしに来たのか。この吸血鬼を退治しに、来たのではないのなら。
そこで、不意に心の声が言った。
『わたしは、サソリに会うために――』
一瞬誰のことか分からなかった。けれども、目の前にいる男に聞くべきだというのは分かった。
「貴方が……サソリ?」
「ああ」
頭の中で自分ではない声が囁きかけてくる。
重い身体を引きずりながら、心も身体も自然と引き寄せられるように、アリスは彼の方へと歩みを進める。
「アリスさまぁ…!」
突然、聞き慣れた声が広間に響いた。
最上階までたどり着いたアンジュが、アリスの姿を見つけて慌てて駆け寄ってくる。飛びついてきたアンジュの勢いに漸く、アリスは我に返った。
「大丈夫にゃん? お怪我はないかにゃん…!」
「あ、うん、大丈夫…」
「ふにゃ! アリスさま、大変、お洋服が! それに首! にゃぁ! 吸血鬼に噛まれちゃったにゃん、大変にゃあ!!」
そう言われて、噛まれたことを思い出す。もう痛みすら感じなくなっている首元の傷に手を這わせると、出血はすっかり治まっていた。
(そういえば……噛まれて血を吸われたのに生きてる…。これもわたしの中の不思議な力のせい…?)
不思議な現象の理由が分からない。
それに何より、憎むべき相手である吸血鬼に対して、複雑な感情は消えなかった。
「あ、でもお城の呪いが解けてるにゃん! アリスさまが吸血鬼に勝ったんだにゃん!」
「あ……その、ええと」
「じゃあ傷治さないとだにゃぁ。早く帰るにゃん!」
アンジュはアリスを螺旋階段の方へと追い立てる。
途中でサソリの姿を見つけたアンジュは、「あ、そちら王様にゃん? でもいま忙しいからまた今度にゃあ!」と叫んだ。
サソリは黙ったまま、なんだか不機嫌そうに片手を振った。
すると、傀儡から元に戻った人々が、魔法で街へと返されていく。
「あの……!」
「好きにしろ」
振り返って声を掛けたアリスに、サソリはほんの少しだけ苦笑を浮かべて、手で振り払う仕草を取った。追い払われたようにも見えたし、早く帰れと言っているようにも見えた。でももしかしたら、ちょっとした挨拶だったかもしれない。
心配性なアンジュに連れられて帰路を急ぎながら、アリスは「そうだったらいいな」と思った。
その日、呪いが解けると同時にまるで何事も無かったかのように、吸血鬼とその仲間達の話は人々の記憶から消え去った。
家に辿り着くと、アンジュが丁寧にアリスの身体を洗い、傷跡に薬を塗ってくれた。その優しさを嬉しく思いながらも、心の奥ではどうしても吸血鬼のことが忘れられない。
最後に見たあの姿がずっと目の奥に焼きついたままだった。
とても大切なことを忘れている気がした。
あの人はわたしの名前を知っていて、わたしはあの人の名前を知っている。
(だから、絶対に、何かある筈なの)
でもそれが何なのか思い出せずに、アリスはぐるぐると思いを巡らせる。
(そもそも……あんなに酷いことをされたのに……。どうして、あの人のことばかり考えてしまうの…?)
ベッドに入ってからも、思い描くのは彼のことばかり。身体は疲れているのに眠れず、仕方なく夜風にでも当たろうとバルコニーへ出る。
目の前には美しい満月と星空が広がっている。雲一つない夜空を眺めながら、サソリのことを思う。
(呪いが解けて……あの人はどうしてるんだろう…。傀儡の人形がいなくなって、もしかして、一人で困っているんじゃないかしら…?)
切ない溜息を漏らしながら一人夜空を眺めていると、背後で扉が開く気配がした。アンジュがバルコニーに入ってきたのだ。
「あれ…アリスさま、こんな時間まで起きてるにゃん? 傷が痛くて眠れないにゃん?」
「ううん、もう大丈夫よ。アンジュこそ、こんなに遅くまで起きていたの…?」
実は…とアンジュは少し申し訳なさそうに、俯きながら頬を染めてボソボソと呟く。
「ご、ごめんなさい……アリスさま…こんなこと話したら、怒られちゃうかもしれないにゃん…でも…聞いてほしいにゃん…」
「一体何があったの…? 怒ったりしないから、話して、アンジュ」
俯いた顔を覗き込むと、アンジュは赤く染まった頬を両手で隠すようにして言葉を続ける。
「……好きな人が出来ちゃったにゃん。その人のことを考えて眠れないにゃん」
「好きな人…? 良かったじゃない。アンジュはずっと恋がしたいって言っていたから…」
「……でも、吸血鬼の仲間だにゃん」
「もしかして、あの……ミイラの人…?」
「ごめんなさいにゃん。でも、とっても好きになっちゃったにゃん…」
アンジュは顔を両手で覆いながら、恥ずかしそうに呟く。それを見たアリスは、柔らかく微笑んだ。恋を知らないと旅立つ前に言ったけれども、今のアリスの心の状態もきっとアンジュと同じなのだろうと思った。
「わたしも…そうかもしれないわ……」
「えっ! アリスさま、まさか恋しちゃったにゃん?」
「恋かは分からないけど……頭から離れないの。それに…何故かずっと前から知っている気がして…」
「もしかして、あの王様っぽかったけど違ったあいつ……って吸血鬼にゃん!? そうなのにゃん!?」
アンジュは目を丸くして飛びついてくる。アリスは頷いて、アンジュと同じように頬を染めた。
「うん……酷いことをされたのに……でもいま、すごく会いたくて堪らないの。あの人が一人で泣いている気がして……」
「アリスさま、一緒に会いに行こうにゃん!」
満月がてっぺんに登る頃、二人は再び吸血鬼の城を訪れることにした。
ちょうど今夜は年に一度のハロウィンの夜。
今度は敵としてでなく、仲直りの印として、ハロウィンパーティーを開こうと、アリスとアンジュはお菓子を沢山作った。魔法のオーブンや窯を使って、カボチャを使ったケーキやクッキー、キャラメル味のミルフィーユをたくさん。それから、お酒が好きな吸血鬼には、葡萄酒に合うローストチキンを焼いた。
ご馳走が出来たら急いで大きな籠に詰めて、箒に乗って落っこちないように満月に向かって飛び出した。結界がなくなったから、すぐにあの吸血鬼の城が見えてくる。
悍ましい黒い雲はなく、コウモリたちも居なくなり、静かで柔らかな月の光が城や領地を照らしている。
二人は城の入り口に降り立つと、意を決して扉を叩いた。
「にゃーん、こんばんはにゃーん。デイダラ、いますかにゃーん?」
まだホクホクと温かい籠を手にして待っていると、間もなく大きな扉がギイイと鈍い音を立てて開き、その隙間からヒョッコリと金色の髷が覗いた。そして、綺麗な青い瞳が見えるとアンジュはパァーッと表情を明るくする。
「よ、よお。戻ってきたのか、うん」
「デイダラぁ…!! アンジュ、デイダラに会いにきたのにゃん。アリスさまは吸血鬼さんに会って、仲直りにしにきたのにゃん」
「仲直りか……どうしよっかな、うん」
「美味しいお菓子と食べ物を作ってきたの……だから、一緒に食べましょう」
デイダラの視線は大きな籠の中のケーキや焼き菓子に注がれた。呪いが解けてミイラ男でなくなったデイダラは、とてもお腹を空かせていたようだった。籠の中から漂う美味しそうな匂いにグゥーと腹の音を鳴らして、じゅるりと垂れた涎を拭う。
「う、美味そうだな、うん。仕方ねぇな、腹も減ってるし今日のところは見逃してやるか、うん」
扉を開けたデイダラが、二人を中へと招き入れる。
広いダイニングで、早速食べ物をお皿に盛り付けて、パーティー風にテーブルが彩られた。隠れていたトビも仲間に加わり、四人でテーブルを囲む。
「デイダラ先輩、うわーっやべーっす! こんな豪勢な食事見たことないっすよ! いただきまーっっす!!!」
「オイ、トビ! これはオイラのだぞ、うん!」
「デイダラぁ、わたしが食べさせてあげるにゃーん♡」
ワイワイと笑顔溢れるハロウィンパーティー。アリスはそこから少し離れて、一人でいるであろう吸血鬼の部屋を探しに、螺旋階段を上った。
呪いが解けても、結局サソリはいつものように、一人で自室に引き篭もっていた。大きな窓から満月を眺めながら、お気に入りの葡萄酒を煽り、生身の身体に酔いが回り始める感覚を愉しむ。――だが、考えるのはあの魔女のことばかり。
そのときノックの音がした。無視していると、扉が開かれる。
目をやれば、正に今の今まで頭を悩ませていた女がそこに立っている。
「なんだ…? 俺を倒しに戻ってきたのか」
減らず口だと自分でも思った。しかし、サソリはそういう口の利き方しか知らない。
魔女の小娘は、恐る恐る部屋へと入ってきた。
窓辺で葡萄酒を煽っている吸血鬼を、アリスは見つめる。赤く透き通ったガラスの瞳に魅せられてしまう。胸がドキドキと高鳴った。
「違うんです……仲直りをしたくて。これを持ってきたんです……」
「仲直りだ…?」
ククッ…と吸血鬼は笑いながらグラスの中の酒を口にした。一息置いて、アリスは言葉を続けた。
「あの、教えて欲しいんです……。わたし…何か大切なことを忘れている気がして……貴方は知っているんでしょう…?」
「そうだな……それなら、思い出させてやるからこっちへ来い」
グラスが置かれた。アリスは言われるがまま、ゆっくりと窓際まで近づく。もう心臓が破裂しそうな程に脈打っていて、彼にまで伝わっているんじゃないかとまで思った。怖いけれど近付きたくて、触れて欲しくて堪らなくて、身体が火照り始める。
(どうして…? この人の前だと、自分が自分じゃなくなる…)
力強く引き寄せられて噛み付くように口付けられる。舌が潜り込み、どうしていいか分からずに息が乱れる。逃げ回っても逃れることは出来ずに捕まった舌先は絡め取られた。口内に芳しい葡萄酒の香りが広がり、慣れないアルコールに頭がぼんやりしてくる。
「ん…ん……!!」
片方の手が衣服の中に滑り込み左胸に這い、乳房の下にある印に触れた。その瞬間にドクン、と一際大きく心臓が脈打った。舌を甘く噛まれて蕩けそうになったそのとき、一気に空っぽだった記憶を埋めるように、映像が流れ込んでくる。
(サソリ……! 待っていてくれたのね)
全ての謎は、氷が溶けるよりも早く、なめらかに解けてしまった。
逃れていた舌は、彼の動きに合わせて絡め合う。流し込まれた唾液を飲み干し、愛しい人の味を確かめる。漸く唇が離れるも、額を合わせたままの距離で、吐息交じりに言葉を紡いだ。
「もっと……触れて……。好きでしょう、わたしの胸…」
「生憎、胸だけじゃねぇな…」
「オモチャを失って飢えていたの…? かわいそうな子」
「お前は俺だけの玩具だ……何も言わずに勝手に消えやがって。何故だ、答えろ!」
再会を愉しむ余裕もなく、サソリは感情を剥き出しにしてアリスの身体を床に引き倒した。食事の入った籠がガチャリと音を立てて倒れ中身が溢れ出すが、そんなことには目もくれない。
アリスもされるがままに倒されて、それでもなお妖艶な笑みを浮かべて真っ直ぐに見つめ返す。
「それが貴方の為だと思ったからよ。わたしは貴方の子供を身籠ってしまったから。それで、消えることにしたの」
「な……やはり、わざとだったんだな……。お前が人間にやられる筈ねぇと思っていた」
「そうねぇ。わたしは魔女だもの」
「何故、話さなかった…?」
「話したわ。共に生きたいって。……でも、返事がなかったもの」
プイ、とアリスは拗ねたように視線を逸らす。サソリは大きく溜息をついた後、何かを心に決めたように、身体を起こして立ち上がった。
「いいか、そこで待て。動くんじゃねぇぞ」
暫くして、奥の部屋からサソリが戻ってきた。手には小さな箱が握られている。そしてアリスの目の前に屈んで箱を開き、中にある赤く眩い宝石の付いた指輪を見せた。アリスは目を見開く。
「サソリ…これは……」
「あの日……お前が死んだ日、渡そうと思っていた。共に生きようとな」
「嘘よ、それじゃ……わたしのしたことが全部無駄ってことになっちゃうじゃない!」
「ああそうだ。お前のしたことは全部無駄だったんだ。三百年も待たせやがって」
断言されて、アリスはサソリから目を逸らした。視線は箱の中の指輪に向かう。
「ちょっと古くてデザインがダサいけど、とっても綺麗……」
「うるせぇ。ダサいは余計だ。相変わらず一言多いんだよ」
喜びを抑えられず、アリスはサソリに抱き着き、声を上げて泣いた。少し落ち着くと、サソリはやれやれとグラスをもう一つ取ってくる。
「さて、乾杯でもするか。仲直りとやらをしに来たんだろうが」
「うん……チキン、落としちゃったけど、まだ食べられるかな」
「お前が作ったんだからな。仕方ねぇから食ってやる」
カチンとグラスを合わせる音が部屋に響く。床に座り込んだまま、二人はささやかな再会を祝うパーティーを始めた。少し味の濃いチキンが葡萄酒によく合う。どちらも空腹で、あっという間に一皿のローストチキンを平らげてしまいそうな勢いだ。ふと、アリスは傍に置かれたワインボトルを持ち上げてまじまじと眺めた。
「……ていうか。いま気付いたけど、このワインわたしが隠してた百年もののやつじゃない?」
「フン、更に三百年寝かせたから格別だろ」
「なんで勝手に開けてるのよ、馬鹿!」
「あ? 誰に口利いてんだこのインラン雌豚が」
「ハア? あんたに言われたくないわよ、この変態サディスト吸血鬼!」
グラスを奪おうとするアリスの腕を防ぎながら、サソリは片腕を掴んで返り討ちにする。そのまま床へと伏せられたアリスは、噛み付くようなキスをされ、その唇は無防備な首筋へと落ちる。生温かい唇の感触と熱い吐息に、びくりと身体を震わせた。
「んっやぁ…」
「俺は腹が減ってんだ。三百年分、いただくぜ」
「ひ、ゃあああ…!」
プツリと牙が柔らかく皮膚を突き破ったかと思うと、ビリビリと身体中痺れるような快楽の波が襲ってくる。フロア中に響き渡りそうな矯声を上げて、長い長い時を経た再会の喜びを分かち合うように、二人は終わらない夜を過ごした。今度こそ、二人は共に永遠に生きることを誓い合ったのだ。
――――そして。
二人の能力を兼ね備えた子供が沢山生まれた。デイダラとアンジュも結婚して子供も生まれ、城は一掃賑やかになった。
呪われた吸血鬼の、コウモリと黒い雲で覆われた城と領地は、いつしか子供たちの声と花と遊具に囲まれた幸せな国へと変わっていった。
周りの傀儡達は、次々と人の姿に戻って、それから床に倒れていく。
アリスは慌てて乱れた衣服を直し、光に包まれた広間で立ち上がった。何が起こったのか、なぜ呪いが解けたのか、頭がついていかないまま立ち尽くす。
「アリス…」
名前を呼ばれて恐る恐る振り返ると、少し離れた場所に立つ吸血鬼と目が合った。だがその優しい眼差しに、声に、どういうわけか心がぎゅうと締め付けられるように切なくなる。
「どうして……わたしの名前を……」
「……さあな」
先程、名前を呼ばれた気がした。それは気の所為ではなかった。
でもどうして? 名前を教えた記憶はないというのに。
それに、何故だろう? 憎むべき相手である筈なのに、今はもうそうは思えない。加えて、なんだか大切なことを忘れているような気持ちになる。どこかで会ったことがある、というだけでなく、自分にとってとても大切な人ではなかったかと。先程までの激しい行為の間、自分の中で目覚めようとしていた者は誰なんだろう。
もどかしい気持ちを抱えながら、視線を外すことが出来ない。吸血鬼も黙って此方を見ている。二人は長い時間見つめ合った。
「俺を倒すんだろ?」
「……そのつもりでしたが、どういうわけか呪いが解けたようです…。それに、なんだか貴方とは前にあったことがあるような……たしかに、酷いことをされましたが……」
アリスは丁寧に話を進めた。恐ろしい吸血鬼を倒してくれと街の住民に頼まれたが、攫われた人々が人間に戻ったのなら、もうそれでいいのではないか。
(じゃあ、わたしはもう何もすることがないの……? アンジュを連れて家に帰るの?)
それは違う、とアリスの心の中で声が響く。
わたしはここに何をしに来たのか。この吸血鬼を退治しに、来たのではないのなら。
そこで、不意に心の声が言った。
『わたしは、サソリに会うために――』
一瞬誰のことか分からなかった。けれども、目の前にいる男に聞くべきだというのは分かった。
「貴方が……サソリ?」
「ああ」
頭の中で自分ではない声が囁きかけてくる。
重い身体を引きずりながら、心も身体も自然と引き寄せられるように、アリスは彼の方へと歩みを進める。
「アリスさまぁ…!」
突然、聞き慣れた声が広間に響いた。
最上階までたどり着いたアンジュが、アリスの姿を見つけて慌てて駆け寄ってくる。飛びついてきたアンジュの勢いに漸く、アリスは我に返った。
「大丈夫にゃん? お怪我はないかにゃん…!」
「あ、うん、大丈夫…」
「ふにゃ! アリスさま、大変、お洋服が! それに首! にゃぁ! 吸血鬼に噛まれちゃったにゃん、大変にゃあ!!」
そう言われて、噛まれたことを思い出す。もう痛みすら感じなくなっている首元の傷に手を這わせると、出血はすっかり治まっていた。
(そういえば……噛まれて血を吸われたのに生きてる…。これもわたしの中の不思議な力のせい…?)
不思議な現象の理由が分からない。
それに何より、憎むべき相手である吸血鬼に対して、複雑な感情は消えなかった。
「あ、でもお城の呪いが解けてるにゃん! アリスさまが吸血鬼に勝ったんだにゃん!」
「あ……その、ええと」
「じゃあ傷治さないとだにゃぁ。早く帰るにゃん!」
アンジュはアリスを螺旋階段の方へと追い立てる。
途中でサソリの姿を見つけたアンジュは、「あ、そちら王様にゃん? でもいま忙しいからまた今度にゃあ!」と叫んだ。
サソリは黙ったまま、なんだか不機嫌そうに片手を振った。
すると、傀儡から元に戻った人々が、魔法で街へと返されていく。
「あの……!」
「好きにしろ」
振り返って声を掛けたアリスに、サソリはほんの少しだけ苦笑を浮かべて、手で振り払う仕草を取った。追い払われたようにも見えたし、早く帰れと言っているようにも見えた。でももしかしたら、ちょっとした挨拶だったかもしれない。
心配性なアンジュに連れられて帰路を急ぎながら、アリスは「そうだったらいいな」と思った。
その日、呪いが解けると同時にまるで何事も無かったかのように、吸血鬼とその仲間達の話は人々の記憶から消え去った。
家に辿り着くと、アンジュが丁寧にアリスの身体を洗い、傷跡に薬を塗ってくれた。その優しさを嬉しく思いながらも、心の奥ではどうしても吸血鬼のことが忘れられない。
最後に見たあの姿がずっと目の奥に焼きついたままだった。
とても大切なことを忘れている気がした。
あの人はわたしの名前を知っていて、わたしはあの人の名前を知っている。
(だから、絶対に、何かある筈なの)
でもそれが何なのか思い出せずに、アリスはぐるぐると思いを巡らせる。
(そもそも……あんなに酷いことをされたのに……。どうして、あの人のことばかり考えてしまうの…?)
ベッドに入ってからも、思い描くのは彼のことばかり。身体は疲れているのに眠れず、仕方なく夜風にでも当たろうとバルコニーへ出る。
目の前には美しい満月と星空が広がっている。雲一つない夜空を眺めながら、サソリのことを思う。
(呪いが解けて……あの人はどうしてるんだろう…。傀儡の人形がいなくなって、もしかして、一人で困っているんじゃないかしら…?)
切ない溜息を漏らしながら一人夜空を眺めていると、背後で扉が開く気配がした。アンジュがバルコニーに入ってきたのだ。
「あれ…アリスさま、こんな時間まで起きてるにゃん? 傷が痛くて眠れないにゃん?」
「ううん、もう大丈夫よ。アンジュこそ、こんなに遅くまで起きていたの…?」
実は…とアンジュは少し申し訳なさそうに、俯きながら頬を染めてボソボソと呟く。
「ご、ごめんなさい……アリスさま…こんなこと話したら、怒られちゃうかもしれないにゃん…でも…聞いてほしいにゃん…」
「一体何があったの…? 怒ったりしないから、話して、アンジュ」
俯いた顔を覗き込むと、アンジュは赤く染まった頬を両手で隠すようにして言葉を続ける。
「……好きな人が出来ちゃったにゃん。その人のことを考えて眠れないにゃん」
「好きな人…? 良かったじゃない。アンジュはずっと恋がしたいって言っていたから…」
「……でも、吸血鬼の仲間だにゃん」
「もしかして、あの……ミイラの人…?」
「ごめんなさいにゃん。でも、とっても好きになっちゃったにゃん…」
アンジュは顔を両手で覆いながら、恥ずかしそうに呟く。それを見たアリスは、柔らかく微笑んだ。恋を知らないと旅立つ前に言ったけれども、今のアリスの心の状態もきっとアンジュと同じなのだろうと思った。
「わたしも…そうかもしれないわ……」
「えっ! アリスさま、まさか恋しちゃったにゃん?」
「恋かは分からないけど……頭から離れないの。それに…何故かずっと前から知っている気がして…」
「もしかして、あの王様っぽかったけど違ったあいつ……って吸血鬼にゃん!? そうなのにゃん!?」
アンジュは目を丸くして飛びついてくる。アリスは頷いて、アンジュと同じように頬を染めた。
「うん……酷いことをされたのに……でもいま、すごく会いたくて堪らないの。あの人が一人で泣いている気がして……」
「アリスさま、一緒に会いに行こうにゃん!」
満月がてっぺんに登る頃、二人は再び吸血鬼の城を訪れることにした。
ちょうど今夜は年に一度のハロウィンの夜。
今度は敵としてでなく、仲直りの印として、ハロウィンパーティーを開こうと、アリスとアンジュはお菓子を沢山作った。魔法のオーブンや窯を使って、カボチャを使ったケーキやクッキー、キャラメル味のミルフィーユをたくさん。それから、お酒が好きな吸血鬼には、葡萄酒に合うローストチキンを焼いた。
ご馳走が出来たら急いで大きな籠に詰めて、箒に乗って落っこちないように満月に向かって飛び出した。結界がなくなったから、すぐにあの吸血鬼の城が見えてくる。
悍ましい黒い雲はなく、コウモリたちも居なくなり、静かで柔らかな月の光が城や領地を照らしている。
二人は城の入り口に降り立つと、意を決して扉を叩いた。
「にゃーん、こんばんはにゃーん。デイダラ、いますかにゃーん?」
まだホクホクと温かい籠を手にして待っていると、間もなく大きな扉がギイイと鈍い音を立てて開き、その隙間からヒョッコリと金色の髷が覗いた。そして、綺麗な青い瞳が見えるとアンジュはパァーッと表情を明るくする。
「よ、よお。戻ってきたのか、うん」
「デイダラぁ…!! アンジュ、デイダラに会いにきたのにゃん。アリスさまは吸血鬼さんに会って、仲直りにしにきたのにゃん」
「仲直りか……どうしよっかな、うん」
「美味しいお菓子と食べ物を作ってきたの……だから、一緒に食べましょう」
デイダラの視線は大きな籠の中のケーキや焼き菓子に注がれた。呪いが解けてミイラ男でなくなったデイダラは、とてもお腹を空かせていたようだった。籠の中から漂う美味しそうな匂いにグゥーと腹の音を鳴らして、じゅるりと垂れた涎を拭う。
「う、美味そうだな、うん。仕方ねぇな、腹も減ってるし今日のところは見逃してやるか、うん」
扉を開けたデイダラが、二人を中へと招き入れる。
広いダイニングで、早速食べ物をお皿に盛り付けて、パーティー風にテーブルが彩られた。隠れていたトビも仲間に加わり、四人でテーブルを囲む。
「デイダラ先輩、うわーっやべーっす! こんな豪勢な食事見たことないっすよ! いただきまーっっす!!!」
「オイ、トビ! これはオイラのだぞ、うん!」
「デイダラぁ、わたしが食べさせてあげるにゃーん♡」
ワイワイと笑顔溢れるハロウィンパーティー。アリスはそこから少し離れて、一人でいるであろう吸血鬼の部屋を探しに、螺旋階段を上った。
呪いが解けても、結局サソリはいつものように、一人で自室に引き篭もっていた。大きな窓から満月を眺めながら、お気に入りの葡萄酒を煽り、生身の身体に酔いが回り始める感覚を愉しむ。――だが、考えるのはあの魔女のことばかり。
そのときノックの音がした。無視していると、扉が開かれる。
目をやれば、正に今の今まで頭を悩ませていた女がそこに立っている。
「なんだ…? 俺を倒しに戻ってきたのか」
減らず口だと自分でも思った。しかし、サソリはそういう口の利き方しか知らない。
魔女の小娘は、恐る恐る部屋へと入ってきた。
窓辺で葡萄酒を煽っている吸血鬼を、アリスは見つめる。赤く透き通ったガラスの瞳に魅せられてしまう。胸がドキドキと高鳴った。
「違うんです……仲直りをしたくて。これを持ってきたんです……」
「仲直りだ…?」
ククッ…と吸血鬼は笑いながらグラスの中の酒を口にした。一息置いて、アリスは言葉を続けた。
「あの、教えて欲しいんです……。わたし…何か大切なことを忘れている気がして……貴方は知っているんでしょう…?」
「そうだな……それなら、思い出させてやるからこっちへ来い」
グラスが置かれた。アリスは言われるがまま、ゆっくりと窓際まで近づく。もう心臓が破裂しそうな程に脈打っていて、彼にまで伝わっているんじゃないかとまで思った。怖いけれど近付きたくて、触れて欲しくて堪らなくて、身体が火照り始める。
(どうして…? この人の前だと、自分が自分じゃなくなる…)
力強く引き寄せられて噛み付くように口付けられる。舌が潜り込み、どうしていいか分からずに息が乱れる。逃げ回っても逃れることは出来ずに捕まった舌先は絡め取られた。口内に芳しい葡萄酒の香りが広がり、慣れないアルコールに頭がぼんやりしてくる。
「ん…ん……!!」
片方の手が衣服の中に滑り込み左胸に這い、乳房の下にある印に触れた。その瞬間にドクン、と一際大きく心臓が脈打った。舌を甘く噛まれて蕩けそうになったそのとき、一気に空っぽだった記憶を埋めるように、映像が流れ込んでくる。
(サソリ……! 待っていてくれたのね)
全ての謎は、氷が溶けるよりも早く、なめらかに解けてしまった。
逃れていた舌は、彼の動きに合わせて絡め合う。流し込まれた唾液を飲み干し、愛しい人の味を確かめる。漸く唇が離れるも、額を合わせたままの距離で、吐息交じりに言葉を紡いだ。
「もっと……触れて……。好きでしょう、わたしの胸…」
「生憎、胸だけじゃねぇな…」
「オモチャを失って飢えていたの…? かわいそうな子」
「お前は俺だけの玩具だ……何も言わずに勝手に消えやがって。何故だ、答えろ!」
再会を愉しむ余裕もなく、サソリは感情を剥き出しにしてアリスの身体を床に引き倒した。食事の入った籠がガチャリと音を立てて倒れ中身が溢れ出すが、そんなことには目もくれない。
アリスもされるがままに倒されて、それでもなお妖艶な笑みを浮かべて真っ直ぐに見つめ返す。
「それが貴方の為だと思ったからよ。わたしは貴方の子供を身籠ってしまったから。それで、消えることにしたの」
「な……やはり、わざとだったんだな……。お前が人間にやられる筈ねぇと思っていた」
「そうねぇ。わたしは魔女だもの」
「何故、話さなかった…?」
「話したわ。共に生きたいって。……でも、返事がなかったもの」
プイ、とアリスは拗ねたように視線を逸らす。サソリは大きく溜息をついた後、何かを心に決めたように、身体を起こして立ち上がった。
「いいか、そこで待て。動くんじゃねぇぞ」
暫くして、奥の部屋からサソリが戻ってきた。手には小さな箱が握られている。そしてアリスの目の前に屈んで箱を開き、中にある赤く眩い宝石の付いた指輪を見せた。アリスは目を見開く。
「サソリ…これは……」
「あの日……お前が死んだ日、渡そうと思っていた。共に生きようとな」
「嘘よ、それじゃ……わたしのしたことが全部無駄ってことになっちゃうじゃない!」
「ああそうだ。お前のしたことは全部無駄だったんだ。三百年も待たせやがって」
断言されて、アリスはサソリから目を逸らした。視線は箱の中の指輪に向かう。
「ちょっと古くてデザインがダサいけど、とっても綺麗……」
「うるせぇ。ダサいは余計だ。相変わらず一言多いんだよ」
喜びを抑えられず、アリスはサソリに抱き着き、声を上げて泣いた。少し落ち着くと、サソリはやれやれとグラスをもう一つ取ってくる。
「さて、乾杯でもするか。仲直りとやらをしに来たんだろうが」
「うん……チキン、落としちゃったけど、まだ食べられるかな」
「お前が作ったんだからな。仕方ねぇから食ってやる」
カチンとグラスを合わせる音が部屋に響く。床に座り込んだまま、二人はささやかな再会を祝うパーティーを始めた。少し味の濃いチキンが葡萄酒によく合う。どちらも空腹で、あっという間に一皿のローストチキンを平らげてしまいそうな勢いだ。ふと、アリスは傍に置かれたワインボトルを持ち上げてまじまじと眺めた。
「……ていうか。いま気付いたけど、このワインわたしが隠してた百年もののやつじゃない?」
「フン、更に三百年寝かせたから格別だろ」
「なんで勝手に開けてるのよ、馬鹿!」
「あ? 誰に口利いてんだこのインラン雌豚が」
「ハア? あんたに言われたくないわよ、この変態サディスト吸血鬼!」
グラスを奪おうとするアリスの腕を防ぎながら、サソリは片腕を掴んで返り討ちにする。そのまま床へと伏せられたアリスは、噛み付くようなキスをされ、その唇は無防備な首筋へと落ちる。生温かい唇の感触と熱い吐息に、びくりと身体を震わせた。
「んっやぁ…」
「俺は腹が減ってんだ。三百年分、いただくぜ」
「ひ、ゃあああ…!」
プツリと牙が柔らかく皮膚を突き破ったかと思うと、ビリビリと身体中痺れるような快楽の波が襲ってくる。フロア中に響き渡りそうな矯声を上げて、長い長い時を経た再会の喜びを分かち合うように、二人は終わらない夜を過ごした。今度こそ、二人は共に永遠に生きることを誓い合ったのだ。
――――そして。
二人の能力を兼ね備えた子供が沢山生まれた。デイダラとアンジュも結婚して子供も生まれ、城は一掃賑やかになった。
呪われた吸血鬼の、コウモリと黒い雲で覆われた城と領地は、いつしか子供たちの声と花と遊具に囲まれた幸せな国へと変わっていった。
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